​​長く使い続けるほど、価値が増していく。木の家は、建築士の奥隅俊男さんにとってそんな存在だ。埼玉県上尾市で千尋建築事務所を主宰する奥隅さんは、新築の設計ばかりでなく、長く使われてきた建物の修復などに多く関わってきた。修復の対象は神社仏閣や大きな邸宅、あるいは文化財といった価値の決まったものばかりでなく、普通なら見過ごしてしまうような民家や商店建築まで及ぶ。

​​修復の際、奥隅さんは丁寧に建物を調査することに重きを置いている。歴史や痛み具合の確認に加え、施主さんの思いや、これまで暮らした人、建てた人の思いをくみ取り、価値を見直していく作業だ。そうすることで建物は輝きを取り戻し、未来につながっていく。木材など経年変化する自然素材を使い、しっかりした伝統構法でつくられた建物は長く使い続けることができるという。
​​すべての木の家に、愛を込めたまなざしをそそぐ姿を追った。

現在から過去まで綿密に調査し、未来へつなぐ

​​千尋建築事務所を立ち上げて、20年余り。現在は既存の建物の調査や改修に関わる仕事が大半を占めるという。大きな建物や時間が限られる時は、同じように古き良き建物を生かしたいという仲間と協力するという体制で仕事を進めている。

​​「改修するときに大切なのが調査だ」と奥隅さん。外観や室内ばかりでなく、床下や小屋裏に入り詳細に調査し、“現在”の実測、図面おこしを行う。工法や技法、改修の痕跡なども調べ、記録をつける。建具の破損状況なども調査し、修復設計に役立てる。

​​さらには、建物の“過去”までさかのぼっていく。長く使われてきた建物は、建築当初から何度か改修や修理を経て現在の姿になっていることがほとんど。改修にあたり、建築当初の姿に復元するとは限らないが、「当初の状態とそのあとの改造の過程を調べて把握することで、どう修復するか検討でき、建物にふさわしい改修に役立つ」という。古い図面や改修時の図面もあれば、調べ尽くす。破損状態の調査も、修理内容や範囲を決めることにつながり、予算を把握することができる。こうして、時にはほこりで体中真っ黒になりながら、野帳を完成させていく。

​​調査は数日のこともあれば、大きな建物では1カ月かかることも。こつこつと、建物の歴史を紐解いていくのだ。

手書きの調査図面。床下にも潜ったためところどころほこりで黒ずんでいる

​​丁寧に向き合う姿は、建物だけでなく、施主さんにも然り。「聞き取り調査」も行っている。現在の施主さんから話を聞き、建てた当時の施主さんがどのように考えたか、どんな風に使ってきたか。また、職人さんがどのように考えて建てたのか、想像を膨らます。建物と住む人に、やさしく寄り添うのだ。

​​奥隅さんは、そのような幾重にも重なる調査を経て、建物の現状図面をなるべく正確にまとめていく。それをもとに、施主さんの要望や目的を盛り込んだ改修設計図面、そして計画を作成する。

​​こうして調査、改修設計をして修復した建物のひとつが、さいたま市岩槻区にある民家。大正時代に建てられた平屋の瓦ぶき屋根で、昭和46年の大改修(台所や風呂を増設したり、天井や壁の仕上げに合板を貼ったりする)を経てきた。それを、約1年半かけて改修、2018年に完成した。

施主さんは「奥隅さんの「聞き取り調査」の中で、方針が固まっていった」という。「この家は文化財ではないけれど、文化財的感覚がある。朽ち果てていずれ取り壊し以外に道がなくなるような事態は避けたい」という思いが強かった。他の住宅メーカーにも相談したが、建物をどう活用するかという方向になってしまい、「建物として残すという自分の考えからは物足りなく感じた」と振り返る。

​​​​奥隅さんと相談をしているうちに、方針の一貫性が一番大事であることに気づいた。その方針とは、できるだけ建築当初の姿に戻す復元を目指すということ。「古くからの家そのものが歴史を伝える価値がある遺産(財産)だ」というのは、ふたりの共通認識となった。そのため、文化財と同じような詳細な調査、修復設計を行った。

揚屋し、改修中の家と、土壁の修理工事の様子

​​古い図面の発掘や聞き取り調査により、居間の一部は以前は玄関土間であったことがわかった。実際に沓脱石が床下にあることも確認でき、それをそのまま活かして修復した。

​​北側には改造により台所があったが、建築当初は縁側が廻っていたことも分かった。ここも修復により、再び縁側を配置したことで、部屋が明るくなったとともに、北側の庭との一体感が生まれたという。

​​合板も剥がし、天井は無垢板に、壁は木舞下地の土壁に修復。窓もアルミサッシに取り換えられたものを再び木製建具へ。それぞれの建具には古色(古い色にあわせて色をつける)する事で、当初の部材と調和するようにした。

​​一方で、建築当初から形態を変えた部分もある。一つ目は、建物の構造の補強のために間仕切りの戸をやめて耐震の壁をつけたこと。二つ目は、建設当初はなかった網戸を付けたこと。窓に雨戸とガラス戸などが入っていたことがわかったたが、さらに新たに敷居と鴨居を足し、雨戸とガラス戸と網戸の3枚立てにした。 いずれも建築当初の姿がわかっていながらの変更で、利便性を高め、この先建物を長く使い続けることに一役買っている。

窓の建具を「違和感のないように納めた」と奥隅さん

​​ほとんどが工事前に作成した図面通りに工事したが、工事中に、壁の中から低いが立派な鴨居を発見し、そのまま床を低くして出入り口を設けた部分もある。「通常の修理計画では思い浮かばないものだった。建築当初の使い方がわかって面白い」と奥隅さんは柔軟だ。

建物、そして施主さんと真剣に向き合いながら、工期や予算も考慮し、適切な改修を目指している。

風土に適応した建物

​​建築当初の姿に戻す復元の場合も、使い勝手に合わせた改修の場合も「建物をよく理解し、メンテナンスしながら長く使い続けられるようにすることが大切ではないか」と奥隅さん。そのために必要なのが、丁寧で詳細な調査だとして、日々励んでいる。

​​軸組みなど伝統構法によってできた建物は増改築にも適し、現在の生活にも柔軟に対応できる。さらに、「自然の素材でできた家は経年変化によって美しく、四季折々の風景になじむ。気候風土に適応した知恵も受け継がれている」と強みを語る。そこに、「建物の大きさや豪華さはあまり関係ない」というまなざしは優しい。

このような感覚を持つようになったのは、前職、そして海外での経験からだという。奥隅さんは大学卒業後、設計事務所に勤める一方、日本建築セミナーという木造建築の講座に参加。このセミナーには全国から会員が集まり、定期講座と文化財修理の見学などをして学びを深め、「大変勉強になった」という。

