今回ご紹介するのは岐阜県飛騨市の”杣大工”、荒木昌平さん。山深い飛騨の集落に先祖代々受け継いできた 山林を活かすべく、自ら伐採・製材・家づくりまで一手に引き受け多岐にわたる活動をされています。精力的に活動する荒木さんに、その理由や想いを語っていただきました。
荒木昌平さん(あらき しょうへい・41歳)プロフィール
1983年(昭和58年)岐阜県飛騨市生まれ。大工工務店 樹杜屋あらべぇ代表。森林資源のフル活用を目指して、手入れのされなくなった先祖代々所有している16haの山林へ自ら入り、伐採・製材を行い建築資材・燃料を自給している。大工の他に、地域防災・里山保全・獣害対策など多岐にわたる山に携わる活動行っている。通称「あらべぇさん」。
⎯⎯⎯ 本日はよろしくお願いします。色々聞きたいことがあってうずうずしているのですが、まずはこの道に進んだきっかけを教えてください。
荒木さん(以下敬称略、愛称のあらべぇ)「大工の道を選んだ理由は、”ここ(飛騨市宮川町)に生まれた”ということが大きいです。この辺りは昔は飛騨の中でもかなり孤立した集落だったので独特な木造住宅が建ち並んでいました。その古民家は当時とても人気で移築するために何軒も解体されていて、高校生の時に解体現場にバイトで入ったのですが、現代の建築にはない、自然の形の木を使った作り方に感動したのを覚えています」
⎯⎯⎯ そこからの経歴も聞かせてください。
あらべぇ「高専に入学したんですけど、大工になりたくて1年で辞めて、通信制の高校に入り直しました。裏技みたいな生き方なんですが、高専は1年間で3年間の高校の普通教科を習うので、残りの高校生活はあまり勉強もせず試験にクリアできたので比較的楽でした。大工の修行をしながら、仕事もしながら高校も卒業したというかたちです。1999年(17歳)に地元の大工のもとに弟子入りし、2005年(23歳)に荒木建築を開業しました」
⎯⎯⎯ その頃、ご実家の建て替えをされたと資料にあるのですが、23歳の若さで!すごいです。そしてかっこいい!
あらべぇ「その頃から全国の職人の元を訪ね、手伝いをする中で研鑽を重ねて技術の向上に努めました。プロフィールにはそう書いていますが、割と遊びに近いような感じで各地で楽しく過ごしました(笑)」
⎯⎯⎯ 杣耕舎の山本さん(つくり手リスト)のところにも行かれいたと伺っています。
あらべぇ「そうなんです。2012年に刻みの手伝いで3ヶ月ほど伺っていました。和田洋子さん(つくり手リスト)が設計された福山の現場です」
あらべぇ「また、全国削ろう会(鉋削りをはじめ手道具や伝統技術の可能性を追求する会)でご一緒したご縁で、2011年に田中工匠(富山県・田中健太郎棟梁)に住み込みで1年間修行をしました。その時は雲龍山 勝興寺(国宝・富山県高岡市)の修復工事の現場で、はつりをする人が必要で呼ばれまして、ふつうの大工仕事ではなく、どちらかと言うと木挽き職人として働いていました」
はつり
手斧(ちょうな)を用いて木の表面を削り取る伝統的な加工方法。加工の際に刃物を木に打ちつけるような動作から「名栗(なぐり)」とも呼ばれている。
⎯⎯⎯ その1年間でどんなことを学ばれましたか?
あらべぇ「現代では通常の大工作業は、ある程度機械を用いるものですが、それを原木の丸太から角材に仕上げる作業を手道具でさせてもらえたんです。前挽大鋸(まえびおが)という大きいノコギリで木を挽いたりするのも、昔ながらの作業を再現するという文化財の現場ならではでした。自分のスキルを活かせる場面でもあったし特に面白かったです」
⎯⎯⎯ 古代製材と言われる製材方法ですね。
あらべぇ「そうです。それが大変なんです。文化財なので現場はめちゃくちゃ大きいんです。大工職人さんからら『幅8寸で6mの梁をくれ、6寸角で4mの角材をくれ』といった発注が来て、たくさん置いてある原木の中からちょうど適した木を探すところから始まります。鉞や前挽きなどの手道具で作業する訳なんですが、現場は機械で作業、こっちは手作業で必死にやって(笑)、もう朝から晩までクタクタでした」
⎯⎯⎯ 相当ご苦労されたんですね。
あらべぇ「僕は、職人の仕事は追いかけられるより、追いかける方が楽しいんですよね。現場で競い合っているうちに仕事が早く進んで、いい感じにまわっている状態というか。大量に注文が来ても単調な仕事なので、繰り返しやっていると要領を掴んで時間が縮まって精度も上がっていきます。この経験のおかげで丸太を削るのがめちゃくちゃ早いんですよ。
元々大工を目指していたんですけど、自分が大工だと思ってたのは、実は山仕事とか杣師・杣人と言われる職業だったんです。もちろん建築もすごい好きなんですが、それよりも山や木がすごい好きで、今やっているいろんな仕事に繋がっています」
⎯⎯⎯ そして2015年に大工工務店 “樹杜屋あらべぇ”を設立。
建築の仕事ができさえすれば、応援でも手伝いでもいいと思って活動してきて、大工として独立する気は全然なかったんです。でも応援に行った先の現場で、お客さんと会話したり提案したりしているうちに、頼りにされることが多くなってきました。それだったらいっそ元請けした方がいいなと考えて独立しました。
⎯⎯⎯ 独立されてからも杣師といいますか刻みの仕事が多いのですか?
あらべぇ「そうでもないですね。2015年〜2016年にかけては新築をやっていましたし、2016年〜2018年にかけても小さい工事を数件やっています。ただ、自分の中にこだわりがあって、”自分の好きな仕事しかしない”っていうポリシーがあるんで、仕事が連続して入っていることはないんです。
⎯⎯⎯ 不安にはなりませんか?
あらべぇ「仕事が切れる時は必ず切れますし、その時間が結構好きなんですよね。そうしている間にも山仕事はあるので、たとえば丸太を収穫したり体は動かしていますし、講演などのお話をする機会をいただいているので、大工らしい仕事はなくても何かしらの仕事はしています」
⎯⎯⎯ 側からみたら何やってる人だろう?みたいな人ですね。
あらべぇ「かなり遊んで暮らしているように見られているんじゃないですかね(笑)」
⎯⎯⎯ ホームページのプロフィールを拝見すると、様々な実演や講演をされてらっしゃいます。
あらべぇ「プロではない方に教えることは常に需要があって、職人も活きるし、社会的な業界の認知にも繋がります。まさに三方良しなんです」
⎯⎯⎯ 学校でも講演や授業をされてますね。詳しく聞かせてください。
あらべぇ「新潟県の新津工業高校という、日本の伝統的な木造建築専門の”日本建築科”がある工業高校に2018年にお邪魔しました。そこで先生をされている山崎棟梁から、『学生さんの間で、大工は宮大工だけが素晴らしいみたいな思い込みがある。住宅を建てる大工も目的に応じた技術を持っていて立派な仕事なんだ。そんなことを伝えてほしい』とお話しをいただき快諾しました。
【杣にはじまり木と土と 自然と共生する家づくり】と題して樹杜屋あらべぇの仕事をお伝えしました。鉞や釿・前挽きによる実演を終えると体験の時間、道具に触れてみたいと列ができるほどでした。木造建築の大工を目指している生徒たちなので、技術的なことに興味を持ってくれて、とても教え甲斐がありました。家づくりの大工でも手道具や技術を存分に使って楽しく仕事ができると知ってもらえたんじゃないかと思います」
⎯⎯⎯ 山崎棟梁には僕もお話を伺ったことがありますが、その時も同じような想いを感じました。中高生の多感な時期にいろんな選択肢があることを、リアルな社会人から学べることは大きいと思います。中学校でのお話も聞かせてください。
あらべぇ「2019年に飛騨の宮川小学校で『私が宮川で頑張ってきたこと』として授業を、2021年に飛騨の立神岡中学校で『僕が飛騨に住み続ける理由』として講演をしました。飛騨市の人口は2万人ほどで過疎化が進んでいて、経済を回していくにはなかなか難しい土地なんです。その状況に置かれた学生さんは例外なく『大きくなったら街へ出てお金を稼いで生きていくんだ』という考えで生活しているようなんです。
まずここに商売がない。だから生活ができないので街に出てお金を稼ぐ。真っ当な考え方ではあるんですが、そのことに気付いた先生が、声をかけてくださいました。『地元で自分で仕事を見つけて生きている人の話を生徒に聞かせてほしい。田舎って恥ずかしくないよ。この町に、この村に残るという選択肢を与えたい』んだと仰っいまして」
⎯⎯⎯ 先生の熱量が伝わってきますね。ご自身はなぜこの地を出なかったんですか?
あらべぇ「先生からも聞かれました。職務質問みたいに(笑)。考えたんですけど、『ここに生まれ育ったから』としか答えられなくて、自分でもそれ以上は分からないんです。とにかくこの村・地域がすごい好きというのは確かです。そしてたまたま自分が大工になりたいと思ったことと、地域に残る建築物が技術的にも価値のあるものだったこと、それらが偶然マッチしてここに留まる方法を見つけられた。そんなお話をしました」
あらべぇ「それから、ここが一番好きなのは、祭りで獅子舞があるからなんですよ!」
⎯⎯⎯ おぉ獅子舞ですか!意外な展開です。
あらべぇ「獅子舞は春の例祭にやるんですけど、その獅子舞に向けて1年間頑張って仕事してるような感じです。この辺りの集落が合併して、それまで同じ集落で5人ぐらいしか獅子舞ができる若者っていなかったんですが、20人くらいは集まれるようになったんです。そのメンバーでいくつもの集落の祭りを、『次はここ』『次はあそこ』みたいな感じで切り盛りしています。祭り以外でも会社やイベントの縁起物として呼ばれたりもしています。
それから、昭和40年代から途絶えていた獅子舞を復活させたり、笛とその旋律の復元もしました。当時のビデオを見て研究したり、当時やっていた人から所作を習ったりして。この地域が好き、祭りが好き。そんな人が結局残っている感じです」
⎯⎯⎯ 移住して来られた人は獅子舞に参加されるんですか?
あらべぇ「結構閉鎖的な村なのであまり移住の方はいないんですよね。他の地域ですが、幕末に引っ越して来た人でも新参者扱いされるとかされないとか(笑)でも一人参加されている方はいます。市としては移住者にものすごくウェルカムなのでこれから増えていくかもしれないですね」
⎯⎯⎯ 近くにあらべぇさんが建てられたり改修したりした所はあるんですか?
あらべぇ「ご覧の通り、築150年くらいの古民家ばかりがそのまま建っている地域なので、『石場建てで、土壁で、瓦屋根で建てるんです』みたいな話をしても、今と同じのはもういいよ。という空気感ですね。スニーカーを履く時代になったのに、また草鞋を履けっていうの?みたいな感じです」
⎯⎯⎯ なるほど。納得しました。
あらべぇ「なので、逆にここ(リフォーム中の事務所兼自宅。以降 事務所)はショールームとして見に来てもらえればいいかなと考えています。『飛騨らしい家を新築で建てられるんだ』ということをいろんな人に知ってもらって、仕事につながるといいですね。この地域に住みながら仕事ができるというのが僕の理想なんです。でも実はコロナ禍以前までは迷いがあったんです。20年くらい仕事をしていると、『お金を稼いで生きていければそれでいいかな』といって自分の気持ちに妥協しているところがありました」
⎯⎯⎯ 例えばどんなことですか?
あらべぇ「以前は裏山の木を使って建てていたんですけど、いつの頃からか材料を材木屋さんで買って仕事をするようになっていたんです。経済活動という意味では真っ当で悪いことではないんですけど、コロナになってちょっと立ち止まって考えたんです。日々忙しくお金を稼ぐだけってどうなんだろう。初心にかえってみようと。一度、建築の仕事から離れてみれば時間もできていろんなことができるんじゃないかなって」
⎯⎯⎯ 建築自体からも離れる。実際にその時間をどうされたんですか?
あらべぇ「事務所のリフォームを始めたり、新たに薪ストーブの販売を始めたり、あと裏山の開拓ですね。山から木を出せるように段取りができれば、自分が本当にやりたい仕事ができるようになります。高校生ながらに感動した、自然の形の木を活かした家づくりを、もう一度はじめからやってみたいと思ったんです」
⎯⎯⎯ 順番に詳しく聞かせてください。まずはリフォームについてお願いします。
あらべぇ「コロナの頃から、もう何年も改修しています(笑)他の方から買い取った建物で、1階は事務所兼自宅にして、2階は建築や山のことを知ってもらったりするための宿旅館業をやろうかなと思っています。飲食業の許可も取る予定です。また事務所部分はコンベンションルームとしての使用を考えています。
今年、テストケースで友達を呼んで、はつりのイベントを開催したんですが、2日間で延べ100人の方に来ていただきました。少ないスタッフでノウハウもないのに200食も作ってお皿も足らなくなって大変でした」
⎯⎯⎯ いきなりすごい規模ですね。
ここでリフォームの事例を2つご紹介します。
事務所兼自宅|飛騨市宮川町|改修中
天野邸|飛騨市|2017年
外も部屋境も建具で仕切るのが特徴。2部屋あった部屋を1部屋にして壁はなく建具で仕切っている。
⎯⎯⎯ 次は目の前で暖かく燃えている薪ストーブのお話をお願いします。
あらべぇ「輸入薪ストーブの販売事業は2018年にスタートしました。一般的なストーブが広葉樹の薪が必要になるのに対し、ここのストーブは針葉樹を燃料としています。先祖代々この裏山を所有していたので、いくら自分が建材として使ってもロスになる木が発生します。この山の木を燃料に使えたらいいのにと思い、色々調べていくうちにこのストーブに出会ったんです。『里山の保全をしながら暖を取れる』というのが自分の売り文句です。導入していただいた方のほとんどが、単に製品としてではなく、このストーブを使っている人たちのライフスタイル込みで好きになってくれています」
⎯⎯⎯ いやーいいですよね。我が家にも欲しいです。
あらべぇ「山に入って木を伐り始めて気づいたことなんですけど、当たり前ですが木って成長するんですよね。樹種ごとに成長限界というのがあって、その時期を迎えたらある程度伐ってやらないと成長が止まり、山の環境が悪くなるんです。人間が欲しい需要と供給のバランスとは別で、成長した分は伐採・収穫しなきゃならない。その時に燃料として使えるのって一番いいなと考えたんです。ストーブの他にも薪ボイラーの活用も見越しています」
⎯⎯⎯ 表にあった簡易製材機のこともお伺いできますか?
あらべぇ「ぜひぜひ。この村では昔、9割の男性が山仕事を生業にしていたらしいんです。ほとんどみんな杣師で猟師。自分が子供の頃に付き合っていた人はほとんど年寄りばっかりだったので、山の話をたくさんしてもらったのが影響したんだと思います。立木を見て『この木は何に使いたい』とか『あの木はあそこに使いたい』とか考えるのが好きで、杣師寄りの大工、”杣大工”として家づくりを楽しんでいます。なので、自分で製材できてしまうこの機械はうってつけだったんです」
暗くなる前に裏山を案内していただいた。
あらべぇ「以前は山に道がなかったので、1本の木を山から出すのに2日くらいかかって大変でしたが、コロナ禍の間に道をつくりました。仕事で木を収穫しようと思うと、道がないと木を出しにくいのですが、『道をつくる』と考えただけで手間が掛かりそうなので二の足を踏んでいました。
でも長い目で見ると、一旦道をつくってしまえば、あとはもう木を取り放題で(笑)、伐った後は道で作業ができるので安全でもあります。自分の山から木を伐ってきて、それで建築をするという夢を叶えるために、一旦仕事の手を止めて山づくりや所有林の状況把握に時間を使っている段階です」
⎯⎯⎯ 立ち止まる時間というのは、現代人にとって大切なんでしょうね。
あらべぇ「こっちの木を見てください。雪の荷重で木の根元が曲がって育つんです。雪国で育った木は雪国の家づくりに適しているので、やっぱりこれを使って家づくりをしたいんですよね。これを他の人に頼んだら、断られるかすごくお金がかかります。真っ直ぐな木ならトラックに20〜30本積めますが、曲がった木を積もうとすると何十本も犠牲にしなきゃならないんで」
⎯⎯⎯ だったら自分で山から出して自分が使うのが一番ですね。そして立ち止まってみて、今後はどんな家づくりをしたいのか教えていただけますか?
