「大工として木造建築を建てたり直したりしていく中で、そこに暮らす人や家・まち・自然など、様々な営みがゆるやかに繋がりあうような仕事を続けていきたい」
そう話すのは今回ご紹介する丹羽怜之さん。木の家ネット入会以前から会員との交流も広く、奥様の智佳子さんは木の家ネットのライターとしても活動されていたので、筆者としては楽しみにしていた取材。波乱万丈の独立スタートだったようですが…
丹羽怜之さん(にわさとし・37歳)プロフィール
1985年三重県生まれ、群馬県育ち。丹建築代表。大工で一級建築士。日本建築専門学校(静岡県富士宮市)を卒業後、木の家ネット会員でもある一峯建築設計(三重県津市)池山琢馬さんに師事。6年間の修行を経て2014年春、丹建築として独立。翌2015年には米国北カリフォルニアでの天平山禅堂プロジェクトに携わる。帰国後は三重県中勢地域を中心に木造建築を手掛ける中で、そこに暮らす人・家・まち・自然など、様々な営みがゆるやかに繋がり合うような仕事を模索している。
⎯⎯⎯ 建築の道に進んだきっかけを教えてください
丹羽さん(以下敬称略)「一番根底にあるのは、漠然とですが、“自分自身で身を立てて生きていきたい”という想いを小さいながらに持っていたことですね。モノ作りが好きだったので、中学校の頃から大工になりたいと思うようになりました。一人でできる工芸品のようなものが好きだったのですが、もっと人と関わって作りたいなという気持ちも出てきて建築の道に進もうと決めました」
⎯⎯⎯ 日本建築専門学校を卒業され、修行時代のことを聞かせていただけますか
丹羽「ある時、四日市で池山さん達が手掛けられていた【竈(かまど)の家】で大工仲間たちが集う機会がありました。そこで一峯建築設計の池山さん(つくり手リスト)からいろいろお話しを伺っているととても興味深かったので『一緒に働かせてもらえませんか』と尋ねたのが始まりです。夜通し、竈の火に当たりながら語り合うという特殊な就職面接でした(笑)」
中央手前2棟が丹羽さんの自宅と作業場だ。
作業場を丁寧に掃除する丹羽さん。
⎯⎯⎯ 池山さんの元で得たことで特に印象に残っていることを教えてください
丹羽「毎年、手刻みで土壁の仕事があって、何でもやらせてくれて、大工修行の場としては言うことない環境でした。また、木の家ネットの他の大工さんの現場に預けてもらう機会も多く、自分の親方以外のいろんなやり方を経験できたのは大きいです。
本来は半人前の人間がよその現場に行くべきではないかも知れませんが、そこで失礼のないように、どう振る舞うべきかとか、どう実践するかとか、荒療治のような感じで学ばせてもらいました。恥をかくことの方が多かったんですけどね(笑)」
自宅ではたくさんの名古屋コーチンを飼っている。
⎯⎯⎯ ということは、入会される前から木の家ネットの会員の面々とは面識があったわけですね
丹羽「そうですね。弟子の時も、独立してからも、入会以前から総会に連れて行ってもらったり、みなさんにはとても良くしてもらっています」
天平山(てんぴょうざん)禅堂 写真提供:丹羽さん
⎯⎯⎯ 2014年に丹建築として独立されて、翌年渡米されていたそうですが、そのお話をぜひ聞かせてください
丹羽「北カリフォルニアにある寺院、天平山(てんぴょうざん)禅堂プロジェクトに参加するために約半年間渡米しました。
現地に禅宗を自らの宗教としている方が増えているそうです。各地に代表的なお寺はあるのですが、いざ自分が僧侶になりたいと思ったら、日本に修行に来なければなりませんでした。
なかなかそれは実現できないので、『現地できちんと修行ができ、僧侶になれるお寺(専門僧堂)をつくりたい』という住職の個人的な想いでスタートしたプロジェクトです。何億円もの寄付を集めて総本山を海外で初めて建立するというものです」
⎯⎯⎯ かなり壮大で使命感と夢のあるプロジェクトですね
丹羽「寄付によってお金を賄うので、予算も限られていて、大きな建設会社も入っていないので、施主直営工事のような感じでなかなか大変でしたがやりがいのある仕事でした。今回は【七堂伽藍(しちどうがらん)】のうち最も大切とされる【僧堂】の屋根仕舞いまでやって帰って来ました」
七堂伽藍
寺の主要な七つの建物。また、七つの堂のそろった大きな寺。禅宗では、山門・仏殿・法堂(はっとう)・庫裡(くり)・僧堂・浴室・東司(とうす)の七つ。
⎯⎯⎯ 木材はどうされたんですか?
丹羽「全7棟分にあたる約2,000立米の檜を日本から船で運んだと聞いています。私が行った時にはそのうち3棟は刻まれた状態でしたが、まだ1棟目が完成していないままなので、その後が気になっています」
⎯⎯⎯ その土地に生えている木で建てるのが建物にとっては良いと思うのですが、日本の檜をカリフォルニアに持って行って耐久性などは大丈夫なものなんですか?
丹羽「向こうは雨季以外は乾燥しているので、むしろどんな木でも長持ちしちゃう環境だと思います。サンフランシスコにも100年以上昔の木造建築がたくさん残っています。僕らが『瓦(ルーフタイル)を葺いたんだ』というと『すごいお金持ちだね!こっちは木の板かアスファルトかスレートだよ』という返事が現地の人から返ってきました。
僧堂の瓦葺きをする職人さんたち。写真提供:丹羽さん
その代わり怖いのが乾季の山火事です。私がいた半年の間にも現場近くで火事がありました。どんどん火が広がり規模が大きくなると、火を消すどころではなくなって、家や大切なものの周辺を守ることと避難に徹する。そして火が過ぎ去るのを耐え忍ぶ。というスタンスになるんです。日本の台風や地震などに近い感覚ですね。命からがら逃げて帰って本当に怖い思いをしました」
⎯⎯⎯ 現場は大丈夫だったんですか?
丹羽「ネットで火の広がりをチェックしながら『燃えちゃったかも…大丈夫かな』とハラハラ心配でした。後日現場に戻るとそこは月面のような荒野に変わっていたんですが、建物と木材の周りだけはブルドーザーで地面を掻いて防御していたので、何とか大丈夫でした。
夏場は火花が出るものは使っちゃいけないとか、日常の当たり前のルールが全く違うんだなと思い知らされました」
山火事の火の手が現場に迫る。写真提供:丹羽さん
⎯⎯⎯ 本当に大変な日々だったんですね。他に日本との違いで苦労されたことはありますか?