設計事務所は6年で退社し、向かったのは海外。大学時代の研究がイスラム圏のバザール(市場)で、当時は文献や資料での調査だったことから「20代のうちに現地を見てみたい」と飛び出したのだ。インドから西へ向かい、イランやトルコ、イエメンを経て、ヨーロッパ(ギリシャ、イタリア、スペイン)を巡るひとり旅。歴史ある遺跡も素晴らしいが、奥隅さんの心をつかんだのは、石や日干しレンガ、木など現地にある自然素材でできた「いわゆる普通の民家」だという。そこにあるものを使った、その土地の気候に合った家。それが連なり、自然となじみ、美しい風景をつくっている。遺跡とちがって、実際に今も暮らす人々のいきいきとした力強さも加わり、美しく見えたという。「長い年月が経ち風化し、素朴で、なんともいい感じ」と、夢中でスケッチしていった。そんな10カ月を過ごした。

当時のスケッチ。丁寧な描写により建物の様子がいきいきと伝わってくる

帰国後は再び日本建築セミナーで学び、「伝統工法は日本の風土に合い、歴史もある。海外の伝統的な建物に通じる良さがある」と再認識。伝統的な木造建築を手掛ける眞木建設に入社した。寺社や民家の文化財調査や修理、新築設計に加え、現場監督も務めた。東京の江戸東京博物館に江戸時代の歌舞伎小屋「中村座」を復元する仕事では、設計図作成の補助と現場監督を担当。設計と職人をつなぎ、予算や工期、品質に気を配りながら現場を進めていった。

​​「現場では、伝統的な木造建築と長い時間向き合うことができた。ここで学んだことが独立してからの仕事の基礎になっている」と奥隅さん。日本の伝統建築は、解体修理すれば再び組み立てられる優れた建築であること。それを長く使い続けるためには、破損や腐食しないように、メンテナンスしやすいように作ることの大切を学んだという。

​​古い建物は歴史を伝える、一つでも多く残したい

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​​独立して事務所をかまえた上尾市は、生まれてからずっと住み続けている場所だ。ここには江戸時代、江戸の日本橋と京都の三条大橋をつないでいた「中山道」が通る宿場町だった。建物は高度経済成長期にほとんど建て替えられたものの、わずかに土蔵の商家が残っていたが、奥隅さんが独立してすぐ、旧道拡張工事によって建物が解体されることになった。聞きつけた奥隅さんは、計画していた上尾市の担当者に直談判。「古い建物がなくなるということは、景観がなくなり、宿場町だった歴史が忘れ去られてしまう」という危機感が、背中を押した。それまで特に地元での実績はなかったというのに。

​​担当者は所有者と話してくれたり、移築を検討してくれたものの、結局、取り壊す結果となった。せめて記録を残すということになり、上尾市は、取り壊す前の調査を奥隅さんに依頼。これは、予定にはなかったものだという。調査した歴史や構造は、一冊の調査報告書として残された。

「建物がなくなってしまったことは今でも残念」と話す奥隅さんは、その後、市の文化財保護審議会の委員を務め、市内の建物の調査、報告書作成も依頼されるように。その中には指定文化財になったものもあるという。現在は荒川河川集落の歴史建造物保存活用に関わり、建物を残し、長く使い続けることの提案に精を出している。

​​奥隅さんは言う。「長く使い続けている家は、歴史の一部で、人々の思い出、地域の財産そのもの。大切に残していくべき存在だ」。

昭和を代表する日本画家・東山魁夷のことばがある。「古い家のない町は想い出のない人間と同じである」。これを、胸に刻んでいるという。

​​長く使うことを前提とした調査は、建物を生かすことにもつながるのではないか。例えば、全国的に問題になっている空き家は「危険だから、近隣に迷惑だからの一言で取り壊すのではなく、調査によって価値を発見できれば、残すことができるのではないか」と奥隅さん。増加する自然災害による建物の損傷・解体についても、適切な調査による活用の可能性を考えている。

​​奥隅さんの事務所名「千尋」は、現場の職人さんから聞いた言葉だ。茅葺を解体し束ねるとき、ひもを一尋(ひとひろ/両手を広げた長さ)に切って使う、と教えてもらった。千尋は一尋の千倍、転じて、非常に高い、深いという意味を持つ。

なぜ建てるのか、なぜ残すのか。ひとつひとつの仕事に、深い意味を見出しながら、向き合っている。

● 取 材 後 記 ●

>2019年に起きたフランス・パリのノートルダム大聖堂の火事では、修復費用として1000億円の寄付金があっという間に集まったという。価値があるものとして認められた建物を守ろうという動きは、心強い。建物の価値とは、優れた建築技術であったり、歴史的に重要なできごとが起こった場所であったりすることで生まれる、と考えていた。しかし、奥隅さんと話すと、それだけではないと思わされた。

奥隅さんが修復した民家たちは、言ってしまえば名もなき建物。価値も、文化財と比べると低いと認識してしまう。しかし、写真でのビフォー・アフターを見ると、これは残すべきものだ、と素直に思った。古いからこその美しさ、趣には、目を見張るものがあった。

よく考えれば、どんな民家でもそこで暮らしてきた家族のドラマがある。商店だってそうだ。歴史をひっくり返すようなことは起こらなくても、日々の営みはそれだけで建物に、何かエネルギーのようなものを与えるのだろう。
その価値を、きちんと認めていきたいし、そういう世の中であってほしいと願う取材となった。

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 千尋建築事務所 奥隅俊男さん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(写真一部は奥隅さん提供)

時代と共に自分の関心も世の中のニーズも変わって当然

埼玉県越谷市で設計事務所「けやき建築設計」と建築施工会社「欅組」を営んでいる畔上順平(あぜがみじゅんぺい)さんのご紹介です。

畔上さんは、1976年生まれで現在43歳。生まれも育ちも越谷で、地元越谷を離れる事なく、東京の学校や会社に通い、29歳で「けやき建築設計」を設立。現在は同じく地元越谷生まれの奥さんと10歳の娘さん、6歳の息子さんの4人家族だ。

元々設計事務所だけでスタートし木の家を中心に作ってきたが、住む環境や自分を取り巻く状況などによって徐々に興味関心が変わってゆき、設計行為だけでは物足らなさを感じ、実際に手を動かして作ることに関心が出てきたそうだ。

「ちょっと直してよ」とか「まとめてやってよ」という依頼が増えていく中で、徐々に自分で職人さんを手配したり仲間が集まってきたりと、建築会社らしくなっていったとのこと。今では設計から施工まで一貫して引き受けられるように「けやき建築設計」と「欅組」の両輪を廻している。設計だけの仕事・施工だけの仕事・設計施工まで一貫して引き受ける仕事など、様々な立場で仕事をされている。

デザイン設計・職人さんの技術・本物の素材を使うという3点がクリアできていれば手段やポジションは問わないというのが社内での共有意識だという。

「オールラウンダー的な感じです。時代と共に自分の関心も世の中のニーズも変わっていく訳ですし、ベースとなる得意分野から少しずつ領域を広げていくというのは、当然なのかなと思っています。」


その家、本当に必要なんですか?

