一般社団法人
職人がつくる木の家ネット 事務局
〒711-0906
岡山県倉敷市児島下の町5-7-3 児島舎内
E-mail jimukyoku@kino-ie.net
TEL 086-486-5464

埼玉県飯能市は、江戸城下町に材をおさめたことで有名な「西川材」の産地。昭和4年から続く大河原木材は、木造住宅や神社仏閣の材を提供するなど歴史を守ってきた。加えて社長の大河原章吉さんは、別組織としてプレカットや家具を扱う工場やペレット製造経営にも手腕を発揮し、「西川材」のブランド化をけん引してきた存在だ。50代で大学院生となり、木材を「生物資材」ととらえて研究してきた経緯から、「木の良さを生かし、あまねく使い切るための実験を、70過ぎた今も続けている感じだね」と笑う。

西川材は、飯能市を中心とした「西川地域」が褐色森林土の温暖でスギ、ヒノキの生育に適していることから「東の吉野材」とも言われ、良質の材木として名が通ってきた。製材所は平成元年には110工場あり、地場産業の一翼を担っていた。どこも家族経営で、大河原木材もその一つだった。西川材を、住宅用の注文材を中心に加工し、地元や東京の大工に提供してきた。天然乾燥する昔ながらの手法だ。

次男として生まれた章吉さんは、英語や海外など新しい世界に興味がある少年だった。大学で経済学を学びながら、カナダに留学もした。長男が早くに亡くなっていたため、卒業後は千葉の材木問屋で1年修業した後、家業に入った。時代はバブル真っ只中で、仕事の幅も広がり、県内外の仏閣用構造材も製材するようになった。

西川材がずらりと並ぶ大河原木材の作業場

ところがバブルがはじけ、輸入材が増加し、昭和の終わりには国産材の需要が一気に厳しくなったという。他産地が大規模化を進める中、西川材は産地規模から大量生産が難しい。「何か手を打たなければ」と、地域の4社と森林組合が数年議論を重ね、一体となって協同組合「フォレスト西川」を立ち上げたのは平成6年のことだった。

大河原木材の倉庫は、トラス式の木造建物。木の香りが漂う

名産地での挑戦

大河原木材は家族経営の製材所として天然乾燥の注文材をつくりつつ、組合では機械乾燥を取り入れ、合理化を進めるという「二刀流」に挑戦。組合には営業担当も配置し、消費者ニーズを意識した製品開発という従来の製材業とは全く異なる方針を掲げ、大河原さんは組合長として采配を振るってきた。その間、家業は親戚に任せたという。

西川材の危機を感じつつも、「ここは首都圏のマーケットに近いという強みがある。需要の変化に合わせられれば生き残っていける」と大河原さんは前向きにとらえ、需要を調査しながら様々な商品を展開してきた。補助事業でプレカット機械を導入した構造材を皮切りに階段材料、壁床板、木製の建具などだ。

プレカット材はそれまで付き合いがなかった工務店に供給できるようになり「ここ数年でようやく経営の安定が見えてきた」と大河原さん。手ごたえを感じ平成28年には株式会社化した。

近年の主力製品は、子供向けのいすや机だ。小さくてかわいらしく無垢のぬくもりがあり、首都圏の幼稚園などに出荷している。子どもを自然に触れさせたいという「木育」ニーズは高まり、「今注目されている持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)の考え方の『地域の森を守ろう』や『持続可能』という意識も、受け入れられやすい」と消費者動向の変化を実感している。

大河原さんにとって、フォレスト西川の目指すところが「求められる製品を木で作り喜んでもらう」である一方、家業の製材業は「木が持っている違いを見極めて生かす」と対照性を感じている。「プレカットをやったからこそ、手刻みが一番木を生かせるし、面白いって思えるんだ。感覚的で、奥が深い」と笑顔を見せる。

「木をもっと学びたい」50代で大学院進学

組合でさまざまな木造製品を企画、開発する中で、常に課題として立ちはだかったのは、木材の持つ個体差だ。1本1本ばらつきがあり、その1本の中でさえも、中心材と辺材、節回りなど部分によって、湿度、曲がり、強度など個体差がある。まったく同じ材を切り出し組み立てることができない。大河原さんは、木の素材としての特性をしっかり学びたいという気持ちから、50代での受験勉強を経て大学院に進学。研究生活は8年に及び、出した結論は「木は生物資材であり、工業製品と同じく扱ってはいけない。あまねく活用することでまだまだ需要喚起できる」ということだ。

「生物資材」とはどういうことか。大学院では木の個性や部分による性質の違いを科学的に分析し、その違いによってどんなものに使うといいのかを突き詰めていった。同じスギでも、産地によって違いが出ることも数字で証明した。その答えは、伝統工法の大工が当たり前にやってきた木1本1本の特性を見極め、適材適所で配置するということを裏打ちするものだったという。

木をいかす技術として、大河原さんは大工技術を高く評価している

大河原さんは近年、消費者から家を建てる時に「空間を広く取りたいので柱を細く」「建具を薄く軽くしてほしい」などデザインや使い勝手を優先する声を聞いてきた。対して大工は「反りが出るから」など不具合を見通しいい顔をしない。大工の感覚には“木を生物資材として生かす”視点があり、それは工業製品に慣れた現代の消費者とは離れているということを大河原さんは再認識。大工への尊敬が増したとともに、「消費者のニーズはもちろん聞くが、木を扱う以上、生物資材という感覚を持っていこう」という自分のビジネスの軸が出来上がったという。

その思いを体現したのが、大河原木材の敷地内にある木造の研修棟。伝統工法を採用した2階建ての建物だ。「木は呼吸している、木は経年変化すると口で言ってもなかなか実感してもらえない。その空間に入って、深呼吸してもらうのが一番」と話す。社員といっても現代の一消費者であり工業製品の感覚を持っているため、この研修棟で木の生物資材としての特性を理解し、感覚として身に着けることが目的だ。森づくりや地域づくりなど大河原さんが関わる団体も利用するが「気持ちよい空間だから、話が弾むって好評だよ」と誇らしげだ。

疲れたら檜の風呂で一休み

木をあまねく使い切る

加えて、木材の廃棄にも注目した。木1本を重量換算すると建築材料として使うのはたったの25%。7割以上は活用されていないということにショックを受けた。

「例えれば、高級マグロの一番おいしい刺身が木材でいう建築材。マグロは刺身以外にも炊いたりあら汁にしたりして綺麗に食べきるし、それでお金もとれる。材木も大切に使い切れないだろうか」と考えた。大量生産が難しい西川材にとって、関連産業で収益を確保できるのは理想的だ。さかのぼれば樹皮や枝葉は燃料や屋根材にしてすべて使い切っていたことも、「何とかしたい、できるはず」という気持ちに火をつけた。

 研究は樹皮の活用へと進み、近年のバーベキューやキャンプの盛り上がりからアウトドア燃料として使うアイデアを得た。すでに地元で樹皮のペレット化をしていた企業「もくねん」と話が盛り上がり、2年前に経営に大河原さんが入って燃料として炭の商品開発を進めてきた。「二刀流」から、「三刀流」へのさらなる挑戦だ。

 樹皮のペレットを炭にしたオリジナル燃料は、バーベキューはもちろん、ダイニングテーブルの上で陶板を温めてチーズやソーセージを焼いたりと多彩に楽しめる。炭は遠赤外線を発生するので「焼き鳥も野菜もぐっとおいしくなる」と自信を見せる。木をあまねく使い切る取り組みの一歩として、この12月から本格販売を予定している。

大河原さん作成、木をあまねく使い切るイメージ

炭とセット販売する予定の特注コンロ

「わからないことをクリアーにしていくのが好き」という大河原さんは、商品開発に行き詰った時、経営に悩んだ時、どんどん「わかる人に聞く」という。「50年同じ業界にいるから、幸いなことにこういうときはこの人に聞くってのが見えている。一人じゃなにもできないこともよくわかっている」と話す。アイデアが人とのつながりで変化していったり、実際に形になったりと新しい世界が見えることに、喜びを感じている。

オリジナル燃料の製造は、県内の授産施設に委託することになった。効率化、機械化で大量生産するのではなく、ニーズに合わせた生産を適正な形で実現したいというイメージが、人の紹介によって実現した。「障害を持つ本人や親御さんの励みになっているようで、こちらとしてもとてもありがたい。自分も、知らなかった世界に触れて勉強になっている」と実感している。

世界を広げたその先に

次の新しい世界はなんと、大河原木材の移転と敷地拡大だ。在庫が多くなったことに加え、フォレスト西川の作業場と敷地が離れているため不便だったことから隣接している敷地を購入した。来年には稼働をスタートする予定になっている。

移転により、材木を運搬する手間の省略に期待が高まる

これまで、西川地域の山林から、製材業の過去と現在、木造建築、首都圏の消費者のニーズまで、世界をどんどん広げきた大河原さん。

未来についての展望を尋ねると「日本は少子高齢化で、家を建てるペースもこれから変化していくだろう。大量生産の必要性がなくなるから、手間暇かけていいものをつくる昔ながらの大工が求められるんじゃないかと思っている。全部手刻みじゃなくても、単純なところはプレカットに任せてもらえたらコストも抑えられる。海外からのニーズも出てくるんじゃないかな」と答えた。

近年のウッドショックによる影響を「日本の林業を見直すチャンスでもある。西川材の場合は1本の木を総合的に使い、関連産業の収益を山に還元できれば、まだまだ面白い展開があると思う」と話す。

西川材が保管されている奥に、美しい緑の木々が覗いている

手を伸ばして広げた世界がつながり、還っていく先は、緑豊かな山。そこでは、丁寧に育てられた木々が次世代での活躍を待っている。

大河原木材 大河原章吉さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、一部写真提供:大河原木材

2021年10月30日(土)にオンラインで開催された職人がつくる木の家ネットの総会の様子をレポートします。

本来であれば、年に一度、全国各地より会員の皆さんにお集まりいただき、大ホールでの報告会・フォーラム・懇親会・オプショナルツアーでの貴重な建造物の視察など、2日間に渡って開催しています。今年も昨年に引き続き、新型コロナウイルス感染症の拡散防止の観点から、Zoomを使っての「オンライン総会」となりました。昨年よりオンラインミーティングが一般的になったこともあり、大きなトラブルもなく多くの会員の皆さんが事務所や現場、自宅などから参加しました。

時間軸に沿って写真を交えながらご紹介していきます。


目次

●開会宣言・代表挨拶
持留ヨハナさんを偲んで
●新入会員自己紹介
●事業報告
 ①HPコンテンツ
 ②木構造部会
 ③マーケティング部会
 ④オンライン勉強会
●大工経営塾/見積部会 事業報告
●新ホームページの概要
●熊本 気候風土適応住宅 活動報告
●分科会
 分科会①「気候風土適応住宅/環境部会」
 分科会②「マーケティング部会」
 分科会③「伝統建築の未来 後藤先生のお話をうけて」
●分科会まとめ・閉会挨拶・来期総会案内


まずは大江忍代表理事からの挨拶。

昨年に引き続き、コロナ禍においてオンラインでの開催になってしまったことを非常に残念に思っています。オンラインなりの可能な範囲での様々な活動を行なった年でした。来年こそは本来の開催地である淡路島でみなさんとお会いしたいですと、挨拶がありました。
また今年8月にお亡くなりになった前事務局の持留ヨハナさんへのお悔やみの言葉がありました。


持留ヨハナさんを偲んで

今年8月にお亡くなりになった前事務局の持留ヨハナさんを偲び、木の家ネットの立ち上げから一般社団法人になる直前まで、ヨハナさんと二人三脚で本会を支えてきていただいた夫の持留和也さんからお話がありました。


新入会員自己紹介

今年は新たに8名の方が入会されました。それぞれに自己紹介をしていただきました。

橋本 洋一さん(プロフィールページ)
大分県で設計施工をやっています。手刻みで建てています。今度、気候風土適応住宅を建てていく中で、木の家ネットのみなさんと活動していきたいなと思い参加させてもらいました。よろしくお願いします。

柚山 一利さん(プロフィールページ)
愛媛県新浜市で木造建築の構造の設計をしています。住宅やお寺などの耐震診断もやっています。どうぞよろしくお願いします。

齊藤 基彦さん(プロフィールページ)
東京都で工務店をやっています。伝統建築などの経験はありませんが、その素晴らしさをもっと勉強したいと思い参加させていただきました。よろしくお願いします。

村上 聡さん
埼玉県所沢市で工務店をやっています。東京と山を繋ぎ地元の木を使えるような仕事をしています。若い世代のつくり手たちのためにも、もっと木に触れることのできる環境をつくっていきたいと思っています。よろしくお願いします。

篠 節子さん(プロフィールページ)
東京都で設計事務所をやっています。独立当初から環境のことを考えた建築をつくっていきたいと思っています。伝統的な木造住宅・気候風土適応住宅を会員のみなさんと日本各地につくっていきたいです。どうぞよろしくお願いします。

都合により当日参加できなかった3名はパネルでの紹介となりました。プロフィールページをチェックしてみてください。

新入会員プロフィールページ
唐木 俊さん(東京都)
新堂 豊さん(神奈川県)
田中 孝佳さん(東京都)


事業報告

次は、一年間の各事業報告です。

【事業報告①:HPコンテンツ】
今年度は特集コンテンツ2本と、会員紹介コンテンツ11名分の発信を行いました。

【事業報告②:木構造部会】
2020/11/1より6/22日まで全15回の「木構造部会」を会員の岩波正さん(滋賀県)を講師として開催しました。
昨年の限界耐力計算法の勉強会の続編として開催したもので、許容応力度設計や限界耐力計算法のおさらいをした上で、例題に取り組んだり、参加者からの質疑に答える形で実施しました。

