あなたの周りに「しんどいんです」「やらなあかん」と切羽詰まったような状況を、なぜか嬉しそうに笑顔で話せる人はいませんか?それはきっとその先にある未来を思い描けている人だから。そして周りの人を安心させ笑顔にする力を持っている人物である場合が多い。今回紹介する竹内さんはまさにそんな人だ。
竹内直毅さん(たけうちなおき・45歳)プロフィール
1978年(昭和53年)岡山県生まれ。株式会社竹内建築代表。島根大学生物資源科学部を卒業後、兵庫の工務店、木の家ネット会員でもある宮内建築(滋賀県)宮内寿和さんのもと大工修行を積み、2015年に独立。2022年4月には法人化。京都・滋賀を中心に、木造新築・リフォーム・古民家改修など、幅広く仕事を手掛けている。
⎯⎯⎯ 島根大学 生物資源科学部のご卒業とのことですが、生物資源科学部とはどのようなことを学ぶところなんですか?
竹内さん(以下敬称略)「平たく言うと林業ですね。森に入って木の樹種の名前を調べたり、森林自体の管理について学んだり、森林組合などと関係を築きながら、森のことを全部をひっくるめて勉強しました」
⎯⎯⎯ そこからなぜ大工の道に?
竹内「森林について学ぶ中で、日本の森林がすごく荒れていて、国産材もどんどん使わないといけないという現状を知ったんです。そこから、どうやったら木に携われるような仕事に就けるかなと思うようになりました。
卒論のための取材で、兵庫の氷上郡(現 丹波市)の、とある家を訪れたんです。そこはジャーナリストの青木慧さんという方が作った【山猿塾】と呼ばれる場所でした。青木さんは自らすぐ近くの山から木を切り出してきて、家も全て自分で作ったという、すごいおっちゃんでした。
そのご縁で青木さんから近くの工務店を紹介してもらって、トントン拍子で弟子入りさせてもらいました」
⎯⎯⎯ ということは、大工の経験は全くない状態で受け入れてもらえたんですね。
竹内「そうなんです。父親は公務員ですし、親の後を継いでというような形ではないですね。とにかく木を扱う仕事がしたかったという想いと、自分の家は自分で建てたいという想いを持ち始めていたので、それだったら『もう大工しかない』と決心していました」
⎯⎯⎯ そもそも木や環境に興味を持たれたのはどうしてなんですか。
竹内「思い返してみたら、子供の頃に毎年1回くらいの頻度で3家族くらいで山小屋に泊まりに行ってたんですよね。そこでの経験が自分の中に残っていて、今に繋がっているんだろうなと思います。その山小屋というのが本当に山の奥の方にあってポツンと立ってるんです。一緒に行っていたメンバーの方々がセルフビルドで建てられたそうなんですが、大工でもない素人ばっかりで、しかも2階建ての山小屋を作るって、今考えたらよく建てられたなと驚きしかありません。
森の中で遊んで、木に登ったり、山小屋の中に入っても丸太にぶら下がってみたり、そこで触れるものは、もう本当に木ばっかりだったんですよ。近くの川には冷たくて綺麗な水が流れていて、そこでスイカを冷やして食べたり、焚き火を囲んでイノシシを食べたり。そういう子どもの頃の経験がやっぱり影響しているんだろうなとしみじみ思います」
⎯⎯⎯ いい経験ですね!話を脱線させてしまいすみません。そして修行時代を経て、木の家ネットの会員でもある宮内建築さん(宮内寿和 つくり手リスト)に入られたんですよね。どういった経緯だったのでしょうか。
竹内「ある日【住まいづくり読本】という本を本屋さんで見つけて、それを買って読んでいたら、滋賀県でも伝統構法で手刻みで家を建てているところがいくつもあって、その中で特に気になった宮内建築に突撃で電話をかけてみたんです。そうしたら『来てもいいよ』と言ってくれたんです」
⎯⎯⎯ 手元の資料によると、宮内建築で10年勤められたそうですが、その間どんな成長があったのでしょうか。
竹内「壮絶の一言ですね。厳しいけど、いろいろ任せっきりにしてくれるので、もう自分でやらないとならないので、どんどん仕事を覚えていけるような環境でした。だからものすごく経験になったし、成長できたと思います」
⎯⎯⎯ 一番成長できたと思うことは、どこだったんですか?エピソードがあれば教えてください。
竹内「自分の精神的なところですね。修行をはじめて3〜4年頃で『仕事せな仕事せな。やらなあかん』という思いに駆られたある日、ずっと乗らせてもらっていた親方の軽バンを自分のメンテナンス不足が原因でオーバーヒートさせてしまったんです。故障させてしまったのにも関わらず、僕は仕事のことで頭がいっぱいで、次の日、自分の車で仕事に行ってしまったんです。親方から『自分のことしか考えてへん。周りに気を遣えてない。いっぺんやめとけ。何で怒られてるんかよう考えてこい』と無茶苦茶叱られました」
竹内「それからしばらく自分と向き合う時間になりました。仕事に対する姿勢・人間関係・気遣い心遣い・自分の精神的なことなど、いろいろなことを考えさせられました。結局、自分のことしか考えてなかったんですよね。もちろんそれ以外にもいろんなことを学んで、経験させてもらって、あちこちの建築を見に連れて行ってもらったり、はっきり言って感謝しかないです。今の僕があるのは宮内建築にいたからだと断言できます。あの時、突き放してもらったことが、独立するときの原動力になったと思っています」
⎯⎯⎯ なるほど。そして2015年に独立。今年で8年ですが、特に思い出に残った仕事や、ターニングポイントがあれば聞かせてください。
竹内「今から5年くらい前にやった自宅の改修ですね。計画も解体も、もちろん業者さんの手配や打ち合わせも、全部自分一人でやらないとならなかったですし、その間、当然収入は入ってこないので、早くしないといけないというプレッシャーもあり、無茶苦茶しんどかったです」
⎯⎯⎯ しんどいながらも『自分の家を自分で建てたい』という夢は叶ったわけですね。お仕事はどんな案件が多いですか?
竹内「戸建ての木造住宅がメインです。最近はたまたま新築が多いですが、改修やリフォームと半々くらいです。エリアとしては滋賀県内はもちろんですが、京都の方から頼まれることも多いです。一軒やっていると、お施主さんからの紹介だったり、現場近くの方から声をかけていただいたりして、特定の地域に現場が集中する傾向にあります。ありがたいことですね」
⎯⎯⎯ お施主さんとのやりとりで心に残っていることはありますか?
竹内「もうやっぱり笑顔で喜んでくれて、『またお願いするわ』って言ってくれた時の笑顔が忘れられないです。あと『大工さん』じゃなくて『竹内さん』と名前で呼んでもらえた時も本当に嬉しいですね。
独立前に、“おうちを建ててくれてありがとう”と書かれた絵付きの手紙を、お施主さんのお子さんからもらったのですが、それが宝物でずっと残してあってたまに見返して励みになっています」
ここで、竹内さんの最近の取り組みを3つご紹介する。1つ目は現在滋賀県内で取り組まれている宿泊施設のお仕事。2つ目は昨年完成した京都市内の戸建て住宅。3つ目は大津っ子まつりでの「子供建前」の活動。いずれも竹内さんのお人柄や仕事に対するスタンスを垣間見ることができた。
昭和8年に建てられた米殻商の町家を改修した宿。2017年には登録有形文化財に指定され、大津の伝統と文化を今に伝える貴重な場所だ。今回、竹内さんが担当されているのは、裏手に拡張される宿泊棟で、他の大工さんと協働で受け持っている。
竹内「大工によって仕上がりに大きな差があってはいけないので、お互いの仕事ぶりを見ながらコミュニケーションを密に取ることは欠かせません。またプレーナー(自動カンナ盤)仕上げの指定だったのですが、カンナに比べるとやっぱり仕上がりが綺麗ではないので、手でカンナがけしています。自分なりのできる限りのこだわりです」
2022年7月竣工。古くから住んでいたお宅の建て替えで、設計は同じく木の家ネット会員の川端眞さん(つくり手リスト)。お施主さんと川端さんとは10年以上の付き合いでプライベートでも仲がいいとのこと。今回、川端さんから竹内さんに依頼があり木の家ネットの会員同士での協働が生まれた。お施主さんご夫婦にもお話しを伺った。
⎯⎯⎯ 竹内さんとお施主さんとの何気ないやりとりを見ていると、気心の知れたリラックスした雰囲気を感じます。どんな現場でしたか?
施主 奥さん「竹内さんは町内でも人気者で『工事が終わったら会えへんようになるのが寂しいわぁ』と声をかけられるほどでした」
施主 旦那さん「川端さんから『コミュニケーションが取りやすい人と一緒にやりたいなぁ』とのことで竹内さんを紹介してもらいました。気さくで話しやすくスムーズに進めてもらえました。おかげさまで、とても快適です!」
竹内「ありがとうございます。現場でも、ご近所でも仲良くやれるのが一番です。人間関係がギスギスしていたらみんなやりにくいですし、いいものもできないです。何かあったらすぐにいってくださいね!まだ建って日が浅いので、特に最初のうちは木が反ったり乾燥したりすることなどによって、パキパキ音がしたり、動いたり、隙間ができたりしますので」
⎯⎯⎯ 頼もしいですね。気軽に相談できる関係で素敵です。
竹内「何もかも上手くいくことばかりではないですし、失敗することもあります。けど、そんなこともひっくるめて最後にはみんなが笑顔でいられるのがいい現場・いい仕事なんじゃないかと思います」
つい先日の5月21日、大津市の皇子山公園で開催された「大津っ子まつり」で建築組合青年部の活動で「子供建前」実施した。子供たちに大工の仕事を実体験してもらい、少しでも家づくりの楽しさを経験してもらおうという試みだ。
⎯⎯⎯ 家づくりで大切にしていることやモットーを教えてください。
竹内「モットーとして考えていいのかわからないですけど、“もうちょっと頑張ってみよう”です。『これでいいかな。しんどいしやめようかな』と思うようなところを、もうひと踏ん張り頑張ってみるようにしています。お施主さんが気にもしてないような、些細で目に見えない部分かもしれないけど、やっぱり後々の仕上がりの良さに繋がっていくと信じています。お施主さんのためでもあるし、自分自身の達成感にもなりますから。手を抜いてしまうと、後で絶対気になるし、自分に負けてしまうような気がします。職人と呼ばれる人はみんなそうなんじゃないですね」
⎯⎯⎯ 株式会社にされていてホームページもしっかり作られていますね。ビジョンや方針を明確にお持ちなのかなと感じたのですが、これから先の展望について聞かせていただけますか?
竹内「職人不足のご時世なので、一人でも大工を育てることができたらいいなと考えています。株式会社にしたのは、福利厚生面の充実を図り安心して働いてもらえる環境にしていきたいからです。ホームページを作ったのも同様の理由で、求人募集の間口を広げつつ、お客さんにも家づくりについてしっかり知ってもらいたいと考えたからです。
5年後10年後には、どの職種も人手不足に陥ることは目に見えていて、大工の中でも木で手刻みでということになると特に少なくなります。個人でどうにかできる問題ではないとは思いますが、何とか一人でも大工職人を育てたいと考えています」
⎯⎯⎯ 最後に、竹内さんにとって家づくりとは何でしょうか?
竹内「笑顔になること、笑顔にすることですかね。まずは自分がイメージしたものを、自分の手でつくれるということが楽しくて家づくりをやっています。それが単なる自己満足に終わることなく、お施主さんをはじめ、職人の仲間や関わってくださる業者の方、みんなの笑顔が見えた時『よかったなぁ』と心から思えます」
竹内建築 竹内直毅さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
質問への答えはどれも飾り気がなく、まっすぐ。
そんな田中龍一さんは、かつて高校球児だったと伺って、大いに納得しました。尊敬する棟梁のことや大工仕事に対する思いを語る目はキラキラと輝いていて、きっと白いボールを追いかけていた頃と同じように、理想とする大工の姿、技術、お客様に喜んでいただくためにできることを探求しているのだと感じました。田中さんの“職人道”そして何よりも誠実な“職人魂”に触れてみてください。
田中龍一さん(たなかりゅういち・43歳)プロフィール
1980年2月13日、長崎県諫早市出身。高校卒業後、地元の(有)山口工務店に入社し大工修行に入る。4年の修行と1年の奉公の後、大阪府の(株)鳥羽瀬社寺建築に入社。寺社などの文化財の修理に携わり、伝統技法や建築の歴史を学ぶ。和風建築、数寄屋建築による新築住宅の技術を学ぶべく神奈川県茅ヶ崎市の甘粕工務店に入社し、繊細な大工仕事の教えを受け、2013年に独立。相模国一宮である寒川神社のお膝元で田中大工店を開業。
⎯⎯⎯ 大工さんになろうとお決めになったのはいつ頃ですか?
田中さん(以下敬称略)「学生時代、小学校4年生から高校3年生まで野球部で、プロに憧れて上手くなりたくて夢中で練習していました。けれどもその夢は叶いませんでした。父が左官や塗装の職人をしていて、子どもの頃から現場にはよくついて行きました。職人さんたちが生き生きと働いていて、自分のことをみんなで可愛がってくれて、職人の世界に馴染みがあったということが、この仕事に就くきっかけになったのかもしれませんね。プロ野球選手になるという目標がなくなり、高校卒業間近になって、就職のことを考えなくてはならなくなりました。その時にふと、子どもの頃に遊んでくれた大工さんたちのことを思い出したのです。彼らのように生き生きと物づくりをする仕事がしたいなと思い、どうせ家づくりに携わるなら、花形の大工になろうと決めました。父に相談をして、父の取引先の山口工務店へと弟子入りしました」
⎯⎯⎯ 大工修行がスタートして、いかがでしたか?
田中「今では工場で事前にカットされた材木を使うプレカットが主流ですが、その頃は、伝統工法、在来工法などにかかわらず、家づくりはすべて大工さんが材木に墨付けをして手刻みで加工しているという時代でした。
弟子に入ったばかりの頃は当然右も左もわかりませんでしたが、それでも加工場から現場に運ばれたその材木一つ一つが間違いなくピタッと組み合わさって家が建っていく光景は衝撃的で、大工の世界に引き込まれていきました。
僕は興味がわくと、『知りたい、自分もできるようになりたい』と好奇心のままに動いて、夢中になるところがあって。技術を磨くことばかりを考えて、“今“にたどり着いた気がします。
自分だったら、木材が組み合わなかったら何かが間違っていたらと心配で仕方がないだろうなと感じるような時も、現場を仕切る棟梁は毅然としていて、とてもかっこよくて、憧れました。
やはり棟梁も人間ですから、内心はドキドキしていたのではないかと、今ならわかります。大工はお酒を飲む人が多いのですが、きっと隠していたドキドキの緊張を解きほぐしたいという気持ちもあるんでしょうね(笑)」
⎯⎯⎯ ということは、田中さんもお酒がお好きなんですね?
田中「ははは。その通りです」
⎯⎯⎯ 長崎から大阪の工務店に移られたのは、どういう理由からですか?
田中「4年間の修行期間が終わって奉公という形で仕事をしていた1年間で別の大工の世界も見て、経験して勉強したいと思いました。きっかけは神社やお寺で、その建物の軒の深さに気づいて、日本の建築のことをもっと知りたいと感じたことです。
自分がつくっている一般的な家の軒がせいぜい80センチくらいなのに比べて、神社やお寺の軒は2〜3メートルもあったりするのです。それらを、『どうしてこんなにうまく支えられているのだろう? そもそも使っている木の柱もすごく大きいのに、これをどうやって組んだのだろう?』と、知りたいと強く思うようになりました。
知人の大工さんに相談したら、関西地区の重要文化財に指定されている社寺などの修復をしている鳥羽瀬社寺建築を紹介してくれて、お願いして入社しました。ご縁をつないでいただいたことはとてもありがたいと思っています」
⎯⎯⎯ 重要文化財! そういった貴重な建物に触れる機会を得たのですね
田中「重要文化財であろうと新築の家であろうと、一生懸命やることには変わりませんし、それぞれにやりがいや学びはあります。ただ、300年や400年前の社寺は大きな材木も機械などを使わずに持ち上げて組み上げているわけで。修理の作業をしていると、昔の大工たちがまさに命懸けでつくっていたことが伝わってきて、とても感動しました。
当時の職人さんの道具の跡や考え方、建物に対する思いなどが、実際にその建築物に触れていると感じることができます。その正確で誠実な仕事ぶりは、本当にすごいの一言しかありませんでしたね。
そしてその職場には全国から腕利きの大工、とてもやる気のある見習いの方も集まっていたので、自分もこういった人たちに負けないようにと毎日励んでいたことを、今もふと思い出します。もともと負けず嫌いな面がありましたからね。やっぱり若かったなぁと、若いから頑張れたんだなぁと思います」
⎯⎯⎯ そこから、今もお住まいのこの神奈川県にいらっしゃるのですよね。どのようなきっかけからですか?
田中「テレビで鉋削りの日本一を決める大会「削ろう会」を特集したドキュメンタリーが放送されていて、たまたまそれを見たんです。優勝者の甘粕工務店の甘粕棟梁が紹介されていて、その技術の見事さに釘付けになりました。
本当に鉋の削りくずは薄くて綺麗だし、鉋の刃の研ぎ方が吸い込まれるような感じで、ピタッと研いであって。だからこそ、あの繊細な削りができるんですよね。
自分ももっと技術を磨きたい、せっかく覚えた伝統的な建築に関する知識を新築の家づくりで生かせるような、そういう仕事ができないかと思っていた時でした。
甘粕棟梁のもとで働きたいと、すぐに連絡先を調べて電話をしたんです。入社を認めていただき、神奈川県に引っ越しました」
⎯⎯⎯ 日本一になるような棟梁はやはり厳しい方でしたか?