また、家族の存在も今の仕事の方法論に影響を与えている。

「我が家はみんな越谷なので『視野が狭いね。そこしか見えてないんだね。』なんて声も聞こえてきそうですが、逆に越谷という共通言語が家族内にあるというのは、広がりはないですが、ガッチリとした連帯感があります。家族を通して地域の暮らしを見つめ直している時期ですね。ですのでお客さんに対してもそういう目線で提案できるようになりました。」

例えばこんな提案だ。

「新築で家を建てたいと相談に来たお客さんに『本当に必要なんですか?』と言ったことがあります。もちろん『なんでそんなことを言うんですか?』という反応をされる訳なんですが、『いや、もったいないからです。ローンも含めて何千万円も払うわけじゃないですか。それをやめればいろんなことにそのお金を使えますよね。』とお答えしています。ご両親の家はガラガラだったり土地が余っている場合などもよくあります。一時的に我慢をしたくなかったり、同居できない理由を一生懸命考えるんですが、逆に我慢せずに一緒に居られるようにするためにはどうすれば良いかと言うことを、設計や計画で解決できる場合もあるということを提案しています。」

かなりプライベートな部分にまで踏み込んでいく印象だ。

「もうそこまで踏み込んで提案する産業にしていかないとダメだと思います。日本って住宅に対するお金の掛け方が異常じゃないですか。一代でローンを組んで、晩年までお金を払い続けて、完済した頃にはもう老朽化して壊したり、不要になって空き家になったり。そんなシステムは非常に良くないと思っています。もう新しい家ばっかりいらないんです。ちょうど世の中的にもリノベーションとか既存ストックを有効活用することが認知されてきているで、お客さんに対して『まだ捨てなくていいんじゃないんですかね?』『大切にしませんか?』と提案できる良いタイミングかなと思っていますし、提案していかなければならない立場にいると思っています。」

何がそこまで畔上さんを本気にさせるのだろうか。

「自分の地元のことだから本気で考えられるんです。死活問題ですから。遠い地方から依頼されて知らない人や知らない街のためにする仕事だと、どうしてもここまで本気で取り組めないと思うんですよ。地域のコミュニティ・アーキテクトとか小さい単位での建築士の役割が非常に大切だと思います。」


外注という言葉は存在しない。〝チームけやき〟で作り上げる。

次に会社のスタッフや職人さんとのやりとりについてお話を伺った。

「うちの技術系のスタッフは自分以外に2名が監督として在籍しています。まだ両名とも若いのですが、お客さんとの打ち合わせ・調査・積算・見積もり・工事の契約・管理監督・引き渡し・アフターメンテナンスまでワンストップでやる仕組みにしています。もちろん得意不得意が出てくる部分もありますが、全部トータルで経験してもらって、徐々に自分の得意分野に特化してやっていってもらえばいいかなと思っています。」

実際の業務では信頼関係を築いてきた職人さんたちと監督とで案件ごとのチームを組んで進行している。監督が若手である一方、職人さんは40代を中心に若手から年配まで様々だという。

「一緒にチームで仕事をするので外注という言い方はしないようにしています。職人さんたちも自分たちを〝チームけやき〟と呼んで愛着を持って取り組んでもらえているので嬉しいです。『信頼関係が一番』というと薄っぺらいように聞こえますけど、それが全てなんですよね。大手ゼネコンの仕事のように一から十まで管理して進めると、僕らのやっているような家づくりでは全然仕事にならないでしょうし、いいものにもなってこない。『ここは全部任せたよ』と言って、各々の責任で仕事をしてもらっています。信頼しているからこそ、この言葉を発せられるし、受け止めてもらえるのではないかと思っています。」

「また、監督である若いスタッフに対しては、私がずっと張り付いて、ああしてこうしてと指示を細かく出すこともできますが、それはしないようにしています。その中でも一定以上のクオリティの建物を作ることができているのは、やっぱり職人さんの力があるからこそなんです。監督という立場ではありますが、及ばない部分は、実際は職人さんが補填してくれている訳です。監督として管理はしていますが、逆に職人さんから教わって学ばせてもらっている状態ですね。それが出来ているのは職人さんの技術や人間性が高いレベルで保てているからだと感じています。」

きっちりと模型を作ることもチーム内の意識を統一するために重要だ

畔上さんはよくスタッフに『他の工務店にパッといって同じ仕事ができると思ったら大間違いだから。』と言っているそうだ。だからと言ってどこでも潰しが効くような育て方に変えるつもりはないとのこと。

「上手くいっているチームにいて失敗が少ないから監督はそのことがわかんないんです。あんまり成長しないんじゃないかとも思われますが、いいものを見て、いい仕事をちゃんとやるということを覚えて、いい経験を積み重ねていってくれれば、いつしか今度は若い職人さんを引っ張りあげる力になるんじゃないかと考えています。」

「そうやって、職人同士や設計者同士の枠を超えて、技術やノウハウが行ったり来たりしながら伝わっていくことで、次の世代に引き継がれていくという形もあるんじゃないかと思うんです。同じことをやるにしても、立場や専門分野によっていろんな見方がある。それを受け入れられるようになってくると成長して行くんじゃないかな。そんな学びの場でもある〝チームけやき〟が、きちんとクオリティの高い建物を作り上げて、お客さんに届けられているということには、誇りを持っています。」

一般的な手法とは一線を画す考え方で若手を育ててられている畔上さんの話にはうなずくばかりだが、チームメイトの職人さんの場合はどうなのだろうか。職人さんの話になると必ずといっていいほど話題に挙がるのが後継者問題。畔上さんは何を感じ、どう考えているのか質問してみた。

「自分の周りの職人さんの場合も、やはり後継者をどうするかという問題には直面しています。僕は直接は関係していない訳ですが、実はあえてそこに介入しています。」
「ただ『継ぎなさい』と無下にいうのではなく、例えば『お父さんのやっている仕事は本当に素晴らしいから、受継げば必ず需要もあるし求めてくれる人も沢山いるよ。自分たちも真剣にやっているから一緒に仕事をやらないか?』と言って迷っていた息子さんを誘ったりしています。やっぱり第三者が介入しないと、親子だけではこいうった話はすんなりは進まないんですよね。」

家づくりにも、後継者問題にも、懐に一歩深く入り込むのが畔上流だ。


七左の離れ屋:「離れ屋」がある家を作るというのがテーマであり共通認識だ。第二回埼玉県建築文化賞住宅部門、最優秀賞受賞。

共通テーマがあると、みんなでそこへ向かっていける

けやき建築設計のウェブサイトを見ていると施工実績に並んでいる建物の名前が気になった。一般的に〝どこどこの家〟というネーミングが建築関係者のセオリーだと勝手に思い込んでいたので、〝原点回帰の家〟〝森の舟屋〟〝和の暮らしと趣を残す家〟といった名前は意外に感じ想像が膨らんだ。

