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製材・鈴木禎一さん(あさひ製材):山の木と住む人との縁結び


製材 あさひ製材協同組合 鈴木禎一さん

1947年 愛知県生まれ 1970円 名古屋で建築と製材を手がける会社に就職 1979年 故郷の旭町に戻り家業の製材業に従事 1987年 あさひ製材協同組合発足。専務理事に。

愛知県北部の山奥、自然が豊かな
旭町で育ちました。

愛知県の北部、東加茂郡旭町に育ちました。北は岐阜県の明智町、串原村と接した、三河高原とよばれる山の中です。標高は300メートルから600メートルぐらい。ほんとになにもない、自然だけは豊かな、山奥の町です。林業地というほどのところではなく、もともと農業や炭焼きなどを中心に生計を立ててきたところですから、山も広葉樹が結構多いです。昔のあたりまえの里山のくらしで、山も身近でした。薪や萱を採る山があったし、柴(雑木の小枝など)を刈って田んぼに入れたり、ご飯も焚きもんで炊いてたからね。今ではそんな生活スタイルはすっかり変わってしまいました。最近になって、停電で真冬に石油ファンヒーターが10時間使えなかったことがあって、また自宅の暖房を薪ストーブに戻してみたんですが、結構、廊下までホンワカしていいものですね。

お隣の長野県の茶臼岳山中を源とする矢作川が、町の中心を流れています。子供の頃は、夏になると父兄が川をせき止めて水がたまるようにしてくれて、プールができたものです。オフクロの実家のあるひとつ下流の小原村にもよく遊びに行ったけれど、川に潜るとすごく深くて、きれいな魚がいっぱいいたな。捨て針って言って、前の日の夕方にハリを仕掛けておくと、翌朝にはウナギがかかる、そんなこともしていました。でも、30年ほど前に、串原村と界を接する山の中に矢作ダムができて、すっかり変わってしまいました。水量がめっきり減ってしまったし、昔のような土側溝がなくなって舗装道路ばかりになってしまったからか、水も汚れていますね。農薬の影響もあるのかな。きれいな水には住んでた魚も、見かけなくなりました。

どんどん人が減っていく故郷。
でも、いちど離れてみて、よさが分かった。

トヨタ自動車で有名な豊田市からも、名古屋からも1時間ぐらいのところなので、働き口を求めて、どんどん人口が流出しています。今、旭町の人口は3600人くらいですが、毎年減ってる感じです。特に若い人がね。通えないことはない距離なんだけれど、1回出てしまうと戻ってくる人はほとんどおらんね。ぼくが卒業した築羽(つくば)小学校も、当時は1クラス52人、全校で250人はいたのが、今では全校で15人ですからね。すっかり変わっちゃいましたね。昔と同じなのは入り口のシダレザクラくらいかな。

ぼくは、中学まで旭町で、高校は豊田に下宿して、名古屋の大学に進学しました。その後、建築と製材をやる名古屋の会社で10年くらい働いて、子供が小学校に入学する時、今から25年ほど前になりますが、旭町に帰ってきて、父がやっている製材所をいっしょにやり始めました。名古屋に住みながら旭町に通っていた時期があるんだけど、その行き帰りに通りがかる天然林の山が、春になると新芽が出たり、秋は紅葉したり、四季それぞれに様子が変わってくんですよ。ずっとここにどっぶりいれば気にもとめないような自然のよさが、一度旭町を離れたことで見えてきましたね。家に使う木材がみんな大きいのにも、びっくりします。名古屋は3寸5分(10.5cm)角がベースになっていたんですけど、こっちは4寸(12cm)角だから。柱は太いし、上に載る梁や丁物も太くなる。4寸は当たり前で、5寸角だって使う。大黒柱だと8寸角とかね。木の使い方がたっぷりしています。

帰ってきた地元ではじめた
「あさひ製材協同組合」

旭町は林業地というほどのところではないんです。西には東濃桧を産する加子母村など飛騨の山々があり、東には天竜川流域にまでつながる杉の一大産地があり、ちょうど、桧林業地と杉林業地の中間地点です。すぐ東の豊川水系沿いの設楽町や鳳来町は「三河材」というブランドをつくって積極的に市場に木を出していますが、旭町界隈はそうはならなかった。なぜかというと、このあたりには、ひとりで大きな面積の山林をもつ「山持ち」がいなくて、みんなが農家で、裏にちょっとした薪炭林や萱山があって、家を普請する時のために少しは杉も植えていて、という小さな単位なんですね。ようするに、個人の財産としての山林なんです。戦後、木材需要が高まった頃から外材が入ってくるようになる前までにかけては、そんな裏山の杉でも、伐って出せばお金になったから、出していた。でも、計画的に何十年もかけて育林、伐採して市場に出す、というほどではなかった。だから、外材が入る前の「木が売れた時代」のピークが過ぎると、山から木を出す人もいなくなってきた。そんな感じなんです。

父もそんなピークの時代に、製材を始めたひとりです。町内の仲間3人ほどで始めたのですが、木を出す勢いが落ち着いてきて、途中からは父1人でやるようになっていきました。町内のほかの製材所も、木を挽くだけでは商売にならないから、生き残りをかけて、製材した木で家を建てる工務店的な性格ももつようになっていく。そのうち、それぞれの工場の機械が老朽化しくる。だったら、地元の製材所、建築関係者で組合をつくって、組合員の製材はそこでをやろうという話が出てきた。そうして昭和62年に発足したのが、このあさひ製材協同組合です。メンバーは地元の森林組合や製材工場、建築会社の代表者12人。ぼくも員外の専務理事として加わり、63年の12月には工場も稼働しはじめました。それ以来、組合員からの委託製材、自然乾燥や低温乾燥による「木材にやさしい」乾燥、床材や壁材などをつくるモルダー加工をやっています。


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