時代と共に自分の関心も世の中のニーズも変わって当然

埼玉県越谷市で設計事務所「けやき建築設計」と建築施工会社「欅組」を営んでいる畔上順平(あぜがみじゅんぺい)さんのご紹介です。

畔上さんは、1976年生まれで現在43歳。生まれも育ちも越谷で、地元越谷を離れる事なく、東京の学校や会社に通い、29歳で「けやき建築設計」を設立。現在は同じく地元越谷生まれの奥さんと10歳の娘さん、6歳の息子さんの4人家族だ。

元々設計事務所だけでスタートし木の家を中心に作ってきたが、住む環境や自分を取り巻く状況などによって徐々に興味関心が変わってゆき、設計行為だけでは物足らなさを感じ、実際に手を動かして作ることに関心が出てきたそうだ。

「ちょっと直してよ」とか「まとめてやってよ」という依頼が増えていく中で、徐々に自分で職人さんを手配したり仲間が集まってきたりと、建築会社らしくなっていったとのこと。今では設計から施工まで一貫して引き受けられるように「けやき建築設計」と「欅組」の両輪を廻している。設計だけの仕事・施工だけの仕事・設計施工まで一貫して引き受ける仕事など、様々な立場で仕事をされている。

デザイン設計・職人さんの技術・本物の素材を使うという3点がクリアできていれば手段やポジションは問わないというのが社内での共有意識だという。

「オールラウンダー的な感じです。時代と共に自分の関心も世の中のニーズも変わっていく訳ですし、ベースとなる得意分野から少しずつ領域を広げていくというのは、当然なのかなと思っています。」


その家、本当に必要なんですか?

また、家族の存在も今の仕事の方法論に影響を与えている。

「我が家はみんな越谷なので『視野が狭いね。そこしか見えてないんだね。』なんて声も聞こえてきそうですが、逆に越谷という共通言語が家族内にあるというのは、広がりはないですが、ガッチリとした連帯感があります。家族を通して地域の暮らしを見つめ直している時期ですね。ですのでお客さんに対してもそういう目線で提案できるようになりました。」

例えばこんな提案だ。

「新築で家を建てたいと相談に来たお客さんに『本当に必要なんですか?』と言ったことがあります。もちろん『なんでそんなことを言うんですか?』という反応をされる訳なんですが、『いや、もったいないからです。ローンも含めて何千万円も払うわけじゃないですか。それをやめればいろんなことにそのお金を使えますよね。』とお答えしています。ご両親の家はガラガラだったり土地が余っている場合などもよくあります。一時的に我慢をしたくなかったり、同居できない理由を一生懸命考えるんですが、逆に我慢せずに一緒に居られるようにするためにはどうすれば良いかと言うことを、設計や計画で解決できる場合もあるということを提案しています。」

かなりプライベートな部分にまで踏み込んでいく印象だ。

「もうそこまで踏み込んで提案する産業にしていかないとダメだと思います。日本って住宅に対するお金の掛け方が異常じゃないですか。一代でローンを組んで、晩年までお金を払い続けて、完済した頃にはもう老朽化して壊したり、不要になって空き家になったり。そんなシステムは非常に良くないと思っています。もう新しい家ばっかりいらないんです。ちょうど世の中的にもリノベーションとか既存ストックを有効活用することが認知されてきているで、お客さんに対して『まだ捨てなくていいんじゃないんですかね?』『大切にしませんか?』と提案できる良いタイミングかなと思っていますし、提案していかなければならない立場にいると思っています。」

何がそこまで畔上さんを本気にさせるのだろうか。

「自分の地元のことだから本気で考えられるんです。死活問題ですから。遠い地方から依頼されて知らない人や知らない街のためにする仕事だと、どうしてもここまで本気で取り組めないと思うんですよ。地域のコミュニティ・アーキテクトとか小さい単位での建築士の役割が非常に大切だと思います。」


外注という言葉は存在しない。〝チームけやき〟で作り上げる。

次に会社のスタッフや職人さんとのやりとりについてお話を伺った。

「うちの技術系のスタッフは自分以外に2名が監督として在籍しています。まだ両名とも若いのですが、お客さんとの打ち合わせ・調査・積算・見積もり・工事の契約・管理監督・引き渡し・アフターメンテナンスまでワンストップでやる仕組みにしています。もちろん得意不得意が出てくる部分もありますが、全部トータルで経験してもらって、徐々に自分の得意分野に特化してやっていってもらえばいいかなと思っています。」

実際の業務では信頼関係を築いてきた職人さんたちと監督とで案件ごとのチームを組んで進行している。監督が若手である一方、職人さんは40代を中心に若手から年配まで様々だという。

「一緒にチームで仕事をするので外注という言い方はしないようにしています。職人さんたちも自分たちを〝チームけやき〟と呼んで愛着を持って取り組んでもらえているので嬉しいです。『信頼関係が一番』というと薄っぺらいように聞こえますけど、それが全てなんですよね。大手ゼネコンの仕事のように一から十まで管理して進めると、僕らのやっているような家づくりでは全然仕事にならないでしょうし、いいものにもなってこない。『ここは全部任せたよ』と言って、各々の責任で仕事をしてもらっています。信頼しているからこそ、この言葉を発せられるし、受け止めてもらえるのではないかと思っています。」

「また、監督である若いスタッフに対しては、私がずっと張り付いて、ああしてこうしてと指示を細かく出すこともできますが、それはしないようにしています。その中でも一定以上のクオリティの建物を作ることができているのは、やっぱり職人さんの力があるからこそなんです。監督という立場ではありますが、及ばない部分は、実際は職人さんが補填してくれている訳です。監督として管理はしていますが、逆に職人さんから教わって学ばせてもらっている状態ですね。それが出来ているのは職人さんの技術や人間性が高いレベルで保てているからだと感じています。」

きっちりと模型を作ることもチーム内の意識を統一するために重要だ

畔上さんはよくスタッフに『他の工務店にパッといって同じ仕事ができると思ったら大間違いだから。』と言っているそうだ。だからと言ってどこでも潰しが効くような育て方に変えるつもりはないとのこと。

「上手くいっているチームにいて失敗が少ないから監督はそのことがわかんないんです。あんまり成長しないんじゃないかとも思われますが、いいものを見て、いい仕事をちゃんとやるということを覚えて、いい経験を積み重ねていってくれれば、いつしか今度は若い職人さんを引っ張りあげる力になるんじゃないかと考えています。」

「そうやって、職人同士や設計者同士の枠を超えて、技術やノウハウが行ったり来たりしながら伝わっていくことで、次の世代に引き継がれていくという形もあるんじゃないかと思うんです。同じことをやるにしても、立場や専門分野によっていろんな見方がある。それを受け入れられるようになってくると成長して行くんじゃないかな。そんな学びの場でもある〝チームけやき〟が、きちんとクオリティの高い建物を作り上げて、お客さんに届けられているということには、誇りを持っています。」

一般的な手法とは一線を画す考え方で若手を育ててられている畔上さんの話にはうなずくばかりだが、チームメイトの職人さんの場合はどうなのだろうか。職人さんの話になると必ずといっていいほど話題に挙がるのが後継者問題。畔上さんは何を感じ、どう考えているのか質問してみた。

「自分の周りの職人さんの場合も、やはり後継者をどうするかという問題には直面しています。僕は直接は関係していない訳ですが、実はあえてそこに介入しています。」
「ただ『継ぎなさい』と無下にいうのではなく、例えば『お父さんのやっている仕事は本当に素晴らしいから、受継げば必ず需要もあるし求めてくれる人も沢山いるよ。自分たちも真剣にやっているから一緒に仕事をやらないか?』と言って迷っていた息子さんを誘ったりしています。やっぱり第三者が介入しないと、親子だけではこいうった話はすんなりは進まないんですよね。」

家づくりにも、後継者問題にも、懐に一歩深く入り込むのが畔上流だ。


七左の離れ屋:「離れ屋」がある家を作るというのがテーマであり共通認識だ。第二回埼玉県建築文化賞住宅部門、最優秀賞受賞。

共通テーマがあると、みんなでそこへ向かっていける

けやき建築設計のウェブサイトを見ていると施工実績に並んでいる建物の名前が気になった。一般的に〝どこどこの家〟というネーミングが建築関係者のセオリーだと勝手に思い込んでいたので、〝原点回帰の家〟〝森の舟屋〟〝和の暮らしと趣を残す家〟といった名前は意外に感じ想像が膨らんだ。

「共通したテーマがあるとみんなでそこに向えていいなと思ってずっとやっています。迷った時に共通認識があると指針になるんですよね。お客さんともそうですし、スタッフ間や職人さんとの間でもそうです。少し話が脱線しますが、主に越谷だけを中心に建築の仕事をやるとなると、例えば〝石場建てしかやりません〟〝住宅しかやりません〟だと絶対量として仕事が成立しません。ですので手段としての領域はかなり広くできるようにしています。そんな中でいろんな仕事をしていると、スタッフや職人さんも何をするべきか迷ったり、ビジョンがぼやけちゃうんです。そこでテーマを設定することで、各々のやるべきことが明確になり、向かうべき方向を共有できるというメリットがあります。」


七左の離れ屋

2009年竣工。暮らしに色気を求める建主さんのために、住まうための機能だけに偏らず、モダンで美しい日本家屋を建てたいとの想いで、母屋とは別に〝現代の数奇屋〟のような離れのある家を作った。〝離れ屋〟がこの家の名前でありテーマという訳だ。

写真:©︎KAWABE akinobu

10年前を思い出しながら各所を見てまわる畔上さん

左:「時間が経った時によくなる家がいいですよね」というデッキは栗の木 / 中:版築の塀はワークショップで作ったので人によって層の仕上がりが違う。そこがまた面白い。 / 右:とにかくいいものを作りたいと言う時期だったので、特に細部までこだわって作っているという。(写真 左・中:©︎KAWABE akinobu )


自然と共に生きる家

こちらは今年竣工したばかりの30代のご夫婦の住まい。新築ではなく祖父母が住んでいた家を活用した。

とにかく自然素材で行こうということで設定したのが〝自然と共に生きる家〟というテーマ。モルタルの外壁は全て県内産の杉材に張り替え、グラスウールの断熱材はみんなの共通認識として使いたくなかったので、替わりに壁の中にも杉の板を敷き詰めた。普段では考えられない方法もテーマを設定すると生まれてくる。工事で出た廃材は薪ストーブの燃料になっているそうだ。

〝七左の離れ屋〟に比べるとリフォームとはいえザックリした仕上げ。設定したテーマによって〝どこにこだわるか〟が違う全く違う。決して手を抜いている訳ではないのだ。

県内産の杉材をふんだんに使っている

「テーマの下で作っていくとやっぱり出来上がるものが違うんですよね。お客さんと打ち合わせをしていく中だったり、建物の特徴だったり、色々出てくるキーワードをかき集めて『これでいきませんか?』と提案しています。関係者間で何か議論になった時でも、『テーマがこうだからこうしよう』と堂々と会話ができ、みんなが納得に達するのが早いんです。そうすると大きなミスや『話が違う』みたいなことにもならないんです。結果としてお客さんからの満足度に繋がりますし、つくり手のやりがいも出てきます。」

ここでもまた畔上流を感じた。


越谷は俺が守る

木の家を多く作ってきた畔上さんだが、最近では店舗やカフェなども手がけている。そこにどんな変化があったのだろうか。旧日光街道にある実際に手がけたお店を案内してもらいながら話してもらった。

まず連れてきてもらったのは、3年前の2016年12月に完成した〝CAFE803〟。
「日光街道にもう一度人が集まる場所を作りたい。」「越谷にサードプレイス的な場所を作りたい。」そんな想いでスタートしたプロジェクトで、現在では越谷に住む人たちのコミュニティスペースとして定着しており、想い描いていた以上の活用のされ方に驚いているそうだ。

かつての日光街道の顔つきにしたかったので、ガラスの大きな引き戸と土間という形態にした。それが共通言語(テーマ)だ。

「『そもそも日光街道を賑わせる必要があるのか』というところから議論をスタートし、『川越のような賑わい方を越谷は求めていないんじゃないか』という意見に今のところ落ち着いています。その中でも越谷で暮らす人たちが心地よく使えるような設え・店構え・街並みとはどんなものなのかと分析しながら進めている最中で、トライ&エラーの連続です。いつの間にか仕掛け人みたいな感じになっています。(笑)」

「仕掛け人です」と笑う畔上さん

「自分の興味関心が家からまちに広がっているんです。〝いい家が出来ていけば、いいまちが形成されていく。いいまちが出来れば、そこに住む人々の暮らしが豊かになっていく。〟という感覚を持っています。地域の価値が上がっていくことであれば、どんなことでもやっていこうと考えています。そういう想いで日々の仕事に取り組んでいると不思議なことにお店からの依頼が来るんですよね。そしてそのお店に足を運んでくれた人たちから伝播して、また次へと繋がっていって…という風に店舗やカフェを手がける方向に活動が広がっています。」

独立当初は、建築業界や全国基準などを気にして〝自分がどのくらいのことをしてやっているのか〟という軸で仕事をしていたそうだが、最近はそれよりも〝越谷に身を置いているので、越谷の暮らしを良くしていこう〟というスタンスで仕事をするように変わってきたそうだ。

「全国から越谷だけに視野が狭くなったという訳ではないんです。地域をより良くしたい、良い状態を保ちたいという想いで仕事をしている建築関係の人が、木の家ネットの会員をはじめ全国にたくさんいます。各地域に広がるその想いの輪が重なり合って、徐々に日本という国を覆い尽くすといいなと思っています。その中で「越谷は俺が守る(笑)」みたいな想いを胸に取り組んでいます。

地域のパートさんの手によるランチ。ほっこり落ち着くおふくろの味だ。

左:いろんなことをやっている人が越谷にいるんだという、潜在的な魅力の発見にも繋がっている。 / 中・右:ワークショップや催事の予定がぎっしり。最初はここまで埋まるとは予想していなかったそうだ。


一軒でも多く残すことが地元の建築屋の使命

続いて案内してもらったのは、同じく旧日光街道沿いにある2018年4月にオープンした〝はかり屋〟。

およそ築120年の〝旧大野邸 秤屋(はかりや)〟を、こだわりのショップ・レストラン等、当時の宿場の雰囲気を体験できる古民家複合施設として生まれ変わらせた。「人々の想いやまちの歴史を過去から現代そして未来へと繋げていける存在であり続けたい。」との願いが込められている場所だ。

奥へ奥へと4棟が繋がっている。桁と架を入れ替えて屋根を戻してある。

「佃」が元々の屋号だった

「ベッドタウンだと思ったのにこんなところあるんだ」とびっくりされることが多いとか。「もともとはこの日光街道沿いはこうだったんだよ。」というとさらに驚かれる。「外から流入してきた人が多いのでみんな知らないんですよね。」と畔上さん。

「だから地元に昔からいる人間としては、物を残すことが大事だなと思います。一度壊してしまうとただの昔話になってしまう。そうすると『ふーんそうなんだ』で終わってしまうけど、こうやって目に見える形で残して、そこで体感してもらうと一瞬で歴史を理解してもらえる。百聞は一見に如かずです。」

naya:名前の通り納屋だった場所。ギャラリーと貸しスペースとして生まれ変わった。

minette:キッシュとフレンチ惣菜のお店

「こういった建物を一軒でも多く残すことが地元の建築屋の使命かなと思っていて、ロールプレイングゲームのように楽しみながら携わっています。単純に受注されたものだけを直したり作ったりというだけのペースだと、古い建物はどんどんなくなってしまって、まちなみを残すことはできません。使命を果たすために、はかり屋もCAFE803も自分から運営にコミットしていっています。」

土間には群馬県藤岡市のダルマ窯の焼かれた藤岡瓦を敷いた。蔵の表情とも相性が良い。

傾いていた部分と、新設の水平のものとすり合わせるのが苦労したそうだ。目の錯覚も利用しながらうまく帳尻を合わせている。

「ただ結局〝他人の家〟なんですよね。『残してください』と言ってもおこがましいので『こういうことをやれば残せるんじゃないんですか』という提案の部分まで入り込んでするようにしてます。いきなり外部のコンサルみたいなのが来ると『なんだこいつは』みたいな印象を持たれてしまい、入り込むどころか門前払いされてしまいますが、はかり屋やCAFE803もやっているという実績があれば『任せてみようか』という流れにもなっていきます。」

地域密着で建築やまちづくりを地道に続けることにこそ、地方の建築士や工務店の活路が見出せるのではないだろうか。


どれだけの人が本気で関わることができるか

設計だけから設計施工へと、家づくりからまちづくりへと、自身の興味関心と共に活動範囲を広げていっている畔上さん。今後や将来に対してはどんなビジョンを描いているのだろうか。

「ハウスメーカーなどの家に比べたら、自分たちの作っているような木の家は決して安くはないので、いい家が欲しいけど手を出せないという人も多いもしれません。だったら、リフォームをしたり店舗を作ることに対して同じような想いで取り組んでいった方が、より多くに人に自分が良いと思っていることを伝えていけるんじゃないかなと思っています。もちろん一軒の家を建てて、一つの家族に満足してもらうことは大きな喜びではありますが、より多くの人に体験してもらえる形で、自分たちのやっていることを伝えていく事にこそ、いろんな活動や運動をやっている意味があると思うようになりました。」

「越谷で自分も色々やっているつもりですけど、結局盛り上がっていくスピードと落ちていくスピードを考えたら、落ちていくスピードの方が速いんですよね。そのエネルギーをとてもじゃないけど自分一人では維持することも加速させることも難しいので、仲間や共感してくれる人を増やしていきたいですね。」

そこにどれだけの人が本気で関わることができるか。越谷だけではなく、各地方のまちづくりにおけるターニングポイントだ。


けやき建築設計・欅組 畔上順平(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

一歩足を踏み入れると、まるで背筋が伸びるような、凛とした別世界・・・埼玉県新座市の内田工務店が手がけた木の家は、そんな空気をまとっていた。

内田工務店は、現在の会長である内田光男さんが、いち大工から叩き上げで大きくしてきた。
大工の道に入り、職人を束ねる棟梁、そして社長として役割を変えながら、木の家と真剣に向き合ってきた。内田さんは、「木の家づくりには、ひとりの職人を一人前にしてくれる懐の深さがある」と力を込める。これまで約15人の弟子を育て、施主に喜ばれる家づくりの輪を広めている。

木の家づくりで人を育てる

「木の家でないと、大工は育たない。プレカットではだめだ」。内田さんはまなざし鋭く、こう言い切る。
手刻み、木組みの木の家づくりに必要な能力は、数多あるという。全体を見ながら細部にも気を配ること。木や土など、自然から生まれた個性ある素材を組み合わせ、美しく仕上げること。粘り強く時間をかけながらも、納期を意識すること。何より、単なるものづくりでなく、財産づくりそのものだ。

施主の中には、家づくりのためにストレスを抱えたり、借金を背負ったりする人もいたという。家をつくる大工には、責任感が重くのしかかる。

内田さんはその責任感を、10代で弟子入りした時からひしひしと感じてきた。幼いころから手先が器用だったことから、親戚の大工のもとで修行。26歳で独立した。30代で法人化。72歳になった今は、会長として工務店を支える。

新座の商店街にある内田工務店。「一棟入魂」の文字が目をひく

「時代とともに、家づくりの考え方が変わってきた」と内田さん。以前は、大工と施主が、世界にただ一つの家を「なにもないところからつくる」ものだったが、ハウスメーカーなどの台頭により「あるものの中から選ぶ」感覚になってきているとみる。そうなると予算ありきの買い物になり、手刻みよりも安く済むプレカットを使うことが、現実的な場合も出てきたという。

現在、内田工務店が手掛ける家づくりで、手刻みとプレカットの割合は半々くらいだ。工務店に所属するのは職人5人、現場監督2人。加えて、事務を担当する従業員が3人いる。
工務店の経営や施主の予算を考えると、木組みや手刻みだけにこだわり続けるのは難しい状況だというが、「職人を育てるという視点では、木の家づくりをゼロにしてはいけない」と考えているという。