【事業報告③:マーケティング部会】
今年度、新たにマーケティング部会を発足し、宮内寿和さんを中心に7名の会員とコンテンツ制作の2名を加えた9名で、SNSの発信・活用と新ホームページの検討を重ねてきました。

木の家ネットのインスタグラムアカウント @kinoienet を開設し情報発信を始めました。会員の皆さんも是非ハッシュタグ 「#木の家ネット」をつけて家づくりだけに留まらず広く発信していっていただきたいです。
また、5月からYouTubeにてリレートークをライブ配信する試みも始めました。「ウッドショック」のことを取り上げたの発端に、大江さん・宮内さんが聞き手となり毎回各方面のゲストをお招きして進めています。9月までで17回発信し視聴数は17194回になっています。これからも引き続き配信していきます。

【事業報告④:オンライン勉強会】
8/21、外岡豊氏(埼玉大学名誉教授)講師にお迎えし「LCAで考える伝統的木造建築の省エネルギー性能 〜建築から廃棄までのエネルギーを考える〜」というテーマで初めてのウェビナーを開催しました。


大工経営塾/見積部会 事業報告

「大工経営塾/見積部会」について金田克彦さん(京都府)・水野友洋さん(岐阜県)より報告がありました。詳しい報告会は興味のある方に向けて来年初めに開催する予定ですが、見積部会の目的・方向性・運用例のさわりの部分について発表していただきました。

「一見難しそうな内容ですが、素敵な仲間に恵まれ、単純な計算で使えそうなものができつつあります。年明けに開催予定の発表会では、経営にまつわる講演会も行おうと考えていますので、奮ってご参加ください」(金田さん)


新ホームページの概要

今後リニューアル予定の、木の家ネットのホームページの概要について岡野さん(コンテンツ担当)より進捗状況の報告がありました。


熊本 気候風土適応住宅 活動報告

昨年に引き続き、古川さんより熊本での気候風土適応住宅の活動についての報告がありました。まず、欧米諸国との家庭でのエネルギー消費量の比較に触れ、はたして日本は本当に省エネ後進国なのか、また国内でも暖房器具の使用状況が地域で差があるので、ひとまとめでは語れないのではないか。そして伝統的構法の家・気候風土適応住宅こそが、生産・廃棄等を含めれば最高のエコハウスなのではないか。とのお話をしていただきました。


分科会

休憩を挟んで恒例の分科会を開催しました。今回は【①気候風土適応住宅/環境部会】【②マーケティング部会】【③伝統建築の未来 後藤先生のお話をうけて】の3つテーマのミーティングルームに別れ、熱い議論を交わしました。

【①気候風土適応住宅/環境部会】

2025年の建築物省エネ法基準義務化、2050年のカーボンニュートラル達成を視野に社会が動いています。高気密高断熱一辺倒の省エネ手法に多様性を持たせるため、今年度より木の家ネットで「環境部会」を立ち上げることになりました。環境部会では、木の家に相当しい省エネ手法の評価方法の確立を目指しているという旨のお話を綾部さんよりしていただき、意見交換を交わしました。

【②マーケティング部会】

リーダーの宮内さん(滋賀県)を中心に「マーケティングの本質とは」「目標・目的・戦略・戦術」など、資料と例題を交えて、参加者全員でマーケティングの勉強をしました。最後に「我々が建築のプロフェッショナルであるということをきちんと発信していくべきだろう。そのためには会の目標・目的・戦略・戦術を明確にする必要がある」とまとめました。
マーケティング部会からのお願い:木の家ネットYouTubeチャンネルに登録をお願いします。現在500人ほどの登録がありますが、1000人を越すと収益化など、できることも増えますので、あと500人の登録を直近の目標にしています。

【③伝統建築の未来 後藤先生のお話をうけて】

総会と同日開催されたウェビナー「伝統技術・技能を広めていくために/伝統を未来につなげる会 後藤治会長からの話題提供」をうけ、登壇いただいた後藤先生にもご参加いただき、議論を交わしました。ウェビナーでは、後藤先生から「公共建築に匠の技を」「防災対策としての地域の伝統家屋の空家利用」という提案をしていただいており、参加者からは「まずは木の家の需要を作らなければ、職人の担い手も増えないし育たない。とてもためになるお話をありがとうございました」「伝統構法の家は、新築もリフォームも同じ職人さんができるということを強く発信していきたい」などの感想が聞かれました。


閉会挨拶・来期総会案内

各分科会のまとめの発表をはさみ、最後に丹羽明人さんから閉会の挨拶がありました。

「今年は昨年に引き続き2回目のネット総会となりましたが、充実した内容の会になったと思います。2001年に始まった木の家ネットはちょうど20年を迎えました。振り返ると、木の家をつくっている仲間にとって色々な社会問題や環境問題がありました。我々はその都度、積極的に様々な対応や情報発信をしてきた会ですが、今日も世の中は変わり続けており、これからも変化に対応し続けていかなければならないなと感じています」

「近年は自主的に様々な分科会も生まれ活発に活動しています。またホームページのリニューアルも控えており、より活発な情報発信の場になる予定です。木の家ネットの会員のみなさんは意識の高い方ばかりです。それが全国各地にいるということが最大の特徴であり強みだと思います。みなさん、是非、自分が情報を発信する側なんだという意識を持って、より主体的に参加していただき、さらに活発な情報交換・情報発信をできる会にしていきましょう」

オンラインでこれだけの検討や議論が行える会です。直接顔を合わせることができれば、さらに充実した総会になることでしょう。来年こそ淡路島でお会いしましょう!


取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

「伝統を守りたいとか自然にやさしくとか色々ありますが、結局建築が大好きなんです。それが最大の糧でこの仕事に取り組んでいます。仕事というよりライフワークといった方がしっくりくるかもしれません」

そう話すのは、神奈川県鎌倉市北鎌倉に設計事務所を構える日影良孝さん。「家を住み継ぐ」「住み継げる家をつくる」というテーマを胸に今日も手描きで図面に向かっている。

左:事務所の壁一面に貼られた模型が目を引く/右:手描きの図面

日影良孝(ひかげよしたか・59歳)さん プロフィール
昭和37年(1962年)岩手県九戸郡軽米町生まれ。日影良孝建築アトリエ 一級建築士事務所 代表。高校卒業後、東京で建築の専門学校に入学。24歳まで設計事務所に勤務。25歳で友人3人と設計事務所を設立。いきなり民家の移築再生をすることになり、現在の仕事の礎となる。以後、木造住宅の新築・古民家の移築・再生や、公共施設など多岐にわたる作品を32年間で100棟以上手掛けている。


有能な大工は木に負けない力を持っている

 

⎯⎯⎯ 生い立ちと建築の道に進んだ経緯を聞かせてください

「生まれ育った岩手県の軽米町という町は、県内最北端で青森との県境にあります。本当に何もないところで、茅葺き屋根に囲炉裏がある家と、自然豊かな山々が原風景として心の中に残っています」

軽米町のとある風景。25年前くらいの写真

「建築を志したきっかけは父が宮大工だったからです。小学生の頃から大工か設計士かの2つの道しか考えていませんでした」

 

「何もない茅葺屋根が点在する田舎から、いきなり東京に来たので、まず東京という街自体がショッキングでした。そして自分自身にも予備知識も何もない、空っぽな状態で専門学校で学び始めたので、まっさらなスポンジのようにとにかく吸収できたのが良かったのだと思っています」

⎯⎯⎯ 設計か大工かで設計を選ばれた理由は?

「父の影響です。小さい頃から絵を描くのが好きでしたし、若い頃は父の仕事に興味がありませんでした。なので設計を選んだのですが、専門学校を卒業して設計事務所に入り、大工職人の仕事に触れると徐々に父の仕事の凄さに気づき始め、尊敬するようになりました」

「宮大工に限った話ではありませんが、巨大な木に墨付けして刻んでいく《木に負けない力》を持った大工という仕事は本当にすごいなと思います。もっと若い時に父の仕事を理解していたら、大工の道に進んでいたかも知れません」

父が造ったお寺 宮大工の父と大工の弟


鎌倉の大屋根 | 1989年 | 神奈川県 写真:西川公朗さん

“住み継ぐ”ということ

⎯⎯⎯ ターニングポイントや思い出に残っている仕事について聞かせてください

「ターニングポイントと言える仕事は2つあります。1つ目は独立して最初の仕事《鎌倉の大屋根》です。2つ目は東日本大震災の直後に宮城県での仕事《手のひらに太陽の家》です」

⎯⎯⎯ まずは鎌倉の大屋根について教えてください
「独立後すぐの1989年。石川県加賀市から鎌倉へ民家を移築して再生する仕事をすることになりました。幼い頃の原風景・当たり前の景色が活かされることになり、建築で学んできたことと、自分の生い立ちとが繋がった瞬間でした。木造の民家も、移築という仕事も、素人みたいなものだったので、自分なりに勉強し父親にも相談を仰ぎ完成に漕ぎ着けました。それが処女作《鎌倉の大屋根》です」

写真:西川公朗さん

「日本の民家は地域によってつくりが違うのが特徴で、それぞれの気候や風土によってその土地土地で育まれてきた住まいの知恵の集大成ですよね。その違いが顕著に表れているのが屋根だと思います。屋根と周囲の環境が調和して作り上げられる風景こそが、日本の風土の素晴らしさだと考えています」

「ですので、加賀にあった茅葺農家を風土の違う鎌倉にそのまま持って来ることは、自分にとってあり得ないことだったんです。鎌倉の風土に似合う屋根の形とはどういうものか、ものすごく考えて出した答えが、移築した部分と新築の部分を一枚の大屋根で包むというものでした。ここが僕の設計人生の出発点です」

2008年 | 所沢の明治期の土蔵を鎌倉の大屋根の書庫として移築。施工は木の家ネット会員でもある風基建設(渡邊 隆さん)が担当している。写真:西川公朗さん

翌1990年、有志で《住み継ぎネットワーク》を発足。今では当たり前に使われている“住み継ぐ”という言葉を産み出したという

「高度経済成長期からバブル期にかけて、日本の民家はどんどん壊されていきました。その一方で『住みたい』という人も居ました。その想いを持った人と民家とを繋げる仕組みがなかったので《住み継ぎネットワーク》をつくったんです。結局、思い描いた形の活動は実現しなかったんですが、“住み継ぐ”という概念ができました。僕は建築ですが、家だけに限らず衣食住に関わるそれぞれの立場の人が、この概念を胸にそれぞれ活動していくことになりました」


手のひらに太陽の家 | 2012年 | 宮城県

子どもたちに自信を持ってもらいたい

⎯⎯⎯ 2つめのターニングポイント《手のひらに太陽の家》について教えてください

「2011年3月11日。東北の出身なので、あの日TVで見た光景はとてつもなくショックでした。すぐに宮城県の林業家である大場隆博さんから電話があり、木造の仮設住宅を造りたいという相談がありました。公共の仮設住宅では、どうしてもプレハブばかりになってしまいます。仮設とは言え、木造の方が快適ですよね。そこでNPO法人《日本の森バイオマスネットワーク》の一員として、木造の仮設住宅をつくるための活動を始めました」

 

「バイオマスネットワークの人たちと、様々な方面に働きかけたのですがなかなか実現しませんでした。でも何とか力になれることをしなくてはと思い、被災した子どもたちが住まう恒久的に残る大きな家を造る提案に切り替えました。幸い、アウトドア総合メーカーのモンベルさんをはじめ、様々な方からご支援をいただき、みんなで力をあわせ2011年末に着工、2012年7月末に完成することができました。それが大きな転機となった《手のひらに太陽の家》です」

現在は一般向けの宿泊・レンタルスペースとして地域のコミュニティの交流の場として活用されている。「学校の廊下のように走り回ってもらいたい」(日影さん)

「福島からやって来た子どもたちが、初めて訪れるこの施設で、しばらく住まうことになります。取ってつけたような安っぽい家ではなく、ちゃんとした木の家に住んでもらうことで、子どもたちに自信を持ってもらいたかったんです。ここで暮らした数ヶ月の記憶を、より良い思い出として心に残してもらいたいという想いを込めて設計しました」

 

「本当に人生が変わる出来事でした。人の価値観って、何を見ても誰と出会っても、無闇やたらに変わるものではありませんよね。でも建物が紙切れのように流されて、何もなくなってしまった被災地に立った時、建築ってこんなにもか弱いものなのかと、突き落とされたような思いでした。建築をやめようとも考えましたが、歯を食いしばって《手のひらに太陽の家》をみんなで完成させました。子どもたちが楽しんで住んでもらえているのを見ると『やってよかったな』とこっちが報われたような気がします」

施工は木の家ネット会員 大場 江美さん(サスティナライフ)が担当している。また、手のひらに太陽の家の詳細は過去のインタビュー記事がありますので、あわせてご覧ください。


北鎌倉の家 | 2009年 | 神奈川県

何事もなかったかのようにつくる

日影さんの手にかかった住宅の移築では、家族の思い出が詰まった部屋や建具を中心に、新しい部分を配していく。以前からそこにあり、昔から住んでいたかのように、あくまで自然に何事もなかったかのようにつくり上げられていくのが特徴。

事務所近くの《北鎌倉の家》を案内していただいた。木の家ネット会員の田中龍一さん(大工)江原久紀さん(左官)新井正さん(建具)との協働でつくり上げた家だ。

移築された座敷は原型通りに復元されている

「八王子にあったお施主さん(以後Kさん)の家を北鎌倉に移築しました。原型復元された2つの座敷を核として今までの時間の記憶を住み継いぐ家になっています。新しい部分はこの座敷を中心として、大人しく静かで心地よい空間づくりを目指しました。外観はできるだけ町並みに対して小さく見せたかったので手前を平屋にしています。また、以前の家の建具や、Kさんが作られた建具や家具を積極的に利用しています」

