今回ご紹介するのは岐阜県飛騨市の”杣大工”、荒木昌平さん。山深い飛騨の集落に先祖代々受け継いできた 山林を活かすべく、自ら伐採・製材・家づくりまで一手に引き受け多岐にわたる活動をされています。精力的に活動する荒木さんに、その理由や想いを語っていただきました。
荒木昌平さん(あらき しょうへい・41歳)プロフィール
1983年(昭和58年)岐阜県飛騨市生まれ。大工工務店 樹杜屋あらべぇ代表。森林資源のフル活用を目指して、手入れのされなくなった先祖代々所有している16haの山林へ自ら入り、伐採・製材を行い建築資材・燃料を自給している。大工の他に、地域防災・里山保全・獣害対策など多岐にわたる山に携わる活動行っている。通称「あらべぇさん」。
⎯⎯⎯ 本日はよろしくお願いします。色々聞きたいことがあってうずうずしているのですが、まずはこの道に進んだきっかけを教えてください。
荒木さん(以下敬称略、愛称のあらべぇ)「大工の道を選んだ理由は、”ここ(飛騨市宮川町)に生まれた”ということが大きいです。この辺りは昔は飛騨の中でもかなり孤立した集落だったので独特な木造住宅が建ち並んでいました。その古民家は当時とても人気で移築するために何軒も解体されていて、高校生の時に解体現場にバイトで入ったのですが、現代の建築にはない、自然の形の木を使った作り方に感動したのを覚えています」
⎯⎯⎯ そこからの経歴も聞かせてください。
あらべぇ「高専に入学したんですけど、大工になりたくて1年で辞めて、通信制の高校に入り直しました。裏技みたいな生き方なんですが、高専は1年間で3年間の高校の普通教科を習うので、残りの高校生活はあまり勉強もせず試験にクリアできたので比較的楽でした。大工の修行をしながら、仕事もしながら高校も卒業したというかたちです。1999年(17歳)に地元の大工のもとに弟子入りし、2005年(23歳)に荒木建築を開業しました」
⎯⎯⎯ その頃、ご実家の建て替えをされたと資料にあるのですが、23歳の若さで!すごいです。そしてかっこいい!
あらべぇ「その頃から全国の職人の元を訪ね、手伝いをする中で研鑽を重ねて技術の向上に努めました。プロフィールにはそう書いていますが、割と遊びに近いような感じで各地で楽しく過ごしました(笑)」
⎯⎯⎯ 杣耕舎の山本さん(つくり手リスト)のところにも行かれいたと伺っています。
あらべぇ「そうなんです。2012年に刻みの手伝いで3ヶ月ほど伺っていました。和田洋子さん(つくり手リスト)が設計された福山の現場です」
あらべぇ「また、全国削ろう会(鉋削りをはじめ手道具や伝統技術の可能性を追求する会)でご一緒したご縁で、2011年に田中工匠(富山県・田中健太郎棟梁)に住み込みで1年間修行をしました。その時は雲龍山 勝興寺(国宝・富山県高岡市)の修復工事の現場で、はつりをする人が必要で呼ばれまして、ふつうの大工仕事ではなく、どちらかと言うと木挽き職人として働いていました」
はつり
手斧(ちょうな)を用いて木の表面を削り取る伝統的な加工方法。加工の際に刃物を木に打ちつけるような動作から「名栗(なぐり)」とも呼ばれている。
⎯⎯⎯ その1年間でどんなことを学ばれましたか?
あらべぇ「現代では通常の大工作業は、ある程度機械を用いるものですが、それを原木の丸太から角材に仕上げる作業を手道具でさせてもらえたんです。前挽大鋸(まえびおが)という大きいノコギリで木を挽いたりするのも、昔ながらの作業を再現するという文化財の現場ならではでした。自分のスキルを活かせる場面でもあったし特に面白かったです」
⎯⎯⎯ 古代製材と言われる製材方法ですね。
あらべぇ「そうです。それが大変なんです。文化財なので現場はめちゃくちゃ大きいんです。大工職人さんからら『幅8寸で6mの梁をくれ、6寸角で4mの角材をくれ』といった発注が来て、たくさん置いてある原木の中からちょうど適した木を探すところから始まります。鉞や前挽きなどの手道具で作業する訳なんですが、現場は機械で作業、こっちは手作業で必死にやって(笑)、もう朝から晩までクタクタでした」
⎯⎯⎯ 相当ご苦労されたんですね。
あらべぇ「僕は、職人の仕事は追いかけられるより、追いかける方が楽しいんですよね。現場で競い合っているうちに仕事が早く進んで、いい感じにまわっている状態というか。大量に注文が来ても単調な仕事なので、繰り返しやっていると要領を掴んで時間が縮まって精度も上がっていきます。この経験のおかげで丸太を削るのがめちゃくちゃ早いんですよ。
元々大工を目指していたんですけど、自分が大工だと思ってたのは、実は山仕事とか杣師・杣人と言われる職業だったんです。もちろん建築もすごい好きなんですが、それよりも山や木がすごい好きで、今やっているいろんな仕事に繋がっています」
⎯⎯⎯ そして2015年に大工工務店 “樹杜屋あらべぇ”を設立。
建築の仕事ができさえすれば、応援でも手伝いでもいいと思って活動してきて、大工として独立する気は全然なかったんです。でも応援に行った先の現場で、お客さんと会話したり提案したりしているうちに、頼りにされることが多くなってきました。それだったらいっそ元請けした方がいいなと考えて独立しました。
⎯⎯⎯ 独立されてからも杣師といいますか刻みの仕事が多いのですか?
あらべぇ「そうでもないですね。2015年〜2016年にかけては新築をやっていましたし、2016年〜2018年にかけても小さい工事を数件やっています。ただ、自分の中にこだわりがあって、”自分の好きな仕事しかしない”っていうポリシーがあるんで、仕事が連続して入っていることはないんです。
⎯⎯⎯ 不安にはなりませんか?
あらべぇ「仕事が切れる時は必ず切れますし、その時間が結構好きなんですよね。そうしている間にも山仕事はあるので、たとえば丸太を収穫したり体は動かしていますし、講演などのお話をする機会をいただいているので、大工らしい仕事はなくても何かしらの仕事はしています」
⎯⎯⎯ 側からみたら何やってる人だろう?みたいな人ですね。
あらべぇ「かなり遊んで暮らしているように見られているんじゃないですかね(笑)」
⎯⎯⎯ ホームページのプロフィールを拝見すると、様々な実演や講演をされてらっしゃいます。
あらべぇ「プロではない方に教えることは常に需要があって、職人も活きるし、社会的な業界の認知にも繋がります。まさに三方良しなんです」
⎯⎯⎯ 学校でも講演や授業をされてますね。詳しく聞かせてください。
あらべぇ「新潟県の新津工業高校という、日本の伝統的な木造建築専門の”日本建築科”がある工業高校に2018年にお邪魔しました。そこで先生をされている山崎棟梁から、『学生さんの間で、大工は宮大工だけが素晴らしいみたいな思い込みがある。住宅を建てる大工も目的に応じた技術を持っていて立派な仕事なんだ。そんなことを伝えてほしい』とお話しをいただき快諾しました。
【杣にはじまり木と土と 自然と共生する家づくり】と題して樹杜屋あらべぇの仕事をお伝えしました。鉞や釿・前挽きによる実演を終えると体験の時間、道具に触れてみたいと列ができるほどでした。木造建築の大工を目指している生徒たちなので、技術的なことに興味を持ってくれて、とても教え甲斐がありました。家づくりの大工でも手道具や技術を存分に使って楽しく仕事ができると知ってもらえたんじゃないかと思います」
⎯⎯⎯ 山崎棟梁には僕もお話を伺ったことがありますが、その時も同じような想いを感じました。中高生の多感な時期にいろんな選択肢があることを、リアルな社会人から学べることは大きいと思います。中学校でのお話も聞かせてください。
あらべぇ「2019年に飛騨の宮川小学校で『私が宮川で頑張ってきたこと』として授業を、2021年に飛騨の立神岡中学校で『僕が飛騨に住み続ける理由』として講演をしました。飛騨市の人口は2万人ほどで過疎化が進んでいて、経済を回していくにはなかなか難しい土地なんです。その状況に置かれた学生さんは例外なく『大きくなったら街へ出てお金を稼いで生きていくんだ』という考えで生活しているようなんです。
まずここに商売がない。だから生活ができないので街に出てお金を稼ぐ。真っ当な考え方ではあるんですが、そのことに気付いた先生が、声をかけてくださいました。『地元で自分で仕事を見つけて生きている人の話を生徒に聞かせてほしい。田舎って恥ずかしくないよ。この町に、この村に残るという選択肢を与えたい』んだと仰っいまして」
⎯⎯⎯ 先生の熱量が伝わってきますね。ご自身はなぜこの地を出なかったんですか?
あらべぇ「先生からも聞かれました。職務質問みたいに(笑)。考えたんですけど、『ここに生まれ育ったから』としか答えられなくて、自分でもそれ以上は分からないんです。とにかくこの村・地域がすごい好きというのは確かです。そしてたまたま自分が大工になりたいと思ったことと、地域に残る建築物が技術的にも価値のあるものだったこと、それらが偶然マッチしてここに留まる方法を見つけられた。そんなお話をしました」
あらべぇ「それから、ここが一番好きなのは、祭りで獅子舞があるからなんですよ!」
⎯⎯⎯ おぉ獅子舞ですか!意外な展開です。
あらべぇ「獅子舞は春の例祭にやるんですけど、その獅子舞に向けて1年間頑張って仕事してるような感じです。この辺りの集落が合併して、それまで同じ集落で5人ぐらいしか獅子舞ができる若者っていなかったんですが、20人くらいは集まれるようになったんです。そのメンバーでいくつもの集落の祭りを、『次はここ』『次はあそこ』みたいな感じで切り盛りしています。祭り以外でも会社やイベントの縁起物として呼ばれたりもしています。
それから、昭和40年代から途絶えていた獅子舞を復活させたり、笛とその旋律の復元もしました。当時のビデオを見て研究したり、当時やっていた人から所作を習ったりして。この地域が好き、祭りが好き。そんな人が結局残っている感じです」
⎯⎯⎯ 移住して来られた人は獅子舞に参加されるんですか?
あらべぇ「結構閉鎖的な村なのであまり移住の方はいないんですよね。他の地域ですが、幕末に引っ越して来た人でも新参者扱いされるとかされないとか(笑)でも一人参加されている方はいます。市としては移住者にものすごくウェルカムなのでこれから増えていくかもしれないですね」
⎯⎯⎯ 近くにあらべぇさんが建てられたり改修したりした所はあるんですか?
あらべぇ「ご覧の通り、築150年くらいの古民家ばかりがそのまま建っている地域なので、『石場建てで、土壁で、瓦屋根で建てるんです』みたいな話をしても、今と同じのはもういいよ。という空気感ですね。スニーカーを履く時代になったのに、また草鞋を履けっていうの?みたいな感じです」
⎯⎯⎯ なるほど。納得しました。
あらべぇ「なので、逆にここ(リフォーム中の事務所兼自宅。以降 事務所)はショールームとして見に来てもらえればいいかなと考えています。『飛騨らしい家を新築で建てられるんだ』ということをいろんな人に知ってもらって、仕事につながるといいですね。この地域に住みながら仕事ができるというのが僕の理想なんです。でも実はコロナ禍以前までは迷いがあったんです。20年くらい仕事をしていると、『お金を稼いで生きていければそれでいいかな』といって自分の気持ちに妥協しているところがありました」
⎯⎯⎯ 例えばどんなことですか?
あらべぇ「以前は裏山の木を使って建てていたんですけど、いつの頃からか材料を材木屋さんで買って仕事をするようになっていたんです。経済活動という意味では真っ当で悪いことではないんですけど、コロナになってちょっと立ち止まって考えたんです。日々忙しくお金を稼ぐだけってどうなんだろう。初心にかえってみようと。一度、建築の仕事から離れてみれば時間もできていろんなことができるんじゃないかなって」
⎯⎯⎯ 建築自体からも離れる。実際にその時間をどうされたんですか?
あらべぇ「事務所のリフォームを始めたり、新たに薪ストーブの販売を始めたり、あと裏山の開拓ですね。山から木を出せるように段取りができれば、自分が本当にやりたい仕事ができるようになります。高校生ながらに感動した、自然の形の木を活かした家づくりを、もう一度はじめからやってみたいと思ったんです」
⎯⎯⎯ 順番に詳しく聞かせてください。まずはリフォームについてお願いします。
あらべぇ「コロナの頃から、もう何年も改修しています(笑)他の方から買い取った建物で、1階は事務所兼自宅にして、2階は建築や山のことを知ってもらったりするための宿旅館業をやろうかなと思っています。飲食業の許可も取る予定です。また事務所部分はコンベンションルームとしての使用を考えています。
今年、テストケースで友達を呼んで、はつりのイベントを開催したんですが、2日間で延べ100人の方に来ていただきました。少ないスタッフでノウハウもないのに200食も作ってお皿も足らなくなって大変でした」
⎯⎯⎯ いきなりすごい規模ですね。
ここでリフォームの事例を2つご紹介します。
事務所兼自宅|飛騨市宮川町|改修中
天野邸|飛騨市|2017年
外も部屋境も建具で仕切るのが特徴。2部屋あった部屋を1部屋にして壁はなく建具で仕切っている。
⎯⎯⎯ 次は目の前で暖かく燃えている薪ストーブのお話をお願いします。
あらべぇ「輸入薪ストーブの販売事業は2018年にスタートしました。一般的なストーブが広葉樹の薪が必要になるのに対し、ここのストーブは針葉樹を燃料としています。先祖代々この裏山を所有していたので、いくら自分が建材として使ってもロスになる木が発生します。この山の木を燃料に使えたらいいのにと思い、色々調べていくうちにこのストーブに出会ったんです。『里山の保全をしながら暖を取れる』というのが自分の売り文句です。導入していただいた方のほとんどが、単に製品としてではなく、このストーブを使っている人たちのライフスタイル込みで好きになってくれています」
⎯⎯⎯ いやーいいですよね。我が家にも欲しいです。
あらべぇ「山に入って木を伐り始めて気づいたことなんですけど、当たり前ですが木って成長するんですよね。樹種ごとに成長限界というのがあって、その時期を迎えたらある程度伐ってやらないと成長が止まり、山の環境が悪くなるんです。人間が欲しい需要と供給のバランスとは別で、成長した分は伐採・収穫しなきゃならない。その時に燃料として使えるのって一番いいなと考えたんです。ストーブの他にも薪ボイラーの活用も見越しています」
⎯⎯⎯ 表にあった簡易製材機のこともお伺いできますか?
