今回の伊藤松太郎さんへのインタビューは、つくりあげたばかりの木の家への往復路、車の運転中に行わせていただきました。日本の夏の暑さが厳しさを増すなか、長野や山梨の高原地には都心からの移住者も増え、伊藤さんの元にはそういった方々からのご依頼がくるそうです。
お父様が引退され、ひとりで家づくりをされるようになった伊藤さんに、高原地ならではの家づくりと節目を迎えた今の心境を伺いました。
伊藤松太郎さん(いとうしょうたろう・36歳)プロフィール
1988年長野県諏訪郡生まれ。一級建築士、大工。父の寛治さんが営む伊藤工務店の作業場を遊び場にし、大工たちの仕事ぶりを見ながら、自分も大工になることを思い描き育つ。物づくり全般に興味が広がり、母が美術大学出身でその影響もあって、デザインを学ぶため東京造形大学に進学。卒業後は埼玉県の綾部工務店で7年の大工と設計の修業を積み、故郷に戻り、伊藤工務店を継承。
⎯⎯⎯ 本日は、つい数日前にお施主さんに引き渡しをされた新築物件をご案内いただけるとのことで、楽しみにやって来ました。
伊藤さん(以下、敬称略)「僕も、みなさんにお見せできるのがとてもうれしいです。お施主さんが、公開をお許しくださったおかげですから、感謝しかありません。
そもそも、僕につくらせてくださったことが本当にありがたいことです」
⎯⎯⎯ どのような経緯でご依頼をいただいたのでしょうか?
伊藤「日本の伝統的な建築法をいかした木の家を建てたいというご希望で、ネットで調べられて僕の親方である綾部孝司(埼玉県・綾部工務店 つくり手リスト)さんに依頼されたんです。ただ、土地が長野県なのでとても通いきれないということで、親方が僕のことを紹介してくれました」
⎯⎯⎯ 信頼されているんですね。その親方のもとでの修行時代について教えてください。
伊藤「こうやって家づくりについて僕が語るなんて、怒られそうでちょっと緊張しています(笑)。建築士としても大工としても尊敬する、頭が上がらない厳しい親方です。
僕も大工になるなら、手刻みで木構造がちゃんと見える真壁の家づくりをする大工に絶対なるんだという思いがあったので、門をたたきました。
日本の伝統工法を守り伝える立場をとっていて、僕ら弟子にもそういった家づくりを経験させてくださいました。親方はもちろんですが、先輩との力の差にも悩み苦しんだ修業時代でした」
⎯⎯⎯ 美術大学を卒業されていますが、建築を学ばれたんですか?
伊藤「いえ、グラフィック・デザインです。うちのウェブサイトは大学時代の友人たちにつくってもらっているんですが、本来はこういう仕事につくための勉強をする学部ですね。
デザインも好きでしたが、デザインは設計でいかせばいい、やっぱり自分は技術を身に着けたいと思いました」
⎯⎯⎯ 大工さんの上下関係は、ちょっと恐そうなイメージです。何年くらい勤められたのですか?
伊藤「あ、怒鳴るとか、そういうのはないですよ! 一番厳しかった先輩は、僕が必死で木材を刻んでいたりすると、通りすがりに鋭い目線でスッと見て去っていくんです。これは、なかなかのプレッシャーでした。
できない自分と『これでもか!』というくらい向き合いながら、でもやらなければいけないという苦しい日々でしたね。
7年修業をして、実家の工務店に入りました。使い物になる頃には大工は独立しますから、それをわかっていて育ててくれる親方という存在には尊敬しかありません」
⎯⎯⎯ ご実家の工務店ではどのようにお仕事をされてきたのですか?
伊藤「大工工務店ですので、子どもの頃から見てきた、設計と施工を同時に受注するという父のような仕事の仕方を目指してきました。
昼間は父と一緒に大工仕事をして、設計まで任せてもらえている仕事に関しては、夜に図面を引くという形で働いてきました」
⎯⎯⎯ それはなかなかハードですね。
伊藤「設計というかデザインすることも好きですが、ずっと机にかじりついているのは苦手で。体を動かす大工仕事も楽しいです。親方も先輩たちも、そうやって仕事をしていると思います。
これからご案内する木の家は、じつは僕が初めてひとりで組み上げた家なんです」
⎯⎯⎯ 初めての経験や親方からの紹介と色々なプレッシャーが重なりましたね?
伊藤「そうですね。ただ、お施主さんが本当に素晴らしい方で、信じて任せてくださったことが有難かったですし、とても貴重な経験をさせていただきました」
⎯⎯⎯ 貴重というのは、とくにどのような経験ですか?
伊藤「セカンドハウスということでご依頼をいただいたのですが、まず最初に初めて見るような厚みの設計要望書をまとめをくださったんです。
まるで一級建築士の試験問題のようで、いえ、試験の時より緊張感がすごかったですが、ご希望に沿うための技術や素材を考え、めちゃめちゃ頭を使いました。
もちろん、同じ家のなかに同居させられない項目や、思い描いていらっしゃる家の姿や暮しぶりに近づくためには『このほうがいい』という工法や素材については提案・相談し、とことん話し合いました」
⎯⎯⎯ 家づくりはコミュニケーション力も試されるお仕事ですね。
伊藤「試されるというより、自分たち大工や設計はお施主さんにも育てていただいているんだなと感じました。僕には一般企業に勤めた経験はないのですが、もしも組織のなかの若手であれば、等身大以上の課題を与えてもらい、報告・相談し導かれながら成し遂げていくのかなと、想像したりもしました」
⎯⎯⎯ では、伊藤さんがつくられた家を拝見したいと思います。
伊藤「ここは、長野県のなかでも標高が高い場所で、雪が深く積もることは珍しいのですが、冬は本当に寒くて、マイナス20度まで下がります。そのため、“凍み上がり”という現象が起きます。
これは、霜柱が立つように、冬になると地面が持ち上がってしまう現象なんですが、その対策として基礎を地中奥深くまでつくる必要があります。
室外機などの設備機器を地面に直接置くと、これもトラブルになりがちなので、建物の側面に抱かせるように設置するといった配慮もしています」
⎯⎯⎯ たしかに、室外機が見えないデザイン、素敵ですね。他にデザイン上の特徴を教えてください。
伊藤「高原の別荘によくあるヨーロッパスタイルではなく、伝統的な木組みの家にしたいというご希望だったのと、雨や夏の直射日光が十分によけられるように、軒の出を深くしました。
主屋の屋根は、これもお施主さんのご希望で、瓦ではなく天然石の石葺きで景観への調和を目標としています。それらすべての重さに耐えられるように、設計してあります」
⎯⎯⎯ 重ね梁の母屋と呼ぶそうですが、屋根を支えている木も大きくてどっしりとしていて、規則正しく並ぶ様子が綺麗で見とれます。
伊藤「ありがとうございます。ここは自分でもとくに気に入っている仕事です。僕は木が好きで、いい木を使ってそれを表に出して見せたいという気持ちが強くあります。こういうところは、もしかしたら大学でデザインを学んだこととつながりがあるかもしれません」
⎯⎯⎯ 一階部分の広々としたデッキも、塗装されていない木がそのまま使われているのが印象的ですね。
伊藤「建物のなかでデッキはとくに雨風や雪で傷みやすい場所ですが、逆に傷みが生じてきたら、すぐに見つけて部分的に修繕できるようにという考え方でつくりました。
デッキに限らず、木材は必ず年月の間に縮んで、割れたり曲がったりということが、どうしても起こります。そのリスクは十分にお話しし、ご理解いただいたうえで、つくり始めますし、定期的に点検やメンテナンスをさせていただきます」
⎯⎯⎯ 一生のお付き合いですね!
伊藤「お施主さんと関係を深めていけることも有難いですし、家の成長、木の家の経年は劣化ではなく味わい深い成長につながるので、ずっと見続けられる喜びは大きいですね」
⎯⎯⎯ 高原地となると伝統工法のみというは、難しいですか?
伊藤「石場建、土壁は『凍み上がり』や『断熱性能』の観点から、この地域ではハードルが高いと思います。それでも素材をいかした木組みの家を建てたいという思いから伝統的な技法、例えば手刻みで加工する継手や仕口などを活用して仕事をしています。
僕は、県内でよく採れる赤松や唐松もよく使います。赤松は横架材である梁に、唐松は外壁やデッキ板などに使います。
この住まいも材料の半分以上は赤松と唐松を使用しており、『どっしりとした大黒柱や梁を』というのが、もともとお施主さんのご希望でした」
⎯⎯⎯ 赤松と唐松には、どういう特徴があるのですか?
伊藤「赤松は、ねじれなど変形しやすく難しい木ですが、杉や桧など同じ針葉樹の中でも強度が高く、梁によく使われるんです。
唐松は、赤松と同様クセの強い木ですが、水に強く腐りにくいので、雨がかかる外壁やデッキ板などに適しています。日に焼けると綺麗なオレンジ色に変わるところも魅力です」
⎯⎯⎯ 一階段部分にある、この排気口みたいなものは何ですか?
伊藤「これは、床暖房の温風の出口です。テラスに通じるガラス戸の前や、トイレやお風呂にもこの出口をつくってあります。
この住まいはオール電化で、床下エアコンでつくった暖気が循環して床上に上がってくる設計になってします」
⎯⎯⎯ 素晴らしい設備ですね!
伊藤「じつは僕は最初、無理ではないかと言ったのです。無垢の木の床で、想像通りに温風が動くのか、木への影響もわからなかったので。
そうしたら、お施主さんご自身が流体力学を研究されて、それをシミュレーション画像化して見せてくださったんです。さらに、『成功しなかったときは諦めるから、実験的にやってほしい』とおっしゃってくださったんです」
⎯⎯⎯ 伊藤さんにとっても初の試みなのですね?
伊藤「初めてのことです。まだまだ試行錯誤の中にありますが、優先すべきは住む人の快適さ、気持ちの豊かさですから、それを叶える新しい技術がありリクエストされれば、組み合わせていくことも必要だと思っています。ですから、本当に勉強になりました」
⎯⎯⎯ 薪ストーブもありますし、冬が楽しみになりますね! 大きな窓でサッシも木製で、とても優しい印象です。ここから見る冬の山や夜空は綺麗でしょうね。
伊藤「そうですね。この家で冬を過ごされことをとても楽しみだとおっしゃっています。
お施主さんは音楽もお好きで、大きなスピーカーを搬入されているのですが、ご自宅の鉄筋コンクリートのマンションと木の家での、音響のちがいも楽しみだとお話くださって、木の家が持つ可能性について僕も学ばせていただけるので、有難いです」
⎯⎯⎯ 搬入されている木の家具を見て、伊藤さんとお施主さんが興奮ぎみで話していらしたのが、微笑ましかったです。
伊藤「約2年間、設計や工程を見ていただきながら、僕が木の話ばかりするので興味を持ってくださったようで、今ではとてもお詳しいです。
家具職人さんは、その家具が置かれる場所も見たうえで、床や柱、梁の木材の種類や木目がそろうようにデザインしてくださって、こんなに幸せな仕事があるのか!というほどです」
⎯⎯⎯ 最後に今後の目標など伺えますか?
伊藤「こんなに素晴らしい機会はもう無いかもしれないと思いつつ、自分はさらに自分の最高を更新していかなくてはとも思っています。
親方から学んだ伝統技術を、次の世代に手渡すべき年齢になるまで、お施主さんと家づくりの機会を大切にしながら、僕は僕を必死に磨くので、成長を見届けていただきたいです」
【取材を終えて】
取材中にお施主さんは、厳しいはずの高地の冬こそ「楽しみ」とおっしゃっていたのが印象的でした。それはきっと、暖をとるための万全の設備があるからだけではなく、木の家の中にいることで、冬山と一体になるような静かな時間が待っていると、予感しているからなのではないでしょうか。
人に自然との一体感を与えてくれる木の家の魅力を、また改めて教わったように思いました。
伊藤工務店 伊藤松太郎さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
今回ご紹介するのは鳥取県の山下大輔さん。ご本人と同年代の職人さんに囲まれ、大工・設計・薪ストーブ事業を手掛ける山下さんは、どんなことを考え、どんな仕事をしているのか、あれこれ聞いてきました。
山下大輔さん(やましただいすけ・43歳)プロフィール
1980年(昭和55年)鳥取県生まれ。山下建築株式会社代表取締役。京都の建築の専門学校を経て帰省。父親が経営していた山下建築を継承し2018年に法人化。大工職人としてスタートし現在は設計や薪ストーブ事業も手がけている。
⎯⎯⎯ 山下建築の二代目でいらっしゃいますが、これまでの経歴を簡単に教えてください。
山下さん(以下敬称略)「建築士になりたかったので、高校卒業後に京都の建築の専門学校に入ったのですが、中退し鳥取に戻ってきました。そして父の知り合いだった重機関係の会社に入社しました」
⎯⎯⎯ 重機ですか!意外ですね。資格はいらないんですか?
「そこで“働くということ”を学び、資格もたくさん取らせてもらいました。その後に父のもとで大工修行を始めました」
⎯⎯⎯ 株式会社として法人化されたのはどういうタイミングだったのですか?
山下「2018年に父が病気で亡くなって急遽世代交代することになり、その機会に法人化しました。交代のタイミングは色々話し合って準備期間を設けていたんですが、突然だったので、数年間はバタバタでした」
⎯⎯⎯ それは大変でしたね。現在は何名くらいの方が働かれているんですか?
山下「法人化してすぐは3名でしたが今は若干増えて6名(大工5名、事務1名)です」
⎯⎯⎯ 順調に拡大されていますね。年齢層を教えてください。
山下「僕が一番上で、30〜40代の同世代ばかりです」
⎯⎯⎯ またまた意外!中心となって動ける職人さんが集まっていらっしゃる。お弟子さんの年齢層の空洞化で困っていらっしゃる会員さんも少なくありません。手塩にかけて育てた若い職人さんが、一人前になると巣立っていって… もちろん喜ばしいことではあるのですが、労働人口が少なくなってきているので、現実問題として厳しいという話をよく耳にします。
山下「そうなんですね。うちに来てくれているメンバーは今まで別の会社で働いていたり、個人でやっていたけど先を考えると不安だったりということで、声がかかることが多いです。僕自身は、父親と二人三脚で働いていた70代の方と父親に、大工仕事のほぼ全てを教えてもらいました。『おれは親方から習ったことをお前に伝える。お前は俺から習ったことを次の世代に伝えていってくれ。』と言われたのをよく覚えています。それをできるだけやろうと心がけています」
⎯⎯⎯ 求心力があるんですね。すごいことだと思います。
山下「いやいや。そんなことはないですよ」
⎯⎯⎯ 20年以上家づくりをされてきて、ターニングポイントになるような出来事があれば教えてください。
山下「“京都鴨川建築塾”ですね。仕事をはじめたばかりのころは怒られてばっかりで辞めたかったのですが、10年くらい経ってある程度現場を任せてもらえるようになって、設計に興味が出てきたんです。そこで、木造の設計や構造を深く教えてくれる“京都鴨川建築塾”に入塾して3〜4年通いました。そこから僕自身は設計や経営に力を入れて、大工仕事は大工さんに任せていくようなスタイルに変えていっています」
⎯⎯⎯ それはどんな理由からですか?