田中「厳しいのはもちろんでしたが、物知りで繊細な方でしたね。甘粕工務店では和風建築とくに数寄屋建築のつくり方や、現代の住宅建築も勉強させていただきました。
ただ家をつくるだけでなく、他の職人さん、建具屋さんや畳屋さんも働きやすいように、きちっとした下地をつくるのが大工の仕事だということ、そして“収まり”をつねに考えるということを厳しく指導されました。
もう一つ、ここで大きな出会いがありました。木の家ネットに所属されている建築士の日影良孝さんです。
甘粕工務店がよく仕事を請け負っていたので、僕も日影さん設計の家づくりに加わっていたのですが、伝統的な木や土の家に現代の感覚も取り入れられていて、他にないような美しさと癒される感覚があるのですが、そのぶん技術力が必要なんですね。ですから、大工としてはやりがいがあって、関われることは大変ありがたいことです」
⎯⎯⎯ 建築士の日影さんとは、たびたび一緒にお仕事をされたのですか?
田中「大工10年目になっていよいよ新築一棟を棟梁として任されることになったのですが、それがまさに日影さんの設計のものでした。限られた土地であっても、狭いと感じることのないように工夫されたデザインで、そのぶん技術も求められました。
先ほど、弟子時代に憧れていた棟梁も、毅然として見えて木を組む時にはピタッとはまるか心配だったんじゃないかと話しましたが、僕自身がまさにそうで、心配で不安で夜も眠れませんでしたね(笑)。
職人さんたちの力を借りて、おかげさまで無事につくりあげることができて、この経験が自信になって、その後に独立を決心することができました。
じつは独立して最初にいただいた新築の仕事も日影さんの設計でしたし、大工仕事の他にもとてもいい経験をさせていただいています」
⎯⎯⎯ どのような経験ですか?
田中「鎌倉みんなのけんちく学校で開催している「職人のわざを楽しむ けんちく体験ワークショップ」の大工仕事の講師です。木和堂さんといって、木材コーディネーターさんを中心に、「日本の森と暮らしをつなぐ」というテーマで活動している団体が、子どもたちに森林や木の家づくりについて学ぶ機会を設けようと始めた取り組みです。
対象は小学校3年生以上の子どもたちなのですが、木を切り、小さな木の家をつくるまでを体験してもらいます。日影さんは設計のことを教えていらして、僕にも声をかけてくださったんです。
小さくても本物の家ですから、それが自分の手でつくれるということには、感動があるからでしょう。子どもたちが大工仕事に夢中になってくれて、その姿を見るのはうれしいですし、自分は魅力のある仕事に就いているんだなと力をもらえますよね」
⎯⎯⎯ 今まで色々なお仕事をされてきていると思いますが、とくに「これが転機になった」というお仕事はありますか?
田中「田中大工店はそもそも地縁のない神奈川県で始めましたから、“地元のお客様”はゼロの状態からのスタートです。見ず知らずの人間に大切な建物の仕事を依頼するのは、やはり気がひけますよね。それに僕も口下手なものですから、地元の最初のお客様はなかなか現れませんでした。
そんな中で、初めて依頼をいただいたのが、牛舎だった建物を学習塾に立て替えるというお仕事でした。『希望をよく聞いてくれて、それを形にしてくれた』と喜んでくださって。他のお客様をご紹介くださったりして、ここから広がっていったという感じで。こちらこそ本当にありがたかったです」
⎯⎯⎯ 牛舎! なかなか珍しい依頼でしたね!
田中「珍しいといえば、大磯にお住まいのオーストラリア人の方から古民家再生のお話をいただいたこともあります。古いものを見慣れた僕でも『壊したほうが早いかもしれないなぁ』と思うような家でした。100年以上前につくられ、茶室として使用されていたようですが、それをガレージにしたいとのことで。
古いものはそれだけで貴重だという信念を持っている方で、とにかく使えるものはすべて無駄なく使いたいというご希望でした。その方とはたくさん話し合い、僕が集中して取り組めるタイミングを待ってくれたこともあって、3年間かけての作業となりましたが、この間に、物を大切にすることの尊さのようなものを教えていただきましたね。
実際に一つひとつ材木から釘を抜いて、どこにどう使われていたかを記憶して運び出し、悪くなった部分を丁寧に削ったら、使える木は結構ありましたし。お施主さんが使わなくなった材木をご近所から集めてきてくださったので、それらも使いながら新しい材木も少し足していますが、その中で古木が“味”になって、結果的になかなかいい感じになりました」
⎯⎯⎯ つまり100年以上前の材木が十分に使えたということですよね?
田中「そうです。ビスじゃなくて釘を使えば木を傷めませんから、材木の再利用がしやすいんです。ビスだと、打つ時は楽ですが抜こうとすると上手くいかず、途中で割れて木の中に残って傷めますから、再利用は難しくなってしまいます。
本来木の寿命は長いですから、建て替えなら元の家の柱や梁や桁も使って、悪い部分だけを修理しながらずっと使える家をつくっていきたいと、改めて思いました。
それに、これからの世の中で、ゴミをたくさん出すような仕事では時代にあっていない。この感覚も大切にしたいですね」
⎯⎯⎯ 部分的に修繕したくても、どの業者に頼んでいいのか迷います
田中「田中大工店としてはホームドクターじゃないですけど、家のここが変だとか、ちょっと壊れたところがあって、そこだけ最小限の時間とお金と手間で直せないかと、そういう相談を気軽にしてもらえる存在になることを目指しています。
玄関の修理とか、洗面所のつくりかえとか、そういうところから信頼を得て、いつか『家を建てるなら田中大工店がいい!』と言ってもらえたら最高ですね。
墨付けをして手刻みからつくった家には、大工が木の種類を選んで、木目や板の目など木の表情が生かされていますから、個性があってそのぶん愛情がわくと思います。大工は嫁に出すような気持ちでお施主さんにお渡ししているので、末長く可愛がって欲しいですね」
⎯⎯⎯ この先、お弟子さんを育てるといったこともお考えですか?
田中「自分はまだ若手に入る年齢だとは思いますが、同時に、そろそろ次の世代にどうつなげていくかも考えないといけない年齢だとも思っています。
伝統は守り伝えていかないと、先に生きていた方々に失礼ですから、次の世代の大工を育てなくては、という気持ちはあります。
ただ、僕は大工だけじゃなくて、職人全体のなり手不足を食い止めたいなという思いもあります。左官、瓦、板金、建具、畳……抜けている職人さんがいたら、すみません! みなさんが携われる家づくりをすることが目標の1つです。
25年前、僕が大工に弟子入りした頃は、大工は『小学生のなりたい職業No.1』でした。実際に僕も弟子の頃に『かっこいい人たちだな』と感じたわけで、本来それだけの魅力があるのだと思います。
昔のように技術を隠して『見て盗め』と言うつもりはないですし、最近はYouTubeで木の加工法などが細かいところまで紹介されていますから、大工は、僕が志したころよりはずっと、若い人にとって就きやすい仕事になっているのではないでしょうか。女性の大工が増えるのも、僕は大歓迎です。
たくさんの人に興味や憧れを持ってもらえるように、僕がかっこいい大工の背中を見せられるように頑張らなくてはいけません。大工はかっこいいんだという誇りを手放すことなく!」
田中大工店 田中龍一さん(つくり手リスト)
取材・執筆・インタビュー写真:小林佑実
「大工として木造建築を建てたり直したりしていく中で、そこに暮らす人や家・まち・自然など、様々な営みがゆるやかに繋がりあうような仕事を続けていきたい」
そう話すのは今回ご紹介する丹羽怜之さん。木の家ネット入会以前から会員との交流も広く、奥様の智佳子さんは木の家ネットのライターとしても活動されていたので、筆者としては楽しみにしていた取材。波乱万丈の独立スタートだったようですが…
丹羽怜之さん(にわさとし・37歳)プロフィール
1985年三重県生まれ、群馬県育ち。丹建築代表。大工で一級建築士。日本建築専門学校(静岡県富士宮市)を卒業後、木の家ネット会員でもある一峯建築設計(三重県津市)池山琢馬さんに師事。6年間の修行を経て2014年春、丹建築として独立。翌2015年には米国北カリフォルニアでの天平山禅堂プロジェクトに携わる。帰国後は三重県中勢地域を中心に木造建築を手掛ける中で、そこに暮らす人・家・まち・自然など、様々な営みがゆるやかに繋がり合うような仕事を模索している。
⎯⎯⎯ 建築の道に進んだきっかけを教えてください
丹羽さん(以下敬称略)「一番根底にあるのは、漠然とですが、“自分自身で身を立てて生きていきたい”という想いを小さいながらに持っていたことですね。モノ作りが好きだったので、中学校の頃から大工になりたいと思うようになりました。一人でできる工芸品のようなものが好きだったのですが、もっと人と関わって作りたいなという気持ちも出てきて建築の道に進もうと決めました」
⎯⎯⎯ 日本建築専門学校を卒業され、修行時代のことを聞かせていただけますか
丹羽「ある時、四日市で池山さん達が手掛けられていた【竈(かまど)の家】で大工仲間たちが集う機会がありました。そこで一峯建築設計の池山さん(つくり手リスト)からいろいろお話しを伺っているととても興味深かったので『一緒に働かせてもらえませんか』と尋ねたのが始まりです。夜通し、竈の火に当たりながら語り合うという特殊な就職面接でした(笑)」
⎯⎯⎯ 池山さんの元で得たことで特に印象に残っていることを教えてください
丹羽「毎年、手刻みで土壁の仕事があって、何でもやらせてくれて、大工修行の場としては言うことない環境でした。また、木の家ネットの他の大工さんの現場に預けてもらう機会も多く、自分の親方以外のいろんなやり方を経験できたのは大きいです。
本来は半人前の人間がよその現場に行くべきではないかも知れませんが、そこで失礼のないように、どう振る舞うべきかとか、どう実践するかとか、荒療治のような感じで学ばせてもらいました。恥をかくことの方が多かったんですけどね(笑)」
⎯⎯⎯ ということは、入会される前から木の家ネットの会員の面々とは面識があったわけですね
丹羽「そうですね。弟子の時も、独立してからも、入会以前から総会に連れて行ってもらったり、みなさんにはとても良くしてもらっています」
⎯⎯⎯ 2014年に丹建築として独立されて、翌年渡米されていたそうですが、そのお話をぜひ聞かせてください
丹羽「北カリフォルニアにある寺院、天平山(てんぴょうざん)禅堂プロジェクトに参加するために約半年間渡米しました。
現地に禅宗を自らの宗教としている方が増えているそうです。各地に代表的なお寺はあるのですが、いざ自分が僧侶になりたいと思ったら、日本に修行に来なければなりませんでした。
なかなかそれは実現できないので、『現地できちんと修行ができ、僧侶になれるお寺(専門僧堂)をつくりたい』という住職の個人的な想いでスタートしたプロジェクトです。何億円もの寄付を集めて総本山を海外で初めて建立するというものです」
⎯⎯⎯ かなり壮大で使命感と夢のあるプロジェクトですね
丹羽「寄付によってお金を賄うので、予算も限られていて、大きな建設会社も入っていないので、施主直営工事のような感じでなかなか大変でしたがやりがいのある仕事でした。今回は【七堂伽藍(しちどうがらん)】のうち最も大切とされる【僧堂】の屋根仕舞いまでやって帰って来ました」
七堂伽藍
寺の主要な七つの建物。また、七つの堂のそろった大きな寺。禅宗では、山門・仏殿・法堂(はっとう)・庫裡(くり)・僧堂・浴室・東司(とうす)の七つ。
⎯⎯⎯ 木材はどうされたんですか?
丹羽「全7棟分にあたる約2,000立米の檜を日本から船で運んだと聞いています。私が行った時にはそのうち3棟は刻まれた状態でしたが、まだ1棟目が完成していないままなので、その後が気になっています」
⎯⎯⎯ その土地に生えている木で建てるのが建物にとっては良いと思うのですが、日本の檜をカリフォルニアに持って行って耐久性などは大丈夫なものなんですか?
丹羽「向こうは雨季以外は乾燥しているので、むしろどんな木でも長持ちしちゃう環境だと思います。サンフランシスコにも100年以上昔の木造建築がたくさん残っています。僕らが『瓦(ルーフタイル)を葺いたんだ』というと『すごいお金持ちだね!こっちは木の板かアスファルトかスレートだよ』という返事が現地の人から返ってきました。
その代わり怖いのが乾季の山火事です。私がいた半年の間にも現場近くで火事がありました。どんどん火が広がり規模が大きくなると、火を消すどころではなくなって、家や大切なものの周辺を守ることと避難に徹する。そして火が過ぎ去るのを耐え忍ぶ。というスタンスになるんです。日本の台風や地震などに近い感覚ですね。命からがら逃げて帰って本当に怖い思いをしました」
⎯⎯⎯ 現場は大丈夫だったんですか?
丹羽「ネットで火の広がりをチェックしながら『燃えちゃったかも…大丈夫かな』とハラハラ心配でした。後日現場に戻るとそこは月面のような荒野に変わっていたんですが、建物と木材の周りだけはブルドーザーで地面を掻いて防御していたので、何とか大丈夫でした。
夏場は火花が出るものは使っちゃいけないとか、日常の当たり前のルールが全く違うんだなと思い知らされました」
⎯⎯⎯ 本当に大変な日々だったんですね。他に日本との違いで苦労されたことはありますか?
丹羽「まずは食事です。日本食自体は向こうにもあるんですが、現場が本当に人里離れた山の中にポツンとあるような場所で、そこに住み込みでやっていたので、食料の調達が苦労しました。ファーストフードなどでも言葉や文化の違いを感じ、もどかしい思いをしました。
2つ目は法律です。州の建築の許可は降りていたんですが、連邦の開発の法律に違反しているとみなされて、一時中断せざるを得なくなりました。その後コンサルティングの方に入ってもらって設計変更をして事なきを得たのですが、州・軍・連邦に挟まれるという事態で苦労しました。
先ほどの火事のお話もですが、3つ目は気候です。夏は一切雨が降らないので乾き切った砂漠みたいなところなんですが、冬の雨季になるとそこに雨が降り続けます。そうすると植物も土を貯えることが出来ず、ドロドロになって川のように流れて、地形が変わってしまうんです。春先はそれがそこらじゅうでチョコレートフォンデュみたいになっていて重機も動かせない。その上、棟梁は高齢のため長期間は滞在できないという状況で、途中からは本当に自分一人だけで、暑さと闘いながら巨大なフォークリフトを使って建前をして、かなりタフな現場でした」
⎯⎯⎯ 帰国されてから現在までのことを教えてください
丹羽「2度の渡米後、こちらで暮らして5年が経ちました。カリフォルニアでの仕事とは関係ない古民家のリフォームなど順調に仕事ができていて充実しています。自分が古民家が好きで仕事を選んでいるという側面もありますが、三重という土地には同じような価値観の人が多く、建物も残っているので、自分に合っているなぁと感じています」
⎯⎯⎯ 木の家、土壁の家を建てたいというお施主さんも多いのですか?
丹羽「こっちが当たり前に土壁の家を建てていると、お施主さんも『やっぱり土壁で建てるものなんですね』と自然と納得して何も問題なく進みます。逆に、乾式工法(石膏ボードなど)の家ばかり増えている理由は、つくり手側が『なんで土壁なんてやるの?』という考えで建てていて、お施主さんの方も乾式工法以外の選択肢があること自体を知らない。そしてそのまま出来上がってしまうという流れだと考えています。つくり手側の意識や考えが作用する部分が大きいのではないんですかね」
⎯⎯⎯ 木材について伺います。三重県は人工林率が63%と全国平均の41%を大きく上回っています。材木の調達はどうされていますか?
丹羽「県内有数の林業家の方が、私の独立と同じ時期に材木屋さんを始められたんです。希望すれば山を見せていただけて、その場で切ってもらえます。他の地域に比べて天然乾燥材を入手しやすい環境にあるという幸運を噛みしめています」
丹羽さんに「どこか思い入れのある仕事を案内してください」とお願いしたところ、改修を手掛けたという「ハッレ倭(やまと)」を案内していただいた。
ハッレ倭は、築85年を超える旧倭村役場を改修し、2021年にオープンした“出会いと学びのシェアスペース”。丹羽さん自身も運営メンバーとして参加しており、学びフェア・マルシェ・映画鑑賞会・音楽会などのイベント会場として、またコワーキングスペースや貸しスペースとして、地域に根ざした多文化・多世代交流の場になっている。さらに国内外からの移住相談窓口としても活動しているそうだ。2022年には登録有形文化財に登録された。
ハッレ倭代表の倉田麻里さんと丹羽さんに対談インタビューに応じていただいた。
⎯⎯⎯ 倉田さんと丹羽さんの関係の始まりは?
