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工務店・和田勝利さん(和田工芸):古民家再生へのこだわり

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工務店社長 和田工芸 和田勝利さん

1944 広島県生まれ 1959 大工見習いとして修業を始める 1974 埼玉県久喜市にで和田工芸 設立 1991 「かば園長の家」竣工 1995 古民家再生を手がけはじめる

中学を卒業して大工修業に

広島生まれ、山形育ちです。といっても、どちらも家族のルーツと関係のある場所ではありません。親父は戦前は大工をしていましたが、国全体が戦争に向かっていくと、家を建てる時代でもなくなってきて、鉱山の坑道を支える木枠をつくる仕事に転向したんです。親方として職人を引き連れ、坑道づくりを請け負った現場をまわって・・と、山から山へと、全国を点々としていました。小学校から中学にかけては、山形の新庄にいましたから、幼少時代の記憶といえば、山形の鉱山での長屋暮らしです。9人(戦死や病死したきょうだいも数えると13人です)の下から2番目という大家族だし、職人もいるし、で母は大変でした。小柄な人だったしね。で、私も食料の足しにと、しょっちゅう川で魚や山菜をよく穫りに行っていましたよ

親父が小学校6年で亡くなったので、中学を卒業したら就職、という覚悟は決まっていました。働くのなら大工になりたい、とは思っていて、中学に求人が来ていた小金井の小さな工務店に、まずは大工見習いで入りました。その後、杉並で社寺の下請けをやっている工務店に移って、杉並の日大二高前の花蓮寺、武蔵境の杵築大社本殿、井の頭公園の池に浮かぶ弁財天の社務所などの工事にも携わり、大工ってこういうもんだ!ということに目覚めましたね。修業はきびしかったけれど、充実して幸せな時期でした。道具を巧みに使い、太い木を扱い、木の性質を活かした仕事をする。それが今の自分の原点になっています。

本当は手だけ動かして
いたかったのだけれど・・・

年季が明けて晴れて独立。ひとり大工としてあっちこっちの現場で使ってもらう生活が始まったのですが、そんな矢先、24歳の時に大病を患い、それからは2ヶ月働いては2ヶ月入院、半年働いては半年入院、というような状態になってしまったんです。かみさんと付き合い始めた頃です。「また救急車を呼ばなくちゃ」と、いつもひやひやするような思いを新婚当時からさせていました。

そのうちに子どもも生まれ、身体がいうこときかないんだからこのままひとり大工としてやっていってもダメだ、建築全般を一から勉強し直さなければ、と決心しました。本当は実際に手を動かしてものづくりをする方が好きだったけれど、工務店を経営するために必要なことを勉強するつもりで、ある住宅メーカーの下請けをする桶川の工務店に現場監督として就職。それとともに、久喜に引っ越して来ました。設備周りのこと、お金のこと、お施主さんの要望を聞くことを覚え、二級建築士の資格も取りました。けれど何か物足りないんです。忘れられないんですね、ごっつい木を扱う、本当の大工の仕事のことが。細い木と新建材で簡単に建ってしまう住宅では飽き足らなかったんです。それでも、30歳からの5年間はとにかくその工務店で現場監督の仕事を覚えることに徹しました。

和田工芸の最大の課題は
「人育て」。

こうして大工修業で身に付けた技術と、現場監督として学んだことを合わせ、一軒の家を請け負う工務店として「和田工芸」を久喜市で立ち上げました。35歳の時です。世の中は新建材を使い、木は大壁で覆ってしまう家ばかりでした。でも、どうにかして新建材をなるべく使わず、無垢材が見える仕事をしたい。そのジレンマの中でのスタートでした。まず、自分のしたい仕事の思いを理解してくれる職人を育てることに苦労しました。口べたで、黙って手を動かしている方が向いている性分なんです。ほんとは自分でやりたい、やった方が早い、と手を出したいところなんです。けれど、そこをぐっとこらえて、どうしたいのか、どうすればできるかを伝えるという「人育て」に自分の情熱を注ぎました。

そうして、育ち、自分のやりたいことを理解し、実践してくる職人が育っています。50代の半ばになっている白石という棟梁とは20年以上の付き合いです。もうやめたい、やっていられないと言われたことも何度となくあります。私と白石とかうまくいかなくなって、かみさんが間に入って引き止めてくれたこともあります。けれど、今では絶大な信頼のおける棟梁として、後進も育ててくれています。そうやってやりたいことを分かってくれる職人がいないと、工務店はやれないです。白石の他にもう一人50歳近い高橋という棟梁もがんばっていてくれていて、メインはその二人。ほかに見習い大工2人、大工育成塾からの子1人、年寄り3人が常雇として居てくれていて、ほかに応援大工も2人います。あとは息子の歩と、もう2人、岩澤と星が現場監督として働いています。

無垢材にこだわって仕事していたら、
カバ園長に自宅の建築工事を依頼された。

新建材最隆盛の時代に、それでも無垢材や修業時代に身につけてきた高い職人技術になるべくこだわる方向で仕事をしていきました。施主に特に言われないのであれば、より手早く、簡単にできる方法で済まそう、ということが・・職人として、できないのですね。新建材を望まれる施主に無垢材の魅力についてお話しし、一部でも無垢板を取り入れていただけるよう提案もしてきました。

そんな仕事を積み重ねているうちに、たまたま東武動物公園の園内にある売店をつくる仕事がまわってきました。それがきっかけで園長の西山登志雄さんが声をかけていただいのです。「ぼくの自宅をつくってくれ」と。20年以上も上野動物園でカバの飼育係を担当し、東武動物公園開園の時に請われて園長になった西山さんは、東武鉄道沿線の車内吊り広告やテレビCMでも「カバ園長」という愛称で親しまれた方です。なんと自宅には「高さ2メートルあまりある銅板製のカバ」をおさめる、というのが条件でした。

無垢材で大きな空間を、という要望に対し、校倉造りのように8×4寸の松材を組み上げて壁にした新しい構法を採用し、100年先の重要文化財に成ることを目指してつくりました。本当は国産の杉を使いたかったのですが「国産材でそんな大断面の材があるわけない」と、材木屋に相手にしてもらえず、しかたなく米松でしました。大きな梁や桁の架構をあらわしにした開放感のある空間ができ、「満足の行く仕事ができたな」という充実感でいっぱいでした。

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