今回ご紹介するのは岐阜県飛騨市の”杣大工”、荒木昌平さん。山深い飛騨の集落に先祖代々受け継いできた 山林を活かすべく、自ら伐採・製材・家づくりまで一手に引き受け多岐にわたる活動をされています。精力的に活動する荒木さんに、その理由や想いを語っていただきました。
荒木昌平さん(あらき しょうへい・41歳)プロフィール
1983年(昭和58年)岐阜県飛騨市生まれ。大工工務店 樹杜屋あらべぇ代表。森林資源のフル活用を目指して、手入れのされなくなった先祖代々所有している16haの山林へ自ら入り、伐採・製材を行い建築資材・燃料を自給している。大工の他に、地域防災・里山保全・獣害対策など多岐にわたる山に携わる活動行っている。通称「あらべぇさん」。
自然の木の形に感動したのが始まり
⎯⎯⎯ 本日はよろしくお願いします。色々聞きたいことがあってうずうずしているのですが、まずはこの道に進んだきっかけを教えてください。
荒木さん(以下敬称略、愛称のあらべぇ)「大工の道を選んだ理由は、”ここ(飛騨市宮川町)に生まれた”ということが大きいです。この辺りは昔は飛騨の中でもかなり孤立した集落だったので独特な木造住宅が建ち並んでいました。その古民家は当時とても人気で移築するために何軒も解体されていて、高校生の時に解体現場にバイトで入ったのですが、現代の建築にはない、自然の形の木を使った作り方に感動したのを覚えています」
⎯⎯⎯ そこからの経歴も聞かせてください。
あらべぇ「高専に入学したんですけど、大工になりたくて1年で辞めて、通信制の高校に入り直しました。裏技みたいな生き方なんですが、高専は1年間で3年間の高校の普通教科を習うので、残りの高校生活はあまり勉強もせず試験にクリアできたので比較的楽でした。大工の修行をしながら、仕事もしながら高校も卒業したというかたちです。1999年(17歳)に地元の大工のもとに弟子入りし、2005年(23歳)に荒木建築を開業しました」
⎯⎯⎯ その頃、ご実家の建て替えをされたと資料にあるのですが、23歳の若さで!すごいです。そしてかっこいい!
あらべぇ「その頃から全国の職人の元を訪ね、手伝いをする中で研鑽を重ねて技術の向上に努めました。プロフィールにはそう書いていますが、割と遊びに近いような感じで各地で楽しく過ごしました(笑)」
⎯⎯⎯ 杣耕舎の山本さん(つくり手リスト)のところにも行かれいたと伺っています。
あらべぇ「そうなんです。2012年に刻みの手伝いで3ヶ月ほど伺っていました。和田洋子さん(つくり手リスト)が設計された福山の現場です」
あらべぇ「また、全国削ろう会(鉋削りをはじめ手道具や伝統技術の可能性を追求する会)でご一緒したご縁で、2011年に田中工匠(富山県・田中健太郎棟梁)に住み込みで1年間修行をしました。その時は雲龍山 勝興寺(国宝・富山県高岡市)の修復工事の現場で、はつりをする人が必要で呼ばれまして、ふつうの大工仕事ではなく、どちらかと言うと木挽き職人として働いていました」
はつり
手斧(ちょうな)を用いて木の表面を削り取る伝統的な加工方法。加工の際に刃物を木に打ちつけるような動作から「名栗(なぐり)」とも呼ばれている。
⎯⎯⎯ その1年間でどんなことを学ばれましたか?
あらべぇ「現代では通常の大工作業は、ある程度機械を用いるものですが、それを原木の丸太から角材に仕上げる作業を手道具でさせてもらえたんです。前挽大鋸(まえびおが)という大きいノコギリで木を挽いたりするのも、昔ながらの作業を再現するという文化財の現場ならではでした。自分のスキルを活かせる場面でもあったし特に面白かったです」
⎯⎯⎯ 古代製材と言われる製材方法ですね。
あらべぇ「そうです。それが大変なんです。文化財なので現場はめちゃくちゃ大きいんです。大工職人さんからら『幅8寸で6mの梁をくれ、6寸角で4mの角材をくれ』といった発注が来て、たくさん置いてある原木の中からちょうど適した木を探すところから始まります。鉞や前挽きなどの手道具で作業する訳なんですが、現場は機械で作業、こっちは手作業で必死にやって(笑)、もう朝から晩までクタクタでした」
⎯⎯⎯ 相当ご苦労されたんですね。
あらべぇ「僕は、職人の仕事は追いかけられるより、追いかける方が楽しいんですよね。現場で競い合っているうちに仕事が早く進んで、いい感じにまわっている状態というか。大量に注文が来ても単調な仕事なので、繰り返しやっていると要領を掴んで時間が縮まって精度も上がっていきます。この経験のおかげで丸太を削るのがめちゃくちゃ早いんですよ。
元々大工を目指していたんですけど、自分が大工だと思ってたのは、実は山仕事とか杣師・杣人と言われる職業だったんです。もちろん建築もすごい好きなんですが、それよりも山や木がすごい好きで、今やっているいろんな仕事に繋がっています」
生まれ育ったここが好き。獅子舞が好き。
⎯⎯⎯ そして2015年に大工工務店 “樹杜屋あらべぇ”を設立。
建築の仕事ができさえすれば、応援でも手伝いでもいいと思って活動してきて、大工として独立する気は全然なかったんです。でも応援に行った先の現場で、お客さんと会話したり提案したりしているうちに、頼りにされることが多くなってきました。それだったらいっそ元請けした方がいいなと考えて独立しました。
⎯⎯⎯ 独立されてからも杣師といいますか刻みの仕事が多いのですか?