丹羽「倉田さんと妻が繋がりがあり、田植え体験をさせてもらえることになったんです。僕は土壁に使う藁を継続的に分けてもらえるところを探していたのですが、倉田さんのところでは無農薬で栽培されているとのことだったので、是非お願いしたいと思い参加しました。
倉田さん(以下敬称略)「ちょうどその頃、ここの工事に取り掛かろうとしているところだったので、丹羽さんに相談しました」
丹羽「最初は非破壊で改修できると思い、比較的楽な工事になると想定していました。ところが蓋を開けてみたら雨漏りはしているし、シロアリに喰われていないと思っていた木も、中から喰われていたりと、結構大掛かりな工事になりました。
それでも救いだったのが、上から下まで通し柱で組まれている珍しい造りだったことです。建物としては自立したままで、悪い箇所だけ直せるんです」
倉田「解体した時に全部サステナブルな材料で作られていてびっくりしました。昔は何も意識しなくてもそういうものだったんですね」
丹羽「今回塗った土壁も、元々の壁を剥がして新しい土と混ぜて、もう一回塗っただけです。85年経っても全然すぐ新しくなれる。当たり前ですが素晴らしいです」
倉田「この建物の素晴らしさを活かしつつ、土壁のワークショップを開催したり、内装のことはボランティアの方にやってもらったりと、色々工夫を凝らして、今の時代にあった使い方ができるように手を加えてもらいました。丹羽さんは『こうなったらこうなるけど、こうしたらこうなる』と色々なパターンを考えてくれるので、とても勉強になりました」
⎯⎯⎯ 運営が始まってから地域での受け入れられ方はいかがですか?
倉田「ハッレ倭ができてから移住者の人口は確実に増えてきていますし、利用者数も学びフェアだけでも毎月100名、他のイベントも入れると延べ200名くらいの方にお越しいただいています」
丹羽「ここの運営のやり方は私の肌感覚にも合っているんです。最近の世の中の傾向として、ますますSNSやインターネットが発達して、場所に固着する必要がなくなっていると感じます。どこにいても何でも売り買いできちゃう。確かに便利だけど味気ない。そうじゃない方法で何か新しいことを始めたい人にとっては、いい場所だと思うんです。ちょっと商品を置かせてもらって、コミュニケーションが生まれて、輪が広がっていって。そういうのって素敵じゃないですか」
倉田「『何やってるの?』ってふらっとやって来られる方が多いんですよね。初めは頻繁にSNSを更新したり、チラシを配ったり、こまめに発信していましたが、地道な活動を2年間続けてきて、認知もされ始め多少軌道に乗ってきたかなと感じています」
⎯⎯⎯ ハッレ倭にかける想いや今後のことを教えてください
倉田「以前、フィリピンでNGO活動をしていたのですが、フィリピンは島ごとに文化も言葉も違うし、国際結婚が当たり前なんです。その経験を活かし多世代交流・多文化交流ができる“出会いと学びの場”を作りたいというのがハッレ倭の目的です。お金には結びつきにくいこともありますが、とにかく開かれた場を用意して、いろんな人に交流してもらうことが大切だと感じています。ここをステージにしてどんどん使ってもらえたら嬉しいです」
丹羽「日本に帰って来て直後の仕事です。緑に囲まれていて自然と一体となっている環境で、カリフォルニアにも通じるものを感じたので思い入れがあります。お風呂は全面窓で雑木林の中に居るかのような感覚を味わえます。私の場合はアウトドア直炊き露天風呂でしたが(笑)」
⎯⎯⎯ いろいろ見せていただきありがとうございます。家づくりをしていく中で、大事にしていることやモットーなどはありますか?
丹羽「関わってくれる人を大切にしたい。ということですね。言葉とか建てるものとか利害関係などを一切取っ払っても、その人と自分とがお互い幸せな感覚でいられるというのが、一番やっていて気持ちいいです。カリフォルニアでの経験もそうでした。
“自分で仕事がしたい”と思った理由もそこで、現場で『大工さん』ではなく『丹羽さん』と呼んでもらえて、私も『〇〇さん』って返してコミュニケーションを取る。そうやって仕事ができていることがありがたいです。
あとひとつ、池山さんからよく言われていた『そこらへんであるもので作ればいい』という考え方です。最初は言っている意味が分からなくて、『ピッタリの寸法で作ってもらえばいいのに』『買えばいいのに』と思っていました。今思うと、古民家を直す時には絶対必要な考え方であり地力だと感じています。その経験があったからこそ、アメリカの過酷な現場でも対応できたんだなと感謝しています」
⎯⎯⎯ これからの展望や野望があれば教えてください
丹羽「設計・施工で一貫した仕事をやっていきたいです。県内の同世代の大工仲間がみんな設計・施工の仕事を当たり前にやっていて、私が建築を志した理由も“自分自身で身を立てて生きていきたい”なのでやはりそうありたいです」
⎯⎯⎯ 最後に、丹羽さんにとって家づくりとは何でしょうか
丹羽「難しい質問ですね。関わる人みんなが、当たり前にある幸せに気づいて、感じて、そして育むということかなと思います」
「木で家をつくる」「土壁を塗る」「石場建てで建てる」といった手法や技術などの「何をやるか」も然ることながら、その先にある人間関係の大切さを感じる取材となりました。人想いで温かな笑顔の丹羽さんと一緒にいると、こちらも自然と笑顔になってしまいます。
丹建築 丹羽怜之さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
聞けば九州男児で大工の棟梁。きっと頑固一徹、強面で言葉は厳しいにちがいない……
そんな想像をしつつお会いした小山武志棟梁は穏やかで丁寧で柔らかい印象でした。
「いえいえ頑固ですよ。頑固だなぁって人からも言われます」と穏和な笑顔の小山さん。
かつて金の卵と呼ばれ、上京し日本の発展の歴史を肌に感じながら、
木と土の日本の伝統家屋づくりに頑固に向き合ってきた小山さんのお話を伺いました。
小山武志さん(こやまたけし 78歳)プロフィール
昭和19年、長崎県平戸市生まれ。高校卒業後に上京し、ビル建設の仕事に就く。つくる喜びを味わいたいと考え、大工の世界に飛び込む。4人の棟梁の元で職人の心構えと技術を学んだ後、25歳で独立。横浜で工務店を開業。主に隣接する鎌倉市で仕事をする。数寄屋建築を得意とし、木と土による日本の伝統的な建築法を受け継いだ家づくりを手掛ける。時代とともに伝統工法の仕事は激減するが、70代を迎え、もう一度原点の木と土の本物にこだわった家づくりに専心しようと亀屋工務店と社名を改める。令和元年、東京都調布市に移転。古民家再生を中心に職人仕事が光る家をつくり続ける。
⎯⎯⎯ 素敵な応接室ですね。床板の木目が一つひとつ個性的で、土壁はうっすら緑がかっていて素朴で優しくて。
小山「いい風合いでしょう? これはね、聚楽壁(じゅらくかべ)といいましてね。京都の聚楽という地域の土を使っています。豊臣秀吉がたいそう好んだもので、自身の邸宅である聚楽第の壁にも使わせていましてね、独特な優しい色合いから、聚楽色という色の名称のもとになっているんです。
今は土を使用せず、風合いを再現する化学的な素材が色々入っているだけの聚楽壁という商品名が付けられているものもあります。本物はね、昔ながらものですから手間がかかりますし、材料費だけで30倍もかかる。それでも、見た目の味わいがいいだけでなく、本物の土の壁は、室内の湿度を調整し臭いを吸着して、防音性や耐火性といった機能があるといわれています」
⎯⎯⎯ 木の目の強い印象と絶妙なバランスですね!
小山「床はね、赤松と黒松のいい板が手に入ったので、半々で使っています。目が強いイメージの部分が赤松で、柔らかいイメージなのが黒松です。ちなみに、別名で赤松が雌松(メマツ)、黒松が雄松(オマツ)といいます」
⎯⎯⎯ 強い方が雌で、柔らかいイメージが雄なんですね。逆だと思いました。
小山「赤松の木肌は赤みがあり、立ち姿は曲がりくねって柔らかいので雌松。でも取り扱ってみると、まあ本当に大変。そのあたりも女の人と一緒かな?(笑)
そしてね、この黒くて木の目が目立つ部分が、やに松と呼ばれているんですが、かなり油っこい部分なんです。それほど多くないので、重宝されています。
松はね、緑色っぽい部分もあるんですが、それは乾燥させてる間にできるカビの色で、悪さはせずにただの紋様になってくれるので、また味わいがありますね」
⎯⎯⎯ 木や土の性質や歴史のことなど知識の幅が広いですね。大工さんはどれだけ学ばなくてはなれないのかと気が遠くなりそうです。
小山「建築は難しい仕事です。その中でも大工は一番大変じゃないかと自負しています。まず差金を使って勾配などを計算しないといけない。ノコギリとノミを使いこなして、穴やほぞを寸分のちがいもなく作らないと、100年持つ家にはならないんです。ある名のある宮大工が言っています。『学校の成績は70点80点で褒められる。だけど大工の仕事は100点以外は失格。100点の家でないと長持ちしない』と。
そしてその方は、『日光東照宮は建築物ではなく工芸品だ』ともおっしゃっています。煌びやかに見えてもつくりがよくないので、たかだか江戸時代のものなのにすでに4回も解体修復をしているではないかと。木造建築なのだから仕方ないと思われるかもしれませんが、奈良の法隆寺の五重塔の解体修復は一回だけです。部分的な修理はしていますが解体修復は1300年間していませんでした。つくり方によってこれだけの差があるんです」
⎯⎯⎯ そのちがいは、どこから生じるのでしょうか?
小山「木も育った場所によってクセがちがいますから、木のクセを見抜いて適した使い方をしないといけません。そうは言っても私にもできません。なぜなら、昔の大工は山に行って生えている環境も見て、木材として買い付けしたんですが、私の時代にはそれをやっていないのです。
山の中の南斜面で日がよくさす場所なら、くせが強く扱いにくいですが強度があり、北側の木はまっすぐ美しく伸びていて目も綺麗ですが、強度はない。強度がないものは飾る部分などに使われます。他にも風や湿気のある地面かなどを見る必要があると言われています。そして大事なのはつくり手が100点を取れる大工であることです。
そして、いつ伐採したのか。大木は別ですが、最低でも3年は乾燥させる必要があるので年数もですが季節も重要。木を切っていいのは一年間のうち30日間くらい。ちなみに竹は3日間くらいです。それ以外の時期に切ると虫が湧いてしまいます。こういうことは知らない人は多いと思います。
木は、乾燥するほど硬くなって道具受けしませんから、大工は苦労します。でも、乾燥が甘い木材を使えば、2〜3年で木が細り割れが生じて建物にガタがき始めるんです。乾燥年数が経っていても割れることはある、木とは本来割れるものですから。
その前提で『背割り』を入れます、隠れる部分に。細い長方形のような切れ込みを入れますが、時間が経つと扇型に開いていきます。つまり引っ張る力が働いて、思わぬ部分に割れが生じるのを防ぐ技術の1つが背割りということです」
⎯⎯⎯ 自分は大工になる、と思われたきっかけは?
小山「物づくりは子どもの頃から好きでした。ベーゴマなんて自分でつくっていましたよ。よ。父親が鍛冶屋だったので、金属部分をつくってもらってね。でも、大工になりたいと思ったことは一度もなかったです。大工になったのは親の勧めでね。平戸では就職先がなかったので、都会に出るしかありませんでした。当時の言葉ですが金の卵と国が煽ってね、東京に出てビルの建築現場の仕事をしました。
そこにはつくる喜びがなくて、すぐに辞めたくなりました。しばらく我慢して、次は家をつくる工務店に大工として入ったのですが、いきなり『この家をやってくれ』って言われてしまって。二階建ての家でね。大工として入った手前、できないとは言えなくて死に物狂いで初めての家づくりをしたんです。
道具使いはそれなりにできていましたが、墨付けなんてやったことがなくて。ビルの仕事をしていた時の先輩がやっていたのを見たことはあったので、真似して何とかしました。まあ、職人というのは、技を見て盗むのが基本ですから、特別なことではありません。
無事につくり終えた時に自信がついて、大工でやって行こうかなと思いました。22歳になった頃でしたね」
⎯⎯⎯ 昭和40年代の初めの頃ですね。使われていたのは自然の素材だけですか?
小山「押し入れにベニヤ板を使って節約してくれと言われたりはしていましたが、基本的には無垢でした。壁は土でしたよ。私が30歳になった頃にはもうラスボードという石膏ボードに樹脂を塗る壁の素材が出まわっていて、安価で扱いが楽ですからね、あっという間に土壁を追いやってしまいました。土壁の土台となる“木舞(こまい)”を掻くか木舞屋さんが少なくなって、昭和55年くらいだったかな、横浜で1軒しかなくなって、最後に一緒に仕事をしたのが、確かその年でした。
予算という問題は大きいですから、お施主さんからラスボードを使ってくれと頼まれたら断れません。流れには逆らえなかったですね。しかもその流れは凄まじく早くて、左官屋さんはどんどん廃業しましてね。やりにくい時代になりましたけど、生き残らなくてはいけないですし、可能な範囲で納得できる仕事をしていました」
⎯⎯⎯ 予算の問題は簡単ではないですよね。
小山「昔だって土壁は安く手軽ではなかったですから、木舞を掻いて粗壁を塗ったら、しばらくそのままという家は少なくなかった。土は暖かいですからね。それでお金ができたら仕上げの土壁を塗るんです。今のように銀行でお金を借りて家を建てるという時代ではないし、お施主さんは『仕上げは待ってね』という感じで大工と相談しながら少しづつ工事をしました。
昔は、毎朝大工が現場に行くと毎日お施主さんが空茶(からちゃ)を出してくれました。そこで雑談をしたり打ち合わせをしたりしていたので、今よりお施主さんとのコミュニケーションがとりやすかったですね。
空茶を頂いたあと、今日は気分が乗らない、何となく集中できない、という日があります。虫の知らせというか嫌な予感がする時は、空茶を飲んで帰ることがありました。それで大工は偏屈だと言われるんでしょうね。
でも実は偏屈でも何でもない。気分が乗らないのに無理して仕事をすると失敗する。集中できない時はいい仕事ができません。ここぞという時は気合も必要です。やりそこなうと、材料を無駄にし手間も数倍かかる。だから、潔く休むのです。非常に合理的なんだけど、今の時代ではなかなか許されないでしょうね」
⎯⎯⎯ 強い信頼関係があったのですね。
小山「私は話すのが好きということもあって、顔合わせや打ち合わせはじっくり時間をかけます。どのようなお住まいにされたいかご希望は伺いますが、そのうえで、引けないところは引けない、『これはできない。ダメなものはダメ』ということをはっきりお伝えします。純和風、特に数寄屋建築は型が崩せないので、お施主さんの言いなりでつくってはダメ。型というものは、なんとなくできたものではなく、長い歴史の中で生まれた完成された形ですから、それをあちこち崩すと暮らすうちに使いにくさが出てきたり、傷む場所が出てきたり、お施主さんご自身が嫌気がさしてしまうんです。
昔、大阪に平田雅也という数寄屋建築で有名な大工がいました。その方の逸話をひとつお話しましょう。今住んでいる家が気に入らないから家を建て直したいので、見に来て欲しいという依頼があって、家を見に行った時のこと。家を見て、その場に居合わせた出入りの大工に向かって言った言葉が『わしゃ、施主の言いなりになる大工は大嫌いじゃ。お施主さんは建築のことは素人なんだ。その素人の言うことを聞き入れて家をつくってもいい家にはならない』そしてお施主さんに言った言葉が『私に頼みたいなら全て私に任せてくれ』。
この方が弟子の時代の5年間にやったことは鉋(かんな)かけだけ。でも、その鉋の技術は超一流です。そこから名のある大工のもとを転々と勤めてあらゆる技術を学んだ方でしてね。だから、えらい、いばっていいということではないですよ。自己流の家を建てさせるということは、職人の技術と知識と経験を崩されるわけですから、わざわざ完璧な家をつくらせないようにしている、こういうことになるんです」
⎯⎯⎯ お互いに損ですね。
小山「そもそも茶道のことを数寄といい、住まいであって茶会も出来る住宅を数寄屋造りといいます。茶道には数々の作法がありますから、それがスムーズにできる空間に仕上げないといけない。基本の茶室の型に生活の場を合わせているわけですから、廊下や手洗い戸の位置、デタラメにつくろうものなら非常に使いにくいのです。
近年は、体が不自由になった時のためにバリアフリーにしたいというご依頼も多いですね。家の中で車椅子を使うといった状況なら仕方がないのですが、日本建築では板の間と畳の間の段差が3㎝と決まっています。大工は昔から口伝でね『段差は一寸(3㎝)、中途半端に変えるなよ』と教えられているんです。それを2㎝とか1㎝にすると不思議とつまずくんです。理由までは教わりません。でもね、つい最近、科学的に3㎝以上の高さがあれば脳は段差を段差と意識して、足を上げるように指令を出すということがわかってきたそうなんです」
⎯⎯⎯ お年寄りが転んだ時「何もないのにつまずいた」とよく聞きます。大工さんの口伝には何か根拠があるのですね。
小山「段差ひとつとっても、頑固者と嫌がられても守らなくてはいけないものがあるんです。それは何より安全に暮らすために。本物の素材、本物の型、大工の真心でつくられた家はね、派手さはなくても安心して落ち着いて暮らせるものですし、見飽きません。障子の格子も決まった尺でつくるのですが、その尺に決まった理由があって、そこに見飽きない法則があるように感じます。
そして、そういう家では掃除や手入れも、大切なものを愛でる気持ちがわいて、合理的に時間を使うのとはちがう豊かさが感じられます。雨戸の開け閉めも乱暴にしていては、すぐに傷んでしまうので丁寧に扱う必要がありますが、暮らしの一つひとつを丁寧にすることで、生活をしている生きているんだという実感が生まれるのです」
⎯⎯⎯ 大切に手入れされてきた古民家が失われるのは惜しいです。
小山「古民家の再生となるとね、始めてみないとどこまで壊してつくり直すのか、そのまま使えるところがどこまであるのかわかりませんから、見積もりも出せないんです。できるだけお金がかからないようにと思っていますが、お施主さんも心配でしょうし、正直こちらも心配ないと言えば嘘になります。だから、とくに信頼関係が大切です。
最近、古民家の再生が1軒終わりましてね(Y氏邸)。お施主さんは若いご夫婦。奥さんが古民家が大好きな方で、最初にお会いした時に開口一番言われた言葉は『外は古民家、でも中は新建材を使った現代風の家では嫌なんです』でした。
雨漏りもしていたしかなり傷んでいる家でしたが、ご夫婦の熱い想いに後押しされ、工事をお引き受けしました。ご希望に沿って、新建材を使う現代風な直し方はしないで、自然素材にこだわり古い形にこだわり本物にこだわって施工しました。既存の古いものを極力残しながら、木材は全て無垢。壁は土壁。サッシは全て撤去して建具は全て木製に入れ替え、築当時の姿が蘇りました。
なにより嬉しかったのはお施主さんがとても喜ばれたことです。出来上がった時だけではなく、この家に引っ越されて2年になりますが、今もこの家を大切に思い、この家での暮らしを楽しまれているご様子です。
家は引き渡して終わりになるわけではなく、その後が肝心です。この工事はかなり大変だったんですが、自分がつくったものをお施主さんが暮らしの中で喜ばれている姿をみると、『つくってよかったなぁ』と苦労も吹き飛びます」
【Y氏邸施主さんメッセージ】
幼い頃から、昔の建物や道具に惹かれながら育ちました。長じて念願叶い、大正築の古民家とのご縁に恵まれましたが、幾度かのリフォームにより、築当時から姿を変えている箇所が散見されました。
この家を築当時の姿に戻す「修復」がしたい。あちこちの工務店さんに、そう言って回りました。みなさん親身になって話は聞いてくれましたが、理解されることはありませんでした。
そんな時、古道具屋で偶然、亀屋工務店さんのショップカードを見つけました。それが小山さんとの出会いです。
小山さんのお人柄は「真摯」の一言に尽きます。まだお仕事に繋がるかどうかもわからない初回打合せの段階から、いいものをつくるため、そしてそのよさを伝えるためには時間も手間も一切惜しまない、その姿勢に「小山さんならば」と思い、修復をお願いすることを決めました。
修復工事が進む中で特に印象的だったのは、現場がいつも整然としていること。数日同じ工程が続く場合でも、道具も材料も片付けて、きれいに掃除されて帰ります。また正月には、現場の床の間に、鏡餅と一緒に大工道具(差金、墨壺、手斧)を飾ってくださっていました。大工さんの命ともいえる道具を大切にする姿勢が深く心に残っています。
これは余談ですが、古民家に越してきてから、日本の古い小説の描写が「わかる」ようになりました。例えば障子越しの明かり。天井のしみ。床のきしむ音。ざらりとした手触り。一つひとつは小さなことですが、それらが自分のリアルな感覚に重なると、作品世界がグッと立体的に感じられるのです。
小説の中に流れている時間と、今、ここにいる自分の時間とが、まぎれもなく繋がっているのだと感じたとき、たとえようもない喜びに包まれるのでした。
⎯⎯⎯ 古民家のお仕事は復元のレベルですね!
