今回ご紹介するのは、京都で瓦葺きをされている光本大助さんです。みなさんご存知の通り、京都には歴史ある文化が沢山残っており、今も脈々と受け継がれています。文化財や町家などの建物ももちろん大切にされています。そしてどんな建物にも欠かせないものといえば、そう、屋根です。しかしながら、工法や木材、壁、床は気にするけど、屋根や瓦に関しては無頓着だという方も少なくないのでは?
さて、瓦葺き一筋の光本さんから、どんなお話が聞けるのでしょうか。

光本大助さん(みつもとだいすけ・66歳)プロフィール
1957年(昭和32年)京都府京都市生まれ。光本瓦店有限会社代表取締役。京都工芸繊維大学 工業化学科を卒業後、父親から継承した瓦店を営みながら、さまざまな訓練校などに通い活動のフィールドを拡大。2020年度(令和2年)には、かわらふき工にて「現代の名工」に認定。


大学へはトラック通学

⎯⎯⎯ お父さんも瓦屋さんだったとのことですが、どんな幼少期を過ごされたのですか?

光本さん(以下敬称略)「母親も瓦屋の手伝いをしていましたし、私も物心ついた頃から遊びがてら現場について行って手伝っていました。父親からは『大変やから継ぐのはやめとけ』と言われていましたが」

⎯⎯⎯ それがなぜ継ぐことになったのか気になります。

光本「ずっと手伝っていたので、もう体に馴染んでいて、高校生の時には先生の家の雨漏りを直しに行ったりしていました。その後、京都工芸繊維大学の夜間部の工業化学科に通いながら、昼間は瓦屋の手伝いを続けていました。そのうちに瓦屋の手伝いに、大学の後輩を誘い、同級生を誘い、だんだん形になってきてしまったんです。それで『もう辞められへんなぁ』という流れです。最初は理科の先生になりたかったんですが、だんだんと瓦屋が面白くなってきました。大学にトラックで通っていたくらいです(笑)。卒業後は他の現場も知りたくて、いろんな親方について、あっちこっち引っ張ってもらっていました。結局、この道を選んでよかったと思っています」

光本瓦店の入り口にはこんな看板が掲げられている

⎯⎯⎯ 今は何人でお仕事をされているんですか?

光本「社員が8人で、いつも来てくれる外注が3人くらい。大体10人前後でやっています。自分一人でできる事って限られてるし、いろんなことをやろうとするとこれくらいの人数にはなりますね。幸い年齢も分散されています。私と同い年の66歳が1人と、30〜50代が4〜5人、20代が4人です。うちが変わっているのは、みんな、何気なく好きな時に来て、好きな時に帰る気ままなバイト君だったのが、いつの間にか社員になっているんですよ」

⎯⎯⎯ 20代の方が多いのはいいですね。皆さんバイトからというのはどんな経緯で?

光本「何でなんですかね(笑)本人たちにも聞いたんですよ。『なんでうちに居着いたの?』って」

⎯⎯⎯ 居着いた! それでどんな回答が。

光本「『やっているうちに馴染んできた』とか『身を固めたい』とか、そんな話ですね。うちで社員になるということは、訓練校に入るということなんです。京都府立瓦技術高等職業訓練校(現 京都瓦技術専門学院)というのがあって、週に1回2年間行くんです。その段階を経てやっと社員です」

⎯⎯⎯ きっちり線引きされているんですね。

光本「そうなんです。福利厚生面では、以前は日当制だったのですが、残業手当・休日出勤手当・有給休暇なども整備しています。大企業では当たり前かもしれませんが、この業界ではかなり早い段階で導入しました」

⎯⎯⎯ 話が前後しますが、瓦専門の訓練校があるんですね。

光本「もちろん他の地域にもありますが、京都らしいですよね。僕ね、訓練校大好きなんです。大学を卒業してから、まず瓦の訓練校に行って、大工の訓練校に行って、板金の訓練校にも行きました。50代になってからも、同志社大学の大学院の総合政策科学研究科というところに行っていました。大体夜間の学校ばかりなので、夜は家にいない人間です(笑)」

⎯⎯⎯ すごいバイタリティですね。大学院ではどんなことを研究されたんですか?

光本「引退した高齢の職人さんを指導者にして、伝統建築の現場でワークショップを開催して、成長の記録などを論文にまとめました。とても面白かったです。トータルすると人生の半分以上、学生をやってきました。行くところ行くところで人の輪がバーッと拡がる。そしてそれがまた繋がって行くんですよ」


こんなんやるのは、うちぐらい

⎯⎯⎯ 光本瓦店のWEBサイトを拝見して「瓦は新しいからいいわけではない」という言葉にグッときました。古い瓦は解体現場などからもらってくるんですか?

光本「それもありますが、発掘現場からもらってくることもあります。幕末の大火事で燃え落ちた建物が今も埋まっているんですよ。焦土層といって地下2mくらいの深さに赤い地層になっています」

⎯⎯⎯ さすが京都。しかし江戸時代でそれくらい深いんですね。不思議です。

光本「でしょ。考古学的には、あくまで通過点の層であまり興味を持たれないので、ありがたく頂いています。それを見て自分なりに分析して『この時代はこのサイズが多い』『もっと前の時代だとまたちょっと違うな』という風に研究しています。『こんなん他に誰も調べてへん』みたいなことを言いながらね」

⎯⎯⎯ 新旧織り交ぜて瓦を葺く場合もあるとか。

光本「そうなんです。武庫川女子大学(兵庫)の甲子園会館では、まさに新旧織り交ぜて葺いています。これが得意なんです。いつ葺いてもランダムに混じって見えるように、新しい瓦も古びた時の色を想定して16色作っています。何列目の何番目に何色を葺くかプランが決まっているんです。最近携わった景観建築学科東棟は新築で新しい瓦ですが、同じように葺いています」

武庫川女子大学景観建築学科東棟|兵庫県西宮市|2020年
写真:建築・都市デザインスタジオ一級技能士事務所

⎯⎯⎯ それはすごい!

光本「なるべく古い瓦を使う提案をしています。寸法調整したり穴を開けたり爪をつけてたりして、手間暇がかかるので『そんなことしたら、よけい高こうつくやん』と言われますけど、かまへんと思うんですよね。絶対再現できない味があるんで。メーカーには嫌がられそうですけど」

⎯⎯⎯ 瓦にも耐用年数があると思いますが、その辺りはどうなんでしょうか?

光本「もちろんそれはあるんですが、大事なのは実際に瓦を見ることですね。例えば北側にあった瓦を南側に持っていくのはいいけど、南側にあった瓦を北側に持って行くと傷みやすいとか。よそから貰ってくるにしても、暑いところから寒いところに持っていったら傷みやすいとか。あとから替えられるように予備をストックしておくことも大事です。新品の製品なら規格もありますが、実際瓦なんて不均一なものなので、割れるものもあれば割れないものもあります。特に古瓦は保証できるものではないので、交換で対応できるようにうちが10年間保証すればいいだけの話です」

新しい瓦は事務所にもストックしてある。

⎯⎯⎯ なるほど。その分ストックされているんですね。

光本「それなりにストックはしています。でもストックがなくても粘土で作ればいいだけです。その時にプラスで予備も作れるし。保証できない瓦をいかに安心して使ってもらえるかを考えて、実際に使う古瓦で引っ張り実験をしたこともあります。1平米分並べて輪っかをつけてギューッと持ち上げたり、小刻みに150回引っ張ったりして、何ニュートン耐えられるかを計測して、高さ何メートルの屋根まで耐えられるかを判定する試験です。この試験は、”瓦屋根標準設計・施工ガイドライン”として自主規制でやってきたんですが、令和元年(2019年)に房総半島を襲った台風15号の大きな被害を踏まえ、令和4年(2022年)1月改正の建築基準法に採用されています。元々試験方法を確立しているとはいえ、古瓦でそんな試験やるのはうちぐらいです」

瓦葺ガイドライン工法の仕組みを説明するための展示物。実際に触れて体験できるので安心感がある。


捨てる神、拾う神、あげる神!?

⎯⎯⎯ 木の家ネットに入会された経緯を教えてください。

光本「東日本大震災の後、東北に木の家ネットの皆さんが行かれる際に誘われて入りました。皆さんの話が熱くて面白かったのをよく覚えています。語って語ってお風呂でも喋りまくって」

2008年に兵庫耐震工学研究センター(E-ディフェンス)で行われた、伝統木造住宅を揺らす実大実験の屋根も光本さんが葺いたものだ。木の家ネットメンバーも多く関わった。レポートはこちら 写真提供:光本さん

⎯⎯⎯ 震災というと今年は元日に能登半島で大きな地震が起こりました。木の家がダメみたいな報道のされ方が気になるのですが、そのあたりでお話しを伺えますか?

光本「あれね。わざわざ瓦がぺっちゃんこになってる家を映しに行ってますよね。阪神大震災の経験もあるし、もう慣れたというと語弊がありますが、他人の口は押さえられないし、すぐ結局忘れてくれはるやろうぐらいに思っています。ちょっとの間だと思いますよ。リフォームするから『とりあえず軽くしたいから瓦だけめくりにきてくれ』という仕事もあるんです」

⎯⎯⎯ なんと。めくるだけ。そのあとはガルバリウムですか?

光本「そうでしょうね。めくるだけなんでわかりませんけど(笑)。別に嫌でもないですし『どうぞどうぞやりますよ』というスタンスです。そこでいい古瓦があればまた使えるようにストックしておきます」

古瓦のストックヤードを案内していただいた

所狭しと積まれた瓦たち

左:塩焼瓦:塩を釉薬に用いることで化学反応によって茶色になる
右:「使わなくなった丸瓦も、ちょっとしたディスプレイにしたり使い道はいろいろあります」と光本さん

⎯⎯⎯ 捨てる神あれば拾う神あり。ですね。

光本「古瓦のストックが何箇所かあるんですけど、知り合いの職人さんや同業者の人には『勝手に持っていっていいよ』と言っていて、みんな勝手に持っていっています。一点ものとか大事な瓦はまた別のところに置いています」

⎯⎯⎯ もはや、あげる神じゃないですか。

光本「もちろん自分でも使います。京都市の要望として古瓦を使うこともあるんです。例えば、文化財の改修で全体の瓦は新しいものを使いながら、通りに面したよく目につく部分は古瓦を使い、『昔と何にも変わりませんね』という風に仕上げる場合などですね」


ここで、光本さんの施工事例をご紹介します。

八木仏具店 |京都市下京区|2007年

寛政2年(1790年)創業。江戸時代後期より東本願寺前の上珠数屋町通りで京念珠を繋いでいる。


入り組んだ屋根と赤い壁のコントラストが美しい

鍾馗さんがひっそりと鎮座する


aotake |京都市下京区|2015年

京都駅から徒歩6分。再開発の進む七条通り沿いに佇む築100年の京町家を全面改修。日本茶・紅茶・中国茶などを楽しめる人気店に生まれ変わった。

細かく入り組んだ塀の瓦。古瓦を随所に使用している。「何でもないようであるとないとではだいぶ風情が変わるでしょ」と光本さん


増田德兵衛商店 |京都市伏見区|2015年〜2018年


1675年(延宝3年)創業。酒造りのまち・伏見の最古の酒蔵のひとつ。銘酒「月の桂」の蔵元。1964年(昭和39年)には日本初の「スパークリングにごり酒」を発明。

店舗や蔵を何年もかけて順番に改修していった


京都伏見珈琲 権十郎cafe |京都市伏見区|2022年

築148年。藤田家住宅(登録有形文化財)を全面改修し、現在はカフェとして使われている。2018年には京都市の「重要京町家」にも指定されている。

左:左手に見える三列の丸瓦は「風切り丸」といい、台風などの大風の力を分散させたりピッチ調整の役割がある。また単にアクセントとして用いられることもある。
右:塀の瓦はスマートな印象

左:裏には蔵もある。こちらも登録有形文化財だ。
右:袖角瓦には粋な模様。


瓦だけを見る

⎯⎯⎯ 瓦屋として大事にされていることやモットーを教えてください。

光本「瓦だけを見ること。ですかね。お客さんによって、とっつきやすい人もいれば、とっつきにくい人もいます。自分との相性もあります。そこで『なんでこんなややこしいこと言う人のために…』と思うんじゃなくて、瓦に惚れ込んで、瓦だけを見て真面目に仕事をしたらいいと思っているんですよ。そうしていたら、こっちから仕事を取りに行かなくても、自分にあった仕事が向こうからやってきます。それがモットーです」

⎯⎯⎯ 若い職人さんが4人もいらっしゃいますが、社内での関係では何かありますか。

光本「別に私の役に立たなくてもいいけど『他の職人さんが連れて行きたがるような動きをせなあかんで』とはよく言っています。あんまり怖いことは言いません。大事にしていると言うよりは、そういう風にしかできないだけです」

⎯⎯⎯ いえいえ。とても勉強になります。ターニングポイントになったお仕事や出来事があれば教えてください。

光本「徐々にやしね。そんな急に変わらへんっていうか。企業理念とか、目標とかもないんです。別に何も目指しはしないんです。ひとつあるとしたら、町家に目をつけるのが早かったことですかね。今でこそ町家ブームが起こったり、保存していこうという風潮ですけど、バブルの時は、町家といったら潰して建て替えるのが当たり前という時代でした。そんな中、町家に関する団体にいくつか入って、小さな勉強会みたいなものに参加していたんですが、後年、京都市で【京町家再生プラン】という条例が策定されました。そこに名を連ねている5団体のうち4団体に、たまたま早い段階から関わっていたんです。何気なくやってたのが『これやったんや』と思った瞬間でしたね」

光本「もう一個ありました。設計4団体(建築士会、建築士事務所協会、設計管理協会、建築家協会)全部の賛助会員なんです。必ず年に一回はPRタイムを設けてもらっていて、納涼会に総会、新年恒例会にも全部参加しています。これをやっている瓦屋は私だけです」

⎯⎯⎯ それはお忙しいですね。そんな中、今日はお時間をつくっていただきありがとうございます。

光本「これが忙しいけど面白いんです。その集まりで、鍾馗(しょうき)さん作りのワークショップを頼まれてやったのが発端で【京都鍾馗屋】という店も構えました。

鍾馗(しょうき)
京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。
出典 Wikipedia

⎯⎯⎯ 最後にもう一つ質問させてください。光本さんにとって瓦屋の魅力とは何でしょうか?