あらべぇ「そうでもないですね。2015年〜2016年にかけては新築をやっていましたし、2016年〜2018年にかけても小さい工事を数件やっています。ただ、自分の中にこだわりがあって、”自分の好きな仕事しかしない”っていうポリシーがあるんで、仕事が連続して入っていることはないんです。
⎯⎯⎯ 不安にはなりませんか?
あらべぇ「仕事が切れる時は必ず切れますし、その時間が結構好きなんですよね。そうしている間にも山仕事はあるので、たとえば丸太を収穫したり体は動かしていますし、講演などのお話をする機会をいただいているので、大工らしい仕事はなくても何かしらの仕事はしています」
⎯⎯⎯ 側からみたら何やってる人だろう?みたいな人ですね。
あらべぇ「かなり遊んで暮らしているように見られているんじゃないですかね(笑)」
⎯⎯⎯ ホームページのプロフィールを拝見すると、様々な実演や講演をされてらっしゃいます。
あらべぇ「プロではない方に教えることは常に需要があって、職人も活きるし、社会的な業界の認知にも繋がります。まさに三方良しなんです」
⎯⎯⎯ 学校でも講演や授業をされてますね。詳しく聞かせてください。
あらべぇ「新潟県の新津工業高校という、日本の伝統的な木造建築専門の”日本建築科”がある工業高校に2018年にお邪魔しました。そこで先生をされている山崎棟梁から、『学生さんの間で、大工は宮大工だけが素晴らしいみたいな思い込みがある。住宅を建てる大工も目的に応じた技術を持っていて立派な仕事なんだ。そんなことを伝えてほしい』とお話しをいただき快諾しました。
【杣にはじまり木と土と 自然と共生する家づくり】と題して樹杜屋あらべぇの仕事をお伝えしました。鉞や釿・前挽きによる実演を終えると体験の時間、道具に触れてみたいと列ができるほどでした。木造建築の大工を目指している生徒たちなので、技術的なことに興味を持ってくれて、とても教え甲斐がありました。家づくりの大工でも手道具や技術を存分に使って楽しく仕事ができると知ってもらえたんじゃないかと思います」
⎯⎯⎯ 山崎棟梁には僕もお話を伺ったことがありますが、その時も同じような想いを感じました。中高生の多感な時期にいろんな選択肢があることを、リアルな社会人から学べることは大きいと思います。中学校でのお話も聞かせてください。
あらべぇ「2019年に飛騨の宮川小学校で『私が宮川で頑張ってきたこと』として授業を、2021年に飛騨の立神岡中学校で『僕が飛騨に住み続ける理由』として講演をしました。飛騨市の人口は2万人ほどで過疎化が進んでいて、経済を回していくにはなかなか難しい土地なんです。その状況に置かれた学生さんは例外なく『大きくなったら街へ出てお金を稼いで生きていくんだ』という考えで生活しているようなんです。
まずここに商売がない。だから生活ができないので街に出てお金を稼ぐ。真っ当な考え方ではあるんですが、そのことに気付いた先生が、声をかけてくださいました。『地元で自分で仕事を見つけて生きている人の話を生徒に聞かせてほしい。田舎って恥ずかしくないよ。この町に、この村に残るという選択肢を与えたい』んだと仰っいまして」
⎯⎯⎯ 先生の熱量が伝わってきますね。ご自身はなぜこの地を出なかったんですか?
