宮大工のお父様が守り続けた伝統の技術に誰よりも敬意と愛着を持ちながらも、「若い人に受け継いでもらえる形で残す必要がある。そのためにはバランスが必要」と言う濃沼さん。
新旧の時代の過渡期に立つためのバランス、設計士であり工務店の経営者であり大工の息子としての責任のバランスを保つために、技術と知識と誠意をフル稼働させています。
知的な話しぶりと時おり見せる木への偏愛ぶり、そのアンバランスさも何とも魅力的な濃沼さんのお話をどうぞお聞きください。

濃沼広晴さん(こいぬまひろはる・48歳)プロフィール
丸晴工務店代表。一級建築士。1975年、神奈川県生まれ。大学卒業後、3年間ゼネコン企業でビル建築の設計を行ったのち、父が営む丸晴工務店に入社、経営と設計に携わる。京都鴨川建築塾などに参加しながら木の家の建築について学び、その関東版である多摩川建築塾を立ち上げる。「大工の手仕事による木の家づくり」「安全性の数値データや工程の見える化」を行う工務店として確立させ、評価を高めている。


大工の力を生かし尊重する建築士を目指した

⎯⎯⎯ お父様の晴治さんは、市内最高峰の匠として川崎マイスターに選出されている大工さんですが、濃沼さんご自身は大工さんではなく、建築士となり経営者としても力を発揮されているのですね。

濃沼さん(以下、敬称略)「父は宮大工の修行を積んでいて、個人宅も手掛けていました。子どもの頃から現場の掃き掃除を手伝ったり、上棟式(棟上げを無事に終えられたことに感謝し、工事の安全を祈る儀式)といった職人が大切にしてきた行事に参加したりして、大工仕事の地道さと華やかな場面、人に喜ばれている様子を見て育ちました。
素晴らしい仕事だと思いますし、父をふくめた大工たちを尊敬してきました。でも、自分は目指しませんでした。
自社で設計施工ができる工務店を目指すために、また大工が気持ちよく思う存分能力を発揮して働けるよう、そういう仕事を出せる設計側の人間になろうと思ったんです。たぶん両親もそれを望んでいました」

上棟式のための破魔矢。建築現場の邪気を祓い安全を祈願するためのもの。今では見かけることが少なくなったが、宮大工である晴治さんから、引き継がれている。写真提供/丸晴工務店

⎯⎯⎯ ベテランから若い世代の大工さんまで8人もいらして、濃沼さんのマネージメント力の賜物ですね。

濃沼「今年、さらに2人が入社する予定です。ここ数年、弊社でお引き受けしている一戸建ての木造建築の数は年間で12軒。この規模で全棟手刻みをしている大工工務店は珍しいと思います。
これが限界なのですが、ありがたいことに若いご夫婦からご依頼いただくことも少なくないので、人手を増やし対応していく予定です」

濃沼さんが設計し、丸晴工務店の大工さんが組み上げた、伝統とモダンが融合した家。

木造建築で用いられる伝統的な工法「鼻栓打ち」。

濃沼さんが作成した設計図に、担当する棟梁が柱の番号をふった板図。上記4点 写真提供/丸晴工務店


伝統を残すための最善なやり方を模索

⎯⎯⎯ 1軒につき、何人の大工さんが担当するのですか?

濃沼「1軒につき1人が棟梁として担当します。もちろん、フォローしあうこともありますが、そのほうがお客様と密にお付き合いして理想の家をつくりあげることができます。『大工は一棟刻んで年季明け』とよく言われますが、丸晴工務店では年季明けは3年から4年が平均です。全員が手刻みをおこない仕上げ、また家具工事までおこなうことができます」

⎯⎯⎯ やはり伝統的な工法を大切にされているのですね。

濃沼「刻みはリフォームや修繕にも必要な技術ですからね。
神社をつくることも、左官の土壁の土蔵をつくることもあります。ただ、『石場建てじゃなくてはダメ』とか、そこまで伝統的な構法にこだわってはいません。
木の家ネットの会員の方々の石場建てのお仕事を拝見するたび、本当にお見事で素晴らしいと感じますし、次世代にも残っていくことを願う気持ちはあります。一方で縛りを強くしすぎると、残せるものも残せなくなるのではないかと危惧しています。若い人の経験を増やすために、ある程度の軒数を建てられるよう、“伝統と今”をどこで切るかというバランスをいつも意識しています」

⎯⎯⎯ 未来というか時間軸のことを頭に置いて仕事をされているのですね。

濃沼「僕は40代後半なんですが、この世代が重要なポイントで、ここから下の世代になると一気に伝統的なことを知らない人が増えると感じています。だから、僕ら世代が何かしなくてはという責任感のようなものを勝手にいだいています。
この時間軸を縦の線だとすれば、僕は横の線についても思うことがあるんです」

左/丸晴工務店は作業場を複数所有していて、大工さん1人で1カ所を使用することも多いそう。写真提供/丸晴工務店
右/大工さんのTシャツにもプリントされているロゴマーク。現代的なセンス!


大工工務店がつくった味のある家が並ぶ街

⎯⎯⎯ 横軸ですか? どういったことでしょうか?

濃沼「人と人とのつながり、協力関係とでもいうのでしょうか。
例えば、丸晴工務店のやり方を他の工務店に話したりするというのは、昔は敵に手の内を明かすみたいな感じがありました。けれども、今はみんなで協力しあうべきだと思っています。
今の時代、自分たちだけよければいいと言ってはいられません。お客様が満足しない仕事をする工務店が多くなって『工務店はだらしない』というイメージが根付き、家づくりはハウスメーカーに任せればいいとなってしまっては困るんです。
全国各地域に住宅について相談できる工務店がしっかりしていれば、そこに安心感が生まれますよね。ですから、地域にある昔からの大工工務店には残ってもらいたいのです」

⎯⎯⎯ なるほど、住む人の安心も考えてのことなのですね。

濃沼「もっと言ってしまえば、街のことも考えて、です。地元に大工工務店がなければ、その街に存在する地元の神社仏閣も、稲荷社殿などは誰が修繕するのでしょうか。しっかり維持されている街の景観は魅力的です。景観が魅力的なら、人も集まるでしょう?
家をつくり、地元の神社仏閣、稲荷社殿を修復し街の伝統を守るのは、大工工務店の仕事だと自負していて、地域の工務店同士が協力し合って、あらゆる地域を素敵にして、日本全体が素敵になればと思うんです。
そのためになればと、弊社では学びと情報共有の場をつくっています」

北山杉を使用した丸桁が跳ねだした外観が印象的住宅で、街のランドマーク的役割にもなる。

大きくつくられた窓からもれる光が夜道を照らしている。街並みに貢献したいという濃沼さんの思いが形になっている。

お客様から大変好評を得ているバードフィーダー。「鳥がやってくる庭って素敵でしょう?」と濃沼さん。

父・晴治さんがつくったお神輿の一部。これぞ宮大工の技術と惚れ惚れしてしまう。

⎯⎯⎯ 学びの場とは、どのような内容ですか?

濃沼「僕は設計も大好きで、自分ももっと学びたいという思いから『多摩川建築塾』という名前で勉強会を開いています。自社設計で施工できるのは、工務店にとって一番強いので、設計力は学び高めないといけませんから。
元々は京都にあった、植久哲男さんという建築雑誌の元編集長が塾長をしている京都鴨川建築塾の関東版でして。植久さんのご協力のもと6~7年前にスタートさせたんです。藤井章さんや山辺 豊彦さん、堀部安嗣さんといった著名な建築家の方々を講師にお迎えして学ばせていただいています。
ネットで受講者を募集するので、建築士だけでなく学生さんも来てくださって、一緒に学べるのはとてもうれしいことですね」

丸晴工務店で企画・運営している「多摩川建築塾」のコンテンツを一部ご紹介。


庭木はペットを迎える感覚で植えて

⎯⎯⎯ とくに濃沼さんにとって印象的だった講義の内容は何ですか?

濃沼「みなさん素晴らしい先生方で、たくさん学ばせていただきましたが、やはりそうだよなと思ったのは『庭と建物っていうのは絶対に一体だ』という言葉でした。
関東だと庭をつくるとなると、造園屋さんか外構屋さんか植木屋さんになると思います。外構屋さんっていうのはブロックを積んだりとか、コンクリートを打ったり、主にメーカーの既製品を使用します。植木屋さんは、今では公共事業を主に行っており個人邸はあまり仕事をやらない。造園屋さんに依頼すると一気に金額が上がるので、一般家庭ではなかなか依頼できません。
なので、うちでは毎回、設計と大工とお客さんみんなでつくるという感じになっています」

⎯⎯⎯ みんなで庭つくりなんて、楽しそうですね!

濃沼「そうですね。お客様も楽しんでくださいますし、喜ばれます。
庭って、ある程度以上になったらプロに任せなくてはいけないですが、そもそも日々の手入れが必要で、その手入れをする人が、つくりながら木や花の特性を知っておくほうがいいです。枝の剪定や水あげのやり方とか。
木を選ぶ時もペットのようなイメージで、育てられるか可愛がってあげられるか考えて、厳しければ1本だけにしておくとか、そういうお話もしています。理想と現実のバランスは大事なので。
家と庭は一体で、ここを一緒に考えられるのも大工工務店のよさだと思うんです」

⎯⎯⎯ 家を建てる素材が木ですし、木にお詳しいですものね!

濃沼「庭木についての知識は造園屋さんや植物の専門家ほどではないです。建築に使用する材木に関しては木材マニアというかオタクでして。日本っていい木が育つ有数の国で、この国に生まれて幸せだと心から思い感謝しています。
杉もすごくいい木なんですけど、うちは檜(ヒノキ)をメインに使う工務店です。檜が年を重ねて飴色になる、その様子は本当に綺麗ですよね。油の多い木ならではです。造作家具も檜をメインに使用してます。
ヨーロッパも建材や家具に木を使いますが、基本的には広葉樹でそれを塗装して使う文化です。日本だけですよね、自然の木の飴色を美とする文化というのは。その美を住宅にも表したい、その思いで仕事をしています」

エントランスに1本の木を植えることを前提にされた設計。

庭木はすべて、設計の濃沼さんと大工さん、お施主さんで植えたもの。上記3点 写真提供/丸晴工務店


質が高く値段も手頃な国産の木材

⎯⎯⎯ 檜は香りも素晴らしいですよね。ただ、木の中でも高価なのでは?

濃沼「決してそうじゃないんです。みなさん、外国製の木の家具を好む方は多くて、日本の木で家具をつくると、なんとなく民家っぽくなると思われがちですよね。
実際はデザインをしっかり考えれば北欧家具にも負けない魅力がでると思います。色だけでなく木目もきれいで、軽く、使い心地は檜が断然上! 金額も檜のほうが全然安くて、 3分の1くらいなんです。
使い心地、試してみませんか?」

⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは同じデザインの椅子2脚を用意して)

濃沼「これはフィンランドのニカリという家具メーカーの椅子、もう1脚は京都にいらっしゃる二カリのライセンスを持っている方が檜でつくったものです。ちょっと面白いので体感していただきたいんですが、座ってみてください」

⎯⎯⎯ あれ⁈ 全然ちがいます。檜の椅子の座り心地は、すごくお尻に優しい!

濃沼「そうでしょう? うちは家具も大工仕事としてつくっていて、使い心地のよさはお客様からもお墨付きです。ましてや檜で家をつくれば、心地よさはお尻に限らず全身で感じられるんですよ。こんなに素晴らしいものがあるのに、外国から木材をガンガン輸入するなんて、もったいないというか悔しいというか…」

「家具も国産の木材でつくっていますが、デザイン次第でおしゃれになるんです」。写真提供/丸晴工務店


貴重な木材が売りに出されるタイミング

⎯⎯⎯ 輸入に頼らなければならないほど、生産量が減っているということは?

濃沼「確かに林業も後継者不足で厳しくなっていますし、木材は杉が中心的存在です。けれども、檜の山もちゃんとあるんです。例えば木曽福島は檜の有数の山で、樹齢250年とか300年の木もある。国有林じゃないところでも、樹齢80年から100年レベルでものが結構多くあります。
国有林は通常は切れないのですが、丸晴では天然の木曽檜を数多くストックしてます。
材木屋さんと密にお付き合いをしていますから、そういう木が出たと聞いたら、飛んで行って買っておくんです。
ストックというかうちの木材コレクション、ご覧になりますか?」

⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは作業場兼木材置き場を案内して)

濃沼「秋田杉、春日杉、霧島杉、屋久杉、欅、木曽檜、水楢、栃など様々な材木をストックしてます。
丸太と言ったら京都の北山が有名なんですが、これはその北山から買った丸太です。
これ、これね、黒柿なんですよ。床柱で使用した端材ですが、黒柿って最高級の材料ね。
今、杉板を焼いた焼杉という木材が外壁で流行っていますよね。
木曾檜って、わかりますか? これがそうで、目がすごい細かくて檜の王様って言われています。飴色になるとね、宝石みたいな光を出して始めるんです。見せたいなぁ」

丸晴工務店の木材コレクションを紹介してくださる濃沼さん。


工務店の強みと魅力を探して身につける!

⎯⎯⎯ こんなに大量の木材をストックしたり、作業場もいくつもお持ちになられて、維持するだけでも大変ですね。

濃沼「正直大変です。けれどこれらの材木を手放したら、再度持つことは難しいので必死に守っています。
先程、大工工務店を残したいと言った理由もここにあります。作業場の貸し借りなんかもしているのですが、とにかく広い土地が必要なので、大工工務店も減ることはあってもなかなか増えることはありません」

⎯⎯⎯ 失われつつあるのは伝統技術だけではないということですね。

濃沼「大工とは切っても切り離せない材木屋や山の製材所も、みなさんご存知のとおり減っています。木材を積極的に買い付けるのは、少しでも減少傾向を止めたいからでもあります。
ストックはよくないという方もいらっしゃいますが、本来、木材は何百年ももつものですし、お客様に安価で提供できます。一緒に一点物である木材を選ぶ楽しさもあり、弊社の1つの強みになっていると思います」

⎯⎯⎯ 確かに、「この木がどんなふうに料理されるんだろう」って思ったら、ワクワクするでしょうね。何とも魅力的な強みですね!

濃沼「素晴らしい素材を、持ち味を生かして、腕のいい職人が薄味で提供する。これが一番。大工の仕事は寿司職人とも共通していますね。
さらに強みを増やそうと、今、檜ショップを準備中なんです」

木材1つ1つの個性を生かして濃沼さんならではの設計。上記2点 写真提供/丸晴工務店

⎯⎯⎯ 御社の社屋のおむかいにある建物ですね? 素敵だなって思ったので、すぐにわかりました。

濃沼「そうです。NCルーターっていう木材の加工用の機械を購入しましてね、それで食器から色々な小物をつくっていく予定です。木の食器や小物類は、可愛いですし、赤ちゃんが触れても安心だし。
身近なところから木のよさっていうのを訴えていって、いつかは木の家に住みたいと思っていただく、その流れをつくっていこうと思っています」

⎯⎯⎯ 先ほどから、道行く人が檜ショップの中を覗き込んでいますね。まだオープンしていないのに。

濃沼「壁も床も檜でできていますが、現代的な設計なので、何だろうと思ってくれているのでしょう。壁をできるだけガラス張りにして、中もよく見えるように設計していますから。地元の人、特にここは小学校の登下校道なので、子どもたちのワクワクにつながったらうれしいですね。
もちろん商品を買ってもらって、少しでも大工の収入アップをしたいと思いますが、子どもたちにモノづくりの仕事って素敵だな、やってみたいなと思ってもらえるよう、僕も素敵な建物の設計、商品の企画デザインを頑張っていくつもりです」

左/オープン準備中の檜ショップから下校中の小学生が見える
右/檜のランプシェードも可愛らしい!


