敷地面積23.7坪の狭小地に建つ、本郷の家は防火地域内での3階建てのため、耐火構造になります。
家族みんなが集まる2階リビングには、一部のスペースを小上がりの畳コーナーとすることでくつろぎの空間になりました。
また、2階リビングには木曽ヒバを使用したテレビボードやナラのワークスペースなど造り付けの造作家具が多くあり、収納も充実しています。
キッチンは面材に木曽ヒバを使用してサイズや形をお施主様のご希望に仕上げたこだわりのオーダーメイドキッチンになっています。
フローリングは温かみのある淡い色合いのカバを使用して、壁や天井の内装材には木と相性の良い塗り壁の珪藻土をチョイスすることで、より木の家らしさが引き立ちます。
外壁には、自然素材の左官材のそとん壁を使用して、玄関ポーチはモルタルの洗い出し仕上げにして、玄関まわりは植栽をすることで落ち着いたやわらかい雰囲気の外観になりました。

東京都国立市に建つ、延べ約29坪の木組み土壁の建物です。
一階は子供達が楽しく音楽を体験できるミュージックスクール。そして二階が音楽家 山下真木子さんの住まいです。彼女は子供のための曲の作曲や、NHKの幼児番組の音楽を担当するなど、子供の感性を育てる音楽活動を熱心進める音楽家です。
“ミュージックドーナツ”とは、楽しく歌い、遊び、音楽を奏でる体験を通して感受性を育てる音楽教室です。そして、そのイメージは子供達が輪になってつながり、みんなで歌って踊って楽しむ、というもの。
ですので、レッスンのための空間は・・・、そう! ドーナツのように丸いホール、真木子さんからのリクエストです。建物の中央に直径4.5メートルの丸い部屋をつくり、その周りにオフィスや楽器庫などを配置しました。
ホールの床には、子供達が安心してのびのびと楽しめるように畳を敷いています。畳は柔らかいのでころんでも大丈夫。素足に心地良く滑りにくいので、飛んだり跳ねたりする空間にはうってつけ。これも彼女の、子供たちへ向けた心遣いからの発想です。
さらに、この建物に必要な性能。それは近隣に対しての防音です。子供達が元気に大きな声で歌ったり演奏する音を外に漏らさないためには、やはりここでも“土壁”を採用することにしました。
土壁には蓄熱や調湿だけでなく、大きな音を遮断する働きが有ります。それをこの音楽ホールにも活かすことにしました。また合わせて、準防火地域に必要な防火性能も備えることができるので一石二鳥です。
二階はリビングダイニングとキッチ、仕事室、寝室、そして水回りをコンパクトにまとめました。
外観は真っ白な左官壁で、その上には三角の屋根が乗っていて、一部は天然スレート(石板)で葺いています。
人通りが多い通りに面するこの建物が、国立市の新しいランドマークになったら素敵だなと思っています。

暮らし・景観・つながり 始まりとしての建築

東京都内にあって、未だ都市農業が盛んな地域の景観に溶け込むように、1階は土壁下地焼杉羽目板張り、2階は土壁下地土佐漆喰塗りの真壁、屋根はいぶし銀和瓦葺きとし、シンプルで品のある外観でまとめた。建物の周囲を黒ベンガラ塗りの大和塀で囲い、道路側駐車場は芝緑化ブロックを敷き詰め、落葉高木植栽などの外構工事が、建物周辺の微気候調整向上に効果を上げている。生活の質の満足度と環境負荷低減の実現に向けて、使用する素材は安全で生産エネルギーの少ない地域の自然素材とし、長期的な維持管理を考えて、この国の普遍的な職人技術で建設した。環境と共生するこの住宅が100年という単位で地域に残っていくかどうかは、住み手家族の建物への愛情の深さによって決まる。建て主直営という施工体制と、焼杉製作や塗装工事となどの経験が、今後の住み継ぎの力になっていくことを祈りたい。

広間南側の木製全開建具(外側から雨戸+網戸+ガラス戸+障子の多層構成)
矩形図

2階リビングの天井全体を勾配天井にすることで空間を広く感じられるようになっています。
勾配天井を支える国産杉の登り梁は表しとなっているため、より「木組みの家」を感じることができます。
また、リビングの勾配天井を利用してロフトを設けることで大容量の収納スペースも確保しました。
フローリングには無垢のカバをチョイスしてリビングを温かい雰囲気に演出しています。
1階には、旦那様のご趣味に合わせて茶室をイメージした和室になっています。
奥様がこだわったキッチンは桧の面材を使用したオーダーメイドキッチンにしました。
キッチンの床はタイル張りにして、お手入れがしやすくなっていますし、背面には造作の大容量の収納スペースも設置しました。

尋常ではない猛暑に誰もが音を上げた今年の夏。その終わりかけのタイミングで、環境問題に向き合い続け、省資源の家づくりに取り組む金田正夫さんのお話に触れるのは、私たちにとって意味深いことだと感じます。環境問題のお話は深刻だけれど、金田さんが提案する対策法、その一つである自然と正面から向き合う家は、質素でストイックではなく、柔軟で人懐っこい! その印象は金田さんのお人柄そのものです。