「共通したテーマがあるとみんなでそこに向えていいなと思ってずっとやっています。迷った時に共通認識があると指針になるんですよね。お客さんともそうですし、スタッフ間や職人さんとの間でもそうです。少し話が脱線しますが、主に越谷だけを中心に建築の仕事をやるとなると、例えば〝石場建てしかやりません〟〝住宅しかやりません〟だと絶対量として仕事が成立しません。ですので手段としての領域はかなり広くできるようにしています。そんな中でいろんな仕事をしていると、スタッフや職人さんも何をするべきか迷ったり、ビジョンがぼやけちゃうんです。そこでテーマを設定することで、各々のやるべきことが明確になり、向かうべき方向を共有できるというメリットがあります。」


七左の離れ屋

2009年竣工。暮らしに色気を求める建主さんのために、住まうための機能だけに偏らず、モダンで美しい日本家屋を建てたいとの想いで、母屋とは別に〝現代の数奇屋〟のような離れのある家を作った。〝離れ屋〟がこの家の名前でありテーマという訳だ。

写真:©︎KAWABE akinobu

10年前を思い出しながら各所を見てまわる畔上さん

左:「時間が経った時によくなる家がいいですよね」というデッキは栗の木 / 中:版築の塀はワークショップで作ったので人によって層の仕上がりが違う。そこがまた面白い。 / 右:とにかくいいものを作りたいと言う時期だったので、特に細部までこだわって作っているという。(写真 左・中:©︎KAWABE akinobu )


自然と共に生きる家

こちらは今年竣工したばかりの30代のご夫婦の住まい。新築ではなく祖父母が住んでいた家を活用した。

とにかく自然素材で行こうということで設定したのが〝自然と共に生きる家〟というテーマ。モルタルの外壁は全て県内産の杉材に張り替え、グラスウールの断熱材はみんなの共通認識として使いたくなかったので、替わりに壁の中にも杉の板を敷き詰めた。普段では考えられない方法もテーマを設定すると生まれてくる。工事で出た廃材は薪ストーブの燃料になっているそうだ。

〝七左の離れ屋〟に比べるとリフォームとはいえザックリした仕上げ。設定したテーマによって〝どこにこだわるか〟が違う全く違う。決して手を抜いている訳ではないのだ。

県内産の杉材をふんだんに使っている

「テーマの下で作っていくとやっぱり出来上がるものが違うんですよね。お客さんと打ち合わせをしていく中だったり、建物の特徴だったり、色々出てくるキーワードをかき集めて『これでいきませんか?』と提案しています。関係者間で何か議論になった時でも、『テーマがこうだからこうしよう』と堂々と会話ができ、みんなが納得に達するのが早いんです。そうすると大きなミスや『話が違う』みたいなことにもならないんです。結果としてお客さんからの満足度に繋がりますし、つくり手のやりがいも出てきます。」

ここでもまた畔上流を感じた。


越谷は俺が守る

木の家を多く作ってきた畔上さんだが、最近では店舗やカフェなども手がけている。そこにどんな変化があったのだろうか。旧日光街道にある実際に手がけたお店を案内してもらいながら話してもらった。

まず連れてきてもらったのは、3年前の2016年12月に完成した〝CAFE803〟。
「日光街道にもう一度人が集まる場所を作りたい。」「越谷にサードプレイス的な場所を作りたい。」そんな想いでスタートしたプロジェクトで、現在では越谷に住む人たちのコミュニティスペースとして定着しており、想い描いていた以上の活用のされ方に驚いているそうだ。

かつての日光街道の顔つきにしたかったので、ガラスの大きな引き戸と土間という形態にした。それが共通言語(テーマ)だ。

「『そもそも日光街道を賑わせる必要があるのか』というところから議論をスタートし、『川越のような賑わい方を越谷は求めていないんじゃないか』という意見に今のところ落ち着いています。その中でも越谷で暮らす人たちが心地よく使えるような設え・店構え・街並みとはどんなものなのかと分析しながら進めている最中で、トライ&エラーの連続です。いつの間にか仕掛け人みたいな感じになっています。(笑)」

「仕掛け人です」と笑う畔上さん

「自分の興味関心が家からまちに広がっているんです。〝いい家が出来ていけば、いいまちが形成されていく。いいまちが出来れば、そこに住む人々の暮らしが豊かになっていく。〟という感覚を持っています。地域の価値が上がっていくことであれば、どんなことでもやっていこうと考えています。そういう想いで日々の仕事に取り組んでいると不思議なことにお店からの依頼が来るんですよね。そしてそのお店に足を運んでくれた人たちから伝播して、また次へと繋がっていって…という風に店舗やカフェを手がける方向に活動が広がっています。」

独立当初は、建築業界や全国基準などを気にして〝自分がどのくらいのことをしてやっているのか〟という軸で仕事をしていたそうだが、最近はそれよりも〝越谷に身を置いているので、越谷の暮らしを良くしていこう〟というスタンスで仕事をするように変わってきたそうだ。

「全国から越谷だけに視野が狭くなったという訳ではないんです。地域をより良くしたい、良い状態を保ちたいという想いで仕事をしている建築関係の人が、木の家ネットの会員をはじめ全国にたくさんいます。各地域に広がるその想いの輪が重なり合って、徐々に日本という国を覆い尽くすといいなと思っています。その中で「越谷は俺が守る(笑)」みたいな想いを胸に取り組んでいます。

地域のパートさんの手によるランチ。ほっこり落ち着くおふくろの味だ。

左:いろんなことをやっている人が越谷にいるんだという、潜在的な魅力の発見にも繋がっている。 / 中・右:ワークショップや催事の予定がぎっしり。最初はここまで埋まるとは予想していなかったそうだ。


一軒でも多く残すことが地元の建築屋の使命

続いて案内してもらったのは、同じく旧日光街道沿いにある2018年4月にオープンした〝はかり屋〟。

およそ築120年の〝旧大野邸 秤屋(はかりや)〟を、こだわりのショップ・レストラン等、当時の宿場の雰囲気を体験できる古民家複合施設として生まれ変わらせた。「人々の想いやまちの歴史を過去から現代そして未来へと繋げていける存在であり続けたい。」との願いが込められている場所だ。

奥へ奥へと4棟が繋がっている。桁と架を入れ替えて屋根を戻してある。

「佃」が元々の屋号だった

「ベッドタウンだと思ったのにこんなところあるんだ」とびっくりされることが多いとか。「もともとはこの日光街道沿いはこうだったんだよ。」というとさらに驚かれる。「外から流入してきた人が多いのでみんな知らないんですよね。」と畔上さん。