あらべぇ「ぜひぜひ。この村では昔、9割の男性が山仕事を生業にしていたらしいんです。ほとんどみんな杣師で猟師。自分が子供の頃に付き合っていた人はほとんど年寄りばっかりだったので、山の話をたくさんしてもらったのが影響したんだと思います。立木を見て『この木は何に使いたい』とか『あの木はあそこに使いたい』とか考えるのが好きで、杣師寄りの大工、”杣大工”として家づくりを楽しんでいます。なので、自分で製材できてしまうこの機械はうってつけだったんです」
暗くなる前に裏山を案内していただいた。
あらべぇ「以前は山に道がなかったので、1本の木を山から出すのに2日くらいかかって大変でしたが、コロナ禍の間に道をつくりました。仕事で木を収穫しようと思うと、道がないと木を出しにくいのですが、『道をつくる』と考えただけで手間が掛かりそうなので二の足を踏んでいました。
でも長い目で見ると、一旦道をつくってしまえば、あとはもう木を取り放題で(笑)、伐った後は道で作業ができるので安全でもあります。自分の山から木を伐ってきて、それで建築をするという夢を叶えるために、一旦仕事の手を止めて山づくりや所有林の状況把握に時間を使っている段階です」
⎯⎯⎯ 立ち止まる時間というのは、現代人にとって大切なんでしょうね。
あらべぇ「こっちの木を見てください。雪の荷重で木の根元が曲がって育つんです。雪国で育った木は雪国の家づくりに適しているので、やっぱりこれを使って家づくりをしたいんですよね。これを他の人に頼んだら、断られるかすごくお金がかかります。真っ直ぐな木ならトラックに20〜30本積めますが、曲がった木を積もうとすると何十本も犠牲にしなきゃならないんで」
⎯⎯⎯ だったら自分で山から出して自分が使うのが一番ですね。そして立ち止まってみて、今後はどんな家づくりをしたいのか教えていただけますか?
あらべぇ「最近は都市部からの移住者も増えてきているので、そういった方々に向けて、地域の文化や技術が詰め込まれた上で、現代人が住みやすい建売りの家をつくりたいです。昔はお客さんが大工のところに『家をつくってくれ』というと、『おぉ任せてみろ』といって建てて、出来上がった家に従って住むという感じだったと思うんです。それを家の周辺まで範囲を拡げて、『田畑があったり山林があったりする田舎暮らしを心配なく始められる家』として提供したいと考えています」
⎯⎯⎯ 結局それが地域の生活のルールや気候風土に適していて理にかなっている訳ですね。
あらべぇ「その先には『山で暮らす人を増やしたい』という想いがあります。現代人にとって山というものがあまりにも遠い存在になってしまった。ただ観光で訪れる場所ではなく、もうちょっと実生活に近づけていきたいです。これまで自分が培ってきた技術とか、山の知見・大工の知見を合わせると、山での暮らしをプロデュースするという役割を担えるんじゃないかと思うんです。山仕事で成り立っていたこの村は、山の価値がなくなっていくと同時に、村自体の価値も感じられなくなり、人が出ていってしまったという現実に直面しています。全国にも同じような場所がたくさんあると思います。もう一度、山に価値を見出して『山の復権』を先導していきたいです」
大工・杣師・薪ストーブ・簡易製材機・講演などなど、多岐に渡る活動をされている「あらべぇ」こと荒木さん。一見バラバラに見える事柄が、詳しくお話を伺って俯瞰してみると、その全てが『山の復権』を実現するための欠かせないピースとなっていました。そして、山、木、生まれ育った村に対する深い愛情が言葉の端々から伝わってきました。
なぜその行動をするのか。現代人はどうしても理由を求めたがります。「ただ好きだから」と堂々と言える大人がどれほどいるでしょうか。周囲から「あらべぇ」「あらべぇさん」と慕われるのが分かるような気がしました。
今回の伊藤松太郎さんへのインタビューは、つくりあげたばかりの木の家への往復路、車の運転中に行わせていただきました。日本の夏の暑さが厳しさを増すなか、長野や山梨の高原地には都心からの移住者も増え、伊藤さんの元にはそういった方々からのご依頼がくるそうです。
お父様が引退され、ひとりで家づくりをされるようになった伊藤さんに、高原地ならではの家づくりと節目を迎えた今の心境を伺いました。
伊藤松太郎さん(いとうしょうたろう・36歳)プロフィール
1988年長野県諏訪郡生まれ。一級建築士、大工。父の寛治さんが営む伊藤工務店の作業場を遊び場にし、大工たちの仕事ぶりを見ながら、自分も大工になることを思い描き育つ。物づくり全般に興味が広がり、母が美術大学出身でその影響もあって、デザインを学ぶため東京造形大学に進学。卒業後は埼玉県の綾部工務店で7年の大工と設計の修業を積み、故郷に戻り、伊藤工務店を継承。
⎯⎯⎯ 本日は、つい数日前にお施主さんに引き渡しをされた新築物件をご案内いただけるとのことで、楽しみにやって来ました。
伊藤さん(以下、敬称略)「僕も、みなさんにお見せできるのがとてもうれしいです。お施主さんが、公開をお許しくださったおかげですから、感謝しかありません。
そもそも、僕につくらせてくださったことが本当にありがたいことです」
⎯⎯⎯ どのような経緯でご依頼をいただいたのでしょうか?
伊藤「日本の伝統的な建築法をいかした木の家を建てたいというご希望で、ネットで調べられて僕の親方である綾部孝司(埼玉県・綾部工務店 つくり手リスト)さんに依頼されたんです。ただ、土地が長野県なのでとても通いきれないということで、親方が僕のことを紹介してくれました」
⎯⎯⎯ 信頼されているんですね。その親方のもとでの修行時代について教えてください。
伊藤「こうやって家づくりについて僕が語るなんて、怒られそうでちょっと緊張しています(笑)。建築士としても大工としても尊敬する、頭が上がらない厳しい親方です。
僕も大工になるなら、手刻みで木構造がちゃんと見える真壁の家づくりをする大工に絶対なるんだという思いがあったので、門をたたきました。
日本の伝統工法を守り伝える立場をとっていて、僕ら弟子にもそういった家づくりを経験させてくださいました。親方はもちろんですが、先輩との力の差にも悩み苦しんだ修業時代でした」
⎯⎯⎯ 美術大学を卒業されていますが、建築を学ばれたんですか?
伊藤「いえ、グラフィック・デザインです。うちのウェブサイトは大学時代の友人たちにつくってもらっているんですが、本来はこういう仕事につくための勉強をする学部ですね。
デザインも好きでしたが、デザインは設計でいかせばいい、やっぱり自分は技術を身に着けたいと思いました」
⎯⎯⎯ 大工さんの上下関係は、ちょっと恐そうなイメージです。何年くらい勤められたのですか?
伊藤「あ、怒鳴るとか、そういうのはないですよ! 一番厳しかった先輩は、僕が必死で木材を刻んでいたりすると、通りすがりに鋭い目線でスッと見て去っていくんです。これは、なかなかのプレッシャーでした。
できない自分と『これでもか!』というくらい向き合いながら、でもやらなければいけないという苦しい日々でしたね。
7年修業をして、実家の工務店に入りました。使い物になる頃には大工は独立しますから、それをわかっていて育ててくれる親方という存在には尊敬しかありません」
⎯⎯⎯ ご実家の工務店ではどのようにお仕事をされてきたのですか?
伊藤「大工工務店ですので、子どもの頃から見てきた、設計と施工を同時に受注するという父のような仕事の仕方を目指してきました。
昼間は父と一緒に大工仕事をして、設計まで任せてもらえている仕事に関しては、夜に図面を引くという形で働いてきました」
⎯⎯⎯ それはなかなかハードですね。
伊藤「設計というかデザインすることも好きですが、ずっと机にかじりついているのは苦手で。体を動かす大工仕事も楽しいです。親方も先輩たちも、そうやって仕事をしていると思います。
これからご案内する木の家は、じつは僕が初めてひとりで組み上げた家なんです」
⎯⎯⎯ 初めての経験や親方からの紹介と色々なプレッシャーが重なりましたね?
伊藤「そうですね。ただ、お施主さんが本当に素晴らしい方で、信じて任せてくださったことが有難かったですし、とても貴重な経験をさせていただきました」
⎯⎯⎯ 貴重というのは、とくにどのような経験ですか?
伊藤「セカンドハウスということでご依頼をいただいたのですが、まず最初に初めて見るような厚みの設計要望書をまとめをくださったんです。
まるで一級建築士の試験問題のようで、いえ、試験の時より緊張感がすごかったですが、ご希望に沿うための技術や素材を考え、めちゃめちゃ頭を使いました。
もちろん、同じ家のなかに同居させられない項目や、思い描いていらっしゃる家の姿や暮しぶりに近づくためには『このほうがいい』という工法や素材については提案・相談し、とことん話し合いました」
⎯⎯⎯ 家づくりはコミュニケーション力も試されるお仕事ですね。
伊藤「試されるというより、自分たち大工や設計はお施主さんにも育てていただいているんだなと感じました。僕には一般企業に勤めた経験はないのですが、もしも組織のなかの若手であれば、等身大以上の課題を与えてもらい、報告・相談し導かれながら成し遂げていくのかなと、想像したりもしました」
⎯⎯⎯ では、伊藤さんがつくられた家を拝見したいと思います。
伊藤「ここは、長野県のなかでも標高が高い場所で、雪が深く積もることは珍しいのですが、冬は本当に寒くて、マイナス20度まで下がります。そのため、“凍み上がり”という現象が起きます。
これは、霜柱が立つように、冬になると地面が持ち上がってしまう現象なんですが、その対策として基礎を地中奥深くまでつくる必要があります。
室外機などの設備機器を地面に直接置くと、これもトラブルになりがちなので、建物の側面に抱かせるように設置するといった配慮もしています」
⎯⎯⎯ たしかに、室外機が見えないデザイン、素敵ですね。他にデザイン上の特徴を教えてください。
伊藤「高原の別荘によくあるヨーロッパスタイルではなく、伝統的な木組みの家にしたいというご希望だったのと、雨や夏の直射日光が十分によけられるように、軒の出を深くしました。
主屋の屋根は、これもお施主さんのご希望で、瓦ではなく天然石の石葺きで景観への調和を目標としています。それらすべての重さに耐えられるように、設計してあります」
⎯⎯⎯ 重ね梁の母屋と呼ぶそうですが、屋根を支えている木も大きくてどっしりとしていて、規則正しく並ぶ様子が綺麗で見とれます。
伊藤「ありがとうございます。ここは自分でもとくに気に入っている仕事です。僕は木が好きで、いい木を使ってそれを表に出して見せたいという気持ちが強くあります。こういうところは、もしかしたら大学でデザインを学んだこととつながりがあるかもしれません」
⎯⎯⎯ 一階部分の広々としたデッキも、塗装されていない木がそのまま使われているのが印象的ですね。
伊藤「建物のなかでデッキはとくに雨風や雪で傷みやすい場所ですが、逆に傷みが生じてきたら、すぐに見つけて部分的に修繕できるようにという考え方でつくりました。
デッキに限らず、木材は必ず年月の間に縮んで、割れたり曲がったりということが、どうしても起こります。そのリスクは十分にお話しし、ご理解いただいたうえで、つくり始めますし、定期的に点検やメンテナンスをさせていただきます」
⎯⎯⎯ 一生のお付き合いですね!
伊藤「お施主さんと関係を深めていけることも有難いですし、家の成長、木の家の経年は劣化ではなく味わい深い成長につながるので、ずっと見続けられる喜びは大きいですね」
⎯⎯⎯ 高原地となると伝統工法のみというは、難しいですか?
伊藤「石場建、土壁は『凍み上がり』や『断熱性能』の観点から、この地域ではハードルが高いと思います。それでも素材をいかした木組みの家を建てたいという思いから伝統的な技法、例えば手刻みで加工する継手や仕口などを活用して仕事をしています。
僕は、県内でよく採れる赤松や唐松もよく使います。赤松は横架材である梁に、唐松は外壁やデッキ板などに使います。
この住まいも材料の半分以上は赤松と唐松を使用しており、『どっしりとした大黒柱や梁を』というのが、もともとお施主さんのご希望でした」
⎯⎯⎯ 赤松と唐松には、どういう特徴があるのですか?
伊藤「赤松は、ねじれなど変形しやすく難しい木ですが、杉や桧など同じ針葉樹の中でも強度が高く、梁によく使われるんです。
唐松は、赤松と同様クセの強い木ですが、水に強く腐りにくいので、雨がかかる外壁やデッキ板などに適しています。日に焼けると綺麗なオレンジ色に変わるところも魅力です」
⎯⎯⎯ 一階段部分にある、この排気口みたいなものは何ですか?
伊藤「これは、床暖房の温風の出口です。テラスに通じるガラス戸の前や、トイレやお風呂にもこの出口をつくってあります。
この住まいはオール電化で、床下エアコンでつくった暖気が循環して床上に上がってくる設計になってします」
⎯⎯⎯ 素晴らしい設備ですね!
伊藤「じつは僕は最初、無理ではないかと言ったのです。無垢の木の床で、想像通りに温風が動くのか、木への影響もわからなかったので。
そうしたら、お施主さんご自身が流体力学を研究されて、それをシミュレーション画像化して見せてくださったんです。さらに、『成功しなかったときは諦めるから、実験的にやってほしい』とおっしゃってくださったんです」
⎯⎯⎯ 伊藤さんにとっても初の試みなのですね?
伊藤「初めてのことです。まだまだ試行錯誤の中にありますが、優先すべきは住む人の快適さ、気持ちの豊かさですから、それを叶える新しい技術がありリクエストされれば、組み合わせていくことも必要だと思っています。ですから、本当に勉強になりました」
⎯⎯⎯ 薪ストーブもありますし、冬が楽しみになりますね! 大きな窓でサッシも木製で、とても優しい印象です。ここから見る冬の山や夜空は綺麗でしょうね。
伊藤「そうですね。この家で冬を過ごされことをとても楽しみだとおっしゃっています。
お施主さんは音楽もお好きで、大きなスピーカーを搬入されているのですが、ご自宅の鉄筋コンクリートのマンションと木の家での、音響のちがいも楽しみだとお話くださって、木の家が持つ可能性について僕も学ばせていただけるので、有難いです」
⎯⎯⎯ 搬入されている木の家具を見て、伊藤さんとお施主さんが興奮ぎみで話していらしたのが、微笑ましかったです。
伊藤「約2年間、設計や工程を見ていただきながら、僕が木の話ばかりするので興味を持ってくださったようで、今ではとてもお詳しいです。
家具職人さんは、その家具が置かれる場所も見たうえで、床や柱、梁の木材の種類や木目がそろうようにデザインしてくださって、こんなに幸せな仕事があるのか!というほどです」
⎯⎯⎯ 最後に今後の目標など伺えますか?
伊藤「こんなに素晴らしい機会はもう無いかもしれないと思いつつ、自分はさらに自分の最高を更新していかなくてはとも思っています。
親方から学んだ伝統技術を、次の世代に手渡すべき年齢になるまで、お施主さんと家づくりの機会を大切にしながら、僕は僕を必死に磨くので、成長を見届けていただきたいです」
【取材を終えて】
取材中にお施主さんは、厳しいはずの高地の冬こそ「楽しみ」とおっしゃっていたのが印象的でした。それはきっと、暖をとるための万全の設備があるからだけではなく、木の家の中にいることで、冬山と一体になるような静かな時間が待っていると、予感しているからなのではないでしょうか。
人に自然との一体感を与えてくれる木の家の魅力を、また改めて教わったように思いました。
伊藤工務店 伊藤松太郎さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
今回ご紹介するのは鳥取県の山下大輔さん。ご本人と同年代の職人さんに囲まれ、大工・設計・薪ストーブ事業を手掛ける山下さんは、どんなことを考え、どんな仕事をしているのか、あれこれ聞いてきました。
山下大輔さん(やましただいすけ・43歳)プロフィール
1980年(昭和55年)鳥取県生まれ。山下建築株式会社代表取締役。京都の建築の専門学校を経て帰省。父親が経営していた山下建築を継承し2018年に法人化。大工職人としてスタートし現在は設計や薪ストーブ事業も手がけている。
⎯⎯⎯ 山下建築の二代目でいらっしゃいますが、これまでの経歴を簡単に教えてください。
山下さん(以下敬称略)「建築士になりたかったので、高校卒業後に京都の建築の専門学校に入ったのですが、中退し鳥取に戻ってきました。そして父の知り合いだった重機関係の会社に入社しました」
⎯⎯⎯ 重機ですか!意外ですね。資格はいらないんですか?