光本「建築に関わる仕事がいろいろある中で、瓦というのは目立つ所にずっと存在していて、通りがかりに見える部分です。外観の大部分を瓦が占めると言っても過言ではありません。それを子供や孫に『うちでやったんや』と言えることが誇りですね。逆にいうと粗も目につきやすい。台風で飛んだり、雨漏りしたらすぐに呼び出されます。その緊張感が、自分を鼓舞するところだと思います」


インタビュー中、光本さんの口からは「何気なくやってるだけ」という言葉が何度も聞かれました。一日中ご一緒して、それは「適当にこなす」という意味ではなく、ご自身の根底にある信念や直感に忠実に行動されていることの証なんだと感じました。
何気ない行動・何気ない言葉・何気ない繋がりを積み重ねて歩まれている光本さん。その姿は一枚一枚が積み重なってやがて屋根となる、瓦そのもののようでした。


光本瓦店有限会社 光本大助さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)

宮大工のお父様が守り続けた伝統の技術に誰よりも敬意と愛着を持ちながらも、「若い人に受け継いでもらえる形で残す必要がある。そのためにはバランスが必要」と言う濃沼さん。
新旧の時代の過渡期に立つためのバランス、設計士であり工務店の経営者であり大工の息子としての責任のバランスを保つために、技術と知識と誠意をフル稼働させています。
知的な話しぶりと時おり見せる木への偏愛ぶり、そのアンバランスさも何とも魅力的な濃沼さんのお話をどうぞお聞きください。

濃沼広晴さん(こいぬまひろはる・48歳)プロフィール
丸晴工務店代表。一級建築士。1975年、神奈川県生まれ。大学卒業後、3年間ゼネコン企業でビル建築の設計を行ったのち、父が営む丸晴工務店に入社、経営と設計に携わる。京都鴨川建築塾などに参加しながら木の家の建築について学び、その関東版である多摩川建築塾を立ち上げる。「大工の手仕事による木の家づくり」「安全性の数値データや工程の見える化」を行う工務店として確立させ、評価を高めている。


大工の力を生かし尊重する建築士を目指した

⎯⎯⎯ お父様の晴治さんは、市内最高峰の匠として川崎マイスターに選出されている大工さんですが、濃沼さんご自身は大工さんではなく、建築士となり経営者としても力を発揮されているのですね。

濃沼さん(以下、敬称略)「父は宮大工の修行を積んでいて、個人宅も手掛けていました。子どもの頃から現場の掃き掃除を手伝ったり、上棟式(棟上げを無事に終えられたことに感謝し、工事の安全を祈る儀式)といった職人が大切にしてきた行事に参加したりして、大工仕事の地道さと華やかな場面、人に喜ばれている様子を見て育ちました。
素晴らしい仕事だと思いますし、父をふくめた大工たちを尊敬してきました。でも、自分は目指しませんでした。
自社で設計施工ができる工務店を目指すために、また大工が気持ちよく思う存分能力を発揮して働けるよう、そういう仕事を出せる設計側の人間になろうと思ったんです。たぶん両親もそれを望んでいました」

上棟式のための破魔矢。建築現場の邪気を祓い安全を祈願するためのもの。今では見かけることが少なくなったが、宮大工である晴治さんから、引き継がれている。写真提供/丸晴工務店

⎯⎯⎯ ベテランから若い世代の大工さんまで8人もいらして、濃沼さんのマネージメント力の賜物ですね。

濃沼「今年、さらに2人が入社する予定です。ここ数年、弊社でお引き受けしている一戸建ての木造建築の数は年間で12軒。この規模で全棟手刻みをしている大工工務店は珍しいと思います。
これが限界なのですが、ありがたいことに若いご夫婦からご依頼いただくことも少なくないので、人手を増やし対応していく予定です」

濃沼さんが設計し、丸晴工務店の大工さんが組み上げた、伝統とモダンが融合した家。

木造建築で用いられる伝統的な工法「鼻栓打ち」。

濃沼さんが作成した設計図に、担当する棟梁が柱の番号をふった板図。上記4点 写真提供/丸晴工務店


伝統を残すための最善なやり方を模索

⎯⎯⎯ 1軒につき、何人の大工さんが担当するのですか?

濃沼「1軒につき1人が棟梁として担当します。もちろん、フォローしあうこともありますが、そのほうがお客様と密にお付き合いして理想の家をつくりあげることができます。『大工は一棟刻んで年季明け』とよく言われますが、丸晴工務店では年季明けは3年から4年が平均です。全員が手刻みをおこない仕上げ、また家具工事までおこなうことができます」

⎯⎯⎯ やはり伝統的な工法を大切にされているのですね。

濃沼「刻みはリフォームや修繕にも必要な技術ですからね。
神社をつくることも、左官の土壁の土蔵をつくることもあります。ただ、『石場建てじゃなくてはダメ』とか、そこまで伝統的な構法にこだわってはいません。
木の家ネットの会員の方々の石場建てのお仕事を拝見するたび、本当にお見事で素晴らしいと感じますし、次世代にも残っていくことを願う気持ちはあります。一方で縛りを強くしすぎると、残せるものも残せなくなるのではないかと危惧しています。若い人の経験を増やすために、ある程度の軒数を建てられるよう、“伝統と今”をどこで切るかというバランスをいつも意識しています」

⎯⎯⎯ 未来というか時間軸のことを頭に置いて仕事をされているのですね。

濃沼「僕は40代後半なんですが、この世代が重要なポイントで、ここから下の世代になると一気に伝統的なことを知らない人が増えると感じています。だから、僕ら世代が何かしなくてはという責任感のようなものを勝手にいだいています。
この時間軸を縦の線だとすれば、僕は横の線についても思うことがあるんです」

左/丸晴工務店は作業場を複数所有していて、大工さん1人で1カ所を使用することも多いそう。写真提供/丸晴工務店
右/大工さんのTシャツにもプリントされているロゴマーク。現代的なセンス!


大工工務店がつくった味のある家が並ぶ街

⎯⎯⎯ 横軸ですか? どういったことでしょうか?

濃沼「人と人とのつながり、協力関係とでもいうのでしょうか。
例えば、丸晴工務店のやり方を他の工務店に話したりするというのは、昔は敵に手の内を明かすみたいな感じがありました。けれども、今はみんなで協力しあうべきだと思っています。
今の時代、自分たちだけよければいいと言ってはいられません。お客様が満足しない仕事をする工務店が多くなって『工務店はだらしない』というイメージが根付き、家づくりはハウスメーカーに任せればいいとなってしまっては困るんです。
全国各地域に住宅について相談できる工務店がしっかりしていれば、そこに安心感が生まれますよね。ですから、地域にある昔からの大工工務店には残ってもらいたいのです」

⎯⎯⎯ なるほど、住む人の安心も考えてのことなのですね。

濃沼「もっと言ってしまえば、街のことも考えて、です。地元に大工工務店がなければ、その街に存在する地元の神社仏閣も、稲荷社殿などは誰が修繕するのでしょうか。しっかり維持されている街の景観は魅力的です。景観が魅力的なら、人も集まるでしょう?
家をつくり、地元の神社仏閣、稲荷社殿を修復し街の伝統を守るのは、大工工務店の仕事だと自負していて、地域の工務店同士が協力し合って、あらゆる地域を素敵にして、日本全体が素敵になればと思うんです。
そのためになればと、弊社では学びと情報共有の場をつくっています」

北山杉を使用した丸桁が跳ねだした外観が印象的住宅で、街のランドマーク的役割にもなる。

大きくつくられた窓からもれる光が夜道を照らしている。街並みに貢献したいという濃沼さんの思いが形になっている。

お客様から大変好評を得ているバードフィーダー。「鳥がやってくる庭って素敵でしょう?」と濃沼さん。

父・晴治さんがつくったお神輿の一部。これぞ宮大工の技術と惚れ惚れしてしまう。

⎯⎯⎯ 学びの場とは、どのような内容ですか?

濃沼「僕は設計も大好きで、自分ももっと学びたいという思いから『多摩川建築塾』という名前で勉強会を開いています。自社設計で施工できるのは、工務店にとって一番強いので、設計力は学び高めないといけませんから。
元々は京都にあった、植久哲男さんという建築雑誌の元編集長が塾長をしている京都鴨川建築塾の関東版でして。植久さんのご協力のもと6~7年前にスタートさせたんです。藤井章さんや山辺 豊彦さん、堀部安嗣さんといった著名な建築家の方々を講師にお迎えして学ばせていただいています。
ネットで受講者を募集するので、建築士だけでなく学生さんも来てくださって、一緒に学べるのはとてもうれしいことですね」

丸晴工務店で企画・運営している「多摩川建築塾」のコンテンツを一部ご紹介。


庭木はペットを迎える感覚で植えて

⎯⎯⎯ とくに濃沼さんにとって印象的だった講義の内容は何ですか?

濃沼「みなさん素晴らしい先生方で、たくさん学ばせていただきましたが、やはりそうだよなと思ったのは『庭と建物っていうのは絶対に一体だ』という言葉でした。
関東だと庭をつくるとなると、造園屋さんか外構屋さんか植木屋さんになると思います。外構屋さんっていうのはブロックを積んだりとか、コンクリートを打ったり、主にメーカーの既製品を使用します。植木屋さんは、今では公共事業を主に行っており個人邸はあまり仕事をやらない。造園屋さんに依頼すると一気に金額が上がるので、一般家庭ではなかなか依頼できません。
なので、うちでは毎回、設計と大工とお客さんみんなでつくるという感じになっています」

⎯⎯⎯ みんなで庭つくりなんて、楽しそうですね!

濃沼「そうですね。お客様も楽しんでくださいますし、喜ばれます。
庭って、ある程度以上になったらプロに任せなくてはいけないですが、そもそも日々の手入れが必要で、その手入れをする人が、つくりながら木や花の特性を知っておくほうがいいです。枝の剪定や水あげのやり方とか。
木を選ぶ時もペットのようなイメージで、育てられるか可愛がってあげられるか考えて、厳しければ1本だけにしておくとか、そういうお話もしています。理想と現実のバランスは大事なので。
家と庭は一体で、ここを一緒に考えられるのも大工工務店のよさだと思うんです」

⎯⎯⎯ 家を建てる素材が木ですし、木にお詳しいですものね!

濃沼「庭木についての知識は造園屋さんや植物の専門家ほどではないです。建築に使用する材木に関しては木材マニアというかオタクでして。日本っていい木が育つ有数の国で、この国に生まれて幸せだと心から思い感謝しています。
杉もすごくいい木なんですけど、うちは檜(ヒノキ)をメインに使う工務店です。檜が年を重ねて飴色になる、その様子は本当に綺麗ですよね。油の多い木ならではです。造作家具も檜をメインに使用してます。
ヨーロッパも建材や家具に木を使いますが、基本的には広葉樹でそれを塗装して使う文化です。日本だけですよね、自然の木の飴色を美とする文化というのは。その美を住宅にも表したい、その思いで仕事をしています」

エントランスに1本の木を植えることを前提にされた設計。

庭木はすべて、設計の濃沼さんと大工さん、お施主さんで植えたもの。上記3点 写真提供/丸晴工務店


質が高く値段も手頃な国産の木材

⎯⎯⎯ 檜は香りも素晴らしいですよね。ただ、木の中でも高価なのでは?

濃沼「決してそうじゃないんです。みなさん、外国製の木の家具を好む方は多くて、日本の木で家具をつくると、なんとなく民家っぽくなると思われがちですよね。
実際はデザインをしっかり考えれば北欧家具にも負けない魅力がでると思います。色だけでなく木目もきれいで、軽く、使い心地は檜が断然上! 金額も檜のほうが全然安くて、 3分の1くらいなんです。
使い心地、試してみませんか?」

⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは同じデザインの椅子2脚を用意して)

濃沼「これはフィンランドのニカリという家具メーカーの椅子、もう1脚は京都にいらっしゃる二カリのライセンスを持っている方が檜でつくったものです。ちょっと面白いので体感していただきたいんですが、座ってみてください」

⎯⎯⎯ あれ⁈ 全然ちがいます。檜の椅子の座り心地は、すごくお尻に優しい!

濃沼「そうでしょう? うちは家具も大工仕事としてつくっていて、使い心地のよさはお客様からもお墨付きです。ましてや檜で家をつくれば、心地よさはお尻に限らず全身で感じられるんですよ。こんなに素晴らしいものがあるのに、外国から木材をガンガン輸入するなんて、もったいないというか悔しいというか…」

「家具も国産の木材でつくっていますが、デザイン次第でおしゃれになるんです」。写真提供/丸晴工務店


貴重な木材が売りに出されるタイミング

⎯⎯⎯ 輸入に頼らなければならないほど、生産量が減っているということは?

濃沼「確かに林業も後継者不足で厳しくなっていますし、木材は杉が中心的存在です。けれども、檜の山もちゃんとあるんです。例えば木曽福島は檜の有数の山で、樹齢250年とか300年の木もある。国有林じゃないところでも、樹齢80年から100年レベルでものが結構多くあります。
国有林は通常は切れないのですが、丸晴では天然の木曽檜を数多くストックしてます。
材木屋さんと密にお付き合いをしていますから、そういう木が出たと聞いたら、飛んで行って買っておくんです。
ストックというかうちの木材コレクション、ご覧になりますか?」

⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは作業場兼木材置き場を案内して)

濃沼「秋田杉、春日杉、霧島杉、屋久杉、欅、木曽檜、水楢、栃など様々な材木をストックしてます。
丸太と言ったら京都の北山が有名なんですが、これはその北山から買った丸太です。
これ、これね、黒柿なんですよ。床柱で使用した端材ですが、黒柿って最高級の材料ね。
今、杉板を焼いた焼杉という木材が外壁で流行っていますよね。
木曾檜って、わかりますか? これがそうで、目がすごい細かくて檜の王様って言われています。飴色になるとね、宝石みたいな光を出して始めるんです。見せたいなぁ」

丸晴工務店の木材コレクションを紹介してくださる濃沼さん。


工務店の強みと魅力を探して身につける!

⎯⎯⎯ こんなに大量の木材をストックしたり、作業場もいくつもお持ちになられて、維持するだけでも大変ですね。

濃沼「正直大変です。けれどこれらの材木を手放したら、再度持つことは難しいので必死に守っています。
先程、大工工務店を残したいと言った理由もここにあります。作業場の貸し借りなんかもしているのですが、とにかく広い土地が必要なので、大工工務店も減ることはあってもなかなか増えることはありません」

⎯⎯⎯ 失われつつあるのは伝統技術だけではないということですね。

濃沼「大工とは切っても切り離せない材木屋や山の製材所も、みなさんご存知のとおり減っています。木材を積極的に買い付けるのは、少しでも減少傾向を止めたいからでもあります。
ストックはよくないという方もいらっしゃいますが、本来、木材は何百年ももつものですし、お客様に安価で提供できます。一緒に一点物である木材を選ぶ楽しさもあり、弊社の1つの強みになっていると思います」

⎯⎯⎯ 確かに、「この木がどんなふうに料理されるんだろう」って思ったら、ワクワクするでしょうね。何とも魅力的な強みですね!

濃沼「素晴らしい素材を、持ち味を生かして、腕のいい職人が薄味で提供する。これが一番。大工の仕事は寿司職人とも共通していますね。
さらに強みを増やそうと、今、檜ショップを準備中なんです」

木材1つ1つの個性を生かして濃沼さんならではの設計。上記2点 写真提供/丸晴工務店

⎯⎯⎯ 御社の社屋のおむかいにある建物ですね? 素敵だなって思ったので、すぐにわかりました。

濃沼「そうです。NCルーターっていう木材の加工用の機械を購入しましてね、それで食器から色々な小物をつくっていく予定です。木の食器や小物類は、可愛いですし、赤ちゃんが触れても安心だし。
身近なところから木のよさっていうのを訴えていって、いつかは木の家に住みたいと思っていただく、その流れをつくっていこうと思っています」

⎯⎯⎯ 先ほどから、道行く人が檜ショップの中を覗き込んでいますね。まだオープンしていないのに。

濃沼「壁も床も檜でできていますが、現代的な設計なので、何だろうと思ってくれているのでしょう。壁をできるだけガラス張りにして、中もよく見えるように設計していますから。地元の人、特にここは小学校の登下校道なので、子どもたちのワクワクにつながったらうれしいですね。
もちろん商品を買ってもらって、少しでも大工の収入アップをしたいと思いますが、子どもたちにモノづくりの仕事って素敵だな、やってみたいなと思ってもらえるよう、僕も素敵な建物の設計、商品の企画デザインを頑張っていくつもりです」

左/オープン準備中の檜ショップから下校中の小学生が見える
右/檜のランプシェードも可愛らしい!


《丸晴工務店のお仕事例》鵠沼海岸の家 

上記6点 写真提供/丸晴工務店


有限会社 丸晴工務店 濃沼広晴さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:小林佑実

新年あけましておめでとうございます。

年頭にあたり、木の家ネット会員による昨年のベストショットをお届けいたします。

今年もどうぞよろしくお願いいたします!