こう考えるには、わけがある。内田さんは修行時代から造作仕事が得意で、「建物の線が綺麗と言われるのが、嬉しかった」という。
腕を生かせるのが、木組み、手刻みの木の家だった。寺の鐘楼堂や、数寄屋風の家づくりにのめりこんだという。

寺の改修工事をした時、住職に書いてもらったという思い出の木札

しかし独立してひとりで仕事をするようになると、壁にぶつかった。「俺はいい家を建てられる、という自信があったが、腕は2本しかない。喜ばせられる施主さんの数も少なくなってしまう。俺と同じ仕事ができる人間をつくろう」との思いから、弟子をとるようになった。

地元の若者を紹介してもらったり、大工育成塾の受け入れ先になったりして、さまざまな弟子と出会ってきた。「何もわからない若造が、腕を磨いて、一軒建てちゃうんだぜ。感動するよ」と内田さん。そのためには時間が必要で、時間をかけて作り上げる木の家が最適なのだと強調する。

その時間も、ただかければいいというわけではない。大工の技術には、単に美しく仕上げるだけでなく、効率よく作り上げる知恵が詰まっているのだという。積み重ねてきた伝統の成せる技だ。マニュアル冊子があるわけでもなし、職人同士、手を動かし、言葉をかけながら伝えていくしかないのだ。

大工から社長、そして会長へ

修行した弟子のほとんどが、地元で工務店を立ち上げ社長として活躍している。削ろう会で賞をとった人もいて、「自慢の存在」と誇らしげだ。

一方で、「誰もが俺みたいな仕事ができるわけじゃない。向き不向きがあるから、やめたってかまわない」と思うようにもなった。そして、「いくら腕がよくても偏屈では通らない。施主さんを喜ばせようって気持ちで仕事をするよう伝えているつもり」と笑う。

伝統を受け継ぐ大工と、人を育て経営を担う社長、それから、職人を束ねる棟梁の両立。
「バランスをとろうとか、理想があってやってきたわけじゃない。施主さんの要望に応えようと、一軒一軒真剣勝負してきただけ」と振り返る。
その結果は、現場から経営まですべての経験として、内田さんの中に積み重ねられている。

令和に時代が変わり、同工務店も8月、息子の健介さんに社長職をゆずった。光男さんは現場を回るより、図面を書いたりと事務所で過ごす時間が増えた。

大きいテーブルで、従業員の顔を見ながら作業する。ほとんどの事務作業は手書きで行う

健介さんいわく、光男さんは「経験値がけた違い。頼りになる存在」と話す。光男さんも「信じて任せることで成長するから。なるべく口出しはしないようにしてる」とほほ笑む。

社長の健介さんとのタッグが心強い

自由設計で満足いく家づくりを

内田工務店のコンセプトは「自由設計の家」。この自由さが、施主の満足度を高める。

「無垢の木の家に住みたい」。このような要望があった市内の日本画家・Aさんは、内田さんとの出会いにより理想としていた数寄屋風のアトリエ兼住居に住むことができた。

この家の門は、木製の数寄屋門だ。雨や風を優しく受け止め、また、Aさんの手によって丁寧に磨かれることで、独特の風合いがある。内田さんは、「建てたばかりの真っ白な門もいいが、日がたってまたさらに深みが出たな」と目を細める。

門をくぐった瞬間、外の空気と違う空気が流れて、落ち着くような、懐かしいような、そんな気持ちにさせる。庭には、紅葉やイチョウなどさまざまな木が美しく連なり、季節を教えてくれる。

玄関を開くと、スギヒノキでできた壁や床のホールが、ぬくもりを感じさせる。正面にあるケヤキの小さな床の間に飾られた季節の花からは、温かみがこぼれるようだ。

「本物の木の家には、何十年経っても古くならない良さがある」と言い切る内田さん。Aさんも、「飽きないです。わびさびの世界に身を置くことは、日本人にとって心地よいことなんでしょうね」とうなずく。

玄関の横には下地窓(竹小舞の見える窓)をあけた土壁を配置。来客は驚き、手触りを楽しむという(左)。ヒノキの階段は、ホールの中で主張しすぎず、すっきりとした印象に仕上げた(右)

2人に、建設当時を振り返ってもらった。
Aさんは以前、ハウスメーカーの中古の一軒家に住んでいたが、住んでいくうちにとちょっとした違和感や住みづらさが出てきたという。「今思えば、合板や集成材といった材料にひっかかっていたんでしょうね」とAさん。

新築を考える際も、ハウスメーカーに相談したが、ドアノブひとつにしてもあるものの中から選び、そこに気にいるものがなければ、オプションで高額になるというスタイルが「自分にはしっくりこなかった」という。

インターネットで見つけた内田工務店は、内田さんにイメージを伝えると、新しいものを次々に提案してくれたという。数寄屋門や、家のサイズに合わせた小さめの床の間がそうだ。

内田さんの自宅である無垢の木の家を訪れた時には、その居心地の良さにすっかり魅了されてしまったという。さらに、内田さんの現場仕事が休みの日曜に、嫌な顔せず相談に乗ってくれたり、趣のある古材を探しに秩父まで同行してくれた姿に、信頼を寄せている。

内田さんの自宅の数寄屋門(左)と庭が見える居間の建具(右)。どちらも古くなることで趣が増す

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自宅内の建具の一部は、木の家ネットのメンバーから譲り受けたもの。「思い出が残ってるのがまたいい」と内田さん。

それから、憧れた無垢の木の家だが、心配だったのは値段だ。内田さんは予算内に収まるような工夫をしてくれた。

その一つが、玄関ホールの床板。見栄えがするところなので通常なら高級な床材を勧めるが、
ヒノキの木裏を使うことでコストを抑えた。

さんは「家が建っていく時のわくわくは、今でも忘れられない。私は人を感動させたいと思って絵を描いていてなかなか難しいのですが、大工さんは簡単にこなしてしまう」と話す。

Aさんは数寄屋風の家づくりにこだわったが、内田工務店の「自由設計の家」は、伝統的
な大工仕事だけにとどまらず、モダンなデザイン住宅も手掛けている。

施主の要望は多種多様。どんな形の家であっても、「本物の無垢の木を使うことで、住み心地のよい空間をつくりたい」というのが、内田さんの信念だ。それを実現するには、木の変化に対する深い理解と、高い技術力を持つ大工の存在が欠かせない。すべてはつながっているのだ。

「好きでこだわった仕事で、施主さんに喜んでいただき、人も育つ。こんなにありがたいことはない」と内田さんは語る。

● 取 材 後 記 ●

家づくりのスタイルと同様、働き方のスタイルも変わり、職を替えていくのが珍しくない現代。木の家にかかわり続けて50年以上という経験から生まれる存在感は、とてもまぶしかった。

こちらが質問すると、ぽんぽんとよどみなく答えが返ってくる。長年の経験を、きちんと整理、咀嚼している様子は一目瞭然だった。

あまりの明瞭快活ぶりに、「昔からこんな性格なんですか?」と聞くと、18歳の時、仕事中に大けがをし、大工を続けられるかの瀬戸際に立たされたことを打ち明けてくれた。「好きな仕事をやらせてもらえるのは、本当に幸せなことなんだよ」という言葉は、シンプルに、胸に突き刺さった。

内田工務店 内田光男さんさん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(一部写真は内田さん提供)

東京都国立市でビオフォルム環境デザイン室を主宰する山田貴宏(53)さんは、地域の自然や風土に溶け込む、持続可能な暮らしができる住まいの設計をしている。

職人がつくる木の家ネットには様々な会員がいるが、山田さんの経歴は少し変わっていて、伝統工法や木の家づくりをやっていきたいというマインドがスタートではなく、出身の早稲田大学建築学科では環境設備系の研究室に在籍していた。卒業後は大手ゼネコンで設備設計に従事した後、一級建築士事務所 長谷川敬アトリエ(長谷川さんは木の家ネットの発起人の一人)に転職。6年間務め2005年に独立。今年で14年になるビオフォルム環境デザイン室にはパートナーの設計者も含め、9名のスタッフが在籍する。

山田さんは自身の経歴を「他の会員さんとは少し毛色が違うかもしれませんね」と話す。

「大学の建築学科へは真面目に建築をやりたいと思って入ったんです。ちょうどバブルの頃だったので建築業界が混迷している状態で、逆に『こんな建築が続くはずがない』と感じて興味を失っちゃったんです。

建築の原点みたいなことを考えると、人間が健康に暮らしていくためには、自然が厳しい時にはそれから守るシェルターとしての機能があって、逆に自然が豊かな時にはそれを受け入れて感じることができる。そういう自然環境との応答性のある関係の中で建築って成立している。
そんなことを考えて建築学科の中でも環境系の研究室を選びました。建築と環境の間のインターフェイスする部分の設計をやりたかったんです。また、山登りや自然の中で遊ぶことも好きだったということもあって、だったらそこを掘り下げていこうと思うようになったんです。」


自然界のような小さな良い関係を、たくさんつくる。

まずは、そんな思いを形にした「里山長屋(神奈川県相模原市)」のご紹介。中央線の終点の高尾駅からさらに西へ2駅進んだ緑豊かな藤野駅近くにあるこの建物は、日本のパーマカルチャー(後述)的な風景としての「里山」と、昔ながらのご近所づきあいを象徴する「長屋」をイメージした横並びに続く住居が4世帯(それぞれが間口三間・奥行き四間)と、住まい手みんなが利用できる〝コモンハウス〟と呼ばれる空間が用意されている。また、2016年度 日本建築家協会 環境建築賞住宅部門優秀賞を受賞している建物でもある。ちなみに一番奥が山田さんのご自宅だ。

里山長屋 竣工当時の様子 (写真提供:山田さん)

手前が4世帯が共有して自由に使える〝コモンハウス〟。自然と一体となった屋根が目を引く。

〝コモンハウス〟内装(写真提供:山田さん)

左:庇の前半分はガラスになっており、雨よけと縁側のような空間を両立している。/ 中:4世帯の郵便受けはコモンハウス内にある/ 右:日差しの差し込む土間

山田さんの建築を紹介していく上で重要なキーワードが『パーマカルチャー』だ。環境問題に意識を持った人には馴染みのある言葉だそうだが、一般的にはあまり耳にしたことがない言葉かもしれない。

パーマカルチャーとは、パーマネント(永久な)とアグリカルチャ-(農業)あるいはカルチャー(文化)を組み合わせた造語で、生態系・自然の循環の仕組みに学び、衣食住すべてにわたって、自然と共生できる有機的で持続可能な暮らしのデザインをしようという考え方だ。里山長屋に住まう住民の方々はこのパーマカルチャーについて学び、実践しながら暮らしている。

パーマカルチャーについて山田さんにさらに掘り下げてもらった。


「環境系の出身なので、環境と建築を合わせて考えたいんですよね。生態系というのは小さな循環・小さな良好な関係がたくさん集まって成立している。そしてその仕組みを人間の暮らしのデザインにもフィードバックしようと言うのがパーマカルチャーの考え方で、僕はそれにとても共感を覚えるんです。パーマカルチャー的な視点・手法を家づくりにも活かしていきたいというのが、僕の設計のコンセプトです。」
「〝関係性をどうデザインするか〟がポイントで、建物をポンと一つつくるのではなく、それをつくることによって、地域の材料・風土との関係や、地域の職人さんや業者・生産者さんとの関係など、小さな良好な関係を築いていって成立するものだと思います。」

左:それぞれの家の前には家庭菜園ができる畑が用意されている。/ 右:山田さんの畑はイノシシに荒らされてしまったらしく、現在は芝を張っている。

各々が雨水タンクを設置している。

「この日本で住宅くらいの規模の建築を風土との応答性という視点で突き詰めていくと、自ずと木造で伝統的な建築というところに行き着いちゃうんですよね。入り口は他の木の家ネットの会員さんとは少し違うかもしれないけど、同じところに辿り着いたという感覚です。」


昔の技術+現代の技術=〝次の時代の民家〟

同じところに辿り着いたと語る山田さんだが、ただ伝統構法に立ち返れば良いという訳ではなく、さら前進して今の時代だからこそできる木の家づくり、今の時代にこそ必要な木の家づくりを提唱・実践してる。

「伝統的な木造建築には、もともと断熱材などは使われていないので、それでいいのではないかという見識もある一方で、現代の住環境・社会環境ではどうしても成立しにくいので、伝統的な建物ではあるけれども温熱環境にもしっかり配慮するというアプローチがどうしても必要だと思っています。」


「むしろ僕は伝統構法の家が温熱環境の面でも優れているということを証明していきたい。例えば、実際この里山長屋は土壁でできているんですが、土は蓄熱容量が大きいのできちんと断熱してあげると、むしろ温熱環境には有利に働くんですよね。今日みたいに燦々と光が差し込む日には、その熱が一旦壁に蓄えられて、夜になって外が寒くなっても家の中をポカポカと温めてくれるという効果があります。そういう事実を売りにして『実は伝統構法の木の家って温熱環境的にもいいんだよ』ともっと謳っていくべきだと考えています。
さらにこの家には〝そよ風〟という太陽熱を利用して屋根面で温めた空気を床下に送り、家全体を温めるという装置を導入しています。あまり装置に頼るのは好きではないんですが、そよ風は仕組みも簡便なのでここ以外にも多く採用しています。昔ながらの伝統構法の技術に、こういった現代の技術を組み合わせることで〝次の時代の民家〟を作れるんじゃないかと思っています。」

山田さんの自宅に佇む〝そよ風〟。ダクトと通じて暖かい空気が床下に巡り、家全体に届けられる。

木の家を次世代に受け継いでいってもらうためには、このような技術面での現代への最適化もさることながら、環境面での優位点をもっとアピールするべきだと山田さんは続ける。

「ご存知の通り、国連がSDGsへの取り組みを呼び掛けるなど、昨今は世界規模で環境意識が高まっている時代です。伝統構法の木の家づくりは、環境に優しくてサスティナブルなものづくりなんだということをもっともっとアピールしていいと思います。建てる時には、地域の自然素材を使い・地域の職人さんが手を動かし、地産地消の循環型の資源で建てることができる。また、暮らす時には、土壁をうまく断熱をしてあげれば冬場でも暖かく、庇を長くして開口部を広くすれば、夏場は日差しを遮り風が通って過ごしやすい。さらに時を経て、たとえ壊すことになったとしても、ほとんどの材料は再利用したり自然に返したりすることができる。木の家は真にサスティナブルなエコハウスなんですから。」

「現代人はどうしてもメリット・デメリットみたいな尺度で判断するので、『昔のものはいいものだ』とガムシャラにがんばっても、一般的にはなかなか木の家の良さが伝わらず『古臭いものでしょ』と思われ『最新』『スマートハウス』みたいな言葉に押されてしまうので、ちゃんとしたメリットがあり、合理的に判断すると、むしろ木の家が良いんだという事実を、はっきりと示していく必要があると思います。そうすれば、今まで関心がなかった人もこっちを向いてくれるはずです。」

時代を味方につけるのか、敵に回すのか、アピールの仕方次第だ。


次の世代へ『残していきたい』と思える住まいを、木構造のフレームで。

ここで、現在山田さんが取り組んでいるプロジェクトの中から、国土交通省「気候風土適応型プロジェクト2018※」に選ばれた、伝統的な軸組木構造と竹小舞土壁で、地域の気候と特性に応じた設計や、伝統的な技術と新しい技術との融合を目指している住宅、通称〝日高の家〟を紹介する。

※平成30年度サステナブル建築物等先導事業(気候風土適応型)に採択されたプロジェクトの略称。
地域の気候風土に応じた木造建築技術の継承・発展と低炭素社会の実現に貢献するため、伝統的な住文化を継承しつつ、環境負荷の低減を図るモデル的な住宅の建設に対して、国が建設工事費の一部を支援するもの。


日高の家は、伝統的な軸組木構造と竹小舞土壁の家ながら、地域の気候と特性(川・林)に応じた、ダイレクトゲイン(直接蓄熱)、 通風などのパッシブデザイン(自然エネルギーをコントロールすることで建物の温熱環境を整えようとする手法)を取り入れることで、適度なコストで取得でき、その価値が持続するという総合的にエコロジカルな住まいづくりであるという点が評価されている。

お施主さんは30代のご夫婦と現在保育園のお子さんの3人家族。子供の成長などの家族構成の変化に応じて住まい方をアレンジできるよう二階には建具は入れず、あえて〝がらんどう〟にしてあるという。もちろん初期導入のコストも抑えられる。

将来の住まい方の想像が膨らむ、がらんどうの二階

「家を建てたいと相談にみえる方の中には『ローコストでできないだろうか』と仰る方もおられるのですが、大変申し訳ないと思いながら、『自然素材で職人さんがつくる家ですから、然るべき費用はみていただかないと難しいです。ただ地域の自然素材で造られるきちんとした家で、30年で壊すんじゃなくて次の世代・次の次の世代まで使ってもらえる価値のあるものになりますから、ぜひそういう価値観で費用をかけていただければと思います』とお返事しています。」

「とはいえ、最初の資金を用意するのは大変ですので、まずは建具は入れず〝がらんどう〟でもよいので、きちんとした住まいの木構造のフレームを手に入れる。あわよくば土壁くらいまではやっちゃう。くらいの心づもりで始めるという手法もありますよね。そして、後々資金ができた段階で建具を入れてもいいし漆喰を塗ってもいい。何年も何十年もかけてじっくり作ってゆくというプロセスもありだと思います。最初の資金がないからと言って、手っ取り早く合板とビニールクロスの家に手を出してしまったら、それは『残していきたい』と思えるものにはならず、結果として30年ほどしか保ちません。お客様にはその辺をしっかりと説明するようにしています。」

飯能の杉「西川材」:江戸時代に「江戸の西の川から流れてくる」木材だったのが由縁。埼玉県の良質木材として首都圏を中心に使用されている。一般的な杉のヤング係数(材料の変質しにくさ)がE70であるのに対し、西川材はE80〜E90と強度が高い。

断熱材にはグラスウールではなく環境負荷の少ない〝ウッドファイバー〟を使用している。素材は地元飯能の杉だ。「建築が環境に配慮できることは全部やりたいんです。」と山田さん


左が里山長屋。右にはその価値に共感してくれた方が、山田さんの設計で家を建てて暮らしている。自ずとゆるい繋がりのコミュニティが形成されている。

コミュニティは、つくるものではなく、出来ていくもの。

冒頭に触れたようなパーマカルチャー的な視点・手法で、環境に配慮した家づくり、環境と応答性のある住まいづくりをしている山田さんだが、里山長屋以外にも、住民同士、あるいは地域の人々が繋がるような住まいづくりを多く手掛けてる。

山田さんの考える〝コミュニティの場〟のあり方とは一体どんなものなのか訪ねてみた。

「生態系は小さな循環・小さな良好な関係がたくさん集まって成立していると述べましたが、人間もやはり生態系の一部であるので、そのコミュニティに関しても同じことが言えると僕は考えてます。」

「無理に密度の濃い関係を築く必要はなくて、密度は薄くてもいいから〝小さな良い関係〟を、どう沢山つくるかが大切かなと思っています。いつも顔を合わせ人でも気脈が通じていなければ、なかなか打ち解けることができませんが、逆にたまにしか会わない人でも気脈が通じていれば、いざ何かあった時には助け合おうという心持ちになる。そういう関係ですね。」

「僕はコミュニティの専門家ではないので、学術的なことは言えませんが、自ずとコミュニティを大切にする建築みたいなところに行き着いているので、素人目線ながら注意していることはと言えば「作り込み過ぎないこと」です。『コミュニティって大事だから、みんな繋がって行こうよ』みたいな無理な押し付けをしないことですね。設計に関しては、むしろ〝恣意的なデザインはしない〟ように心掛けています。」