あらべぇ「最近は都市部からの移住者も増えてきているので、そういった方々に向けて、地域の文化や技術が詰め込まれた上で、現代人が住みやすい建売りの家をつくりたいです。昔はお客さんが大工のところに『家をつくってくれ』というと、『おぉ任せてみろ』といって建てて、出来上がった家に従って住むという感じだったと思うんです。それを家の周辺まで範囲を拡げて、『田畑があったり山林があったりする田舎暮らしを心配なく始められる家』として提供したいと考えています」
⎯⎯⎯ 結局それが地域の生活のルールや気候風土に適していて理にかなっている訳ですね。
あらべぇ「その先には『山で暮らす人を増やしたい』という想いがあります。現代人にとって山というものがあまりにも遠い存在になってしまった。ただ観光で訪れる場所ではなく、もうちょっと実生活に近づけていきたいです。これまで自分が培ってきた技術とか、山の知見・大工の知見を合わせると、山での暮らしをプロデュースするという役割を担えるんじゃないかと思うんです。山仕事で成り立っていたこの村は、山の価値がなくなっていくと同時に、村自体の価値も感じられなくなり、人が出ていってしまったという現実に直面しています。全国にも同じような場所がたくさんあると思います。もう一度、山に価値を見出して『山の復権』を先導していきたいです」
大工・杣師・薪ストーブ・簡易製材機・講演などなど、多岐に渡る活動をされている「あらべぇ」こと荒木さん。一見バラバラに見える事柄が、詳しくお話を伺って俯瞰してみると、その全てが『山の復権』を実現するための欠かせないピースとなっていました。そして、山、木、生まれ育った村に対する深い愛情が言葉の端々から伝わってきました。
なぜその行動をするのか。現代人はどうしても理由を求めたがります。「ただ好きだから」と堂々と言える大人がどれほどいるでしょうか。周囲から「あらべぇ」「あらべぇさん」と慕われるのが分かるような気がしました。
今回の伊藤松太郎さんへのインタビューは、つくりあげたばかりの木の家への往復路、車の運転中に行わせていただきました。日本の夏の暑さが厳しさを増すなか、長野や山梨の高原地には都心からの移住者も増え、伊藤さんの元にはそういった方々からのご依頼がくるそうです。
お父様が引退され、ひとりで家づくりをされるようになった伊藤さんに、高原地ならではの家づくりと節目を迎えた今の心境を伺いました。
伊藤松太郎さん(いとうしょうたろう・36歳)プロフィール
1988年長野県諏訪郡生まれ。一級建築士、大工。父の寛治さんが営む伊藤工務店の作業場を遊び場にし、大工たちの仕事ぶりを見ながら、自分も大工になることを思い描き育つ。物づくり全般に興味が広がり、母が美術大学出身でその影響もあって、デザインを学ぶため東京造形大学に進学。卒業後は埼玉県の綾部工務店で7年の大工と設計の修業を積み、故郷に戻り、伊藤工務店を継承。
⎯⎯⎯ 本日は、つい数日前にお施主さんに引き渡しをされた新築物件をご案内いただけるとのことで、楽しみにやって来ました。
伊藤さん(以下、敬称略)「僕も、みなさんにお見せできるのがとてもうれしいです。お施主さんが、公開をお許しくださったおかげですから、感謝しかありません。
そもそも、僕につくらせてくださったことが本当にありがたいことです」
⎯⎯⎯ どのような経緯でご依頼をいただいたのでしょうか?
伊藤「日本の伝統的な建築法をいかした木の家を建てたいというご希望で、ネットで調べられて僕の親方である綾部孝司(埼玉県・綾部工務店 つくり手リスト)さんに依頼されたんです。ただ、土地が長野県なのでとても通いきれないということで、親方が僕のことを紹介してくれました」
⎯⎯⎯ 信頼されているんですね。その親方のもとでの修行時代について教えてください。
伊藤「こうやって家づくりについて僕が語るなんて、怒られそうでちょっと緊張しています(笑)。建築士としても大工としても尊敬する、頭が上がらない厳しい親方です。
僕も大工になるなら、手刻みで木構造がちゃんと見える真壁の家づくりをする大工に絶対なるんだという思いがあったので、門をたたきました。
日本の伝統工法を守り伝える立場をとっていて、僕ら弟子にもそういった家づくりを経験させてくださいました。親方はもちろんですが、先輩との力の差にも悩み苦しんだ修業時代でした」
⎯⎯⎯ 美術大学を卒業されていますが、建築を学ばれたんですか?
伊藤「いえ、グラフィック・デザインです。うちのウェブサイトは大学時代の友人たちにつくってもらっているんですが、本来はこういう仕事につくための勉強をする学部ですね。
デザインも好きでしたが、デザインは設計でいかせばいい、やっぱり自分は技術を身に着けたいと思いました」
⎯⎯⎯ 大工さんの上下関係は、ちょっと恐そうなイメージです。何年くらい勤められたのですか?
伊藤「あ、怒鳴るとか、そういうのはないですよ! 一番厳しかった先輩は、僕が必死で木材を刻んでいたりすると、通りすがりに鋭い目線でスッと見て去っていくんです。これは、なかなかのプレッシャーでした。
できない自分と『これでもか!』というくらい向き合いながら、でもやらなければいけないという苦しい日々でしたね。
7年修業をして、実家の工務店に入りました。使い物になる頃には大工は独立しますから、それをわかっていて育ててくれる親方という存在には尊敬しかありません」
⎯⎯⎯ ご実家の工務店ではどのようにお仕事をされてきたのですか?
伊藤「大工工務店ですので、子どもの頃から見てきた、設計と施工を同時に受注するという父のような仕事の仕方を目指してきました。
昼間は父と一緒に大工仕事をして、設計まで任せてもらえている仕事に関しては、夜に図面を引くという形で働いてきました」
⎯⎯⎯ それはなかなかハードですね。
伊藤「設計というかデザインすることも好きですが、ずっと机にかじりついているのは苦手で。体を動かす大工仕事も楽しいです。親方も先輩たちも、そうやって仕事をしていると思います。
これからご案内する木の家は、じつは僕が初めてひとりで組み上げた家なんです」
⎯⎯⎯ 初めての経験や親方からの紹介と色々なプレッシャーが重なりましたね?
伊藤「そうですね。ただ、お施主さんが本当に素晴らしい方で、信じて任せてくださったことが有難かったですし、とても貴重な経験をさせていただきました」
⎯⎯⎯ 貴重というのは、とくにどのような経験ですか?
伊藤「セカンドハウスということでご依頼をいただいたのですが、まず最初に初めて見るような厚みの設計要望書をまとめをくださったんです。
まるで一級建築士の試験問題のようで、いえ、試験の時より緊張感がすごかったですが、ご希望に沿うための技術や素材を考え、めちゃめちゃ頭を使いました。
もちろん、同じ家のなかに同居させられない項目や、思い描いていらっしゃる家の姿や暮しぶりに近づくためには『このほうがいい』という工法や素材については提案・相談し、とことん話し合いました」
⎯⎯⎯ 家づくりはコミュニケーション力も試されるお仕事ですね。
伊藤「試されるというより、自分たち大工や設計はお施主さんにも育てていただいているんだなと感じました。僕には一般企業に勤めた経験はないのですが、もしも組織のなかの若手であれば、等身大以上の課題を与えてもらい、報告・相談し導かれながら成し遂げていくのかなと、想像したりもしました」
⎯⎯⎯ では、伊藤さんがつくられた家を拝見したいと思います。
伊藤「ここは、長野県のなかでも標高が高い場所で、雪が深く積もることは珍しいのですが、冬は本当に寒くて、マイナス20度まで下がります。そのため、“凍み上がり”という現象が起きます。
これは、霜柱が立つように、冬になると地面が持ち上がってしまう現象なんですが、その対策として基礎を地中奥深くまでつくる必要があります。
室外機などの設備機器を地面に直接置くと、これもトラブルになりがちなので、建物の側面に抱かせるように設置するといった配慮もしています」
⎯⎯⎯ たしかに、室外機が見えないデザイン、素敵ですね。他にデザイン上の特徴を教えてください。
伊藤「高原の別荘によくあるヨーロッパスタイルではなく、伝統的な木組みの家にしたいというご希望だったのと、雨や夏の直射日光が十分によけられるように、軒の出を深くしました。
主屋の屋根は、これもお施主さんのご希望で、瓦ではなく天然石の石葺きで景観への調和を目標としています。それらすべての重さに耐えられるように、設計してあります」
⎯⎯⎯ 重ね梁の母屋と呼ぶそうですが、屋根を支えている木も大きくてどっしりとしていて、規則正しく並ぶ様子が綺麗で見とれます。
伊藤「ありがとうございます。ここは自分でもとくに気に入っている仕事です。僕は木が好きで、いい木を使ってそれを表に出して見せたいという気持ちが強くあります。こういうところは、もしかしたら大学でデザインを学んだこととつながりがあるかもしれません」
⎯⎯⎯ 一階部分の広々としたデッキも、塗装されていない木がそのまま使われているのが印象的ですね。
伊藤「建物のなかでデッキはとくに雨風や雪で傷みやすい場所ですが、逆に傷みが生じてきたら、すぐに見つけて部分的に修繕できるようにという考え方でつくりました。
デッキに限らず、木材は必ず年月の間に縮んで、割れたり曲がったりということが、どうしても起こります。そのリスクは十分にお話しし、ご理解いただいたうえで、つくり始めますし、定期的に点検やメンテナンスをさせていただきます」
⎯⎯⎯ 一生のお付き合いですね!
伊藤「お施主さんと関係を深めていけることも有難いですし、家の成長、木の家の経年は劣化ではなく味わい深い成長につながるので、ずっと見続けられる喜びは大きいですね」
⎯⎯⎯ 高原地となると伝統工法のみというは、難しいですか?
伊藤「石場建、土壁は『凍み上がり』や『断熱性能』の観点から、この地域ではハードルが高いと思います。それでも素材をいかした木組みの家を建てたいという思いから伝統的な技法、例えば手刻みで加工する継手や仕口などを活用して仕事をしています。
僕は、県内でよく採れる赤松や唐松もよく使います。赤松は横架材である梁に、唐松は外壁やデッキ板などに使います。
この住まいも材料の半分以上は赤松と唐松を使用しており、『どっしりとした大黒柱や梁を』というのが、もともとお施主さんのご希望でした」
⎯⎯⎯ 赤松と唐松には、どういう特徴があるのですか?
伊藤「赤松は、ねじれなど変形しやすく難しい木ですが、杉や桧など同じ針葉樹の中でも強度が高く、梁によく使われるんです。
唐松は、赤松と同様クセの強い木ですが、水に強く腐りにくいので、雨がかかる外壁やデッキ板などに適しています。日に焼けると綺麗なオレンジ色に変わるところも魅力です」
⎯⎯⎯ 一階段部分にある、この排気口みたいなものは何ですか?
伊藤「これは、床暖房の温風の出口です。テラスに通じるガラス戸の前や、トイレやお風呂にもこの出口をつくってあります。
この住まいはオール電化で、床下エアコンでつくった暖気が循環して床上に上がってくる設計になってします」
⎯⎯⎯ 素晴らしい設備ですね!
伊藤「じつは僕は最初、無理ではないかと言ったのです。無垢の木の床で、想像通りに温風が動くのか、木への影響もわからなかったので。
そうしたら、お施主さんご自身が流体力学を研究されて、それをシミュレーション画像化して見せてくださったんです。さらに、『成功しなかったときは諦めるから、実験的にやってほしい』とおっしゃってくださったんです」
⎯⎯⎯ 伊藤さんにとっても初の試みなのですね?
伊藤「初めてのことです。まだまだ試行錯誤の中にありますが、優先すべきは住む人の快適さ、気持ちの豊かさですから、それを叶える新しい技術がありリクエストされれば、組み合わせていくことも必要だと思っています。ですから、本当に勉強になりました」
⎯⎯⎯ 薪ストーブもありますし、冬が楽しみになりますね! 大きな窓でサッシも木製で、とても優しい印象です。ここから見る冬の山や夜空は綺麗でしょうね。
伊藤「そうですね。この家で冬を過ごされことをとても楽しみだとおっしゃっています。
お施主さんは音楽もお好きで、大きなスピーカーを搬入されているのですが、ご自宅の鉄筋コンクリートのマンションと木の家での、音響のちがいも楽しみだとお話くださって、木の家が持つ可能性について僕も学ばせていただけるので、有難いです」
⎯⎯⎯ 搬入されている木の家具を見て、伊藤さんとお施主さんが興奮ぎみで話していらしたのが、微笑ましかったです。
伊藤「約2年間、設計や工程を見ていただきながら、僕が木の話ばかりするので興味を持ってくださったようで、今ではとてもお詳しいです。
家具職人さんは、その家具が置かれる場所も見たうえで、床や柱、梁の木材の種類や木目がそろうようにデザインしてくださって、こんなに幸せな仕事があるのか!というほどです」
⎯⎯⎯ 最後に今後の目標など伺えますか?
伊藤「こんなに素晴らしい機会はもう無いかもしれないと思いつつ、自分はさらに自分の最高を更新していかなくてはとも思っています。
親方から学んだ伝統技術を、次の世代に手渡すべき年齢になるまで、お施主さんと家づくりの機会を大切にしながら、僕は僕を必死に磨くので、成長を見届けていただきたいです」
【取材を終えて】
取材中にお施主さんは、厳しいはずの高地の冬こそ「楽しみ」とおっしゃっていたのが印象的でした。それはきっと、暖をとるための万全の設備があるからだけではなく、木の家の中にいることで、冬山と一体になるような静かな時間が待っていると、予感しているからなのではないでしょうか。
人に自然との一体感を与えてくれる木の家の魅力を、また改めて教わったように思いました。
伊藤工務店 伊藤松太郎さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
今回ご紹介するのは鳥取県の山下大輔さん。ご本人と同年代の職人さんに囲まれ、大工・設計・薪ストーブ事業を手掛ける山下さんは、どんなことを考え、どんな仕事をしているのか、あれこれ聞いてきました。
山下大輔さん(やましただいすけ・43歳)プロフィール
1980年(昭和55年)鳥取県生まれ。山下建築株式会社代表取締役。京都の建築の専門学校を経て帰省。父親が経営していた山下建築を継承し2018年に法人化。大工職人としてスタートし現在は設計や薪ストーブ事業も手がけている。
⎯⎯⎯ 山下建築の二代目でいらっしゃいますが、これまでの経歴を簡単に教えてください。
山下さん(以下敬称略)「建築士になりたかったので、高校卒業後に京都の建築の専門学校に入ったのですが、中退し鳥取に戻ってきました。そして父の知り合いだった重機関係の会社に入社しました」
⎯⎯⎯ 重機ですか!意外ですね。資格はいらないんですか?
「そこで“働くということ”を学び、資格もたくさん取らせてもらいました。その後に父のもとで大工修行を始めました」
⎯⎯⎯ 株式会社として法人化されたのはどういうタイミングだったのですか?
山下「2018年に父が病気で亡くなって急遽世代交代することになり、その機会に法人化しました。交代のタイミングは色々話し合って準備期間を設けていたんですが、突然だったので、数年間はバタバタでした」
⎯⎯⎯ それは大変でしたね。現在は何名くらいの方が働かれているんですか?
山下「法人化してすぐは3名でしたが今は若干増えて6名(大工5名、事務1名)です」
⎯⎯⎯ 順調に拡大されていますね。年齢層を教えてください。
山下「僕が一番上で、30〜40代の同世代ばかりです」
⎯⎯⎯ またまた意外!中心となって動ける職人さんが集まっていらっしゃる。お弟子さんの年齢層の空洞化で困っていらっしゃる会員さんも少なくありません。手塩にかけて育てた若い職人さんが、一人前になると巣立っていって… もちろん喜ばしいことではあるのですが、労働人口が少なくなってきているので、現実問題として厳しいという話をよく耳にします。
山下「そうなんですね。うちに来てくれているメンバーは今まで別の会社で働いていたり、個人でやっていたけど先を考えると不安だったりということで、声がかかることが多いです。僕自身は、父親と二人三脚で働いていた70代の方と父親に、大工仕事のほぼ全てを教えてもらいました。『おれは親方から習ったことをお前に伝える。お前は俺から習ったことを次の世代に伝えていってくれ。』と言われたのをよく覚えています。それをできるだけやろうと心がけています」
⎯⎯⎯ 求心力があるんですね。すごいことだと思います。
山下「いやいや。そんなことはないですよ」
⎯⎯⎯ 20年以上家づくりをされてきて、ターニングポイントになるような出来事があれば教えてください。
山下「“京都鴨川建築塾”ですね。仕事をはじめたばかりのころは怒られてばっかりで辞めたかったのですが、10年くらい経ってある程度現場を任せてもらえるようになって、設計に興味が出てきたんです。そこで、木造の設計や構造を深く教えてくれる“京都鴨川建築塾”に入塾して3〜4年通いました。そこから僕自身は設計や経営に力を入れて、大工仕事は大工さんに任せていくようなスタイルに変えていっています」
⎯⎯⎯ それはどんな理由からですか?