小山「今施工中の家は、O氏邸と呼んでいますが、築昭和7年の伝統工法でつくった家の修復工事です。こちらは、お施主さんが50代の男性でして、昔の組子でできている建具、障子が気に入って家を購入されたそうです。すでに他の業者さんが入ったあと、ご自分が思い描いていたのとは違う直し方だったため、工事途中に施工を断ったそうです。困ってたところで私にご依頼いただいたんです。
お会いした時に私がまずお施主さんに聞くのが「どういう家にしたいのか」で、このお施主さんのご希望は『再生工事ではなく、修復工事にしたい』でした。
工事途中の現場からその意味がよく分かりました。前の業者さんは伝統工法のやり方を全く知らずに施工していたようで、知っていればこんなことはしないというところが至るところに見受けられました。
お施主さんのご希望で、4年前の一期工事から始まって今は三期工事の施工中です。二期工事は縁側だったのですが、縁側のサッシを撤去した時は驚きました。家の表情ががらりと変わりました。落ち着きがあり、風情のある築当時の姿が蘇った瞬間だったと思います。
三期目は屋根と仏間と台所、洗面台です。洗面台は築当時の研ぎ出しの洗面器が見つかり、当時の洗面台に修復することになりました。少しずつ築当時の家の姿が蘇ってきています」
⎯⎯⎯ 家を丸ごとお買いになるほど素晴らしい障子なのですね。
小山「当時はよくつくられていた形の硝子障子だと思いますが、風情があります。職人の手仕事には何ともいえない趣きがあります。硝子は表面を摺ってつくった本物の摺り硝子です。今のつくり方とはちがうつくり方の曇り硝子です。型を置いたところは摺れていなくて透明です。透明な部分は少しだけですが、その透明な硝子を通して庭の様子が見えるんです。あれをつくれる職人はもういませんから、割ってしまったら同じ硝子は入れられません。
早く、安く、効率的に便利で、楽な家を求める人が多くなってしまいましたが、職人が手間を掛けてつくった家はいいものですよ。自然素材でつくった家は森林にいると安らぐのと同じように、そこに居るだけでとても安らぎます。失われつつある日本家屋のよさ、賢さを次の世代に繋いでいけたらどんなにいいかと切に思います。木と土の家のために、微力ではありますが、今私にできることを精一杯やっていきたいです」
【O氏邸施主さんメッセージ】
昭和初期に海軍の軍人さんの住宅として建てられた古民家を買い取り、その修復をしようと考えた際に、いくつかの工務店さんに相談しました。けれども、機能性を重視する方が多くて、建築当初の形にこの古民家を復原したいという希望を理解してもらえませんでした。
小山さんのお名前はネットで検索して知ることができました。電話で事情を話すと、小山さんは当時会社のあった横浜から横須賀までいらしてくださって、私の細かい要望を聞いては、その部分を一緒に見ながら方法をいくつも考えてくれました。
4年前に修復をスタートさせて、今も段階を区切って進めてもらっています。納得するまで付き合ってくださる小山さんにはとても感謝していますし、完成までのプロセスを細かく見届けることができるのは、とても楽しい経験です。
亀屋工務店 小山武志さん(つくり手リスト)
建築物写真:小山幸子さん
取材・執筆・インタビュー写真:小林佑実
「家はお客さんのためのものですから。求められる希望以上のものを提案し続けるようにしたいです。また、どうしたら1日でも1秒でも長く保つようにつくることができるか。常に考えるようにしています」
家づくりについてそう話すのは、東京から北海道に移住し、設計から大工まで一人でこなし、さらに猟と畑にも力を注いでいる《ヒトトキ》の代表 小塚祐介さん。
ご自身の工房兼事務所の工事の合間を縫ってインタビューに答えてくれた。
小塚祐介さん(こつかゆうすけ・42歳)プロフィール
1980年東京都生まれ。ヒトトキ代表。日本大学芸術学部デザイン学科建築コースを卒業後、山口修嗣棟梁に師事。3年間の大工修行を経て独立。2017年には二級建築士事務所を設立し、2020年に北海道網走郡津別町に移住。猟と畑と家づくりを主軸に、自分たちで賄えるものは、なるべく自分たちで賄うことをライフワークとしている。
⎯⎯⎯ 建築の道に進んだきっかけを教えてください。
小塚さん(以下敬称略)「幼稚園の時の夢が大工さんでした。高校三年の時に、建築コースのある日本大学芸術学部の説明会を聞きに行き『俺の進む道はここだ』と直感で決めました。大学の授業では自分でデザインした椅子などを作ったりしていく中で、自分でデザイン・設計したものを、自分の手で作りたいと思うようになり、まず大工の道に進みました」
⎯⎯⎯ 修行時代はどんなことをされていたのですか?
小塚「山口修嗣棟梁のもとで修行をしていました。渡り腮(わたりあご)構法の第一人者である丹呉明恭建築設計事務所とタッグを組んで進める仕事がメインで、木組みの奥深さを実感する毎日でした。
山口棟梁の工房は群馬の山中にあるのですが、そこに住み込みで大工の見習いをしながら、ヤギ・羊・鶏などを飼い、畑仕事もやったりしながら、3年間寝食を共にして多くのことを学びました。その体験が今の生活のベースになっています」
⎯⎯⎯ その後、独立まではどんな道のりでしたか?
2005年からフリーランスとして下請けで伝統構法の住宅を手掛けたり、家具や建具の製作をはじめました。途中引っ越しなどを経て、2007年に東京へ戻り、2013年に《ヒトトキ》をスタートしました。
⎯⎯⎯ 《ヒトトキ》という屋号に込めた想いを教えてください。
小塚「人と木が、人と“喜”になる。そんな日と時を共有し、つくっていきたい。という想いを込めて名付けました。いい屋号が閃いたら完全に独立しようと思っていたので、結構年月がかかってしまいました(笑)。さらに4年後の2017年には《ヒトトキ二級建築士事務所》として設計業務も本格的に始めました」
⎯⎯⎯ ご自身で設計・デザインし、ご自身で作り上げるという学生時代の夢が実現したわけですね。実際に仕事をしていて強みに感じることはありますか?
小塚「設計者の視点と大工の視点で現場判断をするので、より良い解決策を考えられるという点ですかね」
⎯⎯⎯ 北海道に移住をされたのはどうしてですか?
小塚「関東でも住む場所を探したのですが、なかなかいい縁がありませんでした。
ちょうどその頃、狩猟免許を取りたいと思っていたのですが、北海道の標津町(しべつちょう)で、伝説の熊撃ちと言われている久保俊治さん ※1 が狩猟講座《アーブスクールジャパン》を開校すると聞き参加しました。何日も野営をして、食べ物は自分で捕まえるというスタイルで、野山を駆け回っていた時に『自分はこれだ。ここが自分の居場所だ』と理屈抜きで感じました。
母方のルーツが北海道にあるので、こちらに住んでみたいという夢はありました。東京で築き上げた生活のベースを捨てる勇気がなかなか持てなかったのですが、もう直感で移住を決めました」
※1 久保俊治さん
北海道標津町で牧場経営の傍ら羆猟師として猟を行う。著書に「羆撃ち」(小学館)がある。
⎯⎯⎯ 広大な北海道の中で、ここ津別町を選んだ理由は?
小塚「以前、ネットで見てずっと欲しいなと思っていたアイヌのマキリ(アイヌが愛用した片刃の小刀。木製の柄と鞘には緻密な文様が刻まれている)を、新橋のギャラリーで見かけてました。展示されていたアイヌの作家さんに『どうしても欲しいです』とお願いしたんです。後日譲ってもらえることになったのですが、丁度僕が狩猟の野営でこっちに来ていたので、ご自宅に寄らせてもらうことに。それが津別町だったんです。
行ってみると、すごくいいところで住みたいくなってしまいました。それから季節ごとに通っていましたが、いざ住むとなると準備が大変そうなので二の足を踏んでいました。
そんなある時、津別町の《地域おこし協力隊》の募集が1名だけあり、妻が応募してくれたんです。そして無事採用されて移住が現実のものになりました。ここの家と車もついていたので、準備に専念することができ、とてもありがたかったです」
⎯⎯⎯ 鹿猟はどれくらいの頻度で行かれているんですか?
小塚「我が家で食べる肉は100%猟で賄いたいと思っているんですが、今年は冬に2回しか行けていないので、そろそろ猟に出かけないといけないなと考えているところです」
⎯⎯⎯ 猟にまつわるエピソードを1つ教えていただけますか?
小塚「ある冬、作業場の近くの山でとても大きい雄鹿(100kg超!)が獲れました。そのまま引きずって、沢伝いに降りればすぐに帰って来れるだろうと考えていたんですが、かんじきを履いた状態で沢を3回も越えないといけなくて、すぐそこなのに四時間半もかかりました。狩猟の大変さを実感しました」
⎯⎯⎯ すごい体験ですね。猟の他にも畑もされていると伺いましたが、どんなものを作られているんですか?
小塚「畑は東京時代からずっと自然栽培でやっていて、こっちではまだ少しずつ開墾している状態です。向こうでよくできていた里芋があったので、親芋を持ってきていて、栽培の北限を超えているこの地で育つかどうか、ハウス栽培でチャレンジしています」
⎯⎯⎯ 家づくりの話に戻ります。北海道に来られて仕事のスタンスや考え方など、何かご自身の中での変化や気づきなどはありましたか?
小塚「まずは設計に関してですが、網走のカフェを設計した時に『コンセプトっていらないや』と感じました。今まではコンセプトを考えて、それに基づいて空間や形を決めていっていましたが、コンセプトという枠で固めることよりも、お客さんの希望や動線などを満たした上で、それ以上に奇を衒うわけではなく、純粋に美しいものを考えればいいかなと思うようになりました。
コンセプトで縛らないという面では楽になったんですが、どうやったら美しく見えるかを考え、感覚を磨いていかなければならないので、より難しくなったとも言えますね」
⎯⎯⎯ その網走のカフェの事例をネットで拝見しました。こだわりのディテールがたくさんあるにも関わらず、それぞれが喧嘩することなく高次元でまとまっていて、一つの空間をつくり出しているなと感じました。設計・大工・家具づくりまでお一人でされているからこそできる仕事なんだろうなと感銘を受けました。
小塚「ありがとうございます。設計士の『どうだ俺のデザインは!』とか、大工の『どうだ俺の技術は!』みたいなのは好きじゃないんです。繊細に見せるところとガッチリ見せるところをその都度考えて適材適所決めていっています。
建築中の工房横の土地に皆伐放置されていたタモ材を救出して使用しています。大正13年 (1924年)の新聞が壁の中から出てきたのでおそらくそれより前に建てられ、増改築を繰り返して今の木造三階建てになったのだと思います」
⎯⎯⎯ 大工としての変化はありますか?
小塚「木のこと、木を組むことをもっともっと理解したいと思うようになりました。北海道ではカラマツ(唐松)※2 がどんどん伐採されていて、いいカラマツもほとんどが合板になってしまっています。また広葉樹に至ってはほとんどがチップになってしまっています。北海道の林業はかなり遅れているように感じます。こっちでは人工乾燥ばかりなので、天然乾燥を頼めるところがあると嬉しいのですが。人工乾燥材を一度使ってみましたが、『これは木じゃない。もともと木だったものだ。これでは木があまりにもかわいそうだ』と思いました。また、大規模伐採によって熊がどんどん森から出てきてしまうなどの弊害も生じてきています。
そこで、今建てている工房は、実験として全てカラマツを生木のまま使っています。まずはカラマツの特性や癖をきちんと知ろうと思ったんです。今までのいろんな木を見てきた経験を元に、ねじれが強いカラマツの癖を予測して組み方を変えています。内装に関しては、チップになる運命の広葉樹を少しでも救出するために、床や柱、家具などに使う予定です。木がどうしたいのかをもっともっと知りたいんです」
⎯⎯⎯ 今日は工房の建方を見せていただきありがとうございました。貴重な体験でワクワクしました。工房の奥に半地下の部分がありましたが、どういう部屋になるのでしょうか?
小塚「ここも実験のひとつで、寝室になります。イヌイットやエスキモーなどの北方先住民族の竪穴式住居やイグルー ※3 をヒントにしました。《地下》というと寒いイメージがありますが、外気と違って一定温度以下には下がらないので、寒ければ布団をかぶればいいですし、床下に土を敷いて薪ボイラーの熱線で土を温めれば、竪穴住居やチセの土間の蓄熱効果で底冷えしないのではと考えました。雪国に暮らしてきた先人達の知恵を活かす試みです」
小塚「それから太陽の暖かさも大切ですね。北海道でもやはり高気密高断熱の家が主流なのですが、暖かさでは太陽の光に勝るものはないですよね。寒く高緯度の場所なので、その大切さは他の地域より切実です。なので、太陽光を効率的に取り入れるようにして、断熱材は最低限のウッドファイバーを使い、過剰な断熱はしない方法で試してみようと考えています。さらに補足的に薪ボイラーの床下暖房を敷けば、かなり快適になるのではないかと考えています。
寝室は「寝るために特化した部屋」として、就寝時が快適なら良いので、朝日が入る程度の小さな窓にしています。目覚めたら太陽の光がたくさん差し込むリビングに行って温まるという流れを想定して設計しています」
⎯⎯⎯ 楽しみな試みですね。高気密高断熱の話題が出ましたが、北海道だと比較的適しているようにも感じるのですが、実際のところどうなんでしょうか?