「そこで“働くということ”を学び、資格もたくさん取らせてもらいました。その後に父のもとで大工修行を始めました」
⎯⎯⎯ 株式会社として法人化されたのはどういうタイミングだったのですか?
山下「2018年に父が病気で亡くなって急遽世代交代することになり、その機会に法人化しました。交代のタイミングは色々話し合って準備期間を設けていたんですが、突然だったので、数年間はバタバタでした」
⎯⎯⎯ それは大変でしたね。現在は何名くらいの方が働かれているんですか?
山下「法人化してすぐは3名でしたが今は若干増えて6名(大工5名、事務1名)です」
⎯⎯⎯ 順調に拡大されていますね。年齢層を教えてください。
山下「僕が一番上で、30〜40代の同世代ばかりです」
⎯⎯⎯ またまた意外!中心となって動ける職人さんが集まっていらっしゃる。お弟子さんの年齢層の空洞化で困っていらっしゃる会員さんも少なくありません。手塩にかけて育てた若い職人さんが、一人前になると巣立っていって… もちろん喜ばしいことではあるのですが、労働人口が少なくなってきているので、現実問題として厳しいという話をよく耳にします。
山下「そうなんですね。うちに来てくれているメンバーは今まで別の会社で働いていたり、個人でやっていたけど先を考えると不安だったりということで、声がかかることが多いです。僕自身は、父親と二人三脚で働いていた70代の方と父親に、大工仕事のほぼ全てを教えてもらいました。『おれは親方から習ったことをお前に伝える。お前は俺から習ったことを次の世代に伝えていってくれ。』と言われたのをよく覚えています。それをできるだけやろうと心がけています」
⎯⎯⎯ 求心力があるんですね。すごいことだと思います。
山下「いやいや。そんなことはないですよ」
⎯⎯⎯ 20年以上家づくりをされてきて、ターニングポイントになるような出来事があれば教えてください。
山下「“京都鴨川建築塾”ですね。仕事をはじめたばかりのころは怒られてばっかりで辞めたかったのですが、10年くらい経ってある程度現場を任せてもらえるようになって、設計に興味が出てきたんです。そこで、木造の設計や構造を深く教えてくれる“京都鴨川建築塾”に入塾して3〜4年通いました。そこから僕自身は設計や経営に力を入れて、大工仕事は大工さんに任せていくようなスタイルに変えていっています」
⎯⎯⎯ それはどんな理由からですか?
山下「他の地域はわからないですけど、鳥取だと工務店がまずあって、その仕事をする設計事務所がいて、大工がいるという分業の仕事が多いんです。そこを自分たちでトータルで行うことにより、施主様と近い距離でかつスピーディーにできると考えたんです」
⎯⎯⎯ 「大工さんに任せるスタイルに変えていっている」とのことですが、詳しく聞かせていただけますか?
山下「はい。現場ごとに担当の職人を決めて管理まで任せるようにしています。その方が意欲も責任感も出てきます。また、弟子を育成することはとても大切ですが、そこは施主様にとっては関係のないことなので、どれだけ仕事を上手に受けて、実際の仕事の中でやり方を覚えていってもらうというのが一番だと考えています。何でも自分でやれば早くできるかもしれませんが、近くまでしか行けれません。みんなとならゆっくりかもしれないけど、遠くへ行けると信じています」
⎯⎯⎯ なるほど。僕も一人で仕事をやっているのですごく響きました。では、施主様とのやりとりで気をつけていることはありますか?
山下「たとえば、断熱の方法ひとつとってもさまざまな考え方があるので、それぞれの施主様にとっての快適さ、イニシャルコストとランニングコストの配分など、実際に何十年もローンを支払う施主様の目線で深く考えるということを大切にしています」
⎯⎯⎯ ほかには何かありますか?
山下「もうひとつ転機となったことがあります。それは2017年に初めて自分で設計して建てた“賀露の家”です。施主様が求めていることと、僕がしたいこととがすごくマッチしたので、とても記憶に残っています」
賀露の家
ターニングポイントとなった思い入れのある住宅を案内していただいた。
⎯⎯⎯ 家づくりをする上でどんなことを大切にされていますか?
山下「お客さんと近いところで、密に仕事をするように心がけています。それから、あまりこだわりすぎて、自分の可能性を狭めないように気をつけています。もちろん何かを突き詰めていくことは素晴らしいことなんですが、“これしかない”とか“絶対これじゃないだめ”というスタンスだと、自分で可能性の間口を狭めている気がするんです。いろんなことに対して自分の中の判断基準や尺度は持ちながら、できる限りお客さんの要望に応えられる方がいいなと思っています。
ここだけは譲れないというボーダーラインは現場現場で決めているんですが、そこに至るまでの選択肢はなるべく多く提案できるように努めています。どのプランのどこがよくて、どこがイマイチなのか。そこをしっかりお客さんに説明できるようにしたい。そのためには自分自身もしっかり掘り下げて勉強することも欠かせません。そうすればどういう形であれ大工という仕事は残っていくと思っています」
⎯⎯⎯ ボーダーラインは具体的にはどんなことでしょうか?
山下「木の家ネットの会員の方々は当たり前のことだと思いますが、天然乾燥材を手で刻むこと。あとは断熱材にはエコボードを使用するというあたりですかね」
隼福の家
築約40年の住宅兼事務所を住宅として改築中の現場。活かせる柱や構造材は残しほぼスケルトンになっていた。ここからどうなるのか楽しみだ。
南吉成の家
外壁は鳥取の土を使ったオリジナルの左官壁。
吉方町の家
更地ではなく木が生えていた土地に木を活かしながら新築の住宅を建てていく。外壁はGUTEX社のエコボードに左官材料を塗り直接塗装している。
国府の家
平屋のような二階建て。
⎯⎯⎯ 話が変わるのですが、目の前にある薪ストーブが気になっています。代理店をされているんですか?
山下「はい。スペインのPANADERO(パナデロ)というメーカーのストーブで、国内ディーラーであるPANADERO JAPANの鳥取での販売店になっています」
⎯⎯⎯ 結構採用されているんですか?
山下「新築の場合は結構採用していただいていますし、商品自体の問い合わせも多いですね」
⎯⎯⎯ ガラス張りが特徴的ですね。どんなストーブなんですか?
山下「普段みなさんがよく目にするストーブは鋳物製だと思うんですが、これは鋼板製なんです。鋳物のストーブの場合は割高な広葉樹の薪が必要になりますが、これは日本中にある針葉樹を広葉樹のようにじっくり燃やせる薪ストーブなんです」
⎯⎯⎯ それはメリットが大きいですね。欲しくなってきました。薪の手配はどうされているんですか?
山下「林業の方とタイアップして手配しています。ここ鳥取もですが、日本中に杉や檜などの針葉樹がたくさんありますよね。林業の方がこの木を切る時に、根本1mくらいの曲がったり太さが均一でないタンコロと呼ばれる部分が出てきます。このタンコロは価値がないということで、通常は山に放置してくるんです。それを薪としてアップサイクルしようという試みです。
この針葉樹の薪を少しでも多く使ってもらえたら、お客さんにとっては安価で燃料を入手できることになるし、林業にもプラスに作用して山も整備されてくる。そんな地域内循環ができたらいいなと思っています」
⎯⎯⎯ これからのどんなことに力を入れていきたいですか?
山下「働きやすい職場づくりをしていきたいです。職人さんは基本的に社員として採用して、しっかり福利厚生や保障を充実させて、家族含めてみんなが安心できる会社にしたいです」
⎯⎯⎯ ありがとうございます。最後の質問です。山下さんにとって家づくりとは?
山下「家をつくるということは、誰かの一生に一度の大イベント。そこには大きな責任があるので、より深くより真剣に考えて作り上げていくことが一番大切だと考えています。そしてその責任を全うすること。それに尽きるのではないでしょうか」
人と人。人と自然。目の前にある関係を真っ直ぐに見つめ、実直に答え導き出そうとする山下さん。
その一言一言から、静かながら熱い想いが伝わってきました。
山下建築株式会社 山下大輔さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)
宮大工のお父様が守り続けた伝統の技術に誰よりも敬意と愛着を持ちながらも、「若い人に受け継いでもらえる形で残す必要がある。そのためにはバランスが必要」と言う濃沼さん。
新旧の時代の過渡期に立つためのバランス、設計士であり工務店の経営者であり大工の息子としての責任のバランスを保つために、技術と知識と誠意をフル稼働させています。
知的な話しぶりと時おり見せる木への偏愛ぶり、そのアンバランスさも何とも魅力的な濃沼さんのお話をどうぞお聞きください。
濃沼広晴さん(こいぬまひろはる・48歳)プロフィール
丸晴工務店代表。一級建築士。1975年、神奈川県生まれ。大学卒業後、3年間ゼネコン企業でビル建築の設計を行ったのち、父が営む丸晴工務店に入社、経営と設計に携わる。京都鴨川建築塾などに参加しながら木の家の建築について学び、その関東版である多摩川建築塾を立ち上げる。「大工の手仕事による木の家づくり」「安全性の数値データや工程の見える化」を行う工務店として確立させ、評価を高めている。
⎯⎯⎯ お父様の晴治さんは、市内最高峰の匠として川崎マイスターに選出されている大工さんですが、濃沼さんご自身は大工さんではなく、建築士となり経営者としても力を発揮されているのですね。
濃沼さん(以下、敬称略)「父は宮大工の修行を積んでいて、個人宅も手掛けていました。子どもの頃から現場の掃き掃除を手伝ったり、上棟式(棟上げを無事に終えられたことに感謝し、工事の安全を祈る儀式)といった職人が大切にしてきた行事に参加したりして、大工仕事の地道さと華やかな場面、人に喜ばれている様子を見て育ちました。
素晴らしい仕事だと思いますし、父をふくめた大工たちを尊敬してきました。でも、自分は目指しませんでした。
自社で設計施工ができる工務店を目指すために、また大工が気持ちよく思う存分能力を発揮して働けるよう、そういう仕事を出せる設計側の人間になろうと思ったんです。たぶん両親もそれを望んでいました」
⎯⎯⎯ ベテランから若い世代の大工さんまで8人もいらして、濃沼さんのマネージメント力の賜物ですね。
濃沼「今年、さらに2人が入社する予定です。ここ数年、弊社でお引き受けしている一戸建ての木造建築の数は年間で12軒。この規模で全棟手刻みをしている大工工務店は珍しいと思います。
これが限界なのですが、ありがたいことに若いご夫婦からご依頼いただくことも少なくないので、人手を増やし対応していく予定です」
⎯⎯⎯ 1軒につき、何人の大工さんが担当するのですか?
濃沼「1軒につき1人が棟梁として担当します。もちろん、フォローしあうこともありますが、そのほうがお客様と密にお付き合いして理想の家をつくりあげることができます。『大工は一棟刻んで年季明け』とよく言われますが、丸晴工務店では年季明けは3年から4年が平均です。全員が手刻みをおこない仕上げ、また家具工事までおこなうことができます」
⎯⎯⎯ やはり伝統的な工法を大切にされているのですね。
濃沼「刻みはリフォームや修繕にも必要な技術ですからね。
神社をつくることも、左官の土壁の土蔵をつくることもあります。ただ、『石場建てじゃなくてはダメ』とか、そこまで伝統的な構法にこだわってはいません。
木の家ネットの会員の方々の石場建てのお仕事を拝見するたび、本当にお見事で素晴らしいと感じますし、次世代にも残っていくことを願う気持ちはあります。一方で縛りを強くしすぎると、残せるものも残せなくなるのではないかと危惧しています。若い人の経験を増やすために、ある程度の軒数を建てられるよう、“伝統と今”をどこで切るかというバランスをいつも意識しています」
⎯⎯⎯ 未来というか時間軸のことを頭に置いて仕事をされているのですね。
濃沼「僕は40代後半なんですが、この世代が重要なポイントで、ここから下の世代になると一気に伝統的なことを知らない人が増えると感じています。だから、僕ら世代が何かしなくてはという責任感のようなものを勝手にいだいています。
この時間軸を縦の線だとすれば、僕は横の線についても思うことがあるんです」
⎯⎯⎯ 横軸ですか? どういったことでしょうか?
濃沼「人と人とのつながり、協力関係とでもいうのでしょうか。
例えば、丸晴工務店のやり方を他の工務店に話したりするというのは、昔は敵に手の内を明かすみたいな感じがありました。けれども、今はみんなで協力しあうべきだと思っています。
今の時代、自分たちだけよければいいと言ってはいられません。お客様が満足しない仕事をする工務店が多くなって『工務店はだらしない』というイメージが根付き、家づくりはハウスメーカーに任せればいいとなってしまっては困るんです。
全国各地域に住宅について相談できる工務店がしっかりしていれば、そこに安心感が生まれますよね。ですから、地域にある昔からの大工工務店には残ってもらいたいのです」
⎯⎯⎯ なるほど、住む人の安心も考えてのことなのですね。
濃沼「もっと言ってしまえば、街のことも考えて、です。地元に大工工務店がなければ、その街に存在する地元の神社仏閣も、稲荷社殿などは誰が修繕するのでしょうか。しっかり維持されている街の景観は魅力的です。景観が魅力的なら、人も集まるでしょう?
家をつくり、地元の神社仏閣、稲荷社殿を修復し街の伝統を守るのは、大工工務店の仕事だと自負していて、地域の工務店同士が協力し合って、あらゆる地域を素敵にして、日本全体が素敵になればと思うんです。
そのためになればと、弊社では学びと情報共有の場をつくっています」
⎯⎯⎯ 学びの場とは、どのような内容ですか?
濃沼「僕は設計も大好きで、自分ももっと学びたいという思いから『多摩川建築塾』という名前で勉強会を開いています。自社設計で施工できるのは、工務店にとって一番強いので、設計力は学び高めないといけませんから。
元々は京都にあった、植久哲男さんという建築雑誌の元編集長が塾長をしている京都鴨川建築塾の関東版でして。植久さんのご協力のもと6~7年前にスタートさせたんです。藤井章さんや山辺 豊彦さん、堀部安嗣さんといった著名な建築家の方々を講師にお迎えして学ばせていただいています。
ネットで受講者を募集するので、建築士だけでなく学生さんも来てくださって、一緒に学べるのはとてもうれしいことですね」
⎯⎯⎯ とくに濃沼さんにとって印象的だった講義の内容は何ですか?