「今日はいきなり押しかけたのに、快よく向かい入れてくれ、しかもいつも大切に美しく住んでくれてとても嬉しいです」

Kさんの雰囲気にぴったりな柔らかい日差しが差し込む

欄間やキッチンの扉など、Kさんのデザインした建具。空間と見事に調和している。

左:Kさんが古道具屋で見つけてきた趣ある網代の扉/右:丁寧な暮らしが伺えるキッチン

左:建築家 村野藤吾の自邸の障子をそのまま模した/右:お風呂の扉は以前の家のもの


 

取材に際して、これまでのご自身の活動を振り返る年表と資料を用意していただいた。年代を追って、過去の仕事とフィロソフィーをご紹介。


風景に調和し埋没させる

 

萩の家と島の家 | 1993年 | 新潟県高柳町荻ノ島集落

現代では貴重な茅葺きの民家の環状集落の中に、新築2棟の茅葺きの民家を設計した。昔からそこに建っていたかのように、いかに風景に調和させるか、風景に埋没させるかが大きなテーマだった。それから30年近くが経過した現在では、この時、新築でつくった2棟を中心として町並みが残っており、まるで江戸時代からずっとあったかのような、地域の象徴的な集落となっている。萩の家と島の家はそれぞれ貸別荘として利用可能だ。


空間的復元

 

昭和の洋館 | 1995年 | 埼玉県与野市

マンション建築のために取り壊しが決まっていた昭和6年建築の和洋折衷の住宅。「ドア一枚でも残せたら」との要望から発展し移築再生の設計を手がけた。移築先が狭いため、そのままの移築はできない。造作や建具などの古い部材にあわせて新たな間取りを考え、新しい空間に調和するように古い部材を散りばめていった。この手法を“空間的復元”と名づけた。

「家に持っている思い出って人それぞれで、窓であったり床であったり色々ありますが、その思い出を自分なりに読み取って、家の中にある“空間の粒子”をアレンジして組み直すことで、古い意匠と新しい意匠を自然に調和させました」
「つくり手・表現者としての意図や作為をいかに消し去ることができるかが、僕の建築全体を通してのテーマです」
「以前の建主に『前の家と全然変わってないね』と言われて『やった!』と心のなかでガッツポーズをとりました」


ミリ単位の格闘

実際の図面

再生前/再生後

上大崎の家(Ⅱ期工事)| 2003年 | 東京都品川区

大正13年建築の岡田信一郎設計の洋館を住み継ぐ。新築の鉄筋コンクリートの中に洋館の造作をそっくりそのまま入れ込んだ。鉄筋に木摺りを貼りその上に土壁を塗っているので、鉄筋コンクリートとは思えない快適性を備えている。既存の木造を細かく実測し、それにあわせて鉄筋コンクリートの躯体をミリ単位で決めるという気の遠くなる作業をやり遂げた。

◎施工: 風基建設(渡邊 隆さん)


空間を圧縮する

 

宋春庵 | 2002年 | 神奈川県鎌倉市

片瀬江ノ島に残っていた島津藩ゆかりの90坪の書院造りの家を、転居先の小さな庭先に4坪の茶室として移築。これが日影さんの得意とする《空間の圧縮》だ。
「何事もなかったかのように再編・再構築することをいつも考えています」

◎左官: 江原久紀さん(江原官塑) ◎建具: 新井正さん(杢正)


ミニマムな木造を目指して

 

板倉の家 | 1998年 | 東京都

「金物を一切使わず、全てを木だけで伝統構法で建てて欲しい」との要望を受け、板倉と貫を併用した構造で設計した。法隆寺 網封蔵(こうふうぞう)のつくりに着想を得て、左右対称とした。

「要望には応えられたんですが、完成して反省している部分があります。中に入った時に木の洞窟の中にいるような気がしたんです。すごく閉鎖的で木の力が充満しすぎていて疲れを感じ、これは自分の目指す家じゃないなと思いました。つくり手側の伝統や木に対する思い入れが滲み出すぎたことが原因で、木を沢山使いながらも、いかにその存在感を消していくかが、この時からのテーマになりました」

写真:平井広行さん

ひののあん | 1998年 | 東京都

板倉の家と同じ年、板倉の家での経験を踏まえ、木をふんだんに使いながらも軽やかに仕上がった。縁側の天井から流れる深い庇が気持ちいい。

「木と漆喰と紙だけでできたような何気ない家にしたかった」


スケルトンを美しく

 

中佐久間の家 | 2003年 | 千葉県

房総の海を遠くに望む山の上に佇むこの家は、かつて棚田だった地形の特徴を活かし、一階には作業場と小さな和室、二階には風景を一望できる大広間・寝室・水廻りを配した。抑制された規則正しい架構の連続が木の表情を和らげ、視線を風景へと向かわせる。伸びやかで清らかな空間を目指した。

◎施工: 村上幸成さん(村上建築工房)


裸が美しければ、包んでも美しい

 

チャイハウス | 2001年 | 東京都

親しい友人から「可愛くて気持ちいい、愛犬チャイのような家にして欲しい」と依頼を受け、初めてモダンで白い家を設計した。可愛らしさと日本の伝統的なものを同居できないかと考え、大壁に覆われ木組みが見えない住宅であっても、きっちりとスケルトン自体を美しく設計している。

「骨格が美しければ、壁に包まれたとしても、美しいプロポーションになるんですよね。構造は隠しても美しく、見せても美しくあるべきだと思っています」

 

細山町の家 | 2008年 | 神奈川県

チャイハウスの考え継続した住宅で、日影さん一番のお気に入り。

◎施工: 直井徹男さん(エコロジーライフ花 直井建築工房)


自然素材と職人技

 

山泰荘 | 2016年| 神奈川県

外壁は下半分が杉板張り。上半分は相模湾からの風雨から家を守るため、土佐漆喰の鎧仕上げとした。自然素材と職人の手仕事があってこそ生まれた力強い家だ。

◎施工: 直井徹男さん(エコロジーライフ花 直井建築工房) ◎左官: 江原久紀さん(江原官塑) ◎建具: 新井正さん(杢正)


鎌倉みんなのけんちく学校

子ども達に作ってもらった1/50の模型

左:子どもたちが茶室を実測している/右:子どもたちに手描きの図面を学んでもらう

 

日影さんが参加する一般社団法人 木和堂 の主催で、2020年からスタートした子どもたちに身体で建築を学んでもらう取り組みだ。鎌倉ならではの自然・歴史・文化に触れ、それを支えるプロの仕事を知り、最後には《小さな木のおうち》を実際に建てるというもの。小学生から高校生までたくさんの子どもたちが参加している。建具づくりでは木の家ネット会員の新井正さんが携わっている。

北鎌倉にある「宝庵」の茶室「夢窓庵」を訪れ、子どもたちが実測。1/50の模型作りを経て、本当に茶室をつくっていっています。詳しくは日影さんのブログをご覧ください。

「人に教えるということは自分の学びにもなるし、やっててとても楽しいですね」


 

家族の佇まい = 家の佇まい

⎯⎯⎯ 様々な事例を見せていただきありがとうございます。日影さんにとって理想の家とはどんな家ですか?

「木の家を一言で言っても、若い夫婦の住まう木の家と、僕ぐらいの年代が住まう木の家は違いますし、若くてやんちゃな家族もいれば、若くてもひっそりと暮らしたい家族もいます。また穏やかに暮らしたい家族もいれば、活発に畑仕事をしている家族もいます。設計者はそれぞれの家族を見つめて、木を選ぶだけでなく、その組み方や見せ方も決める必要があります。完成して訪ねた時に、向かい入れてくれた家族の佇まいと、家自体の佇まいがシンクロしているのが、理想の家の条件のように思います」

「そんな時に頼りになるのが、信頼の置ける職人さん達です。惚れ込んだ職人さんには何度もお願いしているので細かなニュアンスまで伝わるようになります。木の家ネットにはそんな仲間が沢山いて、あらためて整理すると僕の仕事の3割くらいは会員の方が関係してくれています」

 

⎯⎯⎯ 最後に、これからどんな仕事をしていきたいかお聞かせください。

「時間に耐えられる建築をつくっていきたいと思っています。伝統建築を頑張っている人には怒られるかもしれませんが、いくら伝統建築でつくっても残らないものは残らないし、残るものは残るんですよね。その違いは《その家の愛され方》にあると思っています。深く愛されていないと残るものも残りません。法隆寺がおよそ1300年残っているのは、材木や構法がしっかりしているのはもちろんですが、みんなが大事に想い愛しているからだと思うんですよね。そういう建築には、美しさ・気持ち良さ・風景との調和など、いろんな要素が合わさっているんだと考えています。僕もそういう存在になれる建築ができたらいいなと思っています」

「人々に愛され残ってきた、過去の建築のカタチから多くを学び、現代の環境や生活スタイルなどから導き出される、今必要とされるカタチと一緒に“和える”ことで、これからの時代にも人々から愛され“住み継がれる”建築をつくっていきたいです」


日影良孝建築アトリエ 日影良孝(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

※北鎌倉の家以外の事例写真は日影さんよりお借りしました。

行雲流水とは、自然の成り行きに身を任せること。また、とどまることなく移り変わっていくこと。奈良県大淀町の製材・材木商「ウッドベース」社長である中西豊さんは、行雲流水の人だ。

「ウッドベース」は吉野産材を中心に扱う。吉野は日本三大人口美林のひとつで、日本最古の造林地、室町時代に人口植林が始まったといわれている。歴史ある産地ではとても珍しい新参入組で、15年前に立ち上げた。

変わりゆく時代の流れの中で「付き合いのある工務店さんの期待に応えたかっただけ」と謙遜しつつも、目利きや製材などの技能をこつこつと身に着け、初代として道を切り開いてきた。木の育ちや表情などひとつひとつの違いを「見ているのが楽しいし、その場所にあった木を選ぶ自信がある」と語る中西さんに、これまでの歩みや木を仕事とする喜びを聞いた。

奈良県にある「ウッドベース」事務所

初代として

奈良県生まれの中西さんだが、木との縁は最初からあったわけではなく、少しずつ、少しずつ導かれていった。

10代後半は家庭の事情で関東で過ごし、様々なアルバイトを経験した中のひとつが材木屋だった。19歳で奈良に戻った時、その経験を知った親戚の紹介で銘木市場で仕事を始めた。せりのたびに角材を担いで移動させる。肩は擦れ、手首も痛む力仕事だった。毎日木に触れ、木を見つめ、目利きを養っていった。

20代半ばで、市場から材木商として独立する仲間について行くことになり、市場を離れた。

その後33歳の時に自身も材木商として独立。所属していた材木商の在庫と設備を買い取り、「ウッドベース」が始まった。「お客さんが困らないように」「お客さんの期待に応えたい」。中西さんは繰り返す。

30代半ばで、材木商に加えて製材業もやるようになったのも、場所を借りていた製材所が閉めることになり、お客さんを思ってのことだった。

「地元の製材所の人には『こんな時に製材所始めるなんで、あほちゃうか』ってさんざん言われた」と振り返る。

しかし、吉野地域は製材の歴史がある分、製材所ごとに得意分野が細分化されており、「ひとつがやめてしまっても他に頼めばいいというわけではなく、困る人が出てくる」と考えた。製材の知識も経験もなかったが、中古の製材機を買い取った。地域で製材をしている仲間らが代わる代わる、技術を教えに来てくれて身に着けたという。

製材機は、今も現役で活躍している

独立当時からの付き合いがある大阪・羽根建築工房の羽根信一さんは、中西さんについて「昔から変わらないよ。裏表がなく、大げさに派手なこともしない。だから、信頼できるんだ」という。

ウッドベースが扱う木材はほとんどが吉野産。中西さんは「吉野材が色も形も一番美しいって思うし、地元の材を使うっていう考えは当然として自分の中にある。森に囲まれて育ったからかな」と話す。

ストックが積まれた製材所は、緑深い森に囲まれている

吉野産材は、吉野山の地形や雨の多い気候などといった自然の力に加え、「密植」「多間伐」という人間の作業が加わることによって完成する。吉野産材は、山に苗木を植える本数が1ヘクタール当たり8000-12000本。一般的には3000-5000本と言われているので、2倍以上の密度だ。その分間伐を多くする必要になり、手間がかかる。

間伐する林業家は「山守」と呼ばれ、丁寧に木を育てる伝統が現在に受け継がれている。

この方法で育てた材は、中西さんは地元産というひいき目をのぞいても「木目が均一ですえおちが少なく、本当に素晴らしいんだ」とほれ込む。 歴史が長いため80-100年産の間伐材も流通しているという。山の中には樹齢400年の木も現存している。

材木の入荷は、地元の原木市場だ。原木で作業場に運びこんで、その木材に最も適した製品にするために木取りをする。製材するとき、丸太からどのような大きさの材をとっていくか、どのような木目をとるかが職人の腕の見せ所となる。

天然乾燥させたあと、出荷する。納期でよっぽど急ぎの場合をのぞいて、機械乾燥はしない。機械ではなく天然乾燥にこだわるのは、割れが起こりにくいことに加え、油脂分を残すことで木の香りを楽しめたり、木が腐るのを防いだりすることができるためだという。

ウッドベースは700坪の敷地を確保し、中には製材スペースや中温の乾燥機を設置してある。材木のストックもあるが、この敷地だけでは足りず、500坪分の敷地と、倉庫が2つに保管してある。その数、「住宅だったら10軒分くらい(中西さん)」にも上る。

市場で買い付けたものだけでなく、製材所を整理したり閉めたりする時に集まってくるものもあるという。「一番若造だから、気にかけてもらっている」と感謝する。

出荷先については、地元にこだわらず、吉野産をいいと思ってくれる人に届けたいと考えている。現に、ウッドベースは材木の大半を、工務店を通して兵庫、大阪、京都などの県外に出荷している。