《丸晴工務店のお仕事例》鵠沼海岸の家 

上記6点 写真提供/丸晴工務店


有限会社 丸晴工務店 濃沼広晴さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:小林佑実

コロナ禍を経て訪れた京都には観光客が溢れ(特にインバウンドの方の多いこと!)、活気に満ちていました。その人気を支えている理由の一つが、京都らしい町並みを形成している京町家の存在です。
今回ご紹介する大工棟梁の大下さんは京町家一筋。京町家に対する想いや魅力を語っていただきました。

大下尚平さん(おおしたしょうへい・43歳)プロフィール
1980年 京都府生まれ。株式会社大下工務店代表。京町家の復元改修、祇園祭の山・鉾組立などを通じて先人の大工の技術力の高さや知恵、そして作法を日々学んでいる。それらを自身の建築に活かし、“出入りの大工”を目指している。


京町家を専門にするんだ

⎯⎯⎯ はじめまして。早速ですが経歴や大工の道に進んだきっかけを教えていただけますか。

大下さん(以下敬称略)「父親が大工で毎日楽しそうに仕事をしていたので、それを側で見ていたら自然と自分も同じ道を歩むことになりました。トラックに乗せてもらっていろんな所に連れていってもらったのが楽しかったですし、刻み場として借りていた材木屋さんで、大きい丸太がその場で製材されて柱になって、父親が墨付けをして刻んでいくっていう流れを見るのがすごく面白かったのを覚えています」

⎯⎯⎯ 二代目でいらっしゃるのですね。大下工務店の始まりについて少し伺いたいです。

大下「大下工務店は、山口県から出てきた父が京都で大工修行を積み独立したのが始まりです。元々のお客さんが少ない中、僕ら三兄弟を食わしていかないとならなかったので大変だったと思います。当時は手刻みからプレカットへの過渡期で、うちはギリギリ墨付け・手刻みをしていましたが、父親からは『お前が墨付け覚えたらプレカットに変えるわ』みたいなことを言われていました。そんな時代ですね」

⎯⎯⎯ しかし今ではプレカットどころか、伝統的な京町家の改修を専門にされていますが、どういった変化があったのでしょうか。

大下「僕が父親と一緒に仕事をするようになった頃、仕事を組んでいた仲間や会社も徐々に代替わりしていき、同じ繋がりややり方だけをずっとやっていては立ち行かなくなると思い、僕は『手刻みで京町家の仕事を専門にするんだ』とグッと方向転換しました」

京町家
京都市内の昭和25年以前の木造住宅を「京町家」と呼ぶ。特徴は間口が狭く奥行きが深い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれる間取りで、商いと住まいを同じ建物で営む「職住一体」を基本とする。 実は「京町家」という言葉は昭和40年代の民家ブームの際に造られた造語であり、江戸時代には、町にある建物は形や生業に関わりなく「町家」とされていた。(出典・参考=Wikipedia)

⎯⎯⎯ ターニングポイントとなるような出来事があれば教えてください。

大下「25歳のとき、京町家作事組が運営している棟梁塾に入ったことですね。専門学校を出た後、うちの仕事も忙しかったので父の元で、“外の世界を見なあかん”とあちこち応援に行かせてもらっていたのですが、やっぱりそれだけではまだ狭い中にいるなと感じていました。そしてちょうどいいタイミングで棟梁塾の募集があったので、“これだ!”と申し込みました。
塾長であるアラキ工務店の荒木正亘棟梁、大工の金田さん(木の家ネットつくり手リスト)、大工の辻さんとの出会いが一番大きいターニングポイントだと思っています。この時、金田さんから木の家ネットのことを教えてもらいました」

⎯⎯⎯ 具体的にはどういったことを学ばれたんですか?

大下「京都で長年仕事をされてきた大先輩の棟梁から教わりました。継手や仕口などの大工技術の話ばかりではなく、広く浅くというと語弊があるかも知れないですが、『京都で棟梁としてやっていくには』ということを網羅的に学びました。大工のことももちろん学びますが、家づくりに関わる他職(襖屋さん・建具屋さん・左官屋さん・瓦屋さん・手傳さん・畳屋さん・板金屋さん・設備屋さんなど)の職人さんが、どういう仕事をしていて、どういうグレードの仕事があって…という話が主でした。
京都ならではの色々な老舗の職種の方、大店の旦那衆の方、沢山の借家をお持ちの大家さん、歴史ある花街のお母さん、お茶やお花の先生や、ものづくりの職人さんなどなど、いろんなお施主さんがいらっしゃいます。そういった方々と対等に会話するためには、広い知識・教養を持ち合わせていないと棟梁としてやっていけないんです。だから『お茶やお花も興味がないです』では通らないし、行儀が悪いと『大工さんチェンジ』ってなります(笑)ほんまに僕らのことをよう見てはる。でも、そんな中で信頼してもらえたら嬉しいですし、やりがいのある仕事につながりますね」

⎯⎯⎯ 京都ならではですね。お茶室のお仕事も手がけられるんですか?

大下「それがですね、今ではお茶室の仕事も少なからずいただいていますが、最初はもう全くわからなくて苦い思いをしたんです。というのが、この棟梁塾を運営している京町家作事組の事務局の改修に携わることになり、お茶室の炉を切ることになったんです。
天井から炉の中心に“釣釜”を下ろさなければなりません。そのためには天井に釣る“釜蛭釘”の位置を厳密に決める必要があります。ところが流派によって蛭釘の向きが違うんです。でも僕はお茶のことを全く知らないから、設計士さんとお茶の先生の会話について行けず、棟梁なのに蚊帳の外で釘一本打てなかった。もう大ショックでした。
『何のための棟梁やねん。これじゃ棟梁とは名乗れない』と思い、いよいよ茶道を習い始めたという訳です。そのときに荒木棟梁が言っていたことの意味が解りました」


事例紹介①:京町家作事組

京都市中京区釜座町|2011年

京町家の改修・修繕に携わる設計者・施工者が集まる技術者団体で、大下さんが学んだ棟梁塾の運営も担う。現在は大下さんが代表理事を務めている。明治時代の建物を大下さんを中心とした棟梁塾のメンバーで改修した。ターニングポイントとなった思い出深い場所、京町家作事組だ。
結構傷んでいた上に、京町家にそぐわないプリント合板のフローリングなどでリフォームされていたという建物を、何事もなかったかのように京町家然とした佇まいに生き返らせた技には脱帽だ。

緑の綺麗な前栽(中庭)は、以前は増築で子供部屋になっていた場所。1から作り直し元からあったかのように馴染んでいる。

緑の綺麗な前栽(中庭)は、以前は増築で子供部屋になっていた場所。1から作り直し元からあったかのように馴染んでいる。

左:京町家作事組の表札/右:「左官屋さんが何も言わずさりげなくしてはった」という格子窓

何気なく付いている天井の釜蛭釘にも物語がある(中・右 写真提供:大下さん)

改修前の様子(写真提供:大下さん)


苦労の跡は見せない

⎯⎯⎯ 京町家と、いわゆる木の家・伝統建築とは一味も二味も違いがあって、そこがとても興味深いです。大下さんにとっての京町家の魅力とは何でしょうか。

大下「京町家は本当に面白い。碁盤の目のように区画された通りがあり、限られた土地にひしめき合って建てられた江戸時代の都市型住宅です。

大工目線で言うと、江戸時代の職人たちの知恵が詰まっているところが魅力ですね。狭小地において外から工事できない場合にどうやって内から工事するか。例えば数軒立ち並んでいる家のうち、真ん中の家が火事になったとしても、もう一回そこに同じサイズの家を隙間なく建てなきゃならない。それをやって退けてきたのが尊敬する京都の大工や職人たちです。

それと、京町家が好きなもう一つの理由が、苦労の跡を残さないところです。例えば、改修現場に入った時に、根継ぎにしてあるところを表から見たら『まぁシュッと一文字に根継ぎしてあるな』という感じなんですが、裏にまわってみたら実はすごい仕口がしてあったり。すごく立派な町家でも派手な装飾や晴れがましい職人の技を見せびらかさずに、しっかりと手間はかけてある。何かわびさびを感じさせるような佇まいがあるんですよね。

住む立場で言うと、耐用年数が長いことも魅力ですね。今の一般的な家の寿命が30〜40年くらいだとして、京町家や昔ながらの木の家の寿命は50〜100年。しっかりオーバーホールしてやれば、また50年100年と保ちます。昔の家って木竹と土、藁や紙や草など、自然に還るもので作ってあって、それしかなかったというのもあるかもしれないけど、やっぱりその造りが基本であり正解なんだと思います。SDGsに関しても、やっと周りが気づいて振り返ってもらえるようになってきて『今更?』という感じではありますが、振り返ってもらえる人や、選択肢として考えてもらえる人が増えるといいですね」

⎯⎯⎯ 母校の高等技術専門校で教壇に立たれていたそうですね。

大下「昨年と一昨年、教えに行っていました。僕が学生の頃は“伝統的な日本の家屋”と言うものは学びましたが、“京町家”なんていう言葉は一言も出てこなかった。それが今の子たちは京町家がどんなものなのかかなり理解しているし、『大切にして残していかないとダメだよね』という意識を持っているなと感じています。20年でそういう考えが地域全体に根付いたんだなと実感しています」


枯れてると思っていた紅葉が生き返って「もみじの小径」という名前にまでなった。ここで野点のお茶会を開催したりもするんですよ」と大下さん

「枯れてると思っていた紅葉が生き返って「もみじの小径」という名前にまでなった。ここで野点のお茶会を開催したりもするんですよ」と大下さん

事例紹介②:もみじの小路

京都市下京区松原通|2019年〜継続中

五軒長屋の住居部分と9つの店舗が入居するテナント部分からなる町家集合体として人々が集っている。2019年のA工事以後、現在に至るまで継続的に改修を行なっており、京都らしい街並みが形成されている。京町家の魅力がギュッと凝縮された場所だ。

中央の路地を進むと立派なもみじのある中庭が出現する。

中央の路地を進むと立派なもみじのある中庭が出現する。

五軒長屋の町屋の全体を一気に工事したのはここが初めて。「隣の家と壁一枚なので、一軒ずつだったら出来ない全体の構造改修もしっかり裏表両方からできました」と大下さん

五軒長屋の町屋の全体を一気に工事したのはここが初めて。「隣の家と壁一枚なので、一軒ずつだったら出来ない全体の構造改修もしっかり裏表両方からできました」と大下さん

左:現在は9つのテナントが入居している
右:プロジェクトは今も続いている(写真提供:大下さん)

Before / After(写真提供:大下さん)


事例紹介③:準棟纂冪

京都市中京区壬生馬場町|2022年

大下工務店が事務所としている京町家。吹き抜け部分に二階が作られ子供部屋になっていたが、建築当初の痕跡を辿り、元の準棟纂冪を復元した。通りからは想像できない大きな空間が広がる。

準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)
お寺に準じる小屋組の意味。大店の火袋で側つなぎの上に牛梁や小屋束を見せる架構をいう。水平垂直の変形には効かないが、大型化した町家での2階荷重のバランスを整える意味をもつ。(出典:京町家作事組WEBサイト)

狭い路地から一歩踏み入れると広々とした空間が現れる

狭い路地から一歩踏み入れると広々とした空間が現れる

7mあるという“牛曳梁”がまっすぐ伸びる

7mあるという“牛曳梁”がまっすぐ伸びる


左:吹き抜けに二階が作られ子供部屋になっていた 右:痕跡をたどり7mの牛曳梁を入れた。この長さのものを後から入れるのは至難の仕事だった(写真提供:大下さん)

左:吹き抜けに二階が作られ子供部屋になっていた
右:痕跡をたどり7mの牛曳梁を入れた。この長さのものを後から入れるのは至難の仕事だった(写真提供:大下さん)

牛曳梁の加工の様子(写真提供:大下さん)

牛曳梁の加工の様子(写真提供:大下さん)


法被は大工の一番の正装だ

直せへん京町家はない

⎯⎯⎯ 京町家であるが故に大変なことはありますか?

大下「昭和・平成くらいの時代に一度改修してあって、鉄骨でフレームを組み直しているような京町家が結構あります。当時は最先端の技術と称され良しとされた改修であっても、またそれを元に戻すような作業が必要になり、改修の改修をするという無駄なことをしなければならないので、本当に勿体無いなぁと思います。開けてみると通し柱や大黒柱を切っちゃっていて、『これ直すんやったら一から建てたほうが…』ということもありますが、『直せへん京町家はない』と僕は言い続けています。どんな京町家でも柱が一本でも残っていたら直せる。そう考えています。

⎯⎯⎯ 大切にしていることやモットーを教えてください。

大下「“出入りの大工になる”ということをとても意識しています。仕事を始めたばかりの頃はお施主さんと密な関係を築くような機会が少なかったんです。やっぱり手がけた家を長いこと見ていかければならないという責任感があります。また、大きな改修をする際は、住みながらでは難しい工事も多く、タイミングがとても大事になってくるので、日頃から出入りしてメンテナンスしていれば、その時期を見極めやすくなります」

⎯⎯⎯ かかりつけ医みたいな感じですかね。近くにいると心強いでしょうね。

大下「そうそうそう!ちょっとした雨漏りとかも、放ったらかしてたら絶対あかんことになるし、白蟻も呼ぶことになる。そういうところを見つけたり、反対にこうした方が長く保つという方法を見つけて提案したりしています」


あるもんで直す

⎯⎯⎯ 木の家ネットなので、木のとこについて伺います。木材へのこだわりや想いを教えてください。

大下「こういう仕事なのでもちろん僕も木が好きで、金田さんから木に対する知識や買い方などを教えてもらって市に行ったりもしています。以前は『いいグレードのものや珍しいものも集めておかなあかん』と思っていましたが、最近はちょっとこだわりも緩くなってきました(笑)『これじゃないとあかん』ではなく『あるもんで建てる』という精神が京町家には息づいていますし、無理して高価な木を手にいれるというのは減ってきました。

棟梁塾で教えていただいた「千両の大店も裏は古木」という言葉のとおり、京町家は建築時から転用材や古材が沢山使われてるのと、近くの山の杉や桧や松の材木が主に使われてます。とはいえ、グレードの良い家にはグレードの良い木が使われているわけなので、そういう木や仕入れルートは持っておかないとならないですが、地場にある木を使って建てたり直すことが大事だと最近は思っています」

⎯⎯⎯ これからの構想や展望などがあれば教えてください。

大下「京町家を新築で建てる。これですね。技術的にも材料的にも、僕らの周りの大工さんや職人さんなら、もういけるという自信はあります。あとは京都市内でそれを実現するためには法的なところを行政と一緒にクリアしていかなければなりません。これは京都の建築業界・工務店業界全体の展望になるのかもしれませんね。
“平成の京町家” “令和の京町家”ではなく、120年前に建てたものと同じ“本物の京町家”が、同じ工法で京都の町中に建てることができたらいいなぁ。町並みが戻せたら一番いいですね」

⎯⎯⎯ 素晴らしいですね、ぜひ見てみたいです。最後の質問です。大下さんにとって京町家とは何でしょうか。

大下「んー難しいですが、京町家は連綿と続いてきた先人の知恵と伝統的な匠の技術の結晶だと思うんです。そしてそれを直すことによって最初に建てた大工さんや直してきた大工さんと会話している感覚が生まれます。そこがいいと思うなぁ」


京都の歴史が刻まれてきた京町家。そこには建築物としての価値だけではなく、自然との共生、環境配慮、職と住の融合、コミュニティなど、私たちが見つめ直すべき暮らし方や魅力が詰まっている。大下さんはそんな京町家の改修に情熱を燃やし、さらに新しい価値観とともに京都の町並みを次の世代に伝えようと奮闘している。
しかし決して苦労話にしてしまわないのが大下さん。さすがは京都の棟梁だ。


大下工務店 大下尚平さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

兵庫県丹波市。田園風景の広がる山間に、ポツンと目を引く古い校舎のような建物がある。ここが今回ご紹介する大工 高橋憲人さんの自宅兼事務所だ。ワクワクしながら玄関の戸を引いた。

高橋さんの自宅は古い学校を移築した建物。

高橋憲人さん(たかはしのりと・42歳)プロフィール

1980年東京都生まれ。大髙建築代表。立命館アジア太平洋大学を卒業後、古民家の持つ木組みの知恵と生命感あふれる住まいに魅せられ大工を志す。Iターンで兵庫県丹波市に移住し旧校舎の自宅に手を入れながら奥さんと3人の子供と暮らしている。子育て世代をはじめ、誰もが健康的に暮らせる、木と土のシンプルな家づくりを提案している。


⎯⎯⎯ 大工を志したきっかけは?