濃沼「みなさん素晴らしい先生方で、たくさん学ばせていただきましたが、やはりそうだよなと思ったのは『庭と建物っていうのは絶対に一体だ』という言葉でした。
関東だと庭をつくるとなると、造園屋さんか外構屋さんか植木屋さんになると思います。外構屋さんっていうのはブロックを積んだりとか、コンクリートを打ったり、主にメーカーの既製品を使用します。植木屋さんは、今では公共事業を主に行っており個人邸はあまり仕事をやらない。造園屋さんに依頼すると一気に金額が上がるので、一般家庭ではなかなか依頼できません。
なので、うちでは毎回、設計と大工とお客さんみんなでつくるという感じになっています」
⎯⎯⎯ みんなで庭つくりなんて、楽しそうですね!
濃沼「そうですね。お客様も楽しんでくださいますし、喜ばれます。
庭って、ある程度以上になったらプロに任せなくてはいけないですが、そもそも日々の手入れが必要で、その手入れをする人が、つくりながら木や花の特性を知っておくほうがいいです。枝の剪定や水あげのやり方とか。
木を選ぶ時もペットのようなイメージで、育てられるか可愛がってあげられるか考えて、厳しければ1本だけにしておくとか、そういうお話もしています。理想と現実のバランスは大事なので。
家と庭は一体で、ここを一緒に考えられるのも大工工務店のよさだと思うんです」
⎯⎯⎯ 家を建てる素材が木ですし、木にお詳しいですものね!
濃沼「庭木についての知識は造園屋さんや植物の専門家ほどではないです。建築に使用する材木に関しては木材マニアというかオタクでして。日本っていい木が育つ有数の国で、この国に生まれて幸せだと心から思い感謝しています。
杉もすごくいい木なんですけど、うちは檜(ヒノキ)をメインに使う工務店です。檜が年を重ねて飴色になる、その様子は本当に綺麗ですよね。油の多い木ならではです。造作家具も檜をメインに使用してます。
ヨーロッパも建材や家具に木を使いますが、基本的には広葉樹でそれを塗装して使う文化です。日本だけですよね、自然の木の飴色を美とする文化というのは。その美を住宅にも表したい、その思いで仕事をしています」
⎯⎯⎯ 檜は香りも素晴らしいですよね。ただ、木の中でも高価なのでは?
濃沼「決してそうじゃないんです。みなさん、外国製の木の家具を好む方は多くて、日本の木で家具をつくると、なんとなく民家っぽくなると思われがちですよね。
実際はデザインをしっかり考えれば北欧家具にも負けない魅力がでると思います。色だけでなく木目もきれいで、軽く、使い心地は檜が断然上! 金額も檜のほうが全然安くて、 3分の1くらいなんです。
使い心地、試してみませんか?」
⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは同じデザインの椅子2脚を用意して)
濃沼「これはフィンランドのニカリという家具メーカーの椅子、もう1脚は京都にいらっしゃる二カリのライセンスを持っている方が檜でつくったものです。ちょっと面白いので体感していただきたいんですが、座ってみてください」
⎯⎯⎯ あれ⁈ 全然ちがいます。檜の椅子の座り心地は、すごくお尻に優しい!
濃沼「そうでしょう? うちは家具も大工仕事としてつくっていて、使い心地のよさはお客様からもお墨付きです。ましてや檜で家をつくれば、心地よさはお尻に限らず全身で感じられるんですよ。こんなに素晴らしいものがあるのに、外国から木材をガンガン輸入するなんて、もったいないというか悔しいというか…」
⎯⎯⎯ 輸入に頼らなければならないほど、生産量が減っているということは?
濃沼「確かに林業も後継者不足で厳しくなっていますし、木材は杉が中心的存在です。けれども、檜の山もちゃんとあるんです。例えば木曽福島は檜の有数の山で、樹齢250年とか300年の木もある。国有林じゃないところでも、樹齢80年から100年レベルでものが結構多くあります。
国有林は通常は切れないのですが、丸晴では天然の木曽檜を数多くストックしてます。
材木屋さんと密にお付き合いをしていますから、そういう木が出たと聞いたら、飛んで行って買っておくんです。
ストックというかうちの木材コレクション、ご覧になりますか?」
⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは作業場兼木材置き場を案内して)
濃沼「秋田杉、春日杉、霧島杉、屋久杉、欅、木曽檜、水楢、栃など様々な材木をストックしてます。
丸太と言ったら京都の北山が有名なんですが、これはその北山から買った丸太です。
これ、これね、黒柿なんですよ。床柱で使用した端材ですが、黒柿って最高級の材料ね。
今、杉板を焼いた焼杉という木材が外壁で流行っていますよね。
木曾檜って、わかりますか? これがそうで、目がすごい細かくて檜の王様って言われています。飴色になるとね、宝石みたいな光を出して始めるんです。見せたいなぁ」
⎯⎯⎯ こんなに大量の木材をストックしたり、作業場もいくつもお持ちになられて、維持するだけでも大変ですね。
濃沼「正直大変です。けれどこれらの材木を手放したら、再度持つことは難しいので必死に守っています。
先程、大工工務店を残したいと言った理由もここにあります。作業場の貸し借りなんかもしているのですが、とにかく広い土地が必要なので、大工工務店も減ることはあってもなかなか増えることはありません」
⎯⎯⎯ 失われつつあるのは伝統技術だけではないということですね。
濃沼「大工とは切っても切り離せない材木屋や山の製材所も、みなさんご存知のとおり減っています。木材を積極的に買い付けるのは、少しでも減少傾向を止めたいからでもあります。
ストックはよくないという方もいらっしゃいますが、本来、木材は何百年ももつものですし、お客様に安価で提供できます。一緒に一点物である木材を選ぶ楽しさもあり、弊社の1つの強みになっていると思います」
⎯⎯⎯ 確かに、「この木がどんなふうに料理されるんだろう」って思ったら、ワクワクするでしょうね。何とも魅力的な強みですね!
濃沼「素晴らしい素材を、持ち味を生かして、腕のいい職人が薄味で提供する。これが一番。大工の仕事は寿司職人とも共通していますね。
さらに強みを増やそうと、今、檜ショップを準備中なんです」
⎯⎯⎯ 御社の社屋のおむかいにある建物ですね? 素敵だなって思ったので、すぐにわかりました。
濃沼「そうです。NCルーターっていう木材の加工用の機械を購入しましてね、それで食器から色々な小物をつくっていく予定です。木の食器や小物類は、可愛いですし、赤ちゃんが触れても安心だし。
身近なところから木のよさっていうのを訴えていって、いつかは木の家に住みたいと思っていただく、その流れをつくっていこうと思っています」
⎯⎯⎯ 先ほどから、道行く人が檜ショップの中を覗き込んでいますね。まだオープンしていないのに。
濃沼「壁も床も檜でできていますが、現代的な設計なので、何だろうと思ってくれているのでしょう。壁をできるだけガラス張りにして、中もよく見えるように設計していますから。地元の人、特にここは小学校の登下校道なので、子どもたちのワクワクにつながったらうれしいですね。
もちろん商品を買ってもらって、少しでも大工の収入アップをしたいと思いますが、子どもたちにモノづくりの仕事って素敵だな、やってみたいなと思ってもらえるよう、僕も素敵な建物の設計、商品の企画デザインを頑張っていくつもりです」
有限会社 丸晴工務店 濃沼広晴さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
コロナ禍を経て訪れた京都には観光客が溢れ(特にインバウンドの方の多いこと!)、活気に満ちていました。その人気を支えている理由の一つが、京都らしい町並みを形成している京町家の存在です。
今回ご紹介する大工棟梁の大下さんは京町家一筋。京町家に対する想いや魅力を語っていただきました。
大下尚平さん(おおしたしょうへい・43歳)プロフィール
1980年 京都府生まれ。株式会社大下工務店代表。京町家の復元改修、祇園祭の山・鉾組立などを通じて先人の大工の技術力の高さや知恵、そして作法を日々学んでいる。それらを自身の建築に活かし、“出入りの大工”を目指している。
⎯⎯⎯ はじめまして。早速ですが経歴や大工の道に進んだきっかけを教えていただけますか。
大下さん(以下敬称略)「父親が大工で毎日楽しそうに仕事をしていたので、それを側で見ていたら自然と自分も同じ道を歩むことになりました。トラックに乗せてもらっていろんな所に連れていってもらったのが楽しかったですし、刻み場として借りていた材木屋さんで、大きい丸太がその場で製材されて柱になって、父親が墨付けをして刻んでいくっていう流れを見るのがすごく面白かったのを覚えています」
⎯⎯⎯ 二代目でいらっしゃるのですね。大下工務店の始まりについて少し伺いたいです。
大下「大下工務店は、山口県から出てきた父が京都で大工修行を積み独立したのが始まりです。元々のお客さんが少ない中、僕ら三兄弟を食わしていかないとならなかったので大変だったと思います。当時は手刻みからプレカットへの過渡期で、うちはギリギリ墨付け・手刻みをしていましたが、父親からは『お前が墨付け覚えたらプレカットに変えるわ』みたいなことを言われていました。そんな時代ですね」
⎯⎯⎯ しかし今ではプレカットどころか、伝統的な京町家の改修を専門にされていますが、どういった変化があったのでしょうか。
大下「僕が父親と一緒に仕事をするようになった頃、仕事を組んでいた仲間や会社も徐々に代替わりしていき、同じ繋がりややり方だけをずっとやっていては立ち行かなくなると思い、僕は『手刻みで京町家の仕事を専門にするんだ』とグッと方向転換しました」
京町家
京都市内の昭和25年以前の木造住宅を「京町家」と呼ぶ。特徴は間口が狭く奥行きが深い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれる間取りで、商いと住まいを同じ建物で営む「職住一体」を基本とする。 実は「京町家」という言葉は昭和40年代の民家ブームの際に造られた造語であり、江戸時代には、町にある建物は形や生業に関わりなく「町家」とされていた。(出典・参考=Wikipedia)
⎯⎯⎯ ターニングポイントとなるような出来事があれば教えてください。
大下「25歳のとき、京町家作事組が運営している棟梁塾に入ったことですね。専門学校を出た後、うちの仕事も忙しかったので父の元で、“外の世界を見なあかん”とあちこち応援に行かせてもらっていたのですが、やっぱりそれだけではまだ狭い中にいるなと感じていました。そしてちょうどいいタイミングで棟梁塾の募集があったので、“これだ!”と申し込みました。
塾長であるアラキ工務店の荒木正亘棟梁、大工の金田さん(木の家ネットつくり手リスト)、大工の辻さんとの出会いが一番大きいターニングポイントだと思っています。この時、金田さんから木の家ネットのことを教えてもらいました」
⎯⎯⎯ 具体的にはどういったことを学ばれたんですか?
大下「京都で長年仕事をされてきた大先輩の棟梁から教わりました。継手や仕口などの大工技術の話ばかりではなく、広く浅くというと語弊があるかも知れないですが、『京都で棟梁としてやっていくには』ということを網羅的に学びました。大工のことももちろん学びますが、家づくりに関わる他職(襖屋さん・建具屋さん・左官屋さん・瓦屋さん・手傳さん・畳屋さん・板金屋さん・設備屋さんなど)の職人さんが、どういう仕事をしていて、どういうグレードの仕事があって…という話が主でした。
京都ならではの色々な老舗の職種の方、大店の旦那衆の方、沢山の借家をお持ちの大家さん、歴史ある花街のお母さん、お茶やお花の先生や、ものづくりの職人さんなどなど、いろんなお施主さんがいらっしゃいます。そういった方々と対等に会話するためには、広い知識・教養を持ち合わせていないと棟梁としてやっていけないんです。だから『お茶やお花も興味がないです』では通らないし、行儀が悪いと『大工さんチェンジ』ってなります(笑)ほんまに僕らのことをよう見てはる。でも、そんな中で信頼してもらえたら嬉しいですし、やりがいのある仕事につながりますね」
⎯⎯⎯ 京都ならではですね。お茶室のお仕事も手がけられるんですか?
大下「それがですね、今ではお茶室の仕事も少なからずいただいていますが、最初はもう全くわからなくて苦い思いをしたんです。というのが、この棟梁塾を運営している京町家作事組の事務局の改修に携わることになり、お茶室の炉を切ることになったんです。
天井から炉の中心に“釣釜”を下ろさなければなりません。そのためには天井に釣る“釜蛭釘”の位置を厳密に決める必要があります。ところが流派によって蛭釘の向きが違うんです。でも僕はお茶のことを全く知らないから、設計士さんとお茶の先生の会話について行けず、棟梁なのに蚊帳の外で釘一本打てなかった。もう大ショックでした。
『何のための棟梁やねん。これじゃ棟梁とは名乗れない』と思い、いよいよ茶道を習い始めたという訳です。そのときに荒木棟梁が言っていたことの意味が解りました」
京都市中京区釜座町|2011年
京町家の改修・修繕に携わる設計者・施工者が集まる技術者団体で、大下さんが学んだ棟梁塾の運営も担う。現在は大下さんが代表理事を務めている。明治時代の建物を大下さんを中心とした棟梁塾のメンバーで改修した。ターニングポイントとなった思い出深い場所、京町家作事組だ。
結構傷んでいた上に、京町家にそぐわないプリント合板のフローリングなどでリフォームされていたという建物を、何事もなかったかのように京町家然とした佇まいに生き返らせた技には脱帽だ。
⎯⎯⎯ 京町家と、いわゆる木の家・伝統建築とは一味も二味も違いがあって、そこがとても興味深いです。大下さんにとっての京町家の魅力とは何でしょうか。
大下「京町家は本当に面白い。碁盤の目のように区画された通りがあり、限られた土地にひしめき合って建てられた江戸時代の都市型住宅です。
大工目線で言うと、江戸時代の職人たちの知恵が詰まっているところが魅力ですね。狭小地において外から工事できない場合にどうやって内から工事するか。例えば数軒立ち並んでいる家のうち、真ん中の家が火事になったとしても、もう一回そこに同じサイズの家を隙間なく建てなきゃならない。それをやって退けてきたのが尊敬する京都の大工や職人たちです。
それと、京町家が好きなもう一つの理由が、苦労の跡を残さないところです。例えば、改修現場に入った時に、根継ぎにしてあるところを表から見たら『まぁシュッと一文字に根継ぎしてあるな』という感じなんですが、裏にまわってみたら実はすごい仕口がしてあったり。すごく立派な町家でも派手な装飾や晴れがましい職人の技を見せびらかさずに、しっかりと手間はかけてある。何かわびさびを感じさせるような佇まいがあるんですよね。
住む立場で言うと、耐用年数が長いことも魅力ですね。今の一般的な家の寿命が30〜40年くらいだとして、京町家や昔ながらの木の家の寿命は50〜100年。しっかりオーバーホールしてやれば、また50年100年と保ちます。昔の家って木竹と土、藁や紙や草など、自然に還るもので作ってあって、それしかなかったというのもあるかもしれないけど、やっぱりその造りが基本であり正解なんだと思います。SDGsに関しても、やっと周りが気づいて振り返ってもらえるようになってきて『今更?』という感じではありますが、振り返ってもらえる人や、選択肢として考えてもらえる人が増えるといいですね」
⎯⎯⎯ 母校の高等技術専門校で教壇に立たれていたそうですね。
大下「昨年と一昨年、教えに行っていました。僕が学生の頃は“伝統的な日本の家屋”と言うものは学びましたが、“京町家”なんていう言葉は一言も出てこなかった。それが今の子たちは京町家がどんなものなのかかなり理解しているし、『大切にして残していかないとダメだよね』という意識を持っているなと感じています。20年でそういう考えが地域全体に根付いたんだなと実感しています」
京都市下京区松原通|2019年〜継続中
五軒長屋の住居部分と9つの店舗が入居するテナント部分からなる町家集合体として人々が集っている。2019年のA工事以後、現在に至るまで継続的に改修を行なっており、京都らしい街並みが形成されている。京町家の魅力がギュッと凝縮された場所だ。
京都市中京区壬生馬場町|2022年
大下工務店が事務所としている京町家。吹き抜け部分に二階が作られ子供部屋になっていたが、建築当初の痕跡を辿り、元の準棟纂冪を復元した。通りからは想像できない大きな空間が広がる。
準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)
お寺に準じる小屋組の意味。大店の火袋で側つなぎの上に牛梁や小屋束を見せる架構をいう。水平垂直の変形には効かないが、大型化した町家での2階荷重のバランスを整える意味をもつ。(出典:京町家作事組WEBサイト)
⎯⎯⎯ 京町家であるが故に大変なことはありますか?