木の奥深さを伝える

ウッドベースは現在、製材など材木作業は取締役の2人とパートで行い、中西さんは受注や配達、見積りなどの社長業をこなしている。あとは事務担当のパートと、計6人体制だ。

事務所の2階が事務作業スペース

独立から15年を経て、「最初は原木の良しあしも、製材のうまいやり方もわからなかったけど、数こなしてようやく覚えられたかな」と駆け抜けた日々を振り返る。

ここ3年ほどで感じる変化は、使う側の変化だ。今までは工務店に出荷して終わりだったが、県外から設計士さんや施主さんが少人数のグループで、山や製材の様子をみにくるようになったという。

住む側、使う側とのコミュニケーションは「少人数でじっくり話せるととても楽しい。どんどん提案したくなる」と中西さん。

説明用に手作りした木取り図

「その時間が本当に楽しい。自分の目利きには自信がある」という。ほれ込んだ木は抱いて寝られるほどだと冗談めかして笑う。

ひっそりと保管された「銘木」の数々

中西さんは、日々材木を見つめ、木に触れる中で、ひとつとして同じ表情の木はないことをしみじみと感じている。その木が一番落ち着く、しっくりくる場所で役目を果たせるように、という気持ちを持って、業務に向かっている。

長い目で山と向き合う

2020年からの新型コロナウイルス発生により、材木業界にも影響が出てきた。ウッドショックだ。木の家ネットYoutubeチャンネルでも話題になっていたが、米松やレッドウッドなどのアメリカから輸入している集成材の価格が高騰している。アメリカの住宅需要の高まりやコンテナ不足をはじめさまざまな要因があると考えられる。

日本の住宅も輸入材が占める割合は高いため、輸入材の高騰により代替品として国産材の人気が高まり、数が少なくなったり価格も同調して上がってしまったりという状況がある。日刊木材新聞によると、「杉KD(人工乾燥)柱角」の材料価格は半年で1・5倍にまで膨れ上がってきた。

ウッドベースではほとんどの材料を自分で製材し、足りない分は他の製材所から購入している。その購
入分の価格が「信じられないくらい高くなった。独立しての時のように自分で製材をやらずに材木商だけだったら、とても立ち行かなかったと思う」という。

丁寧に製材した材料たち

今後、国産材のニーズが高まっていくことが懸念されるが「山仕事は人手不足や高齢化で、すぐに対応は難しい」とも考えている。「ころころと対応を変えずに、もっと長い目で山と向き合っていかないと」と前を見据える。

木は自分が生まれる前から何十年も生きてきて、木材に加工され、家となることでさらに何十年も生き、残っていく。そのような大きな流れの中で「自分はその一瞬を支えているだけ」というのが、中西さんの持論だ。

思えば、中西さんが銘木市場で働いたのちに独立した時、ふしがなく整った銘木ばかり見てきたので、建築材にもなるようなふしの入った材に魅力を感じなかったという。しかし、今では「不思議とふしのある木も好きになった。個性的でおもしろいんだ。ふしがなければいいってわけでもない」と実感する。

その理由を、毎日見て、触れていくにつれ、愛着がわいていった。木という同じ素材を見続けたからこそ、個性やそれぞれの良さに気づけたのだという。「この木はひくとどんなかな、どうひいたらきれいかなって考えるときりがない」と魅力を語る。

製材を始めたきっかけも、産地で吉野産材を守ってきたという歴史を止めてしまうことへの残念な気持ちがあった。先代、先々代が植えた木が、山で、活躍の時を待っている。今の状況、今の気持ちだけで判断することはできなかったのだ。

製材で出たおがくずは、豚舎で再利用されるなど、循環体制も模索中だ

木の良さの理解や、目利きや製材の技術は、一朝一夕には身につかない。
そこからつながる山の良さや木のすばらしさも、時間をかけることで、その身に染みわたっていく。

流れゆく時代の中で、長い目で見るという視点は、木に向き合い続けている中西さんだから身についた。木で仕事をする人間としての心構えでもある。「自分はそんな大それたことはできない」と中西さんは謙遜しつつも、「そういう気持ちで家を建てたり住んだりすると、人も木も幸せでいられると思う」とうなずいた。

ウッドベース 中西豊さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子

木を使って、かっこよく作ってやる。大阪・四條畷(しじょうなわて)市の木又工務店の二代目大工棟梁・誠次さんの信条だ。その仕事は木と手道具を使うことにこだわった「手づくりの家づくり」から、地元神社の被災した鳥居の復興まで多岐にわたる。木にこだわり、木を通して人を喜ばせる大工としての夢を語り、技を磨く姿に、施主さんや地元の仲間、弟子たちは信頼を寄せている。

木又工務店の2021年の大仕事は、四條畷神社の木造鳥居の建築だ。鳥居は吉野ヒノキを使い、高さ6.91メートルもの大きさ。材木も普段の民家のサイズより大きく、住宅街の幅6.3メートルの道路に建てるという初めての試みでもあった。

すっきりと美しい木造鳥居。9月19日に竣工式を迎えた

材料は吉野檜。一般的なものより長いものを使い、大迫力だ!

木又さんは少なからず不安もあったというが「建った時かっこええやろな、絶対建てたるってわくわくが勝った」と振り返る。新型コロナウイルスの流行の影響で後期は延びたものの、2021年、建前を迎えた。

この鳥居、もともとは石製だったものが2018年6月の大阪北部地震で損壊してしまい、木又さんが旗振り役となって再建にこぎつけた。神社から依頼されたわけはない。損壊後、木又さん自ら見積りをとり、1000万円借金をして吉野ヒノキを購入。本音は「丸ごと寄付できる金額やない」としつつも、神社には費用を集める氏子組織がなく、再建の声が上がらなかったことで、動き出したという。木ならば地震や風にも強く長持ちし、さらに美しいという考えもあった。

建前を終えた現在は、木又さんの心意気に感謝した神社が、再建事業の寄付金を受けることになっている。

地元を大切に思い、実際にアクションを起こす木又さん。20代で青年団を立ち上げ、この神社で「畷祭」を始め、毎年続けてきた。神輿や流しそうめんをして仲間と盛り上がることを、心底楽しんでいた。

まつりで神輿をかつぐ木又さん。笑顔がまぶしい

大切な場所が、地震により鳥居というシンボルを失った痛みは、青年団や地元全体を覆っていた。自分の力が使えるならば何とかしたいという思いが行動に移させた。実際に見積りをとったり、材木を見に行ったりするたびに、「木又が何か始めたって、なんやみんな楽しそうで、それがうれしかった」という。

「それに、地図や歴史に残る仕事なんて大工の醍醐味。自分の子どもや地元のみんなに、『この鳥居、木又が建てたんやで』って言えるやんか」と人懐っこく笑った。

木製鳥居の再建までのストーリーは木の家ネットYoutubeチャンネルでも紹介している

大工の夢を語る

四條畷市は、木又さんの父・健次さんが徳島から出てきて工務店を始めた場所。住み込みの弟子たちと寝食をともにし、作業場が遊び場だった木又さんは「大工以外の職業は考えたたことない」という。

地元の高校の建築学科を経て専門学校で設計を学んでいる時に、社寺や凝った木造建築との出会いがあった。木を手道具で美しく加工し、組み上げる。こんな仕事がしたいとほれ込んだ。設計の道へ行くか、大工の道に行くかという迷いは晴れ、木造の伝統建築に強い奈良県の梅田工務店に弟子入りを志願。当時は弟子が多く断られたものの、「無給でいいから」と頼み込み、採用された。

修業時代は、作業場の二階に住み込みで木と向き合った。少年時代から大工の働きぶりを見て、高校や専門学校で学美積み上げてきた自信は「打ちのめされた。できることが本当に少なくて。悔しいからめっちゃ努力した」と、木又さんは原点を語る。5年の修業と1年のお礼奉公ののち、地元へ帰り、木又工務店を継いだ。

現在の木又工務店の職人たち

大工としての仕事をこなしながら、「畷祭」をきっかけとした地元との絆も強まっていく日々。仲間の中には写真が得意な人やウェブページのデザインができる人もいて、木又工務店のウェブページがあっという間に立ち上がった。木又さんは、「仲間と酒飲みながら、木の仕事がしたいって語っていたことを、どんぴしゃでかっこ良く作り上げてくれた。かなり有能な営業をしてくれている」と感謝する。

ウェブページの発注には初期で60万、リニューアルで100万かけた。確実に受注にもつながっており、木又工務店はウェブからの受注が6割と半数を超えている。

ウェブページに掲載した大工道具の写真

年間の施工件数は新築が4~5件で、リフォームが20~30件となっている。施主さんの思いやこだわりを丁寧に形にすることで、愛着が持てる家を作りたいという姿勢は一貫している。

木又工務店が手掛けた家。木の美しさが際立つ

そのために、工務店に木又さんを含め6人いる大工は、技術を磨き続けることに余念がない。うち3人は木又さんが直接修行をつけた20~40代の男性。木又さんは手道具の手入れをはじめ仕事内容について「基本的にきつく言う方だと思う」と話す一方で、「いい腕になるには、いい仕事を作らな。それも親方業や」と言い切る。

愛用の手道具たち

今年の鳥居のように、大きな仕事、誰もやったことのない仕事など「俺が夢を語ると、弟子らが目輝かす時があるんや」と、大工棟梁自ら仕事に夢を持ち、ポジティブでいることの重要性を実感する。

弟子の島岡寛裕さんは、木又さんのもとで修業して9年。「親方みたいに器がでかくなりたい」と尊敬のまなざしだ。厳しさは認めつつも「わかるまで教えてくれるし、ぼくら弟子の考えも聞いてくれる」と信頼は厚い。

材木にもこだわりを見せる。構造材には国産材を使用し、仕上げには無垢の天然素材を使用するよう心がけている。

作業場に材木を保管している

材木屋に加工を依頼するのではなく、実際に原木市場に出向いて見てから取り寄せ、作業場で加工する。材木ひとつひとつにストーリーが生まれ、施主さんのこだわりを持った家づくりに応えられると考えている。値段を安く抑えることにもつながる。

材木は作業場に置き、天然乾燥させる。作業場は260坪の広さで、ただ作業をこなすのではなく、いつでも木材や機械に触れられる研鑽の場だ。弟子たちが自由に使える、学び舎としての役割を果たしている。

自由に使える作業場で腕を磨く

天然乾燥の場合、材木に乾燥ムラが出ることもあるが、そんな時は自作の乾燥機を使う。幅2.2メートル、奥行6.2メートルの箱に電気のスポットヒーターがついており、ムラの部分に点灯することで全体を整える。

「最初は、滋賀の宮内棟梁の水中乾燥がいいなって思ったんだけど、池の環境がなかったので機械をつくっちゃった」と笑う木又さん。ユニークなアイデアと、実践力が光る。

自作の乾燥機も必見

夢をかたちにしていく

現在は、「弟子にも仲間にも施主さんにも恵まれ、やりたい仕事ができている」と木又さん。7年ほど前から設計も依頼されるようになり、専門学校で学んだ知識も生きてきた。

木又工務店が設計施工した物件

しかし、最初から順風満帆なわけではなかった。修業が終わり地元に戻った時は、父の大工仕事も減少傾向で、弟子も1人しかいなかった。回ってくる仕事も、賃貸マンションのリフォームやクロス作業など、理想とする木とはほど遠い仕事だった。自分ってちっぽけ。そう思う日々だった。

「これではあかん!」と一念発起した木又さんが仕掛けたのは、なんと営業。自分で施工事例の写真を並べたパンフレットを作成し、インターネットで大阪で木造建築をやっている設計事務所を調べて「大工仕事をやらせてください」とお願いして回ったのだ。その中の一つの事務所が興味を持ってくれた。

現在も付き合いが続く、間工作舎設計事務所の小笠原絵里さんは言う。「木又さんって、言ったことを夢で終わらせずにしっかり叶えていくんですよ。信頼できるし、『次はどんなことするんだろう?』ってワクワクしながら見ています」。現在60歳の小笠原さん、「80歳まで一緒に仕事したい」と笑う。

間工作舎設計事務所が設計し、木又工務店が施工した物件

 理想とする木の仕事にしっかりと狙いを定め、現状から足りない点を洗い出し、行動を起こし、結果につなげる。「壁を壁って思わない。前どころか上向いて歩いてるんや」と大声で笑った後、「修業時代を思えばどうってことない。世の中って厳しいもんやから」と話すまなざしは、鋭かった。

木又さんが考える伝統建築とは、長い時間をかけて洗練されてきたもの。その当時流行したものに、使いやすかったり見栄えが良かったりと少しずつ変化が加えられてきた。今も進化を続けている。ただ同じ形を踏襲するだけのではないのだ。

そうなると、「現在の伝統建築も、固苦しいイメージがあるかもしれやんけど、もっとオシャレで馴染みがあるものに変えていきたい。流行りも取り入れていい」と木又さんは考え、建築雑誌を読み込み、試行錯誤しながら設計に取り組む。自然素材ももっと勉強したいと意欲は増す。

伝統と流行それぞれの良さを生かしながら両立させることを目指す

 木を使って、かっこいい大工仕事がしたい。繰り返し語ってきた夢を現実のものとした木又さんは、令和の時代の新たな夢を、描き始めている。

木又工務店 木又誠次さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、写真提供:木又工務店

● 取 材 後 記 ●

電話で話を伺った設計師の小笠原さんは、木又さんについて「ぱっと見は演歌って感じだけど、話すとジャズ」とユニークに語った。「アレンジ」「即興」など自由なイメージが、聞いてきた仕事ぶりに、重なった。
木又さんが語ってきた「木の家をつくる」という夢はこれから、もっともっと自由に、新しい音を奏でていくのだろう。

広島県福山市で社寺建築や伝統建築、古民家再生を手がけながら、そのスキルを若い職人たちに伝え、従来の木造建築の枠にとどまらない新たな可能性を切り開こうとしている野島英史さんをご紹介します。

野島英史(のじまひでふみ・45歳)さん プロフィール
昭和50年(1975年)広島県福山市生まれ。株式会社のじま家大工店 代表取締役。中学生から幼稚園児まで4人兄妹の父。15歳で大工の道を志し地元の工務店に弟子入り。20歳で岐阜県飛騨の古川町で「飛騨の匠」として10年間修行を積み社寺建築を身につけた。その後、地元福山に戻り32歳で独立し「のじま家大工店」を開業。14年目の今年、新たな試みとして「ログキャビン」を提案・発売する。


飛騨での10年を経て

 

⎯⎯⎯ 大工の道を選んだ経緯を教えてください。

「曾祖父・祖父が大工でした。祖父母に育てられたこともあり、子供の頃から大工になりたいと思っていました。私が物心がついた頃には、祖父は現役を引退し毎日縁側で仏像を彫っていました。ですので「大工=彫り物もするものだ」という概念が幼い自分の体験にあったので、社寺建築を志すようになりました」

⎯⎯⎯ ターニングポイントをお聞きしたいのですが、飛騨での10年間で何か大きな節目はありましたか?