山下「他の地域はわからないですけど、鳥取だと工務店がまずあって、その仕事をする設計事務所がいて、大工がいるという分業の仕事が多いんです。そこを自分たちでトータルで行うことにより、施主様と近い距離でかつスピーディーにできると考えたんです」
⎯⎯⎯ 「大工さんに任せるスタイルに変えていっている」とのことですが、詳しく聞かせていただけますか?
山下「はい。現場ごとに担当の職人を決めて管理まで任せるようにしています。その方が意欲も責任感も出てきます。また、弟子を育成することはとても大切ですが、そこは施主様にとっては関係のないことなので、どれだけ仕事を上手に受けて、実際の仕事の中でやり方を覚えていってもらうというのが一番だと考えています。何でも自分でやれば早くできるかもしれませんが、近くまでしか行けれません。みんなとならゆっくりかもしれないけど、遠くへ行けると信じています」
⎯⎯⎯ なるほど。僕も一人で仕事をやっているのですごく響きました。では、施主様とのやりとりで気をつけていることはありますか?
山下「たとえば、断熱の方法ひとつとってもさまざまな考え方があるので、それぞれの施主様にとっての快適さ、イニシャルコストとランニングコストの配分など、実際に何十年もローンを支払う施主様の目線で深く考えるということを大切にしています」
⎯⎯⎯ ほかには何かありますか?
山下「もうひとつ転機となったことがあります。それは2017年に初めて自分で設計して建てた“賀露の家”です。施主様が求めていることと、僕がしたいこととがすごくマッチしたので、とても記憶に残っています」
賀露の家
ターニングポイントとなった思い入れのある住宅を案内していただいた。
⎯⎯⎯ 家づくりをする上でどんなことを大切にされていますか?
山下「お客さんと近いところで、密に仕事をするように心がけています。それから、あまりこだわりすぎて、自分の可能性を狭めないように気をつけています。もちろん何かを突き詰めていくことは素晴らしいことなんですが、“これしかない”とか“絶対これじゃないだめ”というスタンスだと、自分で可能性の間口を狭めている気がするんです。いろんなことに対して自分の中の判断基準や尺度は持ちながら、できる限りお客さんの要望に応えられる方がいいなと思っています。
ここだけは譲れないというボーダーラインは現場現場で決めているんですが、そこに至るまでの選択肢はなるべく多く提案できるように努めています。どのプランのどこがよくて、どこがイマイチなのか。そこをしっかりお客さんに説明できるようにしたい。そのためには自分自身もしっかり掘り下げて勉強することも欠かせません。そうすればどういう形であれ大工という仕事は残っていくと思っています」
⎯⎯⎯ ボーダーラインは具体的にはどんなことでしょうか?
山下「木の家ネットの会員の方々は当たり前のことだと思いますが、天然乾燥材を手で刻むこと。あとは断熱材にはエコボードを使用するというあたりですかね」
隼福の家
築約40年の住宅兼事務所を住宅として改築中の現場。活かせる柱や構造材は残しほぼスケルトンになっていた。ここからどうなるのか楽しみだ。
南吉成の家
外壁は鳥取の土を使ったオリジナルの左官壁。
吉方町の家
更地ではなく木が生えていた土地に木を活かしながら新築の住宅を建てていく。外壁はGUTEX社のエコボードに左官材料を塗り直接塗装している。
国府の家
平屋のような二階建て。
⎯⎯⎯ 話が変わるのですが、目の前にある薪ストーブが気になっています。代理店をされているんですか?
山下「はい。スペインのPANADERO(パナデロ)というメーカーのストーブで、国内ディーラーであるPANADERO JAPANの鳥取での販売店になっています」
⎯⎯⎯ 結構採用されているんですか?
山下「新築の場合は結構採用していただいていますし、商品自体の問い合わせも多いですね」
⎯⎯⎯ ガラス張りが特徴的ですね。どんなストーブなんですか?
山下「普段みなさんがよく目にするストーブは鋳物製だと思うんですが、これは鋼板製なんです。鋳物のストーブの場合は割高な広葉樹の薪が必要になりますが、これは日本中にある針葉樹を広葉樹のようにじっくり燃やせる薪ストーブなんです」
⎯⎯⎯ それはメリットが大きいですね。欲しくなってきました。薪の手配はどうされているんですか?
山下「林業の方とタイアップして手配しています。ここ鳥取もですが、日本中に杉や檜などの針葉樹がたくさんありますよね。林業の方がこの木を切る時に、根本1mくらいの曲がったり太さが均一でないタンコロと呼ばれる部分が出てきます。このタンコロは価値がないということで、通常は山に放置してくるんです。それを薪としてアップサイクルしようという試みです。
この針葉樹の薪を少しでも多く使ってもらえたら、お客さんにとっては安価で燃料を入手できることになるし、林業にもプラスに作用して山も整備されてくる。そんな地域内循環ができたらいいなと思っています」
⎯⎯⎯ これからのどんなことに力を入れていきたいですか?
山下「働きやすい職場づくりをしていきたいです。職人さんは基本的に社員として採用して、しっかり福利厚生や保障を充実させて、家族含めてみんなが安心できる会社にしたいです」
⎯⎯⎯ ありがとうございます。最後の質問です。山下さんにとって家づくりとは?
山下「家をつくるということは、誰かの一生に一度の大イベント。そこには大きな責任があるので、より深くより真剣に考えて作り上げていくことが一番大切だと考えています。そしてその責任を全うすること。それに尽きるのではないでしょうか」
人と人。人と自然。目の前にある関係を真っ直ぐに見つめ、実直に答え導き出そうとする山下さん。
その一言一言から、静かながら熱い想いが伝わってきました。
山下建築株式会社 山下大輔さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)
宮大工のお父様が守り続けた伝統の技術に誰よりも敬意と愛着を持ちながらも、「若い人に受け継いでもらえる形で残す必要がある。そのためにはバランスが必要」と言う濃沼さん。
新旧の時代の過渡期に立つためのバランス、設計士であり工務店の経営者であり大工の息子としての責任のバランスを保つために、技術と知識と誠意をフル稼働させています。
知的な話しぶりと時おり見せる木への偏愛ぶり、そのアンバランスさも何とも魅力的な濃沼さんのお話をどうぞお聞きください。
濃沼広晴さん(こいぬまひろはる・48歳)プロフィール
丸晴工務店代表。一級建築士。1975年、神奈川県生まれ。大学卒業後、3年間ゼネコン企業でビル建築の設計を行ったのち、父が営む丸晴工務店に入社、経営と設計に携わる。京都鴨川建築塾などに参加しながら木の家の建築について学び、その関東版である多摩川建築塾を立ち上げる。「大工の手仕事による木の家づくり」「安全性の数値データや工程の見える化」を行う工務店として確立させ、評価を高めている。
⎯⎯⎯ お父様の晴治さんは、市内最高峰の匠として川崎マイスターに選出されている大工さんですが、濃沼さんご自身は大工さんではなく、建築士となり経営者としても力を発揮されているのですね。
濃沼さん(以下、敬称略)「父は宮大工の修行を積んでいて、個人宅も手掛けていました。子どもの頃から現場の掃き掃除を手伝ったり、上棟式(棟上げを無事に終えられたことに感謝し、工事の安全を祈る儀式)といった職人が大切にしてきた行事に参加したりして、大工仕事の地道さと華やかな場面、人に喜ばれている様子を見て育ちました。
素晴らしい仕事だと思いますし、父をふくめた大工たちを尊敬してきました。でも、自分は目指しませんでした。
自社で設計施工ができる工務店を目指すために、また大工が気持ちよく思う存分能力を発揮して働けるよう、そういう仕事を出せる設計側の人間になろうと思ったんです。たぶん両親もそれを望んでいました」
⎯⎯⎯ ベテランから若い世代の大工さんまで8人もいらして、濃沼さんのマネージメント力の賜物ですね。
濃沼「今年、さらに2人が入社する予定です。ここ数年、弊社でお引き受けしている一戸建ての木造建築の数は年間で12軒。この規模で全棟手刻みをしている大工工務店は珍しいと思います。
これが限界なのですが、ありがたいことに若いご夫婦からご依頼いただくことも少なくないので、人手を増やし対応していく予定です」
⎯⎯⎯ 1軒につき、何人の大工さんが担当するのですか?
濃沼「1軒につき1人が棟梁として担当します。もちろん、フォローしあうこともありますが、そのほうがお客様と密にお付き合いして理想の家をつくりあげることができます。『大工は一棟刻んで年季明け』とよく言われますが、丸晴工務店では年季明けは3年から4年が平均です。全員が手刻みをおこない仕上げ、また家具工事までおこなうことができます」
⎯⎯⎯ やはり伝統的な工法を大切にされているのですね。
濃沼「刻みはリフォームや修繕にも必要な技術ですからね。
神社をつくることも、左官の土壁の土蔵をつくることもあります。ただ、『石場建てじゃなくてはダメ』とか、そこまで伝統的な構法にこだわってはいません。
木の家ネットの会員の方々の石場建てのお仕事を拝見するたび、本当にお見事で素晴らしいと感じますし、次世代にも残っていくことを願う気持ちはあります。一方で縛りを強くしすぎると、残せるものも残せなくなるのではないかと危惧しています。若い人の経験を増やすために、ある程度の軒数を建てられるよう、“伝統と今”をどこで切るかというバランスをいつも意識しています」
⎯⎯⎯ 未来というか時間軸のことを頭に置いて仕事をされているのですね。
濃沼「僕は40代後半なんですが、この世代が重要なポイントで、ここから下の世代になると一気に伝統的なことを知らない人が増えると感じています。だから、僕ら世代が何かしなくてはという責任感のようなものを勝手にいだいています。
この時間軸を縦の線だとすれば、僕は横の線についても思うことがあるんです」
⎯⎯⎯ 横軸ですか? どういったことでしょうか?
濃沼「人と人とのつながり、協力関係とでもいうのでしょうか。
例えば、丸晴工務店のやり方を他の工務店に話したりするというのは、昔は敵に手の内を明かすみたいな感じがありました。けれども、今はみんなで協力しあうべきだと思っています。
今の時代、自分たちだけよければいいと言ってはいられません。お客様が満足しない仕事をする工務店が多くなって『工務店はだらしない』というイメージが根付き、家づくりはハウスメーカーに任せればいいとなってしまっては困るんです。
全国各地域に住宅について相談できる工務店がしっかりしていれば、そこに安心感が生まれますよね。ですから、地域にある昔からの大工工務店には残ってもらいたいのです」
⎯⎯⎯ なるほど、住む人の安心も考えてのことなのですね。
濃沼「もっと言ってしまえば、街のことも考えて、です。地元に大工工務店がなければ、その街に存在する地元の神社仏閣も、稲荷社殿などは誰が修繕するのでしょうか。しっかり維持されている街の景観は魅力的です。景観が魅力的なら、人も集まるでしょう?
家をつくり、地元の神社仏閣、稲荷社殿を修復し街の伝統を守るのは、大工工務店の仕事だと自負していて、地域の工務店同士が協力し合って、あらゆる地域を素敵にして、日本全体が素敵になればと思うんです。
そのためになればと、弊社では学びと情報共有の場をつくっています」
⎯⎯⎯ 学びの場とは、どのような内容ですか?
濃沼「僕は設計も大好きで、自分ももっと学びたいという思いから『多摩川建築塾』という名前で勉強会を開いています。自社設計で施工できるのは、工務店にとって一番強いので、設計力は学び高めないといけませんから。
元々は京都にあった、植久哲男さんという建築雑誌の元編集長が塾長をしている京都鴨川建築塾の関東版でして。植久さんのご協力のもと6~7年前にスタートさせたんです。藤井章さんや山辺 豊彦さん、堀部安嗣さんといった著名な建築家の方々を講師にお迎えして学ばせていただいています。
ネットで受講者を募集するので、建築士だけでなく学生さんも来てくださって、一緒に学べるのはとてもうれしいことですね」
⎯⎯⎯ とくに濃沼さんにとって印象的だった講義の内容は何ですか?
濃沼「みなさん素晴らしい先生方で、たくさん学ばせていただきましたが、やはりそうだよなと思ったのは『庭と建物っていうのは絶対に一体だ』という言葉でした。
関東だと庭をつくるとなると、造園屋さんか外構屋さんか植木屋さんになると思います。外構屋さんっていうのはブロックを積んだりとか、コンクリートを打ったり、主にメーカーの既製品を使用します。植木屋さんは、今では公共事業を主に行っており個人邸はあまり仕事をやらない。造園屋さんに依頼すると一気に金額が上がるので、一般家庭ではなかなか依頼できません。
なので、うちでは毎回、設計と大工とお客さんみんなでつくるという感じになっています」
⎯⎯⎯ みんなで庭つくりなんて、楽しそうですね!
濃沼「そうですね。お客様も楽しんでくださいますし、喜ばれます。
庭って、ある程度以上になったらプロに任せなくてはいけないですが、そもそも日々の手入れが必要で、その手入れをする人が、つくりながら木や花の特性を知っておくほうがいいです。枝の剪定や水あげのやり方とか。
木を選ぶ時もペットのようなイメージで、育てられるか可愛がってあげられるか考えて、厳しければ1本だけにしておくとか、そういうお話もしています。理想と現実のバランスは大事なので。
家と庭は一体で、ここを一緒に考えられるのも大工工務店のよさだと思うんです」
⎯⎯⎯ 家を建てる素材が木ですし、木にお詳しいですものね!
濃沼「庭木についての知識は造園屋さんや植物の専門家ほどではないです。建築に使用する材木に関しては木材マニアというかオタクでして。日本っていい木が育つ有数の国で、この国に生まれて幸せだと心から思い感謝しています。
杉もすごくいい木なんですけど、うちは檜(ヒノキ)をメインに使う工務店です。檜が年を重ねて飴色になる、その様子は本当に綺麗ですよね。油の多い木ならではです。造作家具も檜をメインに使用してます。
ヨーロッパも建材や家具に木を使いますが、基本的には広葉樹でそれを塗装して使う文化です。日本だけですよね、自然の木の飴色を美とする文化というのは。その美を住宅にも表したい、その思いで仕事をしています」
⎯⎯⎯ 檜は香りも素晴らしいですよね。ただ、木の中でも高価なのでは?
濃沼「決してそうじゃないんです。みなさん、外国製の木の家具を好む方は多くて、日本の木で家具をつくると、なんとなく民家っぽくなると思われがちですよね。
実際はデザインをしっかり考えれば北欧家具にも負けない魅力がでると思います。色だけでなく木目もきれいで、軽く、使い心地は檜が断然上! 金額も檜のほうが全然安くて、 3分の1くらいなんです。
使い心地、試してみませんか?」
⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは同じデザインの椅子2脚を用意して)
濃沼「これはフィンランドのニカリという家具メーカーの椅子、もう1脚は京都にいらっしゃる二カリのライセンスを持っている方が檜でつくったものです。ちょっと面白いので体感していただきたいんですが、座ってみてください」
⎯⎯⎯ あれ⁈ 全然ちがいます。檜の椅子の座り心地は、すごくお尻に優しい!
濃沼「そうでしょう? うちは家具も大工仕事としてつくっていて、使い心地のよさはお客様からもお墨付きです。ましてや檜で家をつくれば、心地よさはお尻に限らず全身で感じられるんですよ。こんなに素晴らしいものがあるのに、外国から木材をガンガン輸入するなんて、もったいないというか悔しいというか…」
⎯⎯⎯ 輸入に頼らなければならないほど、生産量が減っているということは?