金田正夫(かねだまさお・74歳)さんプロフィール
1973年、工学院大学建築学科卒業、同年図師建築建築研究所入社 。74年に都市建築計画センター入社 。83年に独立し、一級建築士事務所 金田建築設計事務所開設 。2011年、法政大学大学院工学研究科建設工学専攻博士課程修了博士号取得。建築士として活躍するほか法政大学非常勤講師を務め、現在も大妻女子大学で環境問題と建築に関する講座を担当。著書に『春夏秋冬のある暮らし─機械や工業材料に頼らない住まいの環境づくり─』(風土社)がある。

今回の取材は、東京は代官山にあるオフィスで。打ち合わせ用のテーブルは木戸と背の低い箪笥を合わせたもの。「椅子も捨てられそうになっていたものを、いただいて利用しています」。撮影/小林佑実

今回の取材は、東京は代官山にあるオフィスで。打ち合わせ用のテーブルは木戸と背の低い箪笥を合わせたもの。「椅子も捨てられそうになっていたものを、いただいて利用しています」。撮影/小林佑実

土間+ガラス戸で、住宅街の通りに対してオープンな印象。「ギャラリーとしても使っているスペースなんです。行き交う人が覗き込んで、ふと目が合うのも楽しいですよね」。撮影/金田正夫

土間+ガラス戸で、住宅街の通りに対してオープンな印象。「ギャラリーとしても使っているスペースなんです。行き交う人が覗き込んで、ふと目が合うのも楽しいですよね」。撮影/金田正夫

地球環境を守ることは
最大のミッションです

⎯⎯⎯ 自然素材の家づくりに取り組むようになったきっかけから伺えますか?

金田さん(以下、敬称略)「地球環境のことが私の根幹というか土台になっています。そこからお話ししてもいいですか?」

⎯⎯⎯ もちろんです!

大都心の上野に隣接した場所で建てられた下町の材木屋が造る上野桜木の家。
家具はすべて大工が造った造り付けの家具となっていて、桧や杉、ブラックウォールナットなどを使用しています。
1階にはカバの無垢フローリング、2階には桧の無垢フローリングとあえて違うものを使用。
壁と天井には調湿効果に優れた珪藻土を使用して一年中快適な空間にすることができます。
また、造り付けの造作家具の建具には、なかなか見ることのできない銘木である官木の秋田杉の柾目を使用していて大変落ち着きのある雰囲気になっています。
杉パネルをふんだんに使用した勾配天井のリビングや大工がつくる造り付けの造作家具や造作のキッチンなどお施主様の溢れるこだわりと土手加藤の得意とする無垢の木の家づくりと腕利きの職人の技が融合した木組みの家となっています。

聞けば九州男児で大工の棟梁。きっと頑固一徹、強面で言葉は厳しいにちがいない……
そんな想像をしつつお会いした小山武志棟梁は穏やかで丁寧で柔らかい印象でした。
「いえいえ頑固ですよ。頑固だなぁって人からも言われます」と穏和な笑顔の小山さん。
かつて金の卵と呼ばれ、上京し日本の発展の歴史を肌に感じながら、
木と土の日本の伝統家屋づくりに頑固に向き合ってきた小山さんのお話を伺いました。

小山武志さん(こやまたけし 78歳)プロフィール
昭和19年、長崎県平戸市生まれ。高校卒業後に上京し、ビル建設の仕事に就く。つくる喜びを味わいたいと考え、大工の世界に飛び込む。4人の棟梁の元で職人の心構えと技術を学んだ後、25歳で独立。横浜で工務店を開業。主に隣接する鎌倉市で仕事をする。数寄屋建築を得意とし、木と土による日本の伝統的な建築法を受け継いだ家づくりを手掛ける。時代とともに伝統工法の仕事は激減するが、70代を迎え、もう一度原点の木と土の本物にこだわった家づくりに専心しようと亀屋工務店と社名を改める。令和元年、東京都調布市に移転。古民家再生を中心に職人仕事が光る家をつくり続ける。

亀屋工務店の応接室。もちろん小山さんの仕事。完成した部屋に自作の机とアンティーク家具を合わせて、落ち着いた和モダンの雰囲気が素敵です。

亀屋工務店の応接室。もちろん小山さんの仕事。完成した部屋に自作の机とアンティーク家具を合わせて、落ち着いた和モダンの雰囲気が素敵です。

上部がアールになっていた出入口にベニヤの突板のフラッシュ戸だったものを、引き戸に改修。「引き戸は空間が十分に使えて狭い日本家屋には最適」。市松模様の硝子が使われている時代物の蔵戸を入れました。

上部がアールになっていた出入口にベニヤの突板のフラッシュ戸だったものを、引き戸に改修。「引き戸は空間が十分に使えて狭い日本家屋には最適」。市松模様の硝子が使われている時代物の蔵戸を入れました。

左:聚楽壁に取り付けてあるコンセントのカバーは、聚楽色と呼ばれる物。「大正時代に日本家屋のための電球ソケットから商売を始めたパナソニック(旧松下電器器具製作所)の商品です」 右:作業はできるだけ一人で行う。「自分のペースで自分の納得のいく仕事をしたい。そろそろそれが許される年齢になったと思っています」

左:聚楽壁に取り付けてあるコンセントのカバーは、聚楽色と呼ばれる物。「大正時代に日本家屋のための電球ソケットから商売を始めたパナソニック(旧松下電器器具製作所)の商品です」 右:作業はできるだけ一人で行う。「自分のペースで自分の納得のいく仕事をしたい。そろそろそれが許される年齢になったと思っています」


大工泣かせの松を雌松と呼ぶ
その粋なこと!