「飛騨に行こうと決めた時点で、社寺建築を中心とした伝統建築の方向を生業にしようと心に決めていました。古川町は大工職人の町として有名で、町内のいろんな工務店に同世代の大工が14人くらいいました。彼らとはみんなライバル同士なので、とにかく負けたくなくて切磋琢磨しながら一生懸命やっていましたね」

⎯⎯⎯ 今も社寺に携わることが多いですか?

「いえ、今はそんなことはありません。文化財の修復なども手掛けますが、古民家再生や住宅の新築もまんべんなく手掛けています」

⎯⎯⎯ それから「ログキャビン」を販売されるそうですが、とても面白そうですね。お話を聞かせてもらえますか?

「もちろんです!」


 

新提案 DIY型ログキャビン【やまとCHAYA】

今年後半、野島さん考案のDIY型ログキャビン【やまとCHAYA】が製造・販売になる。
住宅とは異なる空間を手軽に楽しめる【やまとCHAYA】は、伝統的な木組みの技術「扠首(さす)」を取り入れることで、一般の方でも組み立てが可能。縄文時代の竪穴式住居を模したデザインで、日本古来の大和比(白銀比)で設計しているのが特徴だ。希望に応じて、オリジナルキャビンの製造や、テラスの追加などオプション対応もする。余分なものを取り除いたミニマムな住まいでありながら、使う人の感性を取り入れられる空間で自然を楽しむことができる。

 

⎯⎯⎯ 新たに考案された【やまとCHAYA】について詳しく教えてください。

「ひとりでも多くの方に木の香り・自然とのふれあい・家族の絆を楽しみ、深めていただくきっかけになればと思い考案しました。自ら組み上げ、自分だけの場所、また家族と共に楽しめる場所にしていってもらいたいですね。またこの辺りだと【瀬戸内しまなみ街道】があるので周辺の観光地や農園、キャンプ場などへの設置が向いているかな思っています」

 

⎯⎯⎯ DIY型ということですが、どのような工夫が施されているのですか?

「全て、込み栓(柱と土台、柱と桁などの仕口を固定するための、2材を貫いて横から打ち込む堅木材)を使って作ることも考えましたが、一般の方が作りやすいように組み木を味わえる部分を残しながら、ボルトで締める安心感を両立させました」

組み木とボルト締めで作り上げていく

屋根が低い位置まであり軒も出ているので、ほぼ日差しを遮ることができる。壁なしにすれば風もよく通るので、あずまやとしても打って付けだ。

⎯⎯⎯ 木材は何を使われていますか?

「県内産ヒノキの天然乾燥材を使用しています。風雨に晒されるものなので半年以上乾燥させた強度のある材木を使用するため、年間20棟限定での販売を考えています。また、屋根は杉材を土居葺(通常だと瓦葺きの下地となるもの)にしたものです。この屋根が一番時間のかかる部分だと思います。プロで3日かかりました。やりがいは相当あると思います」

使い方に想いを馳せる野島さん

⎯⎯⎯ これは相当楽しめそうですね。職人さんたちの評判はどうですか?

「職人たちも楽しんでやってくれています。お客様向けに、木に触れること自体を味わったり、ここでの体験を提供したいと考えているのと同時に、職人自身が普段の仕事以外で楽しみながら取り組めるめるものを作りたかったんです」

⎯⎯⎯ これからの展望を一言お願いします。

「これからの時代は、ネットでもリアルでも販路を開拓していかないと、続いていかない考えています。地元だけではなくて、日本だけでもなくて、世界に目を向けていかなければなりません。【やまとCHAYA】が、日本の伝統建築の技術と世界のお客さんとを結ぶ架け橋になって欲しいですね」

「今後、人口減少と共に家を建てる人がどんどん減ってきます。その中で、大きな家だけではなく【やまとCHAYA】のような手軽に建てられるものに、木組みや伝統建築のエッセンスを加えることで、ニッチな層だけでなく幅広いお客さんに「木とともに生活すること=持続的な暮らしを実践し受け継ぐこと」に興味を持ってもらいたいです」

⎯⎯⎯ ということは販売は日本中、ひいては世界中を視野に入れているんですね?

「そうですね。めっちゃ世界中に持って行きたい。『お前どうやって持っていくんだ!?』という話にはなるんですけど、そこは夢ですから。具体的な障壁は一つひとつクリアしていって楽しめるんじゃないかなと考えています。何に対してでも楽しんで、もっともっと視野を拡げていったらいいんじゃないかなと思います」

やまとCHAYA 施工風景

水平レベルを出すのが難しいので取っ掛かりは出張作業が必要。

木組み、屋根とシンボリックな形が姿を現してきた。テラス部分はオプションで予価50万円。床もテラスも含めると200万円程度を想定している。

左:床を張る職人さん / 中:「壁なしのこの状態が一番かっこいい!アクリルを貼ってスケルトンにしても面白そう(野島さん)」 / 杉材の土居葺


現場への指示を遠隔でささっと行う野島さん

宣言「わしは現場には出ん!」

 

⎯⎯⎯ 野島さんは今は現場からは離れてらっしゃると伺っています。どのように仕事を進めているのか教えてください。

「今、のじま家大工店では、20代が1人、30代が2人、40代が2人の合計5人の大工職人で現場を回しています。あとは要所要所で外部の職人さんに応援を頼んでいます」

「現場自体は棟梁に任せていて、重要な決定は私がするというスタイルになっています。あとは社長業であったり、これからのことを考え、舵を切っていくような役割をしています」

 

「私が現場へ出て行かない方がいいんです(笑)。私は昔のタイプの人間なので、職人の仕事ぶりについ口を挟んで余計なことを言ってしまうので。。今後のことを考えるとそれじゃあマズいなと思い、数年前の法人登録を機に『ワシは現場には出ん!』と宣言しました。任せて良かったと思います。職人たちも自分で考えるようになってどんどん伸びていっています」

⎯⎯⎯ 経営者ならではの醍醐味や逆に苦労している点はありますか?

「自分が経営者になるとは思ってなかったんです。立場上、人の前でいろいろと話をする機会が出てきますよね。でも元々そういうのが苦手で、黙々と大工をしていたくてこの道に進んだんです。だから正直辛いんです(笑)。あと、職人や棟梁として現場に入っていると完成した時に「できたー!」という達成感が大きいですが、今の関わり方だとそれが味わえません。そこは職人がうらやましいですね。しかし、みんなが自分のところに集まってくれて、同じ方向を向いて取り組んでくれていることが嬉しいですし、やりがいを感じます」

⎯⎯⎯ 「ベテランの大工さんと若い子は居るけど、働き盛りの30~40代の大工さんがいない。世代間の色々な溝を埋めるのが大変」という話をよく聞きます。野島さんのところでは関係なさそうですね。

「そうですね。もちろん、うちにも以前はベテラン大工が来てくれていました。今は主力となっている40代の大工が技術は概ね身につけているので、問題なく仕事はこなせています」

 

⎯⎯⎯ 皆さん、正社員なんですか?

「昔は終身雇用にしていましたが今はやめました。育ってきたら独立しやすい環境にしてあげた方が、各地にネットワークを作ることができてお互いにメリットがあると考えています。これからますます仕事も暮らしも多様化していきますからね」

⎯⎯⎯ 今話されたような考え方やビジョンなどは職人さんたちにも伝えているんですか?

「はい、伝えています。本人の希望でずっとうちに居たい人には、うちのやり方をしっかり教えます。逆に、例えば独立して経営者になりたい人に対しては、経営者の集う団体の会などにも一緒に参加して、必要なノウハウを教えています」

⎯⎯⎯ 基本となる大工技術がしっかりあってこそ、立ち振る舞いや考え方が重要になってくるんですね。のじま家大工店ならではの技術や強みとはどういったものでしょうか。

「古民家再生や普通の伝統構法も得意としていますが、ちょっと変わった建て方もしています。例えば、これは120mm角の材木で構成する建物で、ハシゴ状に組み上げていって材料が少なくても粘りと強度を持たせることができます。また大きな材料を使わなくて済むので斜面にも建てることができますし、材料の無駄も少ないです。大きな梁の建物も好きですが、この方法だと立体的で強度もあり、見た目も美しいので気に入っています」

120mm角の材木で構成された独特な木組み 写真提供:野島さん

のじま家大工店の礎となる古民家再生と伝統構法の事例を一件ずつご紹介します。


 

広島県福山市 M様邸 「囲炉裏のある家」

2019年完成。飛騨での経験を買われ「飛騨っぽい家をつくって欲しい」と施主のMさんからのご依頼。「理想の家を建てる大工を見つけるのに40年かかった」と言わしめたそうだ。当時30代後半だった大工が手刻みを志して1年で棟梁を務めた。

左:木部の塗装は古色仕上げ(ベンガラ・硝煙・柿渋)/ 中:赤漆に八角形の窓が特徴的だ / 右:左官さんこだわりの粋な意匠

囲炉裏を中心に設計された空間。使用している材木は広島県内産の桧と松。部位によっては杉も使っている。

M様邸の写真すべて:©︎Atelier Hue 田原康丞


 

広島県福山市 臨済宗建仁寺派 神勝禅寺

含空院(茶房)
2014年竣工。この現場を最後に野島さんは現場を離れた。滋賀県 臨済宗永源寺派大本山永源寺より移築再建した建物。元々は永和3年(1377年)考槃庵の名で建立され、当時の建物は永禄6年(1563年)に焼失。正保4年(1647年)に再興されて以来、歴代住持の住居及び修行僧の研鑽の場だったそうだ。移築に際しては天井裏の炭に到るまで持って帰り、解体は実に3ヶ月を要したとのこと。

破風:昭和の時代の増築のため、なくなっていた部分。建築当時の元来の姿を再現した。

上:心地よい風が吹き抜ける縁側 / 左:中からの眺めも素晴らしい / 右:今は茶房として湯豆腐やかき氷などを提供している

当時を振り返りながら、丁寧に説明してくれる野島さん

「古民家再生においては、古いままの状態を可能な限り忠実に再現・表現することが、のじま家大工店の得意とするところなんです。ボロボロだったところも修復して使えるようにしています(野島さん)」

戸袋:左がオリジナルで、右が野島さんが再現したもの。「柿渋を塗って色合わせには気を使いました。なるべく忠実に再現しています(野島さん)」

天井は浮造り仕上げ(うづくりしあげ:木の板・柱などの柔らかい部分を磨きながら削ぎ落として木目を浮き上がらせる仕上げ)になっていたので、全て番付して持って帰って浮造りし直した

左:柿渋の6回塗りの床 / 右:柿渋の10回塗りの床はさらに深い色合いだ

左:聚楽壁(じゅらくへき:京都西陣にある聚楽第跡地付近で産出された「聚楽土」に、藁・麻・スサ・砂・水などを混ぜ合わせた土壁):霧吹きで浮かせ、仕上げ・中塗り・荒壁と分けて持って帰り再現している / 右:この壁も同じく、霧吹きで浮かせて剥がして巻いて持って帰ったもの。「移築前のそのままのものです(野島さん)」

左:古い木材と馴染ませるために、新しい木材にはカンナを掛けた後に浮造りをして凹凸を出している。 / 右:敷居も丁寧に直して再び使えるようにしている

 

「傷んでしまって『こんなの使えるのか?』というようなものでも、新しいものと組み合わせて馴染ませてやったら息を吹き返しますよね。そこが古民家再生のいいところだと思います」


鐘楼

 

神勝寺で最初のしごとがこの鐘楼。山の頂上にあったものを4トン車で降ろして移築した。

懸魚(げぎょ:屋根の破風板部分に取り付けられた妻飾り)は反対側のものを忠実に再現する形で野島さんが彫ったそうだ。


慈正庵

 

こちらも2014年に移築を担当。

「小さいお堂だけど、当時の職人の技術が詰まっています。手鋸しかない時代によくここまで細かい細工ができたものだと感心しました」


⎯⎯⎯ 最後に大切にしていること、これから大工を志す人へのメッセージをお願いします。

「楽しめる職場・楽しめる仕事 をモットーにしています。どれだけ仕事を楽しめるか。どれだけ木を愛せるか。もうそれだけだと思います。気合や根性でどうこうなる時代ではないです。これからの時代を生き抜いていくためには、大工技術だけではなく人間性や交渉力など様々なことを身につけていかなければならないと考えています。技術だけでは舐められてしまいます。身につけた技術を十二分に活かして生きていって欲しいですね」