里山長屋のコモンハウスにて

「確かに今の時代、コミュニティが大事というのは、まさにその通りなんです。これからますます高齢化や過疎化が進んでいき、バリバリ健康で働いている世代の人が、体が弱ってきた時や、年老いてきた時に、一体どこにセイフティネットがあるのかと考えると、老人ホームやデイサービスなども確かにありますが、お金が掛かることですし、これから日本全体が貧困化していく状況を考えると、一体どれだけの人数が費用をかけてそこに入居することができるのかという不安があります。だとすると、やはり地域でセイフティネットを張って支え合わなくてはならないんじゃないかと思います。
しかし現代は、良い悪いは別として個人の時代ですよね。その現代人たちに向かって「強制的に繋がっていないと生きていけないんだ」という村社会の理屈は理解されないし、鬱陶しいものなんです。
その辺りのバランスを見極めて、重過ぎず軽過ぎず適度な交わり方ができるコミュニティづくりがこれから大切になってくるんじゃないかと考えています。」

では、具体的にどんなバランスで場を作っているのだろうか。さらに語ってもらった。

「個人個人が責任を持って関与できる状況を作ってあげることこそがコミュニティの下支えになるんじゃないかと思います。人間って勝手な生き物だから自分にメリットになることには目を向けるけど、デメリットには目を背けたくなるものです。その地域・コミュニティに所属することで自分にも返ってくるメリットがあると分かれば、繋がりを持とうとするんじゃないですかね。ちょっとやらしいけど、現実はそうなんじゃないかな(笑)。」


「その下支えがあって初めて『じゃあ仲良くやって行きましょう』という流れになると思うので、恣意的な仕掛けだとか強制的なルールで縛るのではなく〝がらんどう〟を作っておいて『あとは自由に使ってください』くらいの方が良いんじゃないかと考えています。」

「矛盾しているんですが、コミュニティの重要性は考えつつも、ことさらそのためだけの空間・施設を作ろうとはしないんです。例えばアメリカで盛んになっているようですが、日本でも最近目にする事例で、コインランドリーにカフェを併設したり、そこに掲示板を掲げたりすることで、自然発生的にコミュニケーションが始まっていくという場所があります。そういった形で自然とコミュニティが育まれる環境というのがとても素敵だと思います。」

山田さんがそんな絶妙なバランスを考えながら設計した、人と人とのちょうどいい関係が生まれている場を2つ紹介する。


Okatteにしおぎ(写真:砺波周平)

1つ目は東京・西荻窪にある2×4の住宅を2015年にリフォームした〝Okatteにしおぎ〟。会員が自由に使えるキッチンを中心に「地域のハブとなるような場」を目指した〝地域のコモンキッチン〟がコンセプトの施設だ。ごはんを作りたい人・食べたい人、イベントをしたい人・参加したい人、小商いをしたい人、ただくつろぎたい人などが自然と集まり、今では会員数が100名を超えているという人気ぶりだ。


連の家プロジェクト(写真提供:山田さん)

左上:連の家1 / 右上:連の家2 / 左下:連の家3 / 右下:連の家4

2つ目は、里山長屋と同じ藤野にある〝連の家プロジェクト〟。2013年から始まった藤野の里山の風景になじむ平屋が前後に連なる集落感のあるプロジェクトで、その趣旨に賛同するお施主さんの住まいを順次建てていっている。現在4軒まで完成しており、今後さらに建てられる計画だという。里山長屋にも通じる集落感がゆるい繋がりを生んでいる。


進化する余地があるからこその伝統

今回の取材を通して〝伝統構法の木の家〟が必ずしも〝伝統的な日本家屋〟でないとならないと言う訳ではなく、その時代、その土地、その住まい手によって変化のあるものであっても良いのだと感じた。 もちろん、構法が伝統というだけで、現代的なモダンな住まいの図面を引く建築士や、新しい手法や技術を取り入れている職人など、そういった意識の作り手は多く居るものだと思うが、〝伝統〟と銘打っている以上、世間一般に与える印象はやはり保守的なものになりがちだろう。

〝伝統〟について山田さんから興味深い話をしてもらった。

「この業界にいると『伝統とは何だ。いつの時代からの建築を伝統と言うのか。』みたいな会話になることがよくあります。例えば築80年くらい以上の民家を古民家と言ったりする訳ですが、『本当にそれくらいの時代のものが伝統なのか?』とおっしゃる方もいる。『伝統を守ると言うなら、鎌倉時代とか室町時代くらいまで立ち返るのか?』といった気の遠くなる議論にもなりかねません。もちろんその優れた技術を守っていくのは、一つの答えではあるけど、民家の場合はそうもいきません。」

「例えば、『伝統的な民家には一面ガラスの縁側があってポカポカして心地いい』といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるかと思いますが、ガラスで縁側を囲うようになってきたのは明治以降なので比較的新しい設えなんですよね。それより昔は濡れ縁だったので、建具はなく雨風には晒される空間で、外とは障子一枚で隔てられていた訳です。」


「〝ポカポカする縁側空間〟と言うのは必ずしも〝古い〟伝統ではないわけです。そう考えると、伝統ってやっぱり進化していて、進化する余地があるからこそ伝統なんだと思います。新しいことを取り入れることを怖がらない方がいいと思っています。ここ(里山長屋)のように木組み・貫構造・土壁の家でも、〝そよ風〟のような現代の技術を少し足していったり、あるいは、科学的に温熱環境を解析した上で、〝時代に最適化した伝統構法の木の家〟みたいなものをつくり、『これこそが今の日本に必要とされている住まいです。』と発信していくことで、次の世代に伝統を受け継いでいってもらえるのではないでしょうか。」

伝統構法の家・木の家を次世代に受け継いでいくためには、技術の継承や世界遺産への登録などの保存に必要な活動と並行して、広く一般にその必要性・素晴らしさを認知してもらうためには、日本の気候風土の中で育まれてきた木の家は、現代の住環境においても、過ごしやすくするための知恵や技術が詰まっていること。また、地球温暖化などによる環境変化や生活様式の変化にも、現代の技術や考え方を柔軟に加えていくことで、むしろ今の時代・これからの時代に適した素晴らしい〝次の時代の民家〟を作れるということを、知ってもらう必要があるのではないだろうか。

素晴らしさとメリットを主軸にして、木の家というものを広く伝えていくことで、その良さを分かち合える良好な関係のコミュニティが育ち、いつしか日本中に広がることを願わずにはいられない。


一級建築士事務所 ビオフォルム環境デザイン室 山田 貴宏(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

前回は、一般社団法人 職人がつくる木の家ネット第一回総会 唐津大会の報告をお送りしました。今回は、総会初日である2019年10月5日に、九州の関連団体との共催により、唐津市文化体育館 文化ホールで開催した公開フォーラム「災害に学ぶこれからの木の家」の記録をお届けします。

会場となった、唐津市文化体育館

まず木の家ネット代表理事 大江忍より「地球温暖化が進行し、50年に一度と言われる自然災害が毎年のように起きている今、木の家づくりはどうあるべきかを、ともに考えましょう」との開会挨拶があり、続けて安藤邦廣さんの基調講演、ここ数年の災害被災地から4人の会員の事例報告、パネルディスカッションが行われました。以下、順を追って概略をお伝えします。

第一部 基調講演

基調講演
災害(天災と人災)から見た
日本の木造建築の歴史

安藤邦廣さん

筑波大学名誉教授

一般社団法人 日本板倉建築協会 代表理事

http://www.itakurakyokai.or.jp/

1948年宮城県生まれ。筑波大学名誉教授。里山建築研究所を主宰し、スギの森林資源を活用する板倉の家づくりを推進。東日本大震災以降、再利用を前提とした板倉応急仮設住宅に力を注いでいる。

稲作と森の象徴として生まれた

日本の木造建築

「地震、雷、火事、おやじ」と言いますが、今も昔も人々の暮らしは気候変動による天災(地震・雷)や戦争などの人災(火事・おやじ)に翻弄され、それについて建築のあり方も変化してきました。

「日本建築は最初から木造だった」という思い込みもあるようですが、飛鳥時代まではむしろ、石舞台や明日香の宮など、石造りが目立ちます。朝鮮出兵をして大敗した「白村江の戦」の後、大陸から日本に攻め入られても防衛できるよう、多くの朝鮮風山城が西日本につくられました。これらも版築の石塁に囲まれた石造建築です。

版築の石塁が特徴的な、岡山県総社市の鬼ノ城

棟持柱に巨木を立て、屋根に茅を葺いた、森の象徴のような木造建築である伊勢神宮が建てられるようになったのは、飛鳥時代も後半の690年のこと。稲作の豊穣を願い、米倉を模した建物を20年おきに建て替える「遷宮」が定められ、以来、今日にいたるまでそれが続いています。海の向こうでの戦いより、稲作の無事や国内の平和を希求する時代が、このような木造建築を出現させたのです。

その後、都が奈良に移ると、国家の安寧を願い、東大寺大仏殿をはじめ国分寺が各地につくられ、木造文化が花開きます。

伊勢神宮内宮 御稲御倉(みしねのみくら)

木造建築文化を支える植林は

修験道の行者がはじめた

より大きな都を京に開いた平安時代には、植林もさかんに行われるようになります。平安以前の地層にはスギ花粉が見つからないのに、その後の短期間のうちに広い範囲でスギ花粉が現れることから、自然に植生が広がるスピードを越えて、スギが人の手で植えられていったことが分かります。

最初に植林をしたのは修験道の行者たち。九州の英彦山(ひこさん)や、戸隠神社には、樹齢800〜1000年のスギが今も残っています。天にまっすぐ伸び、成長の早いスギに、人々は木材資源の調達だけでなく、祈りをも託したのです。

細い木材でつくる数寄屋は

戦乱からの復興住宅

応仁の乱から一世紀以上続いた戦国時代には、数多くの木造建築が灰となりました。大量の大径木を要する築城ラッシュで木材資源は枯渇。ついには松江城の天守の柱に見られるような、細い柱を板で覆ってカスガイで止めつけた「包み板」=集成材を使わざるをえない状況になってしまいました。

日本で最初の集成材といわれる松江城の柱「包み板」

戦乱で焼かれた家を、成長の早いスギで再建したのが「数寄屋(スギヤ=杉家)」のはじまりです。数寄屋を原形とする「京町家」は、京都の木材供給地の北山でわずか20年で育つ細い部材で構成された、いわば「復興住宅」でした。

京や大坂の町家普請を支えた北山杉と、スギの見える大阪北浜の町家
(幕末から明治にかけて、緒方洪庵が蘭学を教え、多くの志士を育てた「適塾」)

300年間太平が続いた江戸時代には、数寄屋に端を発した杉普請+土壁の家づくりが、庭に面してより開放的なつくりに発展し、これが今の伝統木造住宅の基本となっています。

天災に対処する知恵として

各地でつくられてきた「小屋」

歴史の流れに関係なく繰り返し起きる天災に応じてきた知恵が、日本各地でみられます。長崎県の対馬では、台風と火事から身を守るために浜に「コヤ」と呼ばれる倉庫を建ててきました。屋根は石葺き、足元は石場建て。移築が容易な板倉で、普段は食料庫や作業小屋として使い、母屋が火災や台風で被災したときにはここに逃れてしのぎます。戦時中には、女子供を空襲から守るために、この「コヤ」を森の中に移築して住み、戦後、再び、元の場所の戻したそうです。

対馬の石場建て&石屋根の「コヤ」の群倉で有名な舟志集落。地面の不陸にあわせて、柱脚に石を積んで調節した石場建てが印象的。

富士山麓の根場地域でも、山津波に備えた「クラ」と呼ばれる小屋を山の中に建て、布団や漬物を保存していました。昭和40年の山津波で村が壊滅した時には、これが役に立ちました。主屋とは別の場所に建てた小屋を、普段は農作業や漁、山仕事、作業場、納屋などに使い、災害時には、そこに避難して過ごしたのです。平時から応急仮設住宅を備えていたというわけです。

都市に住みながら

農村にも小屋をもつ意義

西洋には、ロシアの「ダーチャ」やドイツの「ラウベ」のように、都市に住みながら田舎に自家菜園と小屋をもち、自給自足と都市生活を両立させる二地域居住の例があります。こうした小屋があることが、自然と乖離し、食料を依存しなければならない都市生活者の心の支えや自活力ともなっているそうです。天災の多い、そして自然と乖離した生活で人間が疲弊してきている今、こうした田舎の小屋の意義をあらためて見直してもよいのではないでしょうか。

充実した森林資源でつくる

「板倉応急仮設住宅」の実践

戦災復興のために植林されたスギ林は国土の12%を占め、その森林蓄積はこれまでになく豊富な時代に入っています。樹齢50年ほどの人工林からとれる「中目材」は平角材や厚板を取るのに最適です。これらを活用し、災害に対処する「板倉応急仮設住宅」を提案し、実践してきました。

東日本大震災後に福島県いわき市に建てた「板倉応急仮設住宅」は、避難生活を少しでも心地よく過ごしていただく助けになったのでは、と思います。7年間の供与期間が終了となる頃に、西日本豪雨が発生。被災した岡山県総社市長からの要望に応えて、木の家ネットをはじめとする多くの大工さんの協力により、この板倉仮設を移築再生し、現在も活用していただいています。

いわき市に建てた板倉応急仮設住宅を解体し、岡山県総社市へ

スギ板を多用し、番付とそれを理解する大工の手があれば簡易に建築でき、解体移築して再利用が可能な「板倉」の小屋をつくることは、豊富な森林資源を活用し、多発する災害に対応するのに役立つのではないでしょうか。みなさんの理解と協力を得て、今後この技術を発展、普及させていきたいと思います。

第二部 事例報告

2011年3月 東日本大震災
コミュニティーの維持が大事

佐々木文彦さん

(有)ササキ設計

https://sasakisekkei.co.jp/

1956年宮城県生まれ。地域の杉と、漆喰・和紙等の自然素材に依る住まいづくりを実践。森林見学会等により、住まい手が納得し愛着の持てる家づくりに取り組む。杜の家づくりネットワーク 代表。

ふるさとの石巻市北上町十三浜と仙台との二拠点で設計事務所を営んでいます。十三浜はホタテ、牡蠣、ほやなどが獲れる豊かな海辺で、私も漁師の子として生まれ育ちました。今でも漁業権をもち、季節には漁もしています。

自然豊かなリアス式海岸の海辺に、ササキ設計の北上事務所はあります。

私の住む十三浜相川地区では、東日本大震災の津波の第二波で、280世帯のうち160もの家屋が全壊しました。残材を片付けた後は、一面の基礎コンクリートしか残りませんでした。裏山をつたって高台に逃げる訓練を普段からしていたので、小学校児童や集落にいた人が全員避難できたことだけが、せめてもの救いでした。

地震発生時、私は内陸に居ました。家内から「子供を連れて高台のグランドに避難した」とのショートメールが入り帰宅を試みたのですが、その日は家から25kmほど内陸の河北で足止め。知り合いのところで不安な中、夜明かししました。

翌日、車で帰ろうにも、途中から橋は落ち、トンネルにがれきが流れ込んでいるような状況で、道は寸断。止むを得ず、途中のグラウンドに車を置き、2時間半歩いて、ようやく避難所までたどりつきました。後日、車を取りにいこうにも、道が復旧していないので、まずは車を置いたところまで徒歩2時間半。そこから内陸に走って、携帯を充電し、必要な連絡をとる・・そんな日々を送りました。

震災前後の十三浜の様子

地域の底力が発揮された

避難所での暮らし

避難所となったのは、ちょうど震災の翌月の4月からオープン予定だった、高台の子育て支援センターです。そこで、日本全国からの支援をいただきながら、地域の人々が我慢と努力とを積み重ね、電気もガスもガソリンもない中で2ヶ月間、共同生活で暮らしました。

食事づくりをはじめ、避難所の運営は共同で。沢からパイプを引いて、水を確保。

「田を拓いた時に沢水を引いたパイプが残っているはず」という年寄りの記憶を頼りに三日かかって水を引き、残材を薪に利用したかまどをつくり、バスタブで湯をわかすなど、知恵をしぼり、一人一人ができることをしました。人口減や高齢化で地域コミュニティーが崩壊しつつあるといわれてはいますが、人のつながりの底力がここに発揮されたと思います。

被災後、地域コミュニティーが

失われないことが大事

不幸にも津波の被害に遭い、家を失いましたが、人々が積極的に地域のために協力し合う、遠い祖先から続く地域コミュニティーを、自分たちが生まれ育った美しい故郷を失ってはいけないのだと実感しています。

震災から5年後、津波で流された自宅兼事務所があった場所に事務所を再建。
住まいは高台の集団移転地に、今年ようやく完成した。

そのためには、住んでいた地域に復興住宅を建設し、再び故郷に住める希望と、それまでの間、地域コミュニティが失われないような応急仮設住宅、仮設集落の建設が必要不可欠であると思います。

2018年7月 西日本豪雨
災害を前提にした家づくり

和田洋子さん

(有)バジャン

http://bajane.com/

岡山県倉敷市児島で、木組み・土壁・石場建ての新築及び古民家改修の設計と構造計算を行っている。一般社団法人 職人がつくる木の家ネット 理事。

水と土の移動をともなうのが

洪水の厄介さ

雨が少ないと言われてきた岡山で、高梁川に流れ込む小田川の堤防が決壊しました。これがその時の写真です。

平成30年7月豪雨災害対応検証報告書(倉敷市発行)より

洪水は、単に水かさが上がるだけではありません。土砂やガレキが流れ込み、水が引いた中でも基礎の中には水が残ります。その水をバケツでかきだしたり、水中ポンプで抜いたりするのですが、これは大変な作業です。

平成30年7月豪雨災害対応検証報告書(倉敷市発行)より

土壁は再生できる

私はこれまで土壁の家を多くつくり続けてきたので、西日本豪雨災害発生後、岡山県から土壁住宅や古民家について修復方法の相談を受けました。他団体からの協力をいただき、倉敷市でも緊急マニュアルを作り被災地に配布し、倉敷市で行った被害相談や現地調査にもあたりました。

岡山県建築士会倉敷支部が当時、時間のない中で急ぎ、作成した水害対応マニュアルです。倉敷市の相談窓口や避難所で配布しました。現在、本格的なマニュアルを作成中。

土壁が直せるのか?という相談には「まず、壁と床を撤去して構造体を水洗いし、消毒し、乾燥させてください。糊で貼り合わせた木質製品は、水につかってしまうとはがれてしまい、使えませんが、無垢の製材でできた構造体や建具・家具は、乾けば使えます」とお答えしました。

濡れてしまった壁土ですが、かかったのが雨水だけならよいのですが、現実には農薬や油なども入っているので、再利用はおすすめしません。竹小舞は再利用できますので、土をあらたに調達して塗り直すことができます。

畳を上げ、床下を乾かし、濡れた土壁の土を剥がして塗り直す。
写真右の合板を使った建具は、水を吸って反ってしまっているので廃棄した。

処分に困るのは断熱材です。最も悩ましいのが、構造体と分離し難い吹込み断熱。次が、濡れてぼわぼわになり、乾いても使いようのないグラスウールです。ボード状の断熱材は、まだ使いまわせることもあります。

「地震に強い家」なら、耐力要素や復元性能などを設計時に計画することで、建築側であらかじめ対応することもある程度できますが、水害に関しては立地に左右される要素が大きく、建築的にどうしたらいい、というわけにはなかなかいかないのです。自分の住んでいるところを、ハザードマップでチェックしておくことをお勧めします。浸水のおそれがある場合には、いざという時、どうに行動するか、家族で話し合っておくことが大事です。ハザードマップは各市町村の役場でつくっています。今回、真備町の被災状況と照らし合わせてみても、ハザートマップの情報は、かなり的確です。ぜひ参考にしてください。

建築に関していえば、水害がないとはいえないので、乾かせばまた使える無垢の木で作ること、断熱材をはじめとする建材は廃棄することになっても土に還る自然素材系のものを選ぶことは、やはりおすすめしたいですね。

2016年4月 熊本地震
地震で壊れたのではない
壊したのだ

古川保さん

すまい塾古川設計室 (有)


http://www.sumai-f.com/

1947年佐賀県武雄市生まれ。ハウスメーカー勤務の後、地域の気候風土にあった伝統木造に転換し、石場建てによる新築に取り組む。熊本地震に続き、昨年は故郷の佐賀県武雄市も豪雨被害に遭い、修繕可能な家づくりへの志向をさらに深めている。