高橋さん(以下、高橋)「大学に入るまでは大工になろうとは全く考えていませんでした。大学時代のある経験があったので大工の道に進みました」

⎯⎯⎯ 建築とは全く関係のない大学出身と聞きましたが、どんな経験だったのですか?

高橋「環境社会学のゼミを専攻していました。川の流域問題に興味を持ち《川と人との関わり合い》を題材に卒論を書いたのですが、在学中に京都のNPOにインターンシップに行くことになりました。そこで桂川流域の水循環や森林の抱える課題を知りました。中でも衝撃を受けたのが《森の木は間伐するけど、切り倒しても何にも使われない》ということでした。どうにかしたいと思いましたが、このNPO自体がその年に京都で開かれた《世界水フォーラム》で発表するための団体だったので、フォーラム後には敢え無く解散してしまいました」

高橋「せっかく地元の人との繋がりができ、課題解決のために話し合える土台もできつつあったのに、そのまま終わってしまうのが嫌でした。そこで同じ関心を持っていた方と一緒に別の団体を立ち上げたんです」

⎯⎯⎯ 在学中にですよね。すごいですね。なんという団体ですか?

高橋「森守(もりもり)協力隊です。そこで間伐材で炭焼き(木炭づくり)をする活動を始めました。 小屋づくりをしたいという想いもありましたが、その頃は丸太をどのように扱えばよいのかさえ分かりませんでした」

⎯⎯⎯ 森守協力隊は今も活動されているんですか?

高橋「はい、続いています。今は森のようちえんという体験型の保育活動なども行っていて、その活動の一環として2020年に久々に声をかけてもらいツリーデッキを作りました」

森守協力隊の情報はWEBサイトでご確認いただけます。
特定非営利活動法人森守協力隊 WEBサイト

高橋「間伐材の話に戻りますね。間伐と言っても結構太い木なんです。『これなら家が建つやん』『じゃあ家を作ったらええか』『とりあえず、小屋みたいなものを建ててみたいけど、何から始めたらよいんだろう?』と自問自答しモヤモヤしていました。その頃に出会ったのが金田さん(金田克彦 つくり手リスト)でした」

⎯⎯⎯ 金田さんとの出会いについて詳しく教えてください

高橋「インターンの同僚の下宿先が、金田さんの建てた家でした。《落とし板工法》と言って、簡単に言ってしまえば、柱と柱の間に板を落としたら完成みたいな家で『そんなんありなんだ!?』と衝撃を受けました。東京郊外の家だらけの街に育って、木の家に触れること自体が少なかったので余計にですね」

高橋「早速、金田さんを紹介してもらったんですが、初めて見せてもらった現場が、山の中の小さなアトリエを建てているところでした。金田さんは山の中で一人で泊まり込みで刻んでいて、『これどうしようかな〜』とか言いながら、その場で決めて建てていっていたんです。『設計図があって、それに沿うんじゃなくて、自分で判断して作っていくんだ。自由でいいなぁ。面白そうだなぁ』と感じたんです」

高橋「それから二回三回と足を運ぶうちに、段々と大工という仕事をやりたいなと思うようになり、金田さんに弟子入りを申し入れました。ですが『手は欲しいけどズブの素人は無理やわ〜』と断られました。そりゃそうですよね(笑)。それで『職業訓練校に入って基本的なことが身に付いたら考えてやってもいい』ということになったんです」

高橋「そして一年間、訓練校に通った後、晴れて弟子入りさせてもらい、大工としてのスタートラインに立つことができました。それから六年間の修行を経て独立しました。もともと金田さんの自由な働き方・生き様に憧れて弟子入りしたので、独立することに金田さんも理解を示してくれて、最後の一年は見積もりなど経営に関わる業務にも携わらせてもらいました。そのおかげで独立後にスムーズに仕事が始められました。金田さんには本当に感謝しています」

「この家も実は金田さんから譲ってもらったんです。金田さんは『追い出された』と言われていますが(笑)と高橋さん

⎯⎯⎯ 今年でちょうど10年ですが、振り返ってみていかがですか?

高橋「最初は施工事例もなく不安でしたが、お客さんに恵まれ、今ではほとんど宣伝や営業をすることなく仕事に取り組めています。依頼の割合は新築よりも古民家改修やリフォームが多いんですが、中でも最近はセルフビルドの応援が増えてきています」


奥様お手製の美味しいスパイスカレーをいただいた

家があるって安心

⎯⎯⎯ 高橋さんの家づくりに対するモットーやポリシーなどを教えてください

高橋「民家に学んだシンプルな家づくりをしていきたいと思っています。自然素材を使って、長持ちする快適で安全な住まいを作るいうことが、基本にあります」

高橋「一歩踏み込んでお話しすると、僕自身、大学を出てすぐに福知山へ引っ越してきて、職業訓練校に通いながら、夜はバイトをしていました。子供ができたときもまだ若かったので、お金があるわけではありませんでした。そんな時にこの家があってすごく助かりました。『家があるって安心やなぁ』と身をもって感じたんです」

高橋「ですので、駆け出しの若い人たちなど、住宅にあまりお金をかけられない人でも、健康的な住まいに暮らせることが大切だなと考えています。当然、家ってお金がかかることですが、必ずしも新築である必要はなくて、古民家を活かしてリフォームやリノベーションをすれば、一生かけてローンを返していくような暮らしをしなくてもいいわけです。自分の経験が根っこにあるので、僕の仕事を求めてくれる人には、『どうにかしますよ』と、きっちり応えてあげたいんですよね」

⎯⎯⎯ 具体的にはどんな方法があるんですか?

高橋「例えば下地の仕様のレパートリーを複数用意しています。《竹木舞》《竹ずり》《木ずり》《プレカット木ずり》等、条件に応じて選べるようにしています」

左:竹ずり下地。リフォームのための簡易的は土壁下地として考案。セルフビルドでも施工しやすいようにタッカーで作業できるようにしている。/ 右:お施主さんが竹を切っているところ(写真提供:高橋さん)

左・中:作業場にて / 右:ちょっとしたリフォームの時のために古土を溜めている

高橋さんにとってターニングポイントとなった二軒のお宅を案内してもらった。高橋さん・お施主さん・設計士の田中紀子さん(設計事務所 ルースト)の対談と共に高橋さんの家づくりをご紹介する。


古谷邸外観 (写真提供:高橋さん)

古谷邸・奥丹波ブルーベリー農場

兵庫県丹波市 | 2015年竣工 | 設計:田中紀子(設計事務所 ROOST) | 施工:大髙建築

《奥丹波ブルーベリー農場》を経営されている古谷洋瓶さん・暁子さん夫妻と二人のお子さんの4人家族。遠くからでもわかる赤い屋根が目印だ。今年新たにウッドデッキが出来上がった。

⎯⎯⎯ 高橋さんに頼まれたきっかけは?

洋瓶さん(以下 洋瓶)「私たちが丹波に移住してきたタイミングが、高橋さんと同じ時期だったので、一緒にご飯食べたり、子供の年も同じなので、いつも仲良くさせてもらっていました。数年後に家を建てようと考えた時に『高橋くん以外考えられへんやろ』と思い依頼しました」

暁子さん(以下 暁子)「農業を始めたくて脱サラしてIターンでこっちにきました。自然と近いところで四季を感じながら暮らしたかったので、住む家は木で建てたいと最初から考えていました。以前、気密性の高いマンションに住んでいた時期があるんですが空気が篭っている感じがして息苦しかったんです」

洋瓶「高橋くんに伝統構法について教えてもらって惚れ込んでしまいました」

高橋「これまで多く古民家改修に携わってきたので、石場建てを選択したのは自然な流れでしたが、申請などは苦労して経験豊富な木の家ネット会員の皆様にアドバイスいただきました」

暁子「この地域にあった集会所が丁度取り壊されることになって、欲しいものをもらえるという話だったので、建具と玄関を譲ってもらいました」

高橋「ほんといいタイミングだったよね」

集会所から譲り受けた玄関のドア

⎯⎯⎯ こだわったポイントなどはありますか?

暁子「あまりエアコンを使いたくないので、窓だらけにしてもらいました。空気をたくさん取り込んで、広い空も眺められて最高です」

暁子「田中さんはブルーベリー農園の手伝いで来てくれていました。我が家の家事や仕事の動線、使い勝手、性格まで理解してくれていたので、それが設計に反映されていて使い易いです」

田中さん(以下 田中) 「汗かいて帰ってきたらすぐお風呂に入りたいとかね」

洋瓶「そんなに広い家じゃなくていいかなという考えでした。子供たちも何年か経ったら独立していくので、ゆくゆく夫婦二人の生活に戻った時のことを考慮して設計してもらました」

暁子「実は勝手口にも秘密があります。私が歳を取った時に手すりをつけられるように壁の裏側に下地を忍ばせてくれているんです」

フラットなので夫婦二人に戻った時も安心

窓が隅に寄っているので広く感じられる暁子さんお気に入りの場所

設計士の田中さん

夏には裏の農場一面にブルーベリーが実る

⎯⎯⎯ 実際に家づくりを経験していかがでしたか?

暁子「すぐ近くに住んでいたので、毎日出来上がっていく過程が見れてとても面白かったです。いろんな職人さんが出入りされていたので、沢山の人の想いや守ってきた技術などを垣間見ることができました。そのことが家に対する愛着をより高めてくれました」

高橋「竹小舞も一緒に編んでもらいました」

田中「竹林ばっかり探している時期がありましたね。竹をもらいに行ったら『好きなだけどうぞ。でも家に竹なんか使ったっけ?』という反応だったり。最近では土壁の家も少ないですからね」

暁子「子供たちも土壁を塗る過程を経験しているので、友人に『もたれかかったらあかんで』と注意していたりして、この家に愛着を持ってくれているなと感じます」

設計初期の手描き図面。お子さんの落書きなど、たくさんの思い出が詰まっている

⎯⎯⎯ 出来たばかりのウッドデッキについて教えてください

洋瓶「長女が受験生になったので、彼女のためにそれまで洗濯物を干したりしていた部屋を譲り、代わりにウッドデッキをつくることしました」

ウッドデッキにて

高橋「最初はここまでの広さじゃなかったんだけど、『もっともっと』と広がっていきました(笑)」

洋瓶「建ってみたらいいサイズですね。一番のお気に入りの場所です」

暁子「家が変化していくのって面白いですね」

⎯⎯⎯ 家の方は建ててから7年経ちましたが、住み心地はどうですか?

暁子 「最高ですね。冬は土壁が蓄熱してくれるので、薪ストーブひとつで部屋中を裸足で過ごせるくらいあったかくなるし、夏は土壁が断熱してくれるのと、風通しがいいので『エアコンついてるの?』と聞かれるくらい涼しいです。それから不思議なんですが、カビが生えにくいんです」

高橋「大髙建築を始めてすぐの頃に建てて、今でもずっと快適だと言ってくれるので、それが自信に繋がっています。実はここの断熱の仕様だと、現在では国の定める基準値をクリアできていないんです。でもこの事例があったからこそ、他のお客さんに積極的に土壁の家をオススメできるようなりました」

奥丹波ブルーベリー農園の情報はFacebookでご確認いただけます。
Facebook 奥丹波ブルーベリー農園


中嶋邸・ヒカミヤ

京都府福知山市 | 2018年竣工 | 設計:田中紀子(設計事務所 ROOST) | 施工:大髙建築

福知山市の新町商店街にあった履物屋《ヒカミヤ》を改修した中嶋善彦さん・美香子さんと息子さんの三人住まい。手前がグラフィックデザイナーだった美香子さんの店舗兼事務所で店名はそのまま《ヒカミヤ》を継承。奥と二階が住居だ。美香子さんは今年、グラフィックデザイナーをリタイヤし染め物作家に転身。高橋さんはそのための作業場を新たに手がけた。

上:入口内側から / 下:元々看板に使われていた文字を再利用

店内には美香子さんの作品が並ぶ

レコード棚

奥の住居スペース

左:リビングの壁には、和紙職人ハタノワタルさんに依頼した和紙が貼られている / 右:スイッチプレートは解体時に見つけたもの

⎯⎯⎯ 高橋さんに依頼された経緯は?

美香子さん (以下 美香子)「元々田中さんに設計をお願いしていて、紹介してもらいました。物件の購入前に一緒に構造を見てもらったりと初期段階からタッグを組んで進めてもらえたので、安心でした。設計の田中さんが女性なので生活動線もわかってくれるし、色々相談しやすかったですね。もちろん同じ女性でも好みが違うと落とし所が難しいけど、田中さんと私はお互いに《古いものは好きだけど、懐古主義にはしたくない》というかなり近い感覚だったので、うまくいったのかなと感じています」

美香子「感覚のことだけでいうと、高橋さんと直接のやり取りだとピッタリうまくいったかどうかは分からないんです。でも、私たちの『なぜこうしたいか』と、高橋さんの『なぜこうしたほうがいいか』を、田中さんが間に入って説明してくれたので、とても良好な関係で進められたと思います」

善彦さん(以下 善彦)「今まで大工さんや職人さんに対して『素人が口出ししない方がいいのかな』という緊張感を感じていたのですが、高橋さん田中さんペアに関しては『こんなことできるかどうかわからないけど言ってみようかな』というフランクな雰囲気でした」

⎯⎯⎯ 高橋さんはどんな印象の方でしたか??

善彦「大工さんぽくないなと思いました。年齢は近いんですが落ち着いていて。こっちが舞い上がってテンションが上がってしまってもクールに接してくれて、冷静になれるようなことがありました」

美香子「例えば『ここの床、ボコボコしてますけど大丈夫ですか!?』と聞くと『あ、これはこういうもんです。一年後には元に戻りますから大丈夫ですよ』となだめてくれたり。動じないというのはこんなにも人に安心感を与えるんだなと感心しました。家づくりにおいて大きな安心材料でしたね」

⎯⎯⎯ 最近完成した作業場について教えてください

美香子「ここは完全に私の作業場なので、私の身長や染め物の大きさに合わせて、作業しやすいように作ってもらいました。例えばこの柱。一人で仕事するので、ここに紐を片手で縛って片手で解かないといけないので、丸じゃないといけないんです」

天井は光が差し込むように透明の波板に

型紙や筆など型染めで使う道具たち。右下:京友禅で使われていた板を譲ってもらって3分割して使っている。白く見えるのはもち米を溶いた《敷き糊》

⎯⎯⎯ 高橋さんに質問です。中嶋邸を手がけてみていかがでしたか?