⎯⎯⎯ 素敵な応接室ですね。床板の木目が一つひとつ個性的で、土壁はうっすら緑がかっていて素朴で優しくて。

小山「いい風合いでしょう? これはね、聚楽壁(じゅらくかべ)といいましてね。京都の聚楽という地域の土を使っています。豊臣秀吉がたいそう好んだもので、自身の邸宅である聚楽第の壁にも使わせていましてね、独特な優しい色合いから、聚楽色という色の名称のもとになっているんです。
今は土を使用せず、風合いを再現する化学的な素材が色々入っているだけの聚楽壁という商品名が付けられているものもあります。本物はね、昔ながらものですから手間がかかりますし、材料費だけで30倍もかかる。それでも、見た目の味わいがいいだけでなく、本物の土の壁は、室内の湿度を調整し臭いを吸着して、防音性や耐火性といった機能があるといわれています」

⎯⎯⎯ 木の目の強い印象と絶妙なバランスですね!

小山「床はね、赤松と黒松のいい板が手に入ったので、半々で使っています。目が強いイメージの部分が赤松で、柔らかいイメージなのが黒松です。ちなみに、別名で赤松が雌松(メマツ)、黒松が雄松(オマツ)といいます」

赤松と黒松を使用した床。「いい板ですが、かなりの反りと捩じれがあり削るのに苦労ました」

赤松と黒松を使用した床。「いい板ですが、かなりの反りと捩じれがあり削るのに苦労ました」

⎯⎯⎯ 強い方が雌で、柔らかいイメージが雄なんですね。逆だと思いました。

小山「赤松の木肌は赤みがあり、立ち姿は曲がりくねって柔らかいので雌松。でも取り扱ってみると、まあ本当に大変。そのあたりも女の人と一緒かな?(笑)
そしてね、この黒くて木の目が目立つ部分が、やに松と呼ばれているんですが、かなり油っこい部分なんです。それほど多くないので、重宝されています。
松はね、緑色っぽい部分もあるんですが、それは乾燥させてる間にできるカビの色で、悪さはせずにただの紋様になってくれるので、また味わいがありますね」


応接室の天井。檜葉(ひば)を手仕事で加工して格縁(ごうぶち)をつくりました。 板は秋田杉。「この木目の次はこれかな?と楽しみながらはめ込んでいきました」

応接室の天井。檜葉(ひば)を手仕事で加工して格縁(ごうぶち)をつくりました。 板は秋田杉。「この木目の次はこれかな?と楽しみながらはめ込んでいきました」

左:「日本家屋は、3尺、6尺、9尺、12尺という寸法でつくるのが基本でね、木材の切れ端も3尺なければ処分していたのですが、最近はそれより短くても惜しくて」 奥様の幸子さんと。 右:背割りの説明のために見せてくださったお手製のペン立て。

左:「日本家屋は、3尺、6尺、9尺、12尺という寸法でつくるのが基本でね、木材の切れ端も3尺なければ処分していたのですが、最近はそれより短くても惜しくて」 奥様の幸子さんと。 右:背割りの説明のために見せてくださったお手製のペン立て。


われわれ大工の仕事は
100点以外は失格

⎯⎯⎯ 木や土の性質や歴史のことなど知識の幅が広いですね。大工さんはどれだけ学ばなくてはなれないのかと気が遠くなりそうです。

小山「建築は難しい仕事です。その中でも大工は一番大変じゃないかと自負しています。まず差金を使って勾配などを計算しないといけない。ノコギリとノミを使いこなして、穴やほぞを寸分のちがいもなく作らないと、100年持つ家にはならないんです。ある名のある宮大工が言っています。『学校の成績は70点80点で褒められる。だけど大工の仕事は100点以外は失格。100点の家でないと長持ちしない』と。

そしてその方は、『日光東照宮は建築物ではなく工芸品だ』ともおっしゃっています。煌びやかに見えてもつくりがよくないので、たかだか江戸時代のものなのにすでに4回も解体修復をしているではないかと。木造建築なのだから仕方ないと思われるかもしれませんが、奈良の法隆寺の五重塔の解体修復は一回だけです。部分的な修理はしていますが解体修復は1300年間していませんでした。つくり方によってこれだけの差があるんです」

⎯⎯⎯ そのちがいは、どこから生じるのでしょうか?

