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設計士・高橋昌己さん(シティ環境建築設計):東京でも木組み土壁の家を!


つくり手:高橋昌己さん(シティ環境建築設計)

聞き手:持留ヨハナエリザベート

今回は、東京都練馬区大泉で「シティ環境建築設計」を立ち上げ、「東京でも木組み土壁の家」を標榜し、これまでに80棟以上もの木組み土壁の家づくりの実績を積み上げて来られた高橋昌巳さんの現場報告をお送りします。

土壁に惹かれる原点は、
実家での足捏ねうどんにあり!?

東京都練馬区大泉地区は、東京都23区内にありながら、ところどころに芝地や畑が点在し、農村の雰囲気が残る土地です。高橋さんのご実家は、この大泉の地の農家で、野菜や麦を作っていました。

大泉の原風景(撮影:高橋昌巳)

一軒めの現場取材の後の昼食休憩に高橋さんに連れていっていただいたのは、うどん屋さん。「小さい頃は、地粉と水を鉢に入れて練り置きして布に包んたうどん生地を、足で踏むというのが子どもの仕事でした。そうやって、家族の夕飯を作ったものです。ここは私が子どもの頃からあるのうどん屋で、味も家で食べていたそのまんま。懐かしくて、しょっちゅう来るんですよ」と、高橋さんは話してくださいました。

昔ながらのうどん屋さんの店内

身近な材料で、気候風土に合った家を!
という発想に出会った学生時代

絵を描くことが好きだった高橋さんは高校卒業後、芝浦工大建築学科に進学します。大学紛争の嵐の時期が過ぎ、ようやく授業が再開された頃で「学びたいことは自分から学び取ろう」という自主独立の気風が学生たちの間にあふれていた時代でした。

高橋さんも、自分が関心をもっていた木造住宅について学ぼうと、大学の授業を受ける以外にも積極的に学ぶ場を自ら作っては、自分が興味を持った木造住宅について、さまざまなことを吸収していきます。

当時の芝浦工大では、戦後の木造住宅建築の展開において重要な役割を果たしたみねぎしやすお教授が教鞭をとられていたのですが、高橋さんは、大学の授業とは別に友人達と自主ゼミを立ち上げて、指導をお願いしたそうです。住宅の現場見学をさせてもらったり、先生の設計事務所でアルバイトをしたり、自分から主体的に学ぶ、充実した学生生活を送っていました。同級生には、当時、歴史研究会を立ち上げ、今では風基建設を主宰している渡邊隆さんもいらして、古建築の見学など、ともに行動する場面も多かったようです。

みねぎしやすお著『「私とすまい」の履歴書』

学生時代に高橋さんがもっとも影響を受けた書物が、当時芝浦工大の助教授であった三井所清典先生に奨められて読んだ「Architecture without architect」という一冊の洋書です。これは、バーナード=ルドフスキー(Bernard Rudofsky)という建築家が世界各地で集めた写真をもとに、その土地にある材料を使い、気候風土に根ざしたものとして自然発生的につくられた「建築家によらない建築」について論じたものです。日本の事例として伊勢神宮も出ています。

左端バーナード=ルドフスキー(Bernard Rudofsky)著『Architecture without architect』
右3枚『Architecture without architect』に収められた世界各地の家並み:左から カッパドキア(トルコ)、ハイデラバード(パキスタン)、マラケシ(モロッコ)

「丸善まで買いに行き、辞書を引きながら読み通してみて、建築は本来特別なものではなく、近くにある材料で素人が作ってきたものだったのだという考え方に、とても影響を受けました。『自費出版しようか』とまで、本気で考えたのですが、そのうちに鹿島出版会で翻訳が出て、先を越された!と悔しい思いをしたなあ!」と高橋さんは口惜しがります。

豊かな土壌にこそ、花や実が実る

ヴァナキュラー(土着的な、風土に根ざした)、ネイティヴ(その土地生え抜きの、原産の)、セルフビルト・・今の高橋さんの実践につながる主な要素の種が、ルドフスキーの著作を通して、蒔かれたわけです。それが芽を出し、枝葉を広げた結果としての今の高橋さんの活躍ぶりが花や実にたとえれば、それは蒔かれた種が枝葉を広げ、ぐんぐん成長するだけの豊かな土壌が高橋さんの中にもともとあったからでしょう。

その豊かな土壌は、東京育ちとはいえ、自分の家の畑で穫れたものを食べ、いのちをつなぐという土地に根ざした暮らしの中で培われ、耕されたのではないかと思います。都会近郊の農家に育った高橋さんならではの感覚が、インタビューを通じてビンビンと伝わってくるようでした。

「民家型構法」や「左官教室」との出会い

大学卒業後は、木造住宅を作りたくてアトリエ系の設計事務所を志望しながらも、その願いは叶わず、ビルや病院を設計する中堅の設計事務所に就職。その間にも、高橋さんは、木造系の勉強会や講座などにはなるべく出かけ、吸収できることはなんでも吸収しようとし続けました。

そんな中で、学生の頃から歴史研究会などで共に活動していた渡邊隆さんが真木建設で働いていたご縁で、真木建設を主宰する大工棟梁の田中文男さんらが提唱する「民家型構法」に出会います。「日本の伝統的な意匠や大工技術を取り入れながら、山と町とをつなぐ生産システムの合理化を図るという建築手法に、強い共感をおぼえましたね。これこそ、学生の頃にのめり込んだルドフスキーの価値観を日本で実践するものではないか!と」

「この日本における気候風土に合った建築とは?」という意識をもってアンテナを張っているうちに高橋さんは「左官教室」という日本の伝統的な塗り壁の可能性をフィーチャーした雑誌に出会います。この雑誌は、小林澄夫さんという編集者が全国に残る伝統的な土壁や左官の普請現場を訪ね歩いて編纂したもので、久住章さんをはじめ、日本に昔からある土壁や漆喰の技術を用いながら新しい表現を模索する職人や、日本の左官技術を日本のヴァナキュラーな建築要素として評価する建築評論家などの記事が多く掲載されていました。

また、左官教室が主宰する壁塗りワークショップや現場見学会などの企画も多くあり、紙面上で参加者を募っいてました。そうした流れに乗るようにしてのめりこんだ高橋さんは、漆喰塗りや土壁へのあこがれを強めていくのでした。

お施主様家族も加わっての泥こね。

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切妻屋根と、貫構造漆喰塗りの壁。日本の原風景といえるような佇まいを、高橋さんは新築で実現している。