震災後、再生可能な建物を

壊してしまったわけ

熊本地震の死者はわずか50人。余震で多くの人が避難したあとに本震があったから、人的被害が少なかったのです。ところが、住宅のうち全壊(被災率50%〜)が24,919棟、半壊(被災率20%〜)55,610棟なのに、35,675棟もの住宅が解体され、かわりに軒も庇もなく、窓の小さい、仮設住宅のような四角い家がたくさん建っています。

その原因は、建物が半壊(被災率20%)以上であれば、自己負担なく公費解体してもらえるからです。まだ修繕できる家であっても公費で壊し、補助金を得て急いで新築した結果が、現在の熊本の風景です。同じだけの資金を修繕費にまわしていたら、救える家も多くあったと思うのですが…。

この民家は、公費解体された。十分再生できるのに…

激震地の益城町で80cm動いた家も

修繕できた

私が設計した石場建ての住宅は、全壊判定でした。震度計を置いてある益城町役場からわずか200m西の地点ですので、計測震度で表現できるとしてよいでしょう。計測震度6.5(震度7)の前震と計測震度6.7(震度7)の本震で、建物が80cmも動きました。石場建て(足元にダボ入り)の9本の通し柱の足元が7寸を足固めでつないでいたので、矩形を保ったまま水平移動でき、建物の構造自体の被害は少なく、動いた分を曳家して戻し、修繕をしました。一本折れた柱も、添え柱をして補強。ほぼ元どおりの姿に戻りました。公費解体して新築をしても、ここまでの建物はつくれません。

添え柱をして補強をした、縁側隅の通し柱。

構造が見えていること

建物と基礎とが離れていること

地震がおきれば家は揺れますが、壊れるのが床や壁の仕上げ部で、構造体が大丈夫なら、保険金の範囲で修繕が可能です。そのためには構造体が見えるようにしなければなりません、内外のどちらかを真壁にしておきましょう。構造が大壁で覆われ、中の被害状況が見えない建物は、修繕方法、見積りのしようがありません。修繕方法やいくらかかるか分からないから業者は「解体して新築する」を勧めるのです。

壊れたサイディングの下の基礎と建物との連結部分や、しわがよったり破れたクロスの下の壁はどのようになっているかわからない。古川さん曰く「布団の上から聴診器をあてるようなもの」

地震で地盤が揺れ、基礎が揺れ、基礎から建物に地震力がはいります。基礎と建物とが離れていれば、修繕は建物だけで済み、費用は抑えられますので、建物は石場建てにして、基礎緊結しないことをお勧めします。

たとえば、液状化が発生して基礎と緊結された建物が沈下した場合、基礎からの嵩上げ工事からしなければならなくなり、500万円以上の費用がかかります。基礎は基礎、建物は建物と分離していれば、傾いた基礎はそのままに、建物だけをジャッキアップして水平にすることができ、より少ない費用で済みます。

瓦は重いから地震対策では良くないとの報道がよくなされますが、地域にあった、瓦施工ガイドライン工法に従って施工をすれば、台風や地震でもそう簡単に落ちるものではないことが熊本地震で実証されました。

修繕しやすくゴミを出さない

つまりは、伝統木造

建築素材のことも考えましょう。新建材だらけの家は、解体廃棄時に、土に還らない大量のプラスチックや石油製品を出すことになり、それが川を通じて海に流れ出れば、海洋プラ汚染につながりかねません。

真壁、石場建て、ガイドライン工法の瓦、自然素材。以上が、修繕が可能で、地球に負荷をかけない家づくりの要件です。「な〜んだ。昔ながらのあたりまえの日本の家かよ」ということです。

2017年7月 九州北部豪雨
「もう、スギはよか…」を
越えて

杉岡世邦さん

(有)杉岡製材所

http://www.sugiokatoshikuni.com/

福岡県朝倉市生まれ。住宅・社寺・文化財等の木材を請け負う現代の木挽。西日本新聞にて『住まいのモノサシ』等を連載、木の魅力を発信した。九州大学大学院芸術工学府・博士後期課程。一般社団法人 日本板倉建築協会 理事、一般社団法人 職人がつくる木の家ネット 理事。

福岡県朝倉市の被害状況。

支流から流れ出し、凶器となった流木。

2017年の九州北部豪雨では、筑後川の中流域の英彦山南面で大きな被害がありましたが、うちの山も多くそこにあります。1日に約1000mm、しかもそのうち9時間で774mmという、短時間の猛烈に激しい降雨で、山々の支流から土砂がおよそ1100万立米、流木が21万立米も流されたと推定されています。

人工林、特にスギ林の管理が悪かったからこのような被害が起きたかのように、さんざん叩かれました。実際に地面の崩壊は、木が根を張るよりも深い層で起きていたのですが。とはいえ、スギやヒノキの大量の流木が支流から下流へと流れ出した結果として、人々の生活域の凶器となったのは事実です。

スギは本当に悪者なのか?

自分はどうしたらいいのか?

「もうスギはよか…」「人工林は伐採してしまえ!」さまざまな言葉にさらされ、本当に悩みました。木だって生き物。被害を受けている側なのですが、このようなことが起きるたびに悪者探しがはじまります。「スギが悪い」と、環境活動家からは特に批判にさらされがちです。

しかし、歴史を振り返ってみれば、何十年かに一度は、そんな豪雨が降っているのです。祖父の代の昭和28年にも大きな水害があり、製材所の本拠地が現在の場所に移転するきっかけとなりました。

「地元産材で災害復興を」なんてとてもいえない雰囲気もありましたが、とはいえ自分の役割を、大好きな山を放棄することはできません。私たち、山づくりや製材に携わり、人と木とをつなげる者は、どうしたらいいのでしょうか?

数百年かけて
スギを母樹とした

多様性のある森づくりを

なぜスギが嫌われるのでしょう? そもそも、日本は樹種がものすごく豊富ですし、DNA的に多様性が高い日本人はそもそも、植生豊かな森を好むからではないでしょうか。その気づきから、スギだけを育てる「モノ・カルチャー」=単相林施業から脱却することを考えています。

具体的には、所有しているスギ林は間伐をくり返し、皆伐の時期になっても少ない本数でも良い樹を残し、遠い将来にはそれらが樹齢数百年の大木になることをめざします。スギは古木になれば、葉が樹冠だけになり地面に光が差し込むため、落葉広葉樹とも照葉樹とも共生できます。スギの古木を母樹とし、多様性のある、明るい美しい森が実現できることでしょう。

スギという木は、青森県から鹿児島県まで、樹齢千年を超えるものがあり、太平洋側でも日本海側でも、また標高の高いところにも生育しています。訪ね歩いてみると、スギの修験の森は、全国にありました。出羽の羽黒山。信州の戸隠神社。地元の英彦山も同様です。それらは、伐採することが目的ではないが、自然林ではなく、人が植えた人工林です。日本全国の人工林がこのような美しい森林になれば、世界でも稀有な価値ある森となるにちがいありません。

修験の山、羽黒山出羽神社表参道の境内林。石段に沿って山頂まで、
樹齢350〜500年のスギが500本以上連なる杉並木は、国の特別天然記念物。

スギを再び好きになってもらうための
流木活用プロジェクト

人々のスギに対する悪い感情をポジティブに転換させることにも取り組んでいます。スギが流されてしまった谷には山桜を植えました。昨年の春には花をつけてくれて、心をなごませてくれました。九州大学大学院の知足准教授と共同で流木でつくったこの「朝倉龍」は「朝倉を苦しめてしまった流木が、水の守り神に姿を変え、今度は朝倉を守ってくれるように」と願いを込めたもの。新設された杷木小学校に寄贈しました。

流木からチェーンソーで削り出した朝倉龍

九州大学と協働する「災害流木再生プロジェクト」では「流木しおり」「流木グライダー」「松末の木と石の時計」などをつくり、スギの肌触りや香りを地域の子どもたちに感じてもらいました。そして、私自身のスギに対するネガティブな感情をポジティブに転換すべく、被災木を使った板倉の倉庫も構想中です。

流木しおりと、松末の木と石の時計

山の人と使う人とが連携して

先につなげていきたい

「もうスギはよか」と言われるたびに「杉岡」と音が似ているので、ギクっとしてしまうのですが、天災により、人が植えた山が崩れ、被害が起きるということ自体は、自然の営み。人智の及ばない、防ぎようがないことだと思います。森林には大きな防災機能があるのは確かですが、それにも限界があることを知った上でで「これから」を考えていくことが大切だと思います。

木の家づくりに携わるみなさんとの連携は、とても大事です。山の木を、デザイン面でも洗練された形で活用していける方法を、一緒に考えていければと思います。

スギを、木と工法とデザインから見直したブランド「SUGITALO」

第三部 パネルディスカッション

私たちに何ができるか?

安藤邦廣さんの司会で、さまざまな話が弾みました。そのうち、印象に残った発言をいくつかご紹介しましょう。

佐々木:古川さんが「地震で壊れたのではない。壊したのだ」とおっしゃっていましたが、まったくその通りです。多くのまだ直せる民家を解体におしやったのも「公費解体」制度です。美しい民家がたくさん壊されましたが、一軒でも救おうと努力し、震災後11軒を再生しました。古い民家に価値を見出さない持ち主と、活用してくださる方を結ぶのも我々の仕事ではないかと思います。

和田:「全壊認定→公費解体」があたりまえになってしまっている状況は、たしかにありますね。それでも「自分の家を土壁で再建したい」という被災者をサポートする若い大工さんが倉敷にいます。土を落とし、骨組みにして洗って乾かしています。2020年の春にワークショップ形式で土を塗り直す予定です。実際に自分達で土を塗ったりして直す過程を見てもらうことで「直せる」ということを多くの方に知っていただきたいです。

土をすっかり落として掃除をした家と、来年の土壁塗りに向けて練習のためにつくった小屋と大工さん

古川:災害から逃げることはできないのだから、修繕可能な家づくりをするべき。公費解体して新築する方が得に思えても、災害直後は工事費が3割増しなので、1500万円で建てた家の実質は仮設住宅とさほど変わらない。屋根の被害が少なく3年待てるなら、修繕する方が良い家になります。そのためにわれわれは、プロとして「いくらで直せるか」金額を出せるようでないといけない。いずれ、修繕のテクニックバイブルをつくって、みなさんに伝授したいと思います。

和田:災害時に全壊認定がでること自体は、罹災証明が取りやすかったり、保険がおりやすいというメリットはあるのです。それで、倉敷市では床上1.8m浸水で全壊と認定していました。けれど、それと修繕とは別の話。「全壊認定だから直せない」ということではなくて、直せるものを直したい人は、直していいのです。そのあたりの認識が浸透しておらず「全壊だからもうダメだ・・」となってしまいがちで、そのためにたくさんの土壁の家が公費解体されました。直せるものについて「こう直せる」と、プロとしてアドバイスしていく必要性を感じています。

杉岡:一般の人が木に対して関心をもっていないことが、スギ離れ、放置林の増加の要因になっていると思います。いくら木造住宅が主流だといっても、柱や梁の周りを壁で覆う「インナーづかい」ばかりで、木が見えていないから、木や森に心が向かないのではないでしょうか。

安藤:スギはもともと、国難をのりこえるために植えられました。江戸で大火があっても、山武から、西川から、天竜から、紀州から迅速に木材が調達され、大工が一気に街を再建したのです。産地に、災害に対応するシステムがあったのですね。

杉岡:祖父から引き継いだ山を、スギを母樹とした美しい山に育てていきたいと思います。そこから60年生のスギを間引いて、家づくりに使う。美しい山を持続していける住まいづくりってなんだ?というベクトルで考えてもいいのではないかと思います。

安藤:災害が続いていることで、みんなが大きな困難を感じています。しかし、日本人が本当の知恵を出し合う機会は災害だろうとも思います。専門分化され、対話がなくなっている中、分断や壁をこえていける機会ではないでしょうか。災害が続く中で、林業、製材、設計や施工を横つなぎすることで、日本の地域社会をつくりなおしていきましょう!

取材執筆=持留ヨハナ(モチドメデザイン事務所

2019年10月5日(土)〜10月6日(日)の一泊二日、佐賀県唐津市にて職人がつくる木の家ネットの総会が行われました。今回はその報告記事です。

まず10月5日(土)の午後に「災害に学ぶこれからの木の家」と題した公開フォーラムを唐津市文化体育館で開催。その後、ホテル&リゾーツ佐賀唐津に移動し、宴会と分科会で交流を深め、翌朝10月6日(日)には一般社団法人として初めての総会を執り行いました。解散後は、国指定重要文化財 旧高取邸へのオプショナルツアーを楽しみました。

唐津市は九州北部にあります。およそ4.5kmの長さにわたる「虹の松原」は、
400年ほど前に防風防砂林としてつくられました。

総会の開催地となったのは、玄界灘に面した佐賀県唐津市。「唐への渡海拠点」という名の通り、白村江の戦い、元寇、秀吉の朝鮮出兵といった戦をはじめ、人の交流や大陸文化の流入の痕跡も多くあり、朝鮮半島や中国大陸との関係が深い土地です。曳山まつり「唐津くんち」や、江戸時代の新田開発のために植林された防風防砂林「虹の松原」でも有名です。

1591年(天正19年)に秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として、現在の唐津市北部に名護屋城を築城しました。壱岐の島かげの向こうに朝鮮半島を見据える城跡が、今も残っています。秀吉が全国の大名たちを呼び寄せて陣を敷かせた当時は、10万を越える人が集結したとか。さまざまなお国言葉が飛び交ったであろう出陣前の様子を想像するにつけ、北は秋田から南は鹿児島まで全国各地から木の家ネットの総会に集まってきたことが、どことなくオーバーラップするような不思議な気持ちがしました。

公開フォーラム:
災害に学ぶこれからの木の家

開会の挨拶をする大江忍 代表理事と、公開フォーラムの会場の様子

初日の午後には「災害に学ぶこれからの木の家」と題し、地震、台風などの災害から逃れられない日本にふさわしい家づくりとはなにか?を考える公開フォーラムを行いました。

筑波大学名誉教授 安藤邦廣さんの基調講演「災害に学ぶこれからの木の家」に引き続き、各地からの事例報告として、東日本大震災について佐々木文彦さん(宮城県石巻市)、熊本地震について古川保さん(熊本県熊本市)、西日本豪雨について和田洋子さん(岡山県倉敷市)、九州北部豪雨について杉岡世邦さん(福岡県朝倉市)から、被災状況やその後について生の声を聞くことができました。休憩後のパネルディスカッションでは、会場からの質疑応答もまじえて活発な議論が行われました。

詳しい内容は、次回11/1公開予定の特集記事で、あらためてご報告します。

年に一度の懇親会

フォーラム終了後は、ホテル&リゾーツ佐賀唐津に移動。ホテル上層の展望風呂で旅の汗を流してから、懇親会場へ。

木の家ネットが任意団体の時の初代会長で、現在は一般社団法人の監事の加藤長光さんの音頭で乾杯。お刺身や唐津名物のいかの和え物など、旬の海の幸に舌鼓をうちました。地元九州のメンバーからご当地自慢の芋焼酎や日本酒の差入れがふるまわれると、場は一層もりあがり、全員が年に一度の懇親会を楽しみました。

懇親会のフォーラムの共催団体でもある認定NPO法人 日本民家再生協会九州沖縄地区、NPO法人伝統木構造の会 九州地域会、九州杢人の会、新建築家技術者集団 福岡支部、九州大工志の会、、LLP木の環のメンバーも懇親会にも出席して場を盛り立ててくださいました。

今回の幹事の実行委員長である杉岡世邦さん(福岡県朝倉市、杉岡製材所)はじめ、宮本繁雄さん(福岡県朝倉市、建築工房 悠山想)、土公純一さん(福岡県福岡市、土公建築・環境設計室)、松尾壮一郎さん(佐賀県鹿島市、夢木香)、池上算規さん(長崎県長崎市、 大工池上)、梅田彰さん(熊本県熊本市、FU設計)、田口太さん(熊本県八代市、土壁の家工房 田口技建)、古川保さん(熊本県熊本市、すまい塾古川設計室)は、木の家ネットに加えて上記いずれかの会に所属しているメンバーも多く、九州地域内での横つながりがさかんなことを感じさせられました。

先日、急逝された夢木香の松尾進さんの跡継ぎである松尾壮一郎さんと、
フォーラムで司会を担当された北島一級建築士事務所の北島智美さん

宴会では毎回恒例の金田克彦さんのお子さんによる加工食品販売も。今年は「いなごのつくだに」でした。
宴会最後の一本締めは、古川保さんの音頭で。

最後は、全員で気を合わせ、一本締めで楽しい会を締めたのですが、ここで終わらないのが木の家ネットの総会。いったん散会後「災害対応」「マーケティング」「人材育成」「見積もり」と4つのテーマで、各部屋ごとに分かれ、車座スタイルでの「分科会」を行いました。部屋によっては日付が替わっても議論が続いたようです。

九州メンバーは、別の部屋で、九州地域での各団体をつなぐ連絡会をつくるための話し合いをしたそうです。今後のますますの連携が楽しみです。

一般社団法人としての、初めての総会

翌朝は虹の松原や玄界灘を一望するスカイレストランでの朝食を楽しんだあと、唐津市文化体育館の会議室に再集合し、一般社団法人としての第一回の総会を行いました。

まずは大江忍代表理事から、職人がつくる木の家ネットの活動を次世代につなげていくために一般社団法人化し、安定的に運営していくために倉敷の事務局を中心とする新組織をつくったことについて説明がありました。

伝統的な知恵に学び、無垢材を手刻みして一棟一棟つくる木の家づくりでもっとも大事なテーマは「次世代への継承」。この災害の多い日本各地の気候風土に合った形で先人たちが編み出してきた技術の真髄を、現代の生活に柔軟に対応しながら伝えていくことが、今世代の私たちの役割だとすれば、この会も、20年前に発足したままの体制から、より若い世代に引き継ぎ、持続できる形にしていく必要があります。

これまで、コンテンツ執筆と事務局との両方を担ってきていたところを、新たに加わった二人のライターさんと、専任の事務局スタッフとで分け持つ運営体制に変わったのが、今年の5月。それからまもなく半年というに節目にあたり、総会に集まった会員に顔の見える形での「バトンタッチ」の報告がされました。それぞれのスタッフのメッセージをご紹介しましょう。

事務局の福田典子さんと、コンテンツ担当の丹羽智佳子さんのご主人の丹羽怜之さん
そして同じくコンテンツ担当の岡野康史さんと持留ヨハナ

事務局の福田典子さん「一般社団法人の事務局所在地の児島舎に通い、会員対応、名簿管理、入出金管理などをしています。まだ慣れないこともたくさんありますが、みなさんのお役に立てるよう、がんばらせていただきます」

次に新しくライターとして加わった、丹羽智佳子さん、岡野康史さんの紹介がありました。二人がコンスタントに会員紹介記事を取材執筆しているおかげで、月に2回のコンテンツ発信が実現できています。

丹羽智佳子さんは産後2ヶ月ということで、夫で木の家ネット会員の丹羽怜之さんが代理で:「もともと新聞記者だった妻は、木の家ネットのメンバーを取材するのをとても楽しんでいます。建築が専門でないのですが、つくり手の方の人となりを浮き彫りにする記事を心がけているようです」

岡野康史さん:「グラフィックデザインが専門ですが、写真も撮りますし、文章を書くのも好きです。魅力あるつくり手の方とお会いして感じたことから、何を取捨選択して読者の皆さんに伝えるか、毎回新鮮な気持ちで取り組んでいます」

持留ヨハナ:「これまで20年間、大変お世話になりました。今後は若い二人のライターさんに執筆をゆずりつつ、テーマをもうけて複数の方の考えを横断的に紹介する特集記事など、ニーズがあれば引き続き、関わらせていただければと思います」