丹羽「まずは食事です。日本食自体は向こうにもあるんですが、現場が本当に人里離れた山の中にポツンとあるような場所で、そこに住み込みでやっていたので、食料の調達が苦労しました。ファーストフードなどでも言葉や文化の違いを感じ、もどかしい思いをしました。
2つ目は法律です。州の建築の許可は降りていたんですが、連邦の開発の法律に違反しているとみなされて、一時中断せざるを得なくなりました。その後コンサルティングの方に入ってもらって設計変更をして事なきを得たのですが、州・軍・連邦に挟まれるという事態で苦労しました。
先ほどの火事のお話もですが、3つ目は気候です。夏は一切雨が降らないので乾き切った砂漠みたいなところなんですが、冬の雨季になるとそこに雨が降り続けます。そうすると植物も土を貯えることが出来ず、ドロドロになって川のように流れて、地形が変わってしまうんです。春先はそれがそこらじゅうでチョコレートフォンデュみたいになっていて重機も動かせない。その上、棟梁は高齢のため長期間は滞在できないという状況で、途中からは本当に自分一人だけで、暑さと闘いながら巨大なフォークリフトを使って建前をして、かなりタフな現場でした」
上棟式の様子。「現地や日本からのほか、世界各地から集まった僧侶の方々による読経は圧巻でした」(丹羽さん) 写真提供:丹羽さん
左:付近の農場での小屋づくりワークショップ 。写真提供:丹羽さん 右:地元の高校の出張授業で日本の建築技術を紹介。 写真提供:丹羽さん
⎯⎯⎯ 帰国されてから現在までのことを教えてください
丹羽「2度の渡米後、こちらで暮らして5年が経ちました。カリフォルニアでの仕事とは関係ない古民家のリフォームなど順調に仕事ができていて充実しています。自分が古民家が好きで仕事を選んでいるという側面もありますが、三重という土地には同じような価値観の人が多く、建物も残っているので、自分に合っているなぁと感じています」
⎯⎯⎯ 木の家、土壁の家を建てたいというお施主さんも多いのですか?
丹羽「こっちが当たり前に土壁の家を建てていると、お施主さんも『やっぱり土壁で建てるものなんですね』と自然と納得して何も問題なく進みます。逆に、乾式工法(石膏ボードなど)の家ばかり増えている理由は、つくり手側が『なんで土壁なんてやるの?』という考えで建てていて、お施主さんの方も乾式工法以外の選択肢があること自体を知らない。そしてそのまま出来上がってしまうという流れだと考えています。つくり手側の意識や考えが作用する部分が大きいのではないんですかね」
⎯⎯⎯ 木材について伺います。三重県は人工林率が63%と全国平均の41%を大きく上回っています。材木の調達はどうされていますか?
丹羽「県内有数の林業家の方が、私の独立と同じ時期に材木屋さんを始められたんです。希望すれば山を見せていただけて、その場で切ってもらえます。他の地域に比べて天然乾燥材を入手しやすい環境にあるという幸運を噛みしめています」
丹羽さんに「どこか思い入れのある仕事を案内してください」とお願いしたところ、改修を手掛けたという「ハッレ倭(やまと)」を案内していただいた。
トラス構造で仕切りがないため、2階ホールは開放的な大空間が広がっている。木造で響きやすいのでコンサートなどとも相性がいい。
ハッレ倭は、築85年を超える旧倭村役場を改修し、2021年にオープンした“出会いと学びのシェアスペース”。丹羽さん自身も運営メンバーとして参加しており、学びフェア・マルシェ・映画鑑賞会・音楽会などのイベント会場として、またコワーキングスペースや貸しスペースとして、地域に根ざした多文化・多世代交流の場になっている。さらに国内外からの移住相談窓口としても活動しているそうだ。2022年には登録有形文化財に登録された。
ハッレ倭代表の倉田麻里さんと丹羽さんに対談インタビューに応じていただいた。
⎯⎯⎯ 倉田さんと丹羽さんの関係の始まりは?
丹羽「倉田さんと妻が繋がりがあり、田植え体験をさせてもらえることになったんです。僕は土壁に使う藁を継続的に分けてもらえるところを探していたのですが、倉田さんのところでは無農薬で栽培されているとのことだったので、是非お願いしたいと思い参加しました。
談笑する丹羽さんと倉田さん。奥には上映会などで使用するスクリーン。
倉田さん(以下敬称略)「ちょうどその頃、ここの工事に取り掛かろうとしているところだったので、丹羽さんに相談しました」
丹羽「最初は非破壊で改修できると思い、比較的楽な工事になると想定していました。ところが蓋を開けてみたら雨漏りはしているし、シロアリに喰われていないと思っていた木も、中から喰われていたりと、結構大掛かりな工事になりました。
それでも救いだったのが、上から下まで通し柱で組まれている珍しい造りだったことです。建物としては自立したままで、悪い箇所だけ直せるんです」
倉田「解体した時に全部サステナブルな材料で作られていてびっくりしました。昔は何も意識しなくてもそういうものだったんですね」
丹羽「今回塗った土壁も、元々の壁を剥がして新しい土と混ぜて、もう一回塗っただけです。85年経っても全然すぐ新しくなれる。当たり前ですが素晴らしいです」
今回塗り替えた土壁
土壁ワークショップで竹木舞を掻いているところ。写真提供:丹羽さん
倉田「この建物の素晴らしさを活かしつつ、土壁のワークショップを開催したり、内装のことはボランティアの方にやってもらったりと、色々工夫を凝らして、今の時代にあった使い方ができるように手を加えてもらいました。丹羽さんは『こうなったらこうなるけど、こうしたらこうなる』と色々なパターンを考えてくれるので、とても勉強になりました」
⎯⎯⎯ 運営が始まってから地域での受け入れられ方はいかがですか?
倉田「ハッレ倭ができてから移住者の人口は確実に増えてきていますし、利用者数も学びフェアだけでも毎月100名、他のイベントも入れると延べ200名くらいの方にお越しいただいています」
丹羽「ここの運営のやり方は私の肌感覚にも合っているんです。最近の世の中の傾向として、ますますSNSやインターネットが発達して、場所に固着する必要がなくなっていると感じます。どこにいても何でも売り買いできちゃう。確かに便利だけど味気ない。そうじゃない方法で何か新しいことを始めたい人にとっては、いい場所だと思うんです。ちょっと商品を置かせてもらって、コミュニケーションが生まれて、輪が広がっていって。そういうのって素敵じゃないですか」
左:作家さんの作品なども販売している。他にも地元のコーヒー屋さんやお菓子屋さんなど、ここでしか買えないものが並ぶ。 右:こども服の物々交換は、丹羽さんの奥さんの智佳子さんが関わっている。
倉田「『何やってるの?』ってふらっとやって来られる方が多いんですよね。初めは頻繁にSNSを更新したり、チラシを配ったり、こまめに発信していましたが、地道な活動を2年間続けてきて、認知もされ始め多少軌道に乗ってきたかなと感じています」
2021年には「くむんだー」のイベントも開催した。写真提供:丹羽さん
⎯⎯⎯ ハッレ倭にかける想いや今後のことを教えてください
倉田「以前、フィリピンでNGO活動をしていたのですが、フィリピンは島ごとに文化も言葉も違うし、国際結婚が当たり前なんです。その経験を活かし多世代交流・多文化交流ができる“出会いと学びの場”を作りたいというのがハッレ倭の目的です。お金には結びつきにくいこともありますが、とにかく開かれた場を用意して、いろんな人に交流してもらうことが大切だと感じています。ここをステージにしてどんどん使ってもらえたら嬉しいです」
◎竣工:2019年5月 ◎36坪 新築工事 平屋石場建て ◎「チーム古民家」古民家好きの建築集団 ( 設計:中村茂史/中村茂史一級建築士事務所、施工:(株)木神楽、大工:丹羽怜之/丹建築、左官:小山左官)◎以下4点 写真:加納フォト
丹羽「日本に帰って来て直後の仕事です。緑に囲まれていて自然と一体となっている環境で、カリフォルニアにも通じるものを感じたので思い入れがあります。お風呂は全面窓で雑木林の中に居るかのような感覚を味わえます。私の場合はアウトドア直炊き露天風呂でしたが(笑)」
⎯⎯⎯ いろいろ見せていただきありがとうございます。家づくりをしていく中で、大事にしていることやモットーなどはありますか?