高橋「これまでは、ほとんどお客さんと直接やり取りしてきたので、設計士さん(田中さん)からの依頼で引き受けた初めての仕事でした。尚且つ、お施主さんもデザイナーの方なので、それぞれのこだわりやポリシーがあり、僕自身が柔軟になれた現場ですね」

高橋「一人でやっていると自分が木でできることは木でやるんですが、キッチンは家具屋さんに頼むであるとか、階段はアイアンで作るであるとか、今までやってこなかったを求められました。家を長持ちさせるために、素材の面では譲れないところもあったのですが、出来上がってみて考え方が変わりました」

アイアンの階段

高橋「素材自体が長持ちするか否かも大事ですが、それ以上にお客さんが愛着を持って気に入ってくれる家をつくることが、結果的にその家の寿命を長くすることにつながるんだなと感じました。視野が狭かったなぁといい経験になりました」

出来上がるまでの日々の写真をお施主さん自身が本にしてある

中嶋邸に突然(?)やってきた恩師の金田さん

ヒカミヤの工事の様子やお店の情報はインスタグラムでご確認いただけます。
Instagram @hikamiya2022


それは生活の器をつくるということ

⎯⎯⎯ これからの野望や展望があれば教えてください

高橋「事務所を兼ねたモデルハウスにしようと思い、古民家を買いました。ここは薪ストーブを置けない家なので、どうやって温熱環境を整えていくのかの実験の場でもあります。昨今の住宅は性能や数値が重視されがちですが、数値では劣る古民家が、むしろ快適に過ごせるということを体験してもらえるようにしたいんです。ただ《快適》の尺度は人それぞれなので、実際の家づくりを始める前に泊まってもらうことで、認識のズレを招かないようにするという目的があります」

⎯⎯⎯ 最後に、高橋さんにとっての家づくりとは?

高橋「単に家をつくるということではなく、安心できる生活の器をつくるということですかね」

誰に対しても気さくで、いい意味で大工らしからぬ笑顔が持ち味の高橋さん。その滲み出る安心感が、家づくり・住まいづくりにも活かされ、彼の元には自然と人が集まってくるのだろうと思う。


大髙建築 高橋憲人さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

みなさんは《発酵住宅》という言葉を聞いてどんな住宅をイメージするだろうか。

「体に良い家?」「じっくり建てる?」など、いろいろな想像が膨らむが、ほとんどの人は聞き覚えがないだろう。それもそのはず(というと失礼だが…)。《発酵住宅》とは、今回ご紹介する 山形市新山の工務店 古民家ライフ株式会社 代表 髙木孝治(たかぎこうじ・47歳)さんが考え出した「住宅の概念」であり登録商標なのだ。

《発酵住宅®️》の特徴は、①想いも発酵させる住宅 ②完全手刻み工法 ③合板を使わない住宅 の3つ。
特に「想いも発酵させる住宅」という部分に、髙木さんの思想が詰まっている。古民家ライフでは、お施主さんに必ず「森林伐採ツアー」と銘打った大黒柱を刈りに行くイベントに参加してもらっている。そこで味わった空気感、香り、温度、木の倒れる音など、五感で感じ取った情報全てが一本の大黒柱に集約され、子供や孫の世代にまで「この木はなぁ…」と語り継がれ、想いが発酵され家と共に後世へと繋がっていく。

《発酵住宅®️》の他にも、暮らしの道具店《発酵素材®️》や、糀カフェ《晴間》など、活動の幅を拡げる髙木さん。さらなる展開も控えていると聞き、その活動の経緯や原動力、そしてこれからのことなど、お話を伺ってきた。


古民家との出会いと縁

髙木さんは1975年 福島県伊達市生まれ。工務店の二代目として会社を継ぐべく大学進学を目指し予備校に通っていたが、在学中にまさかの父の死と工務店の倒産を経験。進学は諦めざるを得ない状況に。
建築への道が閉ざされてしまったと思っていたある日、本屋さんで何気なく手に取った建築雑誌の《古民家再生》の記事に出会い「頭をガツンと横から殴られたような感覚を覚えた」そうだ。その瞬間から、古民家をライフワークにしていこうと、髙木さんの心が決まった。

⎯⎯⎯ 古民家と出会った後の、現在に至るまでの経緯やターニングポイントを教えてください

髙木さん(以下 髙木)「建築家になりたかったので、まずは設計事務所に入りました。しかし図面を描いているだけでは、古民家のことが全然わからなくて『やっぱり現場を知っていないとだめだ』と思っていました。ある日、《神楽坂建築塾※1》の募集要項を目にして、まずここに行ってみようと決めました」

髙木「2000年に入塾し1年間学びました。当時自分の周りには古民家の仕事をしている人は全くいなかったので、全国から結構な人数が集まっていたので『こんなに仲間がいるんだ』と驚きと心強さを覚えました」

髙木「そして、神楽坂建築塾での経験や出会いが、今の自分の生き方に繋がっています。最初の講義で鈴木先生から『そんなに古民家に興味があるなら福島の会津田島で合宿があるから参加してみないか』と誘われました。勤めていた設計事務所を辞めて参加したのですが、とてもいい経験になりました。また後に、同塾で出会った仲間を中心に『地元の山や木を生かしたい』『合板は使わない』『職人不足の問題を解決したい』などの想いを持った工務店の集まり《森びとの会※2》を結成し活動を続けています。古民家ライフの活動の原点はここにあるんです」

※1:神楽坂建築塾
1999年に始まった、建築家 鈴木喜一先生が塾長を務める講座。新築と保存・再生を同じ地平で捉え、住むことの原点を見つめ直すための、坐学とフィールドワークで構成されている。
http://ayumi-g.sub.jp/kenchikujuku/kjtop.html

※2:森びとの会
「合板を使わない、本物の自然素材の家づくり」をテーマに掲げ、住まい手を幸せにし、地域社会や生活文化を豊かにするために20XX年に結成。髙木さんのほかに、木の家ネット会員の西條正幸さん(ビオプラス西條デザイン)、大場江美さん(サスティナライフ森の家)、直井徹男さん(エコロジーライフ花)、亀津雅さん(亀津建築)などが参加している。
https://moribitonokai.net/


写真提供:髙木さん

仕事がない。だったら仕事自体をつくればいい。

髙木「その後、様々なご縁に恵まれ、設計事務所や工務店などを経て、山形の建築会社で4年ほど勤めました。他にも伝統構法の修行をしたり、経験を積むために畑違いの業界で飛び込みの営業マンなんかもやりました」

⎯⎯⎯ その後独立されて《古民家ライフ》が始まるわけですが、当初はWebサイトの名前だったんですね。

髙木「そうなんです。2006年に独立して、古民家情報マッチングサイト《古民家ライフ》をオープンしました。古民家の仕事なんて待っていても来ないので、それなら古民家の仕事自体をつくってしまえばいいと考えてこのサイトを始めました。山形から神奈川への移築の仕事など実際に数々の成果も生まれました」

当時運営していた古民家情報マッチングサイト「古民家ライフ」。全国の古民家を扱っていた。今でこそ同じようなサイトも存在するが、先駆けであり当時としては画期的だった。

⎯⎯⎯ 古民家ライフという社名ですが、新築も建てられていますよね。新築と古民家の改修・リノベーションなどではどちらが多いのでしょうか?

髙木「『古民家ライフ』だと古民家しかやらないと思われる場合もありましたが、『発酵住宅』という名称・概念を掲げ発信しているので、現在はだいたい半々くらいです。また、去年設計事務所も立ち上げました。一級建築士の社員も入ってきたので、可能な限り自社内で手掛けていきたいです」

⎯⎯⎯ 新築と古民家では、単純にどちらが面白いですか?

髙木「難しい質問ですね。お客様に喜んでもらえると、どちらもやり甲斐を感じますし、両方面白いです」

⎯⎯⎯ 家づくりにおいて心掛けているところは?

髙木「基本的に地元の木や素材を使い、大工が手刻みでつくることです。それから合板は使わないこと。解体現場で合板のところから傷んでいるのを目にしてきたのでそこは必ず守っています。その上で、なるべく自然に還る家、菌との共生を目指しています」

⎯⎯⎯ 木はこの辺りだと、どこの木を使うのですか?

髙木「基本的には宮城県(栗駒周辺)と山形県の木(西山杉)を使います。ちなみに敷地内に生えていた木も切って使いました。コロナの影響で『木がない、木がない』って言われていますけど、その辺に放置されているのがいくらでもあるじゃないですか。それをなんとか使ってやりたいです」

実際、古民家ライフの敷地内の木は、髙木さん自身が伐採し家づくりに使われている


事例紹介

近年手がけた仕事を見たいと頼んだところ、一冊一冊丁寧に作られたアルバムを見せていただいた。その中からいくつかの事例を髙木さんのコメントと共にご紹介します。


米沢・発酵住宅 〜左官職人の家〜 | 2018年

◎プロデュース:古民家ライフ株式会社 ◎設計:大類真光建築設計事務所 ◎施工:古民家ライフ株式会社 ◎左官工事:地主左官工業所

髙木さんコメント

発酵住宅の名前を冠しての仕事はこのお宅が第1号になるかもしれません。建て主はうちでいつも左官工事を担当してくださっている左官屋さん。『住むのならやっぱりこういう家ですよね』4代続く左官屋さんなので、おじいさんやお父さんの代から続く工務店との繋がりもありましたが、それを一軒一軒断りのあいさつ回りをしてくださって、弊社での工事となりました。もちろん左官工事は家族総出で全てされました。施工する業者さんから家づくりのパートナーとして選んで頂けるというのは、本当にうれしいことです。


小姓町の家 | 2016年

◎設計:由利設計工房 ◎施工:古民家ライフ株式会社

髙木さんコメント

ブルックリンスタイルの家が欲しいというのが一番の始まりで、ブルックリンの場所を調べる所から始まった家づくりでした。しかし、お話を進めていくうちに古材と自然素材と畳と左官壁の家になり、今となっては笑い話です。 敷地は山形市内でも交通量の多い道路に面しています。L字型の敷地にどう建てるかというのがこの住宅のポイントでした。あの敷地にこんなに大きな家が建ったんだというのが周りに住む方感想のようです。趣味を最大限に楽しめる住宅が出来たと思います。


小白川にある家 | 2019年

◎設計:大類真光建築設計事務所 ◎施工:古民家ライフ株式会社

髙木さんコメント

いつも設計でお世話になっている大類真光建築設計事務所・所長の大類さんの家です。『高木さん、うちお願いします。』沢山の施工業者さんとのお付き合いのある中で古民家ライフを選んで頂きました。
《比較的敷地面積の広い山形でも40坪の敷地内に自然素材住宅は建てられるのか?》《塗装剤を塗布したところとしないところでは違いがでるのか?》《外断熱の効果》等、この家はある意味実験住宅と捉えて設計されました。
パネルヒーターだけでの暖房もほとんど温度差が無くうまくいっているそうです。
建築に携わるものとして、自宅を建てるという行為はお客様にとって、一番説得力のある行為だと実感しています。


高瀬の家 | 2015年

◎プロデュース:古民家ライフ株式会社 ◎設計:金内設計工房 ◎施工:古民家ライフ株式会社 ◎左官工事:地主左官工業所

髙木さんコメント

古民家リノベーションとしての事例です。玄関土間に後付けされた和室が生活空間の中心でしたが、使われていない広間の和室に北側の台所を移設し、リビングダイニングキッチンとしての機能を持たせました。また、一階だけが老夫婦の寝室として使われていた蔵を改装して、若夫婦の寝室兼プライベートリビングとして生まれ変わりました。前日まで古い台所を使いつつ、一気に給排水を変え新しい台所を使って頂き、古い方を解体するといったような、住みながらのリノベーション工事が出来るのも山形だからこそできる工事だとも思いました。見学のお客様をお連れすると、今ではおばあちゃんが住み心地と使い心地をお客様にご案内してくださいます。


堀さんの家 | 2018年

◎プロデュース:古民家ライフ株式会社 ◎設計:大類真光建築設計事務所 ◎施工:古民家ライフ株式会社

髙木さんコメント

生まれて初めての完成見学会が古民家ライフだったそうです。そのまま家づくりをすることになりました。家族構成と建坪の兼ね合いから、シンプルな2階造りとし、古民家ライフのモデルハウスとしての要素を兼ね備えた住宅を目指しました。さながら、木の宇宙船のような空間が出来ました。
ほとんどの住宅において建て主が家づくりに関わって頂くようにしています。この住宅も大黒柱の伐採から始まり、外壁板の塗装は全て建て主が行いました。寒い時でしたので、塗装した瞬間から凍っていくというのを一緒に体験し、今でもその思い出が残っています。


錦屋川西本店 | 茅葺

築200年の老舗和菓子店。献上小倉羊羹が銘品。独立してすぐの30歳のころに、茅葺屋根の雨漏りを修繕したことをきっかけに毎年依頼されるようになった。取材時にちょうど足場を組んでいた。


発酵素材®️の店内の様子。この5月でちょうど1周年を迎えた。

古民家と民藝の共通点

古民家ライフには作業場の他に、暮らしの道具店《発酵素材®️》や、糀カフェ《晴間》が併設されている。今後、さらに活動の幅を拡げていくという。その原動力はどこにあるのだろうか。

⎯⎯⎯ 古道具店やカフェも経営されていますが、そこにはどんな意味があるのでしょうか?

髙木「私の考える家づくりとは、単に家のことだけではなく《暮らしの中の家》や《循環の中の家》の在り方を考えることなんです。畑もやるし、茅葺もやるし、古道具もやるし、エネルギーのことも考えた。できる限り循環させたいんです」

髙木「循環というキーワードは昔からずっと頭の中にあったんです。親父が亡くなって半ば強制的に今の道に進まざるを得なくなったわけですが、環境保護の仕事に就きたいなと思っていた時期もあるくらいです。そして、建築とリサイクルや環境保護との接点を見出せそうだったのが、古民家だったんです。しかもメチャクチャかっこいい!」

⎯⎯⎯ ということは古道具は解体現場などから集めて来られたんですか?

髙木「その通りです。このお店を始める前は、70坪の倉庫に古材と共に、もったいないからという理由で古道具も集めていました。そこも手狭になってきたので、倉庫を建てるくらいなら、みんなに見てもらえた方がいいなと思い、昨年スタートしました」

店内を案内してくれる髙木さん

髙木「ここで扱っている商品は普通の解体現場の蔵に眠っていたものたちです。見つけ出さなければ、捨てられて終わる運命でした。見つけ出してあげて日の光を当てることで『いいよね』って、いろんな人に感じてもらえるようになります」

解体される蔵に眠っていた昔の履き物。貴重な布で補強して大事に使われている。髙木「しかもおしゃれでしょ?」

⎯⎯⎯ お店を拝見しましたが、何時間でも観ていられそうです。髙木さんの目利きが素晴らしいんですね。

髙木「古民家と民藝には通ずるものがあると感じています。《用の美》とか《日常の中の美しさ》というものに共感を覚えます。実は初めて民藝館に行った時、展示されているものの意味や良さがわからなかったのですが、10年経ってもう一度訪れた時『なるほどなぁ』と分かることや共感することがたくさんありました。これが分かるならお店をやっても大丈夫だなという直感があって、古道具屋をはじめることにしました」

髙木「古道具屋ではありますが、古民家ライフの家づくりの考え方を発信するアンテナショップとして機能したらいいなと考えています。実際、買い物に来てくださったお客様から、家づくりの相談を受けるケースも生まれています。想い描いてきた《住まいづくりのカタチ》に近づいて来たなと実感しています」

髙木「日常の中にあるだけで空気がガラッと変わる。その化学変化が面白い」

上:店舗外観 / 下:各所から集めた古材で組まれた店内の枠

⎯⎯⎯ 糀カフェについても教えてください。

髙木「衣・食・住をトータルで考えていくなら《食》の部分での提案もしたかったんです。日本の発酵食品を提供したいと考え、甘酒を中心としたカフェとして、工房の移転に合わせて2016年にオープンしました。現在は家庭の事情で休止中ですが、機会をみて再開したいです」

写真提供:髙木さん

左:地元の木がふんだんに使われた店内 / 右:梁は温泉施設で使われていた栗材

左:髙木さん考案のアイアン棚 / 右:火山灰を利用した《しらす壁》


想い描いた未来を実現する

古民家ライフ ホームページより

⎯⎯⎯ 想い描いてきた《住まいづくりのカタチ》とは?

