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設計士・古川保さん(古川設計室):木の家づくりは仕組みづくり

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設計士 古川設計室/古川保さん

1947 佐賀県武雄市生まれ 1971 熊本大学 工学部 土木工学科 卒業 1992 すまい塾古川設計室(有) 設立 1993「川尻六工匠」を結成 1996 日本建築士会連合会まちづくり大賞 1999 九州建築士会住宅コンペ最優秀賞 2003 熊本の木で家をつくる会の発足 2005 真の日本の住まい住宅コンペ 林野庁長官賞 2006 第2回木の建築フォーラム「木の建築賞」

ハウスメーカーをやめたわけ

もともとは大量生産の家づくりをするハウスメーカーにいました。職人が一棟ずつつくっていく木の家づくりとは対極にある世界です。設計者として自分なりの意義もやりがいも感じて、仕事してきたんですが、今から15年前ぐらい前のバブルがはじけた頃から「もう量産の時代じゃないな」という思いが強くなってきたんです。人口も増え、家族の形態が核家族化していて190万戸の家の量が必要だった時代とはもう違う。それなのに、あいかわらず量産第一の原理での家づくりに携わることもないんじゃないかなと。

当時、新しい造成地につくる住宅団地の仕事を任されたりもしていたんです。なんにもないところにひとつの町をつくる団地計画にあたっては、家の形や配置だけでなく、ゴミ置き場はこう、クルマの台数はどれくらい、子どもの遊び場はこう、という具合に総合的に考えますが、その前提として、大体の客層を想定するんですね。年収が800万ぐらいの家族がローンを組んで買えるぐらい、とかね。そうするとその町には、大体似たような年収、家族構成の家庭が集まるわけです。

そうやってがむしゃらにつくってきた団地が引き渡し10年を迎えた時、はっと気づいたんです。計画した通りに、緑も増えていい感じにはなってきた。けれど、その町から小学生がいなくなっている!・・そりゃそうです。ここは同じような世代、同じような年収の人が集まる町としてつくってしまったんですから。「あれ、こんなまちづくり、にせものなんじゃないの?」 自分で計画してきたところがそんな風に見えて来てしまって。そして、「独立しよう」と思い切ったんです。

まちづくりに関われる仕事がしたい!

もともと熊本生まれではなく、佐賀県内陸の温泉地、武雄の出身です。武雄温泉は、あの東京駅舎で有名な辰野金吾先生が手がけた温泉センターがあります。我が家に内風呂が無かったので、入浴は温泉センターでした。辰野金吾先生の、爪の垢を煎じたお湯に浸かったわりには出来が悪いようです。大学で熊本に出て来てからは、ずっと熊本です。

さて、個々の家ということよりはまちづくりということがテーマで独立するわけですから、「どこで設計事務所を開業するか」が重要になります。どうせなら「今もいい町並みが残っているところ」がいいな、と。熊本県下で気になる場所が3カ所ありました。古くからある3階建ての木造の家並みが美しい日奈久温泉、白壁の古い家が立ち並ぶ松合、そして、熊本市内でももっとも海に近いの川尻。いい町並みが残っているだけでなく、まちづくりの運動がさかんなところに入って行った方がおもしろそうだ。そういう目で見ると、候補は川尻に絞られました。

川尻は、その名前が示す通り、トラックのない、船での輸送が主だった昔には加勢川に川船が行き交い、米や木材の集積所として栄えた場所です。和菓子や刃物など、職人技術も栄えたところだったのですが、今では熊本の中心部からも遠く離れたさびれた町になっています。バブル時代の影響も受けていないから、新築の家があまりなく、古い家は結構残っているんです。古い造り酒屋もあるしね。けれど、老人しかいない、というほどにさびれきってはおらず、おばあちゃんも子どももいるところも気に入りました。

この川尻の地元に「川を向いたまちづくりをしよう」と頑張っている村田幸博さんがいたんです。川尻は川の町であり、昔から行われている精霊流しの行事も残っていたりするのに、日常的には「川は汚いから、川で遊ぶな」という町になってしまっていた。そこで、村田さんは「南部地区市民の会」の中心メンバーとして住民総出での川の清掃をする一方、「楽しいまちづくり」をモットーに親子カヌー、いかだ流しなどの川遊びのイベントをしていたんです。こういう人がいるところなら、やりたかったまちづくりができる!と思い、村田さんを頼って川尻に来て、川尻地元の瑞鷹酒造の米蔵だったところに事務所を構えられるよう渡りをつけてもらったんです。