丹羽「関わってくれる人を大切にしたい。ということですね。言葉とか建てるものとか利害関係などを一切取っ払っても、その人と自分とがお互い幸せな感覚でいられるというのが、一番やっていて気持ちいいです。カリフォルニアでの経験もそうでした。
“自分で仕事がしたい”と思った理由もそこで、現場で『大工さん』ではなく『丹羽さん』と呼んでもらえて、私も『〇〇さん』って返してコミュニケーションを取る。そうやって仕事ができていることがありがたいです。
あとひとつ、池山さんからよく言われていた『そこらへんであるもので作ればいい』という考え方です。最初は言っている意味が分からなくて、『ピッタリの寸法で作ってもらえばいいのに』『買えばいいのに』と思っていました。今思うと、古民家を直す時には絶対必要な考え方であり地力だと感じています。その経験があったからこそ、アメリカの過酷な現場でも対応できたんだなと感謝しています」
⎯⎯⎯ これからの展望や野望があれば教えてください
丹羽「設計・施工で一貫した仕事をやっていきたいです。県内の同世代の大工仲間がみんな設計・施工の仕事を当たり前にやっていて、私が建築を志した理由も“自分自身で身を立てて生きていきたい”なのでやはりそうありたいです」
⎯⎯⎯ 最後に、丹羽さんにとって家づくりとは何でしょうか
丹羽「難しい質問ですね。関わる人みんなが、当たり前にある幸せに気づいて、感じて、そして育むということかなと思います」
「木で家をつくる」「土壁を塗る」「石場建てで建てる」といった手法や技術などの「何をやるか」も然ることながら、その先にある人間関係の大切さを感じる取材となりました。人想いで温かな笑顔の丹羽さんと一緒にいると、こちらも自然と笑顔になってしまいます。
丹建築 丹羽怜之さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
賢島駅からほど近い英虞湾のリアス式海岸を望む木立の中にこの家は建っています。伊勢志摩の原風景にある真珠養殖いかだやカキ養殖いかだ用のヒノキ丸太を構造材に用い、海女小屋や浜の作業小屋をモチーフにした小さな木造住宅です。 その土地の木や竹や土をつかい、地域に伝わる住まいの作り方で、みんなで建てました。
小さく暮らす、豊かに暮らす~購入エネルギーを控えて自然を生かして暮らす家
いかだ丸太の家は子育てを終えたご夫婦と犬二匹がすごす小さな家です。
ここ志摩地域には一つの敷地に本屋・隠居・大隠居と、暮らしぶりに合わせてだんだん小さく暮らし、お互いに助け合いながら暮らす隠居慣行があります。
いかだ丸太の家もこれに通ずる小さな作りです。夏は、南北の大きな掃き出し窓からは涼をとります。冬は、外との出入りが楽な三和土(たたき)土間に置かれた小さな薪ストーブで、庭先の枯れ枝や枝打ちした木々を燃料に、普段の煮炊きや暖をとります。また、お風呂を隣接の古民家と共用とするなど、冷暖房や炊事や入浴などに購入エネルギーをほとんど使わない生活をしています。
たたき土間から大きな掃き出し窓、そして深い軒先を通して庭先の木立へと、自然とつながった豊かな暮らしを続けています。
敷地は河川敷の緑が連なる憩いの緑地公園区域にあり、当住居もこの緑の景観に配慮した家屋と造園計画を目指しました。
これから子育てを迎えるというご夫婦は昔ながらの土間と畳のある家を望まれ、河川敷の緑地公園に対して大きく開いた家は、地元の季節風である西風を取り込むつくりを主として重んじ、季節と共に快適にくらす先人たちの暮らしの知恵・伝統的な家造りの知恵を見習うこととしました。
南国特有の温暖多湿な気候は、湿度が高く夏は蒸れる様な暑さが不快、また家を傷めやすい要因となりますが、真壁による土塗壁や構造体(木材)現し、石場建てなど伝統的な造りは長期的視野において湿気を吸放湿しやすい造りであり、点検のしやすさなど家の耐久性を図ることができます。使用される材料や出てくるゴミもその殆どが土に還る素材であることが、ご夫婦にとって子供たち未来を傷つけない選択肢であったようで、持続循環していく未来をイメージし環境に配慮した住まいづくりを目指しました。
大らかな小屋組み現しの2階多目的スペースは河川緑地に大きく開かれている。
大きな引き込み式の多層構成による窓は地場の職人の手仕事の豊かさが現れ、障子+ガラス戸+格子網戸によって構成されています。
61坪の敷地に余裕は多くなく、二方道路からのプライバシーを確保しつつ住居周囲の居住環境を良好とし、河川緑地の景色と西風を如何に宅内に取り込むかが設計の大きな課題となりました。
『エネルギー使用量実績データ(設計時と入居後1年間の実測)
設計一次エネルギーは、基準一次エネルギーの94.8%程度であり、居住後の使用エネルギーは基準1次エネルギーの39.5%です。LED使用の安全性がまだ不確かなため主居室は白熱灯を使用していますが、気候風土適応住宅のさまざまな要素によって、消費エネルギーがおさえられていることが分かります。
密集市街地に「市中の山居」を建てる
建設地は、神奈川県の中央を南北に流れる相模川東側の相模台地に位置し、西側には丹沢山系を間近に眺めることができる。奈良時代には相模地方の中心地として国分寺・国分尼寺が建てられ、明治以降は絹産業運搬の交通の要所として鉄道が引かれ、現在は首都圏の近郊住宅街として宅地化が進んでいる。
一般的に自然素材を活かした開放的な家は、敷地に余裕がある郊外宅地や田園風景が広がる地域に似合っていると考えられがちである。確かに、四方を建物で囲まれている今回敷地の様に、準防火地域に指定されている密集市街地での計画には、法令上も工事の施工面でも制約が多い。しかし、だからこそ街中の雑踏を忘れ、四季の変化を身近に感じながらの暮らしに人は魅かれるのであろう。
目指したのは、茶室の露地空間のようなひっそりとした小庭を備えた「市中の山居」である。旗状露地を歩きながら季節を感じ、建物内に入れば喧噪とは別世界の静寂な室内に身を置くことができる家。和瓦葺き屋根・化粧野地現し・漆喰塗り真壁・焼杉羽目板張りの建物を、黒塀の庭が囲む計画となった。近年の土壁や無垢板の防火性能は研究成果により、このような密集地でも実現可能となっている。
気候風土に応じた計画は綿密な調査から始まる
気候風土に適応した住宅とは、計画地に特有の気象条件や周囲の環境に合わせて計画された建物を指す。一年を通じての風向き、太陽高度、気温と湿度の変化を蓄積された情報から読み取り、敷地の状況に応じ、無理のない生活を続けられるように条件を探り出すことから設計を始めた。