濃沼「確かに林業も後継者不足で厳しくなっていますし、木材は杉が中心的存在です。けれども、檜の山もちゃんとあるんです。例えば木曽福島は檜の有数の山で、樹齢250年とか300年の木もある。国有林じゃないところでも、樹齢80年から100年レベルでものが結構多くあります。
国有林は通常は切れないのですが、丸晴では天然の木曽檜を数多くストックしてます。
材木屋さんと密にお付き合いをしていますから、そういう木が出たと聞いたら、飛んで行って買っておくんです。
ストックというかうちの木材コレクション、ご覧になりますか?」
⎯⎯⎯ はい、ぜひ! (そう答えると、濃沼さんは作業場兼木材置き場を案内して)
濃沼「秋田杉、春日杉、霧島杉、屋久杉、欅、木曽檜、水楢、栃など様々な材木をストックしてます。
丸太と言ったら京都の北山が有名なんですが、これはその北山から買った丸太です。
これ、これね、黒柿なんですよ。床柱で使用した端材ですが、黒柿って最高級の材料ね。
今、杉板を焼いた焼杉という木材が外壁で流行っていますよね。
木曾檜って、わかりますか? これがそうで、目がすごい細かくて檜の王様って言われています。飴色になるとね、宝石みたいな光を出して始めるんです。見せたいなぁ」
⎯⎯⎯ こんなに大量の木材をストックしたり、作業場もいくつもお持ちになられて、維持するだけでも大変ですね。
濃沼「正直大変です。けれどこれらの材木を手放したら、再度持つことは難しいので必死に守っています。
先程、大工工務店を残したいと言った理由もここにあります。作業場の貸し借りなんかもしているのですが、とにかく広い土地が必要なので、大工工務店も減ることはあってもなかなか増えることはありません」
⎯⎯⎯ 失われつつあるのは伝統技術だけではないということですね。
濃沼「大工とは切っても切り離せない材木屋や山の製材所も、みなさんご存知のとおり減っています。木材を積極的に買い付けるのは、少しでも減少傾向を止めたいからでもあります。
ストックはよくないという方もいらっしゃいますが、本来、木材は何百年ももつものですし、お客様に安価で提供できます。一緒に一点物である木材を選ぶ楽しさもあり、弊社の1つの強みになっていると思います」
⎯⎯⎯ 確かに、「この木がどんなふうに料理されるんだろう」って思ったら、ワクワクするでしょうね。何とも魅力的な強みですね!
濃沼「素晴らしい素材を、持ち味を生かして、腕のいい職人が薄味で提供する。これが一番。大工の仕事は寿司職人とも共通していますね。
さらに強みを増やそうと、今、檜ショップを準備中なんです」
⎯⎯⎯ 御社の社屋のおむかいにある建物ですね? 素敵だなって思ったので、すぐにわかりました。
濃沼「そうです。NCルーターっていう木材の加工用の機械を購入しましてね、それで食器から色々な小物をつくっていく予定です。木の食器や小物類は、可愛いですし、赤ちゃんが触れても安心だし。
身近なところから木のよさっていうのを訴えていって、いつかは木の家に住みたいと思っていただく、その流れをつくっていこうと思っています」
⎯⎯⎯ 先ほどから、道行く人が檜ショップの中を覗き込んでいますね。まだオープンしていないのに。
濃沼「壁も床も檜でできていますが、現代的な設計なので、何だろうと思ってくれているのでしょう。壁をできるだけガラス張りにして、中もよく見えるように設計していますから。地元の人、特にここは小学校の登下校道なので、子どもたちのワクワクにつながったらうれしいですね。
もちろん商品を買ってもらって、少しでも大工の収入アップをしたいと思いますが、子どもたちにモノづくりの仕事って素敵だな、やってみたいなと思ってもらえるよう、僕も素敵な建物の設計、商品の企画デザインを頑張っていくつもりです」
有限会社 丸晴工務店 濃沼広晴さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実
猛暑のなか訪れた京都。現代的な家々や集合住宅が連なる細い通り。そこにひっそりと佇む一軒の京町家。きっとここに違いないと思い、小走りで入口の前に立つと「中川幸嗣建築設計事務所」という控えめな看板が目に入った。挨拶をして迎え入れていただいた土間では、外とは打って変わって心地よい風がカーテンを揺らしている。
それだけのことですが、きっと今日は中川さんからいい話が聞けそうだと確信した瞬間でした。
中川幸嗣さん(なかがわこうじ・46歳)プロフィール
1977年(昭和52年)生まれ。京都府福知山出身。一級建築士事務所 中川幸嗣建築設計事務所代表。2002年 武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業後、建築設計事務所勤務を経て2014年に独立。京町家を改修し自宅兼事務所としている。過剰さがなく豊かで美しい民家の佇まいに学び、軽やかでしなやかで実のある建築を探っている。京都市文化財マネージャー(建造物)としても活躍中。
⎯⎯⎯ 福知山(京都)のご出身とのことですが、どんな幼少期を過ごされたのですか?
中川さん(以下敬称略)「実家は大正初期に建てられた町家で、薬屋を営んでいます。福知山は城下町なので親戚や同級生の家も商売をやっている古い家が多かったですね。だから食住一体の生活が自然でした。町家独特の暗さや湿り気、静けさや匂いが今でも印象に残っています。
小さい頃は川の堤防周辺でよく遊んでいました。由良川(ゆらがわ)という川なんですが、昔から幾度となく氾濫していて、福知山はその度に水害に見舞われた街でもあります。そんな歴史の中で、街と川の境に築かれた高く長い堤防がモノリスのような圧倒的な存在として記憶に刻まれています」
⎯⎯⎯ 建築の道に進もうと決めたきっかけや理由を教えてください。
中川「高校2年生の時、自転車競技の練習中に事故に遭い、脳挫傷する大怪我をしてしまいました。幸い命拾いしましたが、自分の人生をきちんと考えるべきだという思いが芽生えました。
その頃、ふと手に取った雑誌「SD : スペースデザイン」の中で特集されていた「ランド・アート(「アース・ワーク」とも呼ばれる)」に惹かれました。それは建築とも彫刻とも造園とも捉えることができるので、美術大学の建築学科に進学しました。幼少期の堤防の記憶が影響しているのかもしれないです」
ランド・アート
ランド・アート (land art)とは、岩、土、木、鉄などの「自然の素材」を用いて砂漠や平原などに作品を構築する美術のジャンル、またはその作品のこと。規模の大きなものは、アース・アート (earth art)、アースワーク (earthworks)などとも呼ばれるが、その区別は厳密ではない。
出展:Wikipedia
⎯⎯⎯ なるほど。スケールの大きさが確かにリンクする部分がありそうですね。学生時代はどんなことをされていたんですか?
中川「春休みになるとバックパックを背負っていろんな国を旅していました。最初はタイに行って、翌年にインド・ネパールへ。また別の機会にトルコ・シリア・ヨルダン・エジプト。あとはヨーロッパにも行きました。有名建築や観光地を巡るのではなくて、一日中街を歩いたり、鉄道やバスに乗ったり、おじさん達がタバコを燻らす街角のカフェで喫茶したり、庶民的なご飯を食べたり、その土地に暮らす人々の普通の営みを垣間見るのが目的でした」
⎯⎯⎯ 刺激的でしょうね。その行動力はどんな思いから出てきたのでしょうか。
中川「建築を志す人なら一度は読むような本に【人間のための街路】(バーナード・ルドフスキー 著 )という名著があります。自動車のための“道路”ではなく、人間が歩くための“街路”の重要性を説いた本で、とても感銘を受けました。旅先に選んだ異国の古い街を歩いていると、喧騒の傍に、居心地の良い落ち着ける場所があったりと、新・旧や動・静が同居する中に、懐かしさや既視感を感じるんです。
そこで『待てよ。福知山も半世紀程前までは、江戸時代の城下町としての歴史が積み重ねられた、いきいきとした街路空間があって、道に多くの人がいる街だったんじゃないか』と、外の世界を見ることで逆輸入的に自分のルーツにある街や生活文化・民家や伝統建築などの魅力に気付かされたんです。
けれども都市計画は、今考えると重要伝統的建造物群保存地区にもなり得たであろう福知山独自の、水害共存型町家の建ち並ぶ旧街道の約半分を町内ごと潰し、片側二車線の車のための道路にかえてしまいました。街から堤防にあがる魅力的な人間のための階段も、今では刑務所を囲む塀の様になっています。30年以上前、私の少年時代の出来事ですが、なじみのある景観を失ってしまうというのは、取り返しのつかない残念なことで、恨みは根深いものです。
⎯⎯⎯ 建築だけというより、それも含めた街路や街などに興味を持たれていたんですね。
中川「そうです。大学時代にお世話になった先生が二人いらっしゃって、一人は今年亡くなられた相沢韶男(あいざわつぐお)先生。相沢先生は民俗学者の宮本常一先生のお弟子さんで自称「壊さない建築家」。民俗学と文化人類学の講座を受講していました。もう一人は源愛日児(みなもとあいひこ)先生。身体と建築について考察すると同時に、継手・仕口や差鴨居など伝統的な構法の研究もされている方です。
そういった先生方の影響もあり、建築家が建てた建築でもなく、お寺や神社のような伝統建築というわけでもなく、立派なものというより素朴な、市井の人々が建てたような、土から生えてきたような、民家建築に興味を覚えるようになりました」
⎯⎯⎯ 設計の仕事を始められてターニングポイントとなるような出来事はありましたか?
中川「大学卒業後の東京にいた頃、実家の薬局を改装することになり、僕が設計することになったんです。大学を出て間もないので経験も浅く、右も左もわからなかったんですが、地元にある一般建築から社寺建築も手がける工務店に施工をお願いしました。
大工さんと面と向かって対話すること自体もほぼ初めてで、世話役の大工さんは口調も荒く怖かったんです(笑)。でも話してみるとその大工さんは笑顔も素敵で魅力的な方でした。壁のどこに開口部を設けるかという話のときに、高さや大きさ、下地による制約などを考慮しながらも、どうすれば美しいかということをも考えておられて、立場もバックグラウンドも違うけど、デザインするという意識の部分に共通点があったので、大工さんという存在が一気に身近に感じられるようになりました。本当に無知ですよね(笑)。
学生時代に僕が継手・仕口に詳しい源先生から学んでいたこともあって、現場で生の竿車知継ぎに感動していると、他の応援の年配大工さんなんかもいろんな継手や仕口を『こんなの知っとるか?これはどうや?』とたくさん技を披露してくれたんです」
中川薬局改修|福知山市|2005年
⎯⎯⎯ 中川さんが設計される際に大切にしていることを教えてください。
中川「特に民家のような建築の場合、自分の閃きや思いつきなんかで一朝一夕に建てられるものではありません。先人たちによって幾度もの実証実験を経るなかで育まれてきた建築のかたちです。地域ごとに方言があるように、建築のかたちも多様なはずです。設計を始める前に、まずはその土地において建てられてきた伝統的な民家について知ることから始めます」
⎯⎯⎯ 新築する場合も伝統的な民家について知ることから始めるんですか?
中川「その通りです。その土地ごとの生活の営みから導き出された建物のかたちや、その土地で昔から好まれてきた材料、さらには文化的な特色や風習などと現代生活との関連性を探ります。懐古的に昔を再現するつもりはありませんが、地域によっては今も鬼門などに敏感な場合もあります。
少し大袈裟かもしれませんが、歴史に学ぶ工程は、それぞれの土地に対する礼儀であると同時に、型を知ることで型を破ることにもつながり、新たにデザインする上での拠り所にもなると思います。
そのような下地づくりともいえる工程を経て、現在の目線で、建物を建てる敷地の周辺環境との関係や施主の要望、安全かつ快適に暮らせる家に必要な性能などを盛り込み計画していきます。そこからが本題なんですがね。
美味しいお味噌汁を作るために、きちんと出汁をひいた上で具を入れていくような感じです(笑)」
⎯⎯⎯ なるほど。では古い建物を改修する際はいかがでしょうか?
中川「改修する建物が町家や農家の建物のような伝統的な民家の場合、今まで残されてきたことを尊重し、無理な間取りの変更は極力避け、その建物の特徴を損なわないような計画を心がけています。
もちろん昔と今とでは生活様式も大きく変わっています。例えば屎尿を汲み取りするために必要だった町家の通り土間(トオリニワ)は今となっては必要ありません。しかしながら、内と外を繋ぐ家の中の道のような土間空間は、下水が普及した今もなお、建物内外の行き来が盛んになる便利で魅力的な町家の要素でもあります。
暑さ寒さとの付き合い方も、生活様式や生活環境の変化、気候変動により昔と今とでは変わらざるを得ませんが、伝統的な土壁に、断熱や遮熱などの現代的な工法を適切に施すことによって、高性能な建物にもなり得ます。
古い建物を無くしてしまったり大きく変えてしまう前に、その建物を如何に住みこなすか、建物に寄り添うようなつもりでその建物の持ち味を活かし、将来につなげることを考えます。その上で変えることが必要な場合は、相応しい変え方を探ります」
⎯⎯⎯ 納得です。今ご自宅兼事務所にされているこの京町家についても教えていただけますか?
中川「織屋建という西陣地域ならではの架構形式を持つ、工場と住まいが一体となった町家です。敷地は間口に対して奥行きが深く、主屋と離れの間に庭があります。かつては一般的だった織屋建の町家も、今では町内にここ一軒を残すのみとなってしまいました。通りに面してそれぞれの町家が建ち並ぶことでお互いの強度を連担していたので、短辺方向の壁が元々ほとんどないんです。明治初期あるいは幕末くらいに建てられたであろう庶民的な町家ということもあり、梁も華奢で仕口も怪しく脆弱そのもの。できる限り荒壁や柱を増やして強度を上げています」
⎯⎯⎯ 他に大切にしていることはありますか?