田口太さんから、杉岡世邦さんへバトンタッチ

もうひとつの新旧交代として、これまで運営委員だった田口太さんが辞任し、かわりに同じ九州の杉岡世邦さんが就任しました。今後ともどうぞよろしくお願いします。

初参加の会員たち

1:設計事務所nonaの柴田亜希子さん、2:m28e有限会社の古川乾提さん、
3:岡崎製材所の岡崎元さん、4:野の草設計室のスタッフ島崎希世さん

スタッフの引継ぎに続いて、恒例の「新会員さんいらっしゃい」の時間。おひとりずつのコメントを紹介します。

愛知県名古屋市で設計事務所 nonaを主宰する柴田亜希子さん「自宅を石場建てで建築し、伝統的な家づくりのよさをさらに実感しています。自宅を啓蒙の場として使いながら、このよさをより広く伝え、木組みの家づくりが選択肢の一つとしてあがるようにしていきたいです」

愛知県一宮市でm28e有限会社を主宰する庭師の古川乾提さん「伝統的な家づくりをする大工さんたちと出会い、同じようなことを庭でやっているので、入会しました。家と庭とがもっと密接になるような話ができたらいいなと思います」

岐阜県八百津市の岡崎製材所の岡崎元さん「これまでおやじの岡崎定勝が総会でお世話になってきたかと思いますが、今年は僕が初めて参加させていだたいています。今後も、みなさんと協力して地域で山と木の家づくりをつなげていきます」

愛媛県今治市の、野の花設計室のスタッフの島崎希世さん。「これまでまったく違う分野の仕事をしていましたが、伝統的な家づくりに惹かれ、転職して2年目です。多くを学んで吸収し、発信できるようになりたいと思います」

分科会

その後、分科会各部屋からの報告にうつりました。分科会で話し合った内容を模造紙にまとめたものを発表をした部屋、前夜に主だって話した何人かが代表して発言をした部屋、それぞれのスタイルのまま、お届けします。

分科会1:
災害をふまえた木の家

それぞれの地域に起きやすい災害に対応した建築や住まいのあり方が昔からある。三陸では、津波がくる浜辺には作業小屋だけがあり、住居は高台に別にもうけていた。水害の多い福知山では、家が浸水する前に家財道具をあげておくための三階がある。

そうした地域ならではの工夫に加え「補修ができるようにつくる」ということが基本ではないか。構造材があらわしになる真壁づくり、補修すべきところが見えて、メンテナンスがしやすい。

現代のプラスターボードの家は、水害で浸水すれば粗大ゴミにしかならない。ベタ基礎の立ち上がりの中に入り込んだ水は、ポンプで排水するしかなく、水害の後が大変。化学物質や農薬による水汚染も心配。復旧しづらい家は、災害の多い日本では、つくってはいけないのではないか。

真壁づくりのもうひとつのメリットが、日々木を見えていることで、普段から森を意識できるという点。木には、単なる建材というだけでない、人の暮らしを守ってくれる大いなる安心感がある。神を数える単位が「柱」であるのも、木を心のよりどころにしてきた日本人の精神性のあらわれかもしれない。

分科会2:
弟子の育成

北山一幸さん、丹羽明人さん、川端眞さん

北山一幸さん(大工):今の時代にあった人材育成は、昔とは違うと。昔は大工修業といえば、生活や立ち居振る舞いすべてにわたって親方が全人格を育ててきたが、今はそこまでなかなか踏み込めず、仕事ができるよう技術的なことを教えるにとどまっている。生活スタイルや精神的なことまで伝えようとすれば、つぶれてしまうような感じがある。それでも、若い人を教え、育てないとこの業界は続いていかないので、しょっちゅうは怒らず、ここぞという時だけに控えるようにしている。

古川乾提さん(庭師):若い人が集まらないのは、手間が安すぎるからではないか。単にブロックを積むだけの仕事でも、山から石を選んで運んで据える仕事でも、同じ日当というのは、割があわない気がする。経営者であれば、企画料など、のせられる項目もあるが、一職人となると、そこを上乗せするのはなかなかむずかしい。けれど、ちゃんとしたものをつくる人は、ちゃんとお金を取れるのが本来のあり方ではないかと思う。

川端眞さん(設計):うちは所員のできがいいので、人材育成には困ってない。大概の人は「自分のコピー」をつくろうとするから、うまくいかないのではないか。自分と同じことを相手に求めない。弟子が二人いたら、同じことをさせない、比べない。それぞれに合ったことをさせていけば、うまくまわる。

分科会3:
マーケティング

大江忍さん(設計):SNSの中ではInstagramが若い人には人気があり、入口になる。伝統木造に興味がある人はまだまだfacebook世代。Google my business に登録し、口コミをしてもらうことで、検索数があがる。

大江忍さん、橋詰飛香さん

橋詰飛香さん(設計):特定多数に対して発信をしても、このような家づくりのことが心に響くのは、特定少数。そう考えると、検索に上手にひっかかることだけでなく、その少数にしっかり届く内容を発信することが大事。そのためには、個々の会員紹介との両輪で、伝統構法への想い、山とのつながりなど、木の家ネットとして『共同のピュアな思い』を表明するような発信形態があってもいいのでは?

分科会4:
見積もり部会

ここ数年、見積もり部会としてネットを活用した月一回のZoom会議を積み重ねてきた。独立したての若い人がどう見積りをしていいかわからない、設計者と施工者とで概算見積りにかなりギャップがでるのでせめて7%以内ぐらいには抑えたい、という問題意識で始めた。

このところ同一の図面について、別々の施工者が大工工事の手間だけを抽出して作った見積もりを比較検討する作業をしている。

全体を「墨付け・刻み」「外壁」「内部造作」と3パートにわけるというあたりまでは共通だが、「墨付・刻み」1パートをまるごと一式で書く人、部材をひとつひとつ拾っては材工を積み重ねていく人など、表現はさまざま。

総会に参加できなかった岐阜の水野友洋さん、各務博紀さんと、Zoomでつないで分科会。座長は金田克彦さん

概算見積もりを簡単に出す方法を探りたい!とは思うが、結局は木拾いをして伏せ図、展開図、矩計図とつくらなければ見積もりは出ない。そこまで手間をかけていては、「概算」見積もりではなくなってしまうのだが・・・そのあたりで堂々巡りしている。結局は、見積もり → 作業日報 → 作業手間の積算ということを繰り返す中で「これくらいだな」という経験知を身につけていくしかないのかもしれない。見積り以上に施主の要望由来でなく手間がかかった時に、施主に請求できるかどうかについては、意見が分かれた。

せめて見積りをつくる際に単価を掛ける元となる「単位」を決めようという話にもなった。坪単価は平米で出すのが普通だが、材積と手間とが連動するので、立米単価で考えてはどうか。材積は坪あたり1立米〜多い人では1.2から1.5立米くらいという幅もわかった。

気候風土適応住宅について

古川保さんによる報告

最後に、気候風土適応住宅についてのお話が古川保さん(設計)からありました。「いまのところ、小規模住宅は、省エネ基準への適合義務はなく、努力義務でよいというところに落ち着いてはいますが、それがいつ報告義務や適合義務にシフトしていくか分からないので、だた『適合しなくてもいい』でなく『これは気候風土適応住宅だから、適合しないのだ』と確信をもって言えるよう、各地で指針づくりをしてください」とのことでした。

解散後、駐車場に様々なナンバーの車があるのが、興味深かったです。もっとも遠方なのは秋田ナンバーをつけていた、監事の加藤長光さん。珍しかったのは、兵庫の高橋憲人さんのキャンピングカー。京都の金田さん一家も同乗して、にぎやかな帰路につきました。

オプショナルツアーは旧高取邸

オプショナルツアーは国指定重要文化財の旧高取邸。炭鉱主・高取伊好の邸宅として建てられた近代和風建築です。ライターの岡野康史さんから「今ではなかなかお目にかからない立派な柱や手仕事の光る建具など、隅々まで当時の職人や高取さんの熱量をとても感じました。」との感想を聞きました。

次回の総会は、兵庫県の淡路島で11月に行われる予定です。またの再会を楽しみに、それぞれが充実した一年間を過ごしましょう。

取材執筆=持留ヨハナ(モチドメデザイン事務所

三重県四日市市に、設計事務所「スタヂオA.I.A」を構える伊藤淳さん。彼が設計した家に、一歩足を踏み入れる。すーっと通り抜ける風が心地よい。

「風通しのいい家が好きなんや。気持ちいい暮らしができるから」と目を細める伊藤さんは、木組みや土壁など自然素材を生かし、室内にいても自然を感じられる設計をする一方で、自ら工具を握り工事もこなす万能派。丁寧に施主さんに寄り添うコミュニケーションが、施主本人も気づかない要望をくみ取り、ゆるぎない信頼を集めている。まさしく風のようにさわやかな仕事ぶりに、迫った。

施主の要望を引き出すコミュニケーション

伊藤さんについて「設計士さんなんだけど、土壁塗りの先生で、暮らしのアドバイザーでもある。なんでも相談できる存在」と話すのは、施主の佐野さん。伊藤さんの設計で、2019年4月、同県菰野町に自宅兼絵画教室を完成させた。

木組みのしっかりした構造材に、全面土壁の2階建ての家。外壁は波状のトタンを張り、外から見た雰囲気と中に入った雰囲気の違いが個性を発揮する。大黒柱はないが、「構造材を一般の住宅より太めにとることで安全も確保した」(伊藤さん)。絵画教室のスペースは吹き抜けになっていて、天井から床まで土壁の表情を存分に楽しめるのが魅力だ。

この土壁、荒壁塗りは、施主さん家族や友人が半年かけてセルフビルドした。土の感触と仲間とのコミュニケーションを楽しみながら、時間をかけて完成させていった。やり方は伊藤さんが教えたという。佐野さんは「いやー、楽しかったですよ。完成後も友人と思い出話で盛り上がりますし、自分の家って愛着がわきました。自然素材で住み心地も最高です」と、目を輝かせる。伊藤さんは「時間が経つと、さらにいい味が出てくると思いますよ」とほほ笑む。

ふたりが出会ったのは7年前、当時、佐野さんが関わっていた子供たちがツリーハウスを作るプロジェクトで、設計を伊藤さんが担ったことだという。伊藤さんは設計のみにとどまらず、子供を山に連れ出し木を伐りだす手伝いや、自らのこぎりを握って手ほどきをしたりする様子を見て、佐野さんは「視野が広くて、信頼できる。家を建てるならこの人に任せたい」とほれ込んだ。

伊藤さんの仕事は、このように、「一緒に仕事したり、ワークショップ(土壁塗りなど)で出会った人が、別の機会に声をかけてくれることが多いな。本当にありがたい」と話す。

事務所を立ち上げて23年。自然素材を使った新築物件の設計は年間1、2件ほどで、他にも許可申請の手続きやリフォーム、店舗や倉庫、工場の設計など幅広い仕事をこなしている。

その中で心掛けていることは、「相手の話をよく聞くこと。それと、なるべくその人の言葉でしゃべってもらう」と話す。

肝となる事前打ち合わせで聞くのは、家に何を設置したいかでなく、どんな暮らしをしているか、に尽きるという。例えば、風呂に入ってからすぐに寝る生活なのか?それともゆっくりリビングで過ごすのか?どんな料理を作るのか?夫と妻が台所に立つ頻度は?トイレは広い場合と狭い場合とどちらが落ち着くか?

それも、施主さんがあまり構えすぎずに、世間話の延長線上でゆったりと聞き出すことを心掛けているという。

「資料とか他の家はほとんど参考にしないな。そこに暮らす人が納得できるように、考えて、考えて、考えるんや」と伊藤さん。うまくまとまらなかったり予算の関係で煮詰まることもあるが「この過程が一番楽しい」という。

前述の佐野さんのオーダーは「自然を生かした、住むほどによくなる家」だった。そこで土壁を提案し、予算を抑えるために、セルフビルドで、他の現場での経験を生かし伊藤さんが教えることにした。また、趣のある古建具を再利用したり、風呂をユニットでなく、モルタル仕上げの床にバスタブを置くスタイルにしたりした。作り付けの収納はほとんど作らず、引っ越しを機に処分するようアドバイスもした。伊藤さんは「話を聞いてると、好きなものだけ囲まれたいって人かなと思って。暮らしのアドバイザーって言われたけど」と笑う。

事前打ち合わせだけでなく、建設途中での要望にも柔軟に答える。「施主さんも、最初から自分が何がよくて何が嫌かわかっているわけではなくて、家づくりが進んでいくと見えてくるものがあるでしょう。せっかくお金かけて家を建てるんだから、満足してもらえるようにせんとな」と、どんな現場でもフットワーク軽く向かっていく。そして、時間をかけて話を聞き、方向性を整えていく。

伊藤さんは事務所を四日市の市街地の一角に構えるが、事務所スタッフ曰く「事務所で座ってるのは珍しく、いても施主さんや職人さんと電話してたり、打ち合わせをしていることが多い。様子を見ていると、絶対に人を邪険に扱わないから信頼されてることがわかります」と話す。

次世代に課題を残したくない

暮らす人に寄り添った家づくりを大前提とする伊藤さんだが、一つだけこだわっていることがある。風通しだ。
室内を風が通ることで、自然を感じながら生活できる。それは「とっても健康的。人間って本能的にあー、気持ちいいとなる」と確信している。さらには「今は気密性が高くて冷暖房効率いい家が主流なんやろうけど、施主さんと話してると、実は季節のいい時は風を通したいって人は多いよ」と潜在的なニーズも実感している。

そんな伊藤さんが設計する家は、自然と窓が大きく、枚数も多くなる傾向があるという。他にも、古建具の障子を外して空気が通るようにしたり、天井にファンを取り付けたりするなど、室内の風を動かす工夫も凝らす。

加えて、木の家、自然素材の家は「処分に困らないのがいいところ」と伊藤さん。基本的には、自然素材にこだわり過ぎず、施主さんの予算に見合った素材で柔軟に対応したいというスタンスで、さまざまな分野の展示会などにも顔を出している。

以前、とある断熱材メーカーに話を聞き処分について尋ねたところ「それは次の世代の課題ですね」と言われたという。「そんなんおかしな話や。次の世代に課題を残さないようにするのが俺たちの役割やろ」と憤ったことは忘れないという。同時に、本能的に惹かれていた自然素材の良さを再認識もした。

自ら手を動かすからこそ感じる職人への尊敬

そんな自然素材を扱う大工や左官など職人への尊敬も、伊藤さんは大切にしている。

というのも、伊藤さんは子どものころからの工作好き。現在も、ちょっとした木の棚作りやモルタル塗りは自らやってしまう。土壁塗りの先生もこなす。

いなべ市の佐野邸のライトカバーも、伊藤さんの自作だ

車には、専門業者顔負けの工具がびっしり詰まれている

「職人さんに頼むより経費を抑えられるし、自分で手を動かすのが好きなんや」とはにかむ一方で、「その分、職人さんの技術のすごさは身に染みてわかる」と力を込める。

そんな信頼関係から、「今一緒に仕事している職人さんたちには、細かいこと言わんと、任せられる。気持ちよく仕事してもらえるで、いい家ができる」と話す。

取材中の事務所にも、ある大工職人が訪ねてきて、進行中の現場について相談していた。任せる部分は任せつつ、気になる部分はコミュニケーションをとって丁寧に解消していく。

風通しのいい家づくりは、風通しのいい関係づくりにもつながっているのだ。

伊藤さんの原点とは、「建築は、暮らしをちょっと便利にするもの」だという。

工作に夢中で、ラジオを分解修理したり木で小物を作ったりしていた小学生時代。学校の黒板のチョークが、備え付けの木製置き場にうまく収まらなかったことがあった。「なんで?」教師に尋ねると、「伊藤が将来建築家になって、解決してくれや」と言われたことを覚えている。「何かをつくるって、自分が楽しいだけじゃなく、困ったことを助けられるんや」という発見が、建築の道へと進ませた。

進学した名古屋の大学では建築を学び、卒業後、学生時代アルバイトしていた鉄骨工場にそのまま就職した。鉄以外も学びたいと木造住宅の工務店に勤めた後、独立。「大きなビルより、暮らしに近い木の家のほうが考えていてわくわくした。自分に合っていたんやと思う」と振り返る。

暮らしと向き合い、ちょっと便利にするにはどんなことができるか?施主さんとのコミュニケーションで得たアイデアやインスピレーションを形にするのが、四日市の事務所だ。

さながら秘密基地のようなこの空間は、伊藤さんが「リラックスできて仕事もはかどる」という床座りスタイル。手作りの木の作業台や本棚は「ちょっと不便だっていうと、伊藤さんがさっと直してくれる」(スタッフ)という。スタッフは伊藤さん含め3人体制だ。

事務所名「A.I.A」は、Atsushi Itou Architectureからきている

設計図は手書き。「思い浮かんだことをさくさく表現できるのがいい」と話す

畳敷きの打ち合わせスペースにゆったりと腰かけて、施主さんや職人さんとのコミュニケーションが深まる。もちろん窓は開けはなたれ、心地よい風が吹き抜けていた。

● 取 材 後 記 ●

伊藤さんの愛車は、三菱のジープ。サイドの窓はビニールのジップ。そして足元は雪駄。いつでも満面の笑顔。

なんとまあ、風通しのいいことか。

それに加え、「ほー、そうなんか」と、どんな話でも面白がって聞いてくれる。

行く先々でも、「あつしさん」「あっちゃん」と笑顔で迎えられる。

この人信頼できるな、という雰囲気づくりは、簡単にできるものではない。私もいつの間にか心解きほぐされ、事務所とふたつの現場を回りながら、自分の身の上相談をしてしまっていた。

しかし、よくよく話を聞いていくと、以前、依頼主とうまくいかずに空中分解してしまった現場があった、と打ち明けてくれた。「ああいうのはもう、勘弁やな」。一瞬、笑顔が曇った。

家の新築や改修は、人生一の大きな買い物と言っていいだろう。どんなにスタイリッシュで便利な提案も、信頼できる人との出会いには適わない。そんな当たり前のことを再確認した。

スタヂオA.I.A 伊藤淳建築事務所 伊藤淳さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(一部写真は伊藤さん、佐野さん提供)

結局、大工仕事が好き

訪れたのは熊本県八代市。土壁の家工房 有限会社田口技建の二代目 田口太(たぐち ふとし)さんにお話を伺った。

田口技建は父親の敏雄さんが昭和30年代に創業し、現在では職人5名を自社で抱える工務店であり、一級建築士の田口さんが設計をされる建築事務所でもある。特色は「土壁の家工房」と謳われている通り、土壁・泥壁にこだわって家づくりをされていることだ。使用する材木についても地元の製材所に頼んで自然乾燥で桟積みしておいてもらったものを職人の手で一点一点手刻みで加工造作している。またそれらの木や土については地元のものを使いエネルギーコストを抑えるように努めている。

「日本の建築文化で培われて来た先人の知恵や、技術を生かした伝統的構法を受け継ぐ家づくり、そして川上から川下まで顔が見える家づくり」がコンセプトだ。

田口さんはここ八代生まれで、父親の大工仕事を見ながら育ち、小学生の頃から大工になりたいと思っていたそうで、高校生の時にはすでに泥壁塗りの手伝いをしていたという。その後、父親の元に正式に弟子入りし、神社・寺院の修繕や新築の茶室の仕事などに精を出す傍ら、独学で勉強し二級建築士、さらに一級建築士の資格を取得する。

「けど、結局大工仕事が好きで、“設計のできる大工”みたいな感じです」と笑う。

手刻みで作業中の職人たち


秘伝の土

社名と共に“土壁の家工房”と書かれている通り、土壁の家を多く手掛けられてきた田口さん。そのこだわりはどこにあるのか尋ねた。

「元々こだわっていた訳ではないんです。八代は泥壁や土壁が昔から多い地域で、最近まで当たり前に目にしていたんです。それが時代と共にみんな辞めていってしまって、逆に目立つようになったんだと思います。本来は大工仕事オンリーでやっていたんですが、知れば知るほど面白い部分と悩む部分があり、大工でありながら土壁の魅力にのめり込んでしまったんです。大工と左官がいればほぼ一棟を自分たちで建てられる。職人の技術を活かしていけるというのが一番の理由ですね。」