小山「木も育った場所によってクセがちがいますから、木のクセを見抜いて適した使い方をしないといけません。そうは言っても私にもできません。なぜなら、昔の大工は山に行って生えている環境も見て、木材として買い付けしたんですが、私の時代にはそれをやっていないのです。
山の中の南斜面で日がよくさす場所なら、くせが強く扱いにくいですが強度があり、北側の木はまっすぐ美しく伸びていて目も綺麗ですが、強度はない。強度がないものは飾る部分などに使われます。他にも風や湿気のある地面かなどを見る必要があると言われています。そして大事なのはつくり手が100点を取れる大工であることです。
そして、いつ伐採したのか。大木は別ですが、最低でも3年は乾燥させる必要があるので年数もですが季節も重要。木を切っていいのは一年間のうち30日間くらい。ちなみに竹は3日間くらいです。それ以外の時期に切ると虫が湧いてしまいます。こういうことは知らない人は多いと思います。

木は、乾燥するほど硬くなって道具受けしませんから、大工は苦労します。でも、乾燥が甘い木材を使えば、2〜3年で木が細り割れが生じて建物にガタがき始めるんです。乾燥年数が経っていても割れることはある、木とは本来割れるものですから。
その前提で『背割り』を入れます、隠れる部分に。細い長方形のような切れ込みを入れますが、時間が経つと扇型に開いていきます。つまり引っ張る力が働いて、思わぬ部分に割れが生じるのを防ぐ技術の1つが背割りということです」


左:残った土壁の材料を瓶に入れて、お客様に工程の説明や素材選びに使用する小山さん。自作の秋田杉一枚板の漆塗り机で。 右:小山さんが若い頃、実際に使っていた鶴と亀の彫り物がある墨壺。

左:残った土壁の材料を瓶に入れて、お客様に工程の説明や素材選びに使用する小山さん。自作の秋田杉一枚板の漆塗り机で。 右:小山さんが若い頃、実際に使っていた鶴と亀の彫り物がある墨壺。

初めての家づくりは
「できない」と言えず死に物狂い

⎯⎯⎯ 自分は大工になる、と思われたきっかけは?

小山「物づくりは子どもの頃から好きでした。ベーゴマなんて自分でつくっていましたよ。よ。父親が鍛冶屋だったので、金属部分をつくってもらってね。でも、大工になりたいと思ったことは一度もなかったです。大工になったのは親の勧めでね。平戸では就職先がなかったので、都会に出るしかありませんでした。当時の言葉ですが金の卵と国が煽ってね、東京に出てビルの建築現場の仕事をしました。
そこにはつくる喜びがなくて、すぐに辞めたくなりました。しばらく我慢して、次は家をつくる工務店に大工として入ったのですが、いきなり『この家をやってくれ』って言われてしまって。二階建ての家でね。大工として入った手前、できないとは言えなくて死に物狂いで初めての家づくりをしたんです。
道具使いはそれなりにできていましたが、墨付けなんてやったことがなくて。ビルの仕事をしていた時の先輩がやっていたのを見たことはあったので、真似して何とかしました。まあ、職人というのは、技を見て盗むのが基本ですから、特別なことではありません。
無事につくり終えた時に自信がついて、大工でやって行こうかなと思いました。22歳になった頃でしたね」

⎯⎯⎯ 昭和40年代の初めの頃ですね。使われていたのは自然の素材だけですか?

小山「押し入れにベニヤ板を使って節約してくれと言われたりはしていましたが、基本的には無垢でした。壁は土でしたよ。私が30歳になった頃にはもうラスボードという石膏ボードに樹脂を塗る壁の素材が出まわっていて、安価で扱いが楽ですからね、あっという間に土壁を追いやってしまいました。土壁の土台となる“木舞(こまい)”を掻くか木舞屋さんが少なくなって、昭和55年くらいだったかな、横浜で1軒しかなくなって、最後に一緒に仕事をしたのが、確かその年でした。
予算という問題は大きいですから、お施主さんからラスボードを使ってくれと頼まれたら断れません。流れには逆らえなかったですね。しかもその流れは凄まじく早くて、左官屋さんはどんどん廃業しましてね。やりにくい時代になりましたけど、生き残らなくてはいけないですし、可能な範囲で納得できる仕事をしていました」

⎯⎯⎯ 予算の問題は簡単ではないですよね。

小山「昔だって土壁は安く手軽ではなかったですから、木舞を掻いて粗壁を塗ったら、しばらくそのままという家は少なくなかった。土は暖かいですからね。それでお金ができたら仕上げの土壁を塗るんです。今のように銀行でお金を借りて家を建てるという時代ではないし、お施主さんは『仕上げは待ってね』という感じで大工と相談しながら少しづつ工事をしました。
昔は、毎朝大工が現場に行くと毎日お施主さんが空茶(からちゃ)を出してくれました。そこで雑談をしたり打ち合わせをしたりしていたので、今よりお施主さんとのコミュニケーションがとりやすかったですね。
空茶を頂いたあと、今日は気分が乗らない、何となく集中できない、という日があります。虫の知らせというか嫌な予感がする時は、空茶を飲んで帰ることがありました。それで大工は偏屈だと言われるんでしょうね。
でも実は偏屈でも何でもない。気分が乗らないのに無理して仕事をすると失敗する。集中できない時はいい仕事ができません。ここぞという時は気合も必要です。やりそこなうと、材料を無駄にし手間も数倍かかる。だから、潔く休むのです。非常に合理的なんだけど、今の時代ではなかなか許されないでしょうね」