中川「庭屋一如(ていおくいちにょ)と言われるように、特に都市部の生活環境において、庭は大切だと強く感じています。身近な材料で丁寧に作られた家と、心地の良い庭とは切っても切り離せません。庭は見るだけでなく、草むしりをしたり落ち葉を拾ったりと、毎日少しだけでも実際に触れることができると、随分生活の質が上がります。
家は雨風や暑さ寒さ、社会や人間関係から身を守ったり、大切なものをしまっておくシェルターとしての役割があるのと同時に、庭を持つことで季節の移りかわりを感じ、内にいながらも意識は外に広がります」
ここで、中川さんの設計事例をご紹介します。
中筋の家 (自宅兼事務所)改修|京都市|2023年
建築当初は工場だった吹抜け空間には低い天井が張られ、床の間のある座敷となっていた。今回の改修工事の際に天井の吹抜けを再現し、開放感のある板張りのリビングルームとしている。庭を囲む縁側や渡廊下、外腰掛など内と外の間の空間が実はとても重要。
「庭も作庭から数年を経て、樹々が根を張り幹も少しづつ太くなっています。苔も成長して庭石と絡みだしたり、ミミズも増えて土中環境も良くなったりと、庭の魅力は日々増しつつあります。無駄に思えるかもしれない渡廊下なども、気持ちを繋いでくれることに気づかされました」(中川さん)
西院の家|京都市|2016年
床面積20坪(ロフト別)の小規模な新築物件だが、大工・左官・建具職人達のこだわりが詰まっている。施工は木の家ネット会員でもある大髙建築の高橋憲人さん(つくり手リスト)が担当している。
「初めて設計した竹小舞と荒壁下地による新築住宅です。今日一般的に使われている石膏ボード屑などの産業廃棄物がほとんど出ない現場で、その健全さと気持ちのよさを身をもって体験しました。荒壁は粘り強い壁になるだけでなく防火的にも優れているし、調湿性、蓄熱性や遮音性にも優れています。再利用しやすくゴミになりません。理想的ではないですか?荒壁は文化財のためだけのものではありません。外観は今も町家がちらほらと残っている通りの景観を整えることを意識して設計しました」(中川さん)
追分山荘|軽井沢|2014年
広い敷地に高さを抑えた軒の深い屋根を掛け、眺望の良い東側に設けた縁側と観月の露台で内と外の境目の空間を満喫できるようになっている。ほとんどの窓は軽やかな明かり障子と高性能木製サッシの二重構造となっており、マイナス15度にもなる厳しい冬に備えている。
「冬の朝、布団の中が寒いとなかなか起きることができませんが、暖かい布団からはパッと起きることができまよね。冬の半屋外も楽しむことができるよう、家の中がきちんと暖かくなるようにしています」(中川さん)
⎯⎯⎯ 最後に、家づくりに対する想いとこれからの展望を教えてください。
中川「この質問、悩みますね(笑)。家づくりにはいろんな人が関わります。使う材料や工法の選び方ひとつで、それを生業にしている職人さんたちにも大きな影響を与えます。ちょうど『投票』に近い感覚かもしれません。
例えば荒壁。荒壁下地の土壁は素晴らしいポテンシャルを持っています。だけど目の前の予算の都合だけで選択肢から外されてしまうと、いざ使いたい場面が訪れた時に、材料や職人さんが見つけづらくなっていたり、コストがさらに掛かってしまったりと、どんどん採用しづらい状況に追い込まれてしまいます。そうならないためには、本当に価値あるもの・価値ある技術に日頃から『確かな投票』をしていくことが大切だと考えています。
『器』に例えるなら、いい器は仕舞い込んでおくんじゃなくて、丁寧に大切に普段使いしてあげる。欠けたら金継ぎして永く使う。そうすると日々の生活がとても豊かになりますよね。そんな考え方です。
手間暇のかかる伝統的な木造建築は30年で建て替えるようなものではありません。イニシャルコストが多く掛かったとしても、手入れをしながら何世代にも渡って暮らすことが前提です。そして、後世の人が見た時にその良さが評価されれば、さらに後世へと受け継がれていきます。逆に、後世の人に『寒いし、不便だし、かっこ悪い、ダメだこりゃ』と思われたら、いくら材料や技術が素晴らしくても叩き潰されてしまいます。そうならないために、長く愛されるだけの意匠や性能が求められます。建築士の責任は重大です」
「建物」という観点からさらに視野を拡げ、街並み、街路空間、過去・現在・未来をつなぐ家づくりを等身大で実践している中川さん。現代社会が抱えるさまざまな問題を解決する糸口が、そこにあるように感じた。
一級建築士事務所 中川幸嗣建築設計事務所 中川幸嗣さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
尋常ではない猛暑に誰もが音を上げた今年の夏。その終わりかけのタイミングで、環境問題に向き合い続け、省資源の家づくりに取り組む金田正夫さんのお話に触れるのは、私たちにとって意味深いことだと感じます。環境問題のお話は深刻だけれど、金田さんが提案する対策法、その一つである自然と正面から向き合う家は、質素でストイックではなく、柔軟で人懐っこい! その印象は金田さんのお人柄そのものです。
金田正夫(かねだまさお・74歳)さんプロフィール
1973年、工学院大学建築学科卒業、同年図師建築建築研究所入社 。74年に都市建築計画センター入社 。83年に独立し、一級建築士事務所 金田建築設計事務所開設 。2011年、法政大学大学院工学研究科建設工学専攻博士課程修了博士号取得。建築士として活躍するほか法政大学非常勤講師を務め、現在も大妻女子大学で環境問題と建築に関する講座を担当。著書に『春夏秋冬のある暮らし─機械や工業材料に頼らない住まいの環境づくり─』(風土社)がある。
⎯⎯⎯ 自然素材の家づくりに取り組むようになったきっかけから伺えますか?
金田さん(以下、敬称略)「地球環境のことが私の根幹というか土台になっています。そこからお話ししてもいいですか?」
⎯⎯⎯ もちろんです!
金田「地球に暮らしている生命体がこのままでは30年後に絶滅するというぐらいに、今、環境は追い込まれているんですよね。おひとりおひとりが、どう向き合うかというのは自由ですけれど、私は、後世に子どもや孫たちの世代が生きていける環境を取り戻したいと思っています。そのために、私ができることが建築のことなので、家づくりはもちろん、建築物の調査・研究に力を注いでいます」
⎯⎯⎯ 建築物の調査・研究とはどのようなことですか?
金田「気候・環境異変の原因を明らかにして取り除かないと根本的な解決はできませんから、私なりに数々の文献を調べて、まず時期的には戦後に着目すべきだとわかりました。
異変は人類8万年の歴史とか江戸時代の暮らしの中で徐々に進んだのではなく、第二次世界大戦が終わった1945年からわずか60〜70年の間に、二酸化炭素の増加量や資源の消費量が顕著に変わるんです」
⎯⎯⎯ 顕著とは、具体的にどれくらいですか?
金田「資源について言えば、地球上にある人間が使える資源の3分の2を、戦後のわずか60年ほどで使い切ったんです。資源はまだ十分にあった50年前、メドウズ博士が発表した未来予測では、その当時の使い方のままだと、2050年に資源は枯渇するとされています。10年前に日本政府が発表した環境白書の、1つ1つの資源があと何年で枯渇するか、という予測データと比較しても、メドウズ博士の予測通りに進行していることが確認できます」
⎯⎯⎯ 今からわずか30年後ですね。再生エネルギーが注目されていますが、対策になっていませんか?
金田「資源を使うと温暖化ガスの排出や環境悪化の要素とリンクするので、温暖化ガスが増えるのは資源の大量消費が背景にあります。戦後の大量生産、大量消費、使い捨ての経済論理が一番の原因と言わざるを得ません。
温暖化ガスだけを減らそうとか、再生エネルギーで二酸化炭素を出さない発電に切り替えようというのは方策の1つかもしれないですけど、根本的な解決にはなりません。省エネより省資源こそが重要なキーワードです。
エネルギーではなくその元になる資源そのものの使い方を節約して、環境への負荷を軽減することが必要で、建築について言えば、使い勝手のいい機器や素材に頼らないでどこまでやれるのか、私は取り組んでいます」
⎯⎯⎯ 検証して有益とわかったことを家づくりに取り入れているのですね?
金田「はい。民家に温度計をすえて約20年にわたって調べてきました。かつての庶民層の家は、自然の営みに頼ったもので、その知恵は現代の科学者が追いつかないレベルです。
温度測定をすると民家がどういう工夫で夏の涼しさや冬の温もりをつくっていたか、わかってきました。それを現代に応用して、資源をあまり使わないでも快適な環境をつくれると具体的な提案をし、設計に取り入れています」
⎯⎯⎯ 現代に応用できる工法の例を教えてください。
金田「今日も暑いですからね。夏の暑さについて中心にお話ししますと、風を通すために南北に窓をつくる、上下の高低差がある窓があれば理想的です。土や木が調湿材料だということも、建築に関わる方は知っていると思います。
昔の農家や商家などには越屋根という、屋根の上に空気を通すためのに小さな屋根が載っています。これが高低差を利用して通風をとる窓の原型です。
さらに私は、二重屋根にして、上の屋根が太陽からの受け取る放射熱(赤外線)70℃の大半をカットし、その結果、下の屋根が外気温度の30℃に落ちる。この間には断熱材の1㎜もありません。これは鎌倉時代の土蔵の屋根に取り入れられているもので、当時の絵巻物にも描かれています。家の日傘みたいなものです。
わずかな庭でも草を生やし、家のなかと湿度差をつくることで風を通すのもポイントです」
⎯⎯⎯ 日傘のある家! 言葉にするとユニークですね。
金田「二重屋根の上屋根は70℃程になりますが、下屋根は外気温度に落ちるので、最上階の部屋は外気温より低くなります。
今年の夏も冷房を使ったのは1週間程度だったと、クライアントのみなさん喜んでくださっています。しかも、冷房を使わなくなって体調がよくなったと感謝してくださる方も多いです。
そもそも、冷房を使わないで済む家づくりに取り組むきっかけは、冷気に当たるのがつらいとおっしゃるリウマチを患っている方のお住まいでした」
⎯⎯⎯ 冷房って体が冷えすぎることもあって、健康的に使うのは案外難しい気がしますね。
金田「湿度とか放射熱とか風の流れといった、自然界の営みを無視して人間を含む生命は健全に生きられないのではないかと思います。
高気密・高断熱住宅は工業材料で外とは隔絶した空間をつくり、その中に高性能エアコンを使い、運転エネルギーの削減をして温暖化を止めようとしています。しかしこれらの諸材料や機器をつくり廃棄するための資源消費や環境の負荷には触れないのです」
⎯⎯⎯ 自然を完全に遮断するのか、オープンにして利用するのか、涼をつくるという目的は同じでも向き合い方は真逆ですね。
金田「そうです。資源を大量に使う断熱材で自然を遮断した家に住み、エアコンで気温をコントロールするのに資源を使い、十数年でエアコンを取り替え、その処分に資源を使って……。
これを続けていると、2050年資源枯渇・餓死の予測が確実に現実化してしまうでしょうね。我々人間が、自然に背を向けて生活していくことは、もう限界にきているんです」
⎯⎯⎯ 建築家である根底に環境問題があるとおっしゃっていましたが、そもそも建築家を目ざされたのは、どのような流れからですか?
金田「高校の頃には、絵を描いたり物を作るのが好きでした。難しい本を読んで勉強するのは苦手だったので、絵を描いてたり物をつくるほうがいいなと思いまして、建築の道を選びました。
大学の建築学科に進むと、周囲の同僚たちはものすごい意欲を燃やしていて、ル・コルビジェとか先進的な現代建築をつくる人への関心が高かったですが、私はさほど関心がありませんでした。昔ながらの民家にもです(笑)。
今振り返れば、伊藤ていじというすごい先生がいらしたのに、内容はよく覚えていない。必死で聞いたらよかったのにと、残念に思っています」
⎯⎯⎯ それでも、建築のお仕事を選ばれたのですね?
金田「自分はあまり要領がよくないし、大企業の歯車になるのも嫌だったんですよね。給料が少なくてもなんとか食べていければいいと思って、小さな設計事務所に入りました。
ところが社会人になってすぐに“オイルショック”が起こって、たった1年の間に会社2つをクビになりました。
同期の仲間はどんどん経験を積んでいるのに、私はまだ図面1枚も引いたことがないという。こんな出発でした」
⎯⎯⎯ 状況が変わったきっかけは何だったのですか?
金田「「3つ目の職場にアルバイトで入るんですが、相変わらずオイルショックの影響があり『あんた、ちょっとそろそろ辞めてよ』と言われ、これは覚悟を決めて頑張らないと、先が厳しいなと思っていたので、『僕は本気で働く気で来ています、なんとか働かさせてください』とお願いして、どうにかクビはつながりました。その後も上司からは『お前、才能ないから早く足洗え』など、色々言われました」
⎯⎯⎯ それはおつらいですね。
金田「ただ、歩みはすごくのろいけど着実に進む自分を知っていたので、あんまりへこたれませんでした。上司の言葉に発奮して、そこからものすごく勉強をしましたね。時間があればル・コルビジェはもちろんですけど、日本中の建築を見て回りました」
⎯⎯⎯ 古い建物も、ですか?
金田「いえ、関心を持ち始めたのは大学を卒業して10年、3つ目の職場から独立した1980年頃からです。独立して間もない時に、先ほども少しお話しした越屋根と呼ばれる屋根の上にある小さな屋根がある家の設計にかかわります。
越屋根は、かまどや囲炉裏の煙を外に出す役割や光を取り入れたり、熱い空気や湿気を上から逃がして、夏の換気・通風に大いに効果をあげていました。
こういったことは、先人が育んできたことを次の時代に伝えて行こうとした方々がつくった日本建築セミナーという学校で学びました。
今思えば、ここで教えていたのは雲の上のような方々でした。全国的に見ればこんなことをやってる人間はほんの一握りです。そこで7〜8年学びました。卒業証書も何もないんですが、中味が濃く、先人から学ぼうと思っていた自分に多大な影響を与えてくれました」
⎯⎯⎯ 先ほどおっしゃっていた冷房がいらない家づくりのヒント数々も、その講座の中から得たのでしょうか?
金田「そうですね。あるセミナーを川崎市立民家園という場所で受けた時に、大きな衝撃を受けました。
ちょうど猛暑の夏だったのですが、冷房のない古民家で2時間話を聞くのはつらいな〜と思いながら参加したんです。
すると、30分がすぎたころに、暑いとか涼しいとか気温への意識が消えていることに気がつきました。すごく涼しいわけではないけれど、不快感がない。終わって外に出るとカーッと暑い。この民家の不思議な居心地のよさは何によるものなのか、本気で研究し始めたのは、ここからです。
環境問題に関心を持ち始めたのもこの頃からでした」
⎯⎯⎯ 研究の成果を家づくりに生かしているほかに、論文を書かれて発表されたり、講演活動もされていますね。
金田「「建築だけでなく衣食住のすべてが環境問題に影響していますから、講演ではこれらをトータルにお話ししています。3割くらいの人は環境に深い関心があるとみられるので、この方々に届けていきたいと思っています」
⎯⎯⎯ この猛暑で世間的にも危機感は高まっているのでは?