髙木「どこかに里山とかダッシュ村みたいな場所をつくりたいとずっと考えていたんです。家だけじゃなくて、衣食住全部大事なんです。だから、どれか一つだけじゃだけでなくて全てに踏み込んでいきたいんです。そこにエネルギーの循環など、環境に対する取り組みも盛り込んでいきたいというビジョンがあります」

髙木「現在の古民家ライフは500坪の土地を買って事業を始めたんですが、最近、両隣の土地を売ってもらえたので一気に1,500坪にもなりました。渓流が流れているし『あれ?もうここで村にできるんじゃない?』と思って、コロナ関連の補助金の申請用紙に思いの丈を全部綴りました。エネルギーや資源の循環を体験してもらえる宿泊施設を作って、そこらへんの木を伐採して製材したり、薪を割ったり、井戸を掘ったり、堆肥を作ってバイオマストイレを導入したりと… そうしたら通ってしまいました」

⎯⎯⎯ コロナに後押しされたわけですね。

髙木「コロナでもなければ、ここまでいきなりはやっていないと思うのでいい機会でした。ウッドマイザー(簡易製材機)をはじめ、耕運機・ショベルカーなど、大工とはかけ離れた機械をたくさん導入しました」

左:堆肥も作っている / 右:今後の展開に向けさまざまな機械を導入中

⎯⎯⎯ 相当忙しそうですが。

髙木「そうなんです。かなり忙しいんです。補助金なので結果を提示しないとならないですし。ですが、考えたことがカタチになって、そこに反応してくれる人がいたり、喜んでくれる人がいたり、共感してくれる人がいたりすると、疲れが吹き飛んでしまうくらいメチャクチャ嬉しいんです!」

髙木「里山での循環の中での暮らしというのは、全部昔の人は当たり前にやっていたんだろうなと思うんですよね。それを少しアレンジすることで楽しく体験できる場所にして『こういう考え方もあるんだ』と多くの人に感じてもらえたら嬉しいです。1,500坪の土地を最大限に活かして、古民家ライフの考え方や思想を浸透させていきたいです」

ここに遠くない未来、髙木さんの里山がつくられる

⎯⎯⎯ まさに有言実行ですね

髙木「実践する思想家になりたいです。考えるだけでは物事は進まないし、手を動かしているだけでは変化は起きにくい。きちんと考えた上でそれを具現化していかないと。大袈裟な言い方ですが生活革命を起こしたいんです」


理想の暮らしとは何か、住みやすさとは何か、衣・食・住で何を大切にするべきか、答えは十人十色だろうが、その問いに実直に向き合い、じっくりと考えて(発酵するかの如く)答えを導き出そうとしてしている人はそうそういないのではないだろうか。さらに実践・提案するともなればなおさらだ。髙木さんはまさにその稀な人物だ。

取材後、「話には出さなかったんだけど月2回くらい勉強会も開催してるんだよね。普通に考えたらアホだよね」とさらっと口にする髙木さん。彼のバイタリティとパッションは本当に計り知れない。


古民家ライフ 髙木孝治さん(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

三重県志摩市、海と太陽がまぶしいこの地域で、120年あまり大工を営んできた東原建築工房。四代目の達也さんと五代目の大地さんは、受け継がれてきた手刻み・石場建てなどの伝統構法を活かし、現代のエッセンスを加えている。修行中の大地さんが初めて棟梁を努めた「いかだ丸太の家」が各種の建築賞を受賞。風土に根ざし、施主や地域住民と共に進める家づくりは、志摩の自然に寄り添う豊かな暮らしを実現している。

達也さんによると、地元の志摩市阿児町立神には「立神大工(たてがみだいく)」という言葉があり、古くから職人の里であったと伝えられている。江戸時代から多くの職人が活躍し神戸や大阪にも進出、大和の国長谷寺にも携わったといわれている。

「木も竹も土も身近にある、あるもので家をつくるという考え方は当たり前にある」と達也さん。同時に、この地は台風など自然災害も多く、自然を敬う姿勢も身についてきた。

現在は親子で、木の家を中心に設計・施工を行っている。
木組み土壁の住宅を、手刻みの石場建てで建てる。さらに増改築や修繕などを丁寧にこなす日々だ。

自宅脇に構えた作業場は、先代の實さん(三代目)の代から増築を重ねてきた。それでも手狭で、小屋組み材などは作業場横の屋外で加工することもあるというダイナミックさ。太陽と雨風を得て天然乾燥材となって行くそうだ。裏山にある竹林は、土壁の竹小舞にも使われている。

先代の實さんは、地元で大工修行の後、大阪に出て夜間は専門学校で学び、建築士免許を取得したという努力家。帰ってきてすぐに伊勢湾台風(1959年)があり、「災害復旧にも尽力し、丁寧にやってくれたと、今でも地元の方に言ってもらえています」(達也さん)。

その背中を見てきた達也さんも大地さんも、志摩市で育ち、大学時代を関東で過ごした後、Uターンして大工となった。父親は家族であり、親方でもあるという環境。ふたりとも口を揃えて「小さいころから大工になると自然に感じていた」という。

都市への人口流出が進み、市外に働きに行く大工職人も多くなった昨今、地域で、手刻みの大工仕事をしている東原親子は、稀有な存在だ。大地さんに至っては「携わった新築はすべて手刻みの石場建て、施主さんに恵まれています」と話す。

親子での役割分担は特になく、設計も施工も、打ち合わせも2人で相談しながら進めていく。達也さんだけが指導するのではなく、刻みや建前など仕事に合わせて先輩職人を招いてその仕事を学び、木の家ネットの仲間の現場に参加するなど、大地さんはさまざまなやり方を吸収している。

二人とも穏やかな性格だからか、「ぶつかることはほとんどない」という関係性だ。

達也さんは「今まで取り組んだことのない仕事でも、見たり触れたり調べたりして『こんな感じやな』と、工夫して自分の手でかたちにできるのが、職人の醍醐味」と笑う。

四代目の達也さん

大地さんは「施主さん家族も職人さんも、ご近所の方も、みんなで家づくりができるってのが楽しいですし、そういうやり方を続けていきたいです」と話す。

五代目の大地さん

在学時には技能五輪への出場や、木の家ネットメンバーの綾部工務店でインターンシップの経験を積み、木造の伝統構法を学んできた。木造BIMや限界耐力計算についても学びを深めている。「もちろん大工の腕も磨きながら、親父ができない分野も頑張りたいという気持ちもあります。それに、どんな勉強も普段の大工仕事に必ずつながってきますから」という。

大地さんは小学校3年生の誕生日に大工道具をねだり、工業高校3年生の時、地元の薬師堂再建で初めて、実際の墨付けをしたという。薬師堂は、夏に毎年盆踊りが開かれる場所で、平成22年に火事により燃えてしまったお堂を、3坪程に小さく再建することになったものだ。

この小さな薬師堂が、今取り組んでいる「みんなで家づくり」の大きなきっかけとなった。地元の人たちと一緒に、石場建ての地盤を固めるヨイトマケを行い、土壁の竹小舞や荒壁土は地山のものを使っている。大学進学を機に一度志摩を離れた大地さんも、夏休みなどを活かし地元の小学生たちと一緒に汗を流した。木の家ネットの仲間の池山さんや高橋さんに学んだワークショップが活かされている。

みんなの場所を、みんなでつくる。

志摩の自然を拝借し、生かしていく。

そんな家づくりの心地よさが受け入れられたのか、当時の小学生の親御さんや地域の住民、観光協会の職員などが、その後、施主さんとなり、新築の石場建てを依頼するようになった。

これまで手掛けた石場建ての家は、3坪から18坪とコンパクトなものが多い。達也さんは「施主さんは、予算はもちろんありますがそれよりも『薬師堂みたいな家がいい』『自分や家族でつくりたい』などの要望を優先することが多いかもしれませんね。大工にとってもやりがいのある仕事なんで、本当にありがたい」と話す。

達也さんは、大学時代に都会の先進的な建物にも触れる中、卒論では「志摩地域の風土と建築」をテーマに取り組んだ。「新しいものだけが本当に良いものなのか、地域で育まれた住まいや暮らしに関心があった」と振り返る。

気候風土適応住宅と、昔からの暮らし方

そんな思いを抱えて大工をする中で、一人の施主さんとの出会いがあった。竹内さんの新築物件「いかだ丸太の家」(2020年竣工)を、国土交通省のサステナブル建築物等先導事業(気候風土適応型)として申請。達也さんは「これまで自分の感じていたものを、一つの形にすることが出来た」と言う。

「省エネ法改正が進む中、法の「気候風土適応住宅」の制度は、地域の木の家づくりに大きな意味をもっている。それは国が定めた基準を満たせない物件への救済措置だけではなく、地域が育ててきた自然と共生する住み方暮らし方といった建築文化に通じています」と話す。

竹内さんの家は、6坪の三和土土間の団らんスペースを中心に、両脇にそれぞれ6坪の居間、4坪のダイニングなどを配した設計だ。設計は愛知県の六浦基晴(m5_architecte)さんが担当した。

東原さんは設計の六浦さんや施主の竹内さんと話すうち、「志摩らしい建物を建てたい」という思いを共有する。浮かんだのは、地元では当たり前の存在である「いかだ丸太」だった。いかだ丸太とは、志摩でさかんな真珠の養殖いかだに使われる材木のことで、県産のひのきの間伐材を丸太のままで使う。気候風土適応住宅への親和性も感じた。

この丸太を、「シザーストラス」として小屋組みに用いた。建築家アントニン・レーモンドが好んだ構造で、この建物の特徴の一つとなっている。レーモンド事務所で学んだ建築家・津端修一さんが自邸に採用した方式で、達也さんは「施主さんの恩師でもある津端さんの自然な暮らしを大切にする姿を重ね合わせ、レーモンドスタイルを提案しました」と振り返る。

断熱材には、志摩産のもみ殻を用いた。竹内さん夫妻が知り合いの農家から分けてもらったもみ殻を、ドラム缶で燻炭とし、袋詰めして床下に敷き詰めた。天井には、乾燥したもみ殻を充填し突き固めた。すべて手作業だったという。

建具は、雨戸、よしずを張った網戸、木製ガラス戸、障子の4層すべてに古建具を再利用した。夫妻が解体される家を回って100枚近く集めた中から厳選したという。それぞれの建具は状態が異なるので、大工は調整に苦労したという。

また、家の中心にある竹内さん夫妻が愛情をこめて叩きに叩いた土間は、夏は南北の掃き出し窓を開け放つことで心地よい風が吹き抜ける。三和土(たたき)には地元の海水を使い、志摩特産の真珠の貝殻も埋め込み、さらに志摩らしさをあらわした。片隅には薪ストーブを置き、冬の暖を確保する。普段の煮炊きも薪ストーブが活躍する。

アートに精通し自らも油絵などを描く竹内さんは「志摩クリエイターズオフィス」というアーティスト集団を主催、この空間がその仲間と語らう場となっている。

仲間らは建設時から、土壁塗りや三和土(たたき)などのワークショップに訪れ、一緒に汗を流した。その数はなんと50人以上にも上ったという。竹内さんは「この家はひとつの作品。来る人来る人に、こんな暮らしいいね、憧れだねとうらやましがられるの」と微笑む。

達也さんは、「こういうワークショップ形式の建て方や自然と共に丁寧に暮らす住まい方は、確かに手間ひまがかかりますが、人の心を豊かにしてくれます。物質的な豊かさとは、また違いますよね」と実感する。

この家は、第40回三重県建築賞に加え、ウッドデザイン賞2021、第53回中部建築賞の受賞など、多くの評価を得ることとなった。

竹内さんは、この「いかだ丸太の家」の前に、敷地内にある築80年の平屋の古民家の改修を東原さんに依頼していた。先代の實さんと達也さん、学生の大地さんと三代で取り組んだ。この建物は日本各地で要職を歴任した猪子氏の終の棲家で、昭和時代に何度かリフォームがされていたが、空き家となり廃墟となりかけていた。壊れたサッシを木製建具に戻したり、朽ちたシステムキッチンを外して土間を復活させたりと「建築当時の復元」を念頭に進めていった。

のちに登録文化財となる旧猪子家住宅

竹内さんは東原さんを、「住む人のことを思って、要望に必ず応えてくれるすごい大工さん。特に猪子邸の改修は、設計図もないのに美しく復元してくれて、その技量に驚きました。本当に、よう作ってくれました」と話す。

その言葉に達也さんは「いやいや、よう任せてくれました」と笑顔で応える。

2つの物件がある敷地は、なだらかな起伏の土地にツバキや栗など四季を感じられる木々が並ぶ自然林だ。緑が太陽の光をやわらげ、小鳥のさえずりが耳に心地よい。時折、海風も届き、豊かな自然を存分に味わえる。

大地さんは、「職人と施主さん、家族や仲間とみんなでつくる家づくりは、本当にやりがいがあります。つくるのは家ですが、人と人の間で動くことを大切に、大工をしていきたいです」と、まっすぐに未来を見つめていた。

東原建築工房 東原達也さん、大地さん(つくり手リスト)

建て主と大工のこんな関係、理想かもしれない

建て主である清水治さん(左)の家を訪ねた鈴木直彦棟梁

「お城みたいな家だから見せたいんだね、みんなにね!」

そう、嬉しそうに話すのは、山梨県北杜市に住む清水治さん。同じく北杜市在住で、鈴木工務店を経営する鈴木直彦さん(以下、鈴木棟梁)に、大工工事を依頼し続けて10年以上になる。

二人が知り合ったきっかけは、お互いの子どもだった。清水さんと鈴木棟梁は、北杜市の高根町と武川町(以前は武川村)に住んでおり、子どもたちはそれぞれの地域の剣道スポーツ少年団に入っていた。普段は別々に活動しているが、時折、試合や共同練習をすることがあり、その付き添いがきっかけで言葉を交わし合うようになったという。

雄大な八ヶ岳を背景に、右奥から左手前に「母家」「離れ」「ガレージ」の3棟が並ぶ

「離れの床を張り替えて欲しい」という、小さな依頼から始まった建て主と大工としての付き合いが、夢をあざやかに形にしていく鈴木棟梁の発想と技術に清水さんが魅せられて、次々と工事を依頼することに。離れのリフォーム、母家のリフォーム、そしてガレージの新築と、工事は10年以上におよんだ。

「棟梁のところは丁寧に仕事してくれてるから、ホントありがたかったです。ただ、時間はかかったけどね。」

時間がかかったのは、決して作業の分量が多かっただけではない。清水さん家族が家に住みながらリフォームを進めることが出来たので、仮住まいの費用が発生せず、納期に縛られない仕事が可能だったことも大きい。鈴木棟梁は言う。

「最初に完成図面を描いたりせず、清水さんと話しながら工事ができたので楽しかったね。まるで趣味みたいな仕事になってしまって、自分でもいつ仕上がるんだろう?って思ってた。」


鈴木棟梁って、どんな人?