綾部 孝司

(有) 綾部工務店

桜が綺麗そうだなと思い、裏の土手まで散歩した時の一コマです。桜と菜の花そして花曇りの空が春の風景そのものと思いました。サイクリングを楽しむ人たちも風景の一つですね。街や付近では人工物を見る機会の方が多く、季節感を感じない日々が続いていただけに、近づいたり離れたり、この風景に似合う建築はこんな感じかななどとしばらくそこで楽しんでいました。


岡崎 定勝

岡崎製材所

昨夏建て方を行った大屋根の移築古民家が、今年5月に竣工。移築前に建っていた新潟県上越市の土地柄・気候風土のためか、欅の差鴨居は尺六寸(485mm)、圧巻です。江戸時代末期に建てられたとのことですから、160年以上風雪に耐えてきました。1階の天井高さは4.0m。4m以上の雪が積もっても2階から出入りできます。移築先の愛知県江南市では、雪がそれほど積もることはないでしょう。上越市で160年、江南市で160年。実現するといいなぁ~


小田 貴之

オダ工務店株式会社

30代ご夫婦とお子さん3人で、土壁塗りや外壁板塗りに参加され、家族全員で家造りを楽しんでいました。玄関はアンティーク蔵戸を改造したもの、ご主人のこだわりが詰まっています。


川端 眞

川端建築計画

ジブリパークでの1枚。稲楼門の移築をお手伝いした役得でパーク全体を見学させていただきました。息子たちも大きくなりましたので、こんなことでもなければきっと行かなかった場所ですが、とても楽しい体験となりました。


剱持 大輔

番匠剱持工務店

長男と次男、兄弟で初めて一緒に入る現場での一枚。石場建て礎石のヒカリ付け作業風景


小山 武志

株式会社亀屋工務店

築91年の古民家。物置の片隅に眠っていた研ぎ出しの洗面器。築当時の姿に復元しました。手洗いは吊り下げ式の水タンクを設置する予定です。


高橋 俊和

都幾川木建

昨年は、新建築誌上に16回(1985/4~1986/7)連載された「棟梁の技術思想に学ぶ」のZoom勉強会/全8回が〈木の家ネット・埼玉〉の企画で開かれました。連載メンバーに名を連ねていたため講師を務めました。スミの技術を体験してもらうため設計者の皆さんに、実習として捻じれた古材に基準となるシンとミズ、垂木勾配墨を打って頂きました。プレカット全盛時代にあって、大工にとっても縁の薄くなった技術かもしれません。(撮影/綾部さん)


2023年11月11日(土)・12日(日)、新潟で開催された「一般社団法人 職人がつくる木の家ネット 第五期総会」の様子をレポートします。



久々の再会で話に花が咲いているようです

久々の再会で話に花が咲いているようです

全国各地より74名(会員以外の方も含む)が参加されました。1日目(11日)は総会・懇親会・分科会、2日目(12日)は新潟ならではの見学ツアーを行いました。時間軸に沿って写真を交えながらご紹介していきます。

1日目

総会

開会挨拶(大江忍代表理事)

「しっかり情報交換をして親睦を深め、2日間楽しんでいきましょう。どうぞよろしくお願いします」


新事務局挨拶(小野山陽子さん)

「この度事務局を務めさせていただくことになりました小野山陽子と申します。前任の中田さんからは以前から「木の家ネットは、日本全国に拡がる、こだわりをもった職人さんの集まり」だと伺っており、素敵な集まりだなと感じておりました。普段は、社会保険労務士として企業の人事制度づくり・採用・研修を担当させていただいたり、キャリアコンサルタントとして学生の進路相談や就職支援を担当させていただいております。木の家ネットでも、皆さんが気持ちよく活動ができるよう、支えていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします」


新入会員自己紹介

四期では新たに6名の方が入会されました。昨年(三期)はオンライン総会だったため、三期と四期の新入会員の方に自己紹介をしていただきました。

小坂 哲平さん(四期入会)
「昨年は都合がつきませんでしたが、今年はぜひ来たいなと思い参加しました。北海道で道産材や土壁など自然素材を使って家づくりをしています。いろいろ教えてください。よろしくお願いします」
→プロフィールページ


越智 新次さん (五期入会)|愛媛県西条市|左官
「愛媛県西条市で左官業を営んでおります越智新次といいます。木の家ネットに入会させていただいて、少しでも伝統構法や土壁の勉強をさせて、皆さんと繋がりを作っていけたらなと思っています。よろしくお願いします」
プロフィールページ


初参加の2名で記念写真

初参加の2名で記念写真

ぜひプロフィールページをチェックしてみてください。それぞれのWEBサイトやSNSへのリンクもあります。

新入会員の皆さん、どうぞよろしくお願いします。


五期 決算報告・事業報告

大江代表理事より五期の決算報告と事業報告、および六期の事業計画・予算案について説明がありました。


部会報告

部会報告①:見積部会

見積り部会の活動について、金田克彦さん(京都府)(つくり手リスト)から報告がありました。

金田さん「概算見積もりと詳細見積もりが連動した形で、誰がやっても同じにできるような「木の家ネットらしい」木工事の見積もりの作り方を、月一回、ZOOMで考えて続けています。現場での作業と感覚的な数字とを比べながら検証していく段階になってきていますので、本日の分科会ではその報告をさせていただきたいと思っています」

部会報告②:仕口部会

仕口部会の活動について宮内寿和さん(滋賀県)(つくり手リスト)から報告がありました。ゲストとしてドットコーポレーションの平野陽子さんにお越しいただきました。

平野さん「木材利用関係のコンサルタントをしています平野と申します。最近建築基準法の変化の速さを実感されてらっしゃる方も多いかと思います。これは国土交通省が建築基準整備促進事業というものを行なっているからで、実験等を能力のある民間に委託し、それを吸い上げて法整備をしていくという形のものです。そこで木造関係の事業に携わらせていただいています。
しかしながら実際に職人の皆さんがどういうことを考え、どういったものを建てられているのかというのは実はあまり知らないんです。これ以上この事業を進めても齟齬が出てきてしまう。そこで一旦事業自体は止めて、職人の皆さんが今どんなものを建てているのかを見せてもらおうという話が、今年度から始まりました。ぜひご協力いただければと思います。よろしくお願いいたします」

宮内さん「伝統構法をはじめとした木造建築を建てられるようにと、研究者の方々にご尽力いただいていますので、ぜひご協力のほどお願いいたします。
仕口部会自体の活動としてはそろそろ本格的に動いて行こうと考えています。皆さんが仕口や継手に関して疑問に思っていることを挙げてもらって、破壊実験をできるように話を進めています。実際に壊れるところを見て経験を積んでいってもらいたいです。ぜひご参加ください」

部会報告③:マーケティング部会

マーケティング部会の活動について大江代表から報告がありました。

「今年度はホームページの見直しをしようということで話し合いを始めています。木の家ネットという会の発足自体が、我々のような小さな工務店や職人がどうやってネット上で宣伝していこうかというところです。まだまだ存分に機能を活用されていない方もいらっしゃるので、ぜひ活用していってください」

部会報告④:環境部会

環境部会の活動について綾部孝司さん(埼玉県)(つくり手リスト)から五期の活動報告と六期の活動計画について説明がありました。

綾部さん「ご存知の通り、2025年4月には建築基準法が大幅に改正され、4号特例が廃止され新2号と新3号特例に分類されるようになります。建築物省エネ法や他の法律が連動しながら、環境を軸に変わっていく時代になってきているということを認識して、その中で私たちが伝統的なやり方でやっていくにはどういうスタイルが良いのか、議論できる場になればいいと思っています」

各部会に興味のある方は奮ってご参加ください。


セミナー「やさしい石場建ての設計法 〜仕様規定による手法〜」

会員の山中信悟さん(つくり手リスト)に登壇していただき、限界耐力計算や都市計画区域外に建てるといった方法ではなく、仕様規定の範囲内で石場建てを実現する方法について、セミナーが行なわれました。


報告「被災地の山の木で100%ZEB仕様の木造移転社屋の事例」

会員の佐々木文彦さん(宮城県)(つくり手リスト)より、東日本大震災で被災した山の木をつかったZEB(Net Zero Energy Building/ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)仕様の木造建築社屋の事例についての報告がありました。


ギャラリーページの説明

木の家ネットHPのギャラリーページについて、岡野康史さん(コンテンツ・WEB担当)より説明がありました。【ギャラリーページへの作品投稿方法】【ユーザーアカウントの操作方法】など、質問を交えながら進みました。


操作手順はこちらのリンクに載せています。初めて操作される方や、操作に迷われた方はご一読ください。また、木の家ネットのサイト内「会員向けページ」の「会員向けページ操作方法」ボタンからもアクセスできます。


懇親会

総会の後は、皆さんお待ちかねの懇親会。

乾杯の音頭は前代表の加藤長光さん(秋田県)

乾杯の音頭は前代表の加藤長光さん(秋田県)

締めの挨拶は金田克彦さん(京都府)

締めの挨拶は金田克彦さん(京都府)

来年の総会は京都で開催されることが発表されました。


分科会

今年の分科会は【①見積もり】【②仕口】【③マーケティング】【④環境】【⑤やさしい石場建ての設計法セミナー】の5つのテーマに別れて議論を交わしました。


分科会①【見積もり】】


「乾杯からはじめて楽しい会になりました。見積り自体は細かい数字の調整をすればもうすぐ使えるんじゃないかなというところまで来ています。Notionというソフトで日報を入れてデータをまとめるという検証を進めている段階です。参加者のみなさんは積極的に質問したり議論したりといい部会になりました。これからも続けていきたいと思います」(金田さん)


分科会②【仕口】


「過去の実験の写真を見てもらいながら解説をしました。若い大工さんたちに実験にとても興味を持ってもらえました。ぜひ大きい規模の破壊実験を行いたいと思っていますのでよろしくお願いします」(宮内さん)


分科会③【マーケティング】


「Instagramの活用方法についてお話ししました。写真の撮り方、フォロワーの増やし方などについて資料元に説明をしました。その後、自分たちの広告をどうしているかなどの議論を交わしました」(大江さん)


分科会④【環境】


「これからの建築のあり方、環境変化にどう対応するのかいう世界規模の話、またそれを身近な話として自分たちの仕事の中に取り組むことの難しさなど、さまざまな議論が行われました。それぞれの地域に持ち帰り実践していくことが大事ではないかということで締めくくりました」(綾部さん)


分科会⑤【やさしい石場建ての設計法セミナー】

総会でのセミナーに引き続き、山中さんからさらに突っ込んだ話をしていただき、皆さん真剣に耳を傾けていました。


2日目

新潟ならではの見学ツアーに出かけました。

鑿鍛治 田斎(のみかじ たさい)

刃物といえば新潟の燕三条が有名ですよね。今回は伝統工芸士にも選出されている「鑿鍛治 田斎」さんを訪れました。鋼から鑿(のみ)の形にする火を使う工程を見学させていただき、熟練の技と感覚で作り上げていく様子に参加者のみなさんからは感嘆の声が漏れていました。723℃で磁石が付かなくなるという話にはびっくり!




椿寿荘(ちんじゅそう)

田上町指定文化財・豪農 原田巻家の離れ座敷「椿寿荘」を訪れました。幕末には約千三百町歩(約東京ドーム260個分)という広大な土地を持っていたという原田巻家。その離れ座敷は、全国から貴重な銘木を集め贅を凝らし、見事な職人技で作り上げられていました。みなさん職人ならではの視点で細かい部分まで存分に堪能していたようです。





2日間ありがとうございました。

久しぶりに顔を合わせ、意見や情報を交換し、それぞれが刺激に満ちた2日間となりました。

会員の丹羽怜之さん(三重県)(つくり手リスト)から以下の感想をいただきました。

「直接顔を会わせて交流ができ、非常に有意義で楽しい時間を過ごすことができました。
見積部会分科会では、ようやく形になってきた計算方法を実例を交えて説明できたことで理解がしやすくなり、若手・ベテランそれぞれに考え方、地域性など意見が交わされました。手刻み仕事はそれ自体が独自なものになってきているとも感じますが、何が基本的なことで、何が独自性や魅力なのか色々と考える機会となりました。

猛暑のなか訪れた京都。現代的な家々や集合住宅が連なる細い通り。そこにひっそりと佇む一軒の京町家。きっとここに違いないと思い、小走りで入口の前に立つと「中川幸嗣建築設計事務所」という控えめな看板が目に入った。挨拶をして迎え入れていただいた土間では、外とは打って変わって心地よい風がカーテンを揺らしている。
それだけのことですが、きっと今日は中川さんからいい話が聞けそうだと確信した瞬間でした。

中川幸嗣さん(なかがわこうじ・46歳)プロフィール
1977年(昭和52年)生まれ。京都府福知山出身。一級建築士事務所 中川幸嗣建築設計事務所代表。2002年 武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業後、建築設計事務所勤務を経て2014年に独立。京町家を改修し自宅兼事務所としている。過剰さがなく豊かで美しい民家の佇まいに学び、軽やかでしなやかで実のある建築を探っている。京都市文化財マネージャー(建造物)としても活躍中。


海外の街路を見て実感した、日本の民家の魅力

⎯⎯⎯ 福知山(京都)のご出身とのことですが、どんな幼少期を過ごされたのですか?

中川さん(以下敬称略)「実家は大正初期に建てられた町家で、薬屋を営んでいます。福知山は城下町なので親戚や同級生の家も商売をやっている古い家が多かったですね。だから食住一体の生活が自然でした。町家独特の暗さや湿り気、静けさや匂いが今でも印象に残っています。

小さい頃は川の堤防周辺でよく遊んでいました。由良川(ゆらがわ)という川なんですが、昔から幾度となく氾濫していて、福知山はその度に水害に見舞われた街でもあります。そんな歴史の中で、街と川の境に築かれた高く長い堤防がモノリスのような圧倒的な存在として記憶に刻まれています」

⎯⎯⎯ 建築の道に進もうと決めたきっかけや理由を教えてください。

中川「高校2年生の時、自転車競技の練習中に事故に遭い、脳挫傷する大怪我をしてしまいました。幸い命拾いしましたが、自分の人生をきちんと考えるべきだという思いが芽生えました。

その頃、ふと手に取った雑誌「SD : スペースデザイン」の中で特集されていた「ランド・アート(「アース・ワーク」とも呼ばれる)」に惹かれました。それは建築とも彫刻とも造園とも捉えることができるので、美術大学の建築学科に進学しました。幼少期の堤防の記憶が影響しているのかもしれないです」

ランド・アート
ランド・アート (land art)とは、岩、土、木、鉄などの「自然の素材」を用いて砂漠や平原などに作品を構築する美術のジャンル、またはその作品のこと。規模の大きなものは、アース・アート (earth art)、アースワーク (earthworks)などとも呼ばれるが、その区別は厳密ではない。
出展:Wikipedia

学生時代の作品「芸祭ピラミッド」(2000) 大学の芸術祭後の廃材の山に現代社会の縮図を見いだし、大学構内の広場に廃材でできたピラミッドを設置した。躙口があり、中に入ることができる 写真提供:中川さん

学生時代の作品「芸祭ピラミッド」(2000) 大学の芸術祭後の廃材の山に現代社会の縮図を見いだし、大学構内の広場に廃材でできたピラミッドを設置した。躙口があり、中に入ることができる(写真提供:中川さん)

⎯⎯⎯ なるほど。スケールの大きさが確かにリンクする部分がありそうですね。学生時代はどんなことをされていたんですか?