 

今回の取材では、ログキャビン【やまとCHAYA】についての話をメインにしようと予定していましたが、そこまでに至るまでの経緯を聞いていくうちに、確固たる技術と経営手腕に裏打ちされたビジョンこそが、野島さんのつくり出すものを成形しているのだと感じました。「これから先、どれだけ楽しみ、どれだけ木を愛せるか」と未来を語る時の野島さんは一際かっこいい。


株式会社のじま家大工店 野島英史(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

半世紀近くに渡り、新潟に根差し、多くの伝統的な木造住宅や社寺仏閣を手掛ける一方、若手の育成や自身の夢など、これからの木の家づくりのあり方も探究し続けている山崎四雄さんをご紹介します。

山崎四雄(やまざきよつお・73歳)さん プロフィール
昭和23年(1948年)新潟県新潟市生まれ。山崎建築 代表。15歳で大工の道を志し27歳で独立。以来46年間、一般住宅の新築・改築から神社仏閣まで、伝統的な木造建築を軸に、木材をきちんと選び、冬あたたかく夏過ごしやすい、暮らしやすい家づくりを心がけてきた。また、新潟県立新津工業高等学校日本建築科で教壇に立つなど、若手の育成にも力を入れている。技能検定功労を称えられ令和3年春の叙勲受賞。


 

夏至の朝。空港まで迎えにきてくれたのは、アポイントメントの電話の通り、柔らかい物腰の山崎さん。「ここから作業小屋まで車で30分くらい。途中にある建てたところを何軒か見ていこう」とのご提案で案内してもらったのだが、「ここ。ここも。あとそこも。」とちょっと進んだだけで、かなりの数の手掛けられた建物を教えてもらった。すぐに飛び出していきたいところだが、「気になったところは後で見にくれば良い」と言われたので、経歴や仕事のことを伺うことにした。


やるからには本気で。

 

⎯⎯⎯ 大工の道を志された経緯を教えてください。

「小さい頃からものづくりが好きでした。親戚が大工をやっていて、中学の時から叔父のもとでアルバイトをしていました。そして15歳の時にそのまま弟子入りして12年で独立しました。20歳の時に自分の住む家を建てたんですが、ちょっと間違えて菱っぽい家ができてしまいました(笑)。仲間の左官が土を持ってきてくれて壁を塗ったんですが、あまり物ばかりを混ぜこぜに寄せ集めてきたので二度と再現できない色になりました。とにかくハングリーでしたね」

⎯⎯⎯ 独立されたきっかけや原動力は?

「ある時、自分で生きていくと心に決めたんです。独立には設備も必要だし、エネルギーもいっぱいいる。だから本気じゃなくちゃできない」

 

⎯⎯⎯ 住宅の新築・改築、それから社寺仏閣だと、どういったお仕事が多いのですか?

「住宅ばっかりだね。社寺なんかは滅多にない。この辺りに社寺だけで食ってる人はいないんじゃないかな。伝統的な木造建築をやる人自体がいないんです。みんなプレカットになっちゃって」

⎯⎯⎯ プレカットが主流だと社寺の仕事をできる人自体がいなくなってしまいますね。

「もうその流れは止められないですね。俺のとこにも大工が頼みに来る。予算や色々な都合の制約があるので、本格的なものはなかなかできない。神社仏閣の仕事が1番難しいんだけど大工である以上挑戦したいんです」

神明宮 | 平成8年(1996年)・新潟市江南区茗荷谷
46〜48歳の時に3年間かかって作ったという。彫刻は、木彫刻のまちとして知られる富山県井波の彫刻屋さんに半分依頼。半分は山崎さん自身で彫られている。

⎯⎯⎯ 手刻みでなくても手軽に建てられてしまうのが世の中の流れではありますが、逆に若い世代でそのことが本質的におかしいんじゃないかと気付いている人もいます。

「大手のハウスメーカーで建てるのと同じだけの金額を出せば、相当いい家を建てて渡せられる自信があります。今こそ、手刻みだからこそできる仕事をして、その違いがきちんと説得できるようにしていかないといけないと思います」

⎯⎯⎯ 山崎さんのもとにも、若い世代のお客さんからご依頼がありますか。

「あります。中には全く知らない人がHPを見て依頼してくれることもあるし、親御さんの家を昔建てた縁で、そのお子さんの家も建ててくれっていうことも結構あります」

半世紀近く、手刻みを続けてきた作業小屋

⎯⎯⎯ 特に思い出に残っていたり大変だった仕事はありますか?

「一年中大変ですよ。いつでも真剣勝負。今やっているのだってそう。矢代田に建てている新築の家。パッと外から見たら数寄屋の佇まいなんだけど、中に入ったら古民家の趣のある家。さらに奥の部屋は面皮柱を使った客人をもてなすための茶室。と、全く違う三つのものを一つにまとめて、それらの良さを兼ね揃えたものにしていかないとならない。これが難しいんです。でもそこが面白い」

 

⎯⎯⎯ 日々心がけていることやモットーを教えてください。

「とにかく一番は丈夫なこと。デザインはその次。使いやすくて丈夫。それが絶対条件です。そのためにはなるべく一本ものの長い木を使うのが鉄則だと思います」

⎯⎯⎯ 長年大工をされていて、どんな転機がありましたか?

「突然《この時》というはなくて、毎日暮らして毎日仕事をして、やっと今日のここへと辿り着く訳です。日々本気を出してやっていくしかないんだよね。作ったものがずっと残る訳だから、建てた数だけ責任があります。
長くやっていると『こういう作り方をすると長持ちする』とか『ここが壊れるな』とか経験を積まないと分からないことが見えてくる。本気を出して丁寧にやってても必ずどこか悪くなる。永久のものなんてありませんからね。ましてや、初めからいい加減に作るようなことは決してあってはならないことです」

ここで、山崎さんに案内していただいた住宅をいくつかご紹介。


 

新潟市江南区直り山 T邸
平成22年(2010年)頃完成。平家のおおらかな佇まいが落ち着く。

「軒周りは二丁桁で一番丈夫なつくりだと思います」と山崎さん

この梁は建て替え前の家のものを再利用したもので、大工だったTさんのおじいさんが刻んだものとのこと。

左上:案内してくれる山崎さん / 右上:自慢の庭を眺められる / 左下:随所に粋な手仕事が光る玄関 / 右下:上がり框にも素敵なあしらいが


山崎さんのご自宅
平成10年(1998年)完成。モデルハウスとしてお施主さんにも公開している。

この外壁の吹き付けの色は山崎さんいつも好んで使うもの

左上:柔らかなむくり屋根に佇む鳥の瓦。気づいた人を和ませてくれる / 右上:三角窓も山崎さんの目印だ / 左下:美しいリビングの天井 / 右下:槍鉇(やりがんな)で凹凸をつけた式台が素足に心地いい

上:玄関正面には花を生けるスペースが。お客さんの要望も多い / 左下:下駄箱には数百年前のものと思われるケヤキの埋れ木も使われている / 右下:玄関の屋久杉は屋久島で買ってきたもの

上:細やかな手仕事 / 左下:青森ヒバの床 / 右下:趣のある下地窓


新潟市江南区 K邸
平成5年(1993年)完成。「いつもなるべく派手にならないように作ろうとしている」と説明してくれた。

外壁の色と屋根裏の三角の通気口が山崎さんの目印

「こういうのが難しいんだ」と山崎さん


大工の未来のために。

 

次に、高校での取り組みやお弟子さんのことなど、次世代の担い手の育成についてのお話を伺った。
山崎さんが教壇に立つ、新潟県立新津工業高等学校の日本建築科は、新潟県が推進する「魅力ある高校づくりプロジェクト」の一環として平成24年に設置された学科。日本の伝統的な木造建築物に関わる知識と、職人の大工技術を身につけた、伝統技能を持つ技術者を育成している。

⎯⎯⎯ 新津工業高校のことを少し教えてください。

教えにいって、かれこれ約10年になります。毎年30人くらいのクラスで伝統構法の家づくりを教えています。そこから大工になるのが5〜6人。あとは上の学校にいったり建築関係の会社に入ったりしています。ここに行く前には職業訓練校でも教えていました。

⎯⎯⎯ 長年教壇に立たれていますが、どういう想いをお持ちなんですか。

想いというほどのことではないんですが、絶えたら困りますからね。伝統的な木の家を建てられる大工がいなくなるのも困るし、教える人がいなくなるのも困る。だからちょっとでも大工になりたい子の手助けになったらいいなと思って続けています。

ミーティング風景。休憩中の談笑から一転、仕事の話になると全員の顔つきが変わった

⎯⎯⎯ 山崎建築のお弟子さんたちは元々手刻みで木の家を建てたいという想いがあって弟子入りされているんですか。

そうです。元々彼らは新津工業高校の俺の生徒。だからある程度理解した上で、やってみたいと思った子が来てくれています。お互いの癖や好き嫌いなんかも最初から知っているから就職にありがちなミスマッチはありません。毎日ミーティングをしてコミュニケーションをしっかり取り、伝えたい想いや技術は日々口にしています。

⎯⎯⎯ お弟子さんたちに一言お願いします。

プロになったからには、ゆっくり作っていいってことはない。アマチュアとプロの差はそこ。何にでも言えることだけど、できるようになると楽しい。できないうちは楽しくないものです。だから楽しめるように鍛錬してください。

四人のお弟子さんからもそれぞれコメントを頂いた。

 

佐藤 良さん | さとう りょう・40歳・昭和56年(1981年)生まれ
「親父が大工だったので、小さい頃からその後ろ姿に憧れて自分も大工になろうと決めました。親方の木に対する情熱を尊敬しています。木にまっすぐ向き合い、適材適所一つひとつ吟味する姿勢を見習っていきたいなと思っています」

 

若杉 智之さん |わかすぎ ともゆき・23歳・平成10年(1998年)生まれ
第58回 技能五輪全国大会 銀賞
「子供の頃、TVで見た大工さんの仕事ぶりに惚れ込み大工になろうと思いました。親方から教わった手刻みの大工仕事をこれからもずっと続けていきたいです。いつか両親の家や自分の家を建てたいと思っています。親方は常にお客様の想いを第一に考えて仕事をされていて尊敬しています」

 

渡辺 雅空さん | わたなべ がく・19歳・平成14年(2002年)生まれ
令和元年 新潟県技能競技大会 建築大工・大工工事作業3級 優勝
「きついですけど楽しいです。小さい頃から何かものを作ったり絵を描いたりすることが好きでした。中学校の時から手刻みのできる大工になりたいと思っていました。何でもできる大工になりたいです」

 

板垣 幹さん | いたがき もとき・18歳・平成14年(2002年)生まれ
令和元年 高校生ものづくりコンテスト 木材加工部門全国大会 準優勝
「祖父と父親が大工で、自分も同じように大工になりたいなと思ってこの道に進みました。親方には高校でお世話になりましたが、もっと親方のもとで勉強したかったので弟子入りしました。自分が手伝ったものが組み上がって形になると嬉しいです。いろんなことを覚えて早く仕事に慣れるようになりたいです」


何気ない本物の家を作りたい。

 

最後に、昨今の大工を取り巻く状況と、山崎さんの今後の展望について語ってもらった。

⎯⎯⎯ ウッドショックの影響についてお話を聞かせてください。

今は一時的に市場の影響を受けるかもしれないけど、個人的には日本の木はそんなに高くならないんじゃないかと思っています。プレカットに使われているのは主に米松ですが、私たちの使っている杉の木はそもそも柔らかくてプレカットに向かないんです。ただ今後、プレカット技術が進歩していけば手刻みは敵わなくなるかもしれない。それで手刻みと同じことが出来るのなら、それはそれで構わない。そういう考えです。まぁ各人の生き方の違いなので良い悪いではないんだろうね。

 

⎯⎯⎯ 山にはいい木がたくさんあるのに、使う術がないと聞きますが。

今回の騒動で国産材が注目を浴びるようになりましたが、その生産能力を上げようにも、高齢化が進み、継ぐ人もほとんどいません。誰にその仕事を頼むんだという話ですよね。木を切る。木を下ろす。そしてまた木を植える。長い歳月とそれに付き合える人材が必要です。いくら山に豊富に木があると言っても使ってやれないのが現状だと思います。

⎯⎯⎯ 何か具体的な取り組みはありますか?