川尻で設計事務所なんか開いてやっていけるの?と心配する友人もいました。たしかに、川尻にはそれまで設計事務所なんてひとつもなかった。でも、考えようによっては、熊本市中心部では3000人に1人ぐらいの割合もいる設計士が、1万人規模の川尻にたった1人というのは、かえっていいんじゃないか、という楽観的な読みでいました。必要とされさえすればね。はじめのうちは友達や親戚に声をかけて年間2棟ぐらいのペースから始めればいい、そのうちまちづくりを通して、仕事もまわっていくだろう、ぐらいの気持ちで始めました。

酒造元の米蔵を改装して設計事務所にした。

まちづくりのプロである建築業の人たちを組織する

吉田桂二先生も「屋根瓦ひとつ統一できなくて、なんでまちづくりだ」と言っていましたが、設計士としてのまちづくりは、町並みづくりと思っています。でも川尻に他所からやってきた設計士なんていう胡散臭い人間がいきなり「まちづくりをします」って言っても説得力はないわけです。

どうしたらいいんだろうか。・・さびれているとはいえ、川尻にも大工さん、電気屋さん、建具屋さんなど、家づくりに携わる人たちはいて、ものを売るだけの商店街の店が軒並み閉店している中でも仕事しているわけです。町並みをなんとかするためには、この人たちが動かないとどうにもならない。だったら、川尻にいる家づくりのプロ集団を組織していくのが、早道じゃないか、と考えたんです。

で、まず、元は米蔵だったこの事務所の改装をしてくれた地元の大工さんから口説いていったんです。「一緒にまちづくりをしませんか」ってね。所詮、設計士なんて紙に鉛筆で図面だけ描いて大工に命令してばっかりいる、としか思われてないんです。だから町内会でお酒飲みながら、仲良くなるところからはじめました。で、「まずは住民意識の向上から」と意気投合していってね。もともと川尻には「開懐世利(かわせり)六菓匠」という和菓子製造とまちづくりとを結びつける和菓子屋さんたちがいて、年一回「お菓子ととのふれあい工房」っていうイベントをしたりしていたんですね。それをもじって、グループの名前は「川尻六工匠」としました。

川尻の町と建築とを結びつける形で町に融け込んで行くには何をしたらいいだろう・・。遠回りのように見えても、イベントをするのがいいんです。ちょうどその頃、河尻神宮に古くからある能舞台がもう崩壊に瀕していたんですね。修復には600万かかると氏子総代はしぶっていたんです。「使われるようになれば、壊されないかもしれない」ということで、この能舞台でイベントをして、川尻の貴重な財産なんだっていうことを認識してもらおう、と思い立ちました。

熊本大に居た頃はちょうど大学紛争で学校が封鎖されたりという時代だったんですが、そんな学生運動まっただ中の学生会館で、山下洋輔のコンサートをやったことがあったんです。またやりたいね、というような話も出ていたので渡りに船!ということで「河尻神宮の能舞台でやろうよ」と持ちかけてみたんです。

ということで、まちづくりのためにたちあがった川尻六工匠の初仕事は、ジャズコンサートだったんです。ちらしづくり、チケット販売、舞台の演出、客入れ、何から何まで手づくりのイベントでしたが、大成功で、地元でも「川尻六工匠」を認知してもらうきっかけになりました。ほかにも禅寺での「名月と横笛」コンサート、瑞鷹酒造の酒蔵での「蔵史区コンサート」などもしました。能舞台での二回目もやったんですが「西洋の音楽をやるための能舞台ではない」と言われたりで「じゃあ、能をやりましょう」と「薪能 IN 河尻神宮」をしました。能なんて見たことない、という川尻の人たちに「死ぬまでに一回は見ましょうよ」なんて言ってまわってチケット売りもがんばりました。能役者の人は「出演料は安くご協力します」と言ってはくれたんですが、土壇場になって「この人の笛でなきゃ舞えない」とかで、想定していなかったギャラや宿泊費が発生したり、結構大変な思いもしましたが、まずは成功。その縁で、隣県での能舞台の設計依頼を受けました。

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