「それからもう一つ、産業廃棄物の処理の問題がクローズアップされ始めた時期に見た光景が忘れられません。たまたまプラスターボードの切れ端などを最終処分場に捨てに行った際に、大型トラックがガンガン来て「グワーー!!」と大量の新建材をバンバン捨てていくのを目にしたんです。そうしたら目がものすごくチカチカしてきてその場に居られなくなり『このまま時代が進んで新建材を使った家が立て替えや改修の時期を迎え、もっと大量の新建材を破棄せざるを得なくなった日には、もう取り返しのつかないことになるぞ…』と見た瞬間に感じました。木と土壁なら全て土に還すことができる。それが二つ目の理由です。」

そんな想いから土壁を大切にする田口さんは、土壁のために赤土を“練り置き”する水槽を作業場に構えている。大工もみんな荒壁塗りをするそうだ。

左:見下ろすために立って操作する田口さん/右:赤土だが発酵して真っ黒になるが、日が当たるとまた赤に戻る。

左:水を加えながらショベルカーで練る/右:混ぜ終わるとフタをする。冬は温度が上がり発酵が早まる効果もある。

「水槽の容量は2トンダンプ8台分で、60坪の家一軒を賄えるほどの量とのこと。ここに藁スサと水を加えて混ぜながら1〜3ヶ月くらい練り置きする。赤土に藁スサを加えて練り置きすることで、藁に含まれるリグニン(分解するとノリのようになる)と納豆菌(発酵が進む)の影響で、十分に練り置きした土は、塗りやすさと固まった時の硬さが向上し耐候性が増すという。
次回のためにタネ土として少し土を残しておき、継ぎ足して使うことで発酵が早く進むので、田口さんはこの土を「秘伝のタレならぬ秘伝の土」と呼んでいる。

秘伝の土の改良のため、土の種類や混ぜ物の配合など日々研究中だ。


ピーンと響いたふたりの言葉

今から20年前、田口さんに“代替わり”という転機が訪れる。堅気で職人気質な父親に対して、自分がどういう方針で受け継いでいくのか、はっきりさせないとならない時期になっていた。
それまで普通にやってきた伝統構法の木造建築の他に、時代の流れ中でいわゆる“文化住宅”の仕事も手がけるようになっていた田口さん。今時の仕事ばかりが増え「培ってきた技術を活かせない仕事ばかりではダメになるよな」という意識もあったが、フランチャイズや高気密高断熱などの新しいものを取り入れた方がいいのではないかと、若かったので翻弄され悩んでいたそうだ。

そしてあるふたりの言葉が、そんな田口さんを伝統構法の木造建築家に立ち戻らせることになる。

「化学肥料・農薬が当たり前の時代なっているけど、我々農家は立ち返って昔ながらの考え方・やり方(堆肥を使うなど)でやって行かないとこれから先だめなんだよね。」

同じ八代で、い草農家を営むOさんの言葉だ。この一言に田口さんは「そうか、俺らも確かに高気密とか新建材とかじゃなくて、親父たちがしてきたような昔ながらやり方に立ち返った方が良いのではないか。」と考えさせられたのだという。

「窓を閉めたら高気密、開けたら高気密じゃないとか危ないよ。自分がやれること、得意とすることをやればいいんじゃない?今までやってきた自信の持てることをやった方がいいよ。」

この言葉は工務店の先輩のMさんに「高気密高断熱の家を扱ったりフランチャイズにした方が、この先良いんですかね?」と相談したところ返ってきた言葉だ。

「ふたりの言葉がピーンと私に響いたんです!」と声を大きくする。

ちょうど今、田口さんに影響を与えた、い草農家のOさんの自宅を建築中とのことで現場を案内してもらった。


昔からの建築と昔からの畳

八代市内で絶賛建築中のい草農家「ファミリーファームOKA」を営む岡さんの自宅は、約60坪の平屋。大工仕事はだいたい終わっていて、これから左官仕事が本格化する段階だ。

モルタルを塗っているのは左官職人の高植さん。最終的には漆喰仕上げになる。

内装の荒土は自慢の練り置きしておいた赤土で、この後塗る予定の仕上げの漆喰にはい草の粉末が混ぜ込んであり消臭効果が期待できる。最初は緑色っぽく5年程経つと茶色に変化していくという。畳と共に部屋全体が経年変化していく。もちろん岡さんのい草を使用している。

施主の岡さんと共に

まっすぐと東に伸びる廊下の先には緑の田んぼが広がり、室内をほんのり緑色に染めていた。実はこの窓、お正月には初日の出が真正面から差し込んでくるという粋な設計になっている。また、まだ見ることはできなかったが、部屋ごとに違う畳を配する予定で、子供部屋には一部に色を混ぜるなど、い草の老舗ならでは内装になりそうだ。

「昔からの建築と昔からの畳で、どの部屋も全部こだわっている。」と田口さんも岡さんも口を揃える。

大工仕事は田口さんの長男・柾哉さん(26)が墨付けから手掛けている。他社で経験後5年前に田口さんの元に戻ってきた。

伝統構法の家をつくることについて尋ねると、「ずっとやっているやり方なので、これが当たり前です。まずは仕事を覚えていきたいです。」と心強い返事が返ってきた。

左:作業中の息子・柾哉さん / 右:い草について語る岡さん

「親が弱ってくると息子がしっかりしてくるものだよ。」
そう笑う岡さんもまた、息子の直輝さんとともに、い草と向き合っている。

実は岡さんの経営する「ファミリーファームOKA」は、木の家ネット記事(2019年3月1日公開・加藤畳店 加藤明さん)にも登場しており、鎌倉の設計士・日高保さんがイチ押ししている「すっぴん畳表」を製造している。敷地内にある工場を案内してもらった。


唯一無比のすっぴん畳

畳を知る人なら「すっぴん畳」と言えば「岡さんの畳」を指すという。業界では有名な岡さんの畳は唯一無比の存在だ。
なぜ“すっぴん”かというと、通常、い草を収穫して乾燥させる間に「泥染め」という工程を経ることで、早く均一に乾燥させることができるのだが、「すっぴん畳」はその工程を経ることなく乾燥させているため、い草本来の緑色をしている。また、細胞の構造を崩すことなく残しているため、植物としての水分を吸ったり吐いたりする機能を有しており、吸湿性も優れている。無洗で乾燥させることは特に難しく、業界初の技術を確立しているからこそ実現できるのだそうだ。7〜8年経つと光沢が増し黄金色に変わり、部屋自体が明るく感じられるようになる。

「『畳表の色が変わる』ことをマイナスなイメージとして捉えられてしまう場合もあるので、黄金色に変わるということをきちんと説明する必要があります。(岡さん)」

「木の家そのものも同じで色も変わるし経年変化もする。それがその建物の“趣”となるんです。(田口さん)」

この機械で織っていく。大切にメンテナンスをしながら使っている。

田口さんはこのい草の残材を土壁の貫伏せに使う。藁よりもピンとしてハリがあり塗り込みやすい上に、割れ止めにももってこいなのだという。

左:防カビ剤には乳酸を活用した、体に優しいものを使用している。/ 中央・右:市松やカラーなど様々な製品が生み出されている

未来を担う息子たちへ伝統技術を受け継ぐ。

「何百年という歴史をこの21世紀で終わらせてはならない。つくり手も住まい手も、目先の欲だけで生きないようにしなければ。(岡さん)」

かつて田口さんを動かした恩師の言葉に、筆者も心を動かされた。


地震の傷痕をあえて残す

次に事務所近くの田口さんの自宅を案内してもらった。2015年に建てたもので、モデルハウスとしても活用している。外壁は経年変化見てもらうため、塗装は施していない。

玄関の戸は友人宅の蔵で使われていたもの

左:開放感のある内装 / 右:スキップフロアの階段から

左:居間を囲う洗い出しの土間 / 中央:居間スペースは荒壁仕上げ / レンガのタイルは油汚れも気にならない

土間が好きだという田口さんの自宅は、洗い出しの土間でぐるりと囲まれた居間スペース中心に、吹き抜けがあり、廻りにスキップフロアが設けられ寝室、子供部屋へと上がっていく形になっており、遊び心が感じられる。
エアコンは1台で、夜の数時間だけ湿度を下げるために使っているくらいで、後は来客時に点ける程度。ほとんど扇風機だけで快適に過ごしているそうだ。

左:まだ未完成だという風呂場は、洗い出しの浴槽と杉の赤身の落ち着いた空間だ。 / 右:風呂場の他にも数カ所設けられている無双窓

地震の影響がどの程度あったのか伺った。

「熊本地震ではすごく揺れました。伝統構法の家は揺れていいんですよ。本震の時、込み栓(仕口を固定するために、2材を貫いて横から打ち込む堅木材 )が『ギュッギュッ』と音がして、だんだん戻っていきました。震度5強くらいで泥壁が落ちると言われているんですが、震度6弱でも落ちなかったので、相当保つもんなんだと感心しました。」

経年変化を見てもらいたいので、地震の傷痕はあえて残している。耐久性の実験でもある。

「窓際はズレて割れていましたが、徐々に戻っていって、力を逃しているというのが身を以てわかりました。この家は固定していたんですよねぇ。“動くなら動く。動かさないなら動かさない。”とするのがいいんだと思います。いい経験をしました。今ちょうど建てているのは、土台は使うけど、ただ乗せるだけの家です。」

「この辺りは干拓地が多いのですが、その境目の辺りでは地盤が揺れ、液状化した地域もありました。瓦の被害が多く修繕に多く周りました。今も建て替えや修繕の依頼が入っています。1年以上待ってもらわないとならず、お断りせざるを得ない場合もあり心苦しいです。」

人手が足りていない状況が続いており、特に左官さんが足りていないという。左官さんの方から「泥壁の修繕をしたことがないからお宅でどうにかなりませんか?」と連絡をもらったこともあるそうだ。

昔は普通にあった職人の仕事。それが今ではめっきり減ってしまい、復興に大きな影響を与えている。


大工としてやるべきこと

田口さんは“大工育成塾”や“やっちろ版職人塾”など、若手の育成や職人どおしの繋がりを深める活動に力を注いでいる。その原動力について語ってもらった。

「最初に大工育成塾の受け入れ先になって欲しいと依頼された時や、他にも新聞記事を書いて欲しいと依頼された時なんかは、『いや、いいですよ。ウチそんなレベル高くないし』と言って遠慮してたんです。そうしたら『そういうことじゃなくて、求めてる人がいるんです。その人たちのために情報発信をしていかなければならない。記事を書いたり何か発信していく活動をしていけば、そこから人が繋がっていく。だから自分が篭っていたんじゃダメよ!』と言われ『あぁそうか、そういうことですか。それならわかりました。』とハッとさせられましたね。」

「その延長線上に今の自分がいるんです。こういった活動はずっと追い求めていかないと萎えてしまうので、常にいろんなことを見て・聞いて・勉強し続けています。そして自己満足で終わらせるのではなく、自分が学んだことを、職人や息子たちに受け継いでいってもらえるように、きちんと伝えることが自分の責務だと思っています。そして、一緒に頑張ってくれる職人さんもいないと成り立たないので、自社だけではなく地域に居る職人さんに対しても伝統技術を伝えていくために“大工育成塾”や“やっちろ版職人塾”の活動を始めました。」

家づくりに、次世代の育成に、真っ直ぐ向き合う田口さん。ふたりの息子さんや自社の職人さんにはどういう職人になっていって欲しのだろうか。

「育って巣立っていってもらいたいですね。そこから自分でやって初めて一人前。『たまにウチを手伝ってくれ。ウチも手伝いにいくよ。』そんな関係がずっと繋がっていけばいいなと思っています。そうやって職人が活躍できる家づくりを残していくために、各々が自分の役目を果たさなければならないと考えています。」

最後に、田口さんが作ったというポスターに書かれた言葉を紹介してくれた。

『大工としてやるべきこと それは日本の建築技術と伝統文化を受け継ぐこと』

この言葉に田口さんの大工としての覚悟・使命感が表れている。

左から、雄士さん(次男・23)、柾哉さん(長男・26)、田口さん(52)、水本さん(57)、高植さん(42)。他に古島さん(54)、杉本さん(33)も在籍する。


 

土壁の家工房 (有) 田口技建(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

盛夏の熊本、一級建築士事務所 FU設計を共宰する梅田彰(うめだあきら)さんの元を訪れた。
梅田さんは熊本県八代市生まれで、九州東海大学の一期生。卒業後は数年間、別の会社に務めた後、大学の同級生で仕事仲間でもあった藤木一治(ふじきかずはる)さんと1991年にFU設計を設立。現在は梅田さん・藤木さんの他に、30代の秋月さん・松永さんの4人で設計にあたっている。
設立後すぐに県指定文化財の登り窯の覆屋を石場建てで建てる仕事を手掛けるなど、木造建築中心の仕事が自然と続いていった。
そんな中「古民家がどんどんなくなっていくのが寂しかった」と言う梅田さんは、せめて記録だけでも残したいとの想いで〝古民家探検団〟を作って、古民家の記録をしていく活動をしていたそうだ。

古小代の里公園 登り窯(1990)

ある日、梅田さんのもとに、古民家を4棟移築するというプロジェクトの依頼が舞い込む。まずはその仕事を紹介する。


二棟の中央にある谷樋(たにとい)が特徴的だ。今は鉄板を入れているが、当時は竹を重ねて造ったり、瓦を敷いたり様々だったらしい。

職人さんが活躍できる機会を増やしたい

訪れたのは玉名郡和水町にある肥後民家村。各地に残る代表的な古民家を移築復元している施設で、古民家宿泊・木工・ガラス細工などの体験ができ、古人の生活に思いを馳せながら、昔暮らしが楽しめる場所だ。
今回案内してもらったのは、梅田さんが移築した4棟のうちのひとつで1765年建築の旧緒方家住宅。現在は「kinon cafe & arts」が入居しており人気を博している。残りの3棟も県内から移築してきた築150年ほどの貴重な民家だという。
一歩足を踏み入れると、店内のひんやりとした空気に古民家のならでは心地よさを感じる。実はこの日の熊本の気温は38℃!外との気温差は歴然だ。

左:移築当時の写真/右:現在入居するkinonの看板

「古い建物は使うことで活きてくるので、ここのように人が集う場所として使われるのはとてもいい事だと思います。学生を連れてきて昔の建物を見せるのにはここがいちばんいいんです。」

この建物は〝二棟造り(別棟型・分棟型と呼ばれる場合もある)〟と言われる構造で、一棟は土間、もう一棟は座敷になっている。江戸幕府の規制によって二間以上の梁間を作れなかったため、当初は小割にして別々に建てていたが、不便だったので寄せて建て、真ん中に樋を入れるようになったそうだ。南九州に広く分布していた様式だという。

熊本地震の際には和水町では震度6弱を記録。今年の1月にも和水町内を震源とする地震が発生し、その時も震度6弱を記録したが、金物を一切使用していないというこの建物が被害を受けることはなかったとのこと。

 

移築に当たって苦労したことを伺った。

「職人さんを探すのがとても苦労しましたね。特に茅葺をできる職人さんは県内にも数人しかいなかったので、この時は県内の他に大分からも来てもらいました。以前は茅葺をはじめ伝統構法に携わる職人さん達というのは普通にいたんですけどね。職人さんに話を聞くと彼らも『自分たちも今までは出来ていただけど、今はそういう仕事が少なく、後を継ぐ人もいない。』と言われました。だから職人さんのためにもそういう機会を増やせれたらいいなと思っています。」

そんな中明るい話題もあった。昨年、隣に建つ旧境家住宅(国指定重要文化財)の茅葺屋根の補修工事の見学会に参加した梅田さんは、阿蘇から来ていた茅葺専門の職人さんたちと知り合ったそうだ。

「若い女性の職人さんが2人も活躍されていました。実に頼もしいです。これからお願いしていこうと思っています。」
と期待を寄せている。

ベンチやオブジェなどには、お店のオーナーで国内外で活躍する木彫家・上妻利弘(こうづまとしひろ)さんの作品が使われており、古民家の個性と見事に調和している。ちなみに店長を務めているのは娘の野乃花さんだ。
梅田さんと上妻さんとの出会いはかれこれ27〜8年前にまで遡る。当時、梅田さんが建てていた道の駅のためにドアノブと看板を頼み込んで制作してもらったのが始まりで、それ以来FU設計の事務所の看板・表札・オブジェをはじめ、個人宅など様々な案件で時折家具などを作ってもらっている。
上妻さんが肥後民家村に出店すると聞いた建物が、たまたま梅田さんが移築したものだったそうだ。なんとも縁を感じる話だ。


家は共につくるもの

次に紹介するのは熊本市東区にある寺院「無量山 真宗寺」の庫裏(くり:住職や家族の居住する建物の事を指す)の新築現場だ。江戸時代に建てられた庫裏に長年住まわれていたが、今回建て替えの道を選んだ。150坪で2階建てと広々とした空間が広がっている。一般的な住居に比べるとかなり大きい建物を手刻みで建てているので工務店は2社にお願いしているそうだ。
実はこのプロジェクト、木の家ネット会員でもある古川保さんとの協働案件でもある。

今から3年前の冬には、お施主さんと共に山に入り、実際に使う木を一緒に伐採する体験をしてもらったそうだ。もちろん設計もまだまだ固まる前の話だ。その理由についてこう語る。

「建て主さんには出来るだけ家づくりに参加してもらうようにしています。今はみんな『家は買うもの』と言う感覚じゃないですか。かつては『家はつくるもの』だった。うちで建てるからにはその感覚を持ってもらいたので、色々な形で参加してもらって『共につくる』ということをやれたらいいなと考えています。」

「一緒につくる事で職人さんの苦労もわかるし、どうやって自分の家が建てられていくのかも分かる。そうすればクレームではなく愛着や共感が生まれます。それから、建て主さん自身にメンテナンスの方法を理解してもらって、維持管理をしていってもらえるのも重要なポイントです。やっぱり木の家はメンテナンスが一番ですから。」

「暑さ寒さで自然を感じないといかん」という住職の想いからペアガラスは入れていない

他に建て主さん・職人さんとのやりとりで大事にしていることは何かと尋ねた。

「多くの建て主さんにとっては一生のものなので出来るだけ時間をかけるようにしています。急いでいる場合でもある程度は時間をもらうようにしています。また、職人さん・建て主さん双方と顔を合わせながらつくって行きたいので、大工さんを自社で抱えている工務店にいつも依頼しています。その上で建て主さんと相性の合いそうな工務店・職人さんを決めて、最初にその工務店・職人さんが作った家を見学してもらっています。そこで実際に住まわれている人の生の声を聞いてもらうのが一番ですね。」

梅田さんの仕事は、単に設計するという事にとどまらず、建て主・職人・家それぞれを繋ぐための糸を紡ぎ出すことなんだと感じた。

左:家具は大工さんにお願いする事が多い。「ずっと頼んでいるのでちょっとした家具屋さんに負けないぐらいになっているかな。」梅田さん 右:以前の庫裏に使われていた梁の存在が映える


何拍子も揃わなければ実現できない

3番目に紹介するのは熊本市西区上代にあるH邸。通称“上代の家”だ。
2001年に蔵を改修した後、2007年に倉庫を改修、2012年には母屋の改修を手掛けた。いずれも150年ほどの歴史を有している建物で、熊本地震の際も一部の壁が痛んだだけで、歪みなどは一切生じていないそうだ。

まずは案内してもらったは母屋。玄関をくぐると広々とした廊下と太く立派な梁が迎えてくれる。この梁がとにかく存在感を放っており、筆者は取材中何度も「梁が太い。」「梁がでかい。」と呟いてしまった。その梁についてHさんからこんな話をしてもらった。

「先代から聞いた話ですが、江戸時代には熊本城の改修のためにお城近くに貯木場があったそうです。それが明治維新でお城が必要でなくなったので、貯めておいた材木も不要になり、いろんな人の手に渡った。その中のものをうちの先代が入手して川に流して、自宅前の川で拾い上げて建てたという謂れがあるんです。」

「本当かどうか定かではないですが、家の大きさに対してこれだけ立派な木を揃える事ができたと言うのは、あながち嘘でもないのかなと思っています。守られている・包まれている感覚がありますね。」

話半分に聞いていたが見れば見るほど信憑性が増していくように思えてくる。
梅田さんも「あれと戦おうという気にはならない」と笑う。

キッチン・リビングは元々土間だったので天井が低い

梅田さんと建て主のHさんとは20年近い付き合いになるが、きっかけになったのは先に触れた上妻さん。Hさんが上妻さんのナイフカービング(木彫)教室の生徒だった縁で、上妻さんから梅田さんを紹介してもらったそうだ。家の中にも上妻さん作の家具が並んでいる。