「伝統工法では柱に貫(ぬき)を通します。貫は大きな変形性能を持っていて、揺れのエネルギーを吸収する柔構造の土壁と併用することで、大きな水平体力を持ち強度を保ちます。倒壊をまぬがれれば修復・継続使用が可能です。これに対して筋ちがいは剛構造。柱間に斜めに取付け、つっぱって動かないことで揺れに抵抗します。剛構造はエネルギーを逃したり吸収したりしないので、大きな揺れに抵抗できず、耐えられなくなると、木が割れたり折れたりしてして損壊します」

「伝統工法では柱に貫(ぬき)を通します。貫は大きな変形性能を持っていて、揺れのエネルギーを吸収する柔構造の土壁と併用することで、大きな水平体力を持ち強度を保ちます。倒壊をまぬがれれば修復・継続使用が可能です。これに対して筋ちがいは剛構造。柱間に斜めに取付け、つっぱって動かないことで揺れに抵抗します。剛構造はエネルギーを逃したり吸収したりしないので、大きな揺れに抵抗できず、耐えられなくなると、木が割れたり折れたりしてして損壊します」

「木は柔らかく金属は固いため、金属が木を傷めます。 伝統工法でも和釘という釘を使いますが、木を傷めないよう時間をかけて釘道(くぎみち)をつくり、そこに打ち込みます。これも強度を保つ伝統技術です」

「木は柔らかく金属は固いため、金属が木を傷めます。 伝統工法でも和釘という釘を使いますが、木を傷めないよう時間をかけて釘道(くぎみち)をつくり、そこに打ち込みます。これも強度を保つ伝統技術です」

柱にある貫の穴には隙間があります。ここに木の楔(くさび)を打ち込んで貫(ぬき)を固定。もちろん楔も一つひとつ加工しています。

柱にある貫の穴には隙間があります。ここに木の楔(くさび)を打ち込んで貫(ぬき)を固定。もちろん楔も一つひとつ加工しています。

“型“とは長い歴史の中で
生まれ完成されたもの

⎯⎯⎯ 強い信頼関係があったのですね。

小山「私は話すのが好きということもあって、顔合わせや打ち合わせはじっくり時間をかけます。どのようなお住まいにされたいかご希望は伺いますが、そのうえで、引けないところは引けない、『これはできない。ダメなものはダメ』ということをはっきりお伝えします。純和風、特に数寄屋建築は型が崩せないので、お施主さんの言いなりでつくってはダメ。型というものは、なんとなくできたものではなく、長い歴史の中で生まれた完成された形ですから、それをあちこち崩すと暮らすうちに使いにくさが出てきたり、傷む場所が出てきたり、お施主さんご自身が嫌気がさしてしまうんです。

昔、大阪に平田雅也という数寄屋建築で有名な大工がいました。その方の逸話をひとつお話しましょう。今住んでいる家が気に入らないから家を建て直したいので、見に来て欲しいという依頼があって、家を見に行った時のこと。家を見て、その場に居合わせた出入りの大工に向かって言った言葉が『わしゃ、施主の言いなりになる大工は大嫌いじゃ。お施主さんは建築のことは素人なんだ。その素人の言うことを聞き入れて家をつくってもいい家にはならない』そしてお施主さんに言った言葉が『私に頼みたいなら全て私に任せてくれ』。
この方が弟子の時代の5年間にやったことは鉋(かんな)かけだけ。でも、その鉋の技術は超一流です。そこから名のある大工のもとを転々と勤めてあらゆる技術を学んだ方でしてね。だから、えらい、いばっていいということではないですよ。自己流の家を建てさせるということは、職人の技術と知識と経験を崩されるわけですから、わざわざ完璧な家をつくらせないようにしている、こういうことになるんです」

⎯⎯⎯ お互いに損ですね。

小山「そもそも茶道のことを数寄といい、住まいであって茶会も出来る住宅を数寄屋造りといいます。茶道には数々の作法がありますから、それがスムーズにできる空間に仕上げないといけない。基本の茶室の型に生活の場を合わせているわけですから、廊下や手洗い戸の位置、デタラメにつくろうものなら非常に使いにくいのです。

近年は、体が不自由になった時のためにバリアフリーにしたいというご依頼も多いですね。家の中で車椅子を使うといった状況なら仕方がないのですが、日本建築では板の間と畳の間の段差が3㎝と決まっています。大工は昔から口伝でね『段差は一寸(3㎝)、中途半端に変えるなよ』と教えられているんです。それを2㎝とか1㎝にすると不思議とつまずくんです。理由までは教わりません。でもね、つい最近、科学的に3㎝以上の高さがあれば脳は段差を段差と意識して、足を上げるように指令を出すということがわかってきたそうなんです」