金田「「正直、一般的にはまだ省エネまでしか意識が達していない気がします。
ただ、希望はあるなと感じています。それは、大妻女子大学の講義では、今の環境異変の根本原因は大量生産・大量消費・使い捨てにあることを、ここにメスを入れないと解決しないことを、奥歯に物を挟むことなく、ズバズバ話しています(笑)。
聞いているのは、古い時代を知らない10代の若者です。講義の後のアンケートでは、受講者70人ほぼ全員が『もう今までどおりの環境対策では行き詰まる可能性がある』『もっと自分の生活とか建物のつくりを見直さないといけないと思いました』という回答をくれています。
次を担う世代が理解してくれていることは心強く、彼らのためにもさらにデータと指針になるものを残さなければと身が引き締まる思いです」
取材を終えて…
クライアントさんのご意志で写真は限られていますが、金田さんが設計された家は家族だけでなく、お客様を招いて楽しむことができる仕掛けが多く、金田さんが人と接することがお好きであることが感じられました。環境を守ることと、生活を楽しむことは矛盾しない。そう教えていただいた気がします。
(有)無垢里 一級建築士事務所 金田正夫さん(つくり手リスト)
取材・執筆:小林佑実
「大工として木造建築を建てたり直したりしていく中で、そこに暮らす人や家・まち・自然など、様々な営みがゆるやかに繋がりあうような仕事を続けていきたい」
そう話すのは今回ご紹介する丹羽怜之さん。木の家ネット入会以前から会員との交流も広く、奥様の智佳子さんは木の家ネットのライターとしても活動されていたので、筆者としては楽しみにしていた取材。波乱万丈の独立スタートだったようですが…
丹羽怜之さん(にわさとし・37歳)プロフィール
1985年三重県生まれ、群馬県育ち。丹建築代表。大工で一級建築士。日本建築専門学校(静岡県富士宮市)を卒業後、木の家ネット会員でもある一峯建築設計(三重県津市)池山琢馬さんに師事。6年間の修行を経て2014年春、丹建築として独立。翌2015年には米国北カリフォルニアでの天平山禅堂プロジェクトに携わる。帰国後は三重県中勢地域を中心に木造建築を手掛ける中で、そこに暮らす人・家・まち・自然など、様々な営みがゆるやかに繋がり合うような仕事を模索している。
⎯⎯⎯ 建築の道に進んだきっかけを教えてください
丹羽さん(以下敬称略)「一番根底にあるのは、漠然とですが、“自分自身で身を立てて生きていきたい”という想いを小さいながらに持っていたことですね。モノ作りが好きだったので、中学校の頃から大工になりたいと思うようになりました。一人でできる工芸品のようなものが好きだったのですが、もっと人と関わって作りたいなという気持ちも出てきて建築の道に進もうと決めました」
⎯⎯⎯ 日本建築専門学校を卒業され、修行時代のことを聞かせていただけますか
丹羽「ある時、四日市で池山さん達が手掛けられていた【竈(かまど)の家】で大工仲間たちが集う機会がありました。そこで一峯建築設計の池山さん(つくり手リスト)からいろいろお話しを伺っているととても興味深かったので『一緒に働かせてもらえませんか』と尋ねたのが始まりです。夜通し、竈の火に当たりながら語り合うという特殊な就職面接でした(笑)」
⎯⎯⎯ 池山さんの元で得たことで特に印象に残っていることを教えてください
丹羽「毎年、手刻みで土壁の仕事があって、何でもやらせてくれて、大工修行の場としては言うことない環境でした。また、木の家ネットの他の大工さんの現場に預けてもらう機会も多く、自分の親方以外のいろんなやり方を経験できたのは大きいです。
本来は半人前の人間がよその現場に行くべきではないかも知れませんが、そこで失礼のないように、どう振る舞うべきかとか、どう実践するかとか、荒療治のような感じで学ばせてもらいました。恥をかくことの方が多かったんですけどね(笑)」
⎯⎯⎯ ということは、入会される前から木の家ネットの会員の面々とは面識があったわけですね
丹羽「そうですね。弟子の時も、独立してからも、入会以前から総会に連れて行ってもらったり、みなさんにはとても良くしてもらっています」
⎯⎯⎯ 2014年に丹建築として独立されて、翌年渡米されていたそうですが、そのお話をぜひ聞かせてください
丹羽「北カリフォルニアにある寺院、天平山(てんぴょうざん)禅堂プロジェクトに参加するために約半年間渡米しました。
現地に禅宗を自らの宗教としている方が増えているそうです。各地に代表的なお寺はあるのですが、いざ自分が僧侶になりたいと思ったら、日本に修行に来なければなりませんでした。
なかなかそれは実現できないので、『現地できちんと修行ができ、僧侶になれるお寺(専門僧堂)をつくりたい』という住職の個人的な想いでスタートしたプロジェクトです。何億円もの寄付を集めて総本山を海外で初めて建立するというものです」
⎯⎯⎯ かなり壮大で使命感と夢のあるプロジェクトですね
丹羽「寄付によってお金を賄うので、予算も限られていて、大きな建設会社も入っていないので、施主直営工事のような感じでなかなか大変でしたがやりがいのある仕事でした。今回は【七堂伽藍(しちどうがらん)】のうち最も大切とされる【僧堂】の屋根仕舞いまでやって帰って来ました」
七堂伽藍
寺の主要な七つの建物。また、七つの堂のそろった大きな寺。禅宗では、山門・仏殿・法堂(はっとう)・庫裡(くり)・僧堂・浴室・東司(とうす)の七つ。
⎯⎯⎯ 木材はどうされたんですか?
丹羽「全7棟分にあたる約2,000立米の檜を日本から船で運んだと聞いています。私が行った時にはそのうち3棟は刻まれた状態でしたが、まだ1棟目が完成していないままなので、その後が気になっています」
⎯⎯⎯ その土地に生えている木で建てるのが建物にとっては良いと思うのですが、日本の檜をカリフォルニアに持って行って耐久性などは大丈夫なものなんですか?
丹羽「向こうは雨季以外は乾燥しているので、むしろどんな木でも長持ちしちゃう環境だと思います。サンフランシスコにも100年以上昔の木造建築がたくさん残っています。僕らが『瓦(ルーフタイル)を葺いたんだ』というと『すごいお金持ちだね!こっちは木の板かアスファルトかスレートだよ』という返事が現地の人から返ってきました。
その代わり怖いのが乾季の山火事です。私がいた半年の間にも現場近くで火事がありました。どんどん火が広がり規模が大きくなると、火を消すどころではなくなって、家や大切なものの周辺を守ることと避難に徹する。そして火が過ぎ去るのを耐え忍ぶ。というスタンスになるんです。日本の台風や地震などに近い感覚ですね。命からがら逃げて帰って本当に怖い思いをしました」
⎯⎯⎯ 現場は大丈夫だったんですか?
丹羽「ネットで火の広がりをチェックしながら『燃えちゃったかも…大丈夫かな』とハラハラ心配でした。後日現場に戻るとそこは月面のような荒野に変わっていたんですが、建物と木材の周りだけはブルドーザーで地面を掻いて防御していたので、何とか大丈夫でした。
夏場は火花が出るものは使っちゃいけないとか、日常の当たり前のルールが全く違うんだなと思い知らされました」
⎯⎯⎯ 本当に大変な日々だったんですね。他に日本との違いで苦労されたことはありますか?
丹羽「まずは食事です。日本食自体は向こうにもあるんですが、現場が本当に人里離れた山の中にポツンとあるような場所で、そこに住み込みでやっていたので、食料の調達が苦労しました。ファーストフードなどでも言葉や文化の違いを感じ、もどかしい思いをしました。
2つ目は法律です。州の建築の許可は降りていたんですが、連邦の開発の法律に違反しているとみなされて、一時中断せざるを得なくなりました。その後コンサルティングの方に入ってもらって設計変更をして事なきを得たのですが、州・軍・連邦に挟まれるという事態で苦労しました。
先ほどの火事のお話もですが、3つ目は気候です。夏は一切雨が降らないので乾き切った砂漠みたいなところなんですが、冬の雨季になるとそこに雨が降り続けます。そうすると植物も土を貯えることが出来ず、ドロドロになって川のように流れて、地形が変わってしまうんです。春先はそれがそこらじゅうでチョコレートフォンデュみたいになっていて重機も動かせない。その上、棟梁は高齢のため長期間は滞在できないという状況で、途中からは本当に自分一人だけで、暑さと闘いながら巨大なフォークリフトを使って建前をして、かなりタフな現場でした」
⎯⎯⎯ 帰国されてから現在までのことを教えてください
丹羽「2度の渡米後、こちらで暮らして5年が経ちました。カリフォルニアでの仕事とは関係ない古民家のリフォームなど順調に仕事ができていて充実しています。自分が古民家が好きで仕事を選んでいるという側面もありますが、三重という土地には同じような価値観の人が多く、建物も残っているので、自分に合っているなぁと感じています」
⎯⎯⎯ 木の家、土壁の家を建てたいというお施主さんも多いのですか?
丹羽「こっちが当たり前に土壁の家を建てていると、お施主さんも『やっぱり土壁で建てるものなんですね』と自然と納得して何も問題なく進みます。逆に、乾式工法(石膏ボードなど)の家ばかり増えている理由は、つくり手側が『なんで土壁なんてやるの?』という考えで建てていて、お施主さんの方も乾式工法以外の選択肢があること自体を知らない。そしてそのまま出来上がってしまうという流れだと考えています。つくり手側の意識や考えが作用する部分が大きいのではないんですかね」
⎯⎯⎯ 木材について伺います。三重県は人工林率が63%と全国平均の41%を大きく上回っています。材木の調達はどうされていますか?
丹羽「県内有数の林業家の方が、私の独立と同じ時期に材木屋さんを始められたんです。希望すれば山を見せていただけて、その場で切ってもらえます。他の地域に比べて天然乾燥材を入手しやすい環境にあるという幸運を噛みしめています」
丹羽さんに「どこか思い入れのある仕事を案内してください」とお願いしたところ、改修を手掛けたという「ハッレ倭(やまと)」を案内していただいた。
ハッレ倭は、築85年を超える旧倭村役場を改修し、2021年にオープンした“出会いと学びのシェアスペース”。丹羽さん自身も運営メンバーとして参加しており、学びフェア・マルシェ・映画鑑賞会・音楽会などのイベント会場として、またコワーキングスペースや貸しスペースとして、地域に根ざした多文化・多世代交流の場になっている。さらに国内外からの移住相談窓口としても活動しているそうだ。2022年には登録有形文化財に登録された。
ハッレ倭代表の倉田麻里さんと丹羽さんに対談インタビューに応じていただいた。
⎯⎯⎯ 倉田さんと丹羽さんの関係の始まりは?
丹羽「倉田さんと妻が繋がりがあり、田植え体験をさせてもらえることになったんです。僕は土壁に使う藁を継続的に分けてもらえるところを探していたのですが、倉田さんのところでは無農薬で栽培されているとのことだったので、是非お願いしたいと思い参加しました。
倉田さん(以下敬称略)「ちょうどその頃、ここの工事に取り掛かろうとしているところだったので、丹羽さんに相談しました」
丹羽「最初は非破壊で改修できると思い、比較的楽な工事になると想定していました。ところが蓋を開けてみたら雨漏りはしているし、シロアリに喰われていないと思っていた木も、中から喰われていたりと、結構大掛かりな工事になりました。
それでも救いだったのが、上から下まで通し柱で組まれている珍しい造りだったことです。建物としては自立したままで、悪い箇所だけ直せるんです」
倉田「解体した時に全部サステナブルな材料で作られていてびっくりしました。昔は何も意識しなくてもそういうものだったんですね」
丹羽「今回塗った土壁も、元々の壁を剥がして新しい土と混ぜて、もう一回塗っただけです。85年経っても全然すぐ新しくなれる。当たり前ですが素晴らしいです」
倉田「この建物の素晴らしさを活かしつつ、土壁のワークショップを開催したり、内装のことはボランティアの方にやってもらったりと、色々工夫を凝らして、今の時代にあった使い方ができるように手を加えてもらいました。丹羽さんは『こうなったらこうなるけど、こうしたらこうなる』と色々なパターンを考えてくれるので、とても勉強になりました」
⎯⎯⎯ 運営が始まってから地域での受け入れられ方はいかがですか?
倉田「ハッレ倭ができてから移住者の人口は確実に増えてきていますし、利用者数も学びフェアだけでも毎月100名、他のイベントも入れると延べ200名くらいの方にお越しいただいています」
丹羽「ここの運営のやり方は私の肌感覚にも合っているんです。最近の世の中の傾向として、ますますSNSやインターネットが発達して、場所に固着する必要がなくなっていると感じます。どこにいても何でも売り買いできちゃう。確かに便利だけど味気ない。そうじゃない方法で何か新しいことを始めたい人にとっては、いい場所だと思うんです。ちょっと商品を置かせてもらって、コミュニケーションが生まれて、輪が広がっていって。そういうのって素敵じゃないですか」
倉田「『何やってるの?』ってふらっとやって来られる方が多いんですよね。初めは頻繁にSNSを更新したり、チラシを配ったり、こまめに発信していましたが、地道な活動を2年間続けてきて、認知もされ始め多少軌道に乗ってきたかなと感じています」
⎯⎯⎯ ハッレ倭にかける想いや今後のことを教えてください
倉田「以前、フィリピンでNGO活動をしていたのですが、フィリピンは島ごとに文化も言葉も違うし、国際結婚が当たり前なんです。その経験を活かし多世代交流・多文化交流ができる“出会いと学びの場”を作りたいというのがハッレ倭の目的です。お金には結びつきにくいこともありますが、とにかく開かれた場を用意して、いろんな人に交流してもらうことが大切だと感じています。ここをステージにしてどんどん使ってもらえたら嬉しいです」
丹羽「日本に帰って来て直後の仕事です。緑に囲まれていて自然と一体となっている環境で、カリフォルニアにも通じるものを感じたので思い入れがあります。お風呂は全面窓で雑木林の中に居るかのような感覚を味わえます。私の場合はアウトドア直炊き露天風呂でしたが(笑)」
⎯⎯⎯ いろいろ見せていただきありがとうございます。家づくりをしていく中で、大事にしていることやモットーなどはありますか?
丹羽「関わってくれる人を大切にしたい。ということですね。言葉とか建てるものとか利害関係などを一切取っ払っても、その人と自分とがお互い幸せな感覚でいられるというのが、一番やっていて気持ちいいです。カリフォルニアでの経験もそうでした。
“自分で仕事がしたい”と思った理由もそこで、現場で『大工さん』ではなく『丹羽さん』と呼んでもらえて、私も『〇〇さん』って返してコミュニケーションを取る。そうやって仕事ができていることがありがたいです。
あとひとつ、池山さんからよく言われていた『そこらへんであるもので作ればいい』という考え方です。最初は言っている意味が分からなくて、『ピッタリの寸法で作ってもらえばいいのに』『買えばいいのに』と思っていました。今思うと、古民家を直す時には絶対必要な考え方であり地力だと感じています。その経験があったからこそ、アメリカの過酷な現場でも対応できたんだなと感謝しています」
⎯⎯⎯ これからの展望や野望があれば教えてください
丹羽「設計・施工で一貫した仕事をやっていきたいです。県内の同世代の大工仲間がみんな設計・施工の仕事を当たり前にやっていて、私が建築を志した理由も“自分自身で身を立てて生きていきたい”なのでやはりそうありたいです」
⎯⎯⎯ 最後に、丹羽さんにとって家づくりとは何でしょうか
丹羽「難しい質問ですね。関わる人みんなが、当たり前にある幸せに気づいて、感じて、そして育むということかなと思います」
「木で家をつくる」「土壁を塗る」「石場建てで建てる」といった手法や技術などの「何をやるか」も然ることながら、その先にある人間関係の大切さを感じる取材となりました。人想いで温かな笑顔の丹羽さんと一緒にいると、こちらも自然と笑顔になってしまいます。
丹建築 丹羽怜之さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
「家はお客さんのためのものですから。求められる希望以上のものを提案し続けるようにしたいです。また、どうしたら1日でも1秒でも長く保つようにつくることができるか。常に考えるようにしています」
家づくりについてそう話すのは、東京から北海道に移住し、設計から大工まで一人でこなし、さらに猟と畑にも力を注いでいる《ヒトトキ》の代表 小塚祐介さん。
ご自身の工房兼事務所の工事の合間を縫ってインタビューに答えてくれた。
小塚祐介さん(こつかゆうすけ・42歳)プロフィール
1980年東京都生まれ。ヒトトキ代表。日本大学芸術学部デザイン学科建築コースを卒業後、山口修嗣棟梁に師事。3年間の大工修行を経て独立。2017年には二級建築士事務所を設立し、2020年に北海道網走郡津別町に移住。猟と畑と家づくりを主軸に、自分たちで賄えるものは、なるべく自分たちで賄うことをライフワークとしている。
⎯⎯⎯ 建築の道に進んだきっかけを教えてください。
小塚さん(以下敬称略)「幼稚園の時の夢が大工さんでした。高校三年の時に、建築コースのある日本大学芸術学部の説明会を聞きに行き『俺の進む道はここだ』と直感で決めました。大学の授業では自分でデザインした椅子などを作ったりしていく中で、自分でデザイン・設計したものを、自分の手で作りたいと思うようになり、まず大工の道に進みました」
⎯⎯⎯ 修行時代はどんなことをされていたのですか?