山下「他の地域はわからないですけど、鳥取だと工務店がまずあって、その仕事をする設計事務所がいて、大工がいるという分業の仕事が多いんです。そこを自分たちでトータルで行うことにより、施主様と近い距離でかつスピーディーにできると考えたんです」
⎯⎯⎯ 「大工さんに任せるスタイルに変えていっている」とのことですが、詳しく聞かせていただけますか?
山下「はい。現場ごとに担当の職人を決めて管理まで任せるようにしています。その方が意欲も責任感も出てきます。また、弟子を育成することはとても大切ですが、そこは施主様にとっては関係のないことなので、どれだけ仕事を上手に受けて、実際の仕事の中でやり方を覚えていってもらうというのが一番だと考えています。何でも自分でやれば早くできるかもしれませんが、近くまでしか行けれません。みんなとならゆっくりかもしれないけど、遠くへ行けると信じています」
⎯⎯⎯ なるほど。僕も一人で仕事をやっているのですごく響きました。では、施主様とのやりとりで気をつけていることはありますか?
山下「たとえば、断熱の方法ひとつとってもさまざまな考え方があるので、それぞれの施主様にとっての快適さ、イニシャルコストとランニングコストの配分など、実際に何十年もローンを支払う施主様の目線で深く考えるということを大切にしています」
⎯⎯⎯ ほかには何かありますか?
山下「もうひとつ転機となったことがあります。それは2017年に初めて自分で設計して建てた“賀露の家”です。施主様が求めていることと、僕がしたいこととがすごくマッチしたので、とても記憶に残っています」
賀露の家
ターニングポイントとなった思い入れのある住宅を案内していただいた。
⎯⎯⎯ 家づくりをする上でどんなことを大切にされていますか?
山下「お客さんと近いところで、密に仕事をするように心がけています。それから、あまりこだわりすぎて、自分の可能性を狭めないように気をつけています。もちろん何かを突き詰めていくことは素晴らしいことなんですが、“これしかない”とか“絶対これじゃないだめ”というスタンスだと、自分で可能性の間口を狭めている気がするんです。いろんなことに対して自分の中の判断基準や尺度は持ちながら、できる限りお客さんの要望に応えられる方がいいなと思っています。
ここだけは譲れないというボーダーラインは現場現場で決めているんですが、そこに至るまでの選択肢はなるべく多く提案できるように努めています。どのプランのどこがよくて、どこがイマイチなのか。そこをしっかりお客さんに説明できるようにしたい。そのためには自分自身もしっかり掘り下げて勉強することも欠かせません。そうすればどういう形であれ大工という仕事は残っていくと思っています」
⎯⎯⎯ ボーダーラインは具体的にはどんなことでしょうか?
山下「木の家ネットの会員の方々は当たり前のことだと思いますが、天然乾燥材を手で刻むこと。あとは断熱材にはエコボードを使用するというあたりですかね」
隼福の家
築約40年の住宅兼事務所を住宅として改築中の現場。活かせる柱や構造材は残しほぼスケルトンになっていた。ここからどうなるのか楽しみだ。
南吉成の家
外壁は鳥取の土を使ったオリジナルの左官壁。
吉方町の家
更地ではなく木が生えていた土地に木を活かしながら新築の住宅を建てていく。外壁はGUTEX社のエコボードに左官材料を塗り直接塗装している。
国府の家
平屋のような二階建て。
⎯⎯⎯ 話が変わるのですが、目の前にある薪ストーブが気になっています。代理店をされているんですか?
山下「はい。スペインのPANADERO(パナデロ)というメーカーのストーブで、国内ディーラーであるPANADERO JAPANの鳥取での販売店になっています」
⎯⎯⎯ 結構採用されているんですか?
山下「新築の場合は結構採用していただいていますし、商品自体の問い合わせも多いですね」
⎯⎯⎯ ガラス張りが特徴的ですね。どんなストーブなんですか?
山下「普段みなさんがよく目にするストーブは鋳物製だと思うんですが、これは鋼板製なんです。鋳物のストーブの場合は割高な広葉樹の薪が必要になりますが、これは日本中にある針葉樹を広葉樹のようにじっくり燃やせる薪ストーブなんです」
⎯⎯⎯ それはメリットが大きいですね。欲しくなってきました。薪の手配はどうされているんですか?
山下「林業の方とタイアップして手配しています。ここ鳥取もですが、日本中に杉や檜などの針葉樹がたくさんありますよね。林業の方がこの木を切る時に、根本1mくらいの曲がったり太さが均一でないタンコロと呼ばれる部分が出てきます。このタンコロは価値がないということで、通常は山に放置してくるんです。それを薪としてアップサイクルしようという試みです。
この針葉樹の薪を少しでも多く使ってもらえたら、お客さんにとっては安価で燃料を入手できることになるし、林業にもプラスに作用して山も整備されてくる。そんな地域内循環ができたらいいなと思っています」
⎯⎯⎯ これからのどんなことに力を入れていきたいですか?
山下「働きやすい職場づくりをしていきたいです。職人さんは基本的に社員として採用して、しっかり福利厚生や保障を充実させて、家族含めてみんなが安心できる会社にしたいです」
⎯⎯⎯ ありがとうございます。最後の質問です。山下さんにとって家づくりとは?
山下「家をつくるということは、誰かの一生に一度の大イベント。そこには大きな責任があるので、より深くより真剣に考えて作り上げていくことが一番大切だと考えています。そしてその責任を全うすること。それに尽きるのではないでしょうか」
人と人。人と自然。目の前にある関係を真っ直ぐに見つめ、実直に答え導き出そうとする山下さん。
その一言一言から、静かながら熱い想いが伝わってきました。
山下建築株式会社 山下大輔さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)
岐阜県といえば、戦国時代には名だたる武将たちが活躍した土地柄。
戦国の世に比べるまでもありませんが、大きく時代が変化している今、この地この時代に、家業を仲間を伝統の技術を守り奮闘している亀津雅さん。
前半は伝統を守ることも含めた生き方戦略、後半では亀津さんの半生をご紹介しています。クールな目線で分析しながら、伝統技術や職人への敬意や情に厚い亀津さんのお話を、これからを考える機会にしつつお読みいただければ幸いです。
亀津雅さん(かめずまさし・51歳)プロフィール
1972年(昭和47年)岐阜県多治見市生まれ。有限会社亀津建築代表取締役。工業高校、専門学校で建築を学び、バブルの最盛期に専門学校を中退して、大工だった父が営む亀津建築に入社。大工修業をしながら設計も行い、27歳で会社代表を引き継ぐ。現在、大学で建築を学ぶ長男について「今風のセンスはいいかもしれんが、線が細くて。俺の跡をつぐというのは、どうなんだか…」と語る心配性の父でもある。
⎯⎯⎯ 今、ちょうど工房で材木の刻みをしているとのこと。そのタイミングで取材にお呼びいただきありがとうございます!
亀津さん(以下、敬称略)「木の家ネットのなかでは珍しくないかもしれませんが、世間的には手刻みをしている現場は少ないんで。大工が張り切っている姿を見てもらえたらと思いましてね。今日は雨だから静かだけど、昨日は近場の大工たち5~6人が刻みを見られるというので集まってきて、賑やかでしたよ」
⎯⎯⎯ 声をかけてさしあげるんですか?
亀津「噂を聞きつけてやってくるんです。『自分は大工ですけど、刻みをしたことがなくて』とか言われると、僕は大工でもあるので気持ちがわかるから、見たり触ったり質問するくらい、『まあ、やってくれ』と思う。
経営者としては、『納期が近いんだから急いでくれ』とか、『そこ、そんなにこだわらくてええぞ』と言いそうになるんですがね。いや、言ってるか!」
⎯⎯⎯ 身につけた技術は、使ってみたいと思うものですよね。
亀津「うちでお願いしている大工たちの技術は本当に素晴らしいですよ。僕は素直なタイプじゃないんで、直接褒めたりしませんが、名古屋とか三重県の志摩のほうから、わざわざうちに仕事がくるのは、評価されている証拠だと思っています。
僕も彼らがいるから自信をもって引き受けられる。けっこう特殊なオーダーでも、できてしまうんでね。
でもその一方で、思う存分やりたいことをやっていいと大工たちに言ってあげられないジレンマはありますよ。お客様のニーズがあるし、予算も納期もある。そのボーダーラインを守ることは、彼らを守ることだと、僕は思っています」
⎯⎯⎯ 大工さんを守ること、ですか?
亀津「完成した家に何か不具合があったとき、下請けの大工に責任を押し付ける工務店もあると聞きます。小さな工務店なら潰れかねないわけで、まずは会社を守ることに必死になる、それは僕もよくわかります。
だから、大工ならやってみたいと思うけれども、なかなか機会がない石場建てなどの伝統的な工法に関しても慎重に検討します。
そして、リスクは先回りしてつぶします。依頼主には何度も確認をとり、可能なこと不可能なこと、メリットとデメリットを伝えて、さらに弁護士や金融の専門家にもすぐに相談できる体制を整えています」
⎯⎯⎯ 確かに慎重ですね。
亀津「今回の取材の趣旨に合っていなかったら、すみません。伝統の技術をいかに守り伝えているか、その取り組みをお話しすべきなのかもしれませんが、僕は、今現在、物づくりをしている職人を守ることで精一杯です。
技術は、資料によって残せる可能性もあるかもしれないと思いますが、人を育てることが難しい、そもそも若い人材が減っている今、人を喜ばせたいという気概があり、安全な生活の場を提供できる職人を一人でも多く残すことが先決だと、僕は考えるんですよ」
⎯⎯⎯ 変化の流れが激しくて、二極化が進んでいると言われる時代に、何を優先するのか判断も問われますね。
亀津「二極化にもつながる話ですが、つい最近、名古屋で1軒『好きにやってくれ』という、いわゆる資産家の家の建て替えを任せていただいたんです。設計していても楽しいし、大工たちも生き生きしていましたよ。
できあがった後、材料費だけでもとんでもない金額、いつもと桁がちがう請求書を目にしたわけですが、同時に、これからの日本人の家はどうなっていくのかな、と考えました」
⎯⎯⎯ これからの日本人の家ですか?
亀津「若い世代が家を建てるために使えるお金が、はたしてどれだけあるのか。そもそも、あらゆることがスマホで事足りてしまう彼らが求める住環境って、僕ら世代の想像を超えているのではないかと思うんです。
写メや動画の撮影がしやすいように、白い壁だったりセンスのいい色の組み合わせだったり、つまりクロス貼りを好むんだろな、とか。空間の使い方も感覚もちがったりするだろうし」
⎯⎯⎯ 木や土が生み出すナチュラルさやレトロなテイストが好きな若者も多いと聞きますが?
亀津「実際に住環境となると、そこまでお金をかけようという若い世代の人がどれだけいるかですよね。必要性を感じるほど、その住み心地を知っているのかどうか…。
最近、木で病院を建て替えるという仕事の依頼をいただくのですが。以前はコンクリートなどでできていた病院の入口を見ただけで大泣きしていた子どもが、普通に入ってきてくれるようになったと、喜んでくれています。
木の持つ優しさとか癒しの感覚は、人は本能として持っているんですよね。われわれつくり手側の力の向上も大切ですが、同時に木の家に住む心地よさを、次世代の人たちのも広く理解してもらう努力も必要だと感じています」
⎯⎯⎯ そうですね。木や土でできた建物の心地よさは、実際に体感してもらうのが一番なんですが。
亀津「木の家ネットの会員の大場江美さんは、横浜か鎌倉の中高一貫の女子校の、木製の机と椅子をつくっているそうです。その机と椅子は、成長にあわせて大きさを変えられるようにできていて、6年間ずっと同じものを使うから、木の使い心地や経年変化による味わいを知ることができるし、物を大切にする気持ちも備わる。すごいことをしているなと尊敬します。
すぐに効果が出ることではないけれど、腰をすえた取り組みが必要なのでしょうね。
あとは外国から逆輸入、とか?」
⎯⎯⎯ 逆輸入、ですか?
亀津「ここ多治見は、焼き物で有名ですが、いい焼き物がつくれるということは土がいいということ。壁に使っても優れた土で、それを扱う左官さんも減っていて、わずかにいる状態です。うちも土壁をやっていますが、おもに頼んでいる人が辞めたら、もう終り。
ただ、そういった左官さんのなかの1人が海外に出ていて忙しい。日本の左官の仕事が海外でも評価されて、外国の富裕層たちからオファーされているそうです。とてもいい条件で。
その様子を見た日本人が改めて価値に気付き、依頼が増えるし工料もアップするわけです。
大工も、海外に送り出さないといけないのではと真剣に考えています」
⎯⎯⎯ 材料とか、海外では厄介な問題はありそうですが、評価される気がします!
亀津「大工はね、万能なんですよ。手先が器用なだけでなく頭もいい。だから足りない物があっても代用品を考えたり、その素材や状況を活かしたりする臨機応変に対応できる。
どこであっても、なんであっても、つくり上げる力を持っているので、その能力を最大限活かす環境を見つけたいですよね」
⎯⎯⎯ 亀津さんが建築の仕事を目指されたのは、どういうきっかけからですか?
亀津「もともと父が大工で、建築会社を営んでいて。僕が生まれた時には、いわゆる丁稚奉公をしている小僧くんたちが3人くらいいる環境で育ったんです。高校を卒業するまで一緒に生活していましたよ。
高校は工業高校に行って建築科を選択して、建築の専門学校に進みました。僕は高校生で図面を引き始めていたのですが、高2の時、設計した家を父が建ててくれて。思い描いたものが形になるという、痺れるような体験をしたことは、大きかったですよね」
⎯⎯⎯ なんだかすごいお父様ですね!
亀津「親父は戦後すぐの昭和20年に生まれて、まだまだ日本が貧しかった頃、中学校を卒業して名古屋に丁稚奉公に出て7年修行して。帰ってはきたけど、親方にお金を借りて家と工場をつくった、というような苦労人ですからね、腕もいいし厳しかったですよ。
僕に対して『専門学校は、もう必要ないんじゃないか?』と実戦重視みたいなところがあって、だから途中でやめて、うちの会社に入りました。
そこから父と番頭さんと僕の3人で仕事をするんですが、いつも意見が対立していましたね」
⎯⎯⎯ どんなことで対立していたんですか?
亀津「僕は入社した頃は大工もやっていたし、図面も描き、見積もりもやり、建築許可の申請書つくりも、営業的なことも全部やった。
これはもう体が壊れるぞと思ったけど、父はせっかく決めてきた話に『そんな家はやらん』となる。そもそも父は純和風住宅しかつくらない。昔ながらの田舎に建っているような建物ばっかりで、時代のニーズの変化に対応しようとはしなかった。
大工たちも派閥があって、親父派は親父の言うことだけ聞く。『あー、だったら俺はもう出るぞ!』となりますよね」
⎯⎯⎯ たしかにその状況はきついですね。
亀津「僕が25歳になった頃、番頭さんが独立されて、そこからは僕が中心になることを父が許してくれたんですが、入社当時はバブルの好景気で、それが弾けたとは言われていたなかで、さらに建築業界全体の景気が大きく下がって、仕事が少なくなってきた時でした。
番頭さんの独立の原因も、ここにあるんですが」
⎯⎯⎯ いきなり荒波の中で船出をしたわけですね。
亀津「たまたま親戚や友人が家を建てる時期が重なり、借金もなかったんでよかったんですけどね。周囲の同業者はバタバタ潰れました。29歳くらいが一番ひどかったかな。
これではいかん、ということで色々なコンテストに応募したり建築雑誌に投稿しだしたりしたんです。
それで、『岐阜県の木でつくる家』という県内のコンペで初年は入賞、次の年からは優秀賞を続けていただけて。雑誌のほうは入賞などはなかったですが、編集長に目をかけていただいて、実際にその雑誌で取材されるような家を見せていただいたりして、たくさんのことを学ばせてもらいました」
⎯⎯⎯ おもにどのようなことを学ばれましたか?