建て主との関係がしっかりできている仕事の場合、人を喜ばすのが好きな鈴木棟梁は、事前に詳しく説明をせずに仕上げてしまうこともある。母家のリビングの椅子やテーブル、玄関の磨りガラスなどは、清水さんを驚かせ、笑顔を引き出した。

オリジナルの椅子、曲面鉋(カンナ)仕上げのダイニングテーブル、「北杜ベース」が描かれた玄関ガラス

「細かく要望を出したりしなくても、棟梁はちゃんとこの場所にあったものを作ってくれるんです。玄関のガラスだって、僕が所ジョージが好きなことを知って、“世田谷ベース”をアレンジした“北杜ベース”のデザインにしてくれたんですよ。うれしかったなぁ!」

「北杜ベース」の名前にふさわしく、ガレージや離れの中にはバイクや整備道具など、趣味の品がぎっしり

清水さんが惚れ込んでいるのは、鈴木棟梁の柔軟な姿勢と豊富なアイデア、それと人柄。鈴木棟梁は言う。

「建て主の話を聞いてラフに描いた図を元に、それを住みやすく、建築的にしっかりしたものに変えてやれば、それでいい。一方的に俺の“我”を押し付けるんじゃなくてね。」

母家のリフォームでは、元の建物の構造上どうしても取り外すことのできない柱がストーブの前にきてしまう。そこで、その柱を鏡でくるみ、存在を消すということもした。

「それまでのやり方にとらわれず、アイデアいっぱいなんですよね、本当に棟梁は!」

鏡に覆われた柱


鈴木工務店への工事依頼は、これで終わり?

住みながらのリフォーム工事の特徴は、建て主と職人の距離が近いこと。連日、顔を見て、言葉を交わし、昼食や休憩の時間を共に過ごすこともある。

「しょっちゅう顔を合わせているから、工事が終わると寂しくてね。棟梁に会うために、“他になんか頼むことないか?”って探しちゃう。この先も絶対、何か作りたい!」

最近になって、清水さんの長男が大工工事を始めたのだそう。薪置き場づくりから手掛け、離れの車庫の上に隠し部屋みたいなロフトを作った。趣味のものを持ち込み、まるで秘密基地のようだ。大工道具を握る姿を見て、鈴木棟梁は時折アドバイスをすることもあるとのこと。

「棟梁からわざわざ声をかけてくれて、助かりますよ。それで親子の会話も生まれるんですよね。建ててしまったらそれで終わりで、遠くから眺めているんじゃなく、その後も付き合いがずっとあると言うのが嬉しいじゃないですか! おかげで子どもや、かみさんとも会話がはずんで家族関係も良くなりました。長男なんて、リフォームする前は “こんな家には住みたくない!” なんて言ってやな顔していたのに、最近はそんなことは全然! 本当、この家づくりのおかげで家族が一つの輪になったね。」

鈴木棟梁も、こう話す。

「自分も清水さんの前を通るたびに、クラクションをプップッって鳴らして、何かあれば寄るんだ。しょっちゅう一緒にご飯食べたり、家族で旅行したりしてうれしいよ」

清水さんの家の前には「鈴木工務店」の看板が

ガレージの前には「清水ジョージ 北杜ベース」と「鈴木工務店」と書かれた看板がある。清水さんに聞くと

「ここには鈴木工務店の仕事がいっぱいで、まるでモデルハウスみたいでしょ。だから、道を通る人には営業所のように思ってもらえるといいな、と…」

商売の世界には「お客さんが一番の営業マン」という言葉がある。しかし、自宅の前に看板まで立ててしまう人は珍しい。大工の父親に連れられて、子どものころから現場に出ていた鈴木棟梁にとって、この看板の存在は職人冥利に尽きるに違いない。


神奈川県海老名市。富士山が遠く見える田畑の先に、地元で「いちご島」と呼ばれている地域がある。その一角に目を引く焼き杉の家が建っていた。自然素材でつくられたその家は、庭先の植栽に彩られていることも相まって、むしろこの家こそが地域の自然環境に馴染んでいるように感じられた。ここが今回ご紹介するつくり手、袋田琢巳さんの自宅と作業場だ。

袋田 琢巳さん(ふくろだたくみ・45歳)プロフィール

昭和52年(1977年)大阪生まれ。平塚西工業技術高校を卒業後、父親の営む袋田工務店に入社。2007年、フラワーデザイナーの奥さん(佐千代さん)と共に神奈川県海老名市に「FUKURODA工舎」を開業。今年からお弟子さんの中澤さんが加った。自然素材にこだわり、日本の風土に合った住まいづくりを心がけている。高三の息子さん、中二の娘さんと4人で暮らしている。

木の家ネット会員の丹羽明人さん(丹羽明人アトリエ)の設計で、袋田さん自身が大工として建てたという、ご自宅にてお話を伺った。

海老名では珍しい焼き杉の外壁

柵にはひっそりと「FUKURODA工舎」の看板が


やっぱり大工になろう

⎯⎯⎯ まずプロフィールを拝見して気になったのですが、自動車科を出られているんですね。

「小学生の頃から家業の工務店の仕事を手伝っていました。丸太の足場を組んだり、ほぞ穴を掘ったり、断熱材を入れたりしてました。中学生の頃には建前の手伝いなどもしていました。その頃から大工の凄さを幼いながらも身をもって感じていたので、祖父や父親みたいな凄い棟梁にはなれないと思い、高校は当時興味のあった自動車科へ行きました」

⎯⎯⎯ そこから大工の道に進んだといいますか、戻ったといいますか、経緯を教えてください。

「当時、バックパッカーに憧れていて海外へ行くのが夢でした。カナダとアメリカを旅行して、最初は壮大な景色やスケールの大きさに感動していたのですが、旅を続ける中で、日本には人がつくった素晴らしい建物や文化が身近にあることに気づいたんです。それをつくる職人技の凄さにも気づき、日本に帰ったら祖父や父親のような大工になろうと決めました」

⎯⎯⎯ あらためて大工になるためにどこかで修行をされたんですか?

「地元の材木屋さんの紹介で手刻みで住宅を建てる工務店で修行を積みました。そこで刃物の研ぎの大切さを教えて頂きました。『道具が仕事を呼ぶ、いつでも道具は綺麗に切れるように』と教わったことを今でも家づくりに活かしています。先輩大工に毎日の仕事を通して、大工の心構えや大工道具の手入れなど、色々なことを教えてもらいました。また、先輩大工達と《削ろう会》へ参加し、鉋がけの技術を磨いていました」

⎯⎯⎯ そこから国産無垢材を使った木の家づくりに向かわれたと。

「そうですね。興味を持ったきっかけはいろいろありますが、中学の頃、山口県岩国市にある母の実家の上棟を手伝いに行きました。そのことが大きな影響を与えているかもしれません。大工をしていた祖父は山で木を育てていて、母も子供の頃に一緒に植樹をしたそうです。また、棟梁を務めたのは祖父の弟なのですが《柱や梁を山で自ら伐採して近所の製材所へ運んだ話》《母屋を一度仮組みしてから上棟した話》《土壁の話》などを教えてもらいました。神奈川では身近にない家づくり特に記憶に残っているのかもしれません」


自宅は絶対、木の家にしたい

⎯⎯⎯ この素敵なご自宅は、木の家ネット会員でもある丹羽さんとの協働で出来上がったと伺いました。

「前々から丹羽明人アトリエの家づくり(植樹体験・伐採・薪割り・土壁塗り・グリーンウッドワーク・住まい手との関係など)に感銘を受けていまいた。そして木の家ネットに入会して初めて参加した総会で、偶然相部屋だったのが丹羽さんだったんです。その時にいろんな話を聞かせてもらい『自分の家を建てるなら丹羽さんにお願いして、自分の手で建ててみたい』という夢ができました」

⎯⎯⎯ そしてその夢が実現し、この住まいがあるんですね。詳しく聞かせてください。

「《いちご島の家》といって、木組み・土壁のコンパクトな家です。築3年になりますが、とても居心地が良くとても満足しています。初めて手がける真壁・土壁の家でしたが、木の家ネットの先輩方など(TSウッドハウス共同組合の和田さん有限会社アマノ・愛知の大工さんなどなど)に色々と指導していただきながら建てました。自分にとってはチャレンジでしたが、先輩方に助けてもらったおかげで夢を実現することができました。また、建主の気持ちを知ることにも繋がり、とてもいい経験になりました」

⎯⎯⎯ 丹羽さんとはどんなやりとりされたのですか?

「家づくりが始まる前に、いろんな経験をさせてもらいました。山に連れて行ってもらったり、植樹や伐採をさせてもらったり、土壁の左官を体験させてもらったり。学びの機会が多くあり、とても楽しいひとときでした。単に『家をつくる』んじゃなく『住まいをつくる』感覚ですかね。そういうのってとてもいいなぁと思います」

左官体験の様子

「また、大工工務店としても勉強になることばかりでした。僕は営業が苦手なのですが、丹羽さんとの打ち合わせを通して、建主とのコミュニケーションや距離感の取り方、安心感の与え方、プレゼンの方法など、沢山のことを教えていただきました。神奈川でも同じような《思い出になる家づくり》ができる大工工務店を目指そうと思うようになりました」

⎯⎯⎯ 佐千代さんにもお話を伺いたいです。以前からこういった木の家に住みたいと思われていたんですか?

佐千代さん「丹羽さんの建てている家の見学会で、初めて新築の木組み・土壁の家を間近で見て、想像していた《昔ながらの木の家》と全く違って『伝統的な工法や素材を使いながら、こんなにモダンで暮らしやすい家づくりができるんだ』と一目惚れしました」

袋田さん「それでもう、ぜひお願いしようということになりました」

普段は花屋さんで働く佐千代さんは、FUKURODA工舎のもうひとつの顔。庭木の植栽なども手がける。

佐千代さん「自分達の家をつくり上げていく過程で、土壁の良さや素材のこと、使われる木がどこから来るのかなど、学びながら進められたのですごく楽しかったです。また、様々な職人さんや林業家の方などにお会いして、どんな想いを胸に家づくりに取り組んでいるか、直接聞けたのでとてもいい経験になりました」

⎯⎯⎯ そういえば、袋田さんも昨年伐採見学ツアーを開催されていましたね。

「丹羽明人アトリエと有限会社アマノの伐採見学に参加したのがきっかけで、ぜひ神奈川でも開催したいと思っていました。Twitterで知り合った自伐林業家の杉山さん、神奈川の木の家ネットメンバーに声を掛けて開催に至りました」

「当日、滋賀の宮内寿和さん(宮内建築)にもご協力いただいて、僕ら若手に山のこと、木のこと、大工のことなど、沢山教えていただきました。中でも『木が倒された瞬間、植物としての命を終え、職人の手によって第二の命が与えられる』という言葉を聞いて、木の命を頂いて仕事をすることの責任を感じました。建主にも同じ気持ちを持って欲しいので、この活動は続けていきたいです」

2021年に開催した伐採見学ツアーの様子 写真提供:袋田さん


袋田さんの自宅「いちご島の家」 2019年|神奈川県海老名市

暖かい照明と外壁のコントラストが美しい

薪ストーブのあるリビング

家具やキッチンも造作だ。タオルかけは丸いと滑り落ちるのでこの形がベスト。なるほど。

左:使い勝手を考えた細やかな手仕事
右:ペアガラスと障子を組み合わせた断熱性に優れる窓

丹羽さんの影響ではじめたというグリーンウッドワーク(身近な森で伐った生木を、手道具で削って小物や家具をつくる木工)


大工は地元に根付いてこそ

⎯⎯⎯ 大工としての想いや、こだわりなどを教えてください。

「同じ大工工務店でも、自分で設計から施工までしてしまうタイプの工務店もあれば、設計士さんと組んで施工を担当する工務店もあります。僕は後者で、特に施工だけに特化した工務店を目指しています」

「祖父も父も大工だったので、《あるべき大工の姿》のイメージが自分の中にあります。それは『大工は地元に根付いて頼られる存在であり続けないとならない』ということ。家を建てるだけではなく、メンテナンスやちょっとした困りごとにもすぐに対応できる《地域の何でも屋》のような大工が理想なんです」

⎯⎯⎯ 家づくり以外で地元で活動されていることはありますか?

「東京日建工科専門学校の非常勤講師をしてます。大工の世界で育てていただき今があるので、大工の世界への恩返しがしたいと思っています」

「それから、息子が中学時代に通っていたサッカークラブのスポンサーになりました」

⎯⎯⎯ サッカークラブのスポンサー!?

「地元の子供達を応援したいという気持ちからスポンサーになりました。息子がお世話になったチームでもあります。監督から『中学で色々と進路に悩む子供達に、サッカーチームだけどサッカー以外のことを経験させてあげたい。その一つとして木工を子供達に教えてもらえないか?』とオファーがあり快諾しました」

スポンサーになったサッカークラブのユニフォーム

「このチームのサッカーを通じた教育が素晴らしいんです。関東大会に出るくらいの強豪チームなんですが、『みんながプロになれるわけではないけど、それ以外にもステージは用意されている。社会に出るためのことも学んで欲しいんです』という話を聞いて共感しました」

「スタメンもキャプテンも、子供たちだけで決めるんです。技術が高くなくても交渉力や人柄によって活躍の場を得ることができます。一方、サッカーが上手いだけでは試合に出られないこともあります。それって社会そのものだなと思うんです。一番を目指すだけが答えじゃないんですよね。僕自身も、海老名でのステージや、木の家ネットでのステージなど、自分ができることは何だろうと考えて行動するように心掛けています」

⎯⎯⎯ 袋田さんご自身、また地元・海老名へのビジョンなどを教えてください。

「自分が先輩達から受け継いだ知識や技術を次の世代へ引き継ぐ責任があると感じています。この春から中澤君(18歳)が入社しました。まずは大工仕事の楽しさを教えられたらいいなと思っています」

見守る袋田さんと、ひとつずつ作業を覚えていく中澤さん。
「袋田さんとは以前から知り合いだったんです。ずっと大工をやりたかったので、楽しんで仕事を覚えていきたいです」(中澤さん)

左:まずは自分の道具入れをつくることから
右:袋田さんが先輩大工から教わったことが引き継がれてゆく

「次に地元のことですが、育ててもらったこの場所に恩返しがしたいですね。薪ストーブの会・焚き火の会などを主催し、主に商工会議所のメンバーたちと、ざっくばらんに海老名のまちづくりについて語り合っています。その中で大工として海老名に貢献できることを探しています。自分の家づくりの経験や暮らしてみた体験を活かして、地元でも木組・土壁の家を広めていきたいです」

海老名の今とこれからを考える「焚き火会」 写真提供:袋田さん


自分の置かれた環境や立場、関係性を受け止め、そのステージの上でどうすれば最大限の力を発揮できるのかを問い続ける袋田さん。

家づくりにおいても《ステージ》という考え方が重要だと感じた。今日の私たちが置かれた地球環境や、地域ごとの気候風土・風習・そこにある材料、また住まい手の想いや生活様式など、ステージ上には様々なピースが並んでいる。一度として同じ組み合わせは生まれない。その一つひとつをよく見て、よく聞いて、よく考え、そしてつくり上げていくことが《本当に過ごしやすい住まいづくり》への第一歩なのではないだろうか。


FUKURODA工舎 袋田 琢巳(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

設計も施工も家も家具も、自分の手を動かして大切に作りたい。埼玉県久喜市の「はすみ工務店」6代目棟梁、蓮実和典さんの心意気だ。

はすみ工務店は明治創業で、令和の現在も木組み・土壁といった日本の伝統工法や自然素材を使った家づくりに取り組む。つくる家々が醸し出すムードは、日本人が古くから持つ和の精神を大切にし、人と人、人と自然が調和している。施主さんは「背中で語る、まさに職人」と言わしめる。