年間を通じ南からの風が吹く比較的温暖な地域であるが、周囲に建物が立ち並んでいる為、南北隣地の空地からの夏の通風と冬の直射光導入を考えた。幸い狙い通りの効果があり、密集地内にも関わらず風通しも良く、冬の日中は日当たりで気持ちよく開放的な生活が続けられている。
【左】建物位置と周囲の関係配置図 通風と採光の効率を上げるために建物形態と窓の位置を慎重に決める
【右】太陽高度や風の流れを示した断面図 敷地が狭い場合、深い軒の出が難しい場合、簾や葦簀を活用して日射遮蔽を行う
室内環境を示す温度変化グラフ
外気温と室内温度と差、各部屋ごとの温度差などを見ることは、ほどほどに快適でエネルギーを無駄に使い過ぎない生活に繋がる
【左】年間を通じて1階2階の計4ケ所に設置した記録計は、比較的小規模なこの家ではどこの部屋も同じ室温で維持されていることを示している。
【右】冬の晴れた日は日中室温があがるので、エアコンは朝と夜の稼働で済んでいることがわかる。
聞けば九州男児で大工の棟梁。きっと頑固一徹、強面で言葉は厳しいにちがいない……
そんな想像をしつつお会いした小山武志棟梁は穏やかで丁寧で柔らかい印象でした。
「いえいえ頑固ですよ。頑固だなぁって人からも言われます」と穏和な笑顔の小山さん。
かつて金の卵と呼ばれ、上京し日本の発展の歴史を肌に感じながら、
木と土の日本の伝統家屋づくりに頑固に向き合ってきた小山さんのお話を伺いました。
小山武志さん(こやまたけし 78歳)プロフィール
昭和19年、長崎県平戸市生まれ。高校卒業後に上京し、ビル建設の仕事に就く。つくる喜びを味わいたいと考え、大工の世界に飛び込む。4人の棟梁の元で職人の心構えと技術を学んだ後、25歳で独立。横浜で工務店を開業。主に隣接する鎌倉市で仕事をする。数寄屋建築を得意とし、木と土による日本の伝統的な建築法を受け継いだ家づくりを手掛ける。時代とともに伝統工法の仕事は激減するが、70代を迎え、もう一度原点の木と土の本物にこだわった家づくりに専心しようと亀屋工務店と社名を改める。令和元年、東京都調布市に移転。古民家再生を中心に職人仕事が光る家をつくり続ける。
亀屋工務店の応接室。もちろん小山さんの仕事。完成した部屋に自作の机とアンティーク家具を合わせて、落ち着いた和モダンの雰囲気が素敵です。
上部がアールになっていた出入口にベニヤの突板のフラッシュ戸だったものを、引き戸に改修。「引き戸は空間が十分に使えて狭い日本家屋には最適」。市松模様の硝子が使われている時代物の蔵戸を入れました。
左:聚楽壁に取り付けてあるコンセントのカバーは、聚楽色と呼ばれる物。「大正時代に日本家屋のための電球ソケットから商売を始めたパナソニック(旧松下電器器具製作所)の商品です」 右:作業はできるだけ一人で行う。「自分のペースで自分の納得のいく仕事をしたい。そろそろそれが許される年齢になったと思っています」
⎯⎯⎯ 素敵な応接室ですね。床板の木目が一つひとつ個性的で、土壁はうっすら緑がかっていて素朴で優しくて。
小山「いい風合いでしょう? これはね、聚楽壁(じゅらくかべ)といいましてね。京都の聚楽という地域の土を使っています。豊臣秀吉がたいそう好んだもので、自身の邸宅である聚楽第の壁にも使わせていましてね、独特な優しい色合いから、聚楽色という色の名称のもとになっているんです。
今は土を使用せず、風合いを再現する化学的な素材が色々入っているだけの聚楽壁という商品名が付けられているものもあります。本物はね、昔ながらものですから手間がかかりますし、材料費だけで30倍もかかる。それでも、見た目の味わいがいいだけでなく、本物の土の壁は、室内の湿度を調整し臭いを吸着して、防音性や耐火性といった機能があるといわれています」
⎯⎯⎯ 木の目の強い印象と絶妙なバランスですね!
小山「床はね、赤松と黒松のいい板が手に入ったので、半々で使っています。目が強いイメージの部分が赤松で、柔らかいイメージなのが黒松です。ちなみに、別名で赤松が雌松(メマツ)、黒松が雄松(オマツ)といいます」
赤松と黒松を使用した床。「いい板ですが、かなりの反りと捩じれがあり削るのに苦労ました」
⎯⎯⎯ 強い方が雌で、柔らかいイメージが雄なんですね。逆だと思いました。
小山「赤松の木肌は赤みがあり、立ち姿は曲がりくねって柔らかいので雌松。でも取り扱ってみると、まあ本当に大変。そのあたりも女の人と一緒かな?(笑)
そしてね、この黒くて木の目が目立つ部分が、やに松と呼ばれているんですが、かなり油っこい部分なんです。それほど多くないので、重宝されています。
松はね、緑色っぽい部分もあるんですが、それは乾燥させてる間にできるカビの色で、悪さはせずにただの紋様になってくれるので、また味わいがありますね」
応接室の天井。檜葉(ひば)を手仕事で加工して格縁(ごうぶち)をつくりました。 板は秋田杉。「この木目の次はこれかな?と楽しみながらはめ込んでいきました」
左:「日本家屋は、3尺、6尺、9尺、12尺という寸法でつくるのが基本でね、木材の切れ端も3尺なければ処分していたのですが、最近はそれより短くても惜しくて」 奥様の幸子さんと。 右:背割りの説明のために見せてくださったお手製のペン立て。
⎯⎯⎯ 木や土の性質や歴史のことなど知識の幅が広いですね。大工さんはどれだけ学ばなくてはなれないのかと気が遠くなりそうです。
小山「建築は難しい仕事です。その中でも大工は一番大変じゃないかと自負しています。まず差金を使って勾配などを計算しないといけない。ノコギリとノミを使いこなして、穴やほぞを寸分のちがいもなく作らないと、100年持つ家にはならないんです。ある名のある宮大工が言っています。『学校の成績は70点80点で褒められる。だけど大工の仕事は100点以外は失格。100点の家でないと長持ちしない』と。
そしてその方は、『日光東照宮は建築物ではなく工芸品だ』ともおっしゃっています。煌びやかに見えてもつくりがよくないので、たかだか江戸時代のものなのにすでに4回も解体修復をしているではないかと。木造建築なのだから仕方ないと思われるかもしれませんが、奈良の法隆寺の五重塔の解体修復は一回だけです。部分的な修理はしていますが解体修復は1300年間していませんでした。つくり方によってこれだけの差があるんです」
⎯⎯⎯ そのちがいは、どこから生じるのでしょうか?