小塚「山口修嗣棟梁のもとで修行をしていました。渡り腮(わたりあご)構法の第一人者である丹呉明恭建築設計事務所とタッグを組んで進める仕事がメインで、木組みの奥深さを実感する毎日でした。
山口棟梁の工房は群馬の山中にあるのですが、そこに住み込みで大工の見習いをしながら、ヤギ・羊・鶏などを飼い、畑仕事もやったりしながら、3年間寝食を共にして多くのことを学びました。その体験が今の生活のベースになっています」
⎯⎯⎯ その後、独立まではどんな道のりでしたか?
2005年からフリーランスとして下請けで伝統構法の住宅を手掛けたり、家具や建具の製作をはじめました。途中引っ越しなどを経て、2007年に東京へ戻り、2013年に《ヒトトキ》をスタートしました。
⎯⎯⎯ 《ヒトトキ》という屋号に込めた想いを教えてください。
小塚「人と木が、人と“喜”になる。そんな日と時を共有し、つくっていきたい。という想いを込めて名付けました。いい屋号が閃いたら完全に独立しようと思っていたので、結構年月がかかってしまいました(笑)。さらに4年後の2017年には《ヒトトキ二級建築士事務所》として設計業務も本格的に始めました」
⎯⎯⎯ ご自身で設計・デザインし、ご自身で作り上げるという学生時代の夢が実現したわけですね。実際に仕事をしていて強みに感じることはありますか?
小塚「設計者の視点と大工の視点で現場判断をするので、より良い解決策を考えられるという点ですかね」
⎯⎯⎯ 北海道に移住をされたのはどうしてですか?
小塚「関東でも住む場所を探したのですが、なかなかいい縁がありませんでした。
ちょうどその頃、狩猟免許を取りたいと思っていたのですが、北海道の標津町(しべつちょう)で、伝説の熊撃ちと言われている久保俊治さん ※1 が狩猟講座《アーブスクールジャパン》を開校すると聞き参加しました。何日も野営をして、食べ物は自分で捕まえるというスタイルで、野山を駆け回っていた時に『自分はこれだ。ここが自分の居場所だ』と理屈抜きで感じました。
母方のルーツが北海道にあるので、こちらに住んでみたいという夢はありました。東京で築き上げた生活のベースを捨てる勇気がなかなか持てなかったのですが、もう直感で移住を決めました」
※1 久保俊治さん
北海道標津町で牧場経営の傍ら羆猟師として猟を行う。著書に「羆撃ち」(小学館)がある。
⎯⎯⎯ 広大な北海道の中で、ここ津別町を選んだ理由は?
小塚「以前、ネットで見てずっと欲しいなと思っていたアイヌのマキリ(アイヌが愛用した片刃の小刀。木製の柄と鞘には緻密な文様が刻まれている)を、新橋のギャラリーで見かけてました。展示されていたアイヌの作家さんに『どうしても欲しいです』とお願いしたんです。後日譲ってもらえることになったのですが、丁度僕が狩猟の野営でこっちに来ていたので、ご自宅に寄らせてもらうことに。それが津別町だったんです。
行ってみると、すごくいいところで住みたいくなってしまいました。それから季節ごとに通っていましたが、いざ住むとなると準備が大変そうなので二の足を踏んでいました。
そんなある時、津別町の《地域おこし協力隊》の募集が1名だけあり、妻が応募してくれたんです。そして無事採用されて移住が現実のものになりました。ここの家と車もついていたので、準備に専念することができ、とてもありがたかったです」
⎯⎯⎯ 鹿猟はどれくらいの頻度で行かれているんですか?
小塚「我が家で食べる肉は100%猟で賄いたいと思っているんですが、今年は冬に2回しか行けていないので、そろそろ猟に出かけないといけないなと考えているところです」
⎯⎯⎯ 猟にまつわるエピソードを1つ教えていただけますか?
小塚「ある冬、作業場の近くの山でとても大きい雄鹿(100kg超!)が獲れました。そのまま引きずって、沢伝いに降りればすぐに帰って来れるだろうと考えていたんですが、かんじきを履いた状態で沢を3回も越えないといけなくて、すぐそこなのに四時間半もかかりました。狩猟の大変さを実感しました」
⎯⎯⎯ すごい体験ですね。猟の他にも畑もされていると伺いましたが、どんなものを作られているんですか?
小塚「畑は東京時代からずっと自然栽培でやっていて、こっちではまだ少しずつ開墾している状態です。向こうでよくできていた里芋があったので、親芋を持ってきていて、栽培の北限を超えているこの地で育つかどうか、ハウス栽培でチャレンジしています」
⎯⎯⎯ 家づくりの話に戻ります。北海道に来られて仕事のスタンスや考え方など、何かご自身の中での変化や気づきなどはありましたか?
小塚「まずは設計に関してですが、網走のカフェを設計した時に『コンセプトっていらないや』と感じました。今まではコンセプトを考えて、それに基づいて空間や形を決めていっていましたが、コンセプトという枠で固めることよりも、お客さんの希望や動線などを満たした上で、それ以上に奇を衒うわけではなく、純粋に美しいものを考えればいいかなと思うようになりました。
コンセプトで縛らないという面では楽になったんですが、どうやったら美しく見えるかを考え、感覚を磨いていかなければならないので、より難しくなったとも言えますね」
⎯⎯⎯ その網走のカフェの事例をネットで拝見しました。こだわりのディテールがたくさんあるにも関わらず、それぞれが喧嘩することなく高次元でまとまっていて、一つの空間をつくり出しているなと感じました。設計・大工・家具づくりまでお一人でされているからこそできる仕事なんだろうなと感銘を受けました。
小塚「ありがとうございます。設計士の『どうだ俺のデザインは!』とか、大工の『どうだ俺の技術は!』みたいなのは好きじゃないんです。繊細に見せるところとガッチリ見せるところをその都度考えて適材適所決めていっています。
建築中の工房横の土地に皆伐放置されていたタモ材を救出して使用しています。大正13年 (1924年)の新聞が壁の中から出てきたのでおそらくそれより前に建てられ、増改築を繰り返して今の木造三階建てになったのだと思います」
⎯⎯⎯ 大工としての変化はありますか?
小塚「木のこと、木を組むことをもっともっと理解したいと思うようになりました。北海道ではカラマツ(唐松)※2 がどんどん伐採されていて、いいカラマツもほとんどが合板になってしまっています。また広葉樹に至ってはほとんどがチップになってしまっています。北海道の林業はかなり遅れているように感じます。こっちでは人工乾燥ばかりなので、天然乾燥を頼めるところがあると嬉しいのですが。人工乾燥材を一度使ってみましたが、『これは木じゃない。もともと木だったものだ。これでは木があまりにもかわいそうだ』と思いました。また、大規模伐採によって熊がどんどん森から出てきてしまうなどの弊害も生じてきています。
そこで、今建てている工房は、実験として全てカラマツを生木のまま使っています。まずはカラマツの特性や癖をきちんと知ろうと思ったんです。今までのいろんな木を見てきた経験を元に、ねじれが強いカラマツの癖を予測して組み方を変えています。内装に関しては、チップになる運命の広葉樹を少しでも救出するために、床や柱、家具などに使う予定です。木がどうしたいのかをもっともっと知りたいんです」
⎯⎯⎯ 今日は工房の建方を見せていただきありがとうございました。貴重な体験でワクワクしました。工房の奥に半地下の部分がありましたが、どういう部屋になるのでしょうか?
小塚「ここも実験のひとつで、寝室になります。イヌイットやエスキモーなどの北方先住民族の竪穴式住居やイグルー ※3 をヒントにしました。《地下》というと寒いイメージがありますが、外気と違って一定温度以下には下がらないので、寒ければ布団をかぶればいいですし、床下に土を敷いて薪ボイラーの熱線で土を温めれば、竪穴住居やチセの土間の蓄熱効果で底冷えしないのではと考えました。雪国に暮らしてきた先人達の知恵を活かす試みです」
小塚「それから太陽の暖かさも大切ですね。北海道でもやはり高気密高断熱の家が主流なのですが、暖かさでは太陽の光に勝るものはないですよね。寒く高緯度の場所なので、その大切さは他の地域より切実です。なので、太陽光を効率的に取り入れるようにして、断熱材は最低限のウッドファイバーを使い、過剰な断熱はしない方法で試してみようと考えています。さらに補足的に薪ボイラーの床下暖房を敷けば、かなり快適になるのではないかと考えています。
寝室は「寝るために特化した部屋」として、就寝時が快適なら良いので、朝日が入る程度の小さな窓にしています。目覚めたら太陽の光がたくさん差し込むリビングに行って温まるという流れを想定して設計しています」
⎯⎯⎯ 楽しみな試みですね。高気密高断熱の話題が出ましたが、北海道だと比較的適しているようにも感じるのですが、実際のところどうなんでしょうか?
小塚「机上の計算では確かに優れているかもしれませんが、実際解体してみると気密性が高いほど、どこかにシワ寄せが出てくるなと実感します。高気密にしておいて24時間強制換気するという考え方がそもそもすごい矛盾ですよね。しかも、その空間はケミカルなもので満たされている訳です。それよりも、中気密くらいで高断熱、そして蓄熱と調湿のできる家の方が北海道の気候風土には合っているんじゃかいかと思います。それを実現できる木組みの家を考えていきたです」
※2 カラマツ(唐松)
北海道ではスギ・ヒノキに代わって、唐松(カラマツ)が積極的に植林されてきた。育苗が容易で、根付きが良く、成長も早い。繊維が螺旋状に育つため、割れや狂いが生じやすい。その反面、硬くて丈夫なので、将来は炭鉱や工事で使う杭木や電信柱としての活用が期待された。しかし、時代が変わり当初の需要はほとんどなくなり、現在では構造用合板や集成材などが主な活用路となっている。
※3 イグルー
北米の狩猟民族「イヌイット」や「エスキモー」の伝統的な雪の家。見た目は日本のかまくらに似ているが構造は異なる。かまくらは、雪を積み上げ内部をくり抜いて作るのが一般的だが、イグルーはブロック状に圧縮した雪を積み重ねていく。また、かまくらは寝泊まりには使用しないが、イグルーは冬の間の住居として使用される。
ここでいくつか事例をご紹介する。設計・大工・家具づくりまで一人でこなす小塚さんだからこそできる仕事の一端をご覧ください。
まず紹介するのは、自宅近くに建設中のご自身の工房兼事務所だ。取材に先立ち、建方の模様を拝見した。
生木のカラマツを、ねじれを考えながらトラス構造で組み上げていく様子はまさに職人技。抜群のチームワークでこなしていく。自ら設計して、自ら建てる。しかも自らの実験の場として。小塚さんの生き様を感じた。
ここは小塚さんのお兄さんがはじめるお店。「Back to the Future IIIのようなウェスタンにして欲しい」との要望に応えるべく鋭意工事中。主要な木材は北海道で刻んで持って来たそうだ。
小塚「建方は仲間と兄の都合がつかず、なかなか大変でしたが一人で組み上げました。ヒヤヒヤする場面もありましたが… 中央のシンボルツリーには胡桃を使いました」
小塚「大将がお一人で営業されてるカウンター席8席、テーブル席4席の小さな日本料理店です。大将の丁寧で丹精込めた料理を調理中の姿を眺めたりお話したりできるよう、オープンな空間を心がけました。お一人様でも退屈しないように全ての壁を違う仕上げにしました。市松模様の「途切れることなく続く」という意味を込めてモチーフにしました」
カウンターのデザインと施工と担当。都内の荻窪店と神保町店にも携わっている。
⎯⎯⎯ これからの展望や目標などを教えてください。
小塚「先ほどの話にもありましたが、北海道では木材の乾燥は人工乾燥に頼りきっているのが現状です。仲間と水中乾燥や氷中乾燥を試していこうと話をしています。また山と直接つながった生活をしながら、チップ材にされてしまう前に、いい木を救っていきたいですね」
⎯⎯⎯ 氷中乾燥というのは初めて耳にしました。どんなメリットがあるのですか?
小塚「まだまだ実験段階ですが、湖や沼が結氷することで材が完全に水中に沈むことによって、より均一な浸透圧で水分ヤニが抜けることが期待できます。鹿肉や鮭の寒干しやルイベのように、北方ならではの知恵でデータでは得られない何かがありそうな気もしています。広葉樹の場合、木に入り込んだ虫をそのまま死滅させることも期待できます。デメリットは、結氷前に入れないと氷を割るところからしなければならないことと、氷が溶けるまで引き上げられないことです」
⎯⎯⎯ 木のことの他に、設計などに関してはいかがですか?
新築の設計実績がまだないので、自分の手で設計施工をやっていきたいです。それと、家具づくりも突き詰めていきたいです。オーダーがあって急いで作るんじゃなくて、自分がいいなと思える家具をしっかりと作っていきたいです。
⎯⎯⎯ 大事にしていることやモットーなどがあれば教えてください。
小塚「大きく稼がず、小さく暮らすこと。ですかね。お金が全てみたいな世界がすごく嫌なんです。
もちろん、現代で生活していく上で、経済活動から完全に抜けることはできませんが、猟をして畑をして仕事をしてというお金だけに頼らない暮らしをしていきたいです」
屋号である《ヒトトキ》の意味は『ひととき』であるのはもちろんのこと、『人と木』であり『人と喜』や『日と時』であるという小塚さん。インタビューでの優しくも芯のある言葉には、思いやりや感謝の念が感じられた。その気持ちは、家づくりに関わる人にだけではなく、木や動物、植物など、自らを生かしてくれている自然そのものにも向けられたものだ。
そんな想いを持った小塚さんが生み出すさまざまなものが魅力的でないはずがない。
自然のあらゆるものや現象に、カムイ(神様)が宿っているとされるアイヌの価値観と通ずるものがあるのは決して偶然ではない。
ここが彼の居場所であり、生きる道だ。
ヒトトキ 小塚祐介さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史(OKAY DESIGNING)
「木や土、石を使った日本の伝統的な技術で建てた家は美しいですし、とても心地のいいものですが、“特別な人が住むもの”と思っていらっしゃる方が多いと思うんです。そういう方にこそ、木や土のぬくもりや味わい、快適さを知っていただきたいし、日本の家づくりのスタンダードになってほしい」
そう話すのは、木の家設計室アトリエ椿の代表で建築士の笠原由希さん(かさはらゆき・48歳)。
住む人の暮らし方にふさわしく、無理のない形での伝統技術や自然素材を取り入れた家づくりやリノベーション、リフォームを行っています。
もちろん暮らしにふさわしい形、心地よさは人それぞれ。本人さえも気がついていないこともあると笠原さんは言います。この重要なポイントを汲み取ろうと、依頼主やその家族、周囲の人にまで真摯に向き合う笠原さんの、千葉県柏市にあるご自身の作品であり生活の場でもあるアトリエに伺いました。
⎯⎯⎯ 笠原さんのアトリエでもあるご自宅にお邪魔して、まず感じたのは、すごく清々しい木のいい香りがすることです。なんとも気持ちがいいですね!