蓮実さんは、大学卒業後8年の大工修行を経て家業を継ぎ、8年となる。現在、蓮実さんと60代の大工さん、20代の弟子1人の3人で仕事に取り組む。

祖父の代から使う作業場

作業場祖父の始さんは、蓮実さんに代替わりして6年後に亡くなった。始さんの代からはすみ工務店で働く秋元文男大工(69)は、蓮実さんについて「真面目で、実直よ。大工や職人がどんどん少なくなる中で、これと決めて続けてる根性はたいしたもんだ」と太鼓判を押す。

手仕事がやりたい

蓮実さんは、「やりたい大工仕事ができている。施主さんやじいちゃん、修行をつけてくれた親方のおかげです」とはにかむ。

やりたい仕事とは、「手刻みだったり、自然素材を使った家づくりや、古民家の改修とか。いわゆる手仕事ですかね」と蓮実さん。

なぜ手仕事にこだわるのか。蓮実さんは、家とは「単なる箱ではなくて、家族が和気あいあいと過ごし、その空間を通して心豊かな生活を送るためのもの」と考えている。

「そのためには施主さんの要望を設計段階から聞きつつ、人の手で心を込めてつくることが大切だと思うんです」と話す。国産材や地域材の活用にもこだわり、木1本いっぽんを見極める力も磨いている。

時代は機械化、合理化が進み、手間や時間がかかることは避けられる傾向もある。それでも、「複雑で粘り強い加工など、機械ではできないことがある。それに何十年、年百年経った時、『やっぱり手仕事はいい』ってなるに決まっている。丈夫で長持ちする上、使うほど味が出ますから」と語気を強める。

仕事の内容は、年に1棟ほど新築依頼があるほか、改修工事やウッドデッキの新設、バリアフリー工事、カウンターといった家具の新設など多岐にわたる。祖父の代からのお施主さんもいれば、木の家ネットのホームページを見て問い合わせが来る場合もある。

「新規の方の場合、ハウスメーカーの家づくりがしっくりこない人が、いろいろと探してうちに来る印象があります。だからこそ、メーカーのように施主さんにある中から選んでもらうのではなく、欲しいものをゼロから作りたい。施主さんの持っているイメージを、木でかたちにしたいし、木なら自由になんでもできる」と力を込める。

設計に「大工目線」

一級建築士の資格を持つ蓮実さんは、自ら設計もこなす。

「施主さんの要望を元に、設計の提案や図面を描きますが、大工の視点での考えが多分に入っています。構造の木組みや造作の詳細な納まりは、施工に無理が無いよう、メンテナンスがし易いように配慮しています。もちろん、見栄えも大切ですが」と話す。

家業を継いで初めて設計施工で請負した小屋は、趣味のものを展示するためのものだ。

2021年末に建設中の一軒家の施主さんは、子どもや孫の代まで長く残せる家づくりをイメージしていた。化学的な素材の匂いも苦手だったという。

蓮実さんと出会い、どんな家に住みたいか話をしていく中、「蓮実さんが図面を何度も直してくれて、自分の迷いが整理されていった」という。

蓮実さんの提案により、室内の壁は自らの手でローラーを使いドロプラクリームという塗料を塗った。「素人だからムラだらけだけど、自分の家を自分で作れるなんて楽しい」と笑顔がはじける。

「施主さんにも手仕事のおもしろさをわかってもらえて嬉しいです」と蓮実さん。また、木造だからといって和風にこだわらず、建具や窓の位置を変え洋風にした家づくりも行ってきた。

この物件は外壁に土佐漆喰を使用。石灰と藁スサを水練りし熟成させたもので、卵焼きのようなふんわりとした色合いに仕上がった。時間がたつにつれ色合いの変化も楽しめる。

構造は木造で、柱や梁など構造材と壁の仕上げ材の間に、通気胴縁を付けた。壁の中が通気できるようになり、より長持ちするという。

 蓮実さんは「いろいろなやり方があるから、施主さんのコストやニーズに合わせて対応していきたい。『できないです』は言いたくないんです」と語気を強める。

 施主さんのオーダーを聞き、今までの仕事や経験の中で近いものがあるか思い出し、ある程度完成形をイメージする。特に家具については具体的なオーダーでなく、「こんなものが欲しいのだけどつくれる?」と言われる場合も多いという。

「イメージしたことを手で形にしていく、試行錯誤していく過程が、わくわくするので好きですね。なんとかなる、なんとかしようって気持ちで、完成すると達成感がたまらないです」と蓮実さん。

材料も国産材、地域材を使いたいという。コストに見合い、カウンターや収納棚のようなものなら強度も問題ないと考えている。

イメージを作り上げるために本やインターネットで情報を探すこともあるが、「自分の経験や、木の家ネット仲間の仕事ぶりのほうが参考になりますね。木をうまく使っているから」と笑う。

親方から受け継ぎ、弟子に伝える

蓮実さんは、木の家ネットメンバーが設計した物件の大工工事をしたり、一緒に古民家の改修や耐震工事をしたりとつながって仕事をしている。そもそも、大工修行をしたのは木の家ネットメンバーの綾部工務店だ。

綾部工務店との縁は、大学時代に生まれた。大工の家で育ち、幼いころから漠然と「建築の仕事がしたい」と考えていた蓮実さん。

タイムスリップしたような雰囲気の事務所には、祖父への感謝状が並ぶ

大学で建築を学んだものの、卒業後は建築のうちどの道に進むか決めかねていたという。インターン中に綾部工務店の伝統工法の仕事を経験し、昔ながらの家づくりの魅力に目覚めた。

「自然素材の木や土は安心して使える。どんな形にもできるから、自由で、完成した時の達成感がある」と語る。

修行中は、大工技術に加えて設計、経営や見積もりも学んだ。常時5人ほどの弟子とともに生活する中で「自分はあまり言葉が多くないほうだったから、世話焼いてもらいました。感謝しています」と振り返る。

目の前の作業への集中力。創意工夫。全体を見渡すこと。親方の仕事ぶりから伝わることは数多くあり、「親方みたいになりたいって思ってます」と力を込める。

一級建築士の資格を取得したのも修業中のこと。建築について学びを深められた上、最近はインターネットから新規の問い合わせも増えてきて、信頼獲得にもつながっていると実感する。

修業を付けた綾部孝司さんは「昔の大工ってこんな感じだったんだろうなってやつです。指示を出すと、質問もせずすぐに手を動かしてぴったりのものをつくる。本当に手を動かすのがすきなんだよな」と認める。

手は、動かせば動かすほどに木や道具が理解できる。「棟梁になったら、大工や施主さんにわかったことを伝えられるようになれよ、とよく話してました」と振り返る。

そんな修業時代を過ごした蓮実さんは現在、21歳の弟子に仕事を手ほどきしている。「ただ作業するのでなく、その意味とか、その先の作業とのつながりとか、全体を見られるように伝えています。それがわかると、大工が面白くなる」という気持ちで向き合っているという。弟子の作業のために図面をおこすなど工夫も凝らすが、一番は「自分が恥ずかしくない仕事をしているところを見せたいです」と話す。

弟子に伝えるための書き込みがある図面

蓮実さんには、実直さがある。「こんな仕事をやっていきたい」と、堂々と口に出せる。施主さんの要望を素直に受け止め、実現のため腕を磨く。祖父や親方を「すごい」と認め、良いところを真似、まっすぐに背中を追いかけている。

その実直さは、ごまかしがきかない自然素材に向き合うべき伝統工法に活かされている。蓮実さんが作り上げた空間には、大いなる自然と丁寧な手仕事が編み出す安心感があった。

はすみ工務店 蓮実和典さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、一部写真提供:はすみ工務店

木を使って、かっこよく作ってやる。大阪・四條畷(しじょうなわて)市の木又工務店の二代目大工棟梁・誠次さんの信条だ。その仕事は木と手道具を使うことにこだわった「手づくりの家づくり」から、地元神社の被災した鳥居の復興まで多岐にわたる。木にこだわり、木を通して人を喜ばせる大工としての夢を語り、技を磨く姿に、施主さんや地元の仲間、弟子たちは信頼を寄せている。

木又工務店の2021年の大仕事は、四條畷神社の木造鳥居の建築だ。鳥居は吉野ヒノキを使い、高さ6.91メートルもの大きさ。材木も普段の民家のサイズより大きく、住宅街の幅6.3メートルの道路に建てるという初めての試みでもあった。

すっきりと美しい木造鳥居。9月19日に竣工式を迎えた

材料は吉野檜。一般的なものより長いものを使い、大迫力だ!

木又さんは少なからず不安もあったというが「建った時かっこええやろな、絶対建てたるってわくわくが勝った」と振り返る。新型コロナウイルスの流行の影響で後期は延びたものの、2021年、建前を迎えた。

この鳥居、もともとは石製だったものが2018年6月の大阪北部地震で損壊してしまい、木又さんが旗振り役となって再建にこぎつけた。神社から依頼されたわけはない。損壊後、木又さん自ら見積りをとり、1000万円借金をして吉野ヒノキを購入。本音は「丸ごと寄付できる金額やない」としつつも、神社には費用を集める氏子組織がなく、再建の声が上がらなかったことで、動き出したという。木ならば地震や風にも強く長持ちし、さらに美しいという考えもあった。

建前を終えた現在は、木又さんの心意気に感謝した神社が、再建事業の寄付金を受けることになっている。

地元を大切に思い、実際にアクションを起こす木又さん。20代で青年団を立ち上げ、この神社で「畷祭」を始め、毎年続けてきた。神輿や流しそうめんをして仲間と盛り上がることを、心底楽しんでいた。

まつりで神輿をかつぐ木又さん。笑顔がまぶしい

大切な場所が、地震により鳥居というシンボルを失った痛みは、青年団や地元全体を覆っていた。自分の力が使えるならば何とかしたいという思いが行動に移させた。実際に見積りをとったり、材木を見に行ったりするたびに、「木又が何か始めたって、なんやみんな楽しそうで、それがうれしかった」という。

「それに、地図や歴史に残る仕事なんて大工の醍醐味。自分の子どもや地元のみんなに、『この鳥居、木又が建てたんやで』って言えるやんか」と人懐っこく笑った。

木製鳥居の再建までのストーリーは木の家ネットYoutubeチャンネルでも紹介している

大工の夢を語る

四條畷市は、木又さんの父・健次さんが徳島から出てきて工務店を始めた場所。住み込みの弟子たちと寝食をともにし、作業場が遊び場だった木又さんは「大工以外の職業は考えたたことない」という。

地元の高校の建築学科を経て専門学校で設計を学んでいる時に、社寺や凝った木造建築との出会いがあった。木を手道具で美しく加工し、組み上げる。こんな仕事がしたいとほれ込んだ。設計の道へ行くか、大工の道に行くかという迷いは晴れ、木造の伝統建築に強い奈良県の梅田工務店に弟子入りを志願。当時は弟子が多く断られたものの、「無給でいいから」と頼み込み、採用された。

修業時代は、作業場の二階に住み込みで木と向き合った。少年時代から大工の働きぶりを見て、高校や専門学校で学美積み上げてきた自信は「打ちのめされた。できることが本当に少なくて。悔しいからめっちゃ努力した」と、木又さんは原点を語る。5年の修業と1年のお礼奉公ののち、地元へ帰り、木又工務店を継いだ。

現在の木又工務店の職人たち

大工としての仕事をこなしながら、「畷祭」をきっかけとした地元との絆も強まっていく日々。仲間の中には写真が得意な人やウェブページのデザインができる人もいて、木又工務店のウェブページがあっという間に立ち上がった。木又さんは、「仲間と酒飲みながら、木の仕事がしたいって語っていたことを、どんぴしゃでかっこ良く作り上げてくれた。かなり有能な営業をしてくれている」と感謝する。

ウェブページの発注には初期で60万、リニューアルで100万かけた。確実に受注にもつながっており、木又工務店はウェブからの受注が6割と半数を超えている。

ウェブページに掲載した大工道具の写真

年間の施工件数は新築が4~5件で、リフォームが20~30件となっている。施主さんの思いやこだわりを丁寧に形にすることで、愛着が持てる家を作りたいという姿勢は一貫している。

木又工務店が手掛けた家。木の美しさが際立つ

そのために、工務店に木又さんを含め6人いる大工は、技術を磨き続けることに余念がない。うち3人は木又さんが直接修行をつけた20~40代の男性。木又さんは手道具の手入れをはじめ仕事内容について「基本的にきつく言う方だと思う」と話す一方で、「いい腕になるには、いい仕事を作らな。それも親方業や」と言い切る。

愛用の手道具たち

今年の鳥居のように、大きな仕事、誰もやったことのない仕事など「俺が夢を語ると、弟子らが目輝かす時があるんや」と、大工棟梁自ら仕事に夢を持ち、ポジティブでいることの重要性を実感する。

弟子の島岡寛裕さんは、木又さんのもとで修業して9年。「親方みたいに器がでかくなりたい」と尊敬のまなざしだ。厳しさは認めつつも「わかるまで教えてくれるし、ぼくら弟子の考えも聞いてくれる」と信頼は厚い。

材木にもこだわりを見せる。構造材には国産材を使用し、仕上げには無垢の天然素材を使用するよう心がけている。

作業場に材木を保管している

材木屋に加工を依頼するのではなく、実際に原木市場に出向いて見てから取り寄せ、作業場で加工する。材木ひとつひとつにストーリーが生まれ、施主さんのこだわりを持った家づくりに応えられると考えている。値段を安く抑えることにもつながる。

材木は作業場に置き、天然乾燥させる。作業場は260坪の広さで、ただ作業をこなすのではなく、いつでも木材や機械に触れられる研鑽の場だ。弟子たちが自由に使える、学び舎としての役割を果たしている。

自由に使える作業場で腕を磨く

天然乾燥の場合、材木に乾燥ムラが出ることもあるが、そんな時は自作の乾燥機を使う。幅2.2メートル、奥行6.2メートルの箱に電気のスポットヒーターがついており、ムラの部分に点灯することで全体を整える。

「最初は、滋賀の宮内棟梁の水中乾燥がいいなって思ったんだけど、池の環境がなかったので機械をつくっちゃった」と笑う木又さん。ユニークなアイデアと、実践力が光る。

自作の乾燥機も必見

夢をかたちにしていく

現在は、「弟子にも仲間にも施主さんにも恵まれ、やりたい仕事ができている」と木又さん。7年ほど前から設計も依頼されるようになり、専門学校で学んだ知識も生きてきた。

木又工務店が設計施工した物件

しかし、最初から順風満帆なわけではなかった。修業が終わり地元に戻った時は、父の大工仕事も減少傾向で、弟子も1人しかいなかった。回ってくる仕事も、賃貸マンションのリフォームやクロス作業など、理想とする木とはほど遠い仕事だった。自分ってちっぽけ。そう思う日々だった。

「これではあかん!」と一念発起した木又さんが仕掛けたのは、なんと営業。自分で施工事例の写真を並べたパンフレットを作成し、インターネットで大阪で木造建築をやっている設計事務所を調べて「大工仕事をやらせてください」とお願いして回ったのだ。その中の一つの事務所が興味を持ってくれた。

現在も付き合いが続く、間工作舎設計事務所の小笠原絵里さんは言う。「木又さんって、言ったことを夢で終わらせずにしっかり叶えていくんですよ。信頼できるし、『次はどんなことするんだろう?』ってワクワクしながら見ています」。現在60歳の小笠原さん、「80歳まで一緒に仕事したい」と笑う。