小山「木も育った場所によってクセがちがいますから、木のクセを見抜いて適した使い方をしないといけません。そうは言っても私にもできません。なぜなら、昔の大工は山に行って生えている環境も見て、木材として買い付けしたんですが、私の時代にはそれをやっていないのです。
山の中の南斜面で日がよくさす場所なら、くせが強く扱いにくいですが強度があり、北側の木はまっすぐ美しく伸びていて目も綺麗ですが、強度はない。強度がないものは飾る部分などに使われます。他にも風や湿気のある地面かなどを見る必要があると言われています。そして大事なのはつくり手が100点を取れる大工であることです。
そして、いつ伐採したのか。大木は別ですが、最低でも3年は乾燥させる必要があるので年数もですが季節も重要。木を切っていいのは一年間のうち30日間くらい。ちなみに竹は3日間くらいです。それ以外の時期に切ると虫が湧いてしまいます。こういうことは知らない人は多いと思います。
木は、乾燥するほど硬くなって道具受けしませんから、大工は苦労します。でも、乾燥が甘い木材を使えば、2〜3年で木が細り割れが生じて建物にガタがき始めるんです。乾燥年数が経っていても割れることはある、木とは本来割れるものですから。
その前提で『背割り』を入れます、隠れる部分に。細い長方形のような切れ込みを入れますが、時間が経つと扇型に開いていきます。つまり引っ張る力が働いて、思わぬ部分に割れが生じるのを防ぐ技術の1つが背割りということです」
左:残った土壁の材料を瓶に入れて、お客様に工程の説明や素材選びに使用する小山さん。自作の秋田杉一枚板の漆塗り机で。 右:小山さんが若い頃、実際に使っていた鶴と亀の彫り物がある墨壺。
⎯⎯⎯ 自分は大工になる、と思われたきっかけは?
小山「物づくりは子どもの頃から好きでした。ベーゴマなんて自分でつくっていましたよ。よ。父親が鍛冶屋だったので、金属部分をつくってもらってね。でも、大工になりたいと思ったことは一度もなかったです。大工になったのは親の勧めでね。平戸では就職先がなかったので、都会に出るしかありませんでした。当時の言葉ですが金の卵と国が煽ってね、東京に出てビルの建築現場の仕事をしました。
そこにはつくる喜びがなくて、すぐに辞めたくなりました。しばらく我慢して、次は家をつくる工務店に大工として入ったのですが、いきなり『この家をやってくれ』って言われてしまって。二階建ての家でね。大工として入った手前、できないとは言えなくて死に物狂いで初めての家づくりをしたんです。
道具使いはそれなりにできていましたが、墨付けなんてやったことがなくて。ビルの仕事をしていた時の先輩がやっていたのを見たことはあったので、真似して何とかしました。まあ、職人というのは、技を見て盗むのが基本ですから、特別なことではありません。
無事につくり終えた時に自信がついて、大工でやって行こうかなと思いました。22歳になった頃でしたね」
⎯⎯⎯ 昭和40年代の初めの頃ですね。使われていたのは自然の素材だけですか?
小山「押し入れにベニヤ板を使って節約してくれと言われたりはしていましたが、基本的には無垢でした。壁は土でしたよ。私が30歳になった頃にはもうラスボードという石膏ボードに樹脂を塗る壁の素材が出まわっていて、安価で扱いが楽ですからね、あっという間に土壁を追いやってしまいました。土壁の土台となる“木舞(こまい)”を掻くか木舞屋さんが少なくなって、昭和55年くらいだったかな、横浜で1軒しかなくなって、最後に一緒に仕事をしたのが、確かその年でした。
予算という問題は大きいですから、お施主さんからラスボードを使ってくれと頼まれたら断れません。流れには逆らえなかったですね。しかもその流れは凄まじく早くて、左官屋さんはどんどん廃業しましてね。やりにくい時代になりましたけど、生き残らなくてはいけないですし、可能な範囲で納得できる仕事をしていました」
⎯⎯⎯ 予算の問題は簡単ではないですよね。
小山「昔だって土壁は安く手軽ではなかったですから、木舞を掻いて粗壁を塗ったら、しばらくそのままという家は少なくなかった。土は暖かいですからね。それでお金ができたら仕上げの土壁を塗るんです。今のように銀行でお金を借りて家を建てるという時代ではないし、お施主さんは『仕上げは待ってね』という感じで大工と相談しながら少しづつ工事をしました。
昔は、毎朝大工が現場に行くと毎日お施主さんが空茶(からちゃ)を出してくれました。そこで雑談をしたり打ち合わせをしたりしていたので、今よりお施主さんとのコミュニケーションがとりやすかったですね。
空茶を頂いたあと、今日は気分が乗らない、何となく集中できない、という日があります。虫の知らせというか嫌な予感がする時は、空茶を飲んで帰ることがありました。それで大工は偏屈だと言われるんでしょうね。
でも実は偏屈でも何でもない。気分が乗らないのに無理して仕事をすると失敗する。集中できない時はいい仕事ができません。ここぞという時は気合も必要です。やりそこなうと、材料を無駄にし手間も数倍かかる。だから、潔く休むのです。非常に合理的なんだけど、今の時代ではなかなか許されないでしょうね」
「伝統工法では柱に貫(ぬき)を通します。貫は大きな変形性能を持っていて、揺れのエネルギーを吸収する柔構造の土壁と併用することで、大きな水平体力を持ち強度を保ちます。倒壊をまぬがれれば修復・継続使用が可能です。これに対して筋ちがいは剛構造。柱間に斜めに取付け、つっぱって動かないことで揺れに抵抗します。剛構造はエネルギーを逃したり吸収したりしないので、大きな揺れに抵抗できず、耐えられなくなると、木が割れたり折れたりしてして損壊します」
「木は柔らかく金属は固いため、金属が木を傷めます。 伝統工法でも和釘という釘を使いますが、木を傷めないよう時間をかけて釘道(くぎみち)をつくり、そこに打ち込みます。これも強度を保つ伝統技術です」
柱にある貫の穴には隙間があります。ここに木の楔(くさび)を打ち込んで貫(ぬき)を固定。もちろん楔も一つひとつ加工しています。
⎯⎯⎯ 強い信頼関係があったのですね。
小山「私は話すのが好きということもあって、顔合わせや打ち合わせはじっくり時間をかけます。どのようなお住まいにされたいかご希望は伺いますが、そのうえで、引けないところは引けない、『これはできない。ダメなものはダメ』ということをはっきりお伝えします。純和風、特に数寄屋建築は型が崩せないので、お施主さんの言いなりでつくってはダメ。型というものは、なんとなくできたものではなく、長い歴史の中で生まれた完成された形ですから、それをあちこち崩すと暮らすうちに使いにくさが出てきたり、傷む場所が出てきたり、お施主さんご自身が嫌気がさしてしまうんです。