笠原さん(以下、敬称略)「住んでいると気がつかなくなっているのですが、そう言ってくださるお客様は多いですね。このアトリエは建ててから11年が過ぎているのですが、まだ木が香りを放ってくれているんです。
香りも人の体や心に与える影響って大きいと言われていますよね。自然素材は見た目や匂いの癒し効果だけでなく、室内の湿度を調整したり有害な化学物質を吸着したりといった実質的な効果がある住む人に優しい素材です。心身の健康を考えるうえでメリットは大きいと経験的にも思います」
⎯⎯⎯ ホームページを拝見しても、家と健康の関連をとても大切に考えていらっしゃるのがわかります。そもそも住環境に興味を持ち、家をつくる仕事をしようと決められたことと何か関係していますか?
笠原「住環境に興味を持ったのは、夫の仕事の都合でスイスで暮らしていた時です。それまでは会社勤めで忙しくしていたのですが、退職しました。現地は日本人はほとんどいないようなところで、知り合いもいなくて。日中ひとりでクヨクヨと家にいる日々が始まりました。
二重の意味でライフスタイルが変わったなかで、私の心の支えになったのが住環境でした。家に居て窓の景色を見たり、散歩して町並みの美しさに触れるうちに、自分の中の焦りや孤独感が消えて、だんだんと気持ちが癒されていきました。移住がきっかけで住まいや周囲の環境が心に与える影響の大きさを知ったんです。
恩恵は十分に感じているのですが、何に癒されたのか言葉で説明できなくて。住んでいた家に関しては日本の家屋に比べて広かったですけど、ごく普通の築40年くらいの家でした。私自身がその“心地よさの正体”を知りたくて、これが建築の道に進むきっかけになったと思います」
⎯⎯⎯ 帰国されてから建築のお仕事を始められたのですね。
笠原「はい。その前から勉強はしていたのですが、店舗や工場、たまに住宅も扱うような建築事務所に入れていただき、今のキャリアをスタートさせました。
図面を描くことは好きでしたが、実際に仕事を始めたら、カタログやショウルームで既製品の建材を選んで組み立てていくだけという印象があって思っていたことと違っていました。
もっと住む方の暮らしにあわせた設計がしたい、気持ちに寄りそった家づくりがしたいと強く思いました。
そしてご縁をいただいたこともあり、木の家ネットの会員でもあるけやき建築設計さんや、古民家再生を得意とする工務店との仕事を通して、木の家づくりについて勉強させていただきました。
そこで改めて日本の木造建築の素晴らしい技術を学び、1からつくり上げる家づくりの楽しさや、木の家の心地よさについても知ることができました」
⎯⎯⎯ 笠原さんが感じた日本の木の家の魅力は、どのようなところでしょうか?
笠原「木の家の魅力は、すでにこのインタビューにご登場されている先輩方が語りつくされていると思いますが(笑)、自然素材の表面の穏やかで深みのあるテクスチャーやさらっとした空気感は、人工的なマテリアルや空調では再現できないものだと感じています。
実際に私自身が木の家に暮らしていてありがたいと思うのは、古くなっても、あまり神経質に掃除をしなくても、許容してくれるようなおおらかなところです。多少の傷は味、といいますか。
ただし、設計者がそれを言ってはいけない部分もありますので、自然素材を扱うから仕上がりがラフでいいということではなく、許容範囲内のばらつきなのか、それ以外なのかを判断するのも監理していくうえで必要ですし、設計段階でもなるべくシンプルになるように心がけています」
⎯⎯⎯ おおらかな空間、それだけでリラックスできそうですね。
笠原「それから、やはり心身の健康にいい影響があることも木の家の大きな魅力です。
それは自然素材という安全な素材を使っているからということはもちろんですが、色々な働きというかメリットを生みだしていると感じます。
私はスイスで出会ったバウビオロギーというドイツ発祥の建築生物学・生態学をずっと学んでいます。“家は大きな洋服である”という考えのもと、素材の安全性、匂い、音の反射、電磁波、色、カビ、化学物質、循環つまり廃棄するまで建材がエネルギーとして収支が取れているか、という視点で人が人らしく暮らせる家について研究する学問です。
日本の伝統技術や自然素材でつくる木の家は、これらの指針のほとんどをクリアしています。
私はプラスして、電磁波というか電気の影響を受けないように、人が長時間過ごす所の床には電気配線を通さないように工夫をするといったこともして、学びを活かしています」
⎯⎯⎯ これまでのお仕事のご経験で、先ほどおっしゃっていた“心地よさの正体”は見つけられたのでしょうか?
笠原
「いえいえ。それはまだ勉強の途中ですし、一生探し続けると思います。
人が心地よさを感じるには、五感が働くだけでなく他の要素もあるような気がしています。
例えば木造建築の中でも、わびさびに代表される和の美意識や遊び心にあふれた茶室。広い部屋はのびのびと過ごせるよさがありますが、茶室の隣の人と肩がぶつかりそうなあの狭さだからこそ、一つの宇宙を感じるというか、何かに包まれている感覚があって心地いいですよね。ではどのように形にしているのかというと、やっぱり説明できませんね。
そこに身を置く時が私にとって至福の瞬間で、少しでもその世界観に近づけるように、お茶の稽古にも通っています。じつは茶花といえば椿なので、アトリエ名も椿を入れさせていただきました」
⎯⎯⎯ なるほど、広ければ心地いいとは限りませんね。
笠原
「そうですね。他にも、新築の家のフレッシュで清々しい空気感も魅力ですが、古民家には古い木材や漆喰の壁に囲まれた、温かく懐かしい空間があり、今の一般的な家づくりで使われる新建材ではとうてい出せない豊かな表情を持っています。
価値は多様で、さらに人それぞれ。もちろん心地よさも。ですから家づくりはこうでなければ、という制約はなるべく設けないようにしています。特に、古い家のリノベーションなどでは、大切にしている持ち物や変えたくない暮らし方など、ご家族にしかわからないストーリーがあります。なるべくお気持ちに寄り添いながら、生活が楽になるご提案をしたいです。
木の家で80代後半の義母と同居したり子育てをしたりしている生活者としての私の経験を、設計にも活かしていけたらと思っています。女性ならではの視点も活かしたいところですが、最近は家事や家電に詳しい男性も多く、お客様に教えていただくことも多いですね」
⎯⎯⎯ 建築士である前に生活者としての眼差しを大切にされているのですね。
笠原「家という場所は、食事をして睡眠を取って、仕事や勉強をして、家族とのコミュニケーションを取って、と、私たちの身体や心の基礎をつくる場所です。感染症の蔓延や緊迫した海外情勢などで先行きの不安や閉塞感が広がるなか、家の中に目を向ける人が増えてきているのは必然のこと。私もそのひとりとしてお力になりたいと思っています。
一方で作り手として大切にしていることもあります。なるべく真壁で作ること。柱や梁などが見える真壁は木の姿の美しさを味わえます。
もう一つは、どうしても日本は地震の問題がありますから、木の家の強度を高める意味もあって、“手刻み”にはこだわっています。
予め木材を切って搬入せず、現場で木材どうしの組み合わせを見て調整し、梁(はり)や桁(けた)、柱それぞれの木材の接合部分をつくってはめ込みことで、嵌合(かんごう)がしっかりした安全な骨組みをつくることができます。
これは、昔ながらの伝統技術を身につけている大工さんでなくてはできないことです。木の癖を読んで配置を決めてくださるので、人の感覚の方が信頼できるなと、いつも感じます。
そんな大工さんから『あの木はいい目だったから、和室のここに使ったよ』と誇らしげに言われると、幸せな出会いだなと思ってうれしくなります」
⎯⎯⎯ お客様と笠原さんの出会い、笠原さんが依頼した腕利きの大工さんと出会って、木材との出会いもあり、さらに大工さんが木材のどの木目を見せるか選んで……。たくさんの選択肢のバリエーションがある中で、茶道ではないですが一期一会的ですね。
笠原「そうですね。木も一本一本が出会いですから、隠さない形で表情豊かに使いたいという思いはあります。使命感に近いかもしれません。だから真壁が好きなんですね」
⎯⎯⎯ 今後の目標、ミッションとして取り組んでいることを教えてください。
笠原「私の目標は、日々の活力を養ったり、弱っている心身を癒したりするのに、無垢の国産材と熟練の職人がつくる心地よい“ゆらぎ”のある空間や、化学物質に汚染されていない安全な空気、安心して呼吸できる家を確実にお届けすることです。
そのような家づくりがいつの間にか標準的なものから外れ、こだわりのある人にしか届かないようになっているのは残念なことです。
家のすべて、構造から伝統技術と自然素材でつくるとなると、どうしてもハードルが高くなります。費用もかかるだろうからと最初から諦めている方も多いのではないでしょうか。
部分的にでもと言いますか大切な場所に、できる範囲を一緒に考えさせていただいて、たくさんの方の住環境に木や漆喰の壁などを取り入れていただき、楽しんでいただきたいと思っています。
そうやって木の家が増えていき、木の家に住むことがスタンダードに戻ることを願っています」
⎯⎯⎯ そのためには木の家の居心地をたくさんの人に知ってほしいですね。
笠原「希望を感じるのは、地元の古民家再生の活動などを通して、子ども達や学生向けの講座やワークショップを開く機会が増えていることです。日本の風土にあった昔の暮らしや地場産の家づくりについてや、それが地球環境にもつながっていることを次世代に楽しく伝えていけたらと思っています。
かつて海外で暮らしていた経験から、日本固有の文化を知りたいと思ったのが古民家に目を向けたきっかけでしたが、昔の瓦や土壁で出来た建物やダイナミックな空間が、シンプルに格好いいと感じました。
歴史的なものや構造よりも、まずはデザインが気になったんですが、古民家に目を向けると、周囲の町並みや土地との関係も自然と目に入るようになりました。昔の人は、暮らしの中に電化製品も無かったし、重機で土地を開発することも無かった。そのぶん、自然環境を利用する知恵が蓄えられてきたのだと感じます。
現在、保存活用に関わっている古民家も里山の中に残っているものですが、建物が無くなってしまうと、昔の人の生きる知恵もうやむやになってしまう。ただ懐かしいから残す、これはとても大切なことですが、それだけではなく、なぜこの建物がこの場所に建っていたのか、現在の住宅と何が違うのか、周りの環境はどう変わったのか、一軒の古民家でも沢山のことを教えてくれます。学びを深めながら、それをつないでいきたいですね」
インタビュー中の笠原さんは、言葉を慎重に選びながらお話される方でした。その姿勢は、「知ったつもりになっていないか、決めつけていないか」ということを、つねに自分に問いかけているよう。
こうやってお客様や職人の方々、木や土、石や紙などの素材、家のまわりの景色と丁寧に対話をしながら木の家をつくっている、仕事中の笠原さんの様子もありありと想像されました。
そして、住む人、訪れる人、通りすがりにその家を目にする人たちの幸せをつねに願っている笠原さんの家づくりは、まるで祈りを形にする行為のよう、そう感じました。
木の家設計室アトリエ椿 笠原由希さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:小林佑実(Yuumi Kobayashi)
写真提供:笠原由希さん(アトリエ、栗橋キリスト教会リノベーション、バリアフリーキッチン)、小野寺崇貴さん(柏市 土間のある家)、畑拓さん(川越市 築80年の古民家再生)
岐阜県の水野設計室が設計を手掛けた民家たちは、室内も床下も、スーッと風が吹き抜けていく。大地が呼吸する石場建ての心地よさ。これに魅せられた水野友洋さんは、職人さんのみならず、建主さん、そして素材をつくる生産者さんとともに、土壁や三和土や石積みや環境改善といった”令和の古民家づくり”を誰よりも楽しんでいる。
水野さんの家づくりは、言葉どおり建主さんが主役だ。
愛知県幸田町の築100年を超える古民家を改修した建主さん夫婦は、構造など専門的な工事は職人さんに任せる一方で、減築部分の解体から古竹や古土の回収、それを再利用した土壁塗りや三和土まで中心的に作業に参加した。
さらには、茅葺き屋根の茅刈りから葺き替えの作業にも参加し、その下に据えた囲炉裏は自ら作った。
囲炉裏は、茅葺き屋根はもちろん家本体から家周辺までを長持ちさせるための手段の一つだと考えているとは言う。特に雨の後に火を入れる事で、大地から茅葺き屋根まで全体の空気や水を動かすことができる。
建築当初は板間に囲炉裏は設置してあったが、改修を経て撤去されていたものの、今回の工事で新たに設置した。囲炉裏をつくる専門の職人さんが見つからなかったこともあるが、「石を積み土を塗る」という作業は、土壁塗りを経験した建主さんには「できるかも」と映り、挑戦したという。
生活が始まってからは、暖をとったり、肉や野菜を焼いたり、湯を温めたりと家族だんらんの中心になっている。
建主さんは「家づくりの楽しさをめいっぱい味わえて、水野さんには感謝です」と笑う。
といっても、最初から家作りに参加しようと決めていたわけではない。そこには、水野さんの仕掛けがあった。
水野さんは今までの建主さんたちと一緒に「土壁会」というグループを作り、活動をしている。一言でいうと、伝統工法の建築や土木が好きな方々が集まる趣味の会だ。
例えば、竹小舞や土壁や三和土や環境改善など誰かの家作りの作業を手伝い合う共同作業の時もあれば、職人さんを招いて見学会やワークショップを企画し勉強する時もあるし、引き渡しを済まして数年経過した建主さんのご自宅におじゃまして雑談する時もある。
建主さん達は興味がある時に参加する。水野さんから設計中のお客様や、伝統工法に興味をもち問い合わせた方を誘う時もある。
建主さん達にとっては、他の建主さんの暮らしの工夫など情報交換をする場となり、これから家作りが始まる方にとっては、先輩建主さんの話を聞いたり質問したりする場となる。やはり同じ興味を持った方々が集まると、繋がりも広がり、毎回盛り上がるという。
水野さんはこう考える木材が割れたり土壁に隙間ができたりと、自然素材を使うがゆえに既製品のようにいかないことばかりである。建主さんが実際に見て自分で手を動かして作業に参加することでその理由を理解し、納得して頂いてから設計に進みたい。
そうすることで、職人さんはクレームを恐れず自信をもって仕事に向き合って頂けるし、建主さんは維持管理の方法を理解し家を住み継ぐ事に自信を持って頂けるなど、いいことづくめだという。
幸田町の建主さんは「茅葺は雨漏りするからだめ、ビニールを貼ろうというのではなく、雨漏りするけどすぐ渇く様にしようって考えてる水野さんの考え方には驚きましたが、納得しました」と話す。
また、「古民家改修といっても、最初は何から手をつけたらいいのか全くわからなかったんです。共同作業に参加したり、そこで水野さんや他の建主さんの話を聞いて『こんなこともできるんだ、やってみたい』って具体的に動き出せました」と、つながりから産まれた縁に感謝する。
改修工事は構想から約5年の長期進行となった。2020年2月に住み始めたがが、自分で家の前に石垣を積んだりビオトープを作ったりと家づくりは続いている。会社の昼休みに一時帰宅して作業するほど、「家づくりが楽しくてたまらない」と言い切る。仲間とふき替えた茅葺き屋根の小屋裏ではなんと蚕まで飼い始めた。糸をつむぎ、布を織るという夢も広がる。
