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建具職人・有賀恵一さん(有賀建具店):ちがっているから、おもしろい

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里山がなによりの遊び場でした

建具屋は親父の代からです。親父は小児麻痺で足が不自由だったので、座ったままでもできる建具屋がよかろうという、製材業を営む父の兄の勧めがあって、伊那の棟梁に弟子入りしてやがて独立し、自宅の一角に「有賀建具店」を構えたのでした。子どもの頃から足が動かない親父の手伝いをしていました。学校から帰れば、物を動かしたり、材料や道具をもってきたりといった仕事が待っています。遊べないのは結構つらかったですが、どこかで「親父は足が動かないんだから、仕方ないんだ」と腹をくくっていました。家業を継ぐことになるだろうなあ、ということもずっと思っていました。そんな中で楽しみなのは仕事場が休みになる日曜日でした。早春はサワガニとり、春から夏は川で魚とり、秋は木いちごやきのこ狩り、冬はそり、と遊びはきまっていました。弁当をもって一日山で遊んでいたものです。変化に富んだ多様な自然の中で、「あれをとってやろう!」と、じつにいろいろな工夫をしながら遊んでいたのです。そんな日々が「雑木」といわれる里山の木々への愛着につながっていたように思います。

基督教独立学園高等学校のある山形県小国町は、冬、積雪が5メートルを越えることも。有賀さんが通っていた当時の冬、雪に埋もれる校舎。雪下ろしをしているのは生徒たち。

高校の3年間だけは、クリスチャンだった親父の勧めで、山形の小国の山奥にある「基督教独立学園高等学校」という、内村鑑三の弟子がつくった学校に行きました。1学年が25人、寮での共同生活。なにしろ山奥ですし、親父の手伝いをすることもない!

ですから、3年間、思いっきり山と川で遊びましたよ。伊那よりもさらに山奥ですからね。木も太いし、種類も多いし、魚もいろいろな種類のがわんさかいて、本当に豊かなところでした。そこで体を思いっきり使って遊んだことは、強烈な思い出です。宝物のような時間でしたね。今でも私にとっては「つい、きのうのこと」です。ブナの原生林の中にあったんですが、その頃は「ブナに用はない。全部伐って、杉を植えよう」という時代でしたから、毎日、原生林を切るチェーンソーの音が響いていました。皆抜された太いブナが、みんなパルプになっていく。「ちょっとこれは変だな」高校生ながら、そう思ってましたね。

高校の男子寮からのながめ。

仕事を始めた頃は、全然違っていた

高校を卒業して伊那に戻って、18歳で親父に弟子入り。10年間は修業の身でした。親父と一対一の毎日、きつかったですね。修業そのものよりも、仕事の内容が好きになれないのがつらかった。ちょうど昭和30年代の半ば、高度経済成長時代ですから、仕事に追われるような日々でした。効率を優先せざるを得ない中、木で枠を組んで、その表面に木目がプリントされた合板を貼りさえすれば出来上がり、という「フラッシュ建具」が出て来た頃でした。「建具は、狂う」ということに苦しんで来た親父は、「こんないいものはない」と飛びつきました。当時の職人の多くがそうだったんだと思います。でも、子どもの頃から仕事場で本物の木に触って来た自分には、なんだかこれは変だ、という違和感がつきまといました。

それにね、つくっていて、楽しくないんです。どんどん、さっさか、できるんですけれど、つまんないんです。材料を見なくていい、頭も使わない、調整の手間もない。効率はよくなっていても、「ものづくり」ではなくなっていたんですね。外国産材が入って来たのも、ちょうどその頃でした。かなり大きな木からとるからか、狂わない、揃ったものが出来ていました。それも私にはつまらなかった。という以上に、危機感をもちましたね。「こんなものづくりをしていていいのか?」

プリント合板の建具で育った子どもにとっては、合板が本物で、本当の木がにせものになってしまう。均一で揃ったものがいい、ということになってしまったら、その子が生きていく人生が人と同じものでなければならなくなる。「人はそれぞれちがうのに!」