大下「昭和・平成くらいの時代に一度改修してあって、鉄骨でフレームを組み直しているような京町家が結構あります。当時は最先端の技術と称され良しとされた改修であっても、またそれを元に戻すような作業が必要になり、改修の改修をするという無駄なことをしなければならないので、本当に勿体無いなぁと思います。開けてみると通し柱や大黒柱を切っちゃっていて、『これ直すんやったら一から建てたほうが…』ということもありますが、『直せへん京町家はない』と僕は言い続けています。どんな京町家でも柱が一本でも残っていたら直せる。そう考えています。
⎯⎯⎯ 大切にしていることやモットーを教えてください。
大下「“出入りの大工になる”ということをとても意識しています。仕事を始めたばかりの頃はお施主さんと密な関係を築くような機会が少なかったんです。やっぱり手がけた家を長いこと見ていかければならないという責任感があります。また、大きな改修をする際は、住みながらでは難しい工事も多く、タイミングがとても大事になってくるので、日頃から出入りしてメンテナンスしていれば、その時期を見極めやすくなります」
⎯⎯⎯ かかりつけ医みたいな感じですかね。近くにいると心強いでしょうね。
大下「そうそうそう!ちょっとした雨漏りとかも、放ったらかしてたら絶対あかんことになるし、白蟻も呼ぶことになる。そういうところを見つけたり、反対にこうした方が長く保つという方法を見つけて提案したりしています」
⎯⎯⎯ 木の家ネットなので、木のとこについて伺います。木材へのこだわりや想いを教えてください。
大下「こういう仕事なのでもちろん僕も木が好きで、金田さんから木に対する知識や買い方などを教えてもらって市に行ったりもしています。以前は『いいグレードのものや珍しいものも集めておかなあかん』と思っていましたが、最近はちょっとこだわりも緩くなってきました(笑)『これじゃないとあかん』ではなく『あるもんで建てる』という精神が京町家には息づいていますし、無理して高価な木を手にいれるというのは減ってきました。
棟梁塾で教えていただいた「千両の大店も裏は古木」という言葉のとおり、京町家は建築時から転用材や古材が沢山使われてるのと、近くの山の杉や桧や松の材木が主に使われてます。とはいえ、グレードの良い家にはグレードの良い木が使われているわけなので、そういう木や仕入れルートは持っておかないとならないですが、地場にある木を使って建てたり直すことが大事だと最近は思っています」
⎯⎯⎯ これからの構想や展望などがあれば教えてください。
大下「京町家を新築で建てる。これですね。技術的にも材料的にも、僕らの周りの大工さんや職人さんなら、もういけるという自信はあります。あとは京都市内でそれを実現するためには法的なところを行政と一緒にクリアしていかなければなりません。これは京都の建築業界・工務店業界全体の展望になるのかもしれませんね。
“平成の京町家” “令和の京町家”ではなく、120年前に建てたものと同じ“本物の京町家”が、同じ工法で京都の町中に建てることができたらいいなぁ。町並みが戻せたら一番いいですね」
⎯⎯⎯ 素晴らしいですね、ぜひ見てみたいです。最後の質問です。大下さんにとって京町家とは何でしょうか。
大下「んー難しいですが、京町家は連綿と続いてきた先人の知恵と伝統的な匠の技術の結晶だと思うんです。そしてそれを直すことによって最初に建てた大工さんや直してきた大工さんと会話している感覚が生まれます。そこがいいと思うなぁ」
京都の歴史が刻まれてきた京町家。そこには建築物としての価値だけではなく、自然との共生、環境配慮、職と住の融合、コミュニティなど、私たちが見つめ直すべき暮らし方や魅力が詰まっている。大下さんはそんな京町家の改修に情熱を燃やし、さらに新しい価値観とともに京都の町並みを次の世代に伝えようと奮闘している。
しかし決して苦労話にしてしまわないのが大下さん。さすがは京都の棟梁だ。
大下工務店 大下尚平さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
兵庫県丹波市。田園風景の広がる山間に、ポツンと目を引く古い校舎のような建物がある。ここが今回ご紹介する大工 高橋憲人さんの自宅兼事務所だ。ワクワクしながら玄関の戸を引いた。
高橋憲人さん(たかはしのりと・42歳)プロフィール
1980年東京都生まれ。大髙建築代表。立命館アジア太平洋大学を卒業後、古民家の持つ木組みの知恵と生命感あふれる住まいに魅せられ大工を志す。Iターンで兵庫県丹波市に移住し旧校舎の自宅に手を入れながら奥さんと3人の子供と暮らしている。子育て世代をはじめ、誰もが健康的に暮らせる、木と土のシンプルな家づくりを提案している。
⎯⎯⎯ 大工を志したきっかけは?
高橋さん(以下、高橋)「大学に入るまでは大工になろうとは全く考えていませんでした。大学時代のある経験があったので大工の道に進みました」
⎯⎯⎯ 建築とは全く関係のない大学出身と聞きましたが、どんな経験だったのですか?
高橋「環境社会学のゼミを専攻していました。川の流域問題に興味を持ち《川と人との関わり合い》を題材に卒論を書いたのですが、在学中に京都のNPOにインターンシップに行くことになりました。そこで桂川流域の水循環や森林の抱える課題を知りました。中でも衝撃を受けたのが《森の木は間伐するけど、切り倒しても何にも使われない》ということでした。どうにかしたいと思いましたが、このNPO自体がその年に京都で開かれた《世界水フォーラム》で発表するための団体だったので、フォーラム後には敢え無く解散してしまいました」
高橋「せっかく地元の人との繋がりができ、課題解決のために話し合える土台もできつつあったのに、そのまま終わってしまうのが嫌でした。そこで同じ関心を持っていた方と一緒に別の団体を立ち上げたんです」
⎯⎯⎯ 在学中にですよね。すごいですね。なんという団体ですか?
高橋「森守(もりもり)協力隊です。そこで間伐材で炭焼き(木炭づくり)をする活動を始めました。 小屋づくりをしたいという想いもありましたが、その頃は丸太をどのように扱えばよいのかさえ分かりませんでした」
⎯⎯⎯ 森守協力隊は今も活動されているんですか?
高橋「はい、続いています。今は森のようちえんという体験型の保育活動なども行っていて、その活動の一環として2020年に久々に声をかけてもらいツリーデッキを作りました」
森守協力隊の情報はWEBサイトでご確認いただけます。
特定非営利活動法人森守協力隊 WEBサイト
高橋「間伐材の話に戻りますね。間伐と言っても結構太い木なんです。『これなら家が建つやん』『じゃあ家を作ったらええか』『とりあえず、小屋みたいなものを建ててみたいけど、何から始めたらよいんだろう?』と自問自答しモヤモヤしていました。その頃に出会ったのが金田さん(金田克彦 つくり手リスト)でした」
⎯⎯⎯ 金田さんとの出会いについて詳しく教えてください
高橋「インターンの同僚の下宿先が、金田さんの建てた家でした。《落とし板工法》と言って、簡単に言ってしまえば、柱と柱の間に板を落としたら完成みたいな家で『そんなんありなんだ!?』と衝撃を受けました。東京郊外の家だらけの街に育って、木の家に触れること自体が少なかったので余計にですね」
高橋「早速、金田さんを紹介してもらったんですが、初めて見せてもらった現場が、山の中の小さなアトリエを建てているところでした。金田さんは山の中で一人で泊まり込みで刻んでいて、『これどうしようかな〜』とか言いながら、その場で決めて建てていっていたんです。『設計図があって、それに沿うんじゃなくて、自分で判断して作っていくんだ。自由でいいなぁ。面白そうだなぁ』と感じたんです」
高橋「それから二回三回と足を運ぶうちに、段々と大工という仕事をやりたいなと思うようになり、金田さんに弟子入りを申し入れました。ですが『手は欲しいけどズブの素人は無理やわ〜』と断られました。そりゃそうですよね(笑)。それで『職業訓練校に入って基本的なことが身に付いたら考えてやってもいい』ということになったんです」
高橋「そして一年間、訓練校に通った後、晴れて弟子入りさせてもらい、大工としてのスタートラインに立つことができました。それから六年間の修行を経て独立しました。もともと金田さんの自由な働き方・生き様に憧れて弟子入りしたので、独立することに金田さんも理解を示してくれて、最後の一年は見積もりなど経営に関わる業務にも携わらせてもらいました。そのおかげで独立後にスムーズに仕事が始められました。金田さんには本当に感謝しています」
⎯⎯⎯ 今年でちょうど10年ですが、振り返ってみていかがですか?
高橋「最初は施工事例もなく不安でしたが、お客さんに恵まれ、今ではほとんど宣伝や営業をすることなく仕事に取り組めています。依頼の割合は新築よりも古民家改修やリフォームが多いんですが、中でも最近はセルフビルドの応援が増えてきています」
⎯⎯⎯ 高橋さんの家づくりに対するモットーやポリシーなどを教えてください
高橋「民家に学んだシンプルな家づくりをしていきたいと思っています。自然素材を使って、長持ちする快適で安全な住まいを作るいうことが、基本にあります」
高橋「一歩踏み込んでお話しすると、僕自身、大学を出てすぐに福知山へ引っ越してきて、職業訓練校に通いながら、夜はバイトをしていました。子供ができたときもまだ若かったので、お金があるわけではありませんでした。そんな時にこの家があってすごく助かりました。『家があるって安心やなぁ』と身をもって感じたんです」
高橋「ですので、駆け出しの若い人たちなど、住宅にあまりお金をかけられない人でも、健康的な住まいに暮らせることが大切だなと考えています。当然、家ってお金がかかることですが、必ずしも新築である必要はなくて、古民家を活かしてリフォームやリノベーションをすれば、一生かけてローンを返していくような暮らしをしなくてもいいわけです。自分の経験が根っこにあるので、僕の仕事を求めてくれる人には、『どうにかしますよ』と、きっちり応えてあげたいんですよね」
⎯⎯⎯ 具体的にはどんな方法があるんですか?
高橋「例えば下地の仕様のレパートリーを複数用意しています。《竹木舞》《竹ずり》《木ずり》《プレカット木ずり》等、条件に応じて選べるようにしています」
高橋さんにとってターニングポイントとなった二軒のお宅を案内してもらった。高橋さん・お施主さん・設計士の田中紀子さん(設計事務所 ルースト)の対談と共に高橋さんの家づくりをご紹介する。
兵庫県丹波市 | 2015年竣工 | 設計:田中紀子(設計事務所 ROOST) | 施工:大髙建築
《奥丹波ブルーベリー農場》を経営されている古谷洋瓶さん・暁子さん夫妻と二人のお子さんの4人家族。遠くからでもわかる赤い屋根が目印だ。今年新たにウッドデッキが出来上がった。
⎯⎯⎯ 高橋さんに頼まれたきっかけは?
洋瓶さん(以下 洋瓶)「私たちが丹波に移住してきたタイミングが、高橋さんと同じ時期だったので、一緒にご飯食べたり、子供の年も同じなので、いつも仲良くさせてもらっていました。数年後に家を建てようと考えた時に『高橋くん以外考えられへんやろ』と思い依頼しました」
暁子さん(以下 暁子)「農業を始めたくて脱サラしてIターンでこっちにきました。自然と近いところで四季を感じながら暮らしたかったので、住む家は木で建てたいと最初から考えていました。以前、気密性の高いマンションに住んでいた時期があるんですが空気が篭っている感じがして息苦しかったんです」
洋瓶「高橋くんに伝統構法について教えてもらって惚れ込んでしまいました」
高橋「これまで多く古民家改修に携わってきたので、石場建てを選択したのは自然な流れでしたが、申請などは苦労して経験豊富な木の家ネット会員の皆様にアドバイスいただきました」
暁子「この地域にあった集会所が丁度取り壊されることになって、欲しいものをもらえるという話だったので、建具と玄関を譲ってもらいました」
高橋「ほんといいタイミングだったよね」
⎯⎯⎯ こだわったポイントなどはありますか?
暁子「あまりエアコンを使いたくないので、窓だらけにしてもらいました。空気をたくさん取り込んで、広い空も眺められて最高です」
暁子「田中さんはブルーベリー農園の手伝いで来てくれていました。我が家の家事や仕事の動線、使い勝手、性格まで理解してくれていたので、それが設計に反映されていて使い易いです」
田中さん(以下 田中) 「汗かいて帰ってきたらすぐお風呂に入りたいとかね」
洋瓶「そんなに広い家じゃなくていいかなという考えでした。子供たちも何年か経ったら独立していくので、ゆくゆく夫婦二人の生活に戻った時のことを考慮して設計してもらました」
暁子「実は勝手口にも秘密があります。私が歳を取った時に手すりをつけられるように壁の裏側に下地を忍ばせてくれているんです」
⎯⎯⎯ 実際に家づくりを経験していかがでしたか?
暁子「すぐ近くに住んでいたので、毎日出来上がっていく過程が見れてとても面白かったです。いろんな職人さんが出入りされていたので、沢山の人の想いや守ってきた技術などを垣間見ることができました。そのことが家に対する愛着をより高めてくれました」
高橋「竹小舞も一緒に編んでもらいました」
田中「竹林ばっかり探している時期がありましたね。竹をもらいに行ったら『好きなだけどうぞ。でも家に竹なんか使ったっけ?』という反応だったり。最近では土壁の家も少ないですからね」
暁子「子供たちも土壁を塗る過程を経験しているので、友人に『もたれかかったらあかんで』と注意していたりして、この家に愛着を持ってくれているなと感じます」
⎯⎯⎯ 出来たばかりのウッドデッキについて教えてください
洋瓶「長女が受験生になったので、彼女のためにそれまで洗濯物を干したりしていた部屋を譲り、代わりにウッドデッキをつくることしました」
高橋「最初はここまでの広さじゃなかったんだけど、『もっともっと』と広がっていきました(笑)」
洋瓶「建ってみたらいいサイズですね。一番のお気に入りの場所です」
暁子「家が変化していくのって面白いですね」
⎯⎯⎯ 家の方は建ててから7年経ちましたが、住み心地はどうですか?