間工作舎設計事務所が設計し、木又工務店が施工した物件

 理想とする木の仕事にしっかりと狙いを定め、現状から足りない点を洗い出し、行動を起こし、結果につなげる。「壁を壁って思わない。前どころか上向いて歩いてるんや」と大声で笑った後、「修業時代を思えばどうってことない。世の中って厳しいもんやから」と話すまなざしは、鋭かった。

木又さんが考える伝統建築とは、長い時間をかけて洗練されてきたもの。その当時流行したものに、使いやすかったり見栄えが良かったりと少しずつ変化が加えられてきた。今も進化を続けている。ただ同じ形を踏襲するだけのではないのだ。

そうなると、「現在の伝統建築も、固苦しいイメージがあるかもしれやんけど、もっとオシャレで馴染みがあるものに変えていきたい。流行りも取り入れていい」と木又さんは考え、建築雑誌を読み込み、試行錯誤しながら設計に取り組む。自然素材ももっと勉強したいと意欲は増す。

伝統と流行それぞれの良さを生かしながら両立させることを目指す

 木を使って、かっこいい大工仕事がしたい。繰り返し語ってきた夢を現実のものとした木又さんは、令和の時代の新たな夢を、描き始めている。

木又工務店 木又誠次さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、写真提供:木又工務店

● 取 材 後 記 ●

電話で話を伺った設計師の小笠原さんは、木又さんについて「ぱっと見は演歌って感じだけど、話すとジャズ」とユニークに語った。「アレンジ」「即興」など自由なイメージが、聞いてきた仕事ぶりに、重なった。
木又さんが語ってきた「木の家をつくる」という夢はこれから、もっともっと自由に、新しい音を奏でていくのだろう。

広島県福山市で社寺建築や伝統建築、古民家再生を手がけながら、そのスキルを若い職人たちに伝え、従来の木造建築の枠にとどまらない新たな可能性を切り開こうとしている野島英史さんをご紹介します。

野島英史(のじまひでふみ・45歳)さん プロフィール
昭和50年(1975年)広島県福山市生まれ。株式会社のじま家大工店 代表取締役。中学生から幼稚園児まで4人兄妹の父。15歳で大工の道を志し地元の工務店に弟子入り。20歳で岐阜県飛騨の古川町で「飛騨の匠」として10年間修行を積み社寺建築を身につけた。その後、地元福山に戻り32歳で独立し「のじま家大工店」を開業。14年目の今年、新たな試みとして「ログキャビン」を提案・発売する。


飛騨での10年を経て

 

⎯⎯⎯ 大工の道を選んだ経緯を教えてください。

「曾祖父・祖父が大工でした。祖父母に育てられたこともあり、子供の頃から大工になりたいと思っていました。私が物心がついた頃には、祖父は現役を引退し毎日縁側で仏像を彫っていました。ですので「大工=彫り物もするものだ」という概念が幼い自分の体験にあったので、社寺建築を志すようになりました」

⎯⎯⎯ ターニングポイントをお聞きしたいのですが、飛騨での10年間で何か大きな節目はありましたか?

「飛騨に行こうと決めた時点で、社寺建築を中心とした伝統建築の方向を生業にしようと心に決めていました。古川町は大工職人の町として有名で、町内のいろんな工務店に同世代の大工が14人くらいいました。彼らとはみんなライバル同士なので、とにかく負けたくなくて切磋琢磨しながら一生懸命やっていましたね」

⎯⎯⎯ 今も社寺に携わることが多いですか?

「いえ、今はそんなことはありません。文化財の修復なども手掛けますが、古民家再生や住宅の新築もまんべんなく手掛けています」

⎯⎯⎯ それから「ログキャビン」を販売されるそうですが、とても面白そうですね。お話を聞かせてもらえますか?

「もちろんです!」


 

新提案 DIY型ログキャビン【やまとCHAYA】

今年後半、野島さん考案のDIY型ログキャビン【やまとCHAYA】が製造・販売になる。
住宅とは異なる空間を手軽に楽しめる【やまとCHAYA】は、伝統的な木組みの技術「扠首(さす)」を取り入れることで、一般の方でも組み立てが可能。縄文時代の竪穴式住居を模したデザインで、日本古来の大和比(白銀比)で設計しているのが特徴だ。希望に応じて、オリジナルキャビンの製造や、テラスの追加などオプション対応もする。余分なものを取り除いたミニマムな住まいでありながら、使う人の感性を取り入れられる空間で自然を楽しむことができる。

 

⎯⎯⎯ 新たに考案された【やまとCHAYA】について詳しく教えてください。

「ひとりでも多くの方に木の香り・自然とのふれあい・家族の絆を楽しみ、深めていただくきっかけになればと思い考案しました。自ら組み上げ、自分だけの場所、また家族と共に楽しめる場所にしていってもらいたいですね。またこの辺りだと【瀬戸内しまなみ街道】があるので周辺の観光地や農園、キャンプ場などへの設置が向いているかな思っています」

 

⎯⎯⎯ DIY型ということですが、どのような工夫が施されているのですか?

「全て、込み栓(柱と土台、柱と桁などの仕口を固定するための、2材を貫いて横から打ち込む堅木材)を使って作ることも考えましたが、一般の方が作りやすいように組み木を味わえる部分を残しながら、ボルトで締める安心感を両立させました」

組み木とボルト締めで作り上げていく

屋根が低い位置まであり軒も出ているので、ほぼ日差しを遮ることができる。壁なしにすれば風もよく通るので、あずまやとしても打って付けだ。

⎯⎯⎯ 木材は何を使われていますか?

「県内産ヒノキの天然乾燥材を使用しています。風雨に晒されるものなので半年以上乾燥させた強度のある材木を使用するため、年間20棟限定での販売を考えています。また、屋根は杉材を土居葺(通常だと瓦葺きの下地となるもの)にしたものです。この屋根が一番時間のかかる部分だと思います。プロで3日かかりました。やりがいは相当あると思います」

使い方に想いを馳せる野島さん

⎯⎯⎯ これは相当楽しめそうですね。職人さんたちの評判はどうですか?

「職人たちも楽しんでやってくれています。お客様向けに、木に触れること自体を味わったり、ここでの体験を提供したいと考えているのと同時に、職人自身が普段の仕事以外で楽しみながら取り組めるめるものを作りたかったんです」

⎯⎯⎯ これからの展望を一言お願いします。

「これからの時代は、ネットでもリアルでも販路を開拓していかないと、続いていかない考えています。地元だけではなくて、日本だけでもなくて、世界に目を向けていかなければなりません。【やまとCHAYA】が、日本の伝統建築の技術と世界のお客さんとを結ぶ架け橋になって欲しいですね」

「今後、人口減少と共に家を建てる人がどんどん減ってきます。その中で、大きな家だけではなく【やまとCHAYA】のような手軽に建てられるものに、木組みや伝統建築のエッセンスを加えることで、ニッチな層だけでなく幅広いお客さんに「木とともに生活すること=持続的な暮らしを実践し受け継ぐこと」に興味を持ってもらいたいです」

⎯⎯⎯ ということは販売は日本中、ひいては世界中を視野に入れているんですね?

「そうですね。めっちゃ世界中に持って行きたい。『お前どうやって持っていくんだ!?』という話にはなるんですけど、そこは夢ですから。具体的な障壁は一つひとつクリアしていって楽しめるんじゃないかなと考えています。何に対してでも楽しんで、もっともっと視野を拡げていったらいいんじゃないかなと思います」

やまとCHAYA 施工風景

水平レベルを出すのが難しいので取っ掛かりは出張作業が必要。

木組み、屋根とシンボリックな形が姿を現してきた。テラス部分はオプションで予価50万円。床もテラスも含めると200万円程度を想定している。

左:床を張る職人さん / 中:「壁なしのこの状態が一番かっこいい!アクリルを貼ってスケルトンにしても面白そう(野島さん)」 / 杉材の土居葺


現場への指示を遠隔でささっと行う野島さん

宣言「わしは現場には出ん!」

 

⎯⎯⎯ 野島さんは今は現場からは離れてらっしゃると伺っています。どのように仕事を進めているのか教えてください。

「今、のじま家大工店では、20代が1人、30代が2人、40代が2人の合計5人の大工職人で現場を回しています。あとは要所要所で外部の職人さんに応援を頼んでいます」

「現場自体は棟梁に任せていて、重要な決定は私がするというスタイルになっています。あとは社長業であったり、これからのことを考え、舵を切っていくような役割をしています」

 

「私が現場へ出て行かない方がいいんです(笑)。私は昔のタイプの人間なので、職人の仕事ぶりについ口を挟んで余計なことを言ってしまうので。。今後のことを考えるとそれじゃあマズいなと思い、数年前の法人登録を機に『ワシは現場には出ん!』と宣言しました。任せて良かったと思います。職人たちも自分で考えるようになってどんどん伸びていっています」

⎯⎯⎯ 経営者ならではの醍醐味や逆に苦労している点はありますか?

「自分が経営者になるとは思ってなかったんです。立場上、人の前でいろいろと話をする機会が出てきますよね。でも元々そういうのが苦手で、黙々と大工をしていたくてこの道に進んだんです。だから正直辛いんです(笑)。あと、職人や棟梁として現場に入っていると完成した時に「できたー!」という達成感が大きいですが、今の関わり方だとそれが味わえません。そこは職人がうらやましいですね。しかし、みんなが自分のところに集まってくれて、同じ方向を向いて取り組んでくれていることが嬉しいですし、やりがいを感じます」

⎯⎯⎯ 「ベテランの大工さんと若い子は居るけど、働き盛りの30~40代の大工さんがいない。世代間の色々な溝を埋めるのが大変」という話をよく聞きます。野島さんのところでは関係なさそうですね。

「そうですね。もちろん、うちにも以前はベテラン大工が来てくれていました。今は主力となっている40代の大工が技術は概ね身につけているので、問題なく仕事はこなせています」

 

⎯⎯⎯ 皆さん、正社員なんですか?

「昔は終身雇用にしていましたが今はやめました。育ってきたら独立しやすい環境にしてあげた方が、各地にネットワークを作ることができてお互いにメリットがあると考えています。これからますます仕事も暮らしも多様化していきますからね」

⎯⎯⎯ 今話されたような考え方やビジョンなどは職人さんたちにも伝えているんですか?

「はい、伝えています。本人の希望でずっとうちに居たい人には、うちのやり方をしっかり教えます。逆に、例えば独立して経営者になりたい人に対しては、経営者の集う団体の会などにも一緒に参加して、必要なノウハウを教えています」

⎯⎯⎯ 基本となる大工技術がしっかりあってこそ、立ち振る舞いや考え方が重要になってくるんですね。のじま家大工店ならではの技術や強みとはどういったものでしょうか。

「古民家再生や普通の伝統構法も得意としていますが、ちょっと変わった建て方もしています。例えば、これは120mm角の材木で構成する建物で、ハシゴ状に組み上げていって材料が少なくても粘りと強度を持たせることができます。また大きな材料を使わなくて済むので斜面にも建てることができますし、材料の無駄も少ないです。大きな梁の建物も好きですが、この方法だと立体的で強度もあり、見た目も美しいので気に入っています」

120mm角の材木で構成された独特な木組み 写真提供:野島さん

のじま家大工店の礎となる古民家再生と伝統構法の事例を一件ずつご紹介します。


 

広島県福山市 M様邸 「囲炉裏のある家」

2019年完成。飛騨での経験を買われ「飛騨っぽい家をつくって欲しい」と施主のMさんからのご依頼。「理想の家を建てる大工を見つけるのに40年かかった」と言わしめたそうだ。当時30代後半だった大工が手刻みを志して1年で棟梁を務めた。

左:木部の塗装は古色仕上げ(ベンガラ・硝煙・柿渋)/ 中:赤漆に八角形の窓が特徴的だ / 右:左官さんこだわりの粋な意匠

囲炉裏を中心に設計された空間。使用している材木は広島県内産の桧と松。部位によっては杉も使っている。

M様邸の写真すべて:©︎Atelier Hue 田原康丞


 

広島県福山市 臨済宗建仁寺派 神勝禅寺

含空院(茶房)
2014年竣工。この現場を最後に野島さんは現場を離れた。滋賀県 臨済宗永源寺派大本山永源寺より移築再建した建物。元々は永和3年(1377年)考槃庵の名で建立され、当時の建物は永禄6年(1563年)に焼失。正保4年(1647年)に再興されて以来、歴代住持の住居及び修行僧の研鑽の場だったそうだ。移築に際しては天井裏の炭に到るまで持って帰り、解体は実に3ヶ月を要したとのこと。

破風:昭和の時代の増築のため、なくなっていた部分。建築当時の元来の姿を再現した。

上:心地よい風が吹き抜ける縁側 / 左:中からの眺めも素晴らしい / 右:今は茶房として湯豆腐やかき氷などを提供している

当時を振り返りながら、丁寧に説明してくれる野島さん

「古民家再生においては、古いままの状態を可能な限り忠実に再現・表現することが、のじま家大工店の得意とするところなんです。ボロボロだったところも修復して使えるようにしています(野島さん)」

戸袋:左がオリジナルで、右が野島さんが再現したもの。「柿渋を塗って色合わせには気を使いました。なるべく忠実に再現しています(野島さん)」

天井は浮造り仕上げ(うづくりしあげ:木の板・柱などの柔らかい部分を磨きながら削ぎ落として木目を浮き上がらせる仕上げ)になっていたので、全て番付して持って帰って浮造りし直した

左:柿渋の6回塗りの床 / 右:柿渋の10回塗りの床はさらに深い色合いだ

左:聚楽壁(じゅらくへき:京都西陣にある聚楽第跡地付近で産出された「聚楽土」に、藁・麻・スサ・砂・水などを混ぜ合わせた土壁):霧吹きで浮かせ、仕上げ・中塗り・荒壁と分けて持って帰り再現している / 右:この壁も同じく、霧吹きで浮かせて剥がして巻いて持って帰ったもの。「移築前のそのままのものです(野島さん)」

左:古い木材と馴染ませるために、新しい木材にはカンナを掛けた後に浮造りをして凹凸を出している。 / 右:敷居も丁寧に直して再び使えるようにしている

 

「傷んでしまって『こんなの使えるのか?』というようなものでも、新しいものと組み合わせて馴染ませてやったら息を吹き返しますよね。そこが古民家再生のいいところだと思います」


鐘楼

 

神勝寺で最初のしごとがこの鐘楼。山の頂上にあったものを4トン車で降ろして移築した。

懸魚(げぎょ:屋根の破風板部分に取り付けられた妻飾り)は反対側のものを忠実に再現する形で野島さんが彫ったそうだ。


慈正庵

 

こちらも2014年に移築を担当。

「小さいお堂だけど、当時の職人の技術が詰まっています。手鋸しかない時代によくここまで細かい細工ができたものだと感心しました」


⎯⎯⎯ 最後に大切にしていること、これから大工を志す人へのメッセージをお願いします。

「楽しめる職場・楽しめる仕事 をモットーにしています。どれだけ仕事を楽しめるか。どれだけ木を愛せるか。もうそれだけだと思います。気合や根性でどうこうなる時代ではないです。これからの時代を生き抜いていくためには、大工技術だけではなく人間性や交渉力など様々なことを身につけていかなければならないと考えています。技術だけでは舐められてしまいます。身につけた技術を十二分に活かして生きていって欲しいですね」

 

今回の取材では、ログキャビン【やまとCHAYA】についての話をメインにしようと予定していましたが、そこまでに至るまでの経緯を聞いていくうちに、確固たる技術と経営手腕に裏打ちされたビジョンこそが、野島さんのつくり出すものを成形しているのだと感じました。「これから先、どれだけ楽しみ、どれだけ木を愛せるか」と未来を語る時の野島さんは一際かっこいい。


株式会社のじま家大工店 野島英史(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

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