中川「春休みになるとバックパックを背負っていろんな国を旅していました。最初はタイに行って、翌年にインド・ネパールへ。また別の機会にトルコ・シリア・ヨルダン・エジプト。あとはヨーロッパにも行きました。有名建築や観光地を巡るのではなくて、一日中街を歩いたり、鉄道やバスに乗ったり、おじさん達がタバコを燻らす街角のカフェで喫茶したり、庶民的なご飯を食べたり、その土地に暮らす人々の普通の営みを垣間見るのが目的でした」

⎯⎯⎯ 刺激的でしょうね。その行動力はどんな思いから出てきたのでしょうか。

中川「建築を志す人なら一度は読むような本に【人間のための街路】(バーナード・ルドフスキー 著 )という名著があります。自動車のための“道路”ではなく、人間が歩くための“街路”の重要性を説いた本で、とても感銘を受けました。旅先に選んだ異国の古い街を歩いていると、喧騒の傍に、居心地の良い落ち着ける場所があったりと、新・旧や動・静が同居する中に、懐かしさや既視感を感じるんです。

そこで『待てよ。福知山も半世紀程前までは、江戸時代の城下町としての歴史が積み重ねられた、いきいきとした街路空間があって、道に多くの人がいる街だったんじゃないか』と、外の世界を見ることで逆輸入的に自分のルーツにある街や生活文化・民家や伝統建築などの魅力に気付かされたんです。

けれども都市計画は、今考えると重要伝統的建造物群保存地区にもなり得たであろう福知山独自の、水害共存型町家の建ち並ぶ旧街道の約半分を町内ごと潰し、片側二車線の車のための道路にかえてしまいました。街から堤防にあがる魅力的な人間のための階段も、今では刑務所を囲む塀の様になっています。30年以上前、私の少年時代の出来事ですが、なじみのある景観を失ってしまうというのは、取り返しのつかない残念なことで、恨みは根深いものです。


継手・仕口が縮めてくれた、大工さんとの距離

⎯⎯⎯ 建築だけというより、それも含めた街路や街などに興味を持たれていたんですね。

中川「そうです。大学時代にお世話になった先生が二人いらっしゃって、一人は今年亡くなられた相沢韶男(あいざわつぐお)先生。相沢先生は民俗学者の宮本常一先生のお弟子さんで自称「壊さない建築家」。民俗学と文化人類学の講座を受講していました。もう一人は源愛日児(みなもとあいひこ)先生。身体と建築について考察すると同時に、継手・仕口や差鴨居など伝統的な構法の研究もされている方です。

そういった先生方の影響もあり、建築家が建てた建築でもなく、お寺や神社のような伝統建築というわけでもなく、立派なものというより素朴な、市井の人々が建てたような、土から生えてきたような、民家建築に興味を覚えるようになりました」

⎯⎯⎯ 設計の仕事を始められてターニングポイントとなるような出来事はありましたか?

中川「大学卒業後の東京にいた頃、実家の薬局を改装することになり、僕が設計することになったんです。大学を出て間もないので経験も浅く、右も左もわからなかったんですが、地元にある一般建築から社寺建築も手がける工務店に施工をお願いしました。

大工さんと面と向かって対話すること自体もほぼ初めてで、世話役の大工さんは口調も荒く怖かったんです(笑)。でも話してみるとその大工さんは笑顔も素敵で魅力的な方でした。壁のどこに開口部を設けるかという話のときに、高さや大きさ、下地による制約などを考慮しながらも、どうすれば美しいかということをも考えておられて、立場もバックグラウンドも違うけど、デザインするという意識の部分に共通点があったので、大工さんという存在が一気に身近に感じられるようになりました。本当に無知ですよね(笑)。

学生時代に僕が継手・仕口に詳しい源先生から学んでいたこともあって、現場で生の竿車知継ぎに感動していると、他の応援の年配大工さんなんかもいろんな継手や仕口を『こんなの知っとるか?これはどうや?』とたくさん技を披露してくれたんです」

継手・仕口を大工さんに披露してもらった際の写真。「勉強はしていたが、なかなか身近なところで目にすることはなかったので興奮しました」と中川さん

継手・仕口を大工さんに披露してもらった際の写真。「勉強はしていたが、なかなか身近なところで目にすることはなかったので興奮しました」と中川さん

中川薬局改修|福知山市|2005年

左:Before/右:After

左:Before/右:After
玄関右側の出格子パターンは街にある意匠をサンプリングしてきたもの。ベンガラはご自身で塗ったとのこと
上記3点写真提供:中川さん

室内、縁側、庭が絡み合い、豊かな空間が生まれる。軒内の三和土は敷地内の土を振るって自ら叩き直した。

室内、縁側、庭が絡み合い、豊かな空間が生まれる。軒内の三和土は敷地内の土を振るって自ら叩き直した

歴史に学び、建物に寄り添う

⎯⎯⎯ 中川さんが設計される際に大切にしていることを教えてください。

中川「特に民家のような建築の場合、自分の閃きや思いつきなんかで一朝一夕に建てられるものではありません。先人たちによって幾度もの実証実験を経るなかで育まれてきた建築のかたちです。地域ごとに方言があるように、建築のかたちも多様なはずです。設計を始める前に、まずはその土地において建てられてきた伝統的な民家について知ることから始めます」

⎯⎯⎯ 新築する場合も伝統的な民家について知ることから始めるんですか?

中川「その通りです。その土地ごとの生活の営みから導き出された建物のかたちや、その土地で昔から好まれてきた材料、さらには文化的な特色や風習などと現代生活との関連性を探ります。懐古的に昔を再現するつもりはありませんが、地域によっては今も鬼門などに敏感な場合もあります。

少し大袈裟かもしれませんが、歴史に学ぶ工程は、それぞれの土地に対する礼儀であると同時に、型を知ることで型を破ることにもつながり、新たにデザインする上での拠り所にもなると思います。

そのような下地づくりともいえる工程を経て、現在の目線で、建物を建てる敷地の周辺環境との関係や施主の要望、安全かつ快適に暮らせる家に必要な性能などを盛り込み計画していきます。そこからが本題なんですがね。

美味しいお味噌汁を作るために、きちんと出汁をひいた上で具を入れていくような感じです(笑)」

⎯⎯⎯ なるほど。では古い建物を改修する際はいかがでしょうか?

中川「改修する建物が町家や農家の建物のような伝統的な民家の場合、今まで残されてきたことを尊重し、無理な間取りの変更は極力避け、その建物の特徴を損なわないような計画を心がけています。

もちろん昔と今とでは生活様式も大きく変わっています。例えば屎尿を汲み取りするために必要だった町家の通り土間(トオリニワ)は今となっては必要ありません。しかしながら、内と外を繋ぐ家の中の道のような土間空間は、下水が普及した今もなお、建物内外の行き来が盛んになる便利で魅力的な町家の要素でもあります。

暑さ寒さとの付き合い方も、生活様式や生活環境の変化、気候変動により昔と今とでは変わらざるを得ませんが、伝統的な土壁に、断熱や遮熱などの現代的な工法を適切に施すことによって、高性能な建物にもなり得ます。

目隠しの簾戸越しに心地よい風が吹き抜ける。窓の寒さ対策として二重窓にしている

目隠しの簾戸越しに心地よい風が吹き抜ける。窓の寒さ対策として二重窓にしている

古い建物を無くしてしまったり大きく変えてしまう前に、その建物を如何に住みこなすか、建物に寄り添うようなつもりでその建物の持ち味を活かし、将来につなげることを考えます。その上で変えることが必要な場合は、相応しい変え方を探ります」

⎯⎯⎯ 納得です。今ご自宅兼事務所にされているこの京町家についても教えていただけますか?

中川「織屋建という西陣地域ならではの架構形式を持つ、工場と住まいが一体となった町家です。敷地は間口に対して奥行きが深く、主屋と離れの間に庭があります。かつては一般的だった織屋建の町家も、今では町内にここ一軒を残すのみとなってしまいました。通りに面してそれぞれの町家が建ち並ぶことでお互いの強度を連担していたので、短辺方向の壁が元々ほとんどないんです。明治初期あるいは幕末くらいに建てられたであろう庶民的な町家ということもあり、梁も華奢で仕口も怪しく脆弱そのもの。できる限り荒壁や柱を増やして強度を上げています」

高さを抑えた表構えは建築年代の古さを表わす要素の一つ。腰に使われる花崗岩は北木石、昭和初期頃の流行。

高さを抑えた表構えは建築年代の古さを表わす要素の一つ。腰に使われる花崗岩は北木石、昭和初期頃の流行

⎯⎯⎯ 他に大切にしていることはありますか?

中川「庭屋一如(ていおくいちにょ)と言われるように、特に都市部の生活環境において、庭は大切だと強く感じています。身近な材料で丁寧に作られた家と、心地の良い庭とは切っても切り離せません。庭は見るだけでなく、草むしりをしたり落ち葉を拾ったりと、毎日少しだけでも実際に触れることができると、随分生活の質が上がります。

家は雨風や暑さ寒さ、社会や人間関係から身を守ったり、大切なものをしまっておくシェルターとしての役割があるのと同時に、庭を持つことで季節の移りかわりを感じ、内にいながらも意識は外に広がります」

ここで、中川さんの設計事例をご紹介します。


中筋の家 (自宅兼事務所)改修|京都市|2023年

建築当初は工場だった吹抜け空間には低い天井が張られ、床の間のある座敷となっていた。今回の改修工事の際に天井の吹抜けを再現し、開放感のある板張りのリビングルームとしている。庭を囲む縁側や渡廊下、外腰掛など内と外の間の空間が実はとても重要。

「庭も作庭から数年を経て、樹々が根を張り幹も少しづつ太くなっています。苔も成長して庭石と絡みだしたり、ミミズも増えて土中環境も良くなったりと、庭の魅力は日々増しつつあります。無駄に思えるかもしれない渡廊下なども、気持ちを繋いでくれることに気づかされました」(中川さん)

写真左奥に床の間があった。書院窓のついていた壁は塞いで耐力壁としているが、床の間の名残が感じられる

写真左奥に床の間があった。書院窓のついていた壁は塞いで耐力壁としているが、床の間の名残が感じられる

左:壁の向こうはハシリニワと呼ばれる土間の台所空間/右:主屋の旧床間部材を転用した離座敷。雛祭りのしつらえ

左:壁の向こうはハシリニワと呼ばれる土間の台所空間
右:主屋の旧床間部材を転用した離座敷。雛祭りのしつらえ

左:皮を剥いただけの野趣ある華奢な古い梁/右:入口を入ってすぐのオモテノマでは奥様が作業中

左:皮を剥いただけの野趣ある華奢な古い梁
右:入口を入ってすぐのオモテノマでは奥様が作業中

庭の石は元々この場所で使われていたものや、土中に埋まっていたものを活用している

庭の石は元々この場所で使われていたものや、土中に埋まっていたものを活用している

中塗仕舞いの土壁に、和紙貼りの控えめな看板

中塗仕舞いの土壁に、和紙貼りの控えめな看板


西院の家|京都市|2016年

床面積20坪(ロフト別)の小規模な新築物件だが、大工・左官・建具職人達のこだわりが詰まっている。施工は木の家ネット会員でもある大髙建築の高橋憲人さん(つくり手リスト)が担当している。

「初めて設計した竹小舞と荒壁下地による新築住宅です。今日一般的に使われている石膏ボード屑などの産業廃棄物がほとんど出ない現場で、その健全さと気持ちのよさを身をもって体験しました。荒壁は粘り強い壁になるだけでなく防火的にも優れているし、調湿性、蓄熱性や遮音性にも優れています。再利用しやすくゴミになりません。理想的ではないですか?荒壁は文化財のためだけのものではありません。外観は今も町家がちらほらと残っている通りの景観を整えることを意識して設計しました」(中川さん)

左:張り出した格子の中は寝室のベランダになっている/右:旧来の街並みを無視せず呼応する様にしている

左:張り出した格子の中は寝室のベランダになっている
右:旧来の街並みを無視せず呼応する様にしている

左:ベランダを支える通し腕木と呼ばれる桔木(はねぎ)/右:竹小舞の下地、荒壁は各工程において美しい

左:ベランダを支える通し腕木と呼ばれる桔木(はねぎ)
右:竹小舞の下地、荒壁は各工程において美しい
上記4点写真提供:中川さん


追分山荘|軽井沢|2014年

広い敷地に高さを抑えた軒の深い屋根を掛け、眺望の良い東側に設けた縁側と観月の露台で内と外の境目の空間を満喫できるようになっている。ほとんどの窓は軽やかな明かり障子と高性能木製サッシの二重構造となっており、マイナス15度にもなる厳しい冬に備えている。

「冬の朝、布団の中が寒いとなかなか起きることができませんが、暖かい布団からはパッと起きることができまよね。冬の半屋外も楽しむことができるよう、家の中がきちんと暖かくなるようにしています」(中川さん)



上記6点写真提供:中川さん


⎯⎯⎯ 最後に、家づくりに対する想いとこれからの展望を教えてください。

中川「この質問、悩みますね(笑)。家づくりにはいろんな人が関わります。使う材料や工法の選び方ひとつで、それを生業にしている職人さんたちにも大きな影響を与えます。ちょうど『投票』に近い感覚かもしれません。

例えば荒壁。荒壁下地の土壁は素晴らしいポテンシャルを持っています。だけど目の前の予算の都合だけで選択肢から外されてしまうと、いざ使いたい場面が訪れた時に、材料や職人さんが見つけづらくなっていたり、コストがさらに掛かってしまったりと、どんどん採用しづらい状況に追い込まれてしまいます。そうならないためには、本当に価値あるもの・価値ある技術に日頃から『確かな投票』をしていくことが大切だと考えています。

『器』に例えるなら、いい器は仕舞い込んでおくんじゃなくて、丁寧に大切に普段使いしてあげる。欠けたら金継ぎして永く使う。そうすると日々の生活がとても豊かになりますよね。そんな考え方です。

手間暇のかかる伝統的な木造建築は30年で建て替えるようなものではありません。イニシャルコストが多く掛かったとしても、手入れをしながら何世代にも渡って暮らすことが前提です。そして、後世の人が見た時にその良さが評価されれば、さらに後世へと受け継がれていきます。逆に、後世の人に『寒いし、不便だし、かっこ悪い、ダメだこりゃ』と思われたら、いくら材料や技術が素晴らしくても叩き潰されてしまいます。そうならないために、長く愛されるだけの意匠や性能が求められます。建築士の責任は重大です」


「建物」という観点からさらに視野を拡げ、街並み、街路空間、過去・現在・未来をつなぐ家づくりを等身大で実践している中川さん。現代社会が抱えるさまざまな問題を解決する糸口が、そこにあるように感じた。


一級建築士事務所 中川幸嗣建築設計事務所 中川幸嗣さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

尋常ではない猛暑に誰もが音を上げた今年の夏。その終わりかけのタイミングで、環境問題に向き合い続け、省資源の家づくりに取り組む金田正夫さんのお話に触れるのは、私たちにとって意味深いことだと感じます。環境問題のお話は深刻だけれど、金田さんが提案する対策法、その一つである自然と正面から向き合う家は、質素でストイックではなく、柔軟で人懐っこい! その印象は金田さんのお人柄そのものです。

金田正夫(かねだまさお・74歳)さんプロフィール
1973年、工学院大学建築学科卒業、同年図師建築建築研究所入社 。74年に都市建築計画センター入社 。83年に独立し、一級建築士事務所 金田建築設計事務所開設 。2011年、法政大学大学院工学研究科建設工学専攻博士課程修了博士号取得。建築士として活躍するほか法政大学非常勤講師を務め、現在も大妻女子大学で環境問題と建築に関する講座を担当。著書に『春夏秋冬のある暮らし─機械や工業材料に頼らない住まいの環境づくり─』(風土社)がある。

今回の取材は、東京は代官山にあるオフィスで。打ち合わせ用のテーブルは木戸と背の低い箪笥を合わせたもの。「椅子も捨てられそうになっていたものを、いただいて利用しています」。撮影/小林佑実

今回の取材は、東京は代官山にあるオフィスで。打ち合わせ用のテーブルは木戸と背の低い箪笥を合わせたもの。「椅子も捨てられそうになっていたものを、いただいて利用しています」。撮影/小林佑実

土間+ガラス戸で、住宅街の通りに対してオープンな印象。「ギャラリーとしても使っているスペースなんです。行き交う人が覗き込んで、ふと目が合うのも楽しいですよね」。撮影/金田正夫

土間+ガラス戸で、住宅街の通りに対してオープンな印象。「ギャラリーとしても使っているスペースなんです。行き交う人が覗き込んで、ふと目が合うのも楽しいですよね」。撮影/金田正夫

地球環境を守ることは
最大のミッションです

⎯⎯⎯ 自然素材の家づくりに取り組むようになったきっかけから伺えますか?