暁子 「最高ですね。冬は土壁が蓄熱してくれるので、薪ストーブひとつで部屋中を裸足で過ごせるくらいあったかくなるし、夏は土壁が断熱してくれるのと、風通しがいいので『エアコンついてるの?』と聞かれるくらい涼しいです。それから不思議なんですが、カビが生えにくいんです」
高橋「大髙建築を始めてすぐの頃に建てて、今でもずっと快適だと言ってくれるので、それが自信に繋がっています。実はここの断熱の仕様だと、現在では国の定める基準値をクリアできていないんです。でもこの事例があったからこそ、他のお客さんに積極的に土壁の家をオススメできるようなりました」
奥丹波ブルーベリー農園の情報はFacebookでご確認いただけます。
Facebook 奥丹波ブルーベリー農園
京都府福知山市 | 2018年竣工 | 設計:田中紀子(設計事務所 ROOST) | 施工:大髙建築
福知山市の新町商店街にあった履物屋《ヒカミヤ》を改修した中嶋善彦さん・美香子さんと息子さんの三人住まい。手前がグラフィックデザイナーだった美香子さんの店舗兼事務所で店名はそのまま《ヒカミヤ》を継承。奥と二階が住居だ。美香子さんは今年、グラフィックデザイナーをリタイヤし染め物作家に転身。高橋さんはそのための作業場を新たに手がけた。
⎯⎯⎯ 高橋さんに依頼された経緯は?
美香子さん (以下 美香子)「元々田中さんに設計をお願いしていて、紹介してもらいました。物件の購入前に一緒に構造を見てもらったりと初期段階からタッグを組んで進めてもらえたので、安心でした。設計の田中さんが女性なので生活動線もわかってくれるし、色々相談しやすかったですね。もちろん同じ女性でも好みが違うと落とし所が難しいけど、田中さんと私はお互いに《古いものは好きだけど、懐古主義にはしたくない》というかなり近い感覚だったので、うまくいったのかなと感じています」
美香子「感覚のことだけでいうと、高橋さんと直接のやり取りだとピッタリうまくいったかどうかは分からないんです。でも、私たちの『なぜこうしたいか』と、高橋さんの『なぜこうしたほうがいいか』を、田中さんが間に入って説明してくれたので、とても良好な関係で進められたと思います」
善彦さん(以下 善彦)「今まで大工さんや職人さんに対して『素人が口出ししない方がいいのかな』という緊張感を感じていたのですが、高橋さん田中さんペアに関しては『こんなことできるかどうかわからないけど言ってみようかな』というフランクな雰囲気でした」
⎯⎯⎯ 高橋さんはどんな印象の方でしたか??
善彦「大工さんぽくないなと思いました。年齢は近いんですが落ち着いていて。こっちが舞い上がってテンションが上がってしまってもクールに接してくれて、冷静になれるようなことがありました」
美香子「例えば『ここの床、ボコボコしてますけど大丈夫ですか!?』と聞くと『あ、これはこういうもんです。一年後には元に戻りますから大丈夫ですよ』となだめてくれたり。動じないというのはこんなにも人に安心感を与えるんだなと感心しました。家づくりにおいて大きな安心材料でしたね」
⎯⎯⎯ 最近完成した作業場について教えてください
美香子「ここは完全に私の作業場なので、私の身長や染め物の大きさに合わせて、作業しやすいように作ってもらいました。例えばこの柱。一人で仕事するので、ここに紐を片手で縛って片手で解かないといけないので、丸じゃないといけないんです」
⎯⎯⎯ 高橋さんに質問です。中嶋邸を手がけてみていかがでしたか?
高橋「これまでは、ほとんどお客さんと直接やり取りしてきたので、設計士さん(田中さん)からの依頼で引き受けた初めての仕事でした。尚且つ、お施主さんもデザイナーの方なので、それぞれのこだわりやポリシーがあり、僕自身が柔軟になれた現場ですね」
高橋「一人でやっていると自分が木でできることは木でやるんですが、キッチンは家具屋さんに頼むであるとか、階段はアイアンで作るであるとか、今までやってこなかったを求められました。家を長持ちさせるために、素材の面では譲れないところもあったのですが、出来上がってみて考え方が変わりました」
高橋「素材自体が長持ちするか否かも大事ですが、それ以上にお客さんが愛着を持って気に入ってくれる家をつくることが、結果的にその家の寿命を長くすることにつながるんだなと感じました。視野が狭かったなぁといい経験になりました」
ヒカミヤの工事の様子やお店の情報はインスタグラムでご確認いただけます。
Instagram @hikamiya2022
⎯⎯⎯ これからの野望や展望があれば教えてください
高橋「事務所を兼ねたモデルハウスにしようと思い、古民家を買いました。ここは薪ストーブを置けない家なので、どうやって温熱環境を整えていくのかの実験の場でもあります。昨今の住宅は性能や数値が重視されがちですが、数値では劣る古民家が、むしろ快適に過ごせるということを体験してもらえるようにしたいんです。ただ《快適》の尺度は人それぞれなので、実際の家づくりを始める前に泊まってもらうことで、認識のズレを招かないようにするという目的があります」
⎯⎯⎯ 最後に、高橋さんにとっての家づくりとは?
高橋「単に家をつくるということではなく、安心できる生活の器をつくるということですかね」
誰に対しても気さくで、いい意味で大工らしからぬ笑顔が持ち味の高橋さん。その滲み出る安心感が、家づくり・住まいづくりにも活かされ、彼の元には自然と人が集まってくるのだろうと思う。
大髙建築 高橋憲人さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
みなさんは《発酵住宅》という言葉を聞いてどんな住宅をイメージするだろうか。
「体に良い家?」「じっくり建てる?」など、いろいろな想像が膨らむが、ほとんどの人は聞き覚えがないだろう。それもそのはず(というと失礼だが…)。《発酵住宅》とは、今回ご紹介する 山形市新山の工務店 古民家ライフ株式会社 代表 髙木孝治(たかぎこうじ・47歳)さんが考え出した「住宅の概念」であり登録商標なのだ。
《発酵住宅®️》の特徴は、①想いも発酵させる住宅 ②完全手刻み工法 ③合板を使わない住宅 の3つ。
特に「想いも発酵させる住宅」という部分に、髙木さんの思想が詰まっている。古民家ライフでは、お施主さんに必ず「森林伐採ツアー」と銘打った大黒柱を刈りに行くイベントに参加してもらっている。そこで味わった空気感、香り、温度、木の倒れる音など、五感で感じ取った情報全てが一本の大黒柱に集約され、子供や孫の世代にまで「この木はなぁ…」と語り継がれ、想いが発酵され家と共に後世へと繋がっていく。
《発酵住宅®️》の他にも、暮らしの道具店《発酵素材®️》や、糀カフェ《晴間》など、活動の幅を拡げる髙木さん。さらなる展開も控えていると聞き、その活動の経緯や原動力、そしてこれからのことなど、お話を伺ってきた。
髙木さんは1975年 福島県伊達市生まれ。工務店の二代目として会社を継ぐべく大学進学を目指し予備校に通っていたが、在学中にまさかの父の死と工務店の倒産を経験。進学は諦めざるを得ない状況に。
建築への道が閉ざされてしまったと思っていたある日、本屋さんで何気なく手に取った建築雑誌の《古民家再生》の記事に出会い「頭をガツンと横から殴られたような感覚を覚えた」そうだ。その瞬間から、古民家をライフワークにしていこうと、髙木さんの心が決まった。
⎯⎯⎯ 古民家と出会った後の、現在に至るまでの経緯やターニングポイントを教えてください
髙木さん(以下 髙木)「建築家になりたかったので、まずは設計事務所に入りました。しかし図面を描いているだけでは、古民家のことが全然わからなくて『やっぱり現場を知っていないとだめだ』と思っていました。ある日、《神楽坂建築塾※1》の募集要項を目にして、まずここに行ってみようと決めました」
髙木「2000年に入塾し1年間学びました。当時自分の周りには古民家の仕事をしている人は全くいなかったので、全国から結構な人数が集まっていたので『こんなに仲間がいるんだ』と驚きと心強さを覚えました」
髙木「そして、神楽坂建築塾での経験や出会いが、今の自分の生き方に繋がっています。最初の講義で鈴木先生から『そんなに古民家に興味があるなら福島の会津田島で合宿があるから参加してみないか』と誘われました。勤めていた設計事務所を辞めて参加したのですが、とてもいい経験になりました。また後に、同塾で出会った仲間を中心に『地元の山や木を生かしたい』『合板は使わない』『職人不足の問題を解決したい』などの想いを持った工務店の集まり《森びとの会※2》を結成し活動を続けています。古民家ライフの活動の原点はここにあるんです」
※1:神楽坂建築塾
1999年に始まった、建築家 鈴木喜一先生が塾長を務める講座。新築と保存・再生を同じ地平で捉え、住むことの原点を見つめ直すための、坐学とフィールドワークで構成されている。
http://ayumi-g.sub.jp/kenchikujuku/kjtop.html
※2:森びとの会
「合板を使わない、本物の自然素材の家づくり」をテーマに掲げ、住まい手を幸せにし、地域社会や生活文化を豊かにするために20XX年に結成。髙木さんのほかに、木の家ネット会員の西條正幸さん(ビオプラス西條デザイン)、大場江美さん(サスティナライフ森の家)、直井徹男さん(エコロジーライフ花)、亀津雅さん(亀津建築)などが参加している。
https://moribitonokai.net/
髙木「その後、様々なご縁に恵まれ、設計事務所や工務店などを経て、山形の建築会社で4年ほど勤めました。他にも伝統構法の修行をしたり、経験を積むために畑違いの業界で飛び込みの営業マンなんかもやりました」
⎯⎯⎯ その後独立されて《古民家ライフ》が始まるわけですが、当初はWebサイトの名前だったんですね。
髙木「そうなんです。2006年に独立して、古民家情報マッチングサイト《古民家ライフ》をオープンしました。古民家の仕事なんて待っていても来ないので、それなら古民家の仕事自体をつくってしまえばいいと考えてこのサイトを始めました。山形から神奈川への移築の仕事など実際に数々の成果も生まれました」
⎯⎯⎯ 古民家ライフという社名ですが、新築も建てられていますよね。新築と古民家の改修・リノベーションなどではどちらが多いのでしょうか?
髙木「『古民家ライフ』だと古民家しかやらないと思われる場合もありましたが、『発酵住宅』という名称・概念を掲げ発信しているので、現在はだいたい半々くらいです。また、去年設計事務所も立ち上げました。一級建築士の社員も入ってきたので、可能な限り自社内で手掛けていきたいです」
⎯⎯⎯ 新築と古民家では、単純にどちらが面白いですか?
髙木「難しい質問ですね。お客様に喜んでもらえると、どちらもやり甲斐を感じますし、両方面白いです」
⎯⎯⎯ 家づくりにおいて心掛けているところは?
髙木「基本的に地元の木や素材を使い、大工が手刻みでつくることです。それから合板は使わないこと。解体現場で合板のところから傷んでいるのを目にしてきたのでそこは必ず守っています。その上で、なるべく自然に還る家、菌との共生を目指しています」
⎯⎯⎯ 木はこの辺りだと、どこの木を使うのですか?
髙木「基本的には宮城県(栗駒周辺)と山形県の木(西山杉)を使います。ちなみに敷地内に生えていた木も切って使いました。コロナの影響で『木がない、木がない』って言われていますけど、その辺に放置されているのがいくらでもあるじゃないですか。それをなんとか使ってやりたいです」
近年手がけた仕事を見たいと頼んだところ、一冊一冊丁寧に作られたアルバムを見せていただいた。その中からいくつかの事例を髙木さんのコメントと共にご紹介します。
米沢・発酵住宅 〜左官職人の家〜 | 2018年
髙木さんコメント
発酵住宅の名前を冠しての仕事はこのお宅が第1号になるかもしれません。建て主はうちでいつも左官工事を担当してくださっている左官屋さん。『住むのならやっぱりこういう家ですよね』4代続く左官屋さんなので、おじいさんやお父さんの代から続く工務店との繋がりもありましたが、それを一軒一軒断りのあいさつ回りをしてくださって、弊社での工事となりました。もちろん左官工事は家族総出で全てされました。施工する業者さんから家づくりのパートナーとして選んで頂けるというのは、本当にうれしいことです。
小姓町の家 | 2016年
髙木さんコメント
ブルックリンスタイルの家が欲しいというのが一番の始まりで、ブルックリンの場所を調べる所から始まった家づくりでした。しかし、お話を進めていくうちに古材と自然素材と畳と左官壁の家になり、今となっては笑い話です。 敷地は山形市内でも交通量の多い道路に面しています。L字型の敷地にどう建てるかというのがこの住宅のポイントでした。あの敷地にこんなに大きな家が建ったんだというのが周りに住む方感想のようです。趣味を最大限に楽しめる住宅が出来たと思います。
小白川にある家 | 2019年
髙木さんコメント
いつも設計でお世話になっている大類真光建築設計事務所・所長の大類さんの家です。『高木さん、うちお願いします。』沢山の施工業者さんとのお付き合いのある中で古民家ライフを選んで頂きました。
《比較的敷地面積の広い山形でも40坪の敷地内に自然素材住宅は建てられるのか?》《塗装剤を塗布したところとしないところでは違いがでるのか?》《外断熱の効果》等、この家はある意味実験住宅と捉えて設計されました。
パネルヒーターだけでの暖房もほとんど温度差が無くうまくいっているそうです。
建築に携わるものとして、自宅を建てるという行為はお客様にとって、一番説得力のある行為だと実感しています。
高瀬の家 | 2015年
髙木さんコメント
古民家リノベーションとしての事例です。玄関土間に後付けされた和室が生活空間の中心でしたが、使われていない広間の和室に北側の台所を移設し、リビングダイニングキッチンとしての機能を持たせました。また、一階だけが老夫婦の寝室として使われていた蔵を改装して、若夫婦の寝室兼プライベートリビングとして生まれ変わりました。前日まで古い台所を使いつつ、一気に給排水を変え新しい台所を使って頂き、古い方を解体するといったような、住みながらのリノベーション工事が出来るのも山形だからこそできる工事だとも思いました。見学のお客様をお連れすると、今ではおばあちゃんが住み心地と使い心地をお客様にご案内してくださいます。
堀さんの家 | 2018年
髙木さんコメント
生まれて初めての完成見学会が古民家ライフだったそうです。そのまま家づくりをすることになりました。家族構成と建坪の兼ね合いから、シンプルな2階造りとし、古民家ライフのモデルハウスとしての要素を兼ね備えた住宅を目指しました。さながら、木の宇宙船のような空間が出来ました。
ほとんどの住宅において建て主が家づくりに関わって頂くようにしています。この住宅も大黒柱の伐採から始まり、外壁板の塗装は全て建て主が行いました。寒い時でしたので、塗装した瞬間から凍っていくというのを一緒に体験し、今でもその思い出が残っています。
錦屋川西本店 | 茅葺
築200年の老舗和菓子店。献上小倉羊羹が銘品。独立してすぐの30歳のころに、茅葺屋根の雨漏りを修繕したことをきっかけに毎年依頼されるようになった。取材時にちょうど足場を組んでいた。
古民家ライフには作業場の他に、暮らしの道具店《発酵素材®️》や、糀カフェ《晴間》が併設されている。今後、さらに活動の幅を拡げていくという。その原動力はどこにあるのだろうか。
⎯⎯⎯ 古道具店やカフェも経営されていますが、そこにはどんな意味があるのでしょうか?