亀津「雑誌に載る効果も大きいとは思いますが、見学会っていうと100人くらい人が来るほど新しい感じの木の家が流行りだした頃で、それを僕も取り入れ始めていたんです。最初は見よう見まねでしたが。
著名な建築家の作品なんかも見せていただくなかで、何よりも感銘を受けたのが“空間”でしたね。
高校や専門学校では柱がどうだ、サッシはこうだ、それで収まりつけてといったところまでしか学んでいなかった。それにしても、明らかにそれまで自分がきれいだと感じていた空間と、それらの家が持つ空間が違っていたんですよね」
⎯⎯⎯ 具体的には?
亀津「言葉にするのは難しいですが、『こういうふうににすると、こう見えるんだ』っていうのがわかったし、見え方と実際に過ごした時の体感がやっぱり違うんだということ。
例えば、吹き抜けって日本人すごく憧れてるけど、微妙な空気の動きを肌が感じて、じつは一番落ち着かんじゃないかな、と思ったりしたんですよね。
で、僕は図面だけでなく大工仕事もするから、窓の切り方にしても見れば『こういうふうに風や光を入れるために、こうしているのか』ということはすぐにわかるんです」
⎯⎯⎯ そこからは、ずっとお忙しかったのですか?
亀津「うちは男3人兄弟で3人とも建築業に進んでいるんですが、一番下の弟に『手が回らないから戻ってこい』と言ったほどです。大工として今も僕と一緒に仕事をしています。ちなみに真ん中は別の会社に勤めています。
うちがつくる家は独特のプロポーションだと、同業者からも言ってもらえるようになって。つくった家を見た人が問い合わせてくれたし、早いうちからWEBサイトをしっかりつくっていたこともあって、途切れずに仕事がきましたね。オーバーワークで、30代の頃はところどころ記憶が残っていないんですが、ありがたいことでした。
けれど、コロナ禍で変わってしまいました。いや、コロナだけが原因ではないかもしれませんが」
⎯⎯⎯ 住環境を見直す人が増えてきたとか?
亀津「それは東京の裕福な人のことでしょう? 仕事はリモートでOKだから、郊外の家を買ってリノベーションして、行き来して暮らすという人たちのことでしょう?
都市部と言われる名古屋であっても、そういう人は見かけなかったです。2023年くらいから持ち直してきていますが、2020~22年は家の依頼はかなり落ち込みましたよね。
“ウッドショック”なんて、木材の価格が急上昇するようなこともあり、市場で直接木材を買っていた僕は、受注がなくても見切りでストックしておいたりして、同業の仲間の相談もずいぶん受けました」
⎯⎯⎯ コロナ禍は、かなり緊迫した状態だったのですね。
亀津「そのかわりと言ってはなんですが、店舗の改装の仕事がけっこう多くなりました。コロナ対策のためだったりとか、その他諸々のことも含めて初めての作業を請け負うようなこともありました。
改めて考えると、『こんなことに困っているけど、誰に頼んでいいのだろう?』というものが多かった。
僕はとりあえず引き受けて『こんな依頼来たけど、どうする?』と大工たちに相談するわけですが、突拍子がないようなことに対しても解決策を考え、形にしてくれました。それが、どれだけ有り難がられたことか」
⎯⎯⎯ 亀津さんが先におっしゃっていましたが、大工さんたちはまさに万能だということですね。
亀津「そうです。決して古めかしい存在ではなく、いつだって頼もしく、可能性を持った存在なんです。インタビューのなかで色々とぼやいたりもしていますが、このことがみなさんに伝わってくれればと思います」
有限会社亀津建築 亀津雅さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
今回ご紹介するのは、京都で瓦葺きをされている光本大助さんです。みなさんご存知の通り、京都には歴史ある文化が沢山残っており、今も脈々と受け継がれています。文化財や町家などの建物ももちろん大切にされています。そしてどんな建物にも欠かせないものといえば、そう、屋根です。しかしながら、工法や木材、壁、床は気にするけど、屋根や瓦に関しては無頓着だという方も少なくないのでは?
さて、瓦葺き一筋の光本さんから、どんなお話が聞けるのでしょうか。
光本大助さん(みつもとだいすけ・66歳)プロフィール
1957年(昭和32年)京都府京都市生まれ。光本瓦店有限会社代表取締役。京都工芸繊維大学 工業化学科を卒業後、父親から継承した瓦店を営みながら、さまざまな訓練校などに通い活動のフィールドを拡大。2020年度(令和2年)には、かわらふき工にて「現代の名工」に認定。
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⎯⎯⎯ お父さんも瓦屋さんだったとのことですが、どんな幼少期を過ごされたのですか?
光本さん(以下敬称略)「母親も瓦屋の手伝いをしていましたし、私も物心ついた頃から遊びがてら現場について行って手伝っていました。父親からは『大変やから継ぐのはやめとけ』と言われていましたが」
⎯⎯⎯ それがなぜ継ぐことになったのか気になります。
光本「ずっと手伝っていたので、もう体に馴染んでいて、高校生の時には先生の家の雨漏りを直しに行ったりしていました。その後、京都工芸繊維大学の夜間部の工業化学科に通いながら、昼間は瓦屋の手伝いを続けていました。そのうちに瓦屋の手伝いに、大学の後輩を誘い、同級生を誘い、だんだん形になってきてしまったんです。それで『もう辞められへんなぁ』という流れです。最初は理科の先生になりたかったんですが、だんだんと瓦屋が面白くなってきました。大学にトラックで通っていたくらいです(笑)。卒業後は他の現場も知りたくて、いろんな親方について、あっちこっち引っ張ってもらっていました。結局、この道を選んでよかったと思っています」
⎯⎯⎯ 今は何人でお仕事をされているんですか?
光本「社員が8人で、いつも来てくれる外注が3人くらい。大体10人前後でやっています。自分一人でできる事って限られてるし、いろんなことをやろうとするとこれくらいの人数にはなりますね。幸い年齢も分散されています。私と同い年の66歳が1人と、30〜50代が4〜5人、20代が4人です。うちが変わっているのは、みんな、何気なく好きな時に来て、好きな時に帰る気ままなバイト君だったのが、いつの間にか社員になっているんですよ」
⎯⎯⎯ 20代の方が多いのはいいですね。皆さんバイトからというのはどんな経緯で?
光本「何でなんですかね(笑)本人たちにも聞いたんですよ。『なんでうちに居着いたの?』って」
⎯⎯⎯ 居着いた! それでどんな回答が。
光本「『やっているうちに馴染んできた』とか『身を固めたい』とか、そんな話ですね。うちで社員になるということは、訓練校に入るということなんです。京都府立瓦技術高等職業訓練校(現 京都瓦技術専門学院)というのがあって、週に1回2年間行くんです。その段階を経てやっと社員です」
⎯⎯⎯ きっちり線引きされているんですね。
光本「そうなんです。福利厚生面では、以前は日当制だったのですが、残業手当・休日出勤手当・有給休暇なども整備しています。大企業では当たり前かもしれませんが、この業界ではかなり早い段階で導入しました」
⎯⎯⎯ 話が前後しますが、瓦専門の訓練校があるんですね。
光本「もちろん他の地域にもありますが、京都らしいですよね。僕ね、訓練校大好きなんです。大学を卒業してから、まず瓦の訓練校に行って、大工の訓練校に行って、板金の訓練校にも行きました。50代になってからも、同志社大学の大学院の総合政策科学研究科というところに行っていました。大体夜間の学校ばかりなので、夜は家にいない人間です(笑)」
⎯⎯⎯ すごいバイタリティですね。大学院ではどんなことを研究されたんですか?
光本「引退した高齢の職人さんを指導者にして、伝統建築の現場でワークショップを開催して、成長の記録などを論文にまとめました。とても面白かったです。トータルすると人生の半分以上、学生をやってきました。行くところ行くところで人の輪がバーッと拡がる。そしてそれがまた繋がって行くんですよ」
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⎯⎯⎯ 光本瓦店のWEBサイトを拝見して「瓦は新しいからいいわけではない」という言葉にグッときました。古い瓦は解体現場などからもらってくるんですか?
光本「それもありますが、発掘現場からもらってくることもあります。幕末の大火事で燃え落ちた建物が今も埋まっているんですよ。焦土層といって地下2mくらいの深さに赤い地層になっています」
⎯⎯⎯ さすが京都。しかし江戸時代でそれくらい深いんですね。不思議です。
光本「でしょ。考古学的には、あくまで通過点の層であまり興味を持たれないので、ありがたく頂いています。それを見て自分なりに分析して『この時代はこのサイズが多い』『もっと前の時代だとまたちょっと違うな』という風に研究しています。『こんなん他に誰も調べてへん』みたいなことを言いながらね」
⎯⎯⎯ 新旧織り交ぜて瓦を葺く場合もあるとか。
光本「そうなんです。武庫川女子大学(兵庫)の甲子園会館では、まさに新旧織り交ぜて葺いています。これが得意なんです。いつ葺いてもランダムに混じって見えるように、新しい瓦も古びた時の色を想定して16色作っています。何列目の何番目に何色を葺くかプランが決まっているんです。最近携わった景観建築学科東棟は新築で新しい瓦ですが、同じように葺いています」
⎯⎯⎯ それはすごい!
光本「なるべく古い瓦を使う提案をしています。寸法調整したり穴を開けたり爪をつけてたりして、手間暇がかかるので『そんなことしたら、よけい高こうつくやん』と言われますけど、かまへんと思うんですよね。絶対再現できない味があるんで。メーカーには嫌がられそうですけど」
⎯⎯⎯ 瓦にも耐用年数があると思いますが、その辺りはどうなんでしょうか?
光本「もちろんそれはあるんですが、大事なのは実際に瓦を見ることですね。例えば北側にあった瓦を南側に持っていくのはいいけど、南側にあった瓦を北側に持って行くと傷みやすいとか。よそから貰ってくるにしても、暑いところから寒いところに持っていったら傷みやすいとか。あとから替えられるように予備をストックしておくことも大事です。新品の製品なら規格もありますが、実際瓦なんて不均一なものなので、割れるものもあれば割れないものもあります。特に古瓦は保証できるものではないので、交換で対応できるようにうちが10年間保証すればいいだけの話です」
⎯⎯⎯ なるほど。その分ストックされているんですね。
光本「それなりにストックはしています。でもストックがなくても粘土で作ればいいだけです。その時にプラスで予備も作れるし。保証できない瓦をいかに安心して使ってもらえるかを考えて、実際に使う古瓦で引っ張り実験をしたこともあります。1平米分並べて輪っかをつけてギューッと持ち上げたり、小刻みに150回引っ張ったりして、何ニュートン耐えられるかを計測して、高さ何メートルの屋根まで耐えられるかを判定する試験です。この試験は、”瓦屋根標準設計・施工ガイドライン”として自主規制でやってきたんですが、令和元年(2019年)に房総半島を襲った台風15号の大きな被害を踏まえ、令和4年(2022年)1月改正の建築基準法に採用されています。元々試験方法を確立しているとはいえ、古瓦でそんな試験やるのはうちぐらいです」
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⎯⎯⎯ 木の家ネットに入会された経緯を教えてください。
光本「東日本大震災の後、東北に木の家ネットの皆さんが行かれる際に誘われて入りました。皆さんの話が熱くて面白かったのをよく覚えています。語って語ってお風呂でも喋りまくって」
⎯⎯⎯ 震災というと今年は元日に能登半島で大きな地震が起こりました。木の家がダメみたいな報道のされ方が気になるのですが、そのあたりでお話しを伺えますか?
光本「あれね。わざわざ瓦がぺっちゃんこになってる家を映しに行ってますよね。阪神大震災の経験もあるし、もう慣れたというと語弊がありますが、他人の口は押さえられないし、すぐ結局忘れてくれはるやろうぐらいに思っています。ちょっとの間だと思いますよ。リフォームするから『とりあえず軽くしたいから瓦だけめくりにきてくれ』という仕事もあるんです」
⎯⎯⎯ なんと。めくるだけ。そのあとはガルバリウムですか?
光本「そうでしょうね。めくるだけなんでわかりませんけど(笑)。別に嫌でもないですし『どうぞどうぞやりますよ』というスタンスです。そこでいい古瓦があればまた使えるようにストックしておきます」
⎯⎯⎯ 捨てる神あれば拾う神あり。ですね。
光本「古瓦のストックが何箇所かあるんですけど、知り合いの職人さんや同業者の人には『勝手に持っていっていいよ』と言っていて、みんな勝手に持っていっています。一点ものとか大事な瓦はまた別のところに置いています」
⎯⎯⎯ もはや、あげる神じゃないですか。
光本「もちろん自分でも使います。京都市の要望として古瓦を使うこともあるんです。例えば、文化財の改修で全体の瓦は新しいものを使いながら、通りに面したよく目につく部分は古瓦を使い、『昔と何にも変わりませんね』という風に仕上げる場合などですね」
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ここで、光本さんの施工事例をご紹介します。
寛政2年(1790年)創業。江戸時代後期より東本願寺前の上珠数屋町通りで京念珠を繋いでいる。
京都駅から徒歩6分。再開発の進む七条通り沿いに佇む築100年の京町家を全面改修。日本茶・紅茶・中国茶などを楽しめる人気店に生まれ変わった。
1675年(延宝3年)創業。酒造りのまち・伏見の最古の酒蔵のひとつ。銘酒「月の桂」の蔵元。1964年(昭和39年)には日本初の「スパークリングにごり酒」を発明。
築148年。藤田家住宅(登録有形文化財)を全面改修し、現在はカフェとして使われている。2018年には京都市の「重要京町家」にも指定されている。
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⎯⎯⎯ 瓦屋として大事にされていることやモットーを教えてください。
光本「瓦だけを見ること。ですかね。お客さんによって、とっつきやすい人もいれば、とっつきにくい人もいます。自分との相性もあります。そこで『なんでこんなややこしいこと言う人のために…』と思うんじゃなくて、瓦に惚れ込んで、瓦だけを見て真面目に仕事をしたらいいと思っているんですよ。そうしていたら、こっちから仕事を取りに行かなくても、自分にあった仕事が向こうからやってきます。それがモットーです」
⎯⎯⎯ 若い職人さんが4人もいらっしゃいますが、社内での関係では何かありますか。
光本「別に私の役に立たなくてもいいけど『他の職人さんが連れて行きたがるような動きをせなあかんで』とはよく言っています。あんまり怖いことは言いません。大事にしていると言うよりは、そういう風にしかできないだけです」
⎯⎯⎯ いえいえ。とても勉強になります。ターニングポイントになったお仕事や出来事があれば教えてください。
光本「徐々にやしね。そんな急に変わらへんっていうか。企業理念とか、目標とかもないんです。別に何も目指しはしないんです。ひとつあるとしたら、町家に目をつけるのが早かったことですかね。今でこそ町家ブームが起こったり、保存していこうという風潮ですけど、バブルの時は、町家といったら潰して建て替えるのが当たり前という時代でした。そんな中、町家に関する団体にいくつか入って、小さな勉強会みたいなものに参加していたんですが、後年、京都市で【京町家再生プラン】という条例が策定されました。そこに名を連ねている5団体のうち4団体に、たまたま早い段階から関わっていたんです。何気なくやってたのが『これやったんや』と思った瞬間でしたね」
光本「もう一個ありました。設計4団体(建築士会、建築士事務所協会、設計管理協会、建築家協会)全部の賛助会員なんです。必ず年に一回はPRタイムを設けてもらっていて、納涼会に総会、新年恒例会にも全部参加しています。これをやっている瓦屋は私だけです」
⎯⎯⎯ それはお忙しいですね。そんな中、今日はお時間をつくっていただきありがとうございます。
光本「これが忙しいけど面白いんです。その集まりで、鍾馗(しょうき)さん作りのワークショップを頼まれてやったのが発端で【京都鍾馗屋】という店も構えました。
鍾馗(しょうき)
京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。
出典 Wikipedia
⎯⎯⎯ 最後にもう一つ質問させてください。光本さんにとって瓦屋の魅力とは何でしょうか?