金田さん(以下、敬称略)「地球環境のことが私の根幹というか土台になっています。そこからお話ししてもいいですか?」

⎯⎯⎯ もちろんです!

コロナ禍を経て訪れた京都には観光客が溢れ(特にインバウンドの方の多いこと!)、活気に満ちていました。その人気を支えている理由の一つが、京都らしい町並みを形成している京町家の存在です。
今回ご紹介する大工棟梁の大下さんは京町家一筋。京町家に対する想いや魅力を語っていただきました。

大下尚平さん(おおしたしょうへい・43歳)プロフィール
1980年 京都府生まれ。株式会社大下工務店代表。京町家の復元改修、祇園祭の山・鉾組立などを通じて先人の大工の技術力の高さや知恵、そして作法を日々学んでいる。それらを自身の建築に活かし、“出入りの大工”を目指している。


京町家を専門にするんだ

⎯⎯⎯ はじめまして。早速ですが経歴や大工の道に進んだきっかけを教えていただけますか。

大下さん(以下敬称略)「父親が大工で毎日楽しそうに仕事をしていたので、それを側で見ていたら自然と自分も同じ道を歩むことになりました。トラックに乗せてもらっていろんな所に連れていってもらったのが楽しかったですし、刻み場として借りていた材木屋さんで、大きい丸太がその場で製材されて柱になって、父親が墨付けをして刻んでいくっていう流れを見るのがすごく面白かったのを覚えています」

⎯⎯⎯ 二代目でいらっしゃるのですね。大下工務店の始まりについて少し伺いたいです。

大下「大下工務店は、山口県から出てきた父が京都で大工修行を積み独立したのが始まりです。元々のお客さんが少ない中、僕ら三兄弟を食わしていかないとならなかったので大変だったと思います。当時は手刻みからプレカットへの過渡期で、うちはギリギリ墨付け・手刻みをしていましたが、父親からは『お前が墨付け覚えたらプレカットに変えるわ』みたいなことを言われていました。そんな時代ですね」

⎯⎯⎯ しかし今ではプレカットどころか、伝統的な京町家の改修を専門にされていますが、どういった変化があったのでしょうか。

大下「僕が父親と一緒に仕事をするようになった頃、仕事を組んでいた仲間や会社も徐々に代替わりしていき、同じ繋がりややり方だけをずっとやっていては立ち行かなくなると思い、僕は『手刻みで京町家の仕事を専門にするんだ』とグッと方向転換しました」

京町家
京都市内の昭和25年以前の木造住宅を「京町家」と呼ぶ。特徴は間口が狭く奥行きが深い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれる間取りで、商いと住まいを同じ建物で営む「職住一体」を基本とする。 実は「京町家」という言葉は昭和40年代の民家ブームの際に造られた造語であり、江戸時代には、町にある建物は形や生業に関わりなく「町家」とされていた。(出典・参考=Wikipedia)

⎯⎯⎯ ターニングポイントとなるような出来事があれば教えてください。

大下「25歳のとき、京町家作事組が運営している棟梁塾に入ったことですね。専門学校を出た後、うちの仕事も忙しかったので父の元で、“外の世界を見なあかん”とあちこち応援に行かせてもらっていたのですが、やっぱりそれだけではまだ狭い中にいるなと感じていました。そしてちょうどいいタイミングで棟梁塾の募集があったので、“これだ!”と申し込みました。
塾長であるアラキ工務店の荒木正亘棟梁、大工の金田さん(木の家ネットつくり手リスト)、大工の辻さんとの出会いが一番大きいターニングポイントだと思っています。この時、金田さんから木の家ネットのことを教えてもらいました」

⎯⎯⎯ 具体的にはどういったことを学ばれたんですか?

大下「京都で長年仕事をされてきた大先輩の棟梁から教わりました。継手や仕口などの大工技術の話ばかりではなく、広く浅くというと語弊があるかも知れないですが、『京都で棟梁としてやっていくには』ということを網羅的に学びました。大工のことももちろん学びますが、家づくりに関わる他職(襖屋さん・建具屋さん・左官屋さん・瓦屋さん・手傳さん・畳屋さん・板金屋さん・設備屋さんなど)の職人さんが、どういう仕事をしていて、どういうグレードの仕事があって…という話が主でした。
京都ならではの色々な老舗の職種の方、大店の旦那衆の方、沢山の借家をお持ちの大家さん、歴史ある花街のお母さん、お茶やお花の先生や、ものづくりの職人さんなどなど、いろんなお施主さんがいらっしゃいます。そういった方々と対等に会話するためには、広い知識・教養を持ち合わせていないと棟梁としてやっていけないんです。だから『お茶やお花も興味がないです』では通らないし、行儀が悪いと『大工さんチェンジ』ってなります(笑)ほんまに僕らのことをよう見てはる。でも、そんな中で信頼してもらえたら嬉しいですし、やりがいのある仕事につながりますね」

⎯⎯⎯ 京都ならではですね。お茶室のお仕事も手がけられるんですか?

大下「それがですね、今ではお茶室の仕事も少なからずいただいていますが、最初はもう全くわからなくて苦い思いをしたんです。というのが、この棟梁塾を運営している京町家作事組の事務局の改修に携わることになり、お茶室の炉を切ることになったんです。
天井から炉の中心に“釣釜”を下ろさなければなりません。そのためには天井に釣る“釜蛭釘”の位置を厳密に決める必要があります。ところが流派によって蛭釘の向きが違うんです。でも僕はお茶のことを全く知らないから、設計士さんとお茶の先生の会話について行けず、棟梁なのに蚊帳の外で釘一本打てなかった。もう大ショックでした。
『何のための棟梁やねん。これじゃ棟梁とは名乗れない』と思い、いよいよ茶道を習い始めたという訳です。そのときに荒木棟梁が言っていたことの意味が解りました」


事例紹介①:京町家作事組

京都市中京区釜座町|2011年

京町家の改修・修繕に携わる設計者・施工者が集まる技術者団体で、大下さんが学んだ棟梁塾の運営も担う。現在は大下さんが代表理事を務めている。明治時代の建物を大下さんを中心とした棟梁塾のメンバーで改修した。ターニングポイントとなった思い出深い場所、京町家作事組だ。
結構傷んでいた上に、京町家にそぐわないプリント合板のフローリングなどでリフォームされていたという建物を、何事もなかったかのように京町家然とした佇まいに生き返らせた技には脱帽だ。

緑の綺麗な前栽(中庭)は、以前は増築で子供部屋になっていた場所。1から作り直し元からあったかのように馴染んでいる。

緑の綺麗な前栽(中庭)は、以前は増築で子供部屋になっていた場所。1から作り直し元からあったかのように馴染んでいる。

左:京町家作事組の表札/右:「左官屋さんが何も言わずさりげなくしてはった」という格子窓

何気なく付いている天井の釜蛭釘にも物語がある(中・右 写真提供:大下さん)

改修前の様子(写真提供:大下さん)


苦労の跡は見せない

⎯⎯⎯ 京町家と、いわゆる木の家・伝統建築とは一味も二味も違いがあって、そこがとても興味深いです。大下さんにとっての京町家の魅力とは何でしょうか。

大下「京町家は本当に面白い。碁盤の目のように区画された通りがあり、限られた土地にひしめき合って建てられた江戸時代の都市型住宅です。

大工目線で言うと、江戸時代の職人たちの知恵が詰まっているところが魅力ですね。狭小地において外から工事できない場合にどうやって内から工事するか。例えば数軒立ち並んでいる家のうち、真ん中の家が火事になったとしても、もう一回そこに同じサイズの家を隙間なく建てなきゃならない。それをやって退けてきたのが尊敬する京都の大工や職人たちです。

それと、京町家が好きなもう一つの理由が、苦労の跡を残さないところです。例えば、改修現場に入った時に、根継ぎにしてあるところを表から見たら『まぁシュッと一文字に根継ぎしてあるな』という感じなんですが、裏にまわってみたら実はすごい仕口がしてあったり。すごく立派な町家でも派手な装飾や晴れがましい職人の技を見せびらかさずに、しっかりと手間はかけてある。何かわびさびを感じさせるような佇まいがあるんですよね。

住む立場で言うと、耐用年数が長いことも魅力ですね。今の一般的な家の寿命が30〜40年くらいだとして、京町家や昔ながらの木の家の寿命は50〜100年。しっかりオーバーホールしてやれば、また50年100年と保ちます。昔の家って木竹と土、藁や紙や草など、自然に還るもので作ってあって、それしかなかったというのもあるかもしれないけど、やっぱりその造りが基本であり正解なんだと思います。SDGsに関しても、やっと周りが気づいて振り返ってもらえるようになってきて『今更?』という感じではありますが、振り返ってもらえる人や、選択肢として考えてもらえる人が増えるといいですね」

⎯⎯⎯ 母校の高等技術専門校で教壇に立たれていたそうですね。

大下「昨年と一昨年、教えに行っていました。僕が学生の頃は“伝統的な日本の家屋”と言うものは学びましたが、“京町家”なんていう言葉は一言も出てこなかった。それが今の子たちは京町家がどんなものなのかかなり理解しているし、『大切にして残していかないとダメだよね』という意識を持っているなと感じています。20年でそういう考えが地域全体に根付いたんだなと実感しています」


枯れてると思っていた紅葉が生き返って「もみじの小径」という名前にまでなった。ここで野点のお茶会を開催したりもするんですよ」と大下さん

「枯れてると思っていた紅葉が生き返って「もみじの小径」という名前にまでなった。ここで野点のお茶会を開催したりもするんですよ」と大下さん

事例紹介②:もみじの小路

京都市下京区松原通|2019年〜継続中

五軒長屋の住居部分と9つの店舗が入居するテナント部分からなる町家集合体として人々が集っている。2019年のA工事以後、現在に至るまで継続的に改修を行なっており、京都らしい街並みが形成されている。京町家の魅力がギュッと凝縮された場所だ。

中央の路地を進むと立派なもみじのある中庭が出現する。

中央の路地を進むと立派なもみじのある中庭が出現する。

五軒長屋の町屋の全体を一気に工事したのはここが初めて。「隣の家と壁一枚なので、一軒ずつだったら出来ない全体の構造改修もしっかり裏表両方からできました」と大下さん

五軒長屋の町屋の全体を一気に工事したのはここが初めて。「隣の家と壁一枚なので、一軒ずつだったら出来ない全体の構造改修もしっかり裏表両方からできました」と大下さん

左:現在は9つのテナントが入居している
右:プロジェクトは今も続いている(写真提供:大下さん)

Before / After(写真提供:大下さん)


事例紹介③:準棟纂冪

京都市中京区壬生馬場町|2022年

大下工務店が事務所としている京町家。吹き抜け部分に二階が作られ子供部屋になっていたが、建築当初の痕跡を辿り、元の準棟纂冪を復元した。通りからは想像できない大きな空間が広がる。

準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)
お寺に準じる小屋組の意味。大店の火袋で側つなぎの上に牛梁や小屋束を見せる架構をいう。水平垂直の変形には効かないが、大型化した町家での2階荷重のバランスを整える意味をもつ。(出典:京町家作事組WEBサイト)

狭い路地から一歩踏み入れると広々とした空間が現れる

狭い路地から一歩踏み入れると広々とした空間が現れる

7mあるという“牛曳梁”がまっすぐ伸びる

7mあるという“牛曳梁”がまっすぐ伸びる


左:吹き抜けに二階が作られ子供部屋になっていた 右:痕跡をたどり7mの牛曳梁を入れた。この長さのものを後から入れるのは至難の仕事だった(写真提供:大下さん)

左:吹き抜けに二階が作られ子供部屋になっていた
右:痕跡をたどり7mの牛曳梁を入れた。この長さのものを後から入れるのは至難の仕事だった(写真提供:大下さん)

牛曳梁の加工の様子(写真提供:大下さん)

牛曳梁の加工の様子(写真提供:大下さん)


法被は大工の一番の正装だ

直せへん京町家はない

⎯⎯⎯ 京町家であるが故に大変なことはありますか?

大下「昭和・平成くらいの時代に一度改修してあって、鉄骨でフレームを組み直しているような京町家が結構あります。当時は最先端の技術と称され良しとされた改修であっても、またそれを元に戻すような作業が必要になり、改修の改修をするという無駄なことをしなければならないので、本当に勿体無いなぁと思います。開けてみると通し柱や大黒柱を切っちゃっていて、『これ直すんやったら一から建てたほうが…』ということもありますが、『直せへん京町家はない』と僕は言い続けています。どんな京町家でも柱が一本でも残っていたら直せる。そう考えています。

⎯⎯⎯ 大切にしていることやモットーを教えてください。

大下「“出入りの大工になる”ということをとても意識しています。仕事を始めたばかりの頃はお施主さんと密な関係を築くような機会が少なかったんです。やっぱり手がけた家を長いこと見ていかければならないという責任感があります。また、大きな改修をする際は、住みながらでは難しい工事も多く、タイミングがとても大事になってくるので、日頃から出入りしてメンテナンスしていれば、その時期を見極めやすくなります」

⎯⎯⎯ かかりつけ医みたいな感じですかね。近くにいると心強いでしょうね。

大下「そうそうそう!ちょっとした雨漏りとかも、放ったらかしてたら絶対あかんことになるし、白蟻も呼ぶことになる。そういうところを見つけたり、反対にこうした方が長く保つという方法を見つけて提案したりしています」


あるもんで直す

⎯⎯⎯ 木の家ネットなので、木のとこについて伺います。木材へのこだわりや想いを教えてください。

大下「こういう仕事なのでもちろん僕も木が好きで、金田さんから木に対する知識や買い方などを教えてもらって市に行ったりもしています。以前は『いいグレードのものや珍しいものも集めておかなあかん』と思っていましたが、最近はちょっとこだわりも緩くなってきました(笑)『これじゃないとあかん』ではなく『あるもんで建てる』という精神が京町家には息づいていますし、無理して高価な木を手にいれるというのは減ってきました。

棟梁塾で教えていただいた「千両の大店も裏は古木」という言葉のとおり、京町家は建築時から転用材や古材が沢山使われてるのと、近くの山の杉や桧や松の材木が主に使われてます。とはいえ、グレードの良い家にはグレードの良い木が使われているわけなので、そういう木や仕入れルートは持っておかないとならないですが、地場にある木を使って建てたり直すことが大事だと最近は思っています」