「だから地元に昔からいる人間としては、物を残すことが大事だなと思います。一度壊してしまうとただの昔話になってしまう。そうすると『ふーんそうなんだ』で終わってしまうけど、こうやって目に見える形で残して、そこで体感してもらうと一瞬で歴史を理解してもらえる。百聞は一見に如かずです。」

naya:名前の通り納屋だった場所。ギャラリーと貸しスペースとして生まれ変わった。

minette:キッシュとフレンチ惣菜のお店

「こういった建物を一軒でも多く残すことが地元の建築屋の使命かなと思っていて、ロールプレイングゲームのように楽しみながら携わっています。単純に受注されたものだけを直したり作ったりというだけのペースだと、古い建物はどんどんなくなってしまって、まちなみを残すことはできません。使命を果たすために、はかり屋もCAFE803も自分から運営にコミットしていっています。」

土間には群馬県藤岡市のダルマ窯の焼かれた藤岡瓦を敷いた。蔵の表情とも相性が良い。

傾いていた部分と、新設の水平のものとすり合わせるのが苦労したそうだ。目の錯覚も利用しながらうまく帳尻を合わせている。

「ただ結局〝他人の家〟なんですよね。『残してください』と言ってもおこがましいので『こういうことをやれば残せるんじゃないんですか』という提案の部分まで入り込んでするようにしてます。いきなり外部のコンサルみたいなのが来ると『なんだこいつは』みたいな印象を持たれてしまい、入り込むどころか門前払いされてしまいますが、はかり屋やCAFE803もやっているという実績があれば『任せてみようか』という流れにもなっていきます。」

地域密着で建築やまちづくりを地道に続けることにこそ、地方の建築士や工務店の活路が見出せるのではないだろうか。


どれだけの人が本気で関わることができるか

設計だけから設計施工へと、家づくりからまちづくりへと、自身の興味関心と共に活動範囲を広げていっている畔上さん。今後や将来に対してはどんなビジョンを描いているのだろうか。

「ハウスメーカーなどの家に比べたら、自分たちの作っているような木の家は決して安くはないので、いい家が欲しいけど手を出せないという人も多いもしれません。だったら、リフォームをしたり店舗を作ることに対して同じような想いで取り組んでいった方が、より多くに人に自分が良いと思っていることを伝えていけるんじゃないかなと思っています。もちろん一軒の家を建てて、一つの家族に満足してもらうことは大きな喜びではありますが、より多くの人に体験してもらえる形で、自分たちのやっていることを伝えていく事にこそ、いろんな活動や運動をやっている意味があると思うようになりました。」

「越谷で自分も色々やっているつもりですけど、結局盛り上がっていくスピードと落ちていくスピードを考えたら、落ちていくスピードの方が速いんですよね。そのエネルギーをとてもじゃないけど自分一人では維持することも加速させることも難しいので、仲間や共感してくれる人を増やしていきたいですね。」

そこにどれだけの人が本気で関わることができるか。越谷だけではなく、各地方のまちづくりにおけるターニングポイントだ。


けやき建築設計・欅組 畔上順平(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

一歩足を踏み入れると、まるで背筋が伸びるような、凛とした別世界・・・埼玉県新座市の内田工務店が手がけた木の家は、そんな空気をまとっていた。

内田工務店は、現在の会長である内田光男さんが、いち大工から叩き上げで大きくしてきた。
大工の道に入り、職人を束ねる棟梁、そして社長として役割を変えながら、木の家と真剣に向き合ってきた。内田さんは、「木の家づくりには、ひとりの職人を一人前にしてくれる懐の深さがある」と力を込める。これまで約15人の弟子を育て、施主に喜ばれる家づくりの輪を広めている。

木の家づくりで人を育てる

「木の家でないと、大工は育たない。プレカットではだめだ」。内田さんはまなざし鋭く、こう言い切る。
手刻み、木組みの木の家づくりに必要な能力は、数多あるという。全体を見ながら細部にも気を配ること。木や土など、自然から生まれた個性ある素材を組み合わせ、美しく仕上げること。粘り強く時間をかけながらも、納期を意識すること。何より、単なるものづくりでなく、財産づくりそのものだ。

施主の中には、家づくりのためにストレスを抱えたり、借金を背負ったりする人もいたという。家をつくる大工には、責任感が重くのしかかる。

内田さんはその責任感を、10代で弟子入りした時からひしひしと感じてきた。幼いころから手先が器用だったことから、親戚の大工のもとで修行。26歳で独立した。30代で法人化。72歳になった今は、会長として工務店を支える。

新座の商店街にある内田工務店。「一棟入魂」の文字が目をひく

「時代とともに、家づくりの考え方が変わってきた」と内田さん。以前は、大工と施主が、世界にただ一つの家を「なにもないところからつくる」ものだったが、ハウスメーカーなどの台頭により「あるものの中から選ぶ」感覚になってきているとみる。そうなると予算ありきの買い物になり、手刻みよりも安く済むプレカットを使うことが、現実的な場合も出てきたという。

現在、内田工務店が手掛ける家づくりで、手刻みとプレカットの割合は半々くらいだ。工務店に所属するのは職人5人、現場監督2人。加えて、事務を担当する従業員が3人いる。
工務店の経営や施主の予算を考えると、木組みや手刻みだけにこだわり続けるのは難しい状況だというが、「職人を育てるという視点では、木の家づくりをゼロにしてはいけない」と考えているという。

こう考えるには、わけがある。内田さんは修行時代から造作仕事が得意で、「建物の線が綺麗と言われるのが、嬉しかった」という。
腕を生かせるのが、木組み、手刻みの木の家だった。寺の鐘楼堂や、数寄屋風の家づくりにのめりこんだという。

寺の改修工事をした時、住職に書いてもらったという思い出の木札

しかし独立してひとりで仕事をするようになると、壁にぶつかった。「俺はいい家を建てられる、という自信があったが、腕は2本しかない。喜ばせられる施主さんの数も少なくなってしまう。俺と同じ仕事ができる人間をつくろう」との思いから、弟子をとるようになった。

地元の若者を紹介してもらったり、大工育成塾の受け入れ先になったりして、さまざまな弟子と出会ってきた。「何もわからない若造が、腕を磨いて、一軒建てちゃうんだぜ。感動するよ」と内田さん。そのためには時間が必要で、時間をかけて作り上げる木の家が最適なのだと強調する。

その時間も、ただかければいいというわけではない。大工の技術には、単に美しく仕上げるだけでなく、効率よく作り上げる知恵が詰まっているのだという。積み重ねてきた伝統の成せる技だ。マニュアル冊子があるわけでもなし、職人同士、手を動かし、言葉をかけながら伝えていくしかないのだ。