テーブルとイスは上妻さんに作ってもらったもの。テーブルは改修前の家で上がり框だった桜の木を使用している。

熊本地震で一部剥がれた壁の修復を左官さんにお願いしたところ「どうせやるならとことんやらせて欲しい」と申し出があり、部屋ごとに全て違う素材で仕上げられている。左官さん1人での作業だったので1年の手間暇を費やしたという。壁一つで部屋の雰囲気がガラッと変わってとても面白い。

左上:玄関左手の“下の間”は黒い砂鉄壁。塗る時に垂れてきて大変だそうだ。/右上:この赤い土は今では採れないものとのこと。
左下:こちらは砂を混ぜている。/右下:だんだん白くなるという土佐漆喰と真っ黒な梁のコントラストが美しい。

梅田さん・左官さん・上妻さんをはじめ、家づくりに携わったつくり手側の意気込みもさることながら、これだけこだわったディテールにできるのは建て主であるHさんのものづくりに対する深い理解があるからこそだろう。Hさんはこう言う。

「この辺りでも戦前からの建物が何軒かあったんですが、今では一軒もなくなってしまいました。これは逆に残しておかないといけないなと気合いが入りました。古い家にはそれぞれの歴史があるので、みなさん残したいという気持ちはあると思うんです。でも、いざ改修しようという話になった時に、梅田さんのような設計してくれる人・施工してくれる人・環境・タイミングなど、何拍子も揃わなければ実現できないと思います。」

「見た目は和風でも新建材を使った“なんちゃって”が多いですよね。そういったものは出来た時が100%であとは朽ちていくだけですが、昔ながらの自然素材の家はだんだん味が出て育っていくのが魅力ですね。」


次に2001年に改修した蔵と2007年に改修した倉庫を案内してもらった。蔵はただの物置になっていたので、そのまま直すのではお金や手間暇をかける意味があまりないと考え、来客時や一人の時間を楽しむための空間として生まれ変わらせている。まさに“男の住処”と呼ぶにふさわしい風情があり、非日常を楽しんでいるそうだ。外壁のなまこ壁は今年から左官さんに改修をお願いしている。

桁から下は健全だったので屋根は新調したが、その他はお金をあまりかけずに、目に見えるところはしっかり作られている。

稲穂を埋め込んだ壁が目を引く

左:ここにも上妻さんのテーブルとイスが並ぶ/右:モダンなトイレに遊び心が感じられる

左:改修前の蔵の外壁につけられていた飾り/中・右:改修中のなまこ壁。


倉庫は元々他のところから移築されたもので、建物自体は母屋や蔵よりももっと古いものだ。傾いてしまっていたので、2007年の改修では基礎を入れている。外壁・内壁共に職人技が光る。

倉庫壁面の腰から下には蔵に乗っていた“目板瓦”を貼ってある。今ではもう作られていない。

左:壁面に強い風雨がかかるのを避け、漆喰の壁を白く保つ“水切り瓦”/右:削り漆喰の壁:今年の地震で剥がれたのはこの2面だけ

内壁は「削り漆喰」で、下地の小舞を竹ではなく板の桟で組んでおり、隙間に漆喰が入り込むので粘り強く、力を吸収してくれるという。土に関しては蔵の屋根などから集めたものを使用している。その時の左官さんがこんな事を語っていたそうだ。

「左官の仕事というのは普段は仕上げしか見られない。何十年か経って壊したり修復したりする時に初めてその左官の仕事がどうだったかを判断される。その時に『きちんとした仕事だな』と思ってもらえるような仕事をしないといけない。」

その姿勢にHさんもたいそう関心したそうだ。地震で一部剥がれてしまったので“その時”が来た訳だが、今、蔵と倉庫の改修にあたっている左官さんは、実は最初の改修時の左官さんの元お弟子さんとのことで、ここでも縁や繋がりを感じる。
梅田さんが「そこで実際に住まわれている人の生の声を聞いてもらうのが一番」と言う通り、Hさんから聞く話はとても興味深く、梅田さんとの信頼関係もよく伝わってくる。

20年近い関係を築いている二人からは親密な空気が感じられた。


今も手描きで図面を引いている。「決め切らない曖昧なところがいい。」

家づくり=コミュニティづくり

梅田さんの会社 FU設計が入居している「EL SOCIO BILD.」は、1990年にFU設計の他に司法書士・社会保険労務士・税理士それぞれの知り合いを集めて、みんなでで土地を借りて建て、共同で管理しているそうだ。もちろん設計はFU設計(藤木さん)だ。このビルには共有の会議室があったり、廊下がギャラリーとして使えたり、ライブラリー(今は間貸ししている)があったりと、開かれた場所になっており、昔はPTAの会議などにも使われていたそうだ。

「地域の子供たちが集まってきてくれるような場所になればいいなと思ってスタートしたんです。」

「一番家づくりで大切なのはコミュニティだと考えています。環境を作ってあげるということで、家族の住環境ということだけではなく、地域の人との関係をどう育んでいけるか。家を建てて終わりではなく、どうやって地域の人と仲良くできるかという“仕掛け”を作れたらいいなと思っています。隣近所の人が集まって来て楽しく酒を飲めるような環境を、生活してゆくなかで作れるのが一番いいんじゃないでしょうか。会社や学校と家との往復だけで、隣近所の人と挨拶も交わさなかったり、仕事をリタイヤしたあと一人で家に閉じこもっていたりするのは寂しいじゃないですか。」

事務所の廊下にて:左から梅田さん・秋月さん・松永さん・藤木さん。実は梅田さんと藤木さんは誕生日が一緒だそうだ。ここでも縁を感じる。

梅田さんの日々の仕事には、家づくり・コミュニティづくりに対するこうした考えが根底にある。人との縁・人間関係を大切に育みながら今日も図面を引いている。


有限会社 FU設計 梅田 彰(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

時を重ねるほどに美しくなるもの

自然の理にかなったもの

木の家ネットは、大工工務店、建築士、左官、建具職人、材木屋など「国産無垢材を使った、職人の顔が見える木の家づくり」に関わる多くの職種の会員が、全国に分布しています。

「職人がつくる木の家」に住みたい人が、それを建ててくれる人を探すために、地域別の全国の木の家 つくり手リストがあるわけですが、一方でこのリストは、つくり手同士がつながるためにも役に立っています。建築士が地元以外で仕事をする時に施工者を探したり、施工者から建築士に設計を依頼をしたり、施工者同士が建前の応援を頼み合ったり…などといったケースがあります。

総会や研修などで顔を合わせ、家づくりについての理念や姿勢をある程度共有していることで、地域の境を越えて協働できる可能性がある。これも、木の家ネットの意義のひとつといえるでしょう。

今回のコンテンツでは、木の家ネットのメンバー同士の協働事例について、岡山県倉敷市で一級建築士事務所 (有) バジャンを主宰する和田洋子さんが設計者として関わった複数のチームの現場を通じてご紹介しましょう。

和田洋子さん
[ 一級建築士事務所 (有) バジャン ] 岡山県

設計者、施工者それぞれが、どのような思いをもってその仕事に臨み、相手に対してどのような期待や信頼を抱いて進め、どのような相乗効果があったのか。

和田さんと協働してきた木の家ネットメンバーのうち、岡山の杣耕社 山本耕平さんとジョンストレンマイヤーさんとの仕事については、現地取材にもとづいてご紹介します。広島の株式会社のじま家大工店の野島英史さん、京都の大」(だいかね)建築の金田克彦さん、奈良の不動舎の宮村樹さんとの仕事については、和田さんご自身の言葉でご紹介いただきます。

1. 和田洋子さんの家づくりの姿勢

チームでの協働事例に入る前に、和田洋子さん自身が設計をする時に大切にしていることについて、概観しておきましょう。

地域の材料、職人で

地域の気候風土に合った家づくりを

和田さんが何より大事にしているのは「地域の材料」「地域の職人」による「地域の気候風土に合った」家づくりです。

それが、地域の技術の伝承、地域内での経済循環、輸送エネルギーの削減、エネルギー消費量を低く抑えた気持ちのいい暮らしにつながるからです。

地元の良い木は

無垢の木のまま生かしたい

まずは、岡山県内で建てる場合には、県産材を使います。その理由について和田さんはこう語ります「岡山は林産県ですが、戦後大量に植林された檜や杉の多くは、集成材やCLTになっています。十分な大きさや美しさを持つ材木までエンジニアリングウッドにするのはもったいない。木は木のままで活かしたい。山の人には建物になる姿を想像しながら良い木を育ててもらいたい。そういう思いもあって、県内で建てる時には木材は県産材を使うようにしています」

経済性だけを考えれば、ほかで調達する方が、運送コストを含めても地元の材料より安い場合もありますが、地域の産業や技術を絶やさないためにも、和田さんは「地元で調達すること」をなるべく優先させています。

「壁や床にも、地域の土を使います。仕上げ塗りには時に京都や土佐、愛知の土を使う事もありますが、荒壁や中塗り土は地元の矢掛町の土を使っています。建具や家具も、地域の職人さんに作ってもらいます。私の自宅は戦前に建てられた賃借長屋ですが、当時の並仕事の建具でも、今も十分使えます」

気持ちよく暮らすために

床の上下で「風通し」を確保

温暖で、夏には湿度も高くなる中国地方で、機械空調に頼らずに気持ちよく暮らすために、和田さんが設計上大事にしているのは「風通し」です。

「柱は石場建てにして、床下の風通しが良いことを大前提にしています。家の中の風通しを確保するためには、南面はほぼ全開口、北面にも通風のための窓を多く設けますが、開口部が多くても構造的にもたせるよう、構造計算をしています」

以上の考え方を実践している2事例をご紹介しましょう。

国府市場の家

息子さん達が独立された後、ご夫婦二人で農作業を愉しみながら暮らすための家です。農作業中でも土足で訪問客と応対できるよう、玄関土間にベンチを設けています。土間の三和土に使ったのは、地元矢掛町の土です。

1. 湿気対策として靴箱は「簀戸」に 2. 「三和土(たたき)」の土間


3. スリット状の引き戸をスライドして開閉する「無双窓」 4. 竹小舞を塗り残した「下地窓」

風通しを確保する工夫として、留守中にも換気ができるよう、無双窓を設けました。また、玄関と居間の間には、通気と目隠しを兼ねた下地窓を作りました。いずれも、ゆるやかに外界とつながり、風の通り方を必要に応じて調整する「和の住まい」として伝承されてきた要素です。日本の優れた暮らし文化を新築住宅に取り入れた例として国交省の「気候風土適応住宅」事例に採択されました。

女性らしい

細やかな感性が光る

地元産の木をあらわしにしたのびやかな空間が広がります。梁が重なっていても、重苦しさやあらあらしさを感じさせないのは、女性らしい感性でしょうか。端正で、すっきりとした美しさが際立ちます。伝統の技術と時代の息吹やセンスとが融合した「現代の伝統構法」事例として、後世に残る建物といえるでしょう。

木組み・土壁・石場建ての保育園

子どもたちに手仕事を教えるモンテッソーリ教育に取り組む保育園の園舎を、木組み・土壁・石場建てで手がけた事例です。

木の香りがする

風通しのいい園舎

園児を連れてくる保護者の方々から「良い木の香りに驚きました。木の香りがこんなにするなんて」と言われるそうです。柱や梁、床にいたるまで、岡山県産の檜です。地元材のよさを、子どもたちが家に次に長い時間を過ごす保育園で知ってもらえるのは、すばらしいことです。

機械空調を極力せず、風通しで自然な涼しさを得るために、南の縁側も、向かい側の北面も、窓だらけです。建具は地域の職人さんに作ってもらいました。「きちんと園児たちの指を使わせてあげたい」という先生方のご希望で、鍵はあえて昔ながらの螺子(ねじ)締まりにしてあります。

障子がある日常で

子どもたちが身につけること

ひなたぼっこをする縁側と保育室との間は、障子で仕切られています。やわらかな光が部屋を満たしています。走り回ったり、暴れたりして、障子紙が破けてしまうのでは?と尋ねると「乱暴に使うと破れるから大事に使ってね、と子どもたちに話をしました。先生方のやわらかい所作を日々目にし、まねることで、物を大切に扱う事は自然と身についていきます」という答えが返って来ました。

もし破れても、先生方は紙をきれいな形に切って穴のあいたところに貼ることを、子どもたちに教えるのだそうです。「大切に使うとは、こわごわ使うことでなく、こわれたら直せると知っていること」という和田さんの一言に、大きく頷かされました。障子がない家が大半だからこそ、この園での障子に触れることがが、忘れられかけている大切な感覚を育てる体験となるのです。

幼い子にこそ、本物を

「子ども達には、うわべだけ、表面だけでないものを与えたいんです。汚すから、こわすからといって、プラスチック製品を、というのではなく、本物に愛着をもって触れ、その奥行きや深みをうんと味わってほしい」と和田さん。

本物の素材でできた園舎で、先生方の穏やかな見守りと導きの中で育ち、巣立つ子どもたちは、幸せです。このような保育園や幼稚園、学校、学童施設が、全国にたくさんできてほしいものです。

2. 大工たちと和田さんとの協働

その接点は「伝統構法」

ご紹介した2例をはじめ、和田さんは新築であっても「木組み・土壁・石場建て」で設計をしています。無垢の木を組んだ軸組構造に、土壁を塗り、家の柱は石の上に「載っている」だけの石場建て。昔ながらの家に多いこのつくり方に和田さんは魅力を感じ、取り組んできました。

その理由を尋ねると「家を長もちさせたいからです。床下に風が通りやすく家の足元が腐りにくいですし、腐ったとしても、直しやすいのです」とのこと。長年住まわれておらず、家が傾きかけていた石場建ての古民家を改修した体験が、その確信を強めました。「壁土を落とすと、柱の何本かの根元が腐っていました。家全体を30センチジャッキアップし、柱を根継ぎして下ろしたら、健全な状態に戻りました。それぞれの柱が個別に立つ石場建ては、こうやって直せるのだなと実感しました」

左. 石場建てを採用した、保育園の足元の様子 右. 根継ぎ

このような作り方に、魅力を感じている大工も少なくありません。同じ岡山県内の木の家ネットのつくり手で、和田さんとチームを組んで石場建ての新築住宅を手がけた杣耕社の山本耕平さんもその一人です。

「『木は生育のままに使え』という西岡棟梁の言葉があります。山で木が立っているように石に直接柱を立てる石場建ては、理に適っていると、社寺の仕事をしていた頃から感じていました。独立したら、住宅を石場建てでやりたいと思っていたのですが、ほとんど事例がないのに驚きました。同じ県内に和田さんがいる!と、インターネットで探し当てた時には、嬉しかったです」と山本さん。

山本さん率いる杣耕社の大工のジョン・ストレンマイヤーさんも、石場建てに魅了されて来日しました。「石場建て民家や社寺の、石の上から柱がスッとのびる無駄のない美しさに憧れて、日本に来ました。京都の数奇屋工務店での修業して石場建ては学びましたが、一般の新築住宅は京都にも奈良にも、ほとんどない。和田さんとの出会いでようやく造ることができて、嬉しいです」と、ジョン。

和田さんと大工たちとが

チームを組むメリット

しかし現在、建築基準法の仕様規定にはない伝統構法で新築を実現するには、構造計算やさまざまな手続きが必要です。和田さんは、石場建てを設計するだけでなく、その構造的な安全性を検証する限界耐力計算まで手がけ、適判(構造適合性判定とよばれる審査機関によるチェック)をも、人任せにすることなく自分で通しています。

「限界耐力計算や適判まで…って、大変すぎないですか?」と訊くと「たしかに簡単ではありませんが、自分が設計する事例が構造的にどうなっているかを自分で検証し、設計にフィードバックすることで、意匠と構造とのバランスをとりながら設計を深めていくことができます。面倒だけれども、それ以上におもしろいし、楽しいです!」という答が返ってきました。

設計時に「こうかな」とはたらく直感を、自分で「やっぱり、これでいい」と検証し、適判を通して実現する。そのような実践を重ねていくごとに、和田さんの経験値もあがり、直感もますます磨かれていっているのでしょう。

普段から木を触り、軸組を組んでいる大工も、石場建てについて「これはもつ」とはたらく直感はあるといいます。それを構造的に検証し、法律的にもクリアしていく和田さんは大工たち「力強い味方」であり、貴重な存在です。

3. ともにつくってきた大工たち

協働してきた木の家ネットのメンバーのうち、岡山の杣耕社の山本耕一さん、ジョン・ストレンマイヤーさんの取材をさせていただきました。

山本耕平さん
[ 杣耕社 ] 岡山県

社寺建築の仕事をやめて

バジャンの門を敲いた

社寺建築ではあたりまえにやっていた石場建てを一般の住宅でも手がけたい!そんな思いで、和田さんに会いに行った山本さんは、当時和田さんが構想中だった石場建て住宅の基本設計図を見た時点で、それまで勤めていた工務店を辞め、その建物の施工に取り組もうと心に決めました。

協働のはじめの一歩として「一緒に軸組模型をつくってみん?」と、和田さんはもちかけました。縮尺通りに、一本一本の部材を加工して、設計者と大工とで対等にわたりあって組み方を検討して、まるまる5日。

「具体的な作業を通して互いの考え方を知るいい時間でした」と和田さんは振り返ります。お互いに「賭け」でもあったこの出会いが実ったのは、ふたりの石場建てへの思いの強さゆえでしょう。

研ぎ澄まされた設計と

木を愛する大工とが生んだ空間

玄関を一歩入ると、和田さんの繊細な設計と、山本さんとの木遣いのセンスがあいまった、すばらしい木の空間が。どこに、どの樹種の、どんな表情の木を使うか。図面には描ききれない取合せを、二人がとことん追求した結果が、ここに凝縮しています。

土間からのあがりはなにある杉の一枚板。はつったやわらかな凹凸のある表面は足あたりよく、滑りにくく、靴を脱いだ足の裏にやさしい感触です。土間との段差を昇り降りするのにつけた手すりは、握りやすく六角形にはつられています。研ぎ澄まされた空間でありながら、手触り、足あたりまで行き届いていた配慮が感じられます。

「山本さんの作業場には、彼が集めた木がたくさんあって、行くと『これ、使ってみません?』という提案がどんどんでてくるのです。樹種、色、風合い、肌触り、木目などを知り尽くしていて、最高の取合せを工夫してくれるので、部材を揃えているというより、役者の配役を楽しんでいるような感じです」と、和田さん。

お互いがチャレンジャー

「和田さんって、とにかくセンスがよくて、それが徹底している。このオフィスの空間だって、そうでしょう? 余計なものがなく、あるものは色も形もサイズも、選びぬかれている。それがわざとらしくなくて、さりげない」取材先の児島舎のオフィスで、山本さんはこう力説していました。

ジョン・
ストレンマイヤーさん
[ 杣耕社 ] 岡山県

初棟梁ジョンの

がんばりと、お人柄

石場建てにあこがれて日本にやってきたジョンは昨年、和田さんの古民家改修現場で、初棟梁を任されました。おばあちゃんが嫁に来た頃から半世紀以上住み続けた家です。「山本に『やってみるか?』と言われ『やる』と答えたのですが、やってみると分かっていないこと、見えてなかったことがたくさんでてくる毎日でした。責任をもってすべてを判断するのが棟梁だから、大変だったけれど『毎日笑顔で』と心がけ、なんとかやり通しました!みなさんには、ご迷惑をおかけしたもしれないけれど・・・」とジョン。

「建て主さんに心から喜んで住んでいただける家に仕上がって、嬉しいです。失敗しても誠意をもって取り戻そうとする、そんなジョンがみんな大好き!人に愛されることも、棟梁として大事な資質だと思います」と和田さん。

古民家本来の美しさを

もういちど輝かせる

木組みを覆っていた天井を取り払うと、美しい木組みがでてきました。黒光りした木々の重なりをきれいに見せるために、梁を磨き、あらわしました。

玄関や台所の位置なども思い切って変えて、明るく住みやすくなりました。住み慣れた間取りが変わっていくことを、当初は最初は受け入れ難かったおばあちゃん。住みながらの改修ゆえ毎朝顔をあわせるジョンは、おばあちゃんのご機嫌によっては、いろいろ言われることもあったそうです。

それでもジョンは「笑顔で」を心に、現場へ通いました。完成した今は、おばあちゃんも大満足。「思い切って直して、よかったよ!きれいになったろ?」と、自慢してくれました。

「いいと思ったものを、意思を持ってつくり続けることが何より大事だと思います。これからも、もっともっとやっていきたいし、これから続く若い大工たちも、そうあってほしいと思います」と、ジョンも満足そうです。



杣耕社 山本耕平・Jonathan Allan Stollenmeyer

岡山県外での和田さんと大工たちとの協働事例として、広島の株式会社のじま家大工店の野島英史さん、京都の大」(だいかね)建築の金田克彦さん、奈良の不動舎の宮村樹さんとの現場をご紹介しましょう。

和田さんからの説明と、大工側から和田さんへのメッセージを織りなして、お届けします。

野島英史さん
[ 株式会社のじま家大工店 ] 広島県

野島さんは、飛騨古川で修業した大工です。今は広島県福山市で「株式会社のじま家大工店」の社長として経営や設計、打合せに専念しています。林直樹さん、工裕次郎さん、市川歩さんといった、野島さんに鍛えられた優秀な大工たちが、現場にあたります。

建主さんの要望に応えるべく、のじま家大工店のおかみ、尚美さんが、木の家ネットのメーリングリストに石場建てについて質問の投稿をしたことがありました。それに私が回答したことがきっかけで、のじま家大工店初の石場建ての家を設計させていただくことになりました。

この家の設計意図をずばりと捉えて「風がうたう家」という名前を付けてくれたのは野島さん。そのすばらしいセンスに脱帽です。

初めての石場建ての苦労に加えて、どちらも引かず、意見を戦わせるタイプの野島さんと私の間で、現場の大工さんたちは、さぞ気苦労も多かったことと思います。大工さんたちが静かに見守って下さったおかげで、決め事が終わった後は何もなかったように笑いあえる仲間になれました。ありがとうございました。

和田:こちらは、廃校になった小学校をつるばら専門店に改修する仕事のアドバイスをさせていただいた事例です。

野島さんは地元のアーティストやデザイナーと一緒にまちづくりイベントなども手がけ、工務店の親方として地域人としての役割をしっかり担われていることを感じさせられます。

野島:初めてお会いした時、和田さんが「今は石場建だけです」と言ったのに衝撃を受けました。一緒に仕事をしてみて、石場建てにかける信念というよりは執念に近い気持ちで、妥協せず意思を貫いていく姿勢は、まさに「石場建ての鬼!」。言い過ぎだったら「石場建てのアネゴ!」くらいにしておきましょうか。アネゴ、これからもよろしくお願いいたします!