昔、大阪に平田雅也という数寄屋建築で有名な大工がいました。その方の逸話をひとつお話しましょう。今住んでいる家が気に入らないから家を建て直したいので、見に来て欲しいという依頼があって、家を見に行った時のこと。家を見て、その場に居合わせた出入りの大工に向かって言った言葉が『わしゃ、施主の言いなりになる大工は大嫌いじゃ。お施主さんは建築のことは素人なんだ。その素人の言うことを聞き入れて家をつくってもいい家にはならない』そしてお施主さんに言った言葉が『私に頼みたいなら全て私に任せてくれ』。
この方が弟子の時代の5年間にやったことは鉋(かんな)かけだけ。でも、その鉋の技術は超一流です。そこから名のある大工のもとを転々と勤めてあらゆる技術を学んだ方でしてね。だから、えらい、いばっていいということではないですよ。自己流の家を建てさせるということは、職人の技術と知識と経験を崩されるわけですから、わざわざ完璧な家をつくらせないようにしている、こういうことになるんです」
⎯⎯⎯ お互いに損ですね。
小山「そもそも茶道のことを数寄といい、住まいであって茶会も出来る住宅を数寄屋造りといいます。茶道には数々の作法がありますから、それがスムーズにできる空間に仕上げないといけない。基本の茶室の型に生活の場を合わせているわけですから、廊下や手洗い戸の位置、デタラメにつくろうものなら非常に使いにくいのです。
近年は、体が不自由になった時のためにバリアフリーにしたいというご依頼も多いですね。家の中で車椅子を使うといった状況なら仕方がないのですが、日本建築では板の間と畳の間の段差が3㎝と決まっています。大工は昔から口伝でね『段差は一寸(3㎝)、中途半端に変えるなよ』と教えられているんです。それを2㎝とか1㎝にすると不思議とつまずくんです。理由までは教わりません。でもね、つい最近、科学的に3㎝以上の高さがあれば脳は段差を段差と意識して、足を上げるように指令を出すということがわかってきたそうなんです」
⎯⎯⎯ お年寄りが転んだ時「何もないのにつまずいた」とよく聞きます。大工さんの口伝には何か根拠があるのですね。
小山「段差ひとつとっても、頑固者と嫌がられても守らなくてはいけないものがあるんです。それは何より安全に暮らすために。本物の素材、本物の型、大工の真心でつくられた家はね、派手さはなくても安心して落ち着いて暮らせるものですし、見飽きません。障子の格子も決まった尺でつくるのですが、その尺に決まった理由があって、そこに見飽きない法則があるように感じます。
そして、そういう家では掃除や手入れも、大切なものを愛でる気持ちがわいて、合理的に時間を使うのとはちがう豊かさが感じられます。雨戸の開け閉めも乱暴にしていては、すぐに傷んでしまうので丁寧に扱う必要がありますが、暮らしの一つひとつを丁寧にすることで、生活をしている生きているんだという実感が生まれるのです」
⎯⎯⎯ 大切に手入れされてきた古民家が失われるのは惜しいです。
小山「古民家の再生となるとね、始めてみないとどこまで壊してつくり直すのか、そのまま使えるところがどこまであるのかわかりませんから、見積もりも出せないんです。できるだけお金がかからないようにと思っていますが、お施主さんも心配でしょうし、正直こちらも心配ないと言えば嘘になります。だから、とくに信頼関係が大切です。
最近、古民家の再生が1軒終わりましてね(Y氏邸)。お施主さんは若いご夫婦。奥さんが古民家が大好きな方で、最初にお会いした時に開口一番言われた言葉は『外は古民家、でも中は新建材を使った現代風の家では嫌なんです』でした。
雨漏りもしていたしかなり傷んでいる家でしたが、ご夫婦の熱い想いに後押しされ、工事をお引き受けしました。ご希望に沿って、新建材を使う現代風な直し方はしないで、自然素材にこだわり古い形にこだわり本物にこだわって施工しました。既存の古いものを極力残しながら、木材は全て無垢。壁は土壁。サッシは全て撤去して建具は全て木製に入れ替え、築当時の姿が蘇りました。
なにより嬉しかったのはお施主さんがとても喜ばれたことです。出来上がった時だけではなく、この家に引っ越されて2年になりますが、今もこの家を大切に思い、この家での暮らしを楽しまれているご様子です。
家は引き渡して終わりになるわけではなく、その後が肝心です。この工事はかなり大変だったんですが、自分がつくったものをお施主さんが暮らしの中で喜ばれている姿をみると、『つくってよかったなぁ』と苦労も吹き飛びます」
以下7点の写真は“Y氏邸“のもの。六畳と八畳の座敷がつながっていて、襖を開くとひと続きに。こちらは六畳の窓辺 肘掛け窓と縁側。
左:NPO法人 日本民家再生協会の「民家再生奨励賞」を受賞。外壁は洋間を除いて日本下見張り (にほんしたみばり)。雨仕舞がよく木材が腐りにくいので長持ちする日本に古くからある工法。 右:玄関を上がると次の間。お客様をお迎えする二畳の部屋で、ゆとりを感じさせてくれます。
左:理雨戸が多い家なので、雨戸を収める戸袋にも昔からの工夫が。「家の内側に戸繰り窓という小窓が付いています」 右:戸繰り窓。「この窓に手を入れて、雨戸の桟(さん)をつかんで出し入れします」
左:洋間は床と天井は杉材で壁は白の漆喰で修復。「白い壁と天井が高いのも手伝って、実際四畳半ですが、より広く感じます」 右:外壁は横板張り。「海が近いこともあり、風雨に耐えるように厚い板を張っています。窓には取り外し型の雨戸を付けました」
【Y氏邸施主さんメッセージ】
幼い頃から、昔の建物や道具に惹かれながら育ちました。長じて念願叶い、大正築の古民家とのご縁に恵まれましたが、幾度かのリフォームにより、築当時から姿を変えている箇所が散見されました。
この家を築当時の姿に戻す「修復」がしたい。あちこちの工務店さんに、そう言って回りました。みなさん親身になって話は聞いてくれましたが、理解されることはありませんでした。
そんな時、古道具屋で偶然、亀屋工務店さんのショップカードを見つけました。それが小山さんとの出会いです。
小山さんのお人柄は「真摯」の一言に尽きます。まだお仕事に繋がるかどうかもわからない初回打合せの段階から、いいものをつくるため、そしてそのよさを伝えるためには時間も手間も一切惜しまない、その姿勢に「小山さんならば」と思い、修復をお願いすることを決めました。
修復工事が進む中で特に印象的だったのは、現場がいつも整然としていること。数日同じ工程が続く場合でも、道具も材料も片付けて、きれいに掃除されて帰ります。また正月には、現場の床の間に、鏡餅と一緒に大工道具(差金、墨壺、手斧)を飾ってくださっていました。大工さんの命ともいえる道具を大切にする姿勢が深く心に残っています。
これは余談ですが、古民家に越してきてから、日本の古い小説の描写が「わかる」ようになりました。例えば障子越しの明かり。天井のしみ。床のきしむ音。ざらりとした手触り。一つひとつは小さなことですが、それらが自分のリアルな感覚に重なると、作品世界がグッと立体的に感じられるのです。
小説の中に流れている時間と、今、ここにいる自分の時間とが、まぎれもなく繋がっているのだと感じたとき、たとえようもない喜びに包まれるのでした。
⎯⎯⎯ 古民家のお仕事は復元のレベルですね!