小塚「机上の計算では確かに優れているかもしれませんが、実際解体してみると気密性が高いほど、どこかにシワ寄せが出てくるなと実感します。高気密にしておいて24時間強制換気するという考え方がそもそもすごい矛盾ですよね。しかも、その空間はケミカルなもので満たされている訳です。それよりも、中気密くらいで高断熱、そして蓄熱と調湿のできる家の方が北海道の気候風土には合っているんじゃかいかと思います。それを実現できる木組みの家を考えていきたです」
※2 カラマツ(唐松)
北海道ではスギ・ヒノキに代わって、唐松(カラマツ)が積極的に植林されてきた。育苗が容易で、根付きが良く、成長も早い。繊維が螺旋状に育つため、割れや狂いが生じやすい。その反面、硬くて丈夫なので、将来は炭鉱や工事で使う杭木や電信柱としての活用が期待された。しかし、時代が変わり当初の需要はほとんどなくなり、現在では構造用合板や集成材などが主な活用路となっている。
※3 イグルー
北米の狩猟民族「イヌイット」や「エスキモー」の伝統的な雪の家。見た目は日本のかまくらに似ているが構造は異なる。かまくらは、雪を積み上げ内部をくり抜いて作るのが一般的だが、イグルーはブロック状に圧縮した雪を積み重ねていく。また、かまくらは寝泊まりには使用しないが、イグルーは冬の間の住居として使用される。
ここでいくつか事例をご紹介する。設計・大工・家具づくりまで一人でこなす小塚さんだからこそできる仕事の一端をご覧ください。
まず紹介するのは、自宅近くに建設中のご自身の工房兼事務所だ。取材に先立ち、建方の模様を拝見した。
生木のカラマツを、ねじれを考えながらトラス構造で組み上げていく様子はまさに職人技。抜群のチームワークでこなしていく。自ら設計して、自ら建てる。しかも自らの実験の場として。小塚さんの生き様を感じた。
ここは小塚さんのお兄さんがはじめるお店。「Back to the Future IIIのようなウェスタンにして欲しい」との要望に応えるべく鋭意工事中。主要な木材は北海道で刻んで持って来たそうだ。
小塚「建方は仲間と兄の都合がつかず、なかなか大変でしたが一人で組み上げました。ヒヤヒヤする場面もありましたが… 中央のシンボルツリーには胡桃を使いました」
小塚「大将がお一人で営業されてるカウンター席8席、テーブル席4席の小さな日本料理店です。大将の丁寧で丹精込めた料理を調理中の姿を眺めたりお話したりできるよう、オープンな空間を心がけました。お一人様でも退屈しないように全ての壁を違う仕上げにしました。市松模様の「途切れることなく続く」という意味を込めてモチーフにしました」
カウンターのデザインと施工と担当。都内の荻窪店と神保町店にも携わっている。
⎯⎯⎯ これからの展望や目標などを教えてください。
小塚「先ほどの話にもありましたが、北海道では木材の乾燥は人工乾燥に頼りきっているのが現状です。仲間と水中乾燥や氷中乾燥を試していこうと話をしています。また山と直接つながった生活をしながら、チップ材にされてしまう前に、いい木を救っていきたいですね」
⎯⎯⎯ 氷中乾燥というのは初めて耳にしました。どんなメリットがあるのですか?
小塚「まだまだ実験段階ですが、湖や沼が結氷することで材が完全に水中に沈むことによって、より均一な浸透圧で水分ヤニが抜けることが期待できます。鹿肉や鮭の寒干しやルイベのように、北方ならではの知恵でデータでは得られない何かがありそうな気もしています。広葉樹の場合、木に入り込んだ虫をそのまま死滅させることも期待できます。デメリットは、結氷前に入れないと氷を割るところからしなければならないことと、氷が溶けるまで引き上げられないことです」
⎯⎯⎯ 木のことの他に、設計などに関してはいかがですか?
新築の設計実績がまだないので、自分の手で設計施工をやっていきたいです。それと、家具づくりも突き詰めていきたいです。オーダーがあって急いで作るんじゃなくて、自分がいいなと思える家具をしっかりと作っていきたいです。
⎯⎯⎯ 大事にしていることやモットーなどがあれば教えてください。
小塚「大きく稼がず、小さく暮らすこと。ですかね。お金が全てみたいな世界がすごく嫌なんです。
もちろん、現代で生活していく上で、経済活動から完全に抜けることはできませんが、猟をして畑をして仕事をしてというお金だけに頼らない暮らしをしていきたいです」
屋号である《ヒトトキ》の意味は『ひととき』であるのはもちろんのこと、『人と木』であり『人と喜』や『日と時』であるという小塚さん。インタビューでの優しくも芯のある言葉には、思いやりや感謝の念が感じられた。その気持ちは、家づくりに関わる人にだけではなく、木や動物、植物など、自らを生かしてくれている自然そのものにも向けられたものだ。
そんな想いを持った小塚さんが生み出すさまざまなものが魅力的でないはずがない。
自然のあらゆるものや現象に、カムイ(神様)が宿っているとされるアイヌの価値観と通ずるものがあるのは決して偶然ではない。
ここが彼の居場所であり、生きる道だ。
ヒトトキ 小塚祐介さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)
「木や土、石を使った日本の伝統的な技術で建てた家は美しいですし、とても心地のいいものですが、“特別な人が住むもの”と思っていらっしゃる方が多いと思うんです。そういう方にこそ、木や土のぬくもりや味わい、快適さを知っていただきたいし、日本の家づくりのスタンダードになってほしい」
そう話すのは、木の家設計室アトリエ椿の代表で建築士の笠原由希さん(かさはらゆき・48歳)。
住む人の暮らし方にふさわしく、無理のない形での伝統技術や自然素材を取り入れた家づくりやリノベーション、リフォームを行っています。
もちろん暮らしにふさわしい形、心地よさは人それぞれ。本人さえも気がついていないこともあると笠原さんは言います。この重要なポイントを汲み取ろうと、依頼主やその家族、周囲の人にまで真摯に向き合う笠原さんの、千葉県柏市にあるご自身の作品であり生活の場でもあるアトリエに伺いました。
⎯⎯⎯ 笠原さんのアトリエでもあるご自宅にお邪魔して、まず感じたのは、すごく清々しい木のいい香りがすることです。なんとも気持ちがいいですね!
笠原さん(以下、敬称略)「住んでいると気がつかなくなっているのですが、そう言ってくださるお客様は多いですね。このアトリエは建ててから11年が過ぎているのですが、まだ木が香りを放ってくれているんです。
香りも人の体や心に与える影響って大きいと言われていますよね。自然素材は見た目や匂いの癒し効果だけでなく、室内の湿度を調整したり有害な化学物質を吸着したりといった実質的な効果がある住む人に優しい素材です。心身の健康を考えるうえでメリットは大きいと経験的にも思います」
⎯⎯⎯ ホームページを拝見しても、家と健康の関連をとても大切に考えていらっしゃるのがわかります。そもそも住環境に興味を持ち、家をつくる仕事をしようと決められたことと何か関係していますか?
笠原「住環境に興味を持ったのは、夫の仕事の都合でスイスで暮らしていた時です。それまでは会社勤めで忙しくしていたのですが、退職しました。現地は日本人はほとんどいないようなところで、知り合いもいなくて。日中ひとりでクヨクヨと家にいる日々が始まりました。
二重の意味でライフスタイルが変わったなかで、私の心の支えになったのが住環境でした。家に居て窓の景色を見たり、散歩して町並みの美しさに触れるうちに、自分の中の焦りや孤独感が消えて、だんだんと気持ちが癒されていきました。移住がきっかけで住まいや周囲の環境が心に与える影響の大きさを知ったんです。
恩恵は十分に感じているのですが、何に癒されたのか言葉で説明できなくて。住んでいた家に関しては日本の家屋に比べて広かったですけど、ごく普通の築40年くらいの家でした。私自身がその“心地よさの正体”を知りたくて、これが建築の道に進むきっかけになったと思います」
⎯⎯⎯ 帰国されてから建築のお仕事を始められたのですね。
笠原「はい。その前から勉強はしていたのですが、店舗や工場、たまに住宅も扱うような建築事務所に入れていただき、今のキャリアをスタートさせました。
図面を描くことは好きでしたが、実際に仕事を始めたら、カタログやショウルームで既製品の建材を選んで組み立てていくだけという印象があって思っていたことと違っていました。
もっと住む方の暮らしにあわせた設計がしたい、気持ちに寄りそった家づくりがしたいと強く思いました。
そしてご縁をいただいたこともあり、木の家ネットの会員でもあるけやき建築設計さんや、古民家再生を得意とする工務店との仕事を通して、木の家づくりについて勉強させていただきました。
そこで改めて日本の木造建築の素晴らしい技術を学び、1からつくり上げる家づくりの楽しさや、木の家の心地よさについても知ることができました」
⎯⎯⎯ 笠原さんが感じた日本の木の家の魅力は、どのようなところでしょうか?
笠原「木の家の魅力は、すでにこのインタビューにご登場されている先輩方が語りつくされていると思いますが(笑)、自然素材の表面の穏やかで深みのあるテクスチャーやさらっとした空気感は、人工的なマテリアルや空調では再現できないものだと感じています。
実際に私自身が木の家に暮らしていてありがたいと思うのは、古くなっても、あまり神経質に掃除をしなくても、許容してくれるようなおおらかなところです。多少の傷は味、といいますか。
ただし、設計者がそれを言ってはいけない部分もありますので、自然素材を扱うから仕上がりがラフでいいということではなく、許容範囲内のばらつきなのか、それ以外なのかを判断するのも監理していくうえで必要ですし、設計段階でもなるべくシンプルになるように心がけています」
⎯⎯⎯ おおらかな空間、それだけでリラックスできそうですね。
笠原「それから、やはり心身の健康にいい影響があることも木の家の大きな魅力です。
それは自然素材という安全な素材を使っているからということはもちろんですが、色々な働きというかメリットを生みだしていると感じます。
私はスイスで出会ったバウビオロギーというドイツ発祥の建築生物学・生態学をずっと学んでいます。“家は大きな洋服である”という考えのもと、素材の安全性、匂い、音の反射、電磁波、色、カビ、化学物質、循環つまり廃棄するまで建材がエネルギーとして収支が取れているか、という視点で人が人らしく暮らせる家について研究する学問です。
日本の伝統技術や自然素材でつくる木の家は、これらの指針のほとんどをクリアしています。
私はプラスして、電磁波というか電気の影響を受けないように、人が長時間過ごす所の床には電気配線を通さないように工夫をするといったこともして、学びを活かしています」
⎯⎯⎯ これまでのお仕事のご経験で、先ほどおっしゃっていた“心地よさの正体”は見つけられたのでしょうか?
笠原
「いえいえ。それはまだ勉強の途中ですし、一生探し続けると思います。
人が心地よさを感じるには、五感が働くだけでなく他の要素もあるような気がしています。
例えば木造建築の中でも、わびさびに代表される和の美意識や遊び心にあふれた茶室。広い部屋はのびのびと過ごせるよさがありますが、茶室の隣の人と肩がぶつかりそうなあの狭さだからこそ、一つの宇宙を感じるというか、何かに包まれている感覚があって心地いいですよね。ではどのように形にしているのかというと、やっぱり説明できませんね。
そこに身を置く時が私にとって至福の瞬間で、少しでもその世界観に近づけるように、お茶の稽古にも通っています。じつは茶花といえば椿なので、アトリエ名も椿を入れさせていただきました」
⎯⎯⎯ なるほど、広ければ心地いいとは限りませんね。
笠原
「そうですね。他にも、新築の家のフレッシュで清々しい空気感も魅力ですが、古民家には古い木材や漆喰の壁に囲まれた、温かく懐かしい空間があり、今の一般的な家づくりで使われる新建材ではとうてい出せない豊かな表情を持っています。
価値は多様で、さらに人それぞれ。もちろん心地よさも。ですから家づくりはこうでなければ、という制約はなるべく設けないようにしています。特に、古い家のリノベーションなどでは、大切にしている持ち物や変えたくない暮らし方など、ご家族にしかわからないストーリーがあります。なるべくお気持ちに寄り添いながら、生活が楽になるご提案をしたいです。
木の家で80代後半の義母と同居したり子育てをしたりしている生活者としての私の経験を、設計にも活かしていけたらと思っています。女性ならではの視点も活かしたいところですが、最近は家事や家電に詳しい男性も多く、お客様に教えていただくことも多いですね」
⎯⎯⎯ 建築士である前に生活者としての眼差しを大切にされているのですね。
笠原「家という場所は、食事をして睡眠を取って、仕事や勉強をして、家族とのコミュニケーションを取って、と、私たちの身体や心の基礎をつくる場所です。感染症の蔓延や緊迫した海外情勢などで先行きの不安や閉塞感が広がるなか、家の中に目を向ける人が増えてきているのは必然のこと。私もそのひとりとしてお力になりたいと思っています。
一方で作り手として大切にしていることもあります。なるべく真壁で作ること。柱や梁などが見える真壁は木の姿の美しさを味わえます。
もう一つは、どうしても日本は地震の問題がありますから、木の家の強度を高める意味もあって、“手刻み”にはこだわっています。
予め木材を切って搬入せず、現場で木材どうしの組み合わせを見て調整し、梁(はり)や桁(けた)、柱それぞれの木材の接合部分をつくってはめ込みことで、嵌合(かんごう)がしっかりした安全な骨組みをつくることができます。
これは、昔ながらの伝統技術を身につけている大工さんでなくてはできないことです。木の癖を読んで配置を決めてくださるので、人の感覚の方が信頼できるなと、いつも感じます。
そんな大工さんから『あの木はいい目だったから、和室のここに使ったよ』と誇らしげに言われると、幸せな出会いだなと思ってうれしくなります」
⎯⎯⎯ お客様と笠原さんの出会い、笠原さんが依頼した腕利きの大工さんと出会って、木材との出会いもあり、さらに大工さんが木材のどの木目を見せるか選んで……。たくさんの選択肢のバリエーションがある中で、茶道ではないですが一期一会的ですね。
笠原「そうですね。木も一本一本が出会いですから、隠さない形で表情豊かに使いたいという思いはあります。使命感に近いかもしれません。だから真壁が好きなんですね」
⎯⎯⎯ 今後の目標、ミッションとして取り組んでいることを教えてください。
笠原「私の目標は、日々の活力を養ったり、弱っている心身を癒したりするのに、無垢の国産材と熟練の職人がつくる心地よい“ゆらぎ”のある空間や、化学物質に汚染されていない安全な空気、安心して呼吸できる家を確実にお届けすることです。
そのような家づくりがいつの間にか標準的なものから外れ、こだわりのある人にしか届かないようになっているのは残念なことです。
家のすべて、構造から伝統技術と自然素材でつくるとなると、どうしてもハードルが高くなります。費用もかかるだろうからと最初から諦めている方も多いのではないでしょうか。
部分的にでもと言いますか大切な場所に、できる範囲を一緒に考えさせていただいて、たくさんの方の住環境に木や漆喰の壁などを取り入れていただき、楽しんでいただきたいと思っています。
そうやって木の家が増えていき、木の家に住むことがスタンダードに戻ることを願っています」
⎯⎯⎯ そのためには木の家の居心地をたくさんの人に知ってほしいですね。
笠原「希望を感じるのは、地元の古民家再生の活動などを通して、子ども達や学生向けの講座やワークショップを開く機会が増えていることです。日本の風土にあった昔の暮らしや地場産の家づくりについてや、それが地球環境にもつながっていることを次世代に楽しく伝えていけたらと思っています。
かつて海外で暮らしていた経験から、日本固有の文化を知りたいと思ったのが古民家に目を向けたきっかけでしたが、昔の瓦や土壁で出来た建物やダイナミックな空間が、シンプルに格好いいと感じました。
歴史的なものや構造よりも、まずはデザインが気になったんですが、古民家に目を向けると、周囲の町並みや土地との関係も自然と目に入るようになりました。昔の人は、暮らしの中に電化製品も無かったし、重機で土地を開発することも無かった。そのぶん、自然環境を利用する知恵が蓄えられてきたのだと感じます。
現在、保存活用に関わっている古民家も里山の中に残っているものですが、建物が無くなってしまうと、昔の人の生きる知恵もうやむやになってしまう。ただ懐かしいから残す、これはとても大切なことですが、それだけではなく、なぜこの建物がこの場所に建っていたのか、現在の住宅と何が違うのか、周りの環境はどう変わったのか、一軒の古民家でも沢山のことを教えてくれます。学びを深めながら、それをつないでいきたいですね」
インタビュー中の笠原さんは、言葉を慎重に選びながらお話される方でした。その姿勢は、「知ったつもりになっていないか、決めつけていないか」ということを、つねに自分に問いかけているよう。
こうやってお客様や職人の方々、木や土、石や紙などの素材、家のまわりの景色と丁寧に対話をしながら木の家をつくっている、仕事中の笠原さんの様子もありありと想像されました。
そして、住む人、訪れる人、通りすがりにその家を目にする人たちの幸せをつねに願っている笠原さんの家づくりは、まるで祈りを形にする行為のよう、そう感じました。
木の家設計室アトリエ椿 笠原由希さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実(Yuumi Kobayashi)
写真提供:笠原由希さん(アトリエ、栗橋キリスト教会リノベーション、バリアフリーキッチン)、小野寺崇貴さん(柏市 土間のある家)、畑拓さん(川越市 築80年の古民家再生)
兵庫県丹波市。田園風景の広がる山間に、ポツンと目を引く古い校舎のような建物がある。ここが今回ご紹介する大工 高橋憲人さんの自宅兼事務所だ。ワクワクしながら玄関の戸を引いた。
高橋憲人さん(たかはしのりと・42歳)プロフィール
1980年東京都生まれ。大髙建築代表。立命館アジア太平洋大学を卒業後、古民家の持つ木組みの知恵と生命感あふれる住まいに魅せられ大工を志す。Iターンで兵庫県丹波市に移住し旧校舎の自宅に手を入れながら奥さんと3人の子供と暮らしている。子育て世代をはじめ、誰もが健康的に暮らせる、木と土のシンプルな家づくりを提案している。
⎯⎯⎯ 大工を志したきっかけは?