水野さんに依頼する建主さんのほとんどが、ウェブページからの問い合わせだ。水野さんが「伝統工法や自然素材にこだわる建主さんはいい意味でこだわりが強い。僕じゃ受け止めきれんなって思うこともあるほどで、『土壁会』の仲間たちがその火種に火を付けてくれて、いい循環になっていると思います」といえば、建主さんは「だって、水野さんが一番楽しんでいるもの。『こんなのもあるよ、あそこへみんなで行ってみよう』って、わくわくしてるじゃないですか。こっちものせられて、盛り上がっちゃいますよ」と笑う。
現場見学会の様子、土壁会の活動は丁寧に写真に残し、なるべくリアルタイムでウェブページで発信するようにしている。ブログでは、家づくりへの考え方や抱えている悩み、勉強中のことまで飾らずに語る。
伝統工法や自然素材を活かし、日本の気候風土で、永く生き続ける家をつくりたい。このような想いを胸に建築と向き合う水野さん。
父親が建築の設計事務所を運営していた水野さんが、高校生の頃に「沈黙の春」という本との出会いがきっかけで、興味が向かったものは環境保護だった。大学ではその解決策を探るために化学を専攻した。卒業後は世の中の仕組みをもっと勉強しようと金融業界で働いた。子育て中の20代後半に、自然との循環の中で成立していた伝統的な暮らしに興味が湧き、今暮らしている岐阜の実家に戻り、畑や田んぼ、山や民家に関わった。農薬を使わず自家採取で続けてきた天日干しの米作りは今年で12年目になる。
30代前半で父親と同じ建築の道にゼロから進んだ時も、「自然を壊さない建築をしよう」という考えは大前提としてあった。「なので、建築は独学で勉強したということになるのかな」と水野さん。時代はプレカットや合板や集成材などに切り替わっていたが、地元には手刻みや土壁など伝統工法の家づくりが残っていた。外部も内部も「真壁」で、構造を意匠として現す。そんな自然と循環する家づくりについて、職人さんたちから学んでいった。
同じエリアで活躍する各務工務店の各務さんとの仕事がきっかけで木の家ネットを紹介して頂き、当時事務局だった持留さんから、多くの事を学びいろんな方と繋げて頂いたおかげで今があると振り返る。
学生時代から環境保護について考えた時、自分自身で納得できる答えはずっと見つからなかったという。
「道も電気も市場も無いと回っていかないけれども、今はまだ壊す自然が残っているから回っているだけ。今後人間と自然が共存できる世界に一歩でも前進する為に、私に出来る事は何か無いだろうか」。そんなことを考えていたという。
建築の中で何が出来るか考えた時に、建築サイクルを遅らせて建築のゴミを少なくする事、つまり長持ちする家作り、永く住み継いでもらえる家作りをしようと考えた。
行きついた先が日本の民家であり、家が呼吸し維持管理しやすい真壁構造で作る為に「木組み・土壁・石場建て」の家作りをやってきた。ただ、ゴミが減ったとしても、後ろに下がるのが減っただけで、一歩も前進していない事は、ずっと納得できていなかった。
その解決の糸口になりうる可能性を感じたのが、2020年の夏に出会った「土中環境」という本だった。
この本をきっかけに、土木の講座やワークショップに参加するようになり、自然環境を改善する為には、土中の水と空気を循環させる事の大切さを学んだ。
その循環の起点の一つが、地面をコンクリートで塞いでいない石場建ての家であり、日本の民家は建っているだけで周辺の自然環境を改善する役目を果たしていたと考えるようになった。
「あと少しで初めて一歩前進できそうな気がする」と言う。
そんな理想を掲げて設計する上で肝となるのは、「配置図と立面図」と水野さん。
敷地の環境はもちろん、周辺の建物や緑の様子、高低差などから、どう風が流れて、どう水が動いているかを読み取る。その動きに合わせて、「家も人も呼吸できるような」窓や扉のの高さ、軒下の距離などを導き出していく。
「配置図と立面図が納得できるものになるまで、一番時間をかけます」という。何度も現場に足を運ぶ。建主さんの要望と食い違った場合でも、納得してもらえるまで説明を重ねていく。
豊田で2022年3月に新築石場建てに住み始めた30代の建主さんは、水野さんの設計提案について「納得のいくものだったので、ほぼ提案通りにやっていただきました。今思えば、共同作業をしたりブログを拝見したりして、『材料を無駄にしない』とか『自然と調和した家づくり』とか、水野さんの目指すところがわかっていたので、安心してお任できたのかもしれません」と振り返る。
この家も、住み始めたものの建主さんによる家づくりはまだまだ続いている。南面の石積みと雨落ちを、栗石と竹炭とわらや落ち葉を敷いて造作中だ。
建主さんは、「水野さんと一緒に、石積み学校にも行ったんですよ。マニアックでしょう、でもすごい楽しいんです」と笑う。
さらに、気候風土適応住宅も採択されたこの家は、室内外の温湿度など住環境を定期観測している。
気候風土適応住宅の評価項目に『地域の職人が地域の素材でつくり、地域の文化を継承する』という職人を大切にする心構えもあるのがいい」と話す。
水野さんは岐阜を中心にした東海地域で仕事をすることが多いが、一緒に仕事をする工務店さんや職人さんは毎年増えており、10組以上の工務店さんの中から、エリアやスケジュールと相談しながら工事を請け負って頂いているのだという。職人さんは20~30代の若手が多いそうだ。
時々、現場を見学したいという若い職人さんからの問い合わせもあり、「伝統工法の仕事をやりたい若い職人さんは、確実に増えている。ぼくの仕事の一つは、彼ら彼女らの舞台を準備すること」と水野さんは語気を強める。
その職人さんの一人で、水野さんに自宅の設計を依頼した大工の柴田さんに話を聞いた。
柴田さんの自宅は名古屋市で、道路との高低差がある敷地にあり、通り道からの目線がちょうど石場建の足場になるというインパクトの強い家だ。
柴田さんは奈良県で修業し、地元の名古屋に戻って独立した。大工の手刻み技術を活かし、木組み、石場建といった伝統工法をやりたいと思いつつなかなか叶わずにいたという。「大工をやるなら、伝統工法がかっこいいじゃないですか。妥協せずにこの仕事をやるんだっていう気持ちも込めて、28歳の時に自宅の新築の設計を水野さんにお願いしました」と話す。
インターネットで水野さんの存在を知り、共同作業や見学会を通してつながりを作っていった。
理想の家づくりができる土地探しから始まり、最初に柴田さんが選んだ場所は川沿いで石場建てには不向きだったという。どうしても石場建てで建てる為に他の土地を探した結果、現在の場所にたどり着いたというこだわりぶりだ。
柴田さんは、水野さんとの仕事について「造作が始まるまではよく現場に来てくれるが、それ以降は任せてくれる。信頼してもらっているんだなと感じます」と話せば、水野さんは、「土木工事から刻み建前、そして土壁までの構造は大好きなので良く現場にいますね。造作はもう少し頑張らなきゃいけないです、大工さんに任せすぎて、たまに怒られます・・・。職人さんに気持ちよく仕事をしてもらえるよう、まだまだ勉強中です」と苦笑い。
自然を生かし職人さんや素材の生産者を敬い、みんなの手を借りながら進めていく家づくり。
そのようにしてできた家はきっと、将来古民家と呼ばれるような、住むほどに味わいが増す「令和に民家」になっていくだろう。水野さんを含め働く人も住まう人も満たされた表情が、とてもすがすがしい。
水野設計室 水野友洋(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:丹羽智佳子(一部写真、水野設計室提供)
設計も施工も家も家具も、自分の手を動かして大切に作りたい。埼玉県久喜市の「はすみ工務店」6代目棟梁、蓮実和典さんの心意気だ。
はすみ工務店は明治創業で、令和の現在も木組み・土壁といった日本の伝統工法や自然素材を使った家づくりに取り組む。つくる家々が醸し出すムードは、日本人が古くから持つ和の精神を大切にし、人と人、人と自然が調和している。施主さんは「背中で語る、まさに職人」と言わしめる。
蓮実さんは、大学卒業後8年の大工修行を経て家業を継ぎ、8年となる。現在、蓮実さんと60代の大工さん、20代の弟子1人の3人で仕事に取り組む。
作業場祖父の始さんは、蓮実さんに代替わりして6年後に亡くなった。始さんの代からはすみ工務店で働く秋元文男大工(69)は、蓮実さんについて「真面目で、実直よ。大工や職人がどんどん少なくなる中で、これと決めて続けてる根性はたいしたもんだ」と太鼓判を押す。
蓮実さんは、「やりたい大工仕事ができている。施主さんやじいちゃん、修行をつけてくれた親方のおかげです」とはにかむ。
やりたい仕事とは、「手刻みだったり、自然素材を使った家づくりや、古民家の改修とか。いわゆる手仕事ですかね」と蓮実さん。
なぜ手仕事にこだわるのか。蓮実さんは、家とは「単なる箱ではなくて、家族が和気あいあいと過ごし、その空間を通して心豊かな生活を送るためのもの」と考えている。
「そのためには施主さんの要望を設計段階から聞きつつ、人の手で心を込めてつくることが大切だと思うんです」と話す。国産材や地域材の活用にもこだわり、木1本いっぽんを見極める力も磨いている。
時代は機械化、合理化が進み、手間や時間がかかることは避けられる傾向もある。それでも、「複雑で粘り強い加工など、機械ではできないことがある。それに何十年、年百年経った時、『やっぱり手仕事はいい』ってなるに決まっている。丈夫で長持ちする上、使うほど味が出ますから」と語気を強める。
仕事の内容は、年に1棟ほど新築依頼があるほか、改修工事やウッドデッキの新設、バリアフリー工事、カウンターといった家具の新設など多岐にわたる。祖父の代からのお施主さんもいれば、木の家ネットのホームページを見て問い合わせが来る場合もある。
「新規の方の場合、ハウスメーカーの家づくりがしっくりこない人が、いろいろと探してうちに来る印象があります。だからこそ、メーカーのように施主さんにある中から選んでもらうのではなく、欲しいものをゼロから作りたい。施主さんの持っているイメージを、木でかたちにしたいし、木なら自由になんでもできる」と力を込める。
一級建築士の資格を持つ蓮実さんは、自ら設計もこなす。
「施主さんの要望を元に、設計の提案や図面を描きますが、大工の視点での考えが多分に入っています。構造の木組みや造作の詳細な納まりは、施工に無理が無いよう、メンテナンスがし易いように配慮しています。もちろん、見栄えも大切ですが」と話す。
家業を継いで初めて設計施工で請負した小屋は、趣味のものを展示するためのものだ。
2021年末に建設中の一軒家の施主さんは、子どもや孫の代まで長く残せる家づくりをイメージしていた。化学的な素材の匂いも苦手だったという。
蓮実さんと出会い、どんな家に住みたいか話をしていく中、「蓮実さんが図面を何度も直してくれて、自分の迷いが整理されていった」という。
蓮実さんの提案により、室内の壁は自らの手でローラーを使いドロプラクリームという塗料を塗った。「素人だからムラだらけだけど、自分の家を自分で作れるなんて楽しい」と笑顔がはじける。
「施主さんにも手仕事のおもしろさをわかってもらえて嬉しいです」と蓮実さん。また、木造だからといって和風にこだわらず、建具や窓の位置を変え洋風にした家づくりも行ってきた。
この物件は外壁に土佐漆喰を使用。石灰と藁スサを水練りし熟成させたもので、卵焼きのようなふんわりとした色合いに仕上がった。時間がたつにつれ色合いの変化も楽しめる。
構造は木造で、柱や梁など構造材と壁の仕上げ材の間に、通気胴縁を付けた。壁の中が通気できるようになり、より長持ちするという。
蓮実さんは「いろいろなやり方があるから、施主さんのコストやニーズに合わせて対応していきたい。『できないです』は言いたくないんです」と語気を強める。
施主さんのオーダーを聞き、今までの仕事や経験の中で近いものがあるか思い出し、ある程度完成形をイメージする。特に家具については具体的なオーダーでなく、「こんなものが欲しいのだけどつくれる?」と言われる場合も多いという。
「イメージしたことを手で形にしていく、試行錯誤していく過程が、わくわくするので好きですね。なんとかなる、なんとかしようって気持ちで、完成すると達成感がたまらないです」と蓮実さん。
材料も国産材、地域材を使いたいという。コストに見合い、カウンターや収納棚のようなものなら強度も問題ないと考えている。
イメージを作り上げるために本やインターネットで情報を探すこともあるが、「自分の経験や、木の家ネット仲間の仕事ぶりのほうが参考になりますね。木をうまく使っているから」と笑う。
蓮実さんは、木の家ネットメンバーが設計した物件の大工工事をしたり、一緒に古民家の改修や耐震工事をしたりとつながって仕事をしている。そもそも、大工修行をしたのは木の家ネットメンバーの綾部工務店だ。
綾部工務店との縁は、大学時代に生まれた。大工の家で育ち、幼いころから漠然と「建築の仕事がしたい」と考えていた蓮実さん。
大学で建築を学んだものの、卒業後は建築のうちどの道に進むか決めかねていたという。インターン中に綾部工務店の伝統工法の仕事を経験し、昔ながらの家づくりの魅力に目覚めた。
「自然素材の木や土は安心して使える。どんな形にもできるから、自由で、完成した時の達成感がある」と語る。
修行中は、大工技術に加えて設計、経営や見積もりも学んだ。常時5人ほどの弟子とともに生活する中で「自分はあまり言葉が多くないほうだったから、世話焼いてもらいました。感謝しています」と振り返る。
目の前の作業への集中力。創意工夫。全体を見渡すこと。親方の仕事ぶりから伝わることは数多くあり、「親方みたいになりたいって思ってます」と力を込める。
一級建築士の資格を取得したのも修業中のこと。建築について学びを深められた上、最近はインターネットから新規の問い合わせも増えてきて、信頼獲得にもつながっていると実感する。
修業を付けた綾部孝司さんは「昔の大工ってこんな感じだったんだろうなってやつです。指示を出すと、質問もせずすぐに手を動かしてぴったりのものをつくる。本当に手を動かすのがすきなんだよな」と認める。
手は、動かせば動かすほどに木や道具が理解できる。「棟梁になったら、大工や施主さんにわかったことを伝えられるようになれよ、とよく話してました」と振り返る。
そんな修業時代を過ごした蓮実さんは現在、21歳の弟子に仕事を手ほどきしている。「ただ作業するのでなく、その意味とか、その先の作業とのつながりとか、全体を見られるように伝えています。それがわかると、大工が面白くなる」という気持ちで向き合っているという。弟子の作業のために図面をおこすなど工夫も凝らすが、一番は「自分が恥ずかしくない仕事をしているところを見せたいです」と話す。
蓮実さんには、実直さがある。「こんな仕事をやっていきたい」と、堂々と口に出せる。施主さんの要望を素直に受け止め、実現のため腕を磨く。祖父や親方を「すごい」と認め、良いところを真似、まっすぐに背中を追いかけている。
その実直さは、ごまかしがきかない自然素材に向き合うべき伝統工法に活かされている。蓮実さんが作り上げた空間には、大いなる自然と丁寧な手仕事が編み出す安心感があった。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、一部写真提供:はすみ工務店