⎯⎯⎯ これからの構想や展望などがあれば教えてください。

大下「京町家を新築で建てる。これですね。技術的にも材料的にも、僕らの周りの大工さんや職人さんなら、もういけるという自信はあります。あとは京都市内でそれを実現するためには法的なところを行政と一緒にクリアしていかなければなりません。これは京都の建築業界・工務店業界全体の展望になるのかもしれませんね。
“平成の京町家” “令和の京町家”ではなく、120年前に建てたものと同じ“本物の京町家”が、同じ工法で京都の町中に建てることができたらいいなぁ。町並みが戻せたら一番いいですね」

⎯⎯⎯ 素晴らしいですね、ぜひ見てみたいです。最後の質問です。大下さんにとって京町家とは何でしょうか。

大下「んー難しいですが、京町家は連綿と続いてきた先人の知恵と伝統的な匠の技術の結晶だと思うんです。そしてそれを直すことによって最初に建てた大工さんや直してきた大工さんと会話している感覚が生まれます。そこがいいと思うなぁ」


京都の歴史が刻まれてきた京町家。そこには建築物としての価値だけではなく、自然との共生、環境配慮、職と住の融合、コミュニティなど、私たちが見つめ直すべき暮らし方や魅力が詰まっている。大下さんはそんな京町家の改修に情熱を燃やし、さらに新しい価値観とともに京都の町並みを次の世代に伝えようと奮闘している。
しかし決して苦労話にしてしまわないのが大下さん。さすがは京都の棟梁だ。


大下工務店 大下尚平さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

インタビューが始まってすぐ、森田敦彦さんから出た言葉は「なんで木の家ネットに水道屋が入っているんだろうって思ったでしょう?」──はい、おっしゃるとおりです! 水道管は木製や石製というわけにはいきませんが、森田さんは環境に優しい素材ステンレスで水道を配管できる稀有な存在。何よりも、職人同士がお互いに敬意を払い丁寧に家をつくる、木の家ネットワークのメンバーである建築士や大工の現場を愛し、できることのすべてを注ぎこんでいる。オープンだけれどシャイな森田さんの言葉からは、これまでのインタビューとは少しちがった木の家づくりの魅力が伝わることでしょう。


森田敦彦さん(もりたあつひこ・49歳)プロフィール
1974年、神奈川県横浜市生まれ。父は美術教師、母は音楽教師という家庭に育ち、後に音楽家になる兄の影響でバンド活動をはじめ、高校卒業後は専門学校でドラムを学ぶ。バンド活動を続けながらいくつかのアルバイトを経験し、23歳の時にアルバイト先の一つだった水道工務店に就職する。2社で水道工の仕事を経験し、33歳で独立し森田水工を開業。水工とは、先輩格の職人仲間が独立を祝って名付けてくれた屋号。“水の工(たくみ)”であらんとする決意表明となっている。

バンド活動をしていた頃の森田さん。ドラムとピアノを担当されていたそう。ビートルズやレッド・ツェッペリンの音楽を敬愛し、その時代、70年代ファッションに身を包んでいた。ちなみにこれらは90年代の写真である。


緑のシャツに白いヘルメットを被っているのが森田さん。大工さんに混じって建前の作業に楽しんで参加している。撮影:日高保さん

水道の仕事の基本は
穴を掘って埋めること
水を流す仕組みは今も原始的

⎯⎯⎯ 水道屋さんになるきっかけとは、どのようなことだったのでしょうか?

森田さん(以下敬称略)「小さい頃から音楽が好きで、高校卒業後は音楽の専門学校に行ったんです。ずっと本気でバンド活動をやっていました、23歳までね。でも全然食べられなくて。
生活のためにガソリン・スタンドでアルバイトをしていたら、そこに高校時代の友人がガソリンを入れに来たの。その時に『今、水道屋の仕事をやっているんだけど、森田君ちょっと手伝ってくれないかな?』って声をかけてくれて、『おー、やるやるー』って軽いノリで始めて、今に至っています(笑)。
その前にも、いわゆる鳶(高所作業の専門職)と土建業の両方を請け負う会社にアルバイトに行っていたから、抵抗というか不安みたいなものはなかったんですよね」

⎯⎯⎯ 物をつくることは、元々得意だったのですか?

森田「ちっちゃい頃からプラモデルとかも好きだったから、何かを組み立てるのは好きなのかも。父親が美術の教師だったから、家にあった画材なんかは使いたい放題で、絵を描いたりして遊んでいたかな。
水道工事という仕事は、最初に図面もらって、そこから自分で配管を考えなきゃいけないんですよ。どうやったらスムーズに排水が流れるかなと。そういうのはパズルみたいで面白くて楽しいね。
もちろん最初からそうだったわけではなく、バイトからずるずると仕事をしていたら、自分の得意なものがわかってきて、それがたまたま水道だったって感じですね。最初の頃は音楽も続けていたし」

建築士から届いた図面に手書きで水道の配管設計を書き込む森田さん。

⎯⎯⎯ 体力も必要な気がします。バンドではドラム担当とのこと、ドラムで鍛えた筋力が役にたったとか?

森田「いやいやいや、それはない(笑)。
水道屋の基本の仕事は、穴を掘ることなんですよ。水を流すためには勾配が必要で、1mの長さの管の中で水をスムーズに流すには両端で2㎝の高低差をつくらないといけない。パイプって通常4mで売っているんだけど、そうなると両端で8㎝の高低差がいるよね。そうやってどんどん深く掘っていきます。
水の流れを作る技術は、昔と変わらないということだよね。とくに住宅になると機械を入れるスペースもないから手掘りですよ! 原始的だね。
しかもただ掘るだけじゃなくて、ちゃんと四角く掘って土がためして管を置く。で、今度は埋めていくっていうことを繰り返す。埋めた管はまっすぐにしないといけないから、管の上に専用の糸を張ったり鏡を管に入れて奥まで見えるかと目で確認したりします。曲がってたらやり直し。
配管は親方の役割だから、下っ端はただ掘って、苦労して掘ったのに埋めるを繰り返す。
体力もキツかったけど、『なんだろう、この仕事』って、ちょっとやるせない感じもありましたよね」

⎯⎯⎯ やるせない気持ちが、この仕事をやって行こう! に変わったきっかけは?

森田「穴掘りって体を使うから、本当に飯がうまいんですよ!(笑) じつはここは大きなポイントだった。
それとね、職人って10時と3時になると一服するじゃないですか。その時に大工さんと色々な話をしていて、『お前、25になる頃には今後の仕事を決めないと、年下に使われるようになっちまうぞ』みたいなことを言ってくれたの。この言葉が重く響いて、さすがだなぁと思いましたよね。それで、音楽をやめて水道屋になろうと自分で決めました」

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「これが水道管が真っ直ぐか、水道管の中に何か問題はないか確認するための鏡です。僕らの必需品ね!」撮影:小林佑実


家づくりの現場で、たぶん大工さんの次に
長く張り付いているのが水道屋だと思う

⎯⎯⎯ 水道の仕事に真剣に取り組むことを決めてからの道のりは?

森田「水道屋をやるなら給水装置工事主任技術者とか色々と国家資格が必要になる。だから会社員として働いているうちに資格を取っておこうと、試験勉強を始めましたよ、見かけによらないと思うけどコツコツとね。
同級生が誘ってくれた会社がちょっと傾き始めたので、そこで繋がっていた仲間の紹介で、27か28歳ぐらいに別の会社に移って、もう1つの会社で4年くらい修行して、その間に資格を取りきって、33歳で独立しました」

⎯⎯⎯ 家づくりのなかで水道の仕事はどのように進めていくのか、具体的に教えてください。

森田「先に、図面を見て配管の設計をすると言いましたが、水道は地下に埋めるし、色々な物ができてしまうと、後から取り付けられないし、蛇口やお風呂の給湯のための電気リモコンみたいに最終段階で取り付ける部分もあるから、最初から最後まで現場にいます。大工さんの次くらい長く張り付いているんじゃないかな。
道路から伸びている水道管は、家の敷地内に入るとすぐに水の量を測る水道メーターにつながっていて、そこから先のすべてを家の土台部分ができる前に配管します。
土台部分のあと、床や壁の骨組みが組まれたらその中にも水道管を入れて、台所や洗面所、お風呂、トイレ、場合によってはガス湯沸かし器など壁の外に水の出入口をつくる。だから、場合によっては壁や床の木を切ったり、コンクリに穴を開けてモルタルで復旧するということもやります」

水道管が表にあらわれていて、目にすることができる部分。「ほとんどは地中とか壁の中だからね。本当はもっと見てほしいかな」と森田さん。撮影:森田さん

⎯⎯⎯ 壁や床を触るからには、大工仕事を理解しているというか、技術がないと上手くいかないのでは?

森田「大工さんほどの技術はないよ、もちろん(笑)。でも大工さんとか、電気工事の人とかの仕事をよく見ていて、お互いに仕事がしやすいように気を配ることは大切ですよね。
会社員時代にハウスメーカーの水道工事を担当していたことがあったんだけど。なんかね、現場が殺伐としていたんだよね。
『今これをやっちゃうと、あとで電気屋さんが作業できなくなっちゃう』みたいなことに気がついても知らんぷりする人もいた。早い者勝ちとか、自分だけで楽できればそれでいい、そういう気持ちで建てた家と、みんなのチームワークで建てた家って、やっぱり変わってくると思うんですよね、家の質がね。そもそも誰がつくったかわからない家より、つくり手の顔がわかって彼らとじっくり付き合って、しかも気のいいヤツらで、という家のほうがいいですよね、絶対。
僕は自分のことだけしか考えない人間関係も、安全性よりもスピード重視で急かされる仕事もすごく嫌で。もうそういうところに身を置かないようにすると、そこで決めたんです。だから、やっぱり木の家ネットなんだよなーって思うわけですよ!」

「会社員時代に、自宅の排水管を浄化槽から直接下水道に通す工事をしませんかと営業の仕事も挑戦してみたんだけど、意外といい成績で、給料が増えた以外にも会社に喜ばれたのがうれしかったね」撮影:小林佑実


自然の素材を扱う大工と
ケミカル素材を扱う水道屋が
ワン・チームになれた!

⎯⎯⎯ いよいよ、なぜ木の家ネットに入ったのか、その理由をお話しいただきたいと思います!

森田「独立する前に、木の家ネットのメンバーである藤間建築工房の藤間秀夫さんの仕事をやらせてもらったんです。それで、すごくいい! と思って(笑)。建築現場のアルバイトをしていたこともあったので、じつは僕、建前(主要な柱、梁、棟木などの組み上げること)ができるんですよ。高いところが平気っていうか、好きなのね。
藤間さんがたまたま建前をしてくれる人を探しているって聞いて、『はい、はい!』って自分から手を挙げて、作業中の写真は今も残っていますけど、それで藤間さんも僕のことをいいなと思ってくれたみたいで。もちろん水道の仕事もして、その働きぶりも見てくれてのことだと思いますけどね」

⎯⎯⎯ おお〜、両想いですね(笑)。具体的にどういうところが「いいな!」だったのですか?

森田「みんなで和気藹々と仕事をしていて、まさにワン・チームだったんです。
大工さんはプレカットではなく、一つひとつ木材を手で切っているからか、思い入れがちがう。自然素材でできることはもちろんだけど、気持ちがこもっていて、そのぶんだけ温もりのある家が生まれる様子には感動があるよね。
僕が仕事で扱う素材はみんなケミカルで、自然素材はないけれど、そういう温もりのある家づくりに携わりたいと思ったの、水道屋として」

「以前、森田さんには複雑な配管部分をきれいに納めていただいたことがあり、その整然とした仕事ぶりみなさんに知っていただきたいです」と木の家ネット会員である綾部孝司さん 撮影:森田さん

外部シャワー水栓の写真は、鮎沢邸のもの。「これは既製品のSUS配管仕様ですが、厳密にいうと各々の継手を組み合わた、手づくり加工なんです」森田さんの技が光る! 撮影:森田さん

⎯⎯⎯ 木の家ネットの会員になろうと思われた理由は何ですか?

森田「独立する時に、まず藤間さんに相談しに行って、『木の家とか温もりのある建築に関わりたいんで、そういう仕事があったらお願いします』って挨拶したんですよ。そうしたら『森田君いいところへ来たよ! 今、日高さん(きらくなたてものや日高保さん)っていう木の家ネットの建築士が、チームとして固定して組んでいける水道屋を探しているって話があってさ』と言うんですよ。
いやー、一生分の運を使っちゃったんじゃないかと思うよね(笑)。だって、そういうチームが一度できてしまうと、途中からなかなか入れないから。
それから、どんどん日高さんを取り巻く木の家ネットの方たちとつながって、これは自分も会員になっておこう! と決めました。会員の方から『へー、水道やってるんだ』みたいな感じで、仕事や人脈を紹介してもらって今につながっています。
自分を活かして自分がやりたいことができているって感じていて、本当にありがたいですよね」

森田さんが手がけた水まわり仕事。すべてきらくなたてものや日高保さんが設計した伝統的工法による木の家のもの。上記4点 撮影:畑拓さん


マニアックな仕事がこなせる
その強みはちょっと
自慢できることかなぁ

⎯⎯⎯ 自分を活かす! どんな部分を活かしていると思われますか?

森田「日高さんからは、環境への配慮から水道管をステンレスにして欲しいと毎回リクエストがある。よく使われる塩ビ管(ポリ塩化ビニルでできた配管素材のこと。鉄製の管よりも水流の抵抗が少なく腐食に強いとされている。 軽量性にも優れていて取り扱いやすい)みたいに専用の接着剤でくっつくものではないから、ステンレスの配管って切ったり繋いだりするのがちょっと大変なんですよ。
でも、どうしたらうまくいくかと考えたり、試したりする作業が、自分は結構好きで楽しめるタイプなの。
それに人に喜ばれたり、必要とされると、すごいやりがいというか生きがいを感じるんだよね。環境や住む人の健康に貢献できるのもうれしいし。そんな自分を活かせるから、マニアックな仕事が多い木の家は本当に好きですね」

⎯⎯⎯ ステンレスはそんなに特殊なんですね。それを扱えるってすごい強みですね!