そんな林業を取り巻く状況もあり、杉山を持っている友人に協力してもらって、一貫体制で手掛けていこうと考えています。そうすれば適材適所で杉の木も選べるし、使いたい広葉樹を植えてもいい。損得勘定で考えたら良い話ではないかもしれないけど、やってみたいんだよね。これから必ず実現させていきます。

それから、間伐材を活用した大工さんでも作業できる木舞壁を考案しました。小舞を竹や葦ではなく木で作ることで左官さんだけでなく、大工でも作業しやすいようにしたものです。新津工業高校の生徒さんにも塗ってもらって扱いやすさは実証済みです。面材に使用しているのは杉の五分板で、例えば40坪の家を建てるためには丸太でおおよ三十石必要になるのですが、間伐材を活用したこの手法を多く採用してもらえれば、山を守っている人へ少しずつですが還元出来るようになります。木の家ネットの皆さんにもぜひ使ってもらいたいです。

山崎さん考案の間伐材を活用した木舞壁

⎯⎯⎯ これからの展望を教えてください。

伝統建築だからと言って、古いことに囚われすぎず、常に世の中の流れも見ていかないといけないと考えています。けど本当の本物は変わらない。今日まで本物だったものが明日突然偽物になるということはないんです。

何気ない家を作っていきたいですね。何気ない家なんだけど、車で通り過ぎてもう一回Uターンして見たくなるような家。決して派手な訳ではないんだけど、何気なく良いんだよ。しかも時間が経って古くなっても良い家。そういう家が理想です。これが難しいです。


 

《何気ない仕事》でつくる《何気ない家》。一見すると見逃してしまいそうな《突き詰められた普通》こそが、後世に残るべくして残る普遍的な本物になるのではないだろうか。聞けば聞くほどに情熱が伝わってくる一日だった。こんなに刺激的で短く感じる夏至の日は初めてかもしれない。


山崎建築 山崎 四雄(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

福井県高浜町は、七年に一度「高浜七年祭」が450年以上続いてきた歴史のある町。伊藤和正さんはこの地で、自然素材を使った昔ながらの家づくりを受け継ぎ、貫いている。大工二代目として、地域の担い手として、伝統を重んじながら、新しいアイデアも盛り込む姿を追った。

伊藤さんが愛する「七年祭」は「けんか祭り」の異名を持つ激しさで有名だ

「そこいらの大工さんとは違うって、有名やったんですよ」と伊藤さんについて語るのは、福井県美浜町・北山建設の北山大志郎社長。北山社長は10年ほど前から福井県内の空き家を再生するプロジェクトを始め、NPO法人ふるさと福井サポートセンターの理事長を務めている。プロジェクトのための勉強会を開くにあたって、伊藤さんに声を掛けた。

一緒にプロジェクトに取り組んだ北山社長(奥)と、リノベーションした現場で

北山社長はすぐに、「技術、発想、経験が本当にすばらしい」と伊藤さんに驚くことになった。プロジェクトでは2人をはじめデザイナーなどでチームを組み、敦賀市の空き家をコミュニティスペース再生に取り組んだ。

この家は昭和20年代に、地元の人たちがある医者に「家はみんなで建てるからここで病院をやってほしい」と頼み込み建てられたという、ドラマティックな場所だ。持ち主の事情により手放すことになったが、北山社長は「大切にされてきた歴史があるし、柱など今では考えられないような価値の高いものも使わせている。空き家を有効活用するモデルケースをつくりたい」と当時を振り返る。チームでのミーティングでも「古い雰囲気は残しつつ洗練された感じに」「人が集まって語れる場にしたい」と夢は膨らみ、ビジョンはまとまるものの、具体的にどこをどうリノベーションするかというと見当がつかなくなってしまったという。

そんな時、「ミーティング中は言葉少なかったんだけど、実際に手を動かすとどんどんかっこいい空間を作り上げていったのが、伊藤さんだった。プロに任せるとすごいって、感動した」と北山社長。

1階の土間には薪ストーブを設置した

2階と1階のキッチン部分は天井に、重厚感ある構造材が見えるようにした。特に2階は、壁と屋根の間にアクリル板を張ることで、梁組を見せつつ暖房効率を上げるようにした。アクリル板は丸鋸の専用チップソーを使うという、伊藤さんにとっても初の試みだった。

キッチン部分は、構造材と照明の融合が美しい。水回りにはモルタルを利用した。

 

室内の部屋の建具も、再利用したものを使った。伊藤さんは「古いものを大切に使いたいというのは自分も同じ。そのために、考えて手を動かしながらの、試行錯誤だった」と話す。一人泊まり込んでの作業にも「いいものを作ろうって集中できた」と苦にしない。

大工工事の経験から、構造がどうなっているかはイメージできる。解体しながら傷み具合をチェックし、魅せられる部分は魅せ、抑えることろは抑えて、バランスをとりながら工事を進めていった。

全体を整えるキモは、「左官工事」と伊藤さんは振り返る。ベテランの職人さんに、古い土壁を一度はがして、新しく漆喰まで塗り直すという作業をやってもらった。「ちりも丁寧に仕上げてもらい、全体の雰囲気がグレードアップした」と職人技のすごみを実感する。

職人技が光る漆喰壁

 

この場所はイベントスペース「朱種~Shushu」としてたくさんの人が訪れるようになったが、「どなたもきれいに使ってくれる。特に若い方のリピーターが多い。建物に整った雰囲気があるからだと思う」と北山社長は喜ぶ。今後は一棟貸しのゲストハウスとしても展開していく予定だ。

伊藤さんも「古い建物ってええなって伝えられる現場になるといい。自分も自信をつけさせてもらった場所なんで」と、思い入れは大きい。

「自信」。伊藤さんがインタビュー中に何度も口にした言葉だ。

仲間、職人・・・認め合えることで生まれた自信

高浜町で、手刻みの家づくりをする大工の家に生まれた伊藤さんだが「昔から大工になりたいと思っていたわけでもない。高校出る時に何しよ、うち大工やし、まあ、しよかってなった」という。父親には「外で勉強してこい」と言われ、隣の美浜町の工務店で修業した。厳しいけれど優しい親方と、何もないところから作り上げていく面白さに直面し、「勉強も部活も中途半端やった」青年は、懸命に汗を流した。

しかし、20歳の時に首を怪我し、入院。その後大阪でサラリーマンとして働いたものの、22歳で再び大工を目指し実家に戻ることに。そこには1歳下の弟がすでに大工修行中で、ライバルのように腕を磨いていった。

「弟はガチガチの職人肌でこだわりが強く、時間かけてものをつくる。自分はそこまでせんでもぼちぼちいこってタイプ。やから自信もなかった」という。30代のころにはバブルが終わり、ハウスメーカーが台頭と、時代が変わってきた。家業も昔ながらの家づくりから下請けをするように変わったものの、経営は厳しくなっていく。大工は弟に任せ、自分は別の仕事を探そうと考えた矢先に、弟が事故死した。大きな喪失感だった。

同じ頃、テレビで木の家ネットメンバー・宮内寿和さんの放送があった。「衝撃だった、自分も下請けなんかせんとやりたい仕事をやろう。やっぱり、木の家づくりがしたい」。ふっきれた瞬間だった。宮内さんの講演会をきっかけに木の家ネットメンバーとつながり、現場を行き来した。理想を実現するために模索する姿を目の当たりにすることで、その気持ちは確固たるものになっていった。

立地も後押しした。「福井はありがたいことに、手刻みがいい、和室を作ってという施主さんがいらっしゃった」と伊藤さん。ひとつひとつの家づくりに向き合う姿勢は好評で、口コミで途切れることなく仕事は続いてきた。

 

空き家再生のプロジェクト「朱種~Shushu」にも結び付き、同じものをいいと思える仲間ができた。彼らは補助金やポケットマネーを活用してでも「古いものを残したい」という姿勢で、伊藤さんを「こういう人たちのための大工技術や。儲けは多くなくても、なんとかやっていければそれでいいやんか」という思いにさせた。

また、このプロジェクトでは、伊藤さんが今まで一緒に仕事したことがないベテランの左官職人さんが現場に入った。「この職人さんがとにかく凄腕」と伊藤さん。仕事の合間に、土、自然、技術のこと、木の家ネットでの話題を、職人さんに聞いてみた。そうしたら『若いのによう勉強しとんな』と態度が変わって、いろいろと教えてもらえるようになった。自分がすごいって思った人に認めてもらえたようで、嬉しかったなあ」と目を細める。そしてそれが、自信になった。

伊藤さんが木の家ネットに入るきっかけであり、先輩大工でもある宮内さんは、「30代は知識を身に着ける段階で、壁にぶつかる。でも、この時の頑張りが次の世代の底力になる。伊藤くんは熱心に勉強していたから、今もいい仕事ができているんやと思う」と話す。伊藤さんをはじめとする今の40代、さらに若手の木の家ネットの職人たちを、「みんな優秀。これから先も職人として生きていけるように俺もできることせな、と刺激をもらっている」と、SNSなど新たな展開に力を入れる。

木と向き合っている時が一番楽しい

「木の家はいい。触って仕事していてとにかく気持ちがいいし、職人の気合が入ってる。骨組みがしっかりしているから、壁が崩れたとしても修理すれば長く使える」と言い切る伊藤さんのすがすがしさは、自信に裏打ちされている。

多忙な時期は、昼に打ち合わせや現場仕事をし、真夜中に墨付けすることもある。疲れているはずなのに、不思議と頭は冴え、集中できるという。「一人なのに一人じゃないって感じることもあるんよ。木には命があって、人間よりずっと長生きやからかな」とほほ笑む。

「木の家の良さを、もっとたくさんの人に知ってほしい」と考える伊藤さんは、8年前に構えた事務所を石場建て、木組みで建てた。壁は土壁にして、ベンガラを混ぜ赤くした漆喰を塗っている。ここで打ち合わせをする時に、自然素材の気持ちよさ、時がたつにつれて増す風合いの良さを体感してほしいという気持ちが込められている。

 

6畳ほどの広さで、壁にフォレストボードを張っているので暖気も逃げない。以前はハロゲンヒーター1つで冬を過ごせたというが、現在は愛猫「アントン」のためにエアコンを導入している。

 

屋根も片面ずつ​​5寸勾配と4寸勾配に変え、雨切りや見た目がどう変わるか見てすぐわかるようにした。

 

室内は瓶にパンと建築材料を入れて経年変化を見るなど、実験的な場所にもなっている。木と漆喰を入れたものと、一般的な建築材料をいれたもの。カビの生え方で、空間の違いが一目でわかる。

「どんな家で生活したい?って、これ見てほしいわ」と伊藤さん

 

この事務所は、先代である父親の建てた作業場が老朽化し、移設したことををきっかけに新築した。その父親も1年前に引退し、現在は社員1人との2人体制。その社員も妹の夫で元土建業をしていたという関係だ。

工務店のかたちも、35歳で事業継承し42歳で法人化と、変化してきた。法人化して7期目となり、設計、大工業は伊藤さんが引き続き担うが、経理は外注するようになった。最近は新築や大改修を行うときは、モデレーターに頼んでBIMのモデリングも取り入れている。

「本当は『自分がもう一人いれば』って思うくらい、何でも自分でやりたい」という伊藤さんだが、プロにはプロのやり方があることを知り、任せるところは任せるよう方向転換した。

柔軟にかたちを変えていくのは、いい仕事を遺すため。弟亡き後も大工を続けていると、施主さんたちに「ここは弟さんがやってくれたんやね」「大切に使わなね」と言われることがあった。作った大工は死んでも、家は遺る。中途半端な仕事はできない。

長く残っていく家はやはり、昔ながらの手刻み、木組みの家だ。最近力を入れている改修工事も、昔の大工が手間と時間をかけて建てたからこそ次の世代へをつなげていける。経験から「利益に走ると、仕事が雑になる」という実感もある。

木を丁寧に扱う伊藤さんの手は、仲間や職人とつながりながら、未来にのこる家づくりを手掛けていく。

イトウ工務店 伊藤和正さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、一部写真提供:伊藤和正

● 取 材 後 記 ●

ご家族の死、ご自身の怪我など、胸にしまっておきたいようなお話も語ってくれた伊藤さんには、感謝が尽きません。「やりたい仕事をやる」。現在、実現できていることを心から嬉しく思いましたし、応援しあう木の家ネットのつながりに感動もしました。このような家づくりが未来に残せるよう、ライターとしても気が引き締まりました。

多くの神社仏閣や京町家が残る歴史深い街、京都。この地で熟練の技術と豊富な知識をもって、国産無垢材と自然素材にこだわり、住宅から社寺・数寄屋まで一手に手がける大西伸之さんをご紹介します。

大西伸之(おおにしのぶゆき・65歳)さんプロフィール
1956年(昭和31年)岡山県新見市生まれ。伝統建築施工 有限会社 大西伸工務店 代表取締役。中学校の時に工務店を営む両親の仕事の関係で京都へ。学校時代から大工の父親についてたびたび現場へ。一般企業に就職し数年勤め、結婚を機に22歳で本格的に大工の道へ。以来40年以上に渡り、民家・町屋・社寺・数寄屋など、様々な木造建築の新築・改修を担ってきた。


教わらない。目で盗む。切磋琢磨。

訪れたのは京都市北区。路地に面した2階建ての住宅が完成を迎えようとしていた。ちょうど翌日引き渡しという絶好のタイミングで見学させてもらいながらお話を伺った。

⎯⎯⎯ 木の家・大工という職業との出会いについて教えてください。

「若い頃に大工の親父について現場に行っていたので、建築について全く知らないという訳ではありませんでした。大工になってからは親父の下で修行というよりは、親父と二人三脚で仕事を進めていくという感覚でしたね。最終的には親父を使うようになっていました(笑)」

北区 冠木門のある家にて

⎯⎯⎯ 修行や弟子入りしていたわけではないとのことですが、社寺や数寄屋など様々なものを手掛けられてきたと思いますが、どこで技術を磨かれたのですか?

「具体的に誰かに教えてもらうのではなく、行く先々の現場で目で盗んで覚えていきました。恵まれたことに、周りに同じような仕事をしている仲間が結構いたので切磋琢磨して良い刺激になりました。知恵を絞り合いながら技術を磨いてきました」

 

優れた技術と豊富な知識、そして質のいい材木があって初めて実現する木の家。その要となる継ぎ手のサンプルを見せてもらった。「継ぎ手という継ぎ手のサンプルは作っていて山ほどあります。全て丸太から自分で作ります」と大西さん。

サンプルに使われている北山杉。とても目が細かい。

まるでパズルか知恵の輪のようにがっちりと組まれている。

⎯⎯⎯ 建てられる時に気を配っていることなどはありますか?

「基本的に外材は使いません。桧と杉ばかりですね。化学物質は極力使いたくないので、本物の無垢の木を使用してます。建具もできる限り木製にしています。ここは準防火地域なのでサッシを入れています」

⎯⎯⎯ 大西さんの元に依頼が来るときには、お施主さん自身も自然素材や木造住宅に対する知識を既に持っていらっしゃるんですか?