光本「建築に関わる仕事がいろいろある中で、瓦というのは目立つ所にずっと存在していて、通りがかりに見える部分です。外観の大部分を瓦が占めると言っても過言ではありません。それを子供や孫に『うちでやったんや』と言えることが誇りですね。逆にいうと粗も目につきやすい。台風で飛んだり、雨漏りしたらすぐに呼び出されます。その緊張感が、自分を鼓舞するところだと思います」
インタビュー中、光本さんの口からは「何気なくやってるだけ」という言葉が何度も聞かれました。一日中ご一緒して、それは「適当にこなす」という意味ではなく、ご自身の根底にある信念や直感に忠実に行動されていることの証なんだと感じました。
何気ない行動・何気ない言葉・何気ない繋がりを積み重ねて歩まれている光本さん。その姿は一枚一枚が積み重なってやがて屋根となる、瓦そのもののようでした。
光本瓦店有限会社 光本大助さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)
宮大工のお父様が守り続けた伝統の技術に誰よりも敬意と愛着を持ちながらも、「若い人に受け継いでもらえる形で残す必要がある。そのためにはバランスが必要」と言う濃沼さん。
新旧の時代の過渡期に立つためのバランス、設計士であり工務店の経営者であり大工の息子としての責任のバランスを保つために、技術と知識と誠意をフル稼働させています。
知的な話しぶりと時おり見せる木への偏愛ぶり、そのアンバランスさも何とも魅力的な濃沼さんのお話をどうぞお聞きください。
濃沼広晴さん(こいぬまひろはる・48歳)プロフィール
丸晴工務店代表。一級建築士。1975年、神奈川県生まれ。大学卒業後、3年間ゼネコン企業でビル建築の設計を行ったのち、父が営む丸晴工務店に入社、経営と設計に携わる。京都鴨川建築塾などに参加しながら木の家の建築について学び、その関東版である多摩川建築塾を立ち上げる。「大工の手仕事による木の家づくり」「安全性の数値データや工程の見える化」を行う工務店として確立させ、評価を高めている。
⎯⎯⎯ お父様の晴治さんは、市内最高峰の匠として川崎マイスターに選出されている大工さんですが、濃沼さんご自身は大工さんではなく、建築士となり経営者としても力を発揮されているのですね。
濃沼さん(以下、敬称略)「父は宮大工の修行を積んでいて、個人宅も手掛けていました。子どもの頃から現場の掃き掃除を手伝ったり、上棟式(棟上げを無事に終えられたことに感謝し、工事の安全を祈る儀式)といった職人が大切にしてきた行事に参加したりして、大工仕事の地道さと華やかな場面、人に喜ばれている様子を見て育ちました。
素晴らしい仕事だと思いますし、父をふくめた大工たちを尊敬してきました。でも、自分は目指しませんでした。
自社で設計施工ができる工務店を目指すために、また大工が気持ちよく思う存分能力を発揮して働けるよう、そういう仕事を出せる設計側の人間になろうと思ったんです。たぶん両親もそれを望んでいました」
⎯⎯⎯ ベテランから若い世代の大工さんまで8人もいらして、濃沼さんのマネージメント力の賜物ですね。
濃沼「今年、さらに2人が入社する予定です。ここ数年、弊社でお引き受けしている一戸建ての木造建築の数は年間で12軒。この規模で全棟手刻みをしている大工工務店は珍しいと思います。
これが限界なのですが、ありがたいことに若いご夫婦からご依頼いただくことも少なくないので、人手を増やし対応していく予定です」
⎯⎯⎯ 1軒につき、何人の大工さんが担当するのですか?
濃沼「1軒につき1人が棟梁として担当します。もちろん、フォローしあうこともありますが、そのほうがお客様と密にお付き合いして理想の家をつくりあげることができます。『大工は一棟刻んで年季明け』とよく言われますが、丸晴工務店では年季明けは3年から4年が平均です。全員が手刻みをおこない仕上げ、また家具工事までおこなうことができます」
⎯⎯⎯ やはり伝統的な工法を大切にされているのですね。
濃沼「刻みはリフォームや修繕にも必要な技術ですからね。
神社をつくることも、左官の土壁の土蔵をつくることもあります。ただ、『石場建てじゃなくてはダメ』とか、そこまで伝統的な構法にこだわってはいません。
木の家ネットの会員の方々の石場建てのお仕事を拝見するたび、本当にお見事で素晴らしいと感じますし、次世代にも残っていくことを願う気持ちはあります。一方で縛りを強くしすぎると、残せるものも残せなくなるのではないかと危惧しています。若い人の経験を増やすために、ある程度の軒数を建てられるよう、“伝統と今”をどこで切るかというバランスをいつも意識しています」
⎯⎯⎯ 未来というか時間軸のことを頭に置いて仕事をされているのですね。
濃沼「僕は40代後半なんですが、この世代が重要なポイントで、ここから下の世代になると一気に伝統的なことを知らない人が増えると感じています。だから、僕ら世代が何かしなくてはという責任感のようなものを勝手にいだいています。
この時間軸を縦の線だとすれば、僕は横の線についても思うことがあるんです」
⎯⎯⎯ 横軸ですか? どういったことでしょうか?
濃沼「人と人とのつながり、協力関係とでもいうのでしょうか。
例えば、丸晴工務店のやり方を他の工務店に話したりするというのは、昔は敵に手の内を明かすみたいな感じがありました。けれども、今はみんなで協力しあうべきだと思っています。
今の時代、自分たちだけよければいいと言ってはいられません。お客様が満足しない仕事をする工務店が多くなって『工務店はだらしない』というイメージが根付き、家づくりはハウスメーカーに任せればいいとなってしまっては困るんです。
全国各地域に住宅について相談できる工務店がしっかりしていれば、そこに安心感が生まれますよね。ですから、地域にある昔からの大工工務店には残ってもらいたいのです」
⎯⎯⎯ なるほど、住む人の安心も考えてのことなのですね。
濃沼「もっと言ってしまえば、街のことも考えて、です。地元に大工工務店がなければ、その街に存在する地元の神社仏閣も、稲荷社殿などは誰が修繕するのでしょうか。しっかり維持されている街の景観は魅力的です。景観が魅力的なら、人も集まるでしょう?
家をつくり、地元の神社仏閣、稲荷社殿を修復し街の伝統を守るのは、大工工務店の仕事だと自負していて、地域の工務店同士が協力し合って、あらゆる地域を素敵にして、日本全体が素敵になればと思うんです。
そのためになればと、弊社では学びと情報共有の場をつくっています」
⎯⎯⎯ 学びの場とは、どのような内容ですか?
濃沼「僕は設計も大好きで、自分ももっと学びたいという思いから『多摩川建築塾』という名前で勉強会を開いています。自社設計で施工できるのは、工務店にとって一番強いので、設計力は学び高めないといけませんから。
元々は京都にあった、植久哲男さんという建築雑誌の元編集長が塾長をしている京都鴨川建築塾の関東版でして。植久さんのご協力のもと6~7年前にスタートさせたんです。藤井章さんや山辺 豊彦さん、堀部安嗣さんといった著名な建築家の方々を講師にお迎えして学ばせていただいています。
ネットで受講者を募集するので、建築士だけでなく学生さんも来てくださって、一緒に学べるのはとてもうれしいことですね」
⎯⎯⎯ とくに濃沼さんにとって印象的だった講義の内容は何ですか?
濃沼「みなさん素晴らしい先生方で、たくさん学ばせていただきましたが、やはりそうだよなと思ったのは『庭と建物っていうのは絶対に一体だ』という言葉でした。
関東だと庭をつくるとなると、造園屋さんか外構屋さんか植木屋さんになると思います。外構屋さんっていうのはブロックを積んだりとか、コンクリートを打ったり、主にメーカーの既製品を使用します。植木屋さんは、今では公共事業を主に行っており個人邸はあまり仕事をやらない。造園屋さんに依頼すると一気に金額が上がるので、一般家庭ではなかなか依頼できません。
なので、うちでは毎回、設計と大工とお客さんみんなでつくるという感じになっています」
⎯⎯⎯ みんなで庭つくりなんて、楽しそうですね!
濃沼「そうですね。お客様も楽しんでくださいますし、喜ばれます。
庭って、ある程度以上になったらプロに任せなくてはいけないですが、そもそも日々の手入れが必要で、その手入れをする人が、つくりながら木や花の特性を知っておくほうがいいです。枝の剪定や水あげのやり方とか。
木を選ぶ時もペットのようなイメージで、育てられるか可愛がってあげられるか考えて、厳しければ1本だけにしておくとか、そういうお話もしています。理想と現実のバランスは大事なので。
家と庭は一体で、ここを一緒に考えられるのも大工工務店のよさだと思うんです」
⎯⎯⎯ 家を建てる素材が木ですし、木にお詳しいですものね!
濃沼「庭木についての知識は造園屋さんや植物の専門家ほどではないです。建築に使用する材木に関しては木材マニアというかオタクでして。日本っていい木が育つ有数の国で、この国に生まれて幸せだと心から思い感謝しています。
杉もすごくいい木なんですけど、うちは檜(ヒノキ)をメインに使う工務店です。檜が年を重ねて飴色になる、その様子は本当に綺麗ですよね。油の多い木ならではです。造作家具も檜をメインに使用してます。
ヨーロッパも建材や家具に木を使いますが、基本的には広葉樹でそれを塗装して使う文化です。日本だけですよね、自然の木の飴色を美とする文化というのは。その美を住宅にも表したい、その思いで仕事をしています」
⎯⎯⎯ 檜は香りも素晴らしいですよね。ただ、木の中でも高価なのでは?
濃沼「決してそうじゃないんです。みなさん、外国製の木の家具を好む方は多くて、日本の木で家具をつくると、なんとなく民家っぽくなると思われがちですよね。
実際はデザインをしっかり考えれば北欧家具にも負けない魅力がでると思います。色だけでなく木目もきれいで、軽く、使い心地は檜が断然上! 金額も檜のほうが全然安くて、 3分の1くらいなんです。
使い心地、試してみませんか?」
⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは同じデザインの椅子2脚を用意して)
濃沼「これはフィンランドのニカリという家具メーカーの椅子、もう1脚は京都にいらっしゃる二カリのライセンスを持っている方が檜でつくったものです。ちょっと面白いので体感していただきたいんですが、座ってみてください」
⎯⎯⎯ あれ⁈ 全然ちがいます。檜の椅子の座り心地は、すごくお尻に優しい!
濃沼「そうでしょう? うちは家具も大工仕事としてつくっていて、使い心地のよさはお客様からもお墨付きです。ましてや檜で家をつくれば、心地よさはお尻に限らず全身で感じられるんですよ。こんなに素晴らしいものがあるのに、外国から木材をガンガン輸入するなんて、もったいないというか悔しいというか…」
⎯⎯⎯ 輸入に頼らなければならないほど、生産量が減っているということは?
濃沼「確かに林業も後継者不足で厳しくなっていますし、木材は杉が中心的存在です。けれども、檜の山もちゃんとあるんです。例えば木曽福島は檜の有数の山で、樹齢250年とか300年の木もある。国有林じゃないところでも、樹齢80年から100年レベルでものが結構多くあります。
国有林は通常は切れないのですが、丸晴では天然の木曽檜を数多くストックしてます。
材木屋さんと密にお付き合いをしていますから、そういう木が出たと聞いたら、飛んで行って買っておくんです。
ストックというかうちの木材コレクション、ご覧になりますか?」
⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは作業場兼木材置き場を案内して)
濃沼「秋田杉、春日杉、霧島杉、屋久杉、欅、木曽檜、水楢、栃など様々な材木をストックしてます。
丸太と言ったら京都の北山が有名なんですが、これはその北山から買った丸太です。
これ、これね、黒柿なんですよ。床柱で使用した端材ですが、黒柿って最高級の材料ね。
今、杉板を焼いた焼杉という木材が外壁で流行っていますよね。
木曾檜って、わかりますか? これがそうで、目がすごい細かくて檜の王様って言われています。飴色になるとね、宝石みたいな光を出して始めるんです。見せたいなぁ」
⎯⎯⎯ こんなに大量の木材をストックしたり、作業場もいくつもお持ちになられて、維持するだけでも大変ですね。
濃沼「正直大変です。けれどこれらの材木を手放したら、再度持つことは難しいので必死に守っています。
先程、大工工務店を残したいと言った理由もここにあります。作業場の貸し借りなんかもしているのですが、とにかく広い土地が必要なので、大工工務店も減ることはあってもなかなか増えることはありません」
⎯⎯⎯ 失われつつあるのは伝統技術だけではないということですね。
濃沼「大工とは切っても切り離せない材木屋や山の製材所も、みなさんご存知のとおり減っています。木材を積極的に買い付けるのは、少しでも減少傾向を止めたいからでもあります。
ストックはよくないという方もいらっしゃいますが、本来、木材は何百年ももつものですし、お客様に安価で提供できます。一緒に一点物である木材を選ぶ楽しさもあり、弊社の1つの強みになっていると思います」
⎯⎯⎯ 確かに、「この木がどんなふうに料理されるんだろう」って思ったら、ワクワクするでしょうね。何とも魅力的な強みですね!
濃沼「素晴らしい素材を、持ち味を生かして、腕のいい職人が薄味で提供する。これが一番。大工の仕事は寿司職人とも共通していますね。
さらに強みを増やそうと、今、檜ショップを準備中なんです」
⎯⎯⎯ 御社の社屋のおむかいにある建物ですね? 素敵だなって思ったので、すぐにわかりました。
濃沼「そうです。NCルーターっていう木材の加工用の機械を購入しましてね、それで食器から色々な小物をつくっていく予定です。木の食器や小物類は、可愛いですし、赤ちゃんが触れても安心だし。
身近なところから木のよさっていうのを訴えていって、いつかは木の家に住みたいと思っていただく、その流れをつくっていこうと思っています」
⎯⎯⎯ 先ほどから、道行く人が檜ショップの中を覗き込んでいますね。まだオープンしていないのに。
濃沼「壁も床も檜でできていますが、現代的な設計なので、何だろうと思ってくれているのでしょう。壁をできるだけガラス張りにして、中もよく見えるように設計していますから。地元の人、特にここは小学校の登下校道なので、子どもたちのワクワクにつながったらうれしいですね。
もちろん商品を買ってもらって、少しでも大工の収入アップをしたいと思いますが、子どもたちにモノづくりの仕事って素敵だな、やってみたいなと思ってもらえるよう、僕も素敵な建物の設計、商品の企画デザインを頑張っていくつもりです」
有限会社 丸晴工務店 濃沼広晴さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
猛暑のなか訪れた京都。現代的な家々や集合住宅が連なる細い通り。そこにひっそりと佇む一軒の京町家。きっとここに違いないと思い、小走りで入口の前に立つと「中川幸嗣建築設計事務所」という控えめな看板が目に入った。挨拶をして迎え入れていただいた土間では、外とは打って変わって心地よい風がカーテンを揺らしている。
それだけのことですが、きっと今日は中川さんからいい話が聞けそうだと確信した瞬間でした。
中川幸嗣さん(なかがわこうじ・46歳)プロフィール
1977年(昭和52年)生まれ。京都府福知山出身。一級建築士事務所 中川幸嗣建築設計事務所代表。2002年 武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業後、建築設計事務所勤務を経て2014年に独立。京町家を改修し自宅兼事務所としている。過剰さがなく豊かで美しい民家の佇まいに学び、軽やかでしなやかで実のある建築を探っている。京都市文化財マネージャー(建造物)としても活躍中。
⎯⎯⎯ 福知山(京都)のご出身とのことですが、どんな幼少期を過ごされたのですか?
中川さん(以下敬称略)「実家は大正初期に建てられた町家で、薬屋を営んでいます。福知山は城下町なので親戚や同級生の家も商売をやっている古い家が多かったですね。だから食住一体の生活が自然でした。町家独特の暗さや湿り気、静けさや匂いが今でも印象に残っています。
小さい頃は川の堤防周辺でよく遊んでいました。由良川(ゆらがわ)という川なんですが、昔から幾度となく氾濫していて、福知山はその度に水害に見舞われた街でもあります。そんな歴史の中で、街と川の境に築かれた高く長い堤防がモノリスのような圧倒的な存在として記憶に刻まれています」
⎯⎯⎯ 建築の道に進もうと決めたきっかけや理由を教えてください。
中川「高校2年生の時、自転車競技の練習中に事故に遭い、脳挫傷する大怪我をしてしまいました。幸い命拾いしましたが、自分の人生をきちんと考えるべきだという思いが芽生えました。
その頃、ふと手に取った雑誌「SD : スペースデザイン」の中で特集されていた「ランド・アート(「アース・ワーク」とも呼ばれる)」に惹かれました。それは建築とも彫刻とも造園とも捉えることができるので、美術大学の建築学科に進学しました。幼少期の堤防の記憶が影響しているのかもしれないです」
ランド・アート
ランド・アート (land art)とは、岩、土、木、鉄などの「自然の素材」を用いて砂漠や平原などに作品を構築する美術のジャンル、またはその作品のこと。規模の大きなものは、アース・アート (earth art)、アースワーク (earthworks)などとも呼ばれるが、その区別は厳密ではない。
出展:Wikipedia
⎯⎯⎯ なるほど。スケールの大きさが確かにリンクする部分がありそうですね。学生時代はどんなことをされていたんですか?