大工から社長、そして会長へ

修行した弟子のほとんどが、地元で工務店を立ち上げ社長として活躍している。削ろう会で賞をとった人もいて、「自慢の存在」と誇らしげだ。

一方で、「誰もが俺みたいな仕事ができるわけじゃない。向き不向きがあるから、やめたってかまわない」と思うようにもなった。そして、「いくら腕がよくても偏屈では通らない。施主さんを喜ばせようって気持ちで仕事をするよう伝えているつもり」と笑う。

伝統を受け継ぐ大工と、人を育て経営を担う社長、それから、職人を束ねる棟梁の両立。
「バランスをとろうとか、理想があってやってきたわけじゃない。施主さんの要望に応えようと、一軒一軒真剣勝負してきただけ」と振り返る。
その結果は、現場から経営まですべての経験として、内田さんの中に積み重ねられている。

令和に時代が変わり、同工務店も8月、息子の健介さんに社長職をゆずった。光男さんは現場を回るより、図面を書いたりと事務所で過ごす時間が増えた。

大きいテーブルで、従業員の顔を見ながら作業する。ほとんどの事務作業は手書きで行う

健介さんいわく、光男さんは「経験値がけた違い。頼りになる存在」と話す。光男さんも「信じて任せることで成長するから。なるべく口出しはしないようにしてる」とほほ笑む。

社長の健介さんとのタッグが心強い

自由設計で満足いく家づくりを

内田工務店のコンセプトは「自由設計の家」。この自由さが、施主の満足度を高める。

「無垢の木の家に住みたい」。このような要望があった市内の日本画家・Aさんは、内田さんとの出会いにより理想としていた数寄屋風のアトリエ兼住居に住むことができた。

この家の門は、木製の数寄屋門だ。雨や風を優しく受け止め、また、Aさんの手によって丁寧に磨かれることで、独特の風合いがある。内田さんは、「建てたばかりの真っ白な門もいいが、日がたってまたさらに深みが出たな」と目を細める。

門をくぐった瞬間、外の空気と違う空気が流れて、落ち着くような、懐かしいような、そんな気持ちにさせる。庭には、紅葉やイチョウなどさまざまな木が美しく連なり、季節を教えてくれる。

玄関を開くと、スギヒノキでできた壁や床のホールが、ぬくもりを感じさせる。正面にあるケヤキの小さな床の間に飾られた季節の花からは、温かみがこぼれるようだ。

「本物の木の家には、何十年経っても古くならない良さがある」と言い切る内田さん。Aさんも、「飽きないです。わびさびの世界に身を置くことは、日本人にとって心地よいことなんでしょうね」とうなずく。

玄関の横には下地窓(竹小舞の見える窓)をあけた土壁を配置。来客は驚き、手触りを楽しむという(左)。ヒノキの階段は、ホールの中で主張しすぎず、すっきりとした印象に仕上げた(右)

2人に、建設当時を振り返ってもらった。
Aさんは以前、ハウスメーカーの中古の一軒家に住んでいたが、住んでいくうちにとちょっとした違和感や住みづらさが出てきたという。「今思えば、合板や集成材といった材料にひっかかっていたんでしょうね」とAさん。

新築を考える際も、ハウスメーカーに相談したが、ドアノブひとつにしてもあるものの中から選び、そこに気にいるものがなければ、オプションで高額になるというスタイルが「自分にはしっくりこなかった」という。

インターネットで見つけた内田工務店は、内田さんにイメージを伝えると、新しいものを次々に提案してくれたという。数寄屋門や、家のサイズに合わせた小さめの床の間がそうだ。

内田さんの自宅である無垢の木の家を訪れた時には、その居心地の良さにすっかり魅了されてしまったという。さらに、内田さんの現場仕事が休みの日曜に、嫌な顔せず相談に乗ってくれたり、趣のある古材を探しに秩父まで同行してくれた姿に、信頼を寄せている。

内田さんの自宅の数寄屋門(左)と庭が見える居間の建具(右)。どちらも古くなることで趣が増す

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自宅内の建具の一部は、木の家ネットのメンバーから譲り受けたもの。「思い出が残ってるのがまたいい」と内田さん。

それから、憧れた無垢の木の家だが、心配だったのは値段だ。内田さんは予算内に収まるような工夫をしてくれた。

その一つが、玄関ホールの床板。見栄えがするところなので通常なら高級な床材を勧めるが、
ヒノキの木裏を使うことでコストを抑えた。

さんは「家が建っていく時のわくわくは、今でも忘れられない。私は人を感動させたいと思って絵を描いていてなかなか難しいのですが、大工さんは簡単にこなしてしまう」と話す。

Aさんは数寄屋風の家づくりにこだわったが、内田工務店の「自由設計の家」は、伝統的
な大工仕事だけにとどまらず、モダンなデザイン住宅も手掛けている。

施主の要望は多種多様。どんな形の家であっても、「本物の無垢の木を使うことで、住み心地のよい空間をつくりたい」というのが、内田さんの信念だ。それを実現するには、木の変化に対する深い理解と、高い技術力を持つ大工の存在が欠かせない。すべてはつながっているのだ。

「好きでこだわった仕事で、施主さんに喜んでいただき、人も育つ。こんなにありがたいことはない」と内田さんは語る。

● 取 材 後 記 ●

家づくりのスタイルと同様、働き方のスタイルも変わり、職を替えていくのが珍しくない現代。木の家にかかわり続けて50年以上という経験から生まれる存在感は、とてもまぶしかった。

こちらが質問すると、ぽんぽんとよどみなく答えが返ってくる。長年の経験を、きちんと整理、咀嚼している様子は一目瞭然だった。

あまりの明瞭快活ぶりに、「昔からこんな性格なんですか?」と聞くと、18歳の時、仕事中に大けがをし、大工を続けられるかの瀬戸際に立たされたことを打ち明けてくれた。「好きな仕事をやらせてもらえるのは、本当に幸せなことなんだよ」という言葉は、シンプルに、胸に突き刺さった。

内田工務店 内田光男さんさん(つくり手リスト)

取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(一部写真は内田さん提供)

結局、大工仕事が好き

訪れたのは熊本県八代市。土壁の家工房 有限会社田口技建の二代目 田口太(たぐち ふとし)さんにお話を伺った。

田口技建は父親の敏雄さんが昭和30年代に創業し、現在では職人5名を自社で抱える工務店であり、一級建築士の田口さんが設計をされる建築事務所でもある。特色は「土壁の家工房」と謳われている通り、土壁・泥壁にこだわって家づくりをされていることだ。使用する材木についても地元の製材所に頼んで自然乾燥で桟積みしておいてもらったものを職人の手で一点一点手刻みで加工造作している。またそれらの木や土については地元のものを使いエネルギーコストを抑えるように努めている。