⎯⎯⎯ お年寄りが転んだ時「何もないのにつまずいた」とよく聞きます。大工さんの口伝には何か根拠があるのですね。

小山「段差ひとつとっても、頑固者と嫌がられても守らなくてはいけないものがあるんです。それは何より安全に暮らすために。本物の素材、本物の型、大工の真心でつくられた家はね、派手さはなくても安心して落ち着いて暮らせるものですし、見飽きません。障子の格子も決まった尺でつくるのですが、その尺に決まった理由があって、そこに見飽きない法則があるように感じます。
そして、そういう家では掃除や手入れも、大切なものを愛でる気持ちがわいて、合理的に時間を使うのとはちがう豊かさが感じられます。雨戸の開け閉めも乱暴にしていては、すぐに傷んでしまうので丁寧に扱う必要がありますが、暮らしの一つひとつを丁寧にすることで、生活をしている生きているんだという実感が生まれるのです」


家はつくって
終わりではない

⎯⎯⎯ 大切に手入れされてきた古民家が失われるのは惜しいです。

小山「古民家の再生となるとね、始めてみないとどこまで壊してつくり直すのか、そのまま使えるところがどこまであるのかわかりませんから、見積もりも出せないんです。できるだけお金がかからないようにと思っていますが、お施主さんも心配でしょうし、正直こちらも心配ないと言えば嘘になります。だから、とくに信頼関係が大切です。

最近、古民家の再生が1軒終わりましてね(Y氏邸)。お施主さんは若いご夫婦。奥さんが古民家が大好きな方で、最初にお会いした時に開口一番言われた言葉は『外は古民家、でも中は新建材を使った現代風の家では嫌なんです』でした。
雨漏りもしていたしかなり傷んでいる家でしたが、ご夫婦の熱い想いに後押しされ、工事をお引き受けしました。ご希望に沿って、新建材を使う現代風な直し方はしないで、自然素材にこだわり古い形にこだわり本物にこだわって施工しました。既存の古いものを極力残しながら、木材は全て無垢。壁は土壁。サッシは全て撤去して建具は全て木製に入れ替え、築当時の姿が蘇りました。
なにより嬉しかったのはお施主さんがとても喜ばれたことです。出来上がった時だけではなく、この家に引っ越されて2年になりますが、今もこの家を大切に思い、この家での暮らしを楽しまれているご様子です。
家は引き渡して終わりになるわけではなく、その後が肝心です。この工事はかなり大変だったんですが、自分がつくったものをお施主さんが暮らしの中で喜ばれている姿をみると、『つくってよかったなぁ』と苦労も吹き飛びます」

以下7点の写真は“Y氏邸“のもの。六畳と八畳の座敷がつながっていて、襖を開くとひと続きに。こちらは六畳の窓辺 肘掛け窓と縁側。

以下7点の写真は“Y氏邸“のもの。六畳と八畳の座敷がつながっていて、襖を開くとひと続きに。こちらは六畳の窓辺 肘掛け窓と縁側。

左:NPO法人 日本民家再生協会の「民家再生奨励賞」を受賞。外壁は洋間を除いて日本下見張り (にほんしたみばり)。雨仕舞がよく木材が腐りにくいので長持ちする日本に古くからある工法。 右:玄関を上がると次の間。お客様をお迎えする二畳の部屋で、ゆとりを感じさせてくれます。

左:NPO法人 日本民家再生協会の「民家再生奨励賞」を受賞。外壁は洋間を除いて日本下見張り (にほんしたみばり)。雨仕舞がよく木材が腐りにくいので長持ちする日本に古くからある工法。 右:玄関を上がると次の間。お客様をお迎えする二畳の部屋で、ゆとりを感じさせてくれます。

左:理雨戸が多い家なので、雨戸を収める戸袋にも昔からの工夫が。「家の内側に戸繰り窓という小窓が付いています」 右:戸繰り窓。「この窓に手を入れて、雨戸の桟(さん)をつかんで出し入れします」

左:理雨戸が多い家なので、雨戸を収める戸袋にも昔からの工夫が。「家の内側に戸繰り窓という小窓が付いています」 右:戸繰り窓。「この窓に手を入れて、雨戸の桟(さん)をつかんで出し入れします」

左:洋間は床と天井は杉材で壁は白の漆喰で修復。「白い壁と天井が高いのも手伝って、実際四畳半ですが、より広く感じます」 右:外壁は横板張り。「海が近いこともあり、風雨に耐えるように厚い板を張っています。窓には取り外し型の雨戸を付けました」

左:洋間は床と天井は杉材で壁は白の漆喰で修復。「白い壁と天井が高いのも手伝って、実際四畳半ですが、より広く感じます」 右:外壁は横板張り。「海が近いこともあり、風雨に耐えるように厚い板を張っています。窓には取り外し型の雨戸を付けました」