中川「春休みになるとバックパックを背負っていろんな国を旅していました。最初はタイに行って、翌年にインド・ネパールへ。また別の機会にトルコ・シリア・ヨルダン・エジプト。あとはヨーロッパにも行きました。有名建築や観光地を巡るのではなくて、一日中街を歩いたり、鉄道やバスに乗ったり、おじさん達がタバコを燻らす街角のカフェで喫茶したり、庶民的なご飯を食べたり、その土地に暮らす人々の普通の営みを垣間見るのが目的でした」
⎯⎯⎯ 刺激的でしょうね。その行動力はどんな思いから出てきたのでしょうか。
中川「建築を志す人なら一度は読むような本に【人間のための街路】(バーナード・ルドフスキー 著 )という名著があります。自動車のための“道路”ではなく、人間が歩くための“街路”の重要性を説いた本で、とても感銘を受けました。旅先に選んだ異国の古い街を歩いていると、喧騒の傍に、居心地の良い落ち着ける場所があったりと、新・旧や動・静が同居する中に、懐かしさや既視感を感じるんです。
そこで『待てよ。福知山も半世紀程前までは、江戸時代の城下町としての歴史が積み重ねられた、いきいきとした街路空間があって、道に多くの人がいる街だったんじゃないか』と、外の世界を見ることで逆輸入的に自分のルーツにある街や生活文化・民家や伝統建築などの魅力に気付かされたんです。
けれども都市計画は、今考えると重要伝統的建造物群保存地区にもなり得たであろう福知山独自の、水害共存型町家の建ち並ぶ旧街道の約半分を町内ごと潰し、片側二車線の車のための道路にかえてしまいました。街から堤防にあがる魅力的な人間のための階段も、今では刑務所を囲む塀の様になっています。30年以上前、私の少年時代の出来事ですが、なじみのある景観を失ってしまうというのは、取り返しのつかない残念なことで、恨みは根深いものです。
⎯⎯⎯ 建築だけというより、それも含めた街路や街などに興味を持たれていたんですね。
中川「そうです。大学時代にお世話になった先生が二人いらっしゃって、一人は今年亡くなられた相沢韶男(あいざわつぐお)先生。相沢先生は民俗学者の宮本常一先生のお弟子さんで自称「壊さない建築家」。民俗学と文化人類学の講座を受講していました。もう一人は源愛日児(みなもとあいひこ)先生。身体と建築について考察すると同時に、継手・仕口や差鴨居など伝統的な構法の研究もされている方です。
そういった先生方の影響もあり、建築家が建てた建築でもなく、お寺や神社のような伝統建築というわけでもなく、立派なものというより素朴な、市井の人々が建てたような、土から生えてきたような、民家建築に興味を覚えるようになりました」
⎯⎯⎯ 設計の仕事を始められてターニングポイントとなるような出来事はありましたか?
中川「大学卒業後の東京にいた頃、実家の薬局を改装することになり、僕が設計することになったんです。大学を出て間もないので経験も浅く、右も左もわからなかったんですが、地元にある一般建築から社寺建築も手がける工務店に施工をお願いしました。
大工さんと面と向かって対話すること自体もほぼ初めてで、世話役の大工さんは口調も荒く怖かったんです(笑)。でも話してみるとその大工さんは笑顔も素敵で魅力的な方でした。壁のどこに開口部を設けるかという話のときに、高さや大きさ、下地による制約などを考慮しながらも、どうすれば美しいかということをも考えておられて、立場もバックグラウンドも違うけど、デザインするという意識の部分に共通点があったので、大工さんという存在が一気に身近に感じられるようになりました。本当に無知ですよね(笑)。
学生時代に僕が継手・仕口に詳しい源先生から学んでいたこともあって、現場で生の竿車知継ぎに感動していると、他の応援の年配大工さんなんかもいろんな継手や仕口を『こんなの知っとるか?これはどうや?』とたくさん技を披露してくれたんです」
中川薬局改修|福知山市|2005年
⎯⎯⎯ 中川さんが設計される際に大切にしていることを教えてください。
中川「特に民家のような建築の場合、自分の閃きや思いつきなんかで一朝一夕に建てられるものではありません。先人たちによって幾度もの実証実験を経るなかで育まれてきた建築のかたちです。地域ごとに方言があるように、建築のかたちも多様なはずです。設計を始める前に、まずはその土地において建てられてきた伝統的な民家について知ることから始めます」
⎯⎯⎯ 新築する場合も伝統的な民家について知ることから始めるんですか?
中川「その通りです。その土地ごとの生活の営みから導き出された建物のかたちや、その土地で昔から好まれてきた材料、さらには文化的な特色や風習などと現代生活との関連性を探ります。懐古的に昔を再現するつもりはありませんが、地域によっては今も鬼門などに敏感な場合もあります。
少し大袈裟かもしれませんが、歴史に学ぶ工程は、それぞれの土地に対する礼儀であると同時に、型を知ることで型を破ることにもつながり、新たにデザインする上での拠り所にもなると思います。
そのような下地づくりともいえる工程を経て、現在の目線で、建物を建てる敷地の周辺環境との関係や施主の要望、安全かつ快適に暮らせる家に必要な性能などを盛り込み計画していきます。そこからが本題なんですがね。
美味しいお味噌汁を作るために、きちんと出汁をひいた上で具を入れていくような感じです(笑)」
⎯⎯⎯ なるほど。では古い建物を改修する際はいかがでしょうか?
中川「改修する建物が町家や農家の建物のような伝統的な民家の場合、今まで残されてきたことを尊重し、無理な間取りの変更は極力避け、その建物の特徴を損なわないような計画を心がけています。
もちろん昔と今とでは生活様式も大きく変わっています。例えば屎尿を汲み取りするために必要だった町家の通り土間(トオリニワ)は今となっては必要ありません。しかしながら、内と外を繋ぐ家の中の道のような土間空間は、下水が普及した今もなお、建物内外の行き来が盛んになる便利で魅力的な町家の要素でもあります。
暑さ寒さとの付き合い方も、生活様式や生活環境の変化、気候変動により昔と今とでは変わらざるを得ませんが、伝統的な土壁に、断熱や遮熱などの現代的な工法を適切に施すことによって、高性能な建物にもなり得ます。
古い建物を無くしてしまったり大きく変えてしまう前に、その建物を如何に住みこなすか、建物に寄り添うようなつもりでその建物の持ち味を活かし、将来につなげることを考えます。その上で変えることが必要な場合は、相応しい変え方を探ります」
⎯⎯⎯ 納得です。今ご自宅兼事務所にされているこの京町家についても教えていただけますか?
中川「織屋建という西陣地域ならではの架構形式を持つ、工場と住まいが一体となった町家です。敷地は間口に対して奥行きが深く、主屋と離れの間に庭があります。かつては一般的だった織屋建の町家も、今では町内にここ一軒を残すのみとなってしまいました。通りに面してそれぞれの町家が建ち並ぶことでお互いの強度を連担していたので、短辺方向の壁が元々ほとんどないんです。明治初期あるいは幕末くらいに建てられたであろう庶民的な町家ということもあり、梁も華奢で仕口も怪しく脆弱そのもの。できる限り荒壁や柱を増やして強度を上げています」
⎯⎯⎯ 他に大切にしていることはありますか?
中川「庭屋一如(ていおくいちにょ)と言われるように、特に都市部の生活環境において、庭は大切だと強く感じています。身近な材料で丁寧に作られた家と、心地の良い庭とは切っても切り離せません。庭は見るだけでなく、草むしりをしたり落ち葉を拾ったりと、毎日少しだけでも実際に触れることができると、随分生活の質が上がります。
家は雨風や暑さ寒さ、社会や人間関係から身を守ったり、大切なものをしまっておくシェルターとしての役割があるのと同時に、庭を持つことで季節の移りかわりを感じ、内にいながらも意識は外に広がります」
ここで、中川さんの設計事例をご紹介します。
中筋の家 (自宅兼事務所)改修|京都市|2023年
建築当初は工場だった吹抜け空間には低い天井が張られ、床の間のある座敷となっていた。今回の改修工事の際に天井の吹抜けを再現し、開放感のある板張りのリビングルームとしている。庭を囲む縁側や渡廊下、外腰掛など内と外の間の空間が実はとても重要。
「庭も作庭から数年を経て、樹々が根を張り幹も少しづつ太くなっています。苔も成長して庭石と絡みだしたり、ミミズも増えて土中環境も良くなったりと、庭の魅力は日々増しつつあります。無駄に思えるかもしれない渡廊下なども、気持ちを繋いでくれることに気づかされました」(中川さん)
西院の家|京都市|2016年
床面積20坪(ロフト別)の小規模な新築物件だが、大工・左官・建具職人達のこだわりが詰まっている。施工は木の家ネット会員でもある大髙建築の高橋憲人さん(つくり手リスト)が担当している。
「初めて設計した竹小舞と荒壁下地による新築住宅です。今日一般的に使われている石膏ボード屑などの産業廃棄物がほとんど出ない現場で、その健全さと気持ちのよさを身をもって体験しました。荒壁は粘り強い壁になるだけでなく防火的にも優れているし、調湿性、蓄熱性や遮音性にも優れています。再利用しやすくゴミになりません。理想的ではないですか?荒壁は文化財のためだけのものではありません。外観は今も町家がちらほらと残っている通りの景観を整えることを意識して設計しました」(中川さん)
追分山荘|軽井沢|2014年
広い敷地に高さを抑えた軒の深い屋根を掛け、眺望の良い東側に設けた縁側と観月の露台で内と外の境目の空間を満喫できるようになっている。ほとんどの窓は軽やかな明かり障子と高性能木製サッシの二重構造となっており、マイナス15度にもなる厳しい冬に備えている。
「冬の朝、布団の中が寒いとなかなか起きることができませんが、暖かい布団からはパッと起きることができまよね。冬の半屋外も楽しむことができるよう、家の中がきちんと暖かくなるようにしています」(中川さん)
⎯⎯⎯ 最後に、家づくりに対する想いとこれからの展望を教えてください。
中川「この質問、悩みますね(笑)。家づくりにはいろんな人が関わります。使う材料や工法の選び方ひとつで、それを生業にしている職人さんたちにも大きな影響を与えます。ちょうど『投票』に近い感覚かもしれません。
例えば荒壁。荒壁下地の土壁は素晴らしいポテンシャルを持っています。だけど目の前の予算の都合だけで選択肢から外されてしまうと、いざ使いたい場面が訪れた時に、材料や職人さんが見つけづらくなっていたり、コストがさらに掛かってしまったりと、どんどん採用しづらい状況に追い込まれてしまいます。そうならないためには、本当に価値あるもの・価値ある技術に日頃から『確かな投票』をしていくことが大切だと考えています。
『器』に例えるなら、いい器は仕舞い込んでおくんじゃなくて、丁寧に大切に普段使いしてあげる。欠けたら金継ぎして永く使う。そうすると日々の生活がとても豊かになりますよね。そんな考え方です。
手間暇のかかる伝統的な木造建築は30年で建て替えるようなものではありません。イニシャルコストが多く掛かったとしても、手入れをしながら何世代にも渡って暮らすことが前提です。そして、後世の人が見た時にその良さが評価されれば、さらに後世へと受け継がれていきます。逆に、後世の人に『寒いし、不便だし、かっこ悪い、ダメだこりゃ』と思われたら、いくら材料や技術が素晴らしくても叩き潰されてしまいます。そうならないために、長く愛されるだけの意匠や性能が求められます。建築士の責任は重大です」
「建物」という観点からさらに視野を拡げ、街並み、街路空間、過去・現在・未来をつなぐ家づくりを等身大で実践している中川さん。現代社会が抱えるさまざまな問題を解決する糸口が、そこにあるように感じた。
一級建築士事務所 中川幸嗣建築設計事務所 中川幸嗣さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
尋常ではない猛暑に誰もが音を上げた今年の夏。その終わりかけのタイミングで、環境問題に向き合い続け、省資源の家づくりに取り組む金田正夫さんのお話に触れるのは、私たちにとって意味深いことだと感じます。環境問題のお話は深刻だけれど、金田さんが提案する対策法、その一つである自然と正面から向き合う家は、質素でストイックではなく、柔軟で人懐っこい! その印象は金田さんのお人柄そのものです。
金田正夫(かねだまさお・74歳)さんプロフィール
1973年、工学院大学建築学科卒業、同年図師建築建築研究所入社 。74年に都市建築計画センター入社 。83年に独立し、一級建築士事務所 金田建築設計事務所開設 。2011年、法政大学大学院工学研究科建設工学専攻博士課程修了博士号取得。建築士として活躍するほか法政大学非常勤講師を務め、現在も大妻女子大学で環境問題と建築に関する講座を担当。著書に『春夏秋冬のある暮らし─機械や工業材料に頼らない住まいの環境づくり─』(風土社)がある。
⎯⎯⎯ 自然素材の家づくりに取り組むようになったきっかけから伺えますか?
金田さん(以下、敬称略)「地球環境のことが私の根幹というか土台になっています。そこからお話ししてもいいですか?」
⎯⎯⎯ もちろんです!
金田「地球に暮らしている生命体がこのままでは30年後に絶滅するというぐらいに、今、環境は追い込まれているんですよね。おひとりおひとりが、どう向き合うかというのは自由ですけれど、私は、後世に子どもや孫たちの世代が生きていける環境を取り戻したいと思っています。そのために、私ができることが建築のことなので、家づくりはもちろん、建築物の調査・研究に力を注いでいます」
⎯⎯⎯ 建築物の調査・研究とはどのようなことですか?
金田「気候・環境異変の原因を明らかにして取り除かないと根本的な解決はできませんから、私なりに数々の文献を調べて、まず時期的には戦後に着目すべきだとわかりました。
異変は人類8万年の歴史とか江戸時代の暮らしの中で徐々に進んだのではなく、第二次世界大戦が終わった1945年からわずか60〜70年の間に、二酸化炭素の増加量や資源の消費量が顕著に変わるんです」
⎯⎯⎯ 顕著とは、具体的にどれくらいですか?
金田「資源について言えば、地球上にある人間が使える資源の3分の2を、戦後のわずか60年ほどで使い切ったんです。資源はまだ十分にあった50年前、メドウズ博士が発表した未来予測では、その当時の使い方のままだと、2050年に資源は枯渇するとされています。10年前に日本政府が発表した環境白書の、1つ1つの資源があと何年で枯渇するか、という予測データと比較しても、メドウズ博士の予測通りに進行していることが確認できます」
⎯⎯⎯ 今からわずか30年後ですね。再生エネルギーが注目されていますが、対策になっていませんか?
金田「資源を使うと温暖化ガスの排出や環境悪化の要素とリンクするので、温暖化ガスが増えるのは資源の大量消費が背景にあります。戦後の大量生産、大量消費、使い捨ての経済論理が一番の原因と言わざるを得ません。
温暖化ガスだけを減らそうとか、再生エネルギーで二酸化炭素を出さない発電に切り替えようというのは方策の1つかもしれないですけど、根本的な解決にはなりません。省エネより省資源こそが重要なキーワードです。
エネルギーではなくその元になる資源そのものの使い方を節約して、環境への負荷を軽減することが必要で、建築について言えば、使い勝手のいい機器や素材に頼らないでどこまでやれるのか、私は取り組んでいます」
⎯⎯⎯ 検証して有益とわかったことを家づくりに取り入れているのですね?