小山「今施工中の家は、O氏邸と呼んでいますが、築昭和7年の伝統工法でつくった家の修復工事です。こちらは、お施主さんが50代の男性でして、昔の組子でできている建具、障子が気に入って家を購入されたそうです。すでに他の業者さんが入ったあと、ご自分が思い描いていたのとは違う直し方だったため、工事途中に施工を断ったそうです。困ってたところで私にご依頼いただいたんです。
お会いした時に私がまずお施主さんに聞くのが「どういう家にしたいのか」で、このお施主さんのご希望は『再生工事ではなく、修復工事にしたい』でした。
工事途中の現場からその意味がよく分かりました。前の業者さんは伝統工法のやり方を全く知らずに施工していたようで、知っていればこんなことはしないというところが至るところに見受けられました。
お施主さんのご希望で、4年前の一期工事から始まって今は三期工事の施工中です。二期工事は縁側だったのですが、縁側のサッシを撤去した時は驚きました。家の表情ががらりと変わりました。落ち着きがあり、風情のある築当時の姿が蘇った瞬間だったと思います。
三期目は屋根と仏間と台所、洗面台です。洗面台は築当時の研ぎ出しの洗面器が見つかり、当時の洗面台に修復することになりました。少しずつ築当時の家の姿が蘇ってきています」
⎯⎯⎯ 家を丸ごとお買いになるほど素晴らしい障子なのですね。
小山「当時はよくつくられていた形の硝子障子だと思いますが、風情があります。職人の手仕事には何ともいえない趣きがあります。硝子は表面を摺ってつくった本物の摺り硝子です。今のつくり方とはちがうつくり方の曇り硝子です。型を置いたところは摺れていなくて透明です。透明な部分は少しだけですが、その透明な硝子を通して庭の様子が見えるんです。あれをつくれる職人はもういませんから、割ってしまったら同じ硝子は入れられません。
早く、安く、効率的に便利で、楽な家を求める人が多くなってしまいましたが、職人が手間を掛けてつくった家はいいものですよ。自然素材でつくった家は森林にいると安らぐのと同じように、そこに居るだけでとても安らぎます。失われつつある日本家屋のよさ、賢さを次の世代に繋いでいけたらどんなにいいかと切に思います。木と土の家のために、微力ではありますが、今私にできることを精一杯やっていきたいです」
以下の写真7点は、“O氏邸”のもの。木造家屋に雨は大敵、右写真の右のほうにある刻みは、雨戸の敷居に水が溜まらないようにと加えた小さな工夫です。
左:正面の肘掛け窓は外側に回す雨戸、右の縁側は内側に回す雨戸。 中:近頃、めっきり見かけなくなった昔懐かしい戸回し金具。この修復も行いました。 右:雨戸を回して方向を90度変えて、その奥にある戸袋に収納。「じつはこの家には、内側に回す雨戸の戸回しもあって、建築家の先生に『どうやって取り付けたんですか? どうして回るのですか?』と不思議がられました(笑)」
左:お施主さんが惚れ込んだ昭和初期の建具。「繊細で美しいですね」 右:建築した86年前の形に再現した厠(かわや)の灯窓。「鴨居と方立は新しいものを取付けました。建具も残っていたので、一本引きと開き戸をそのまま使用しました」
【O氏邸施主さんメッセージ】
昭和初期に海軍の軍人さんの住宅として建てられた古民家を買い取り、その修復をしようと考えた際に、いくつかの工務店さんに相談しました。けれども、機能性を重視する方が多くて、建築当初の形にこの古民家を復原したいという希望を理解してもらえませんでした。
小山さんのお名前はネットで検索して知ることができました。電話で事情を話すと、小山さんは当時会社のあった横浜から横須賀までいらしてくださって、私の細かい要望を聞いては、その部分を一緒に見ながら方法をいくつも考えてくれました。
4年前に修復をスタートさせて、今も段階を区切って進めてもらっています。納得するまで付き合ってくださる小山さんにはとても感謝していますし、完成までのプロセスを細かく見届けることができるのは、とても楽しい経験です。
亀屋工務店 小山武志さん(つくり手リスト)
建築物写真:小山幸子さん
取材・執筆・インタビュー写真:小林佑実
新年あけましておめでとうございます。
年頭にあたり、木の家ネット会員の2022年ベストショットをお届けいたします。
今年もどうぞよろしくお願いいたします!
88才の建て主は新築することを決めた。
息子が言う。「自分の財産は自分で稼ぐので、遺産が要らない。生きているうちに、自分が好きなことに全額使いなさい」と。
それで、自分が植えた山の木で、自分の思う通りの木の家をつくることを決めた。
棟札も自分で書いた。棟上げ儀式のため屋根にあがる。後ろから息子が支える姿は微笑ましい。
しばらくお休みしていたお茶のお稽古を再開しました。すっかり着かたを忘れていた着物も、動画を見ながら再挑戦。時短で着付けができるように練習中です。
床の間にかかっている「無事」は、禅語で何事にもとらわれない、計らいのないという意味で、美しく見せたいとか目立ちたいという計らいの無い、野に咲く花のような自然な状態を指すそうです。そんな境地に憧れつつ・・、本年も皆様の無事をお祈りします。
満を持して「薪割り会」を開催!
かれこれ15年ほど続いているこの「薪割り会」。
当初はただただ “薪割りを体験してみよう!” と、牛山の家の住まい手と始めたイベントですが、今ではすっかり丹羽アトリエOB会に。
同じ木の家に暮らす仲間が集う、楽しい楽しい同窓会です。
趣味趣向が合った “お仲間“ ですので、つい話も弾んで、御開きはいつも御前様! 笑
築92年の古民家を富士河口湖町に移築(一部増築)した「Chair Laboratory 椅子の学び舎」。島崎信氏(武蔵野美術大学名誉教授)のコレクションを中心に約250脚の椅子を展示しています。2021年1月に解体着工し、2022年7月にプレオープンしました。隣接して、木工技術を学びたい世界各国の人も受け入れる「木工スタジオ」も新春完成オープンします。 山梨県南都留郡富士河口湖町大石2813-4 カフェも併設。ぜひ足をお運び下さい。
日本初の木造復元から30年経った掛川城天守閣の大規模な修理に着工した日の写真です。まずは、高欄の解体工事から始め、木部を取り替え、カシュウ塗りします。餝金物も塗装し直して、高欄を全て交換します。外壁の漆喰も土佐漆喰で塗り替え、淡い黄色にしばらくなります。今年3月末には、化粧直しした姿をお見せできます。桜満開の季節がおすすめです。
江戸時代末期に新潟県に建てられた築170年の古民家を愛知県に移築(新築)しています。
昨年、 慎重に解体・構造材の取外しを行い、今年は古材の洗い・手直し、新材の刻みを進め、7月中旬から建て始め、ただいま造作中。
その中の1カット。土壁の竹小舞が編まれていくと、何とも言えない気持ちよさと、すまいが形つくられていく喜びが湧いてきます。
春に竣工予定です。
自然素材のよさを体感していただこうと、弊社応接室の改装工事をしました。
床は幅広で厚みのある赤松と黒松の床板。壁は中塗り層からの土壁。仕上げは聚楽。天井は手刻みで造った格縁天井。格縁の桟は檜葉。天井板は杉。板目を縦横に張った市松模様の天井です。窓に障子、出入口には蔵戸を入れました。気の香る応接室です。心地よい部屋になりました。訪れるお客様も喜んでおられます。
「広江の家」で外構の撮影をした時に、カメラマンの岡野さんが撮ってくれた写真です。いつも元気な三兄妹がちょっとオスマシしているのがとても可愛らしくて、大好きな一枚です。