「日本の建築文化で培われて来た先人の知恵や、技術を生かした伝統的構法を受け継ぐ家づくり、そして川上から川下まで顔が見える家づくり」がコンセプトだ。

田口さんはここ八代生まれで、父親の大工仕事を見ながら育ち、小学生の頃から大工になりたいと思っていたそうで、高校生の時にはすでに泥壁塗りの手伝いをしていたという。その後、父親の元に正式に弟子入りし、神社・寺院の修繕や新築の茶室の仕事などに精を出す傍ら、独学で勉強し二級建築士、さらに一級建築士の資格を取得する。

「けど、結局大工仕事が好きで、“設計のできる大工”みたいな感じです」と笑う。

手刻みで作業中の職人たち


秘伝の土

社名と共に“土壁の家工房”と書かれている通り、土壁の家を多く手掛けられてきた田口さん。そのこだわりはどこにあるのか尋ねた。

「元々こだわっていた訳ではないんです。八代は泥壁や土壁が昔から多い地域で、最近まで当たり前に目にしていたんです。それが時代と共にみんな辞めていってしまって、逆に目立つようになったんだと思います。本来は大工仕事オンリーでやっていたんですが、知れば知るほど面白い部分と悩む部分があり、大工でありながら土壁の魅力にのめり込んでしまったんです。大工と左官がいればほぼ一棟を自分たちで建てられる。職人の技術を活かしていけるというのが一番の理由ですね。」

「それからもう一つ、産業廃棄物の処理の問題がクローズアップされ始めた時期に見た光景が忘れられません。たまたまプラスターボードの切れ端などを最終処分場に捨てに行った際に、大型トラックがガンガン来て「グワーー!!」と大量の新建材をバンバン捨てていくのを目にしたんです。そうしたら目がものすごくチカチカしてきてその場に居られなくなり『このまま時代が進んで新建材を使った家が立て替えや改修の時期を迎え、もっと大量の新建材を破棄せざるを得なくなった日には、もう取り返しのつかないことになるぞ…』と見た瞬間に感じました。木と土壁なら全て土に還すことができる。それが二つ目の理由です。」

そんな想いから土壁を大切にする田口さんは、土壁のために赤土を“練り置き”する水槽を作業場に構えている。大工もみんな荒壁塗りをするそうだ。

左:見下ろすために立って操作する田口さん/右:赤土だが発酵して真っ黒になるが、日が当たるとまた赤に戻る。

左:水を加えながらショベルカーで練る/右:混ぜ終わるとフタをする。冬は温度が上がり発酵が早まる効果もある。

「水槽の容量は2トンダンプ8台分で、60坪の家一軒を賄えるほどの量とのこと。ここに藁スサと水を加えて混ぜながら1〜3ヶ月くらい練り置きする。赤土に藁スサを加えて練り置きすることで、藁に含まれるリグニン(分解するとノリのようになる)と納豆菌(発酵が進む)の影響で、十分に練り置きした土は、塗りやすさと固まった時の硬さが向上し耐候性が増すという。
次回のためにタネ土として少し土を残しておき、継ぎ足して使うことで発酵が早く進むので、田口さんはこの土を「秘伝のタレならぬ秘伝の土」と呼んでいる。

秘伝の土の改良のため、土の種類や混ぜ物の配合など日々研究中だ。


ピーンと響いたふたりの言葉

今から20年前、田口さんに“代替わり”という転機が訪れる。堅気で職人気質な父親に対して、自分がどういう方針で受け継いでいくのか、はっきりさせないとならない時期になっていた。
それまで普通にやってきた伝統構法の木造建築の他に、時代の流れ中でいわゆる“文化住宅”の仕事も手がけるようになっていた田口さん。今時の仕事ばかりが増え「培ってきた技術を活かせない仕事ばかりではダメになるよな」という意識もあったが、フランチャイズや高気密高断熱などの新しいものを取り入れた方がいいのではないかと、若かったので翻弄され悩んでいたそうだ。

そしてあるふたりの言葉が、そんな田口さんを伝統構法の木造建築家に立ち戻らせることになる。

「化学肥料・農薬が当たり前の時代なっているけど、我々農家は立ち返って昔ながらの考え方・やり方(堆肥を使うなど)でやって行かないとこれから先だめなんだよね。」

同じ八代で、い草農家を営むOさんの言葉だ。この一言に田口さんは「そうか、俺らも確かに高気密とか新建材とかじゃなくて、親父たちがしてきたような昔ながらやり方に立ち返った方が良いのではないか。」と考えさせられたのだという。

「窓を閉めたら高気密、開けたら高気密じゃないとか危ないよ。自分がやれること、得意とすることをやればいいんじゃない?今までやってきた自信の持てることをやった方がいいよ。」

この言葉は工務店の先輩のMさんに「高気密高断熱の家を扱ったりフランチャイズにした方が、この先良いんですかね?」と相談したところ返ってきた言葉だ。

「ふたりの言葉がピーンと私に響いたんです!」と声を大きくする。

ちょうど今、田口さんに影響を与えた、い草農家のOさんの自宅を建築中とのことで現場を案内してもらった。


昔からの建築と昔からの畳

八代市内で絶賛建築中のい草農家「ファミリーファームOKA」を営む岡さんの自宅は、約60坪の平屋。大工仕事はだいたい終わっていて、これから左官仕事が本格化する段階だ。

モルタルを塗っているのは左官職人の高植さん。最終的には漆喰仕上げになる。

内装の荒土は自慢の練り置きしておいた赤土で、この後塗る予定の仕上げの漆喰にはい草の粉末が混ぜ込んであり消臭効果が期待できる。最初は緑色っぽく5年程経つと茶色に変化していくという。畳と共に部屋全体が経年変化していく。もちろん岡さんのい草を使用している。

施主の岡さんと共に

まっすぐと東に伸びる廊下の先には緑の田んぼが広がり、室内をほんのり緑色に染めていた。実はこの窓、お正月には初日の出が真正面から差し込んでくるという粋な設計になっている。また、まだ見ることはできなかったが、部屋ごとに違う畳を配する予定で、子供部屋には一部に色を混ぜるなど、い草の老舗ならでは内装になりそうだ。

「昔からの建築と昔からの畳で、どの部屋も全部こだわっている。」と田口さんも岡さんも口を揃える。

大工仕事は田口さんの長男・柾哉さん(26)が墨付けから手掛けている。他社で経験後5年前に田口さんの元に戻ってきた。

伝統構法の家をつくることについて尋ねると、「ずっとやっているやり方なので、これが当たり前です。まずは仕事を覚えていきたいです。」と心強い返事が返ってきた。

左:作業中の息子・柾哉さん / 右:い草について語る岡さん

「親が弱ってくると息子がしっかりしてくるものだよ。」
そう笑う岡さんもまた、息子の直輝さんとともに、い草と向き合っている。

実は岡さんの経営する「ファミリーファームOKA」は、木の家ネット記事(2019年3月1日公開・加藤畳店 加藤明さん)にも登場しており、鎌倉の設計士・日高保さんがイチ押ししている「すっぴん畳表」を製造している。敷地内にある工場を案内してもらった。