金田「はい。民家に温度計をすえて約20年にわたって調べてきました。かつての庶民層の家は、自然の営みに頼ったもので、その知恵は現代の科学者が追いつかないレベルです。
温度測定をすると民家がどういう工夫で夏の涼しさや冬の温もりをつくっていたか、わかってきました。それを現代に応用して、資源をあまり使わないでも快適な環境をつくれると具体的な提案をし、設計に取り入れています」
⎯⎯⎯ 現代に応用できる工法の例を教えてください。
金田「今日も暑いですからね。夏の暑さについて中心にお話ししますと、風を通すために南北に窓をつくる、上下の高低差がある窓があれば理想的です。土や木が調湿材料だということも、建築に関わる方は知っていると思います。
昔の農家や商家などには越屋根という、屋根の上に空気を通すためのに小さな屋根が載っています。これが高低差を利用して通風をとる窓の原型です。
さらに私は、二重屋根にして、上の屋根が太陽からの受け取る放射熱(赤外線)70℃の大半をカットし、その結果、下の屋根が外気温度の30℃に落ちる。この間には断熱材の1㎜もありません。これは鎌倉時代の土蔵の屋根に取り入れられているもので、当時の絵巻物にも描かれています。家の日傘みたいなものです。
わずかな庭でも草を生やし、家のなかと湿度差をつくることで風を通すのもポイントです」
⎯⎯⎯ 日傘のある家! 言葉にするとユニークですね。
金田「二重屋根の上屋根は70℃程になりますが、下屋根は外気温度に落ちるので、最上階の部屋は外気温より低くなります。
今年の夏も冷房を使ったのは1週間程度だったと、クライアントのみなさん喜んでくださっています。しかも、冷房を使わなくなって体調がよくなったと感謝してくださる方も多いです。
そもそも、冷房を使わないで済む家づくりに取り組むきっかけは、冷気に当たるのがつらいとおっしゃるリウマチを患っている方のお住まいでした」
⎯⎯⎯ 冷房って体が冷えすぎることもあって、健康的に使うのは案外難しい気がしますね。
金田「湿度とか放射熱とか風の流れといった、自然界の営みを無視して人間を含む生命は健全に生きられないのではないかと思います。
高気密・高断熱住宅は工業材料で外とは隔絶した空間をつくり、その中に高性能エアコンを使い、運転エネルギーの削減をして温暖化を止めようとしています。しかしこれらの諸材料や機器をつくり廃棄するための資源消費や環境の負荷には触れないのです」
⎯⎯⎯ 自然を完全に遮断するのか、オープンにして利用するのか、涼をつくるという目的は同じでも向き合い方は真逆ですね。
金田「そうです。資源を大量に使う断熱材で自然を遮断した家に住み、エアコンで気温をコントロールするのに資源を使い、十数年でエアコンを取り替え、その処分に資源を使って……。
これを続けていると、2050年資源枯渇・餓死の予測が確実に現実化してしまうでしょうね。我々人間が、自然に背を向けて生活していくことは、もう限界にきているんです」
⎯⎯⎯ 建築家である根底に環境問題があるとおっしゃっていましたが、そもそも建築家を目ざされたのは、どのような流れからですか?
金田「高校の頃には、絵を描いたり物を作るのが好きでした。難しい本を読んで勉強するのは苦手だったので、絵を描いてたり物をつくるほうがいいなと思いまして、建築の道を選びました。
大学の建築学科に進むと、周囲の同僚たちはものすごい意欲を燃やしていて、ル・コルビジェとか先進的な現代建築をつくる人への関心が高かったですが、私はさほど関心がありませんでした。昔ながらの民家にもです(笑)。
今振り返れば、伊藤ていじというすごい先生がいらしたのに、内容はよく覚えていない。必死で聞いたらよかったのにと、残念に思っています」
⎯⎯⎯ それでも、建築のお仕事を選ばれたのですね?
金田「自分はあまり要領がよくないし、大企業の歯車になるのも嫌だったんですよね。給料が少なくてもなんとか食べていければいいと思って、小さな設計事務所に入りました。
ところが社会人になってすぐに“オイルショック”が起こって、たった1年の間に会社2つをクビになりました。
同期の仲間はどんどん経験を積んでいるのに、私はまだ図面1枚も引いたことがないという。こんな出発でした」
⎯⎯⎯ 状況が変わったきっかけは何だったのですか?
金田「「3つ目の職場にアルバイトで入るんですが、相変わらずオイルショックの影響があり『あんた、ちょっとそろそろ辞めてよ』と言われ、これは覚悟を決めて頑張らないと、先が厳しいなと思っていたので、『僕は本気で働く気で来ています、なんとか働かさせてください』とお願いして、どうにかクビはつながりました。その後も上司からは『お前、才能ないから早く足洗え』など、色々言われました」
⎯⎯⎯ それはおつらいですね。
金田「ただ、歩みはすごくのろいけど着実に進む自分を知っていたので、あんまりへこたれませんでした。上司の言葉に発奮して、そこからものすごく勉強をしましたね。時間があればル・コルビジェはもちろんですけど、日本中の建築を見て回りました」
⎯⎯⎯ 古い建物も、ですか?
金田「いえ、関心を持ち始めたのは大学を卒業して10年、3つ目の職場から独立した1980年頃からです。独立して間もない時に、先ほども少しお話しした越屋根と呼ばれる屋根の上にある小さな屋根がある家の設計にかかわります。
越屋根は、かまどや囲炉裏の煙を外に出す役割や光を取り入れたり、熱い空気や湿気を上から逃がして、夏の換気・通風に大いに効果をあげていました。
こういったことは、先人が育んできたことを次の時代に伝えて行こうとした方々がつくった日本建築セミナーという学校で学びました。
今思えば、ここで教えていたのは雲の上のような方々でした。全国的に見ればこんなことをやってる人間はほんの一握りです。そこで7〜8年学びました。卒業証書も何もないんですが、中味が濃く、先人から学ぼうと思っていた自分に多大な影響を与えてくれました」
⎯⎯⎯ 先ほどおっしゃっていた冷房がいらない家づくりのヒント数々も、その講座の中から得たのでしょうか?
金田「そうですね。あるセミナーを川崎市立民家園という場所で受けた時に、大きな衝撃を受けました。
ちょうど猛暑の夏だったのですが、冷房のない古民家で2時間話を聞くのはつらいな〜と思いながら参加したんです。
すると、30分がすぎたころに、暑いとか涼しいとか気温への意識が消えていることに気がつきました。すごく涼しいわけではないけれど、不快感がない。終わって外に出るとカーッと暑い。この民家の不思議な居心地のよさは何によるものなのか、本気で研究し始めたのは、ここからです。
環境問題に関心を持ち始めたのもこの頃からでした」
⎯⎯⎯ 研究の成果を家づくりに生かしているほかに、論文を書かれて発表されたり、講演活動もされていますね。
金田「「建築だけでなく衣食住のすべてが環境問題に影響していますから、講演ではこれらをトータルにお話ししています。3割くらいの人は環境に深い関心があるとみられるので、この方々に届けていきたいと思っています」
⎯⎯⎯ この猛暑で世間的にも危機感は高まっているのでは?
金田「「正直、一般的にはまだ省エネまでしか意識が達していない気がします。
ただ、希望はあるなと感じています。それは、大妻女子大学の講義では、今の環境異変の根本原因は大量生産・大量消費・使い捨てにあることを、ここにメスを入れないと解決しないことを、奥歯に物を挟むことなく、ズバズバ話しています(笑)。
聞いているのは、古い時代を知らない10代の若者です。講義の後のアンケートでは、受講者70人ほぼ全員が『もう今までどおりの環境対策では行き詰まる可能性がある』『もっと自分の生活とか建物のつくりを見直さないといけないと思いました』という回答をくれています。
次を担う世代が理解してくれていることは心強く、彼らのためにもさらにデータと指針になるものを残さなければと身が引き締まる思いです」
取材を終えて…
クライアントさんのご意志で写真は限られていますが、金田さんが設計された家は家族だけでなく、お客様を招いて楽しむことができる仕掛けが多く、金田さんが人と接することがお好きであることが感じられました。環境を守ることと、生活を楽しむことは矛盾しない。そう教えていただいた気がします。
(有)無垢里 一級建築士事務所 金田正夫さん(つくり手リスト)
取材・執筆:小林佑実
コロナ禍を経て訪れた京都には観光客が溢れ(特にインバウンドの方の多いこと!)、活気に満ちていました。その人気を支えている理由の一つが、京都らしい町並みを形成している京町家の存在です。
今回ご紹介する大工棟梁の大下さんは京町家一筋。京町家に対する想いや魅力を語っていただきました。
大下尚平さん(おおしたしょうへい・43歳)プロフィール
1980年 京都府生まれ。株式会社大下工務店代表。京町家の復元改修、祇園祭の山・鉾組立などを通じて先人の大工の技術力の高さや知恵、そして作法を日々学んでいる。それらを自身の建築に活かし、“出入りの大工”を目指している。
⎯⎯⎯ はじめまして。早速ですが経歴や大工の道に進んだきっかけを教えていただけますか。
大下さん(以下敬称略)「父親が大工で毎日楽しそうに仕事をしていたので、それを側で見ていたら自然と自分も同じ道を歩むことになりました。トラックに乗せてもらっていろんな所に連れていってもらったのが楽しかったですし、刻み場として借りていた材木屋さんで、大きい丸太がその場で製材されて柱になって、父親が墨付けをして刻んでいくっていう流れを見るのがすごく面白かったのを覚えています」
⎯⎯⎯ 二代目でいらっしゃるのですね。大下工務店の始まりについて少し伺いたいです。
大下「大下工務店は、山口県から出てきた父が京都で大工修行を積み独立したのが始まりです。元々のお客さんが少ない中、僕ら三兄弟を食わしていかないとならなかったので大変だったと思います。当時は手刻みからプレカットへの過渡期で、うちはギリギリ墨付け・手刻みをしていましたが、父親からは『お前が墨付け覚えたらプレカットに変えるわ』みたいなことを言われていました。そんな時代ですね」
⎯⎯⎯ しかし今ではプレカットどころか、伝統的な京町家の改修を専門にされていますが、どういった変化があったのでしょうか。
大下「僕が父親と一緒に仕事をするようになった頃、仕事を組んでいた仲間や会社も徐々に代替わりしていき、同じ繋がりややり方だけをずっとやっていては立ち行かなくなると思い、僕は『手刻みで京町家の仕事を専門にするんだ』とグッと方向転換しました」
京町家
京都市内の昭和25年以前の木造住宅を「京町家」と呼ぶ。特徴は間口が狭く奥行きが深い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれる間取りで、商いと住まいを同じ建物で営む「職住一体」を基本とする。 実は「京町家」という言葉は昭和40年代の民家ブームの際に造られた造語であり、江戸時代には、町にある建物は形や生業に関わりなく「町家」とされていた。(出典・参考=Wikipedia)
⎯⎯⎯ ターニングポイントとなるような出来事があれば教えてください。
大下「25歳のとき、京町家作事組が運営している棟梁塾に入ったことですね。専門学校を出た後、うちの仕事も忙しかったので父の元で、“外の世界を見なあかん”とあちこち応援に行かせてもらっていたのですが、やっぱりそれだけではまだ狭い中にいるなと感じていました。そしてちょうどいいタイミングで棟梁塾の募集があったので、“これだ!”と申し込みました。
塾長であるアラキ工務店の荒木正亘棟梁、大工の金田さん(木の家ネットつくり手リスト)、大工の辻さんとの出会いが一番大きいターニングポイントだと思っています。この時、金田さんから木の家ネットのことを教えてもらいました」
⎯⎯⎯ 具体的にはどういったことを学ばれたんですか?
大下「京都で長年仕事をされてきた大先輩の棟梁から教わりました。継手や仕口などの大工技術の話ばかりではなく、広く浅くというと語弊があるかも知れないですが、『京都で棟梁としてやっていくには』ということを網羅的に学びました。大工のことももちろん学びますが、家づくりに関わる他職(襖屋さん・建具屋さん・左官屋さん・瓦屋さん・手傳さん・畳屋さん・板金屋さん・設備屋さんなど)の職人さんが、どういう仕事をしていて、どういうグレードの仕事があって…という話が主でした。
京都ならではの色々な老舗の職種の方、大店の旦那衆の方、沢山の借家をお持ちの大家さん、歴史ある花街のお母さん、お茶やお花の先生や、ものづくりの職人さんなどなど、いろんなお施主さんがいらっしゃいます。そういった方々と対等に会話するためには、広い知識・教養を持ち合わせていないと棟梁としてやっていけないんです。だから『お茶やお花も興味がないです』では通らないし、行儀が悪いと『大工さんチェンジ』ってなります(笑)ほんまに僕らのことをよう見てはる。でも、そんな中で信頼してもらえたら嬉しいですし、やりがいのある仕事につながりますね」
⎯⎯⎯ 京都ならではですね。お茶室のお仕事も手がけられるんですか?
大下「それがですね、今ではお茶室の仕事も少なからずいただいていますが、最初はもう全くわからなくて苦い思いをしたんです。というのが、この棟梁塾を運営している京町家作事組の事務局の改修に携わることになり、お茶室の炉を切ることになったんです。
天井から炉の中心に“釣釜”を下ろさなければなりません。そのためには天井に釣る“釜蛭釘”の位置を厳密に決める必要があります。ところが流派によって蛭釘の向きが違うんです。でも僕はお茶のことを全く知らないから、設計士さんとお茶の先生の会話について行けず、棟梁なのに蚊帳の外で釘一本打てなかった。もう大ショックでした。
『何のための棟梁やねん。これじゃ棟梁とは名乗れない』と思い、いよいよ茶道を習い始めたという訳です。そのときに荒木棟梁が言っていたことの意味が解りました」
京都市中京区釜座町|2011年
京町家の改修・修繕に携わる設計者・施工者が集まる技術者団体で、大下さんが学んだ棟梁塾の運営も担う。現在は大下さんが代表理事を務めている。明治時代の建物を大下さんを中心とした棟梁塾のメンバーで改修した。ターニングポイントとなった思い出深い場所、京町家作事組だ。
結構傷んでいた上に、京町家にそぐわないプリント合板のフローリングなどでリフォームされていたという建物を、何事もなかったかのように京町家然とした佇まいに生き返らせた技には脱帽だ。
⎯⎯⎯ 京町家と、いわゆる木の家・伝統建築とは一味も二味も違いがあって、そこがとても興味深いです。大下さんにとっての京町家の魅力とは何でしょうか。
大下「京町家は本当に面白い。碁盤の目のように区画された通りがあり、限られた土地にひしめき合って建てられた江戸時代の都市型住宅です。
大工目線で言うと、江戸時代の職人たちの知恵が詰まっているところが魅力ですね。狭小地において外から工事できない場合にどうやって内から工事するか。例えば数軒立ち並んでいる家のうち、真ん中の家が火事になったとしても、もう一回そこに同じサイズの家を隙間なく建てなきゃならない。それをやって退けてきたのが尊敬する京都の大工や職人たちです。
それと、京町家が好きなもう一つの理由が、苦労の跡を残さないところです。例えば、改修現場に入った時に、根継ぎにしてあるところを表から見たら『まぁシュッと一文字に根継ぎしてあるな』という感じなんですが、裏にまわってみたら実はすごい仕口がしてあったり。すごく立派な町家でも派手な装飾や晴れがましい職人の技を見せびらかさずに、しっかりと手間はかけてある。何かわびさびを感じさせるような佇まいがあるんですよね。
住む立場で言うと、耐用年数が長いことも魅力ですね。今の一般的な家の寿命が30〜40年くらいだとして、京町家や昔ながらの木の家の寿命は50〜100年。しっかりオーバーホールしてやれば、また50年100年と保ちます。昔の家って木竹と土、藁や紙や草など、自然に還るもので作ってあって、それしかなかったというのもあるかもしれないけど、やっぱりその造りが基本であり正解なんだと思います。SDGsに関しても、やっと周りが気づいて振り返ってもらえるようになってきて『今更?』という感じではありますが、振り返ってもらえる人や、選択肢として考えてもらえる人が増えるといいですね」
⎯⎯⎯ 母校の高等技術専門校で教壇に立たれていたそうですね。
大下「昨年と一昨年、教えに行っていました。僕が学生の頃は“伝統的な日本の家屋”と言うものは学びましたが、“京町家”なんていう言葉は一言も出てこなかった。それが今の子たちは京町家がどんなものなのかかなり理解しているし、『大切にして残していかないとダメだよね』という意識を持っているなと感じています。20年でそういう考えが地域全体に根付いたんだなと実感しています」
京都市下京区松原通|2019年〜継続中
五軒長屋の住居部分と9つの店舗が入居するテナント部分からなる町家集合体として人々が集っている。2019年のA工事以後、現在に至るまで継続的に改修を行なっており、京都らしい街並みが形成されている。京町家の魅力がギュッと凝縮された場所だ。
京都市中京区壬生馬場町|2022年
大下工務店が事務所としている京町家。吹き抜け部分に二階が作られ子供部屋になっていたが、建築当初の痕跡を辿り、元の準棟纂冪を復元した。通りからは想像できない大きな空間が広がる。
準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)
お寺に準じる小屋組の意味。大店の火袋で側つなぎの上に牛梁や小屋束を見せる架構をいう。水平垂直の変形には効かないが、大型化した町家での2階荷重のバランスを整える意味をもつ。(出典:京町家作事組WEBサイト)
⎯⎯⎯ 京町家であるが故に大変なことはありますか?