【Y氏邸施主さんメッセージ】

幼い頃から、昔の建物や道具に惹かれながら育ちました。長じて念願叶い、大正築の古民家とのご縁に恵まれましたが、幾度かのリフォームにより、築当時から姿を変えている箇所が散見されました。
この家を築当時の姿に戻す「修復」がしたい。あちこちの工務店さんに、そう言って回りました。みなさん親身になって話は聞いてくれましたが、理解されることはありませんでした。
そんな時、古道具屋で偶然、亀屋工務店さんのショップカードを見つけました。それが小山さんとの出会いです。
小山さんのお人柄は「真摯」の一言に尽きます。まだお仕事に繋がるかどうかもわからない初回打合せの段階から、いいものをつくるため、そしてそのよさを伝えるためには時間も手間も一切惜しまない、その姿勢に「小山さんならば」と思い、修復をお願いすることを決めました。
修復工事が進む中で特に印象的だったのは、現場がいつも整然としていること。数日同じ工程が続く場合でも、道具も材料も片付けて、きれいに掃除されて帰ります。また正月には、現場の床の間に、鏡餅と一緒に大工道具(差金、墨壺、手斧)を飾ってくださっていました。大工さんの命ともいえる道具を大切にする姿勢が深く心に残っています。
これは余談ですが、古民家に越してきてから、日本の古い小説の描写が「わかる」ようになりました。例えば障子越しの明かり。天井のしみ。床のきしむ音。ざらりとした手触り。一つひとつは小さなことですが、それらが自分のリアルな感覚に重なると、作品世界がグッと立体的に感じられるのです。
小説の中に流れている時間と、今、ここにいる自分の時間とが、まぎれもなく繋がっているのだと感じたとき、たとえようもない喜びに包まれるのでした。


次世代につなぐ
大切な使命

⎯⎯⎯ 古民家のお仕事は復元のレベルですね!

小山「今施工中の家は、O氏邸と呼んでいますが、築昭和7年の伝統工法でつくった家の修復工事です。こちらは、お施主さんが50代の男性でして、昔の組子でできている建具、障子が気に入って家を購入されたそうです。すでに他の業者さんが入ったあと、ご自分が思い描いていたのとは違う直し方だったため、工事途中に施工を断ったそうです。困ってたところで私にご依頼いただいたんです。
お会いした時に私がまずお施主さんに聞くのが「どういう家にしたいのか」で、このお施主さんのご希望は『再生工事ではなく、修復工事にしたい』でした。
工事途中の現場からその意味がよく分かりました。前の業者さんは伝統工法のやり方を全く知らずに施工していたようで、知っていればこんなことはしないというところが至るところに見受けられました。
お施主さんのご希望で、4年前の一期工事から始まって今は三期工事の施工中です。二期工事は縁側だったのですが、縁側のサッシを撤去した時は驚きました。家の表情ががらりと変わりました。落ち着きがあり、風情のある築当時の姿が蘇った瞬間だったと思います。
三期目は屋根と仏間と台所、洗面台です。洗面台は築当時の研ぎ出しの洗面器が見つかり、当時の洗面台に修復することになりました。少しずつ築当時の家の姿が蘇ってきています」

⎯⎯⎯ 家を丸ごとお買いになるほど素晴らしい障子なのですね。

小山「当時はよくつくられていた形の硝子障子だと思いますが、風情があります。職人の手仕事には何ともいえない趣きがあります。硝子は表面を摺ってつくった本物の摺り硝子です。今のつくり方とはちがうつくり方の曇り硝子です。型を置いたところは摺れていなくて透明です。透明な部分は少しだけですが、その透明な硝子を通して庭の様子が見えるんです。あれをつくれる職人はもういませんから、割ってしまったら同じ硝子は入れられません。

早く、安く、効率的に便利で、楽な家を求める人が多くなってしまいましたが、職人が手間を掛けてつくった家はいいものですよ。自然素材でつくった家は森林にいると安らぐのと同じように、そこに居るだけでとても安らぎます。失われつつある日本家屋のよさ、賢さを次の世代に繋いでいけたらどんなにいいかと切に思います。木と土の家のために、微力ではありますが、今私にできることを精一杯やっていきたいです」

以下の写真7点は、“O氏邸”のもの。木造家屋に雨は大敵、右写真の右のほうにある刻みは、雨戸の敷居に水が溜まらないようにと加えた小さな工夫です。

以下の写真7点は、“O氏邸”のもの。木造家屋に雨は大敵、右写真の右のほうにある刻みは、雨戸の敷居に水が溜まらないようにと加えた小さな工夫です。

左:正面の肘掛け窓は外側に回す雨戸、右の縁側は内側に回す雨戸。 中:近頃、めっきり見かけなくなった昔懐かしい戸回し金具。この修復も行いました。 右:雨戸を回して方向を90度変えて、その奥にある戸袋に収納。「じつはこの家には、内側に回す雨戸の戸回しもあって、建築家の先生に『どうやって取り付けたんですか? どうして回るのですか?』と不思議がられました(笑)」