唯一無比のすっぴん畳

畳を知る人なら「すっぴん畳」と言えば「岡さんの畳」を指すという。業界では有名な岡さんの畳は唯一無比の存在だ。
なぜ“すっぴん”かというと、通常、い草を収穫して乾燥させる間に「泥染め」という工程を経ることで、早く均一に乾燥させることができるのだが、「すっぴん畳」はその工程を経ることなく乾燥させているため、い草本来の緑色をしている。また、細胞の構造を崩すことなく残しているため、植物としての水分を吸ったり吐いたりする機能を有しており、吸湿性も優れている。無洗で乾燥させることは特に難しく、業界初の技術を確立しているからこそ実現できるのだそうだ。7〜8年経つと光沢が増し黄金色に変わり、部屋自体が明るく感じられるようになる。

「『畳表の色が変わる』ことをマイナスなイメージとして捉えられてしまう場合もあるので、黄金色に変わるということをきちんと説明する必要があります。(岡さん)」

「木の家そのものも同じで色も変わるし経年変化もする。それがその建物の“趣”となるんです。(田口さん)」

この機械で織っていく。大切にメンテナンスをしながら使っている。

田口さんはこのい草の残材を土壁の貫伏せに使う。藁よりもピンとしてハリがあり塗り込みやすい上に、割れ止めにももってこいなのだという。

左:防カビ剤には乳酸を活用した、体に優しいものを使用している。/ 中央・右:市松やカラーなど様々な製品が生み出されている

未来を担う息子たちへ伝統技術を受け継ぐ。

「何百年という歴史をこの21世紀で終わらせてはならない。つくり手も住まい手も、目先の欲だけで生きないようにしなければ。(岡さん)」

かつて田口さんを動かした恩師の言葉に、筆者も心を動かされた。


地震の傷痕をあえて残す

次に事務所近くの田口さんの自宅を案内してもらった。2015年に建てたもので、モデルハウスとしても活用している。外壁は経年変化見てもらうため、塗装は施していない。

玄関の戸は友人宅の蔵で使われていたもの

左:開放感のある内装 / 右:スキップフロアの階段から

左:居間を囲う洗い出しの土間 / 中央:居間スペースは荒壁仕上げ / レンガのタイルは油汚れも気にならない

土間が好きだという田口さんの自宅は、洗い出しの土間でぐるりと囲まれた居間スペース中心に、吹き抜けがあり、廻りにスキップフロアが設けられ寝室、子供部屋へと上がっていく形になっており、遊び心が感じられる。
エアコンは1台で、夜の数時間だけ湿度を下げるために使っているくらいで、後は来客時に点ける程度。ほとんど扇風機だけで快適に過ごしているそうだ。

左:まだ未完成だという風呂場は、洗い出しの浴槽と杉の赤身の落ち着いた空間だ。 / 右:風呂場の他にも数カ所設けられている無双窓

地震の影響がどの程度あったのか伺った。

「熊本地震ではすごく揺れました。伝統構法の家は揺れていいんですよ。本震の時、込み栓(仕口を固定するために、2材を貫いて横から打ち込む堅木材 )が『ギュッギュッ』と音がして、だんだん戻っていきました。震度5強くらいで泥壁が落ちると言われているんですが、震度6弱でも落ちなかったので、相当保つもんなんだと感心しました。」

経年変化を見てもらいたいので、地震の傷痕はあえて残している。耐久性の実験でもある。

「窓際はズレて割れていましたが、徐々に戻っていって、力を逃しているというのが身を以てわかりました。この家は固定していたんですよねぇ。“動くなら動く。動かさないなら動かさない。”とするのがいいんだと思います。いい経験をしました。今ちょうど建てているのは、土台は使うけど、ただ乗せるだけの家です。」

「この辺りは干拓地が多いのですが、その境目の辺りでは地盤が揺れ、液状化した地域もありました。瓦の被害が多く修繕に多く周りました。今も建て替えや修繕の依頼が入っています。1年以上待ってもらわないとならず、お断りせざるを得ない場合もあり心苦しいです。」

人手が足りていない状況が続いており、特に左官さんが足りていないという。左官さんの方から「泥壁の修繕をしたことがないからお宅でどうにかなりませんか?」と連絡をもらったこともあるそうだ。

昔は普通にあった職人の仕事。それが今ではめっきり減ってしまい、復興に大きな影響を与えている。


大工としてやるべきこと

田口さんは“大工育成塾”や“やっちろ版職人塾”など、若手の育成や職人どおしの繋がりを深める活動に力を注いでいる。その原動力について語ってもらった。

「最初に大工育成塾の受け入れ先になって欲しいと依頼された時や、他にも新聞記事を書いて欲しいと依頼された時なんかは、『いや、いいですよ。ウチそんなレベル高くないし』と言って遠慮してたんです。そうしたら『そういうことじゃなくて、求めてる人がいるんです。その人たちのために情報発信をしていかなければならない。記事を書いたり何か発信していく活動をしていけば、そこから人が繋がっていく。だから自分が篭っていたんじゃダメよ!』と言われ『あぁそうか、そういうことですか。それならわかりました。』とハッとさせられましたね。」

「その延長線上に今の自分がいるんです。こういった活動はずっと追い求めていかないと萎えてしまうので、常にいろんなことを見て・聞いて・勉強し続けています。そして自己満足で終わらせるのではなく、自分が学んだことを、職人や息子たちに受け継いでいってもらえるように、きちんと伝えることが自分の責務だと思っています。そして、一緒に頑張ってくれる職人さんもいないと成り立たないので、自社だけではなく地域に居る職人さんに対しても伝統技術を伝えていくために“大工育成塾”や“やっちろ版職人塾”の活動を始めました。」

家づくりに、次世代の育成に、真っ直ぐ向き合う田口さん。ふたりの息子さんや自社の職人さんにはどういう職人になっていって欲しのだろうか。

「育って巣立っていってもらいたいですね。そこから自分でやって初めて一人前。『たまにウチを手伝ってくれ。ウチも手伝いにいくよ。』そんな関係がずっと繋がっていけばいいなと思っています。そうやって職人が活躍できる家づくりを残していくために、各々が自分の役目を果たさなければならないと考えています。」

最後に、田口さんが作ったというポスターに書かれた言葉を紹介してくれた。

『大工としてやるべきこと それは日本の建築技術と伝統文化を受け継ぐこと』

この言葉に田口さんの大工としての覚悟・使命感が表れている。

左から、雄士さん(次男・23)、柾哉さん(長男・26)、田口さん(52)、水本さん(57)、高植さん(42)。他に古島さん(54)、杉本さん(33)も在籍する。


 

土壁の家工房 (有) 田口技建(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

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