大下「昭和・平成くらいの時代に一度改修してあって、鉄骨でフレームを組み直しているような京町家が結構あります。当時は最先端の技術と称され良しとされた改修であっても、またそれを元に戻すような作業が必要になり、改修の改修をするという無駄なことをしなければならないので、本当に勿体無いなぁと思います。開けてみると通し柱や大黒柱を切っちゃっていて、『これ直すんやったら一から建てたほうが…』ということもありますが、『直せへん京町家はない』と僕は言い続けています。どんな京町家でも柱が一本でも残っていたら直せる。そう考えています。
⎯⎯⎯ 大切にしていることやモットーを教えてください。
大下「“出入りの大工になる”ということをとても意識しています。仕事を始めたばかりの頃はお施主さんと密な関係を築くような機会が少なかったんです。やっぱり手がけた家を長いこと見ていかければならないという責任感があります。また、大きな改修をする際は、住みながらでは難しい工事も多く、タイミングがとても大事になってくるので、日頃から出入りしてメンテナンスしていれば、その時期を見極めやすくなります」
⎯⎯⎯ かかりつけ医みたいな感じですかね。近くにいると心強いでしょうね。
大下「そうそうそう!ちょっとした雨漏りとかも、放ったらかしてたら絶対あかんことになるし、白蟻も呼ぶことになる。そういうところを見つけたり、反対にこうした方が長く保つという方法を見つけて提案したりしています」
⎯⎯⎯ 木の家ネットなので、木のとこについて伺います。木材へのこだわりや想いを教えてください。
大下「こういう仕事なのでもちろん僕も木が好きで、金田さんから木に対する知識や買い方などを教えてもらって市に行ったりもしています。以前は『いいグレードのものや珍しいものも集めておかなあかん』と思っていましたが、最近はちょっとこだわりも緩くなってきました(笑)『これじゃないとあかん』ではなく『あるもんで建てる』という精神が京町家には息づいていますし、無理して高価な木を手にいれるというのは減ってきました。
棟梁塾で教えていただいた「千両の大店も裏は古木」という言葉のとおり、京町家は建築時から転用材や古材が沢山使われてるのと、近くの山の杉や桧や松の材木が主に使われてます。とはいえ、グレードの良い家にはグレードの良い木が使われているわけなので、そういう木や仕入れルートは持っておかないとならないですが、地場にある木を使って建てたり直すことが大事だと最近は思っています」
⎯⎯⎯ これからの構想や展望などがあれば教えてください。
大下「京町家を新築で建てる。これですね。技術的にも材料的にも、僕らの周りの大工さんや職人さんなら、もういけるという自信はあります。あとは京都市内でそれを実現するためには法的なところを行政と一緒にクリアしていかなければなりません。これは京都の建築業界・工務店業界全体の展望になるのかもしれませんね。
“平成の京町家” “令和の京町家”ではなく、120年前に建てたものと同じ“本物の京町家”が、同じ工法で京都の町中に建てることができたらいいなぁ。町並みが戻せたら一番いいですね」
⎯⎯⎯ 素晴らしいですね、ぜひ見てみたいです。最後の質問です。大下さんにとって京町家とは何でしょうか。
大下「んー難しいですが、京町家は連綿と続いてきた先人の知恵と伝統的な匠の技術の結晶だと思うんです。そしてそれを直すことによって最初に建てた大工さんや直してきた大工さんと会話している感覚が生まれます。そこがいいと思うなぁ」
京都の歴史が刻まれてきた京町家。そこには建築物としての価値だけではなく、自然との共生、環境配慮、職と住の融合、コミュニティなど、私たちが見つめ直すべき暮らし方や魅力が詰まっている。大下さんはそんな京町家の改修に情熱を燃やし、さらに新しい価値観とともに京都の町並みを次の世代に伝えようと奮闘している。
しかし決して苦労話にしてしまわないのが大下さん。さすがは京都の棟梁だ。
大下工務店 大下尚平さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
インタビューが始まってすぐ、森田敦彦さんから出た言葉は「なんで木の家ネットに水道屋が入っているんだろうって思ったでしょう?」──はい、おっしゃるとおりです! 水道管は木製や石製というわけにはいきませんが、森田さんは環境に優しい素材ステンレスで水道を配管できる稀有な存在。何よりも、職人同士がお互いに敬意を払い丁寧に家をつくる、木の家ネットワークのメンバーである建築士や大工の現場を愛し、できることのすべてを注ぎこんでいる。オープンだけれどシャイな森田さんの言葉からは、これまでのインタビューとは少しちがった木の家づくりの魅力が伝わることでしょう。
森田敦彦さん(もりたあつひこ・49歳)プロフィール
1974年、神奈川県横浜市生まれ。父は美術教師、母は音楽教師という家庭に育ち、後に音楽家になる兄の影響でバンド活動をはじめ、高校卒業後は専門学校でドラムを学ぶ。バンド活動を続けながらいくつかのアルバイトを経験し、23歳の時にアルバイト先の一つだった水道工務店に就職する。2社で水道工の仕事を経験し、33歳で独立し森田水工を開業。水工とは、先輩格の職人仲間が独立を祝って名付けてくれた屋号。“水の工(たくみ)”であらんとする決意表明となっている。
⎯⎯⎯ 水道屋さんになるきっかけとは、どのようなことだったのでしょうか?
森田さん(以下敬称略)「小さい頃から音楽が好きで、高校卒業後は音楽の専門学校に行ったんです。ずっと本気でバンド活動をやっていました、23歳までね。でも全然食べられなくて。
生活のためにガソリン・スタンドでアルバイトをしていたら、そこに高校時代の友人がガソリンを入れに来たの。その時に『今、水道屋の仕事をやっているんだけど、森田君ちょっと手伝ってくれないかな?』って声をかけてくれて、『おー、やるやるー』って軽いノリで始めて、今に至っています(笑)。
その前にも、いわゆる鳶(高所作業の専門職)と土建業の両方を請け負う会社にアルバイトに行っていたから、抵抗というか不安みたいなものはなかったんですよね」
⎯⎯⎯ 物をつくることは、元々得意だったのですか?
森田「ちっちゃい頃からプラモデルとかも好きだったから、何かを組み立てるのは好きなのかも。父親が美術の教師だったから、家にあった画材なんかは使いたい放題で、絵を描いたりして遊んでいたかな。
水道工事という仕事は、最初に図面もらって、そこから自分で配管を考えなきゃいけないんですよ。どうやったらスムーズに排水が流れるかなと。そういうのはパズルみたいで面白くて楽しいね。
もちろん最初からそうだったわけではなく、バイトからずるずると仕事をしていたら、自分の得意なものがわかってきて、それがたまたま水道だったって感じですね。最初の頃は音楽も続けていたし」
⎯⎯⎯ 体力も必要な気がします。バンドではドラム担当とのこと、ドラムで鍛えた筋力が役にたったとか?
森田「いやいやいや、それはない(笑)。
水道屋の基本の仕事は、穴を掘ることなんですよ。水を流すためには勾配が必要で、1mの長さの管の中で水をスムーズに流すには両端で2㎝の高低差をつくらないといけない。パイプって通常4mで売っているんだけど、そうなると両端で8㎝の高低差がいるよね。そうやってどんどん深く掘っていきます。
水の流れを作る技術は、昔と変わらないということだよね。とくに住宅になると機械を入れるスペースもないから手掘りですよ! 原始的だね。
しかもただ掘るだけじゃなくて、ちゃんと四角く掘って土がためして管を置く。で、今度は埋めていくっていうことを繰り返す。埋めた管はまっすぐにしないといけないから、管の上に専用の糸を張ったり鏡を管に入れて奥まで見えるかと目で確認したりします。曲がってたらやり直し。
配管は親方の役割だから、下っ端はただ掘って、苦労して掘ったのに埋めるを繰り返す。
体力もキツかったけど、『なんだろう、この仕事』って、ちょっとやるせない感じもありましたよね」
⎯⎯⎯ やるせない気持ちが、この仕事をやって行こう! に変わったきっかけは?
森田「穴掘りって体を使うから、本当に飯がうまいんですよ!(笑) じつはここは大きなポイントだった。
それとね、職人って10時と3時になると一服するじゃないですか。その時に大工さんと色々な話をしていて、『お前、25になる頃には今後の仕事を決めないと、年下に使われるようになっちまうぞ』みたいなことを言ってくれたの。この言葉が重く響いて、さすがだなぁと思いましたよね。それで、音楽をやめて水道屋になろうと自分で決めました」
⎯⎯⎯ 水道の仕事に真剣に取り組むことを決めてからの道のりは?
森田「水道屋をやるなら給水装置工事主任技術者とか色々と国家資格が必要になる。だから会社員として働いているうちに資格を取っておこうと、試験勉強を始めましたよ、見かけによらないと思うけどコツコツとね。
同級生が誘ってくれた会社がちょっと傾き始めたので、そこで繋がっていた仲間の紹介で、27か28歳ぐらいに別の会社に移って、もう1つの会社で4年くらい修行して、その間に資格を取りきって、33歳で独立しました」
⎯⎯⎯ 家づくりのなかで水道の仕事はどのように進めていくのか、具体的に教えてください。
森田「先に、図面を見て配管の設計をすると言いましたが、水道は地下に埋めるし、色々な物ができてしまうと、後から取り付けられないし、蛇口やお風呂の給湯のための電気リモコンみたいに最終段階で取り付ける部分もあるから、最初から最後まで現場にいます。大工さんの次くらい長く張り付いているんじゃないかな。
道路から伸びている水道管は、家の敷地内に入るとすぐに水の量を測る水道メーターにつながっていて、そこから先のすべてを家の土台部分ができる前に配管します。
土台部分のあと、床や壁の骨組みが組まれたらその中にも水道管を入れて、台所や洗面所、お風呂、トイレ、場合によってはガス湯沸かし器など壁の外に水の出入口をつくる。だから、場合によっては壁や床の木を切ったり、コンクリに穴を開けてモルタルで復旧するということもやります」
⎯⎯⎯ 壁や床を触るからには、大工仕事を理解しているというか、技術がないと上手くいかないのでは?
森田「大工さんほどの技術はないよ、もちろん(笑)。でも大工さんとか、電気工事の人とかの仕事をよく見ていて、お互いに仕事がしやすいように気を配ることは大切ですよね。
会社員時代にハウスメーカーの水道工事を担当していたことがあったんだけど。なんかね、現場が殺伐としていたんだよね。
『今これをやっちゃうと、あとで電気屋さんが作業できなくなっちゃう』みたいなことに気がついても知らんぷりする人もいた。早い者勝ちとか、自分だけで楽できればそれでいい、そういう気持ちで建てた家と、みんなのチームワークで建てた家って、やっぱり変わってくると思うんですよね、家の質がね。そもそも誰がつくったかわからない家より、つくり手の顔がわかって彼らとじっくり付き合って、しかも気のいいヤツらで、という家のほうがいいですよね、絶対。
僕は自分のことだけしか考えない人間関係も、安全性よりもスピード重視で急かされる仕事もすごく嫌で。もうそういうところに身を置かないようにすると、そこで決めたんです。だから、やっぱり木の家ネットなんだよなーって思うわけですよ!」
⎯⎯⎯ いよいよ、なぜ木の家ネットに入ったのか、その理由をお話しいただきたいと思います!
森田「独立する前に、木の家ネットのメンバーである藤間建築工房の藤間秀夫さんの仕事をやらせてもらったんです。それで、すごくいい! と思って(笑)。建築現場のアルバイトをしていたこともあったので、じつは僕、建前(主要な柱、梁、棟木などの組み上げること)ができるんですよ。高いところが平気っていうか、好きなのね。
藤間さんがたまたま建前をしてくれる人を探しているって聞いて、『はい、はい!』って自分から手を挙げて、作業中の写真は今も残っていますけど、それで藤間さんも僕のことをいいなと思ってくれたみたいで。もちろん水道の仕事もして、その働きぶりも見てくれてのことだと思いますけどね」
⎯⎯⎯ おお〜、両想いですね(笑)。具体的にどういうところが「いいな!」だったのですか?
森田「みんなで和気藹々と仕事をしていて、まさにワン・チームだったんです。
大工さんはプレカットではなく、一つひとつ木材を手で切っているからか、思い入れがちがう。自然素材でできることはもちろんだけど、気持ちがこもっていて、そのぶんだけ温もりのある家が生まれる様子には感動があるよね。
僕が仕事で扱う素材はみんなケミカルで、自然素材はないけれど、そういう温もりのある家づくりに携わりたいと思ったの、水道屋として」
⎯⎯⎯ 木の家ネットの会員になろうと思われた理由は何ですか?
森田「独立する時に、まず藤間さんに相談しに行って、『木の家とか温もりのある建築に関わりたいんで、そういう仕事があったらお願いします』って挨拶したんですよ。そうしたら『森田君いいところへ来たよ! 今、日高さん(きらくなたてものや日高保さん)っていう木の家ネットの建築士が、チームとして固定して組んでいける水道屋を探しているって話があってさ』と言うんですよ。
いやー、一生分の運を使っちゃったんじゃないかと思うよね(笑)。だって、そういうチームが一度できてしまうと、途中からなかなか入れないから。
それから、どんどん日高さんを取り巻く木の家ネットの方たちとつながって、これは自分も会員になっておこう! と決めました。会員の方から『へー、水道やってるんだ』みたいな感じで、仕事や人脈を紹介してもらって今につながっています。
自分を活かして自分がやりたいことができているって感じていて、本当にありがたいですよね」
⎯⎯⎯ 自分を活かす! どんな部分を活かしていると思われますか?
森田「日高さんからは、環境への配慮から水道管をステンレスにして欲しいと毎回リクエストがある。よく使われる塩ビ管(ポリ塩化ビニルでできた配管素材のこと。鉄製の管よりも水流の抵抗が少なく腐食に強いとされている。 軽量性にも優れていて取り扱いやすい)みたいに専用の接着剤でくっつくものではないから、ステンレスの配管って切ったり繋いだりするのがちょっと大変なんですよ。
でも、どうしたらうまくいくかと考えたり、試したりする作業が、自分は結構好きで楽しめるタイプなの。
それに人に喜ばれたり、必要とされると、すごいやりがいというか生きがいを感じるんだよね。環境や住む人の健康に貢献できるのもうれしいし。そんな自分を活かせるから、マニアックな仕事が多い木の家は本当に好きですね」
⎯⎯⎯ ステンレスはそんなに特殊なんですね。それを扱えるってすごい強みですね!
森田「材料屋に聞いたり、仲間に聞いたけど、みんなステンレスのことはわからなくて、『こういう水栓継手(すいせんつぎて:蛇口と管など、2つのパーツを繋げるための素材)があるらしいよ』という情報くらい。でも、水栓継手ってメスネジの管にオスネジの蛇口をつけていく仕組みと同じだから、そういう感じかなって想像したりしてね。その接合のためには専用の機械を入れなきゃいけなくて、すごい重いから、どうやって床下に入れようかな〜って考えたりもします。
それと伝統的工法でつくる木の家は土壁だから厚みがあまりなかったり、中が小舞で竹が組んであったりするのを部分的に切ったりするから、経験がないと迷うよね。
完成して、実際にメーターから全体に水を流す時には、漏れたりしないかドキドキします。今だって、毎回ね。水のトラブルはわかりやすい形で起こるし、電気系統をダメにして大きな事故を起こしたりもしますから。そういう怖さも知っているけど、自分の力と知恵、心意気を試されるのは、なんとなく好きなの」
⎯⎯⎯ 楽しんでお仕事されているのは、職人仲間の方もおっしゃっていました。「森田さんが現場に現れると声ですぐにわかるし、現場が明るくなる」って。
森田「僕、声がでかいんだよねー(笑)。好きな人たちと話せるから、楽しいっていうのもあるよね。木の家ネットというか、日本の伝統工法で家をつくる現場って、なぜか音楽好きが集まっているんですよ。バンド時代にコピーしていた70年代ロックの話が通じるのがうれしくて。
でも、ただはしゃいでいるだけじゃないですよ。仕事や人柄はつねに見られているから、『コイツとは、また一緒に仕事がしたいな』と思ってもらえる自分でいようという意識は、少なからずあります」
⎯⎯⎯ 人の目を意識する… 仕事に集中すると忘れがちになりそうです。
森田「人も仕事も見られてナンボだとは思う。せっかく出会うからには印象を残したいじゃないですか。
特に木の家に関わる大工さんは本当によく見ている。職人さんをまとめる立場でもあるし、柱1本1本が美しく組み上がっているか神経を張り巡らしている人たちだからね。
道具の収納がきれいに整っているかとかもよく見ている。僕は車の中に棚をつくって道具も材料もすぐに取り出せるようにしているんですが、それを見て『いいねー』って声をかけてくれたり、道具箱にわざとピンクのバカでかい字で、何が入っているか書いているのを気づいてくれて『おもしろいな、森田さん!』って褒めてくれたりね。
で、またテンションが上がって、ますますこの仕事が好きになるんですよね(笑)」
森田水工 森田敦彦さん(つくり手リスト)
取材・執筆:小林佑実