髙木「私の考える家づくりとは、単に家のことだけではなく《暮らしの中の家》や《循環の中の家》の在り方を考えることなんです。畑もやるし、茅葺もやるし、古道具もやるし、エネルギーのことも考えた。できる限り循環させたいんです」
髙木「循環というキーワードは昔からずっと頭の中にあったんです。親父が亡くなって半ば強制的に今の道に進まざるを得なくなったわけですが、環境保護の仕事に就きたいなと思っていた時期もあるくらいです。そして、建築とリサイクルや環境保護との接点を見出せそうだったのが、古民家だったんです。しかもメチャクチャかっこいい!」
⎯⎯⎯ ということは古道具は解体現場などから集めて来られたんですか?
髙木「その通りです。このお店を始める前は、70坪の倉庫に古材と共に、もったいないからという理由で古道具も集めていました。そこも手狭になってきたので、倉庫を建てるくらいなら、みんなに見てもらえた方がいいなと思い、昨年スタートしました」
髙木「ここで扱っている商品は普通の解体現場の蔵に眠っていたものたちです。見つけ出さなければ、捨てられて終わる運命でした。見つけ出してあげて日の光を当てることで『いいよね』って、いろんな人に感じてもらえるようになります」
⎯⎯⎯ お店を拝見しましたが、何時間でも観ていられそうです。髙木さんの目利きが素晴らしいんですね。
髙木「古民家と民藝には通ずるものがあると感じています。《用の美》とか《日常の中の美しさ》というものに共感を覚えます。実は初めて民藝館に行った時、展示されているものの意味や良さがわからなかったのですが、10年経ってもう一度訪れた時『なるほどなぁ』と分かることや共感することがたくさんありました。これが分かるならお店をやっても大丈夫だなという直感があって、古道具屋をはじめることにしました」
髙木「古道具屋ではありますが、古民家ライフの家づくりの考え方を発信するアンテナショップとして機能したらいいなと考えています。実際、買い物に来てくださったお客様から、家づくりの相談を受けるケースも生まれています。想い描いてきた《住まいづくりのカタチ》に近づいて来たなと実感しています」
⎯⎯⎯ 糀カフェについても教えてください。
髙木「衣・食・住をトータルで考えていくなら《食》の部分での提案もしたかったんです。日本の発酵食品を提供したいと考え、甘酒を中心としたカフェとして、工房の移転に合わせて2016年にオープンしました。現在は家庭の事情で休止中ですが、機会をみて再開したいです」
⎯⎯⎯ 想い描いてきた《住まいづくりのカタチ》とは?
髙木「どこかに里山とかダッシュ村みたいな場所をつくりたいとずっと考えていたんです。家だけじゃなくて、衣食住全部大事なんです。だから、どれか一つだけじゃだけでなくて全てに踏み込んでいきたいんです。そこにエネルギーの循環など、環境に対する取り組みも盛り込んでいきたいというビジョンがあります」
髙木「現在の古民家ライフは500坪の土地を買って事業を始めたんですが、最近、両隣の土地を売ってもらえたので一気に1,500坪にもなりました。渓流が流れているし『あれ?もうここで村にできるんじゃない?』と思って、コロナ関連の補助金の申請用紙に思いの丈を全部綴りました。エネルギーや資源の循環を体験してもらえる宿泊施設を作って、そこらへんの木を伐採して製材したり、薪を割ったり、井戸を掘ったり、堆肥を作ってバイオマストイレを導入したりと… そうしたら通ってしまいました」
⎯⎯⎯ コロナに後押しされたわけですね。
髙木「コロナでもなければ、ここまでいきなりはやっていないと思うのでいい機会でした。ウッドマイザー(簡易製材機)をはじめ、耕運機・ショベルカーなど、大工とはかけ離れた機械をたくさん導入しました」
⎯⎯⎯ 相当忙しそうですが。
髙木「そうなんです。かなり忙しいんです。補助金なので結果を提示しないとならないですし。ですが、考えたことがカタチになって、そこに反応してくれる人がいたり、喜んでくれる人がいたり、共感してくれる人がいたりすると、疲れが吹き飛んでしまうくらいメチャクチャ嬉しいんです!」
髙木「里山での循環の中での暮らしというのは、全部昔の人は当たり前にやっていたんだろうなと思うんですよね。それを少しアレンジすることで楽しく体験できる場所にして『こういう考え方もあるんだ』と多くの人に感じてもらえたら嬉しいです。1,500坪の土地を最大限に活かして、古民家ライフの考え方や思想を浸透させていきたいです」
⎯⎯⎯ まさに有言実行ですね
髙木「実践する思想家になりたいです。考えるだけでは物事は進まないし、手を動かしているだけでは変化は起きにくい。きちんと考えた上でそれを具現化していかないと。大袈裟な言い方ですが生活革命を起こしたいんです」
理想の暮らしとは何か、住みやすさとは何か、衣・食・住で何を大切にするべきか、答えは十人十色だろうが、その問いに実直に向き合い、じっくりと考えて(発酵するかの如く)答えを導き出そうとしてしている人はそうそういないのではないだろうか。さらに実践・提案するともなればなおさらだ。髙木さんはまさにその稀な人物だ。
取材後、「話には出さなかったんだけど月2回くらい勉強会も開催してるんだよね。普通に考えたらアホだよね」とさらっと口にする髙木さん。彼のバイタリティとパッションは本当に計り知れない。
古民家ライフ 髙木孝治さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
三重県志摩市、海と太陽がまぶしいこの地域で、120年あまり大工を営んできた東原建築工房。四代目の達也さんと五代目の大地さんは、受け継がれてきた手刻み・石場建てなどの伝統構法を活かし、現代のエッセンスを加えている。修行中の大地さんが初めて棟梁を努めた「いかだ丸太の家」が各種の建築賞を受賞。風土に根ざし、施主や地域住民と共に進める家づくりは、志摩の自然に寄り添う豊かな暮らしを実現している。
達也さんによると、地元の志摩市阿児町立神には「立神大工(たてがみだいく)」という言葉があり、古くから職人の里であったと伝えられている。江戸時代から多くの職人が活躍し神戸や大阪にも進出、大和の国長谷寺にも携わったといわれている。
「木も竹も土も身近にある、あるもので家をつくるという考え方は当たり前にある」と達也さん。同時に、この地は台風など自然災害も多く、自然を敬う姿勢も身についてきた。
現在は親子で、木の家を中心に設計・施工を行っている。
木組み土壁の住宅を、手刻みの石場建てで建てる。さらに増改築や修繕などを丁寧にこなす日々だ。
自宅脇に構えた作業場は、先代の實さん(三代目)の代から増築を重ねてきた。それでも手狭で、小屋組み材などは作業場横の屋外で加工することもあるというダイナミックさ。太陽と雨風を得て天然乾燥材となって行くそうだ。裏山にある竹林は、土壁の竹小舞にも使われている。
先代の實さんは、地元で大工修行の後、大阪に出て夜間は専門学校で学び、建築士免許を取得したという努力家。帰ってきてすぐに伊勢湾台風(1959年)があり、「災害復旧にも尽力し、丁寧にやってくれたと、今でも地元の方に言ってもらえています」(達也さん)。
その背中を見てきた達也さんも大地さんも、志摩市で育ち、大学時代を関東で過ごした後、Uターンして大工となった。父親は家族であり、親方でもあるという環境。ふたりとも口を揃えて「小さいころから大工になると自然に感じていた」という。
都市への人口流出が進み、市外に働きに行く大工職人も多くなった昨今、地域で、手刻みの大工仕事をしている東原親子は、稀有な存在だ。大地さんに至っては「携わった新築はすべて手刻みの石場建て、施主さんに恵まれています」と話す。
親子での役割分担は特になく、設計も施工も、打ち合わせも2人で相談しながら進めていく。達也さんだけが指導するのではなく、刻みや建前など仕事に合わせて先輩職人を招いてその仕事を学び、木の家ネットの仲間の現場に参加するなど、大地さんはさまざまなやり方を吸収している。
二人とも穏やかな性格だからか、「ぶつかることはほとんどない」という関係性だ。
達也さんは「今まで取り組んだことのない仕事でも、見たり触れたり調べたりして『こんな感じやな』と、工夫して自分の手でかたちにできるのが、職人の醍醐味」と笑う。
大地さんは「施主さん家族も職人さんも、ご近所の方も、みんなで家づくりができるってのが楽しいですし、そういうやり方を続けていきたいです」と話す。
在学時には技能五輪への出場や、木の家ネットメンバーの綾部工務店でインターンシップの経験を積み、木造の伝統構法を学んできた。木造BIMや限界耐力計算についても学びを深めている。「もちろん大工の腕も磨きながら、親父ができない分野も頑張りたいという気持ちもあります。それに、どんな勉強も普段の大工仕事に必ずつながってきますから」という。
大地さんは小学校3年生の誕生日に大工道具をねだり、工業高校3年生の時、地元の薬師堂再建で初めて、実際の墨付けをしたという。薬師堂は、夏に毎年盆踊りが開かれる場所で、平成22年に火事により燃えてしまったお堂を、3坪程に小さく再建することになったものだ。
この小さな薬師堂が、今取り組んでいる「みんなで家づくり」の大きなきっかけとなった。地元の人たちと一緒に、石場建ての地盤を固めるヨイトマケを行い、土壁の竹小舞や荒壁土は地山のものを使っている。大学進学を機に一度志摩を離れた大地さんも、夏休みなどを活かし地元の小学生たちと一緒に汗を流した。木の家ネットの仲間の池山さんや高橋さんに学んだワークショップが活かされている。
みんなの場所を、みんなでつくる。
志摩の自然を拝借し、生かしていく。
そんな家づくりの心地よさが受け入れられたのか、当時の小学生の親御さんや地域の住民、観光協会の職員などが、その後、施主さんとなり、新築の石場建てを依頼するようになった。
これまで手掛けた石場建ての家は、3坪から18坪とコンパクトなものが多い。達也さんは「施主さんは、予算はもちろんありますがそれよりも『薬師堂みたいな家がいい』『自分や家族でつくりたい』などの要望を優先することが多いかもしれませんね。大工にとってもやりがいのある仕事なんで、本当にありがたい」と話す。
達也さんは、大学時代に都会の先進的な建物にも触れる中、卒論では「志摩地域の風土と建築」をテーマに取り組んだ。「新しいものだけが本当に良いものなのか、地域で育まれた住まいや暮らしに関心があった」と振り返る。
そんな思いを抱えて大工をする中で、一人の施主さんとの出会いがあった。竹内さんの新築物件「いかだ丸太の家」(2020年竣工)を、国土交通省のサステナブル建築物等先導事業(気候風土適応型)として申請。達也さんは「これまで自分の感じていたものを、一つの形にすることが出来た」と言う。
「省エネ法改正が進む中、法の「気候風土適応住宅」の制度は、地域の木の家づくりに大きな意味をもっている。それは国が定めた基準を満たせない物件への救済措置だけではなく、地域が育ててきた自然と共生する住み方暮らし方といった建築文化に通じています」と話す。
竹内さんの家は、6坪の三和土土間の団らんスペースを中心に、両脇にそれぞれ6坪の居間、4坪のダイニングなどを配した設計だ。設計は愛知県の六浦基晴(m5_architecte)さんが担当した。
東原さんは設計の六浦さんや施主の竹内さんと話すうち、「志摩らしい建物を建てたい」という思いを共有する。浮かんだのは、地元では当たり前の存在である「いかだ丸太」だった。いかだ丸太とは、志摩でさかんな真珠の養殖いかだに使われる材木のことで、県産のひのきの間伐材を丸太のままで使う。気候風土適応住宅への親和性も感じた。
この丸太を、「シザーストラス」として小屋組みに用いた。建築家アントニン・レーモンドが好んだ構造で、この建物の特徴の一つとなっている。レーモンド事務所で学んだ建築家・津端修一さんが自邸に採用した方式で、達也さんは「施主さんの恩師でもある津端さんの自然な暮らしを大切にする姿を重ね合わせ、レーモンドスタイルを提案しました」と振り返る。
断熱材には、志摩産のもみ殻を用いた。竹内さん夫妻が知り合いの農家から分けてもらったもみ殻を、ドラム缶で燻炭とし、袋詰めして床下に敷き詰めた。天井には、乾燥したもみ殻を充填し突き固めた。すべて手作業だったという。
建具は、雨戸、よしずを張った網戸、木製ガラス戸、障子の4層すべてに古建具を再利用した。夫妻が解体される家を回って100枚近く集めた中から厳選したという。それぞれの建具は状態が異なるので、大工は調整に苦労したという。
また、家の中心にある竹内さん夫妻が愛情をこめて叩きに叩いた土間は、夏は南北の掃き出し窓を開け放つことで心地よい風が吹き抜ける。三和土(たたき)には地元の海水を使い、志摩特産の真珠の貝殻も埋め込み、さらに志摩らしさをあらわした。片隅には薪ストーブを置き、冬の暖を確保する。普段の煮炊きも薪ストーブが活躍する。
アートに精通し自らも油絵などを描く竹内さんは「志摩クリエイターズオフィス」というアーティスト集団を主催、この空間がその仲間と語らう場となっている。
仲間らは建設時から、土壁塗りや三和土(たたき)などのワークショップに訪れ、一緒に汗を流した。その数はなんと50人以上にも上ったという。竹内さんは「この家はひとつの作品。来る人来る人に、こんな暮らしいいね、憧れだねとうらやましがられるの」と微笑む。
達也さんは、「こういうワークショップ形式の建て方や自然と共に丁寧に暮らす住まい方は、確かに手間ひまがかかりますが、人の心を豊かにしてくれます。物質的な豊かさとは、また違いますよね」と実感する。
この家は、第40回三重県建築賞に加え、ウッドデザイン賞2021、第53回中部建築賞の受賞など、多くの評価を得ることとなった。
竹内さんは、この「いかだ丸太の家」の前に、敷地内にある築80年の平屋の古民家の改修を東原さんに依頼していた。先代の實さんと達也さん、学生の大地さんと三代で取り組んだ。この建物は日本各地で要職を歴任した猪子氏の終の棲家で、昭和時代に何度かリフォームがされていたが、空き家となり廃墟となりかけていた。壊れたサッシを木製建具に戻したり、朽ちたシステムキッチンを外して土間を復活させたりと「建築当時の復元」を念頭に進めていった。
竹内さんは東原さんを、「住む人のことを思って、要望に必ず応えてくれるすごい大工さん。特に猪子邸の改修は、設計図もないのに美しく復元してくれて、その技量に驚きました。本当に、よう作ってくれました」と話す。
その言葉に達也さんは「いやいや、よう任せてくれました」と笑顔で応える。
2つの物件がある敷地は、なだらかな起伏の土地にツバキや栗など四季を感じられる木々が並ぶ自然林だ。緑が太陽の光をやわらげ、小鳥のさえずりが耳に心地よい。時折、海風も届き、豊かな自然を存分に味わえる。
大地さんは、「職人と施主さん、家族や仲間とみんなでつくる家づくりは、本当にやりがいがあります。つくるのは家ですが、人と人の間で動くことを大切に、大工をしていきたいです」と、まっすぐに未来を見つめていた。
取材・執筆・写真:丹羽智佳子(一部写真、岩咲滋雨、六浦基晴(m5_architecte)、朴の木写真室)
「お城みたいな家だから見せたいんだね、みんなにね!」