高橋さん(以下、高橋)「大学に入るまでは大工になろうとは全く考えていませんでした。大学時代のある経験があったので大工の道に進みました」
⎯⎯⎯ 建築とは全く関係のない大学出身と聞きましたが、どんな経験だったのですか?
高橋「環境社会学のゼミを専攻していました。川の流域問題に興味を持ち《川と人との関わり合い》を題材に卒論を書いたのですが、在学中に京都のNPOにインターンシップに行くことになりました。そこで桂川流域の水循環や森林の抱える課題を知りました。中でも衝撃を受けたのが《森の木は間伐するけど、切り倒しても何にも使われない》ということでした。どうにかしたいと思いましたが、このNPO自体がその年に京都で開かれた《世界水フォーラム》で発表するための団体だったので、フォーラム後には敢え無く解散してしまいました」
高橋「せっかく地元の人との繋がりができ、課題解決のために話し合える土台もできつつあったのに、そのまま終わってしまうのが嫌でした。そこで同じ関心を持っていた方と一緒に別の団体を立ち上げたんです」
⎯⎯⎯ 在学中にですよね。すごいですね。なんという団体ですか?
高橋「森守(もりもり)協力隊です。そこで間伐材で炭焼き(木炭づくり)をする活動を始めました。 小屋づくりをしたいという想いもありましたが、その頃は丸太をどのように扱えばよいのかさえ分かりませんでした」
⎯⎯⎯ 森守協力隊は今も活動されているんですか?
高橋「はい、続いています。今は森のようちえんという体験型の保育活動なども行っていて、その活動の一環として2020年に久々に声をかけてもらいツリーデッキを作りました」
森守協力隊の情報はWEBサイトでご確認いただけます。
特定非営利活動法人森守協力隊 WEBサイト
高橋「間伐材の話に戻りますね。間伐と言っても結構太い木なんです。『これなら家が建つやん』『じゃあ家を作ったらええか』『とりあえず、小屋みたいなものを建ててみたいけど、何から始めたらよいんだろう?』と自問自答しモヤモヤしていました。その頃に出会ったのが金田さん(金田克彦 つくり手リスト)でした」
⎯⎯⎯ 金田さんとの出会いについて詳しく教えてください
高橋「インターンの同僚の下宿先が、金田さんの建てた家でした。《落とし板工法》と言って、簡単に言ってしまえば、柱と柱の間に板を落としたら完成みたいな家で『そんなんありなんだ!?』と衝撃を受けました。東京郊外の家だらけの街に育って、木の家に触れること自体が少なかったので余計にですね」
高橋「早速、金田さんを紹介してもらったんですが、初めて見せてもらった現場が、山の中の小さなアトリエを建てているところでした。金田さんは山の中で一人で泊まり込みで刻んでいて、『これどうしようかな〜』とか言いながら、その場で決めて建てていっていたんです。『設計図があって、それに沿うんじゃなくて、自分で判断して作っていくんだ。自由でいいなぁ。面白そうだなぁ』と感じたんです」
高橋「それから二回三回と足を運ぶうちに、段々と大工という仕事をやりたいなと思うようになり、金田さんに弟子入りを申し入れました。ですが『手は欲しいけどズブの素人は無理やわ〜』と断られました。そりゃそうですよね(笑)。それで『職業訓練校に入って基本的なことが身に付いたら考えてやってもいい』ということになったんです」
高橋「そして一年間、訓練校に通った後、晴れて弟子入りさせてもらい、大工としてのスタートラインに立つことができました。それから六年間の修行を経て独立しました。もともと金田さんの自由な働き方・生き様に憧れて弟子入りしたので、独立することに金田さんも理解を示してくれて、最後の一年は見積もりなど経営に関わる業務にも携わらせてもらいました。そのおかげで独立後にスムーズに仕事が始められました。金田さんには本当に感謝しています」
⎯⎯⎯ 今年でちょうど10年ですが、振り返ってみていかがですか?
高橋「最初は施工事例もなく不安でしたが、お客さんに恵まれ、今ではほとんど宣伝や営業をすることなく仕事に取り組めています。依頼の割合は新築よりも古民家改修やリフォームが多いんですが、中でも最近はセルフビルドの応援が増えてきています」
⎯⎯⎯ 高橋さんの家づくりに対するモットーやポリシーなどを教えてください
高橋「民家に学んだシンプルな家づくりをしていきたいと思っています。自然素材を使って、長持ちする快適で安全な住まいを作るいうことが、基本にあります」
高橋「一歩踏み込んでお話しすると、僕自身、大学を出てすぐに福知山へ引っ越してきて、職業訓練校に通いながら、夜はバイトをしていました。子供ができたときもまだ若かったので、お金があるわけではありませんでした。そんな時にこの家があってすごく助かりました。『家があるって安心やなぁ』と身をもって感じたんです」
高橋「ですので、駆け出しの若い人たちなど、住宅にあまりお金をかけられない人でも、健康的な住まいに暮らせることが大切だなと考えています。当然、家ってお金がかかることですが、必ずしも新築である必要はなくて、古民家を活かしてリフォームやリノベーションをすれば、一生かけてローンを返していくような暮らしをしなくてもいいわけです。自分の経験が根っこにあるので、僕の仕事を求めてくれる人には、『どうにかしますよ』と、きっちり応えてあげたいんですよね」
⎯⎯⎯ 具体的にはどんな方法があるんですか?
高橋「例えば下地の仕様のレパートリーを複数用意しています。《竹木舞》《竹ずり》《木ずり》《プレカット木ずり》等、条件に応じて選べるようにしています」
高橋さんにとってターニングポイントとなった二軒のお宅を案内してもらった。高橋さん・お施主さん・設計士の田中紀子さん(設計事務所 ルースト)の対談と共に高橋さんの家づくりをご紹介する。
兵庫県丹波市 | 2015年竣工 | 設計:田中紀子(設計事務所 ROOST) | 施工:大髙建築
《奥丹波ブルーベリー農場》を経営されている古谷洋瓶さん・暁子さん夫妻と二人のお子さんの4人家族。遠くからでもわかる赤い屋根が目印だ。今年新たにウッドデッキが出来上がった。
⎯⎯⎯ 高橋さんに頼まれたきっかけは?
洋瓶さん(以下 洋瓶)「私たちが丹波に移住してきたタイミングが、高橋さんと同じ時期だったので、一緒にご飯食べたり、子供の年も同じなので、いつも仲良くさせてもらっていました。数年後に家を建てようと考えた時に『高橋くん以外考えられへんやろ』と思い依頼しました」
暁子さん(以下 暁子)「農業を始めたくて脱サラしてIターンでこっちにきました。自然と近いところで四季を感じながら暮らしたかったので、住む家は木で建てたいと最初から考えていました。以前、気密性の高いマンションに住んでいた時期があるんですが空気が篭っている感じがして息苦しかったんです」
洋瓶「高橋くんに伝統構法について教えてもらって惚れ込んでしまいました」
高橋「これまで多く古民家改修に携わってきたので、石場建てを選択したのは自然な流れでしたが、申請などは苦労して経験豊富な木の家ネット会員の皆様にアドバイスいただきました」
暁子「この地域にあった集会所が丁度取り壊されることになって、欲しいものをもらえるという話だったので、建具と玄関を譲ってもらいました」
高橋「ほんといいタイミングだったよね」
⎯⎯⎯ こだわったポイントなどはありますか?
暁子「あまりエアコンを使いたくないので、窓だらけにしてもらいました。空気をたくさん取り込んで、広い空も眺められて最高です」
暁子「田中さんはブルーベリー農園の手伝いで来てくれていました。我が家の家事や仕事の動線、使い勝手、性格まで理解してくれていたので、それが設計に反映されていて使い易いです」
田中さん(以下 田中) 「汗かいて帰ってきたらすぐお風呂に入りたいとかね」
洋瓶「そんなに広い家じゃなくていいかなという考えでした。子供たちも何年か経ったら独立していくので、ゆくゆく夫婦二人の生活に戻った時のことを考慮して設計してもらました」
暁子「実は勝手口にも秘密があります。私が歳を取った時に手すりをつけられるように壁の裏側に下地を忍ばせてくれているんです」
⎯⎯⎯ 実際に家づくりを経験していかがでしたか?
暁子「すぐ近くに住んでいたので、毎日出来上がっていく過程が見れてとても面白かったです。いろんな職人さんが出入りされていたので、沢山の人の想いや守ってきた技術などを垣間見ることができました。そのことが家に対する愛着をより高めてくれました」
高橋「竹小舞も一緒に編んでもらいました」
田中「竹林ばっかり探している時期がありましたね。竹をもらいに行ったら『好きなだけどうぞ。でも家に竹なんか使ったっけ?』という反応だったり。最近では土壁の家も少ないですからね」
暁子「子供たちも土壁を塗る過程を経験しているので、友人に『もたれかかったらあかんで』と注意していたりして、この家に愛着を持ってくれているなと感じます」
⎯⎯⎯ 出来たばかりのウッドデッキについて教えてください
洋瓶「長女が受験生になったので、彼女のためにそれまで洗濯物を干したりしていた部屋を譲り、代わりにウッドデッキをつくることしました」
高橋「最初はここまでの広さじゃなかったんだけど、『もっともっと』と広がっていきました(笑)」
洋瓶「建ってみたらいいサイズですね。一番のお気に入りの場所です」
暁子「家が変化していくのって面白いですね」
⎯⎯⎯ 家の方は建ててから7年経ちましたが、住み心地はどうですか?
暁子 「最高ですね。冬は土壁が蓄熱してくれるので、薪ストーブひとつで部屋中を裸足で過ごせるくらいあったかくなるし、夏は土壁が断熱してくれるのと、風通しがいいので『エアコンついてるの?』と聞かれるくらい涼しいです。それから不思議なんですが、カビが生えにくいんです」
高橋「大髙建築を始めてすぐの頃に建てて、今でもずっと快適だと言ってくれるので、それが自信に繋がっています。実はここの断熱の仕様だと、現在では国の定める基準値をクリアできていないんです。でもこの事例があったからこそ、他のお客さんに積極的に土壁の家をオススメできるようなりました」
奥丹波ブルーベリー農園の情報はFacebookでご確認いただけます。
Facebook 奥丹波ブルーベリー農園
京都府福知山市 | 2018年竣工 | 設計:田中紀子(設計事務所 ROOST) | 施工:大髙建築
福知山市の新町商店街にあった履物屋《ヒカミヤ》を改修した中嶋善彦さん・美香子さんと息子さんの三人住まい。手前がグラフィックデザイナーだった美香子さんの店舗兼事務所で店名はそのまま《ヒカミヤ》を継承。奥と二階が住居だ。美香子さんは今年、グラフィックデザイナーをリタイヤし染め物作家に転身。高橋さんはそのための作業場を新たに手がけた。
⎯⎯⎯ 高橋さんに依頼された経緯は?
美香子さん (以下 美香子)「元々田中さんに設計をお願いしていて、紹介してもらいました。物件の購入前に一緒に構造を見てもらったりと初期段階からタッグを組んで進めてもらえたので、安心でした。設計の田中さんが女性なので生活動線もわかってくれるし、色々相談しやすかったですね。もちろん同じ女性でも好みが違うと落とし所が難しいけど、田中さんと私はお互いに《古いものは好きだけど、懐古主義にはしたくない》というかなり近い感覚だったので、うまくいったのかなと感じています」
美香子「感覚のことだけでいうと、高橋さんと直接のやり取りだとピッタリうまくいったかどうかは分からないんです。でも、私たちの『なぜこうしたいか』と、高橋さんの『なぜこうしたほうがいいか』を、田中さんが間に入って説明してくれたので、とても良好な関係で進められたと思います」
善彦さん(以下 善彦)「今まで大工さんや職人さんに対して『素人が口出ししない方がいいのかな』という緊張感を感じていたのですが、高橋さん田中さんペアに関しては『こんなことできるかどうかわからないけど言ってみようかな』というフランクな雰囲気でした」
⎯⎯⎯ 高橋さんはどんな印象の方でしたか??
善彦「大工さんぽくないなと思いました。年齢は近いんですが落ち着いていて。こっちが舞い上がってテンションが上がってしまってもクールに接してくれて、冷静になれるようなことがありました」
美香子「例えば『ここの床、ボコボコしてますけど大丈夫ですか!?』と聞くと『あ、これはこういうもんです。一年後には元に戻りますから大丈夫ですよ』となだめてくれたり。動じないというのはこんなにも人に安心感を与えるんだなと感心しました。家づくりにおいて大きな安心材料でしたね」
⎯⎯⎯ 最近完成した作業場について教えてください
美香子「ここは完全に私の作業場なので、私の身長や染め物の大きさに合わせて、作業しやすいように作ってもらいました。例えばこの柱。一人で仕事するので、ここに紐を片手で縛って片手で解かないといけないので、丸じゃないといけないんです」
⎯⎯⎯ 高橋さんに質問です。中嶋邸を手がけてみていかがでしたか?
高橋「これまでは、ほとんどお客さんと直接やり取りしてきたので、設計士さん(田中さん)からの依頼で引き受けた初めての仕事でした。尚且つ、お施主さんもデザイナーの方なので、それぞれのこだわりやポリシーがあり、僕自身が柔軟になれた現場ですね」
高橋「一人でやっていると自分が木でできることは木でやるんですが、キッチンは家具屋さんに頼むであるとか、階段はアイアンで作るであるとか、今までやってこなかったを求められました。家を長持ちさせるために、素材の面では譲れないところもあったのですが、出来上がってみて考え方が変わりました」
高橋「素材自体が長持ちするか否かも大事ですが、それ以上にお客さんが愛着を持って気に入ってくれる家をつくることが、結果的にその家の寿命を長くすることにつながるんだなと感じました。視野が狭かったなぁといい経験になりました」
ヒカミヤの工事の様子やお店の情報はインスタグラムでご確認いただけます。
Instagram @hikamiya2022
⎯⎯⎯ これからの野望や展望があれば教えてください
高橋「事務所を兼ねたモデルハウスにしようと思い、古民家を買いました。ここは薪ストーブを置けない家なので、どうやって温熱環境を整えていくのかの実験の場でもあります。昨今の住宅は性能や数値が重視されがちですが、数値では劣る古民家が、むしろ快適に過ごせるということを体験してもらえるようにしたいんです。ただ《快適》の尺度は人それぞれなので、実際の家づくりを始める前に泊まってもらうことで、認識のズレを招かないようにするという目的があります」
⎯⎯⎯ 最後に、高橋さんにとっての家づくりとは?