株式会社のじま家大工店 野島英史

金田克彦さん
[ 大」(だいかね)建築 ] 京都府

和田:大」(だいかね)建築の金田さんからは、古民家の構造計算の依頼を受けました。金田さんの考え方や数多くの古民家改修の実践には以前から興味があったので、二つ返事でお引き受けさせてもらいました。

和田:当初は「建物の耐震性評価のための限界耐力計算」の依頼だったのですが、金田さんが後押しして下さった事もあり、設計までトータルにさせていただくことになりました。

現場は「決めて行く事」の連続です。お施主さんご夫妻も一緒になって4人で楽しみながら、迷いながら、検証しながら、行きつ戻りつした現場でしたが、先日(2019年7月)ようやくお引渡しを終えることができました。。

金田:江戸末〜明治初期に茅葺で建てられていたのを、昭和の改修で屋根を瓦にしたのと同時に、部分的に二階を増築したという履歴のある家です。阪神大震災のダメージもあり、耐震性に不安がある中、施主さんからは「通風採光のために2階直下の壁を取り除きたい」との要望がありました。耐震性と暮らしやすさとの折り合いの中で、何がベストかを探るために、和田さんに構造計算をお願いしました。

大工の経験と勘からの「大まかな読み」に頼ると、判断は構造的に過分なくらい安全側に傾いてしまいがちです。きっちり計算をしてもらったおかげで、既存の土壁と新しくつくる土壁とのバランス、地盤との兼ね合い、一本一本の柱にかかる重さ・・など総合的に追い込んだ判断ができ、改修のアウトラインがビシッと決まりました。設計にも入ってもらったことで、構造と意匠とのバランスがいい家になり、施主さんにもよろこんでいただけました。



大」(だいかね)建築 金田克彦

宮村樹さん
[ 不動舎 ] 奈良県

和田:斑鳩での古民家の調査依頼があったので、何度か総会やハツリイベントでお会いして社寺や和釘の話を伺っていた、当時奈良在住だった宮村さんに協力をお願いしました。調査に引き続き、改修工事を引き受ける事になったので、施工も迷う事なく宮村さんに依頼しました。

着工前の事前造成工事を行うのに、高知から「曳家岡本」に来てもらい、現在(2019年8月)曳家の真最中です。

曳家のために古民家を持ち上げたところ。横移動するためのレールが何本も敷いてある。

宮村さんは、来年はじまる改修工事の棟梁に、弟子の三好賢一さんを指名しました。若い弟子に棟梁を張らせ、ご自身はバックアップにまわることで「技術の伝承」をしようとの判断とのことです。

既存改修と増築が混在する難しい現場で色々迷う局面も出てくると思い、信頼する滋賀の建築士の川端眞さんにもサポートをお願いしています。迷ったり困った時に相談できる相手が居る事は、とても心強く、助けられています。

曳家岡本の岡本直也さん(左)と、
三好工務店の三好賢一さん

宮村:伝統構法は、技術だけでなく、人のつながりがあってこそできることを次の世代に伝えたいと、かねがね思っていました。そんな思いで、今回の現場の棟梁を弟子の三好に任せました。

曳家の岡本さん、設計の和田さんと棟梁としてわたりあって、曳家、造成、改修、増築という長期にわたる施工を経験することは、三好にとってものすごくいい勉強になるはずです。彼も弟子をとったので、孫弟子にも教えることができて、嬉しい限りです。

和田さんにこのような機会をいただけたことに心から感謝しつつ、今後彼らが関西圏で伝統構法での家づくりの実績を積んでいけるよう、引き続きバックアップしていきたいと思っています。



不動舎 宮村樹

4. この特集のまとめ

お互いをリスペクトできる
関係性が、よい実りを生む

和田さんは、木の家ネットの大工たちと協働する現場について、いつも生き生きと語られます。「どの現場も楽しくて、仕事というより部活のような感じです。それも、木の家ネットの仲間の仕事に対する姿勢やお人柄への信頼があり、安心できるからこそだと思います。大工さんそれぞれに特徴があり、その人ならではの良さに出会えるのも、楽しみですね」

施工を大工に、設計や構造計算を建築士に依頼するだけでなく、調査、建て方の応援、互いのイベントへの参加など、関係性が深まるほど、交流の輪は広がってもいるようです。力になったり、助けてもらったり。お互いの存在をリスペクトし、頼れるということは、なんと心強いことでしょうか。

よりよいものを求めて

「ともにつくる」

一般には、建築士は施工者の上に立ち、指示監督をするというイメージがありますが、今回みてきた協働事例の両者は「上下関係」ではなく「ともにつくる関係」です。

伝統構法の建物は、構造をあらわして見せる部分も多く、石場建てであれば足元まわりの施工にまで技術とセンスが求められます。それを求める設計者と応える大工とのどちらもが「よりよいものを造ろう」としのぎを削る心地よい緊張感や刺激が、協働現場にはあります。

図面は「挑戦状」

受けて立つ大工たち

「基本的な考え方が共通していて、素敵な仕事をしてくれると信じることができる方ばかりなので、思いっきり図面を描けます」と和田さんは言います。その図面は、大工自身が自分自身の想定する範囲の中で設計施工をする場合とくらべると「挑戦状」のようなものでしょう。

それに「よし、やってやろう」と燃え、張り切る大工たち。期待以上の仕上がりを見ることが、和田さんにとって、最高に楽しいことに違いありません。

小学生だった頃、大工さんが家の改修に入り、その仕事ぶりを見た和田さんは「大工になりたい!」と強い憧れを感じたのだそうです。その時に心に蒔かれた種が「大工とともにつくる」という形で実を結んだのです。

それは住む人の幸せ

にまでつながる

しかも、こうしたよいチームでの仕事は、よい家を生み、建て主さんの幸せにもつながっています。「お互いにしのぎを削り、高めあった結果が、建て主さんにも喜んでもらえる。それが、なにより嬉しいです」と和田さんは言います。

木の家ネットのつながりの中から、このような協働がさらに育っていくことを願っています。



一級建築士事務所 (有) バジャン 和田洋子

取材・執筆: 持留ヨハナ (モチドメデザイン事務所

 

土と水とわら。素朴な自然を混ぜ合わせ美しい空間に仕上げる左官仕事を、愛してやまない職人がいる。三重県四日市市の松木憲司(まつき・けんじ)さんだ。15歳から左官一筋。住宅から蔵、文化財までいくつもの壁を、本物の素材にこだわって塗り上げ続けてきた。

「時代が変わっても、いいものは変わらない。だから自分はぶれずに、左官仕事はいいって言い続ける」という信念で、イタリアなど海外にも出展し、その技術を世界に認められている。

それでもさらに、「蒼築舎(そうちくしゃ)」を立ち上げ次世代の育成や近代建築との融合など、新しい分野に飛び込む姿は、まさに挑戦者だ。

職人として、本物にこだわる

松木さんは、三重県四日市市の親方のもとで5年修行。親方は友人の父親だったため、軽い気持ちで飛び込んだ世界だったが、「自然素材を扱うからとにかく気持ちがよくて。形のないもん(土や水)を形にしていくのも、難しいけどたまらなく楽しかった。性格が合ってたんだろうな」と、あっという間にのめりこんだ。

使い込まれた愛用の手道具たち

21歳で独立後は、地元の左官職として、竹小舞下地、塗り壁など施工してきた。ところが30歳手前のころ、建築業界も変わり始めた。それまで主に松木さんが手がけてきたのは伝統構法だったが、効率化を重視した大量生産の住宅が台頭し、「土壁塗りの仕事がピタッとなくなった」(松木さん)時代だ。タイルやブロック貼りの仕事をしながら、やりたい仕事ができないことに思い悩む日々だったという。

松木さんはもんもんとした思いを、大津磨きなど技術向上にぶつけてきた。33歳の時には、全国左官技能大会で優勝するまでの実力を身に着けた。その縁で、ドイツ、イタリア、タイ、ベトナム、フランスなど海外でのプロジェクトに参加するようになる。海外経験は皆無で、言葉も不自由な松木さんを後押ししたのは、「日本の技術を見せつけてやる」という情熱だった。

実際に訪れたヨーロッパの壁は、日干し煉瓦を積み上げる、「版築」という土を突き固める、などが主流で、「日本の”塗る”左官技術にはみんなもうびっくりして、喜んでくれた」と手ごたえを得た。

海外での土壁塗りは大好評

以来、竹木舞と土壁、得意の大津磨きなど、自然素材を使った「自分がいいと思える仕事をしたいと声に出して言うようになった。そうすると、不思議とそういう仕事が集まってきた」と松木さん。自然素材と伝統の技にほれ込み、信じ、こつこつと積み重ねてきた仕事ぶりが、縁を繋いできたのだ。

現在は、ひと月に多ければ5、6件の現場をかけ持つ多忙ぶり。東海エリアを中心に、関東での出張仕事もこなす。

そして、どの現場でも、市販のプレミックス材ではなく、土と砂と水、すさなどの自然素材を調合して壁を仕上げる。「こんな現場、他にはないでしょう」と誇らしげだ。

愛知県常滑市の新築物件では、内壁を荒壁を塗った後、大直しの「ざっくりした状態」(松木さん)で仕上げる。大直し用の材料は、荒壁に使ったものに土やすさを加えて練り直して作る。

調合を担当するのは、息子の一真さん。足で練った後、ミキサーで混ぜて仕上げる。感触を確かめながら、微調整を繰り返す。

自然素材でやることこそ、「本物の左官の仕事だと思っている」と強調する松木さん。

その理由は3つある。1つは、ごみが出ないこと。壁塗りは、1日に必要な量を予想して午前中に材料を作る段取りで仕事をしている。プレミックス材は、その日に使いきれなかった場合、ただごみになってしまうというが、自然素材なら使い切れずとも翌日に練り直せばいい。家を解体した時の古い土も、練り直せばまた使える。使わなかったとしても、置いておけば自然に還ると考える。「今はゼロ・エミッションとかサステイナブルとか、気取った言葉が流行っているけど、左官はずっと昔からそれをやってきた」という。

常滑市の現場近くに崩れた土壁の家を見つけた松木さん。「土に還るってこういうことだ」と語る

2つ目は、自然素材ならその建物にぴったり合った壁を作れること。新築か、古材を移築した現場か、はたまたその折衷か、同じ現場は一つもないという松木さん。「例えば、年季の入った飴色の古材に、真っ白ぴかぴかの漆喰じゃ落ち着かないやろ。自分で調合すれば、土の種類や色、割合を変えて、その空間に一番合った壁を作れる」と自信を見せる。プレミックス材もバリエーションはあるものの「自分で混ぜた時の自由さには適わない」と考えている。

どんな素材をどのように混ぜ合わせるかによって、壁の表情は多彩になる

常滑の現場では、玄関の壁に施主さんの子どもが海岸で拾ってきた小石を埋め込んだ。憎い演出だ

そして3つ目は、「難しいことができてこそ、職人」という志からだ。ただ規定量の水を加えるプレミックス材と違い、自然素材の調合では、その日の気温や湿度、壁の陰ひなたによって、微妙な調整が必要になる。練っている時と壁に塗った時、乾いた時の色味が変化するため、それも換算しなければいけない。「考えること、自然を感じること、それから、場数が必要。簡単には身につかんよ。だから、日曜大工はいるけど、日曜左官はいないやろ」と松木さん。左官職人としてのプライドがにじみ出た。

そうして作り上げた空間は「無理がなく、気持ちいいし、時間が経てば経つほどよくなる」。施主さんに、家族団らんで穏やかな暮らしを提供している。

伝統をつなぐには仲間が必要

松木さんは、独立後「松木左官店」という屋号で活動していたが、2002年には「蒼築舎」に変更した。後継者を育成していこうという思いを込めた。門戸を叩いた人は断らない主義で、これまで10人の弟子を受け入れた。現在は左官歴9年の一真さんと、20代の落合綾香さん2人が腕を磨いている。

弟子といっても松木さんにとっては、「一緒に仕事をする仲間」という存在だ。

修行時代から「左官は共同作業」という思いがあった。壁塗りは材料の性質上、水が引く前に一気に仕上げる、時間との勝負だ。特に、大きな壁になるほどその傾向は強くなる。

「仲間の存在は、より精度の早いものをスピーディーに作れるという安心感がある。それに、自分の腕自慢をしたって、施主さんは喜ばない」と語る。

弟子は基本的にはどんな現場も同行させ、自分の仕事ぶりを見せるとともに、やり方を教えてどんどん場数を踏ませる。言葉で説明することもあれば実際に手を動かして教えることもあるし、最近はスマホで動画撮影もしている。

名古屋市の古民家移築現場でも、弟子とともに3人で漆喰を塗りながら、松木さんは「そこはこうやってしておいてくれる?」「ここは絶対汚すなよ」と的確な指示を出すとともに、「うん、いいね。うまいうまい」と、丁寧に言葉をかけていた。落合さんは修行歴1年。指導については「教え方はわかりやすい。見て覚えろ、というタイプではないです」と話す。

松木さんは「うまくできなければ壊してやり直させる。声を荒げて怒ることもある」と言いつつも、「最近の若い子
は丁寧に仕事してくれる。それに、前は教えるってことは失敗させることやと思っていたけど、だんだん、それなら説明せなとなったな」と自らの変化も実感する。

息子であり弟子でもある一真さんは「親方はやっぱり土のことよくわかってる。一緒に仕事して、毎日、何かしら達成感と学びがある。楽しいです」と、左官仕事に魅了されている。

異素材との出会いによる、新しい美しさ

ぶれない松木さんのスタイルは、今、新展開を迎えている。

これまでの現場は、伝統工法や古民家改修、社寺建築などいわゆる日本らしいものが主流だった。今年の夏、コンク
リートと土壁を融合した新築物件という初めてのジャンルに挑戦したのだ。

きっかけは、講師を務めている愛知産業大学での出会いだ。左官仕事や自然素材の魅力を語る松木さんの話を「もっと聞きたい」という教授や建築士が、有志で親睦を深めていった。ついには、土の建築物をもっと研究しようと「土左研(どさけん)」という集まりが立ち上がった。

メンバーの一人の浅井さんは、これまでは店舗設計などコンクリートを多用した近代建築を手掛けることが多かったというが、「松木さんに出会って、土壁という自然に還るものの美しさに気づかされた。今の時代に求められているものだと思う」と話す。

現場で盛り上がる松木さんと浅井代表

時を同じくして常滑市の海に近い新築物件を手掛けることになり、津波対策を考えつつ自然素材も取り入れたいという施主さんに、土壁を提案した。設計した物件は、家の中心となるキッチンとリビングの壁はコンクリート製で、その周囲に子供部屋、寝室、浴室などを配置する。周囲の部屋の壁を、土壁の大直しで仕上げるという、独特のスタイルだ。

(写真提供:トロロハウス)

無機質なコンクリートとぬくもりのある土壁の調和に「今まで見たことない、スタイリッシュな空間」と松木さん

浅井代表いわく、津波がきた場合、土壁部分は流されるがコンクリート部分は残るような仕掛けになっている。外壁は焼杉仕上げで、流された土壁や構造材は土に還る。

それから、海風が強い地域のため外側の壁が傷み、変化が出てくるが、土壁ならその変化すら楽しめると考える。痛みがひどければ直すこともできる。もし子供が独立して部屋が不要になったら、壊してしまっても土に還る。安全を確保しつつ、暮らしながら変化を楽しむ家、というコンセプトだという。

2人を含む「土左研」メンバーの願いは、「左官の技術を次の世代に残したい。そのためには、伝統建築だけにこだわらず左官の活躍の場を広げたい」ということだ。

「真行草」という言葉がある。発端は書道の言葉で、いわば本来の楷書の形(真)から、少しくずした「行」書、そして、さらにくずした「草」書がある。それぞれにそれぞれの美しさが存在するという意味で、松木さんは新しい挑戦をする時に思い出すという。

異素材との組み合わせで、土壁がまた違った輝きを魅せる

松木さんは語る。「メンバーで、酒飲みながら生まれるアイデアは、俺1人じゃ考えつかない。仲間がいることで世界が広がるし、そのアイデアに左官としてどう応えようか、って考えるとわくわくする」。

挑戦の原動力は、左官仕事の魅力を誰よりも知り、信じる熱い情熱だった。

● 取 材 後 記 ●

取材で訪れた漆喰塗りの現場。松木さんと弟子2人が、するりするりと土を壁に重ね、なめらかに整えていく。

松木さんには「塗りながらでも話せるから、何でも聞いて」と言われたものの、私は目を奪われ、ろくに質問もできなかった。あまりに美しく、何か上質な映画を観ているようだった。

「土左研」メンバーの浅井さんも「松木さんの仕事って、すごく始末がいいよね。見ていて気持ちがいい」と話していた。

鏝(こて)を動かす腕から、壁を見つめるまなざしから、職人の気迫や伝統の重み、自然素材の力強さなど、言い尽くせないたくさんのものが伝わってくるのだ。

もっとたくさんの人が現場を見て、職人技に触れてほしい。「木の家を選ぶ人は少ない」「職人は減少するばかり」という課題も、この仕事ぶりを見れば解決してしまう、と思わせるかっこよさだった。

蒼築舎 松木憲司さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子/写真の一部は蒼築舎、トロロハウスに提供いただきました

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