森田「材料屋に聞いたり、仲間に聞いたけど、みんなステンレスのことはわからなくて、『こういう水栓継手(すいせんつぎて:蛇口と管など、2つのパーツを繋げるための素材)があるらしいよ』という情報くらい。でも、水栓継手ってメスネジの管にオスネジの蛇口をつけていく仕組みと同じだから、そういう感じかなって想像したりしてね。その接合のためには専用の機械を入れなきゃいけなくて、すごい重いから、どうやって床下に入れようかな〜って考えたりもします。
それと伝統的工法でつくる木の家は土壁だから厚みがあまりなかったり、中が小舞で竹が組んであったりするのを部分的に切ったりするから、経験がないと迷うよね。
完成して、実際にメーターから全体に水を流す時には、漏れたりしないかドキドキします。今だって、毎回ね。水のトラブルはわかりやすい形で起こるし、電気系統をダメにして大きな事故を起こしたりもしますから。そういう怖さも知っているけど、自分の力と知恵、心意気を試されるのは、なんとなく好きなの」

左:水道配管の仕事を象徴する道具・パイプレンチ。「これでネジ状になっている水道管の接続部分を挟んでグイグイと回して締めます」  右:床下の水道管。撮影:森田さん

小舞の竹を切って水道管を入れた、伝統的な木の家の仕事。撮影:森田さん


道具の整理のためにつくった棚は
じつは大工さんの視線を
少し意識してつくったもの

⎯⎯⎯ 楽しんでお仕事されているのは、職人仲間の方もおっしゃっていました。「森田さんが現場に現れると声ですぐにわかるし、現場が明るくなる」って。

森田「僕、声がでかいんだよねー(笑)。好きな人たちと話せるから、楽しいっていうのもあるよね。木の家ネットというか、日本の伝統工法で家をつくる現場って、なぜか音楽好きが集まっているんですよ。バンド時代にコピーしていた70年代ロックの話が通じるのがうれしくて。
でも、ただはしゃいでいるだけじゃないですよ。仕事や人柄はつねに見られているから、『コイツとは、また一緒に仕事がしたいな』と思ってもらえる自分でいようという意識は、少なからずあります」

⎯⎯⎯ 人の目を意識する… 仕事に集中すると忘れがちになりそうです。

森田「人も仕事も見られてナンボだとは思う。せっかく出会うからには印象を残したいじゃないですか。
特に木の家に関わる大工さんは本当によく見ている。職人さんをまとめる立場でもあるし、柱1本1本が美しく組み上がっているか神経を張り巡らしている人たちだからね。
道具の収納がきれいに整っているかとかもよく見ている。僕は車の中に棚をつくって道具も材料もすぐに取り出せるようにしているんですが、それを見て『いいねー』って声をかけてくれたり、道具箱にわざとピンクのバカでかい字で、何が入っているか書いているのを気づいてくれて『おもしろいな、森田さん!』って褒めてくれたりね。
で、またテンションが上がって、ますますこの仕事が好きになるんですよね(笑)」

左:森田さんがつくった棚と水道管の設置に必要な材料と道具。
右:左がステンレス製の管、右は塩ビ管。「今も塩ビ管の仕事も多いから、もちろん常備してますよ」

ステンレスの継手と管とを接合させる機械。「水道メーターから先、つまり宅内配管で、これを使ってる職人も少ないと思いますよ」


森田水工 森田敦彦さん(つくり手リスト)

取材・執筆:小林佑実

あなたの周りに「しんどいんです」「やらなあかん」と切羽詰まったような状況を、なぜか嬉しそうに笑顔で話せる人はいませんか?それはきっとその先にある未来を思い描けている人だから。そして周りの人を安心させ笑顔にする力を持っている人物である場合が多い。今回紹介する竹内さんはまさにそんな人だ。

写真提供:竹内さん

写真提供:竹内さん

竹内直毅さん(たけうちなおき・45歳)プロフィール
1978年(昭和53年)岡山県生まれ。株式会社竹内建築代表。島根大学生物資源科学部を卒業後、兵庫の工務店、木の家ネット会員でもある宮内建築(滋賀県)宮内寿和さんのもと大工修行を積み、2015年に独立。2022年4月には法人化。京都・滋賀を中心に、木造新築・リフォーム・古民家改修など、幅広く仕事を手掛けている。


山小屋での経験から大工の道へ

⎯⎯⎯ 島根大学 生物資源科学部のご卒業とのことですが、生物資源科学部とはどのようなことを学ぶところなんですか?

竹内さん(以下敬称略)「平たく言うと林業ですね。森に入って木の樹種の名前を調べたり、森林自体の管理について学んだり、森林組合などと関係を築きながら、森のことを全部をひっくるめて勉強しました」

⎯⎯⎯ そこからなぜ大工の道に?

竹内「森林について学ぶ中で、日本の森林がすごく荒れていて、国産材もどんどん使わないといけないという現状を知ったんです。そこから、どうやったら木に携われるような仕事に就けるかなと思うようになりました。
卒論のための取材で、兵庫の氷上郡(現 丹波市)の、とある家を訪れたんです。そこはジャーナリストの青木慧さんという方が作った【山猿塾】と呼ばれる場所でした。青木さんは自らすぐ近くの山から木を切り出してきて、家も全て自分で作ったという、すごいおっちゃんでした。
そのご縁で青木さんから近くの工務店を紹介してもらって、トントン拍子で弟子入りさせてもらいました」

⎯⎯⎯ ということは、大工の経験は全くない状態で受け入れてもらえたんですね。

竹内「そうなんです。父親は公務員ですし、親の後を継いでというような形ではないですね。とにかく木を扱う仕事がしたかったという想いと、自分の家は自分で建てたいという想いを持ち始めていたので、それだったら『もう大工しかない』と決心していました」

⎯⎯⎯ そもそも木や環境に興味を持たれたのはどうしてなんですか。

竹内「思い返してみたら、子供の頃に毎年1回くらいの頻度で3家族くらいで山小屋に泊まりに行ってたんですよね。そこでの経験が自分の中に残っていて、今に繋がっているんだろうなと思います。その山小屋というのが本当に山の奥の方にあってポツンと立ってるんです。一緒に行っていたメンバーの方々がセルフビルドで建てられたそうなんですが、大工でもない素人ばっかりで、しかも2階建ての山小屋を作るって、今考えたらよく建てられたなと驚きしかありません。
森の中で遊んで、木に登ったり、山小屋の中に入っても丸太にぶら下がってみたり、そこで触れるものは、もう本当に木ばっかりだったんですよ。近くの川には冷たくて綺麗な水が流れていて、そこでスイカを冷やして食べたり、焚き火を囲んでイノシシを食べたり。そういう子どもの頃の経験がやっぱり影響しているんだろうなとしみじみ思います」

⎯⎯⎯ いい経験ですね!話を脱線させてしまいすみません。そして修行時代を経て、木の家ネットの会員でもある宮内建築さん(宮内寿和 つくり手リスト)に入られたんですよね。どういった経緯だったのでしょうか。

竹内「ある日【住まいづくり読本】という本を本屋さんで見つけて、それを買って読んでいたら、滋賀県でも伝統構法で手刻みで家を建てているところがいくつもあって、その中で特に気になった宮内建築に突撃で電話をかけてみたんです。そうしたら『来てもいいよ』と言ってくれたんです」

⎯⎯⎯ 手元の資料によると、宮内建築で10年勤められたそうですが、その間どんな成長があったのでしょうか。

竹内「壮絶の一言ですね。厳しいけど、いろいろ任せっきりにしてくれるので、もう自分でやらないとならないので、どんどん仕事を覚えていけるような環境でした。だからものすごく経験になったし、成長できたと思います」

⎯⎯⎯ 一番成長できたと思うことは、どこだったんですか?エピソードがあれば教えてください。

竹内「自分の精神的なところですね。修行をはじめて3〜4年頃で『仕事せな仕事せな。やらなあかん』という思いに駆られたある日、ずっと乗らせてもらっていた親方の軽バンを自分のメンテナンス不足が原因でオーバーヒートさせてしまったんです。故障させてしまったのにも関わらず、僕は仕事のことで頭がいっぱいで、次の日、自分の車で仕事に行ってしまったんです。親方から『自分のことしか考えてへん。周りに気を遣えてない。いっぺんやめとけ。何で怒られてるんかよう考えてこい』と無茶苦茶叱られました」

竹内「それからしばらく自分と向き合う時間になりました。仕事に対する姿勢・人間関係・気遣い心遣い・自分の精神的なことなど、いろいろなことを考えさせられました。結局、自分のことしか考えてなかったんですよね。もちろんそれ以外にもいろんなことを学んで、経験させてもらって、あちこちの建築を見に連れて行ってもらったり、はっきり言って感謝しかないです。今の僕があるのは宮内建築にいたからだと断言できます。あの時、突き放してもらったことが、独立するときの原動力になったと思っています」

⎯⎯⎯ なるほど。そして2015年に独立。今年で8年ですが、特に思い出に残った仕事や、ターニングポイントがあれば聞かせてください。

竹内「今から5年くらい前にやった自宅の改修ですね。計画も解体も、もちろん業者さんの手配や打ち合わせも、全部自分一人でやらないとならなかったですし、その間、当然収入は入ってこないので、早くしないといけないというプレッシャーもあり、無茶苦茶しんどかったです」

ご自身で漆喰を塗ったという玄関の壁には、家族みんなの手形が当時の想いを今に伝えている

ご自身で漆喰を塗ったという玄関の壁には、家族みんなの手形が当時の想いを今に伝えている

⎯⎯⎯ しんどいながらも『自分の家を自分で建てたい』という夢は叶ったわけですね。お仕事はどんな案件が多いですか?

竹内「戸建ての木造住宅がメインです。最近はたまたま新築が多いですが、改修やリフォームと半々くらいです。エリアとしては滋賀県内はもちろんですが、京都の方から頼まれることも多いです。一軒やっていると、お施主さんからの紹介だったり、現場近くの方から声をかけていただいたりして、特定の地域に現場が集中する傾向にあります。ありがたいことですね」

⎯⎯⎯ お施主さんとのやりとりで心に残っていることはありますか?

竹内「もうやっぱり笑顔で喜んでくれて、『またお願いするわ』って言ってくれた時の笑顔が忘れられないです。あと『大工さん』じゃなくて『竹内さん』と名前で呼んでもらえた時も本当に嬉しいですね。
独立前に、“おうちを建ててくれてありがとう”と書かれた絵付きの手紙を、お施主さんのお子さんからもらったのですが、それが宝物でずっと残してあってたまに見返して励みになっています」

大切にとってあるお施主さんのお子さんからの手紙(写真提供:竹内さん)

大切にとってあるお施主さんのお子さんからの手紙(写真提供:竹内さん)

ここで、竹内さんの最近の取り組みを3つご紹介する。1つ目は現在滋賀県内で取り組まれている宿泊施設のお仕事。2つ目は昨年完成した京都市内の戸建て住宅。3つ目は大津っ子まつりでの「子供建前」の活動。いずれも竹内さんのお人柄や仕事に対するスタンスを垣間見ることができた。


旧街道沿いで一際目を惹く粋世 当時の職人の息づかいが感じられる

旧街道沿いで一際目を惹く粋世
当時の職人の息づかいが感じられる

事例紹介① 大津町家の宿 粋世(いなせ)

昭和8年に建てられた米殻商の町家を改修した宿。2017年には登録有形文化財に指定され、大津の伝統と文化を今に伝える貴重な場所だ。今回、竹内さんが担当されているのは、裏手に拡張される宿泊棟で、他の大工さんと協働で受け持っている。

決められた仕様の中でも可能な限りの職人技と知恵を振り絞る

決められた仕様の中でも可能な限りの職人技と知恵を振り絞る

竹内「大工によって仕上がりに大きな差があってはいけないので、お互いの仕事ぶりを見ながらコミュニケーションを密に取ることは欠かせません。またプレーナー(自動カンナ盤)仕上げの指定だったのですが、カンナに比べるとやっぱり仕上がりが綺麗ではないので、手でカンナがけしています。自分なりのできる限りのこだわりです」

現場の窓からは母屋がよく見える

現場の窓からは母屋がよく見える


事例紹介② 京都市内某所

2022年7月竣工。古くから住んでいたお宅の建て替えで、設計は同じく木の家ネット会員の川端眞さん(つくり手リスト)。お施主さんと川端さんとは10年以上の付き合いでプライベートでも仲がいいとのこと。今回、川端さんから竹内さんに依頼があり木の家ネットの会員同士での協働が生まれた。お施主さんご夫婦にもお話しを伺った。

⎯⎯⎯ 竹内さんとお施主さんとの何気ないやりとりを見ていると、気心の知れたリラックスした雰囲気を感じます。どんな現場でしたか?

施主 奥さん「竹内さんは町内でも人気者で『工事が終わったら会えへんようになるのが寂しいわぁ』と声をかけられるほどでした」

施主 旦那さん「川端さんから『コミュニケーションが取りやすい人と一緒にやりたいなぁ』とのことで竹内さんを紹介してもらいました。気さくで話しやすくスムーズに進めてもらえました。おかげさまで、とても快適です!」

竹内「ありがとうございます。現場でも、ご近所でも仲良くやれるのが一番です。人間関係がギスギスしていたらみんなやりにくいですし、いいものもできないです。何かあったらすぐにいってくださいね!まだ建って日が浅いので、特に最初のうちは木が反ったり乾燥したりすることなどによって、パキパキ音がしたり、動いたり、隙間ができたりしますので」

⎯⎯⎯ 頼もしいですね。気軽に相談できる関係で素敵です。

竹内「何もかも上手くいくことばかりではないですし、失敗することもあります。けど、そんなこともひっくるめて最後にはみんなが笑顔でいられるのがいい現場・いい仕事なんじゃないかと思います」

竹内さんの考えで階段の手摺りには錆丸太(さびまるた)を使用。 まんまるではない、微妙な凸凹のニュアンスのおかげで手によく馴染む。

竹内さんの考えで階段の手摺りには錆丸太(さびまるた)を使用。
まんまるではない、微妙な凸凹のニュアンスのおかげで手によく馴染む。

床と階段の板のラインがピッタリ合っている。 図面にはないような、繊細な部分の丁寧な仕上げが、全体の完成度を底上げしている。

床と階段の板のラインがピッタリ合っている。
図面にはないような、繊細な部分の丁寧な仕上げが、全体の完成度を底上げしている。


事例紹介③ 大津っ子まつり 「子供建前」

多くの子供たちが集まり、とても盛況だったそうで、来年もまた取り組むそうだ。

多くの子供たちが集まり、とても盛況だったそうで、来年もまた取り組むそうだ。

つい先日の5月21日、大津市の皇子山公園で開催された「大津っ子まつり」で建築組合青年部の活動で「子供建前」実施した。子供たちに大工の仕事を実体験してもらい、少しでも家づくりの楽しさを経験してもらおうという試みだ。


もうひと踏ん張りが
仕上がりを左右する

⎯⎯⎯ 家づくりで大切にしていることやモットーを教えてください。

竹内「モットーとして考えていいのかわからないですけど、“もうちょっと頑張ってみよう”です。『これでいいかな。しんどいしやめようかな』と思うようなところを、もうひと踏ん張り頑張ってみるようにしています。お施主さんが気にもしてないような、些細で目に見えない部分かもしれないけど、やっぱり後々の仕上がりの良さに繋がっていくと信じています。お施主さんのためでもあるし、自分自身の達成感にもなりますから。手を抜いてしまうと、後で絶対気になるし、自分に負けてしまうような気がします。職人と呼ばれる人はみんなそうなんじゃないですね」

⎯⎯⎯ 株式会社にされていてホームページもしっかり作られていますね。ビジョンや方針を明確にお持ちなのかなと感じたのですが、これから先の展望について聞かせていただけますか?

竹内「職人不足のご時世なので、一人でも大工を育てることができたらいいなと考えています。株式会社にしたのは、福利厚生面の充実を図り安心して働いてもらえる環境にしていきたいからです。ホームページを作ったのも同様の理由で、求人募集の間口を広げつつ、お客さんにも家づくりについてしっかり知ってもらいたいと考えたからです。
5年後10年後には、どの職種も人手不足に陥ることは目に見えていて、大工の中でも木で手刻みでということになると特に少なくなります。個人でどうにかできる問題ではないとは思いますが、何とか一人でも大工職人を育てたいと考えています」

⎯⎯⎯ 最後に、竹内さんにとって家づくりとは何でしょうか?