高橋「単に家をつくるということではなく、安心できる生活の器をつくるということですかね」
誰に対しても気さくで、いい意味で大工らしからぬ笑顔が持ち味の高橋さん。その滲み出る安心感が、家づくり・住まいづくりにも活かされ、彼の元には自然と人が集まってくるのだろうと思う。
大髙建築 高橋憲人さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
みなさんは《発酵住宅》という言葉を聞いてどんな住宅をイメージするだろうか。
「体に良い家?」「じっくり建てる?」など、いろいろな想像が膨らむが、ほとんどの人は聞き覚えがないだろう。それもそのはず(というと失礼だが…)。《発酵住宅》とは、今回ご紹介する 山形市新山の工務店 古民家ライフ株式会社 代表 髙木孝治(たかぎこうじ・47歳)さんが考え出した「住宅の概念」であり登録商標なのだ。
《発酵住宅®️》の特徴は、①想いも発酵させる住宅 ②完全手刻み工法 ③合板を使わない住宅 の3つ。
特に「想いも発酵させる住宅」という部分に、髙木さんの思想が詰まっている。古民家ライフでは、お施主さんに必ず「森林伐採ツアー」と銘打った大黒柱を刈りに行くイベントに参加してもらっている。そこで味わった空気感、香り、温度、木の倒れる音など、五感で感じ取った情報全てが一本の大黒柱に集約され、子供や孫の世代にまで「この木はなぁ…」と語り継がれ、想いが発酵され家と共に後世へと繋がっていく。
《発酵住宅®️》の他にも、暮らしの道具店《発酵素材®️》や、糀カフェ《晴間》など、活動の幅を拡げる髙木さん。さらなる展開も控えていると聞き、その活動の経緯や原動力、そしてこれからのことなど、お話を伺ってきた。
髙木さんは1975年 福島県伊達市生まれ。工務店の二代目として会社を継ぐべく大学進学を目指し予備校に通っていたが、在学中にまさかの父の死と工務店の倒産を経験。進学は諦めざるを得ない状況に。
建築への道が閉ざされてしまったと思っていたある日、本屋さんで何気なく手に取った建築雑誌の《古民家再生》の記事に出会い「頭をガツンと横から殴られたような感覚を覚えた」そうだ。その瞬間から、古民家をライフワークにしていこうと、髙木さんの心が決まった。
⎯⎯⎯ 古民家と出会った後の、現在に至るまでの経緯やターニングポイントを教えてください
髙木さん(以下 髙木)「建築家になりたかったので、まずは設計事務所に入りました。しかし図面を描いているだけでは、古民家のことが全然わからなくて『やっぱり現場を知っていないとだめだ』と思っていました。ある日、《神楽坂建築塾※1》の募集要項を目にして、まずここに行ってみようと決めました」
髙木「2000年に入塾し1年間学びました。当時自分の周りには古民家の仕事をしている人は全くいなかったので、全国から結構な人数が集まっていたので『こんなに仲間がいるんだ』と驚きと心強さを覚えました」
髙木「そして、神楽坂建築塾での経験や出会いが、今の自分の生き方に繋がっています。最初の講義で鈴木先生から『そんなに古民家に興味があるなら福島の会津田島で合宿があるから参加してみないか』と誘われました。勤めていた設計事務所を辞めて参加したのですが、とてもいい経験になりました。また後に、同塾で出会った仲間を中心に『地元の山や木を生かしたい』『合板は使わない』『職人不足の問題を解決したい』などの想いを持った工務店の集まり《森びとの会※2》を結成し活動を続けています。古民家ライフの活動の原点はここにあるんです」
※1:神楽坂建築塾
1999年に始まった、建築家 鈴木喜一先生が塾長を務める講座。新築と保存・再生を同じ地平で捉え、住むことの原点を見つめ直すための、坐学とフィールドワークで構成されている。
http://ayumi-g.sub.jp/kenchikujuku/kjtop.html
※2:森びとの会
「合板を使わない、本物の自然素材の家づくり」をテーマに掲げ、住まい手を幸せにし、地域社会や生活文化を豊かにするために20XX年に結成。髙木さんのほかに、木の家ネット会員の西條正幸さん(ビオプラス西條デザイン)、大場江美さん(サスティナライフ森の家)、直井徹男さん(エコロジーライフ花)、亀津雅さん(亀津建築)などが参加している。
https://moribitonokai.net/
髙木「その後、様々なご縁に恵まれ、設計事務所や工務店などを経て、山形の建築会社で4年ほど勤めました。他にも伝統構法の修行をしたり、経験を積むために畑違いの業界で飛び込みの営業マンなんかもやりました」
⎯⎯⎯ その後独立されて《古民家ライフ》が始まるわけですが、当初はWebサイトの名前だったんですね。
髙木「そうなんです。2006年に独立して、古民家情報マッチングサイト《古民家ライフ》をオープンしました。古民家の仕事なんて待っていても来ないので、それなら古民家の仕事自体をつくってしまえばいいと考えてこのサイトを始めました。山形から神奈川への移築の仕事など実際に数々の成果も生まれました」
⎯⎯⎯ 古民家ライフという社名ですが、新築も建てられていますよね。新築と古民家の改修・リノベーションなどではどちらが多いのでしょうか?
髙木「『古民家ライフ』だと古民家しかやらないと思われる場合もありましたが、『発酵住宅』という名称・概念を掲げ発信しているので、現在はだいたい半々くらいです。また、去年設計事務所も立ち上げました。一級建築士の社員も入ってきたので、可能な限り自社内で手掛けていきたいです」
⎯⎯⎯ 新築と古民家では、単純にどちらが面白いですか?
髙木「難しい質問ですね。お客様に喜んでもらえると、どちらもやり甲斐を感じますし、両方面白いです」
⎯⎯⎯ 家づくりにおいて心掛けているところは?
髙木「基本的に地元の木や素材を使い、大工が手刻みでつくることです。それから合板は使わないこと。解体現場で合板のところから傷んでいるのを目にしてきたのでそこは必ず守っています。その上で、なるべく自然に還る家、菌との共生を目指しています」
⎯⎯⎯ 木はこの辺りだと、どこの木を使うのですか?
髙木「基本的には宮城県(栗駒周辺)と山形県の木(西山杉)を使います。ちなみに敷地内に生えていた木も切って使いました。コロナの影響で『木がない、木がない』って言われていますけど、その辺に放置されているのがいくらでもあるじゃないですか。それをなんとか使ってやりたいです」
近年手がけた仕事を見たいと頼んだところ、一冊一冊丁寧に作られたアルバムを見せていただいた。その中からいくつかの事例を髙木さんのコメントと共にご紹介します。
米沢・発酵住宅 〜左官職人の家〜 | 2018年
髙木さんコメント
発酵住宅の名前を冠しての仕事はこのお宅が第1号になるかもしれません。建て主はうちでいつも左官工事を担当してくださっている左官屋さん。『住むのならやっぱりこういう家ですよね』4代続く左官屋さんなので、おじいさんやお父さんの代から続く工務店との繋がりもありましたが、それを一軒一軒断りのあいさつ回りをしてくださって、弊社での工事となりました。もちろん左官工事は家族総出で全てされました。施工する業者さんから家づくりのパートナーとして選んで頂けるというのは、本当にうれしいことです。
小姓町の家 | 2016年
髙木さんコメント
ブルックリンスタイルの家が欲しいというのが一番の始まりで、ブルックリンの場所を調べる所から始まった家づくりでした。しかし、お話を進めていくうちに古材と自然素材と畳と左官壁の家になり、今となっては笑い話です。 敷地は山形市内でも交通量の多い道路に面しています。L字型の敷地にどう建てるかというのがこの住宅のポイントでした。あの敷地にこんなに大きな家が建ったんだというのが周りに住む方感想のようです。趣味を最大限に楽しめる住宅が出来たと思います。
小白川にある家 | 2019年
髙木さんコメント
いつも設計でお世話になっている大類真光建築設計事務所・所長の大類さんの家です。『高木さん、うちお願いします。』沢山の施工業者さんとのお付き合いのある中で古民家ライフを選んで頂きました。
《比較的敷地面積の広い山形でも40坪の敷地内に自然素材住宅は建てられるのか?》《塗装剤を塗布したところとしないところでは違いがでるのか?》《外断熱の効果》等、この家はある意味実験住宅と捉えて設計されました。
パネルヒーターだけでの暖房もほとんど温度差が無くうまくいっているそうです。
建築に携わるものとして、自宅を建てるという行為はお客様にとって、一番説得力のある行為だと実感しています。
高瀬の家 | 2015年
髙木さんコメント
古民家リノベーションとしての事例です。玄関土間に後付けされた和室が生活空間の中心でしたが、使われていない広間の和室に北側の台所を移設し、リビングダイニングキッチンとしての機能を持たせました。また、一階だけが老夫婦の寝室として使われていた蔵を改装して、若夫婦の寝室兼プライベートリビングとして生まれ変わりました。前日まで古い台所を使いつつ、一気に給排水を変え新しい台所を使って頂き、古い方を解体するといったような、住みながらのリノベーション工事が出来るのも山形だからこそできる工事だとも思いました。見学のお客様をお連れすると、今ではおばあちゃんが住み心地と使い心地をお客様にご案内してくださいます。
堀さんの家 | 2018年
髙木さんコメント
生まれて初めての完成見学会が古民家ライフだったそうです。そのまま家づくりをすることになりました。家族構成と建坪の兼ね合いから、シンプルな2階造りとし、古民家ライフのモデルハウスとしての要素を兼ね備えた住宅を目指しました。さながら、木の宇宙船のような空間が出来ました。
ほとんどの住宅において建て主が家づくりに関わって頂くようにしています。この住宅も大黒柱の伐採から始まり、外壁板の塗装は全て建て主が行いました。寒い時でしたので、塗装した瞬間から凍っていくというのを一緒に体験し、今でもその思い出が残っています。
錦屋川西本店 | 茅葺
築200年の老舗和菓子店。献上小倉羊羹が銘品。独立してすぐの30歳のころに、茅葺屋根の雨漏りを修繕したことをきっかけに毎年依頼されるようになった。取材時にちょうど足場を組んでいた。
古民家ライフには作業場の他に、暮らしの道具店《発酵素材®️》や、糀カフェ《晴間》が併設されている。今後、さらに活動の幅を拡げていくという。その原動力はどこにあるのだろうか。
⎯⎯⎯ 古道具店やカフェも経営されていますが、そこにはどんな意味があるのでしょうか?
髙木「私の考える家づくりとは、単に家のことだけではなく《暮らしの中の家》や《循環の中の家》の在り方を考えることなんです。畑もやるし、茅葺もやるし、古道具もやるし、エネルギーのことも考えた。できる限り循環させたいんです」
髙木「循環というキーワードは昔からずっと頭の中にあったんです。親父が亡くなって半ば強制的に今の道に進まざるを得なくなったわけですが、環境保護の仕事に就きたいなと思っていた時期もあるくらいです。そして、建築とリサイクルや環境保護との接点を見出せそうだったのが、古民家だったんです。しかもメチャクチャかっこいい!」
⎯⎯⎯ ということは古道具は解体現場などから集めて来られたんですか?
髙木「その通りです。このお店を始める前は、70坪の倉庫に古材と共に、もったいないからという理由で古道具も集めていました。そこも手狭になってきたので、倉庫を建てるくらいなら、みんなに見てもらえた方がいいなと思い、昨年スタートしました」
髙木「ここで扱っている商品は普通の解体現場の蔵に眠っていたものたちです。見つけ出さなければ、捨てられて終わる運命でした。見つけ出してあげて日の光を当てることで『いいよね』って、いろんな人に感じてもらえるようになります」
⎯⎯⎯ お店を拝見しましたが、何時間でも観ていられそうです。髙木さんの目利きが素晴らしいんですね。
髙木「古民家と民藝には通ずるものがあると感じています。《用の美》とか《日常の中の美しさ》というものに共感を覚えます。実は初めて民藝館に行った時、展示されているものの意味や良さがわからなかったのですが、10年経ってもう一度訪れた時『なるほどなぁ』と分かることや共感することがたくさんありました。これが分かるならお店をやっても大丈夫だなという直感があって、古道具屋をはじめることにしました」
髙木「古道具屋ではありますが、古民家ライフの家づくりの考え方を発信するアンテナショップとして機能したらいいなと考えています。実際、買い物に来てくださったお客様から、家づくりの相談を受けるケースも生まれています。想い描いてきた《住まいづくりのカタチ》に近づいて来たなと実感しています」
⎯⎯⎯ 糀カフェについても教えてください。
髙木「衣・食・住をトータルで考えていくなら《食》の部分での提案もしたかったんです。日本の発酵食品を提供したいと考え、甘酒を中心としたカフェとして、工房の移転に合わせて2016年にオープンしました。現在は家庭の事情で休止中ですが、機会をみて再開したいです」
⎯⎯⎯ 想い描いてきた《住まいづくりのカタチ》とは?
髙木「どこかに里山とかダッシュ村みたいな場所をつくりたいとずっと考えていたんです。家だけじゃなくて、衣食住全部大事なんです。だから、どれか一つだけじゃだけでなくて全てに踏み込んでいきたいんです。そこにエネルギーの循環など、環境に対する取り組みも盛り込んでいきたいというビジョンがあります」
髙木「現在の古民家ライフは500坪の土地を買って事業を始めたんですが、最近、両隣の土地を売ってもらえたので一気に1,500坪にもなりました。渓流が流れているし『あれ?もうここで村にできるんじゃない?』と思って、コロナ関連の補助金の申請用紙に思いの丈を全部綴りました。エネルギーや資源の循環を体験してもらえる宿泊施設を作って、そこらへんの木を伐採して製材したり、薪を割ったり、井戸を掘ったり、堆肥を作ってバイオマストイレを導入したりと… そうしたら通ってしまいました」
⎯⎯⎯ コロナに後押しされたわけですね。
髙木「コロナでもなければ、ここまでいきなりはやっていないと思うのでいい機会でした。ウッドマイザー(簡易製材機)をはじめ、耕運機・ショベルカーなど、大工とはかけ離れた機械をたくさん導入しました」
⎯⎯⎯ 相当忙しそうですが。
髙木「そうなんです。かなり忙しいんです。補助金なので結果を提示しないとならないですし。ですが、考えたことがカタチになって、そこに反応してくれる人がいたり、喜んでくれる人がいたり、共感してくれる人がいたりすると、疲れが吹き飛んでしまうくらいメチャクチャ嬉しいんです!」
髙木「里山での循環の中での暮らしというのは、全部昔の人は当たり前にやっていたんだろうなと思うんですよね。それを少しアレンジすることで楽しく体験できる場所にして『こういう考え方もあるんだ』と多くの人に感じてもらえたら嬉しいです。1,500坪の土地を最大限に活かして、古民家ライフの考え方や思想を浸透させていきたいです」
⎯⎯⎯ まさに有言実行ですね
髙木「実践する思想家になりたいです。考えるだけでは物事は進まないし、手を動かしているだけでは変化は起きにくい。きちんと考えた上でそれを具現化していかないと。大袈裟な言い方ですが生活革命を起こしたいんです」
理想の暮らしとは何か、住みやすさとは何か、衣・食・住で何を大切にするべきか、答えは十人十色だろうが、その問いに実直に向き合い、じっくりと考えて(発酵するかの如く)答えを導き出そうとしてしている人はそうそういないのではないだろうか。さらに実践・提案するともなればなおさらだ。髙木さんはまさにその稀な人物だ。
取材後、「話には出さなかったんだけど月2回くらい勉強会も開催してるんだよね。普通に考えたらアホだよね」とさらっと口にする髙木さん。彼のバイタリティとパッションは本当に計り知れない。
古民家ライフ 髙木孝治さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
三重県志摩市、海と太陽がまぶしいこの地域で、120年あまり大工を営んできた東原建築工房。四代目の達也さんと五代目の大地さんは、受け継がれてきた手刻み・石場建てなどの伝統構法を活かし、現代のエッセンスを加えている。修行中の大地さんが初めて棟梁を努めた「いかだ丸太の家」が各種の建築賞を受賞。風土に根ざし、施主や地域住民と共に進める家づくりは、志摩の自然に寄り添う豊かな暮らしを実現している。
達也さんによると、地元の志摩市阿児町立神には「立神大工(たてがみだいく)」という言葉があり、古くから職人の里であったと伝えられている。江戸時代から多くの職人が活躍し神戸や大阪にも進出、大和の国長谷寺にも携わったといわれている。
「木も竹も土も身近にある、あるもので家をつくるという考え方は当たり前にある」と達也さん。同時に、この地は台風など自然災害も多く、自然を敬う姿勢も身についてきた。
現在は親子で、木の家を中心に設計・施工を行っている。
木組み土壁の住宅を、手刻みの石場建てで建てる。さらに増改築や修繕などを丁寧にこなす日々だ。
自宅脇に構えた作業場は、先代の實さん(三代目)の代から増築を重ねてきた。それでも手狭で、小屋組み材などは作業場横の屋外で加工することもあるというダイナミックさ。太陽と雨風を得て天然乾燥材となって行くそうだ。裏山にある竹林は、土壁の竹小舞にも使われている。
先代の實さんは、地元で大工修行の後、大阪に出て夜間は専門学校で学び、建築士免許を取得したという努力家。帰ってきてすぐに伊勢湾台風(1959年)があり、「災害復旧にも尽力し、丁寧にやってくれたと、今でも地元の方に言ってもらえています」(達也さん)。
その背中を見てきた達也さんも大地さんも、志摩市で育ち、大学時代を関東で過ごした後、Uターンして大工となった。父親は家族であり、親方でもあるという環境。ふたりとも口を揃えて「小さいころから大工になると自然に感じていた」という。
都市への人口流出が進み、市外に働きに行く大工職人も多くなった昨今、地域で、手刻みの大工仕事をしている東原親子は、稀有な存在だ。大地さんに至っては「携わった新築はすべて手刻みの石場建て、施主さんに恵まれています」と話す。
親子での役割分担は特になく、設計も施工も、打ち合わせも2人で相談しながら進めていく。達也さんだけが指導するのではなく、刻みや建前など仕事に合わせて先輩職人を招いてその仕事を学び、木の家ネットの仲間の現場に参加するなど、大地さんはさまざまなやり方を吸収している。