あらべぇ「先生からも聞かれました。職務質問みたいに(笑)。考えたんですけど、『ここに生まれ育ったから』としか答えられなくて、自分でもそれ以上は分からないんです。とにかくこの村・地域がすごい好きというのは確かです。そしてたまたま自分が大工になりたいと思ったことと、地域に残る建築物が技術的にも価値のあるものだったこと、それらが偶然マッチしてここに留まる方法を見つけられた。そんなお話をしました」
あらべぇ「それから、ここが一番好きなのは、祭りで獅子舞があるからなんですよ!」
⎯⎯⎯ おぉ獅子舞ですか!意外な展開です。
あらべぇ「獅子舞は春の例祭にやるんですけど、その獅子舞に向けて1年間頑張って仕事してるような感じです。この辺りの集落が合併して、それまで同じ集落で5人ぐらいしか獅子舞ができる若者っていなかったんですが、20人くらいは集まれるようになったんです。そのメンバーでいくつもの集落の祭りを、『次はここ』『次はあそこ』みたいな感じで切り盛りしています。祭り以外でも会社やイベントの縁起物として呼ばれたりもしています。
それから、昭和40年代から途絶えていた獅子舞を復活させたり、笛とその旋律の復元もしました。当時のビデオを見て研究したり、当時やっていた人から所作を習ったりして。この地域が好き、祭りが好き。そんな人が結局残っている感じです」
⎯⎯⎯ 移住して来られた人は獅子舞に参加されるんですか?
あらべぇ「結構閉鎖的な村なのであまり移住の方はいないんですよね。他の地域ですが、幕末に引っ越して来た人でも新参者扱いされるとかされないとか(笑)でも一人参加されている方はいます。市としては移住者にものすごくウェルカムなのでこれから増えていくかもしれないですね」
自然の木の形を活かした家づくりを、もう一度はじめから。
⎯⎯⎯ 近くにあらべぇさんが建てられたり改修したりした所はあるんですか?
あらべぇ「ご覧の通り、築150年くらいの古民家ばかりがそのまま建っている地域なので、『石場建てで、土壁で、瓦屋根で建てるんです』みたいな話をしても、今と同じのはもういいよ。という空気感ですね。スニーカーを履く時代になったのに、また草鞋を履けっていうの?みたいな感じです」
⎯⎯⎯ なるほど。納得しました。
あらべぇ「なので、逆にここ(リフォーム中の事務所兼自宅。以降 事務所)はショールームとして見に来てもらえればいいかなと考えています。『飛騨らしい家を新築で建てられるんだ』ということをいろんな人に知ってもらって、仕事につながるといいですね。この地域に住みながら仕事ができるというのが僕の理想なんです。でも実はコロナ禍以前までは迷いがあったんです。20年くらい仕事をしていると、『お金を稼いで生きていければそれでいいかな』といって自分の気持ちに妥協しているところがありました」
⎯⎯⎯ 例えばどんなことですか?
あらべぇ「以前は裏山の木を使って建てていたんですけど、いつの頃からか材料を材木屋さんで買って仕事をするようになっていたんです。経済活動という意味では真っ当で悪いことではないんですけど、コロナになってちょっと立ち止まって考えたんです。日々忙しくお金を稼ぐだけってどうなんだろう。初心にかえってみようと。一度、建築の仕事から離れてみれば時間もできていろんなことができるんじゃないかなって」
⎯⎯⎯ 建築自体からも離れる。実際にその時間をどうされたんですか?
あらべぇ「事務所のリフォームを始めたり、新たに薪ストーブの販売を始めたり、あと裏山の開拓ですね。山から木を出せるように段取りができれば、自分が本当にやりたい仕事ができるようになります。高校生ながらに感動した、自然の形の木を活かした家づくりを、もう一度はじめからやってみたいと思ったんです」
⎯⎯⎯ 順番に詳しく聞かせてください。まずはリフォームについてお願いします。
あらべぇ「コロナの頃から、もう何年も改修しています(笑)他の方から買い取った建物で、1階は事務所兼自宅にして、2階は建築や山のことを知ってもらったりするための宿旅館業をやろうかなと思っています。飲食業の許可も取る予定です。また事務所部分はコンベンションルームとしての使用を考えています。
今年、テストケースで友達を呼んで、はつりのイベントを開催したんですが、2日間で延べ100人の方に来ていただきました。少ないスタッフでノウハウもないのに200食も作ってお皿も足らなくなって大変でした」
⎯⎯⎯ いきなりすごい規模ですね。
ここでリフォームの事例を2つご紹介します。
事務所兼自宅|飛騨市宮川町|改修中
天野邸|飛騨市|2017年
外も部屋境も建具で仕切るのが特徴。2部屋あった部屋を1部屋にして壁はなく建具で仕切っている。
山の木を活かし切るために
⎯⎯⎯ 次は目の前で暖かく燃えている薪ストーブのお話をお願いします。
あらべぇ「輸入薪ストーブの販売事業は2018年にスタートしました。一般的なストーブが広葉樹の薪が必要になるのに対し、ここのストーブは針葉樹を燃料としています。先祖代々この裏山を所有していたので、いくら自分が建材として使ってもロスになる木が発生します。この山の木を燃料に使えたらいいのにと思い、色々調べていくうちにこのストーブに出会ったんです。『里山の保全をしながら暖を取れる』というのが自分の売り文句です。導入していただいた方のほとんどが、単に製品としてではなく、このストーブを使っている人たちのライフスタイル込みで好きになってくれています」
⎯⎯⎯ いやーいいですよね。我が家にも欲しいです。
あらべぇ「山に入って木を伐り始めて気づいたことなんですけど、当たり前ですが木って成長するんですよね。樹種ごとに成長限界というのがあって、その時期を迎えたらある程度伐ってやらないと成長が止まり、山の環境が悪くなるんです。人間が欲しい需要と供給のバランスとは別で、成長した分は伐採・収穫しなきゃならない。その時に燃料として使えるのって一番いいなと考えたんです。ストーブの他にも薪ボイラーの活用も見越しています」
⎯⎯⎯ 表にあった簡易製材機のこともお伺いできますか?