そう、嬉しそうに話すのは、山梨県北杜市に住む清水治さん。同じく北杜市在住で、鈴木工務店を経営する鈴木直彦さん(以下、鈴木棟梁)に、大工工事を依頼し続けて10年以上になる。
二人が知り合ったきっかけは、お互いの子どもだった。清水さんと鈴木棟梁は、北杜市の高根町と武川町(以前は武川村)に住んでおり、子どもたちはそれぞれの地域の剣道スポーツ少年団に入っていた。普段は別々に活動しているが、時折、試合や共同練習をすることがあり、その付き添いがきっかけで言葉を交わし合うようになったという。
「離れの床を張り替えて欲しい」という、小さな依頼から始まった建て主と大工としての付き合いが、夢をあざやかに形にしていく鈴木棟梁の発想と技術に清水さんが魅せられて、次々と工事を依頼することに。離れのリフォーム、母家のリフォーム、そしてガレージの新築と、工事は10年以上におよんだ。
「棟梁のところは丁寧に仕事してくれてるから、ホントありがたかったです。ただ、時間はかかったけどね。」
時間がかかったのは、決して作業の分量が多かっただけではない。清水さん家族が家に住みながらリフォームを進めることが出来たので、仮住まいの費用が発生せず、納期に縛られない仕事が可能だったことも大きい。鈴木棟梁は言う。
「最初に完成図面を描いたりせず、清水さんと話しながら工事ができたので楽しかったね。まるで趣味みたいな仕事になってしまって、自分でもいつ仕上がるんだろう?って思ってた。」
建て主との関係がしっかりできている仕事の場合、人を喜ばすのが好きな鈴木棟梁は、事前に詳しく説明をせずに仕上げてしまうこともある。母家のリビングの椅子やテーブル、玄関の磨りガラスなどは、清水さんを驚かせ、笑顔を引き出した。
「細かく要望を出したりしなくても、棟梁はちゃんとこの場所にあったものを作ってくれるんです。玄関のガラスだって、僕が所ジョージが好きなことを知って、“世田谷ベース”をアレンジした“北杜ベース”のデザインにしてくれたんですよ。うれしかったなぁ!」
清水さんが惚れ込んでいるのは、鈴木棟梁の柔軟な姿勢と豊富なアイデア、それと人柄。鈴木棟梁は言う。
「建て主の話を聞いてラフに描いた図を元に、それを住みやすく、建築的にしっかりしたものに変えてやれば、それでいい。一方的に俺の“我”を押し付けるんじゃなくてね。」
母家のリフォームでは、元の建物の構造上どうしても取り外すことのできない柱がストーブの前にきてしまう。そこで、その柱を鏡でくるみ、存在を消すということもした。
「それまでのやり方にとらわれず、アイデアいっぱいなんですよね、本当に棟梁は!」
住みながらのリフォーム工事の特徴は、建て主と職人の距離が近いこと。連日、顔を見て、言葉を交わし、昼食や休憩の時間を共に過ごすこともある。
「しょっちゅう顔を合わせているから、工事が終わると寂しくてね。棟梁に会うために、“他になんか頼むことないか?”って探しちゃう。この先も絶対、何か作りたい!」
最近になって、清水さんの長男が大工工事を始めたのだそう。薪置き場づくりから手掛け、離れの車庫の上に隠し部屋みたいなロフトを作った。趣味のものを持ち込み、まるで秘密基地のようだ。大工道具を握る姿を見て、鈴木棟梁は時折アドバイスをすることもあるとのこと。
「棟梁からわざわざ声をかけてくれて、助かりますよ。それで親子の会話も生まれるんですよね。建ててしまったらそれで終わりで、遠くから眺めているんじゃなく、その後も付き合いがずっとあると言うのが嬉しいじゃないですか! おかげで子どもや、かみさんとも会話がはずんで家族関係も良くなりました。長男なんて、リフォームする前は “こんな家には住みたくない!” なんて言ってやな顔していたのに、最近はそんなことは全然! 本当、この家づくりのおかげで家族が一つの輪になったね。」
鈴木棟梁も、こう話す。
「自分も清水さんの前を通るたびに、クラクションをプップッって鳴らして、何かあれば寄るんだ。しょっちゅう一緒にご飯食べたり、家族で旅行したりしてうれしいよ」
ガレージの前には「清水ジョージ 北杜ベース」と「鈴木工務店」と書かれた看板がある。清水さんに聞くと
「ここには鈴木工務店の仕事がいっぱいで、まるでモデルハウスみたいでしょ。だから、道を通る人には営業所のように思ってもらえるといいな、と…」
商売の世界には「お客さんが一番の営業マン」という言葉がある。しかし、自宅の前に看板まで立ててしまう人は珍しい。大工の父親に連れられて、子どものころから現場に出ていた鈴木棟梁にとって、この看板の存在は職人冥利に尽きるに違いない。
鈴木工務店: 山梨県北杜市武川町で先代から続く工務店。「国産材を使った手刻みの家づくり」といえば伝統的なスタイルを連想しがちだが、新しい工法の開発も手がけるなど、豊富なアイデアと柔軟な姿勢が特徴。
鈴木工務店 鈴木 直彦(つくり手リスト)
鈴木工務店 Webサイト
取材・撮影・執筆・ビデオ制作: 持留和也(モチドメデザイン事務所)
神奈川県海老名市。富士山が遠く見える田畑の先に、地元で「いちご島」と呼ばれている地域がある。その一角に目を引く焼き杉の家が建っていた。自然素材でつくられたその家は、庭先の植栽に彩られていることも相まって、むしろこの家こそが地域の自然環境に馴染んでいるように感じられた。ここが今回ご紹介するつくり手、袋田琢巳さんの自宅と作業場だ。
袋田 琢巳さん(ふくろだたくみ・45歳)プロフィール
昭和52年(1977年)大阪生まれ。平塚西工業技術高校を卒業後、父親の営む袋田工務店に入社。2007年、フラワーデザイナーの奥さん(佐千代さん)と共に神奈川県海老名市に「FUKURODA工舎」を開業。今年からお弟子さんの中澤さんが加った。自然素材にこだわり、日本の風土に合った住まいづくりを心がけている。高三の息子さん、中二の娘さんと4人で暮らしている。
木の家ネット会員の丹羽明人さん(丹羽明人アトリエ)の設計で、袋田さん自身が大工として建てたという、ご自宅にてお話を伺った。
⎯⎯⎯ まずプロフィールを拝見して気になったのですが、自動車科を出られているんですね。
「小学生の頃から家業の工務店の仕事を手伝っていました。丸太の足場を組んだり、ほぞ穴を掘ったり、断熱材を入れたりしてました。中学生の頃には建前の手伝いなどもしていました。その頃から大工の凄さを幼いながらも身をもって感じていたので、祖父や父親みたいな凄い棟梁にはなれないと思い、高校は当時興味のあった自動車科へ行きました」
⎯⎯⎯ そこから大工の道に進んだといいますか、戻ったといいますか、経緯を教えてください。
「当時、バックパッカーに憧れていて海外へ行くのが夢でした。カナダとアメリカを旅行して、最初は壮大な景色やスケールの大きさに感動していたのですが、旅を続ける中で、日本には人がつくった素晴らしい建物や文化が身近にあることに気づいたんです。それをつくる職人技の凄さにも気づき、日本に帰ったら祖父や父親のような大工になろうと決めました」
⎯⎯⎯ あらためて大工になるためにどこかで修行をされたんですか?
「地元の材木屋さんの紹介で手刻みで住宅を建てる工務店で修行を積みました。そこで刃物の研ぎの大切さを教えて頂きました。『道具が仕事を呼ぶ、いつでも道具は綺麗に切れるように』と教わったことを今でも家づくりに活かしています。先輩大工に毎日の仕事を通して、大工の心構えや大工道具の手入れなど、色々なことを教えてもらいました。また、先輩大工達と《削ろう会》へ参加し、鉋がけの技術を磨いていました」
⎯⎯⎯ そこから国産無垢材を使った木の家づくりに向かわれたと。
「そうですね。興味を持ったきっかけはいろいろありますが、中学の頃、山口県岩国市にある母の実家の上棟を手伝いに行きました。そのことが大きな影響を与えているかもしれません。大工をしていた祖父は山で木を育てていて、母も子供の頃に一緒に植樹をしたそうです。また、棟梁を務めたのは祖父の弟なのですが《柱や梁を山で自ら伐採して近所の製材所へ運んだ話》《母屋を一度仮組みしてから上棟した話》《土壁の話》などを教えてもらいました。神奈川では身近にない家づくり特に記憶に残っているのかもしれません」
⎯⎯⎯ この素敵なご自宅は、木の家ネット会員でもある丹羽さんとの協働で出来上がったと伺いました。
「前々から丹羽明人アトリエの家づくり(植樹体験・伐採・薪割り・土壁塗り・グリーンウッドワーク・住まい手との関係など)に感銘を受けていまいた。そして木の家ネットに入会して初めて参加した総会で、偶然相部屋だったのが丹羽さんだったんです。その時にいろんな話を聞かせてもらい『自分の家を建てるなら丹羽さんにお願いして、自分の手で建ててみたい』という夢ができました」
⎯⎯⎯ そしてその夢が実現し、この住まいがあるんですね。詳しく聞かせてください。
「《いちご島の家》といって、木組み・土壁のコンパクトな家です。築3年になりますが、とても居心地が良くとても満足しています。初めて手がける真壁・土壁の家でしたが、木の家ネットの先輩方など(TSウッドハウス共同組合の和田さん・有限会社アマノ・愛知の大工さんなどなど)に色々と指導していただきながら建てました。自分にとってはチャレンジでしたが、先輩方に助けてもらったおかげで夢を実現することができました。また、建主の気持ちを知ることにも繋がり、とてもいい経験になりました」
⎯⎯⎯ 丹羽さんとはどんなやりとりされたのですか?
「家づくりが始まる前に、いろんな経験をさせてもらいました。山に連れて行ってもらったり、植樹や伐採をさせてもらったり、土壁の左官を体験させてもらったり。学びの機会が多くあり、とても楽しいひとときでした。単に『家をつくる』んじゃなく『住まいをつくる』感覚ですかね。そういうのってとてもいいなぁと思います」
「また、大工工務店としても勉強になることばかりでした。僕は営業が苦手なのですが、丹羽さんとの打ち合わせを通して、建主とのコミュニケーションや距離感の取り方、安心感の与え方、プレゼンの方法など、沢山のことを教えていただきました。神奈川でも同じような《思い出になる家づくり》ができる大工工務店を目指そうと思うようになりました」
⎯⎯⎯ 佐千代さんにもお話を伺いたいです。以前からこういった木の家に住みたいと思われていたんですか?
佐千代さん「丹羽さんの建てている家の見学会で、初めて新築の木組み・土壁の家を間近で見て、想像していた《昔ながらの木の家》と全く違って『伝統的な工法や素材を使いながら、こんなにモダンで暮らしやすい家づくりができるんだ』と一目惚れしました」
袋田さん「それでもう、ぜひお願いしようということになりました」
佐千代さん「自分達の家をつくり上げていく過程で、土壁の良さや素材のこと、使われる木がどこから来るのかなど、学びながら進められたのですごく楽しかったです。また、様々な職人さんや林業家の方などにお会いして、どんな想いを胸に家づくりに取り組んでいるか、直接聞けたのでとてもいい経験になりました」
⎯⎯⎯ そういえば、袋田さんも昨年伐採見学ツアーを開催されていましたね。
「丹羽明人アトリエと有限会社アマノの伐採見学に参加したのがきっかけで、ぜひ神奈川でも開催したいと思っていました。Twitterで知り合った自伐林業家の杉山さん、神奈川の木の家ネットメンバーに声を掛けて開催に至りました」
「当日、滋賀の宮内寿和さん(宮内建築)にもご協力いただいて、僕ら若手に山のこと、木のこと、大工のことなど、沢山教えていただきました。中でも『木が倒された瞬間、植物としての命を終え、職人の手によって第二の命が与えられる』という言葉を聞いて、木の命を頂いて仕事をすることの責任を感じました。建主にも同じ気持ちを持って欲しいので、この活動は続けていきたいです」
袋田さんの自宅「いちご島の家」 2019年|神奈川県海老名市
⎯⎯⎯ 大工としての想いや、こだわりなどを教えてください。
「同じ大工工務店でも、自分で設計から施工までしてしまうタイプの工務店もあれば、設計士さんと組んで施工を担当する工務店もあります。僕は後者で、特に施工だけに特化した工務店を目指しています」
「祖父も父も大工だったので、《あるべき大工の姿》のイメージが自分の中にあります。それは『大工は地元に根付いて頼られる存在であり続けないとならない』ということ。家を建てるだけではなく、メンテナンスやちょっとした困りごとにもすぐに対応できる《地域の何でも屋》のような大工が理想なんです」
⎯⎯⎯ 家づくり以外で地元で活動されていることはありますか?
「東京日建工科専門学校の非常勤講師をしてます。大工の世界で育てていただき今があるので、大工の世界への恩返しがしたいと思っています」
「それから、息子が中学時代に通っていたサッカークラブのスポンサーになりました」
⎯⎯⎯ サッカークラブのスポンサー!?
「地元の子供達を応援したいという気持ちからスポンサーになりました。息子がお世話になったチームでもあります。監督から『中学で色々と進路に悩む子供達に、サッカーチームだけどサッカー以外のことを経験させてあげたい。その一つとして木工を子供達に教えてもらえないか?』とオファーがあり快諾しました」
「このチームのサッカーを通じた教育が素晴らしいんです。関東大会に出るくらいの強豪チームなんですが、『みんながプロになれるわけではないけど、それ以外にもステージは用意されている。社会に出るためのことも学んで欲しいんです』という話を聞いて共感しました」
「スタメンもキャプテンも、子供たちだけで決めるんです。技術が高くなくても交渉力や人柄によって活躍の場を得ることができます。一方、サッカーが上手いだけでは試合に出られないこともあります。それって社会そのものだなと思うんです。一番を目指すだけが答えじゃないんですよね。僕自身も、海老名でのステージや、木の家ネットでのステージなど、自分ができることは何だろうと考えて行動するように心掛けています」
⎯⎯⎯ 袋田さんご自身、また地元・海老名へのビジョンなどを教えてください。
「自分が先輩達から受け継いだ知識や技術を次の世代へ引き継ぐ責任があると感じています。この春から中澤君(18歳)が入社しました。まずは大工仕事の楽しさを教えられたらいいなと思っています」
「次に地元のことですが、育ててもらったこの場所に恩返しがしたいですね。薪ストーブの会・焚き火の会などを主催し、主に商工会議所のメンバーたちと、ざっくばらんに海老名のまちづくりについて語り合っています。その中で大工として海老名に貢献できることを探しています。自分の家づくりの経験や暮らしてみた体験を活かして、地元でも木組・土壁の家を広めていきたいです」
自分の置かれた環境や立場、関係性を受け止め、そのステージの上でどうすれば最大限の力を発揮できるのかを問い続ける袋田さん。
家づくりにおいても《ステージ》という考え方が重要だと感じた。今日の私たちが置かれた地球環境や、地域ごとの気候風土・風習・そこにある材料、また住まい手の想いや生活様式など、ステージ上には様々なピースが並んでいる。一度として同じ組み合わせは生まれない。その一つひとつをよく見て、よく聞いて、よく考え、そしてつくり上げていくことが《本当に過ごしやすい住まいづくり》への第一歩なのではないだろうか。