二人とも穏やかな性格だからか、「ぶつかることはほとんどない」という関係性だ。
達也さんは「今まで取り組んだことのない仕事でも、見たり触れたり調べたりして『こんな感じやな』と、工夫して自分の手でかたちにできるのが、職人の醍醐味」と笑う。
大地さんは「施主さん家族も職人さんも、ご近所の方も、みんなで家づくりができるってのが楽しいですし、そういうやり方を続けていきたいです」と話す。
在学時には技能五輪への出場や、木の家ネットメンバーの綾部工務店でインターンシップの経験を積み、木造の伝統構法を学んできた。木造BIMや限界耐力計算についても学びを深めている。「もちろん大工の腕も磨きながら、親父ができない分野も頑張りたいという気持ちもあります。それに、どんな勉強も普段の大工仕事に必ずつながってきますから」という。
大地さんは小学校3年生の誕生日に大工道具をねだり、工業高校3年生の時、地元の薬師堂再建で初めて、実際の墨付けをしたという。薬師堂は、夏に毎年盆踊りが開かれる場所で、平成22年に火事により燃えてしまったお堂を、3坪程に小さく再建することになったものだ。
この小さな薬師堂が、今取り組んでいる「みんなで家づくり」の大きなきっかけとなった。地元の人たちと一緒に、石場建ての地盤を固めるヨイトマケを行い、土壁の竹小舞や荒壁土は地山のものを使っている。大学進学を機に一度志摩を離れた大地さんも、夏休みなどを活かし地元の小学生たちと一緒に汗を流した。木の家ネットの仲間の池山さんや高橋さんに学んだワークショップが活かされている。
みんなの場所を、みんなでつくる。
志摩の自然を拝借し、生かしていく。
そんな家づくりの心地よさが受け入れられたのか、当時の小学生の親御さんや地域の住民、観光協会の職員などが、その後、施主さんとなり、新築の石場建てを依頼するようになった。
これまで手掛けた石場建ての家は、3坪から18坪とコンパクトなものが多い。達也さんは「施主さんは、予算はもちろんありますがそれよりも『薬師堂みたいな家がいい』『自分や家族でつくりたい』などの要望を優先することが多いかもしれませんね。大工にとってもやりがいのある仕事なんで、本当にありがたい」と話す。
達也さんは、大学時代に都会の先進的な建物にも触れる中、卒論では「志摩地域の風土と建築」をテーマに取り組んだ。「新しいものだけが本当に良いものなのか、地域で育まれた住まいや暮らしに関心があった」と振り返る。
そんな思いを抱えて大工をする中で、一人の施主さんとの出会いがあった。竹内さんの新築物件「いかだ丸太の家」(2020年竣工)を、国土交通省のサステナブル建築物等先導事業(気候風土適応型)として申請。達也さんは「これまで自分の感じていたものを、一つの形にすることが出来た」と言う。
「省エネ法改正が進む中、法の「気候風土適応住宅」の制度は、地域の木の家づくりに大きな意味をもっている。それは国が定めた基準を満たせない物件への救済措置だけではなく、地域が育ててきた自然と共生する住み方暮らし方といった建築文化に通じています」と話す。
竹内さんの家は、6坪の三和土土間の団らんスペースを中心に、両脇にそれぞれ6坪の居間、4坪のダイニングなどを配した設計だ。設計は愛知県の六浦基晴(m5_architecte)さんが担当した。
東原さんは設計の六浦さんや施主の竹内さんと話すうち、「志摩らしい建物を建てたい」という思いを共有する。浮かんだのは、地元では当たり前の存在である「いかだ丸太」だった。いかだ丸太とは、志摩でさかんな真珠の養殖いかだに使われる材木のことで、県産のひのきの間伐材を丸太のままで使う。気候風土適応住宅への親和性も感じた。
この丸太を、「シザーストラス」として小屋組みに用いた。建築家アントニン・レーモンドが好んだ構造で、この建物の特徴の一つとなっている。レーモンド事務所で学んだ建築家・津端修一さんが自邸に採用した方式で、達也さんは「施主さんの恩師でもある津端さんの自然な暮らしを大切にする姿を重ね合わせ、レーモンドスタイルを提案しました」と振り返る。
断熱材には、志摩産のもみ殻を用いた。竹内さん夫妻が知り合いの農家から分けてもらったもみ殻を、ドラム缶で燻炭とし、袋詰めして床下に敷き詰めた。天井には、乾燥したもみ殻を充填し突き固めた。すべて手作業だったという。
建具は、雨戸、よしずを張った網戸、木製ガラス戸、障子の4層すべてに古建具を再利用した。夫妻が解体される家を回って100枚近く集めた中から厳選したという。それぞれの建具は状態が異なるので、大工は調整に苦労したという。
また、家の中心にある竹内さん夫妻が愛情をこめて叩きに叩いた土間は、夏は南北の掃き出し窓を開け放つことで心地よい風が吹き抜ける。三和土(たたき)には地元の海水を使い、志摩特産の真珠の貝殻も埋め込み、さらに志摩らしさをあらわした。片隅には薪ストーブを置き、冬の暖を確保する。普段の煮炊きも薪ストーブが活躍する。
アートに精通し自らも油絵などを描く竹内さんは「志摩クリエイターズオフィス」というアーティスト集団を主催、この空間がその仲間と語らう場となっている。
仲間らは建設時から、土壁塗りや三和土(たたき)などのワークショップに訪れ、一緒に汗を流した。その数はなんと50人以上にも上ったという。竹内さんは「この家はひとつの作品。来る人来る人に、こんな暮らしいいね、憧れだねとうらやましがられるの」と微笑む。
達也さんは、「こういうワークショップ形式の建て方や自然と共に丁寧に暮らす住まい方は、確かに手間ひまがかかりますが、人の心を豊かにしてくれます。物質的な豊かさとは、また違いますよね」と実感する。
この家は、第40回三重県建築賞に加え、ウッドデザイン賞2021、第53回中部建築賞の受賞など、多くの評価を得ることとなった。
竹内さんは、この「いかだ丸太の家」の前に、敷地内にある築80年の平屋の古民家の改修を東原さんに依頼していた。先代の實さんと達也さん、学生の大地さんと三代で取り組んだ。この建物は日本各地で要職を歴任した猪子氏の終の棲家で、昭和時代に何度かリフォームがされていたが、空き家となり廃墟となりかけていた。壊れたサッシを木製建具に戻したり、朽ちたシステムキッチンを外して土間を復活させたりと「建築当時の復元」を念頭に進めていった。
竹内さんは東原さんを、「住む人のことを思って、要望に必ず応えてくれるすごい大工さん。特に猪子邸の改修は、設計図もないのに美しく復元してくれて、その技量に驚きました。本当に、よう作ってくれました」と話す。
その言葉に達也さんは「いやいや、よう任せてくれました」と笑顔で応える。
2つの物件がある敷地は、なだらかな起伏の土地にツバキや栗など四季を感じられる木々が並ぶ自然林だ。緑が太陽の光をやわらげ、小鳥のさえずりが耳に心地よい。時折、海風も届き、豊かな自然を存分に味わえる。
大地さんは、「職人と施主さん、家族や仲間とみんなでつくる家づくりは、本当にやりがいがあります。つくるのは家ですが、人と人の間で動くことを大切に、大工をしていきたいです」と、まっすぐに未来を見つめていた。
取材・執筆・写真:丹羽智佳子(一部写真、岩咲滋雨、六浦基晴(m5_architecte)、朴の木写真室)
岐阜県の水野設計室が設計を手掛けた民家たちは、室内も床下も、スーッと風が吹き抜けていく。大地が呼吸する石場建ての心地よさ。これに魅せられた水野友洋さんは、職人さんのみならず、建主さん、そして素材をつくる生産者さんとともに、土壁や三和土や石積みや環境改善といった”令和の古民家づくり”を誰よりも楽しんでいる。
水野さんの家づくりは、言葉どおり建主さんが主役だ。
愛知県幸田町の築100年を超える古民家を改修した建主さん夫婦は、構造など専門的な工事は職人さんに任せる一方で、減築部分の解体から古竹や古土の回収、それを再利用した土壁塗りや三和土まで中心的に作業に参加した。
さらには、茅葺き屋根の茅刈りから葺き替えの作業にも参加し、その下に据えた囲炉裏は自ら作った。
囲炉裏は、茅葺き屋根はもちろん家本体から家周辺までを長持ちさせるための手段の一つだと考えているとは言う。特に雨の後に火を入れる事で、大地から茅葺き屋根まで全体の空気や水を動かすことができる。
建築当初は板間に囲炉裏は設置してあったが、改修を経て撤去されていたものの、今回の工事で新たに設置した。囲炉裏をつくる専門の職人さんが見つからなかったこともあるが、「石を積み土を塗る」という作業は、土壁塗りを経験した建主さんには「できるかも」と映り、挑戦したという。
生活が始まってからは、暖をとったり、肉や野菜を焼いたり、湯を温めたりと家族だんらんの中心になっている。
建主さんは「家づくりの楽しさをめいっぱい味わえて、水野さんには感謝です」と笑う。
といっても、最初から家作りに参加しようと決めていたわけではない。そこには、水野さんの仕掛けがあった。
水野さんは今までの建主さんたちと一緒に「土壁会」というグループを作り、活動をしている。一言でいうと、伝統工法の建築や土木が好きな方々が集まる趣味の会だ。
例えば、竹小舞や土壁や三和土や環境改善など誰かの家作りの作業を手伝い合う共同作業の時もあれば、職人さんを招いて見学会やワークショップを企画し勉強する時もあるし、引き渡しを済まして数年経過した建主さんのご自宅におじゃまして雑談する時もある。
建主さん達は興味がある時に参加する。水野さんから設計中のお客様や、伝統工法に興味をもち問い合わせた方を誘う時もある。
建主さん達にとっては、他の建主さんの暮らしの工夫など情報交換をする場となり、これから家作りが始まる方にとっては、先輩建主さんの話を聞いたり質問したりする場となる。やはり同じ興味を持った方々が集まると、繋がりも広がり、毎回盛り上がるという。
水野さんはこう考える木材が割れたり土壁に隙間ができたりと、自然素材を使うがゆえに既製品のようにいかないことばかりである。建主さんが実際に見て自分で手を動かして作業に参加することでその理由を理解し、納得して頂いてから設計に進みたい。
そうすることで、職人さんはクレームを恐れず自信をもって仕事に向き合って頂けるし、建主さんは維持管理の方法を理解し家を住み継ぐ事に自信を持って頂けるなど、いいことづくめだという。
幸田町の建主さんは「茅葺は雨漏りするからだめ、ビニールを貼ろうというのではなく、雨漏りするけどすぐ渇く様にしようって考えてる水野さんの考え方には驚きましたが、納得しました」と話す。
また、「古民家改修といっても、最初は何から手をつけたらいいのか全くわからなかったんです。共同作業に参加したり、そこで水野さんや他の建主さんの話を聞いて『こんなこともできるんだ、やってみたい』って具体的に動き出せました」と、つながりから産まれた縁に感謝する。
改修工事は構想から約5年の長期進行となった。2020年2月に住み始めたがが、自分で家の前に石垣を積んだりビオトープを作ったりと家づくりは続いている。会社の昼休みに一時帰宅して作業するほど、「家づくりが楽しくてたまらない」と言い切る。仲間とふき替えた茅葺き屋根の小屋裏ではなんと蚕まで飼い始めた。糸をつむぎ、布を織るという夢も広がる。
水野さんに依頼する建主さんのほとんどが、ウェブページからの問い合わせだ。水野さんが「伝統工法や自然素材にこだわる建主さんはいい意味でこだわりが強い。僕じゃ受け止めきれんなって思うこともあるほどで、『土壁会』の仲間たちがその火種に火を付けてくれて、いい循環になっていると思います」といえば、建主さんは「だって、水野さんが一番楽しんでいるもの。『こんなのもあるよ、あそこへみんなで行ってみよう』って、わくわくしてるじゃないですか。こっちものせられて、盛り上がっちゃいますよ」と笑う。
現場見学会の様子、土壁会の活動は丁寧に写真に残し、なるべくリアルタイムでウェブページで発信するようにしている。ブログでは、家づくりへの考え方や抱えている悩み、勉強中のことまで飾らずに語る。
伝統工法や自然素材を活かし、日本の気候風土で、永く生き続ける家をつくりたい。このような想いを胸に建築と向き合う水野さん。
父親が建築の設計事務所を運営していた水野さんが、高校生の頃に「沈黙の春」という本との出会いがきっかけで、興味が向かったものは環境保護だった。大学ではその解決策を探るために化学を専攻した。卒業後は世の中の仕組みをもっと勉強しようと金融業界で働いた。子育て中の20代後半に、自然との循環の中で成立していた伝統的な暮らしに興味が湧き、今暮らしている岐阜の実家に戻り、畑や田んぼ、山や民家に関わった。農薬を使わず自家採取で続けてきた天日干しの米作りは今年で12年目になる。
30代前半で父親と同じ建築の道にゼロから進んだ時も、「自然を壊さない建築をしよう」という考えは大前提としてあった。「なので、建築は独学で勉強したということになるのかな」と水野さん。時代はプレカットや合板や集成材などに切り替わっていたが、地元には手刻みや土壁など伝統工法の家づくりが残っていた。外部も内部も「真壁」で、構造を意匠として現す。そんな自然と循環する家づくりについて、職人さんたちから学んでいった。
同じエリアで活躍する各務工務店の各務さんとの仕事がきっかけで木の家ネットを紹介して頂き、当時事務局だった持留さんから、多くの事を学びいろんな方と繋げて頂いたおかげで今があると振り返る。
学生時代から環境保護について考えた時、自分自身で納得できる答えはずっと見つからなかったという。
「道も電気も市場も無いと回っていかないけれども、今はまだ壊す自然が残っているから回っているだけ。今後人間と自然が共存できる世界に一歩でも前進する為に、私に出来る事は何か無いだろうか」。そんなことを考えていたという。
建築の中で何が出来るか考えた時に、建築サイクルを遅らせて建築のゴミを少なくする事、つまり長持ちする家作り、永く住み継いでもらえる家作りをしようと考えた。
行きついた先が日本の民家であり、家が呼吸し維持管理しやすい真壁構造で作る為に「木組み・土壁・石場建て」の家作りをやってきた。ただ、ゴミが減ったとしても、後ろに下がるのが減っただけで、一歩も前進していない事は、ずっと納得できていなかった。
その解決の糸口になりうる可能性を感じたのが、2020年の夏に出会った「土中環境」という本だった。
この本をきっかけに、土木の講座やワークショップに参加するようになり、自然環境を改善する為には、土中の水と空気を循環させる事の大切さを学んだ。
その循環の起点の一つが、地面をコンクリートで塞いでいない石場建ての家であり、日本の民家は建っているだけで周辺の自然環境を改善する役目を果たしていたと考えるようになった。
「あと少しで初めて一歩前進できそうな気がする」と言う。
そんな理想を掲げて設計する上で肝となるのは、「配置図と立面図」と水野さん。
敷地の環境はもちろん、周辺の建物や緑の様子、高低差などから、どう風が流れて、どう水が動いているかを読み取る。その動きに合わせて、「家も人も呼吸できるような」窓や扉のの高さ、軒下の距離などを導き出していく。
「配置図と立面図が納得できるものになるまで、一番時間をかけます」という。何度も現場に足を運ぶ。建主さんの要望と食い違った場合でも、納得してもらえるまで説明を重ねていく。
豊田で2022年3月に新築石場建てに住み始めた30代の建主さんは、水野さんの設計提案について「納得のいくものだったので、ほぼ提案通りにやっていただきました。今思えば、共同作業をしたりブログを拝見したりして、『材料を無駄にしない』とか『自然と調和した家づくり』とか、水野さんの目指すところがわかっていたので、安心してお任できたのかもしれません」と振り返る。
この家も、住み始めたものの建主さんによる家づくりはまだまだ続いている。南面の石積みと雨落ちを、栗石と竹炭とわらや落ち葉を敷いて造作中だ。
建主さんは、「水野さんと一緒に、石積み学校にも行ったんですよ。マニアックでしょう、でもすごい楽しいんです」と笑う。
さらに、気候風土適応住宅も採択されたこの家は、室内外の温湿度など住環境を定期観測している。
気候風土適応住宅の評価項目に『地域の職人が地域の素材でつくり、地域の文化を継承する』という職人を大切にする心構えもあるのがいい」と話す。
水野さんは岐阜を中心にした東海地域で仕事をすることが多いが、一緒に仕事をする工務店さんや職人さんは毎年増えており、10組以上の工務店さんの中から、エリアやスケジュールと相談しながら工事を請け負って頂いているのだという。職人さんは20~30代の若手が多いそうだ。
時々、現場を見学したいという若い職人さんからの問い合わせもあり、「伝統工法の仕事をやりたい若い職人さんは、確実に増えている。ぼくの仕事の一つは、彼ら彼女らの舞台を準備すること」と水野さんは語気を強める。
その職人さんの一人で、水野さんに自宅の設計を依頼した大工の柴田さんに話を聞いた。
柴田さんの自宅は名古屋市で、道路との高低差がある敷地にあり、通り道からの目線がちょうど石場建の足場になるというインパクトの強い家だ。
柴田さんは奈良県で修業し、地元の名古屋に戻って独立した。大工の手刻み技術を活かし、木組み、石場建といった伝統工法をやりたいと思いつつなかなか叶わずにいたという。「大工をやるなら、伝統工法がかっこいいじゃないですか。妥協せずにこの仕事をやるんだっていう気持ちも込めて、28歳の時に自宅の新築の設計を水野さんにお願いしました」と話す。
インターネットで水野さんの存在を知り、共同作業や見学会を通してつながりを作っていった。
理想の家づくりができる土地探しから始まり、最初に柴田さんが選んだ場所は川沿いで石場建てには不向きだったという。どうしても石場建てで建てる為に他の土地を探した結果、現在の場所にたどり着いたというこだわりぶりだ。
柴田さんは、水野さんとの仕事について「造作が始まるまではよく現場に来てくれるが、それ以降は任せてくれる。信頼してもらっているんだなと感じます」と話せば、水野さんは、「土木工事から刻み建前、そして土壁までの構造は大好きなので良く現場にいますね。造作はもう少し頑張らなきゃいけないです、大工さんに任せすぎて、たまに怒られます・・・。職人さんに気持ちよく仕事をしてもらえるよう、まだまだ勉強中です」と苦笑い。
自然を生かし職人さんや素材の生産者を敬い、みんなの手を借りながら進めていく家づくり。
そのようにしてできた家はきっと、将来古民家と呼ばれるような、住むほどに味わいが増す「令和に民家」になっていくだろう。水野さんを含め働く人も住まう人も満たされた表情が、とてもすがすがしい。