「そうですね。その場合がほとんどです。この家のお施主さんは、私が昔建てたアトピー専門の病院の患者さんなんです。いろんな工務店の門を叩いたそうなんですが、建材のサンプルがすべてアウトだったようで、『大西さんしかいないんちゃう?』ということで紹介していただきました。他にもそういう事例が多いです」

細かいところにまで粋なあしらいが施されている。

左:一階には杉と桧を使う。 / 右:二階は杉のみ。

左:家具も大西さんの手によるもの。 / 右:洗濯物を室内に干すため、通気を考え収納の扉は普段は使わないパンチングの合板を使用している。


100%完璧はない。一生勉強。

 

⎯⎯⎯ 様々なお仕事をされていると思いますがメインはどういったものでしょうか?

「住宅もお寺もその時々でいろいろです。営業を一切しないので、いろんな方から回り回って声をかけて頂いて、仕事をいただいています。例えば今日ご案内する《華開院》では知り合いの工務店が檀家で居はるんですよね。その工務店の専門外で私ができる部分をお手伝いさせてもらいました」

⎯⎯⎯ なるほど。営業しないからこそミスマッチが起こらないんですね。40年の間にいろいろなことがあったと思いますが、どんなターニングポイントや転機がありましたか?

「それはもう毎回ありますね。仕事をやる上で100%完璧はないんで、まだまだ勉強しながらやっています。ゴールはないんです。一生勉強ですね」

⎯⎯⎯ 今後の展望などを教えてください。

「実はそろそろ引退したいんですけど、お声が掛かるんで、お声が掛かる限りは続けていきたいですね」

「最近までずっと若い子を採っていたんですけど今は一人で動いています。棟上げの時なんかは兄貴や仲間に手伝いに来てもらっていますが、お施主さんとの打ち合わせはもちろん、業者の段取り、現場の監督から、最後に蜜蝋ワックスを塗るところまで、全部一人でやっています。何でも屋です(笑)。時間はかかりますが丁寧にきちんと仕事をしたいんです」

次に会話に出てきた《華開院》など、近年手掛けられてきた建物を案内してもらった。

 


◎上京区 華開院(けかいいん)

浄土宗の寺院で、通称 五辻御所(いつつごしょ)とも言われている。室町時代には皇室との関係が深く、公家たちの墓が今も移し葬られている。

檀家に知人の工務店の人がいたことから紹介してもらい、2009年に書院の修復を、2011年に門の修復を手掛けた。

 

上:白く見えている部分は、膠(にかわ)と胡粉(ごふん・貝殻を原料とする白色顔料)を混ぜて塗ってある。 / 下:一回バラして組み直したという門。傷んだ柱は根継ぎしてある。


◎北区 冠木門のある家

2013年に完成した住宅で、すべて京都府内産の木材を使用している。細やかな職人技の積み重ねによって全体の品格に結びついている。

 

左:杉皮の外塀 / 右:細やかな遊びを取り入れている。「あんまりやるといやらしいので塩梅が難しい」と大西さん

「ケラバ(外壁から出っ張っている瓦の下の部分)は通常漆喰にしますが、この家は木でやりました。職人さん泣かせですが」と大西さん。他にも細かい意匠が光る。

門をよく見ると、隙間は同幅にしつつ木の太さを少しずつ変えて配してある。この絶妙なグラデーションがすっきりとした印象を与えている。


◎向日市 H邸

築120年の住宅を2017年に改修。母屋の他に納屋なども手がけている。

 

 

天井一面に敷き詰められた葦と、「とても立派だったので天井を外してあらわしにしました」という梁が印象的だ。

下駄箱と縁側の天井は竹の網代。

「ここまで上がって来られたお客さんはみなさん気に入ってくださいます」とお施主さん。


 

40年以上にわたり培ってきた職人技と、100%の満足はないという直向きで真摯な姿勢を併せ持つ大西さん。

まったく営業をしないという彼の元には、彼にしかできない仕事・彼にしか建てられない家を求めて、いつも人が集まってくる。


大西伸工務店 大西 伸之(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

コロナでデジタル化が加速する昨今、伝統建築の改修でBIMをはじめとしたITを導入し、可能性を見出している設計士がいる。福井県の「一級建築士事務所山田屋」を営む山田健太郎さんだ。「複雑で手間がかかる伝統工法こそ、ITを利用した見える化がとても効果的」と手ごたえを感じている。山田さんの緻密かつわくわくが感じられる仕事ぶりと、BIMを学び始めた三重県の若手大工の対談から、「IT×伝統建築」という新しい風を読む。

山田さんが座るパソコンの画面上に、現場の立体モデルが浮かび上がる。山田さんは、野帳はタブレットのノートアプリに書き込み、ドローンや360度カメラでの撮影、3Dスキャナを活用した点群データなどを資料に、スケッチアップやVectorworksというBIMの設計アプリケーションを駆使して設計立案をするスタイルで、木造住宅や古民家・文化財などの改修設計を行っている。

Vectorworksで作成したモデル(左)と野帳のアプリ(右)

ドローンを活用しての撮影

BIMとは、Building Information Modeling(ビルディング インフォメーション モデリング)の略で、コンピューター上に建物の3次元モデルを再現し、設計する。「目の前に現場があるような感じ。こんな建物ができるのかって、圧倒的にわかりやすい」と山田さん。設計された部材パーツには幅や奥行き、高さなどのデータが盛り込め、またそのデータはクリックひとつで伸ばしたり縮めたりできる。設計図の中の柱を太くする(または細くする)、間口を広くする(または狭くする)動作も短時間ででき、それによって室内のイメージがどう変わるかも明瞭に伝えられる。

この手法が確立した背景について山田さんは、これまでの設計の表現の手法は「建築の二次元的な表現を紙の上に手で書いてコピーして配る」ことから、それを「コンピューターの中で二次元で書いてプリントして配る」よう進化してきたが、「21世紀に入りコンピューターゲームの爆発的発達によって立体データを高速に処理・表示できるようになり、その応用として建築を三次元的に表現し、そこから半自動的に二次元表現を作成するBIMとよばれる技術が立ち上がった」と話す。

BIMの「最初から立体で設計する」手法は、これまでの建築製図とは全く異なり、「図面間の整合性の高さ」「直感的なわかりやすさ」「新しい図面表現」といった利点があると山田さんは考える。

まだ伝統建築の分野では利用は一般的ではないが、国土交通省が建設現場でICTや3次元データを活用した作業時間短縮、生産力向上を目指す「i-Construction」というビジョンにも適応した“これからの”設計手法といえるだろう。

山田さんはBIMを導入して約6年、愛用のVectorworksは10年目だ。昨年から勉強を始めた三重県の大工・東原大地さんと、BIMのおもしろさについて語り合った動画を紹介する。

大地さんは木の家ネットメンバーの東原達也さんの息子で、まさに“これからの”大工だ。

建設現場での情報共有ツールとしての有効性が光るBIM。単純に「おもしろい」というわくわくも詰まっている。活用方法は幅広いが、その中から山田さんが使っている①3次元モデルからの図面起こし②部分改修の色分けの2点を動画で紹介する。

①3次元モデルからの図面作成

福井県の発心寺本堂の6年にわたる大改修工事では、山田さんを含むプロジェクトチームがBIMで作った3次元モデルから改修案を提示。モデルから図面を起こし、職人に渡したという。

動画にはないが、断熱材などの資材を入れる場合のシュミレーションもでき、そのシュミレーションから資材のサイズや規模のデータを取り出すこともできる。

②部分改修の色分け

鐘楼の改修設計の際、折れてしまった屋根の構造材をどのように分解し、どのように改修するか、色分けして職人に示した。黄色く塗られた部分を解体し、赤は新しい木材に付け替え、緑は補修、といった具合で、設計者の意図を正確に施工者に伝えたいという目的があるという。

山田さんは3次元モデリングに欠かせないのが、「現況調査をきちんと行うこと」と強調する。3次元モデルを作成し、その上に、丁寧な調査から得た現状の情報を重ねていくことで、その建物が抱えている問題が見えてくるという。解決方法も提示できるのだ。「ちゃんと検査しないで、いきなり開腹手術をする先生はいませんよね」と説いている。

現場だけでなく、施主さんにとってのメリットももちろんある。線だけで書かれた図面は、毎日設計図に触れることのない人には完成予想をイメージすることは難しい。山田さんは「3次元モデルなら施主さんと設計の段階から完成イメージを共有できる。納得感が得られ、信頼関係も築けるでしょう」とみている。

得意分野と建築が重なった瞬間

ITを使いこなす山田さん。幼いころの愛読書は「百科事典」だったという好奇心旺盛な性格だ。高校時代はコンピュータープログラミングにのめりこみ、「家に機械がなかったから、毎日学校帰りに電気屋によっていじらせてもらっていた」と振り返る。

地元の福井大学建築学科に進学したものの、エネルギーは引き続きプログラミングの勉強と、アマチュア演劇に注ぎ込む日々。建築とは距離を置いた青春だったという。

しかしある時、膨大な時間をかけてプログラミングした結果がフロッピー1枚に収まってしまうことにむなしさを感じ、並行して学んできた「大きくて広がってなくならない空間=建築」の道に進むことを決心した。劇団では照明担当だったこともあり「演出された空間へのこだわりはあった」という。

卒業後は岐阜の設計事務所に就職。デザイン性の高い設計を手書きで学んだ。その後福井に戻り、公共工事などを手掛ける事務所で働いた後、2002年に独立した。

福井では大学時代の恩師の手伝いをする機会もあり、プログラミングが得意だったことから2003年の地元イベント「わかさ路博」にデジタル展示する三重塔のモデリングを頼まれた。そこから、建築とITの道が重なり、BIM設計など現在の仕事につながってきた。

三重塔のモデリング

ただ、仕事として職人さん達と関わる中で「伝統木造建築の奥深さに触れ、学びの必要性と重要性を感じた」と実感。20代の頃に参加した市民団体「ふくい・木と建築の会」で得た横のつながりを通して、大学の恩師の手伝いや社寺を手掛ける職人さんから学ぶとともに、木組のデザインゼミナール、ヘリテージマネージャー講習会、JIA文化財修復塾などにも積極的に参加した。月に1回は勉強会のため県外に出向いた。さらには大阪のMOKスクール、住宅医協会で学び「住宅医」の資格も取得した。

積み重ねた知識に、自身のコンピュータスキルをプラスし3次元モデルを作る。そうすることで「あ、この建物はこうなってるんだって理解が深まり、自信が生まれた」と山田さん。職人さんへの提案や施主さんの要望整理など、仕事の質が高まったという。

古民家改修のモデリングと、解体してあらわになった軸組。

ITは建築をみんなにわかりやすくするツール

「伝統建築にこそ相性がいいのが3次元モデルだ」と山田さんは言い切る。

社寺や古民家など改修のスパンが長く、たくさんの設計士や職人がかかわる現場では、それぞれが描く完成予想図が完全に一致していないことも多い。わずかな違いであっても仕上がりに影響は出てくるし、すりあわせの労苦は現場の士気や全体のスムースな進捗に響く。3次元モデルで共通解を提示することは建物が実際に立つ前に、問題を見つけ、解消することにも結び付く。

山田さんは、物件ごとに同じBIMアプリを使う設計士とチームを組み、作業分担をすることが多い。先述した発心寺の大改修は規模が大きく設計も複雑だったため、5人のチーム編成で取り組んだ。福井県外のメンバーもいたため情報共有はzoomやDropboxを活用。3次元モデルによるわかりやすさも手伝い、トラブルなく作業を終えられたという。

そして、職人のすごさを改めて実感している。山田さんは現場にノートブックとモニターを持ち込んで説明すると、大工棟梁はモニターに映る3Dの軸組を見て、「ここはもう少し下がっていると思う」「ここの組み方はちょっと違うと思う」など指摘し、判断を即座にしてくれた。「経験値の高い職人の目にはすばらしいものがある。それは、2Dでは伝えきれない情報を表現できるBIMのすごさでもある」と強調する。

ITの活用により、限られた条件の中で良い設計をして良い現場ができる、と山田さんは考えている。職人はそのぶん正確な刻みと納まりに心を配り、設計士も勉強して正確に意図を伝え、協働してよりよい建築を目指すビジョンを思い描く。

また、伝統建築をはじめ長く伝えられてきた建物には、建てた人、住んだ人、訪れた人、維持補修に関わってきた人など、たくさんの人の愛着が詰まっている。改修の際は「お預かりした建物をよく観察してきちんと改修して次の世代にお渡しするということの大切さが、身にしみている」と山田さん。

かやぶき屋根の古民家改修にもBIMを活用した

これまで改修した物件について、次の大改修への取り組みは数十年後。きっと、その間にもITは革新していく。「どんどんアップデートされる中で1人で勉強するのは大変だから、みんなで勉強しあったらいいんじゃないかな」と山田さん。自身もBIMは友人と一緒に学んだことでモチベーションを保ち、伝統建築は勉強会に参加することで多くの刺激をもらったという。

その先には、次の時代の改修に直面した人たちに建物の価値を理解してもらい、改修してさらに未来へとつないでいこうと再び決意してもらえるように、という希望がある。そして、ITにそれをかなえる光を、見出している。

一級建築士事務所 山田屋 山田健太郎(つくり手リスト)
取材・執筆:丹羽智佳子、動画編集・写真提供:山田健太郎

● 取 材 後 記 ●

木の家ネットではこれまでもいくつかの動画を紹介してきましたが、今回は初の“対談”形式。楽しんでいただけましたか?発案は山田さんご自身で「若い人の意見を聞いてみたい」というご指名。まず、そのアイデアに驚かされました。対談中、言い方を変え動画を交えながらお話しする知識の深さと、わかりやすく伝える努力を惜しまない姿勢に頭が下がりました。新しい世界は、面白い。改めて気づけた時間でした。

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