テーブルとベンチは栗を探して作りました。子ども達は大好きなお母さんがキッチンに立つ横でテーブルに座り、おしゃべりをしたり、オヤツを食べたり、宿題をしたり、お絵描きをしているそうです。時には叱られたり、兄弟喧嘩をする事もあるでしょう。子ども達と一緒に家や家具が育つのも楽しみです。
宮城県角田市の里山に建つ築100年程度の古民家を現地改修再生したものです。代々住み継がれてきた家の歴史と、木のぬくもりを感じられる家にしたいという建主の思いに応えるべく、主な居室は柱や梁などの古材を現わしとした開放的な空間とし、ご両親の住む隣接するS造離れと、若夫婦世帯の住む当該住宅との接点に通り土間のスペースを設けて2つの建物を繋ぎ、そこに薪ストーブを設置して2世帯の憩いの接点となるよう設計した写真です。
テレワークが定着して、住宅の設計の際には必ずと言っていいほどその場所の話題になります。今年春に完成した家にも1畳分の大きさの仕事部屋を設けました。守衛室のように家の入口脇に位置し、かつ机の向きが壁を背にするので、仕事しながら家全体の様子が視界に入りつつ、オンライン会議の時には画面に家の様子が映り込みません。また階段を一段上がった踊り場のレベルにあるので、「ヨシ」と気持ちを切り替えてもらうことを目論んでいます。
三重県主催の第1回みえの木建築コンクールにて、初代住宅新築部門最優秀賞を頂きました。
思いを込めてつくった「いかだ丸太の家」、五代目のデビュー作が、創業120年の記念ともなりました。
/表彰会場にて 施主さん、設計士さんと共に
丹羽明人アトリエ主催の年末恒例イベント、薪割り会でのワンシーン。はじける笑顔にお施主さんと丹羽さんの素敵な関係性が伝わってくるようです。
時間の経過とともに表情に深みを増していく杉の無垢板。
数年前に玄関の腰板を張り替えたお宅を訪れると、その時とはまた違う表情になっていました。風雨にさらされて色は渋みを増し、天然の浮造りが現れていました。
自然に生えてきたというツクバネ朝顔は、渋めの腰板に彩りを添えています。
新しい年も引き続き、無垢材の美しさを大切にした家づくりを続けて参ります。
「くむんだー」を始める前に、子供たちへ森や大工のお話をしています。
単に、大きな玩具で遊ぶのではなく、そこに込められた大切なお話です。
イベントなどでも、周りを親御さんに囲んでいただき、同じようにお話をします。
10分程度ですが、子供たちはまじめに聞いてくれますよ。
敷地は豊田市内の住宅街。子育て中の若いご夫婦が、ご実家の敷地の一角に27坪の平屋を新築。 周囲は住宅に囲まれ、自然条件の手掛かりは少なく、敷地内の空間も限られている90坪の敷地。
ここ三河地方は、雨が多く比較的温暖な気候で、全国的にも土壁の家作りが最後まで盛んに行われてきた地域です。今でも、荒壁土・中塗り土・藁スサ・小舞竹など土壁の生産体制は、細々と残っています。
建て主の要望は、以下3つです。
① 将来土に還る自然の素材で作る家
② 極力エアコンや設備には頼らない暮らし
③ 将来住み継がれていかれるような長持ちする家
これらのご要望を実現する為に、この地域で昔から作られてきた「伝統的な民家」を参考に、持続可能な家作りと暮らしを目指しました。
店蔵の連なる川越市の市街地から程よく離れた静かな住宅地、周囲を低層の住宅に囲まれたところにご紹介する住まいは建っています。南と西には道路があり、富士向きといわれるやや南西向きの敷地です。季節を通じ程よい日射や風通しがあるため、それら自然エネルギーを活用しつつ、住宅周囲の外構を温熱的なバッファゾーンとして捉えた積極的な環境改善を施しています。
緑の少ない殺風景な住宅街が増えていますが、敢えてそこに森をつくり暮らすということを目指して計画し、気候風土に適応した多様な要素を備えています。持続可能な生態系を持ち、自然の恵みである日射・水・風の恩恵を受けることで、樹木と菌糸類、微生物などが有機的につながりながら最適化していき、その一員である住まい手は、四季を感じながら心地良く豊かに、少ないエネルギー消費量で暮らしていくことが可能になっています。
木と土を主要な材料として用いています。本小松石、西川杉板、本漆喰、和瓦で仕上げられた外観は、雑木の庭との相性も良く、機能的にも調和しています。
庭と地続きになった床下は、土を露出させることで季節や天候に応じた吸放湿ができるようになっており、 各方位からの風が通り抜けることで、適当な湿度が維持されています。
この計画では、かつて水田だった地盤に木杭を打ち、外構環境を改善することで自然の持つ快適性を取り戻すこととしています。造園家とも話し合い150坪弱の敷地条件を生かした土中環境の改善、水脈づくり、広葉樹を主体とした樹木の配置など、持続的に雨水の自然浸透や通気が可能な造作をしています。
左は造園完了時芽吹きの頃。右は2年3ヶ月後の夏、すくすくと育った樹木により、各所に木陰が増えた様子。
エネルギー使用量実績データ(設計時と入居後1年間の実測)
設計一次エネルギーは基準エネルギーの86%ですが、居住後の使用 エネルギーは、基準に対して34.1%です。外皮は断熱基準に達しませんが、気候風土適応住宅に備わるさまざまな要素によって、低エネルギーで快適な暮らしが実 現できています。本質的な省エネルギーの評価は、気候風土適応住宅に用いられてい る材料や工法を盛り込み、さらに 製造から建設、廃棄に至るLCAで 評価するのが相応しいと考えています。
敷地は熊本市郊外。南には樹木が生い茂る小高い丘があり、その足下には小川が流れ、緑と水を介した涼しい風が敷地を抜ける。この風を南の大きな窓からよびこみ、風通しと吸湿材で涼を感じる。冬は多層構成の木製建具を閉めて小さく住まい、薪ストーブを焚き、土壁の蓄熱効果で暖かく過ごす。施主が造園業を営むため、仕事で廃棄する枝木が燃料となる。
建築の材料は主に木と土と竹と藁であり、瓦や設備機器以外のほとんどが熊本県産材である。床と天井の断熱材にも構造材の廃材である鉋屑を用いた。
石場建て+真壁構造は、被災時や白蟻被害時に、被害箇所の状況を把握し修繕方法を考えることが容易であり、建物の長期使用へとつながる。また、地域の自然素材と地域の職人による家づくりは、材料の生産・運搬などに関わる建設時のCO2排出量が小さい。さらに、役目を終えれば土か煙となるもので産業廃棄物は発生しない。ライフサイクルを通して環境負荷が極めて小さい住宅である。
高天井で構造材あらわしの内部空間。畳、土壁漆喰、杉板、木製戸、障子など建物を構成するほとんどの材料が吸湿材であり、熊本県産材でもある。
設計時のイメージスケッチ。敷地の南にある樹木と川を通った涼しい風が、建物全体を通り抜ける。
エネルギー使用量実績データ(設計時と入居後1年間の実測)
設計一次エネルギーは、基準一次エネルギーの88%程度であり、居住後の使用エネルギーは基準1次エネルギーの52.4%である。気候風土適応住宅のさまざまな要素によって、消費エネルギーがおさえられていることが分かる。
埼玉県の会員多数が関わり意見交換を進めていた、埼玉県版気候風土適応住宅の基準が2022年12月1日に制定、発表されましたのでお知らせいたします。
九州地方での発表に続き、関東方面では初の基準発表になります。
材料、工法、技術について、簡潔明快に設けられた要件により、これまで伝統的な技術を用いながらも、国土交通省告示第786号1項には規定されていない300㎡未満の住宅が気候風土適応住宅として位置付けられます。
今後、「地域の気候風土に対応した伝統的構法の建築物などの承継」を視野に、各地の所管行政庁の基準づくりに拍車がかかることを期待しています。
詳しくは、次から閲覧が可能です。
※「」内は付帯決議の文面です。