竹内「笑顔になること、笑顔にすることですかね。まずは自分がイメージしたものを、自分の手でつくれるということが楽しくて家づくりをやっています。それが単なる自己満足に終わることなく、お施主さんをはじめ、職人の仲間や関わってくださる業者の方、みんなの笑顔が見えた時『よかったなぁ』と心から思えます」


竹内建築 竹内直毅さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

質問への答えはどれも飾り気がなく、まっすぐ。
そんな田中龍一さんは、かつて高校球児だったと伺って、大いに納得しました。尊敬する棟梁のことや大工仕事に対する思いを語る目はキラキラと輝いていて、きっと白いボールを追いかけていた頃と同じように、理想とする大工の姿、技術、お客様に喜んでいただくためにできることを探求しているのだと感じました。田中さんの“職人道”そして何よりも誠実な“職人魂”に触れてみてください。

鉋削り日本一の棟梁のもとで磨いた田中さんの技術。薄くて綺麗な鉋くずがふわりと舞うと、なんともいい香りが広がる。

鉋削り日本一の棟梁のもとで磨いた田中さんの技術。薄くて綺麗な鉋くずがふわりと舞うと、なんともいい香りが広がる。

田中龍一さん(たなかりゅういち・43歳)プロフィール
1980年2月13日、長崎県諫早市出身。高校卒業後、地元の(有)山口工務店に入社し大工修行に入る。4年の修行と1年の奉公の後、大阪府の(株)鳥羽瀬社寺建築に入社。寺社などの文化財の修理に携わり、伝統技法や建築の歴史を学ぶ。和風建築、数寄屋建築による新築住宅の技術を学ぶべく神奈川県茅ヶ崎市の甘粕工務店に入社し、繊細な大工仕事の教えを受け、2013年に独立。相模国一宮である寒川神社のお膝元で田中大工店を開業。


講師として参加したワークショップで、子どもたちと一緒につくった木の家の建具。「自分が幼い頃に触れた職人さんの手仕事の見事さを、少しでも子どもたちに伝えられたらと思い、心をこめて作業をしました」

講師として参加したワークショップで、子どもたちと一緒につくった木の家の建具。「自分が幼い頃に触れた職人さんの手仕事の見事さを、少しでも子どもたちに伝えられたらと思い、心をこめて作業をしました」

いつも毅然とした姿の
大工の棟梁が
とてもかっこいいと思った

⎯⎯⎯ 大工さんになろうとお決めになったのはいつ頃ですか?

田中さん(以下敬称略)「学生時代、小学校4年生から高校3年生まで野球部で、プロに憧れて上手くなりたくて夢中で練習していました。けれどもその夢は叶いませんでした。父が左官や塗装の職人をしていて、子どもの頃から現場にはよくついて行きました。職人さんたちが生き生きと働いていて、自分のことをみんなで可愛がってくれて、職人の世界に馴染みがあったということが、この仕事に就くきっかけになったのかもしれませんね。プロ野球選手になるという目標がなくなり、高校卒業間近になって、就職のことを考えなくてはならなくなりました。その時にふと、子どもの頃に遊んでくれた大工さんたちのことを思い出したのです。彼らのように生き生きと物づくりをする仕事がしたいなと思い、どうせ家づくりに携わるなら、花形の大工になろうと決めました。父に相談をして、父の取引先の山口工務店へと弟子入りしました」

⎯⎯⎯ 大工修行がスタートして、いかがでしたか?

田中「今では工場で事前にカットされた材木を使うプレカットが主流ですが、その頃は、伝統工法、在来工法などにかかわらず、家づくりはすべて大工さんが材木に墨付けをして手刻みで加工しているという時代でした。
弟子に入ったばかりの頃は当然右も左もわかりませんでしたが、それでも加工場から現場に運ばれたその材木一つ一つが間違いなくピタッと組み合わさって家が建っていく光景は衝撃的で、大工の世界に引き込まれていきました。
僕は興味がわくと、『知りたい、自分もできるようになりたい』と好奇心のままに動いて、夢中になるところがあって。技術を磨くことばかりを考えて、“今“にたどり着いた気がします。
自分だったら、木材が組み合わなかったら何かが間違っていたらと心配で仕方がないだろうなと感じるような時も、現場を仕切る棟梁は毅然としていて、とてもかっこよくて、憧れました。
やはり棟梁も人間ですから、内心はドキドキしていたのではないかと、今ならわかります。大工はお酒を飲む人が多いのですが、きっと隠していたドキドキの緊張を解きほぐしたいという気持ちもあるんでしょうね(笑)」

⎯⎯⎯ ということは、田中さんもお酒がお好きなんですね?

田中「ははは。その通りです」


機械のない時代、
重い建材を持ち上げて
社寺をつくった大工たちは
命懸けだったはず

⎯⎯⎯ 長崎から大阪の工務店に移られたのは、どういう理由からですか?

田中「4年間の修行期間が終わって奉公という形で仕事をしていた1年間で別の大工の世界も見て、経験して勉強したいと思いました。きっかけは神社やお寺で、その建物の軒の深さに気づいて、日本の建築のことをもっと知りたいと感じたことです。
自分がつくっている一般的な家の軒がせいぜい80センチくらいなのに比べて、神社やお寺の軒は2〜3メートルもあったりするのです。それらを、『どうしてこんなにうまく支えられているのだろう? そもそも使っている木の柱もすごく大きいのに、これをどうやって組んだのだろう?』と、知りたいと強く思うようになりました。
知人の大工さんに相談したら、関西地区の重要文化財に指定されている社寺などの修復をしている鳥羽瀬社寺建築を紹介してくれて、お願いして入社しました。ご縁をつないでいただいたことはとてもありがたいと思っています」

⎯⎯⎯ 重要文化財! そういった貴重な建物に触れる機会を得たのですね

田中「重要文化財であろうと新築の家であろうと、一生懸命やることには変わりませんし、それぞれにやりがいや学びはあります。ただ、300年や400年前の社寺は大きな材木も機械などを使わずに持ち上げて組み上げているわけで。修理の作業をしていると、昔の大工たちがまさに命懸けでつくっていたことが伝わってきて、とても感動しました。
当時の職人さんの道具の跡や考え方、建物に対する思いなどが、実際にその建築物に触れていると感じることができます。その正確で誠実な仕事ぶりは、本当にすごいの一言しかありませんでしたね。

そしてその職場には全国から腕利きの大工、とてもやる気のある見習いの方も集まっていたので、自分もこういった人たちに負けないようにと毎日励んでいたことを、今もふと思い出します。もともと負けず嫌いな面がありましたからね。やっぱり若かったなぁと、若いから頑張れたんだなぁと思います」


田中さん愛用の道具と自作の道具箱。道具箱は機能性にも優れていて、鉋を縁に引っ掛けて立て、すぐに手に取れるようになっている。長い間大切に使われている様子が伝わってくる味のある色合い。

田中さん愛用の道具と自作の道具箱。道具箱は機能性にも優れていて、鉋を縁に引っ掛けて立て、すぐに手に取れるようになっている。長い間大切に使われている様子が伝わってくる味のある色合い。

一流の大工は、まず、
道具の手入れからちがっていた

⎯⎯⎯ そこから、今もお住まいのこの神奈川県にいらっしゃるのですよね。どのようなきっかけからですか?

田中「テレビで鉋削りの日本一を決める大会「削ろう会」を特集したドキュメンタリーが放送されていて、たまたまそれを見たんです。優勝者の甘粕工務店の甘粕棟梁が紹介されていて、その技術の見事さに釘付けになりました。
本当に鉋の削りくずは薄くて綺麗だし、鉋の刃の研ぎ方が吸い込まれるような感じで、ピタッと研いであって。だからこそ、あの繊細な削りができるんですよね。
自分ももっと技術を磨きたい、せっかく覚えた伝統的な建築に関する知識を新築の家づくりで生かせるような、そういう仕事ができないかと思っていた時でした。
甘粕棟梁のもとで働きたいと、すぐに連絡先を調べて電話をしたんです。入社を認めていただき、神奈川県に引っ越しました」

⎯⎯⎯ 日本一になるような棟梁はやはり厳しい方でしたか?

田中「厳しいのはもちろんでしたが、物知りで繊細な方でしたね。甘粕工務店では和風建築とくに数寄屋建築のつくり方や、現代の住宅建築も勉強させていただきました。
ただ家をつくるだけでなく、他の職人さん、建具屋さんや畳屋さんも働きやすいように、きちっとした下地をつくるのが大工の仕事だということ、そして“収まり”をつねに考えるということを厳しく指導されました。
もう一つ、ここで大きな出会いがありました。木の家ネットに所属されている建築士の日影良孝さんです。
甘粕工務店がよく仕事を請け負っていたので、僕も日影さん設計の家づくりに加わっていたのですが、伝統的な木や土の家に現代の感覚も取り入れられていて、他にないような美しさと癒される感覚があるのですが、そのぶん技術力が必要なんですね。ですから、大工としてはやりがいがあって、関われることは大変ありがたいことです」



田中さんが初めて棟梁を務めた「北鎌倉の家」。設計は木の家ネット会員である日影良孝さん。八王子にあった家を北鎌倉に移築し、2つの座敷を原型復元させ、新しい座敷を中心に新築部分を増築した。

田中さんが初めて棟梁を務めた「北鎌倉の家」。設計は木の家ネット会員である日影良孝さん。八王子にあった家を北鎌倉に移築し、2つの座敷を原型復元させ、新しい座敷を中心に新築部分を増築した。

若い世代に教えることで、
自分自身がたくさんの物を
与えられている

⎯⎯⎯ 建築士の日影さんとは、たびたび一緒にお仕事をされたのですか?

田中「大工10年目になっていよいよ新築一棟を棟梁として任されることになったのですが、それがまさに日影さんの設計のものでした。限られた土地であっても、狭いと感じることのないように工夫されたデザインで、そのぶん技術も求められました。
先ほど、弟子時代に憧れていた棟梁も、毅然として見えて木を組む時にはピタッとはまるか心配だったんじゃないかと話しましたが、僕自身がまさにそうで、心配で不安で夜も眠れませんでしたね(笑)。
職人さんたちの力を借りて、おかげさまで無事につくりあげることができて、この経験が自信になって、その後に独立を決心することができました。
じつは独立して最初にいただいた新築の仕事も日影さんの設計でしたし、大工仕事の他にもとてもいい経験をさせていただいています」

⎯⎯⎯ どのような経験ですか?

田中「鎌倉みんなのけんちく学校で開催している「職人のわざを楽しむ けんちく体験ワークショップ」の大工仕事の講師です。木和堂さんといって、木材コーディネーターさんを中心に、「日本の森と暮らしをつなぐ」というテーマで活動している団体が、子どもたちに森林や木の家づくりについて学ぶ機会を設けようと始めた取り組みです。
対象は小学校3年生以上の子どもたちなのですが、木を切り、小さな木の家をつくるまでを体験してもらいます。日影さんは設計のことを教えていらして、僕にも声をかけてくださったんです。
小さくても本物の家ですから、それが自分の手でつくれるということには、感動があるからでしょう。子どもたちが大工仕事に夢中になってくれて、その姿を見るのはうれしいですし、自分は魅力のある仕事に就いているんだなと力をもらえますよね」

「鎌倉みんなのけんちく学校」で子どもたちに大工の仕事を教える田中さん。一般社団法人 木和堂 の主催で、2020年からスタートした子どもたちに、木に親しむことと建築を学んでもらう取り組み。


左:オーストラリア人お施主さんから修復を依頼された100年以上前につくられた茶室。 右:古い建材をとことん生かし、ガレージとして復活。

左:オーストラリア人お施主さんから修復を依頼された100年以上前につくられた茶室。 右:古い建材をとことん生かし、ガレージとして復活。

左:ご近所の家の洗面台のリフォーム。 右:一枚板を使用し、モダンで優しい印象に。

左:ご近所の家の洗面台のリフォーム。 右:一枚板を使用し、モダンで優しい印象に。

左:墨付けを実演してくださった田中さん。 右:田中さんと奥様の美香さんの手。「結婚の決め手は、まさに主人の“手”でした。ちゃんと仕事をしている人の手だなと思ったんです」と美香さん。

左:墨付けを実演してくださった田中さん。 右:田中さんと奥様の美香さんの手。「結婚の決め手は、まさに主人の“手”でした。ちゃんと仕事をしている人の手だなと思ったんです」と美香さん。

地元の人の信頼を得てこそ
大工の本領が発揮できる

⎯⎯⎯ 今まで色々なお仕事をされてきていると思いますが、とくに「これが転機になった」というお仕事はありますか?

田中「田中大工店はそもそも地縁のない神奈川県で始めましたから、“地元のお客様”はゼロの状態からのスタートです。見ず知らずの人間に大切な建物の仕事を依頼するのは、やはり気がひけますよね。それに僕も口下手なものですから、地元の最初のお客様はなかなか現れませんでした。
そんな中で、初めて依頼をいただいたのが、牛舎だった建物を学習塾に立て替えるというお仕事でした。『希望をよく聞いてくれて、それを形にしてくれた』と喜んでくださって。他のお客様をご紹介くださったりして、ここから広がっていったという感じで。こちらこそ本当にありがたかったです」

⎯⎯⎯ 牛舎! なかなか珍しい依頼でしたね!

田中「珍しいといえば、大磯にお住まいのオーストラリア人の方から古民家再生のお話をいただいたこともあります。古いものを見慣れた僕でも『壊したほうが早いかもしれないなぁ』と思うような家でした。100年以上前につくられ、茶室として使用されていたようですが、それをガレージにしたいとのことで。
古いものはそれだけで貴重だという信念を持っている方で、とにかく使えるものはすべて無駄なく使いたいというご希望でした。その方とはたくさん話し合い、僕が集中して取り組めるタイミングを待ってくれたこともあって、3年間かけての作業となりましたが、この間に、物を大切にすることの尊さのようなものを教えていただきましたね。
実際に一つひとつ材木から釘を抜いて、どこにどう使われていたかを記憶して運び出し、悪くなった部分を丁寧に削ったら、使える木は結構ありましたし。お施主さんが使わなくなった材木をご近所から集めてきてくださったので、それらも使いながら新しい材木も少し足していますが、その中で古木が“味”になって、結果的になかなかいい感じになりました」

中には100年以上前のものも含まれる古い材木を作業場に運び込んで、一本一本に鉋をかけ腐った部分を取り除き、再生させた。「大工は、すべての建材がどこにどう使われていたかを記憶して、書き込んである番号だけを頼りに組み直します」

中には100年以上前のものも含まれる古い材木を作業場に運び込んで、一本一本に鉋をかけ腐った部分を取り除き、再生させた。「大工は、すべての建材がどこにどう使われていたかを記憶して、書き込んである番号だけを頼りに組み直します」

⎯⎯⎯ つまり100年以上前の材木が十分に使えたということですよね?

田中「そうです。ビスじゃなくて釘を使えば木を傷めませんから、材木の再利用がしやすいんです。ビスだと、打つ時は楽ですが抜こうとすると上手くいかず、途中で割れて木の中に残って傷めますから、再利用は難しくなってしまいます。
本来木の寿命は長いですから、建て替えなら元の家の柱や梁や桁も使って、悪い部分だけを修理しながらずっと使える家をつくっていきたいと、改めて思いました。
それに、これからの世の中で、ゴミをたくさん出すような仕事では時代にあっていない。この感覚も大切にしたいですね」

⎯⎯⎯ 部分的に修繕したくても、どの業者に頼んでいいのか迷います

田中「田中大工店としてはホームドクターじゃないですけど、家のここが変だとか、ちょっと壊れたところがあって、そこだけ最小限の時間とお金と手間で直せないかと、そういう相談を気軽にしてもらえる存在になることを目指しています。
玄関の修理とか、洗面所のつくりかえとか、そういうところから信頼を得て、いつか『家を建てるなら田中大工店がいい!』と言ってもらえたら最高ですね。
墨付けをして手刻みからつくった家には、大工が木の種類を選んで、木目や板の目など木の表情が生かされていますから、個性があってそのぶん愛情がわくと思います。大工は嫁に出すような気持ちでお施主さんにお渡ししているので、末長く可愛がって欲しいですね」




田中大工店として独立し、初めて建てた新築一戸建て。設計は日影良孝さん。個性的な間取りに技術力で対応し、木目の味わいを十分に生かした丁寧な仕事は田中さんの持ち味。

伝統を守り伝えないことは先人への失礼にあたる

⎯⎯⎯ この先、お弟子さんを育てるといったこともお考えですか?

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