あらべぇ「ぜひぜひ。この村では昔、9割の男性が山仕事を生業にしていたらしいんです。ほとんどみんな杣師で猟師。自分が子供の頃に付き合っていた人はほとんど年寄りばっかりだったので、山の話をたくさんしてもらったのが影響したんだと思います。立木を見て『この木は何に使いたい』とか『あの木はあそこに使いたい』とか考えるのが好きで、杣師寄りの大工、”杣大工”として家づくりを楽しんでいます。なので、自分で製材できてしまうこの機械はうってつけだったんです」
自分の道は自分でつくる
暗くなる前に裏山を案内していただいた。
あらべぇ「以前は山に道がなかったので、1本の木を山から出すのに2日くらいかかって大変でしたが、コロナ禍の間に道をつくりました。仕事で木を収穫しようと思うと、道がないと木を出しにくいのですが、『道をつくる』と考えただけで手間が掛かりそうなので二の足を踏んでいました。
でも長い目で見ると、一旦道をつくってしまえば、あとはもう木を取り放題で(笑)、伐った後は道で作業ができるので安全でもあります。自分の山から木を伐ってきて、それで建築をするという夢を叶えるために、一旦仕事の手を止めて山づくりや所有林の状況把握に時間を使っている段階です」
⎯⎯⎯ 立ち止まる時間というのは、現代人にとって大切なんでしょうね。
あらべぇ「こっちの木を見てください。雪の荷重で木の根元が曲がって育つんです。雪国で育った木は雪国の家づくりに適しているので、やっぱりこれを使って家づくりをしたいんですよね。これを他の人に頼んだら、断られるかすごくお金がかかります。真っ直ぐな木ならトラックに20〜30本積めますが、曲がった木を積もうとすると何十本も犠牲にしなきゃならないんで」
⎯⎯⎯ だったら自分で山から出して自分が使うのが一番ですね。そして立ち止まってみて、今後はどんな家づくりをしたいのか教えていただけますか?
あらべぇ「最近は都市部からの移住者も増えてきているので、そういった方々に向けて、地域の文化や技術が詰め込まれた上で、現代人が住みやすい建売りの家をつくりたいです。昔はお客さんが大工のところに『家をつくってくれ』というと、『おぉ任せてみろ』といって建てて、出来上がった家に従って住むという感じだったと思うんです。それを家の周辺まで範囲を拡げて、『田畑があったり山林があったりする田舎暮らしを心配なく始められる家』として提供したいと考えています」
⎯⎯⎯ 結局それが地域の生活のルールや気候風土に適していて理にかなっている訳ですね。
あらべぇ「その先には『山で暮らす人を増やしたい』という想いがあります。現代人にとって山というものがあまりにも遠い存在になってしまった。ただ観光で訪れる場所ではなく、もうちょっと実生活に近づけていきたいです。これまで自分が培ってきた技術とか、山の知見・大工の知見を合わせると、山での暮らしをプロデュースするという役割を担えるんじゃないかと思うんです。山仕事で成り立っていたこの村は、山の価値がなくなっていくと同時に、村自体の価値も感じられなくなり、人が出ていってしまったという現実に直面しています。全国にも同じような場所がたくさんあると思います。もう一度、山に価値を見出して『山の復権』を先導していきたいです」
大工・杣師・薪ストーブ・簡易製材機・講演などなど、多岐に渡る活動をされている「あらべぇ」こと荒木さん。一見バラバラに見える事柄が、詳しくお話を伺って俯瞰してみると、その全てが『山の復権』を実現するための欠かせないピースとなっていました。そして、山、木、生まれ育った村に対する深い愛情が言葉の端々から伝わってきました。
なぜその行動をするのか。現代人はどうしても理由を求めたがります。「ただ好きだから」と堂々と言える大人がどれほどいるでしょうか。周囲から「あらべぇ」「あらべぇさん」と慕われるのが分かるような気がしました。