無垢の国産材に切り替えて行くまで。

骨組の表面に合板ベニヤなどを貼って仕上げるフラッシュ建具。無垢の建具より簡単にできる。

28歳で修業があけると同時に、親父は経営も私に譲りました。フラッシュ建具から無垢の建具へと仕事の方向を変えて行きました。父の兄が「有賀製材所」という建築請負もする製材所をやっていて、有賀製材所で建てる家にうちの建具を入れる、というのが仕事の多くを占めていました。「実は、無垢でやりたいんだ」と叔父に打ち明けて、希望をきいてもらいました。どうしたって、フラッシュよりも無垢の方が手間はかかります。それでも、どうして無垢を使いたいのかという思いが通じて、少々コストが高くなってもいいよ、と受け入れてくれたのは、ありがたかったですね。

た。外国産材はみんなおんなじ顔しているようでつまらない、という思いもありましたし、商社が外国産材をもってくるために現地の自然環境をだめにしている話や、国産材が利用されないから日本の山が荒れるんだ、というような話も知って、やっぱり国産材がいいな、という確信を深め、全面的に切り替えました。これでやっと、自分の心にかなう仕事になり、仕事が好きになっていったんですね。そして、だんだんに雑木といわれる里山の木々を使った家具もてがけるようになり、今に至っています。

森世紀工房の誕生。

森世紀工房のポスターになった有賀さんの写真

長野県は田中知事になって、脱ダム宣言をしましたが、その分「森林は緑のダム!」ということを掲げ、林政に力を入れているんです。長野県の森林は奥山は国有林ですが、ふもとの里山はほとんどが民有林。ひとつの区画が小さく、山主が都会に出て行っていて林境すら分からないというのが現状で、ほとんど手入れがされていません。戦後にものすごい勢いで植林されたカラマツが間伐もされず、放置されています。

このカラマツ材の需要拡大をめざす林政事業として、長野県が平成14年に「森(しん)世紀プロジェクト」をたちあげました。その一環として「カラマツをつかった家具づくり」を建具組合にもちかけたのです。家具づくりなのに建具組合?と不思議に思われるかもしれませんが、家具を専門にやっている人たちが扱うのはほとんどが広葉樹なんですね。カラマツは針葉樹ですから、針葉樹を扱い慣れた建具職の方がよいのではないかということで、木工デザイナーの小田原健先生の勧めもあって、長野県建具協同組合が実施主体に選ばれたわけです。

このプロジェクトのことを地方紙で読んだ私は、さっそく建具協同組合に電話をしました。「ぜひ、やらせてくれ」と。ほどなくして、信州の建具職人30名余が集まって「森世紀工房」がたちあがりました

森をまもり、はぐくむ家具。 信州の豊かな森を知りつくした職人たちが、ひとつひとつコツコツとつくりあげます。

工房のコンセプト:目の前の森を活かし、デザインとの融合による匠の技を継承し、森と川と空気を蘇生させ、人々の心を豊かにする。

工房の目標:県産材、特にカラマツ材を中心にデザインと機能と価格が一体化した製品・サービス(家具、建具、リフォーム等)とし、県内外の皆様に提案する。

森世紀工房のパンフレット。詳しくは公式サイト http://park20.wakwak.com/~s-koubou/ へ。

ガラス張りの知事室の椅子をつくりました

仕事場の高いところに知事室のいすの見本が吊ってあった。

この森世紀工房の初仕事が、木工デザイナー小田原健先生の図面をもとに、長野県庁にガラス張りの知事室のテーブルとまわりに置く椅子12脚をつくることだったんです。森世紀工房のメンバーのうち「椅子を作ってみましょう」と手をあげたのは、結局うちだけ。つくることになりましたが、これが大変でね。

寸法と姿図しかでていない図面をいただいて2ヶ月。それを読んで解釈して「こうじゃないか」と想像しながら試作をはじめました。背もたれ、アームレストなど、いすのさまざまな曲線を出すための治具をつくり、組み方を工夫し、3作目の試作でようやく小田原先生のOKが出ました。それまでは「私が望んでいるのは、そうじゃない」と返されて、苦労しました。

OKが出た試作品はうちの工場の高いところに吊って、見上げられるようにしました。みんな分からなくなるとその見本を見てね。そうやって数をつくっていくうちに、こんどは「ここはこうした方がいいんじゃないですか」と現場サイドから小田原先生に提案していくようになります。ふだんは自分の頭の中にあるものをつくっているのですが、人が設計したものを形にするというのもおもしろいし、本当に勉強になります。

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