左:正面の肘掛け窓は外側に回す雨戸、右の縁側は内側に回す雨戸。 中:近頃、めっきり見かけなくなった昔懐かしい戸回し金具。この修復も行いました。 右:雨戸を回して方向を90度変えて、その奥にある戸袋に収納。「じつはこの家には、内側に回す雨戸の戸回しもあって、建築家の先生に『どうやって取り付けたんですか? どうして回るのですか?』と不思議がられました(笑)」

左:お施主さんが惚れ込んだ昭和初期の建具。「繊細で美しいですね」 右:建築した86年前の形に再現した厠(かわや)の灯窓。「鴨居と方立は新しいものを取付けました。建具も残っていたので、一本引きと開き戸をそのまま使用しました」

左:お施主さんが惚れ込んだ昭和初期の建具。「繊細で美しいですね」 右:建築した86年前の形に再現した厠(かわや)の灯窓。「鴨居と方立は新しいものを取付けました。建具も残っていたので、一本引きと開き戸をそのまま使用しました」

【O氏邸施主さんメッセージ】

昭和初期に海軍の軍人さんの住宅として建てられた古民家を買い取り、その修復をしようと考えた際に、いくつかの工務店さんに相談しました。けれども、機能性を重視する方が多くて、建築当初の形にこの古民家を復原したいという希望を理解してもらえませんでした。
小山さんのお名前はネットで検索して知ることができました。電話で事情を話すと、小山さんは当時会社のあった横浜から横須賀までいらしてくださって、私の細かい要望を聞いては、その部分を一緒に見ながら方法をいくつも考えてくれました。
4年前に修復をスタートさせて、今も段階を区切って進めてもらっています。納得するまで付き合ってくださる小山さんにはとても感謝していますし、完成までのプロセスを細かく見届けることができるのは、とても楽しい経験です。


亀屋工務店 小山武志さん(つくり手リスト)
建築物写真:小山幸子さん
取材・執筆・インタビュー写真:小林佑実

職人が受けて、職人が完成させる。それもいち職人でなく、会社として。工務店とも設計事務所とも違う独自のスタイルで木の家づくりをしている鯰組(なまずぐみ)は、代表で大工の岸本耕さんが立ち上げて12年になる。設計から施工までトータルで請け負える強みは、さまざまな職業が生まれては消える東京で、唯一無二の光を放っている。プロフェッショナル集団を率いる岸本さんは、ひとりひとりの職人に「それぞれのよさを生かしてほしい」とあたたかいまなざしを向ける。その姿勢は建物や材料にも向けられ、居心地のいい空間を生み出し続けている。

「鯰組」のウェブページ。かわいらしい黒い鯰のイラストが泳ぐページの右上に、「大工とは?」という問いがある。
クリックすると出てきた答え。
・大工とは、目利きの職人。
・大工とは、考える職人。
・大工とは、描く職人。
・大工とは、組む職人。
・大工とは、仕上げる職人。
・大工とは、設計士、庭師、職人をまとめる棟梁です。
そして、「私たちは、日本の大工です。」と締めくくる。

個性際立つ会社のロゴマーク

「職人の会社」にこだわり

岸本さんは、自身の肩書を「大工または棟梁」とこだわり、「建築家」とは言わない。「鯰組」も6人が所属する会社組織だが、社員とは呼ばず「職人」「大工」にこだわる。「大工は、設計から工程管理、材料など家づくりのすべてがわかっていて、施主さんとコミュニケーションを深めながら決めていく存在」という、昔から続く感覚を大切にし、誇りを持っているからだ。

そして、その職人が個人でなく、集団として働くことで「施主さんの期待以上の仕事、職人もやりがいのある仕事ができる」と考えている。

「鯰組」は、職人でつくるプロフェッショナル集団だ

職人集団「鯰組」はどんな体制なのか。現在の社員は6人で、ほとんどが20~30代で、1人たたき上げの60代の大工職人がいる。

社員は2人ずつ①設計兼、現場監督②大工兼、現場監督③大工と大工、の組み合わせで3チームに分かれ、チームごとにプロジェクトを進めていく。物件によって期間や難易度がさまざまなので、1件をじっくり進める時もあれば、何件か同時進行することもあるというという。それぞれの業務に集中できるよう、施主さんとの打ち合わせをはじめこまごましたことは岸本さんが一手に担う、という役割分担だ。

各チームは先輩と若手という組み合わせで、若手は先輩から仕事の進め方を習う。「若手は、まずはひとつのやり方をきちっと身に着けることが大事。いろいろ手を出したり、他のやり方を見ると時間ばかりかかってしまうのでやらせない」というのが、鯰組流のスタイルだ。ひとつのやり方が身につくと、その応用で別の仕事もこなせるし、つまづいた時の解決方法も見つけやすいのだという。そのやり方については、鯰組として確立したものがあるわけでなく、それぞれの先輩に任せている。

東京に構える作業場には、材木等のストックがびっしり

飛び込んだ大工の道、独立から無我夢中

このような体制になったのは5、6年前のこと。
鯰組の設立時は岸本さんひとりで、プロジェクㇳの数が増えたり規模が大きくなるごとに、少しずつ仲間を増やしていった。

会社設立前の岸本さんは、千葉の工務店「眞木工作所」で修行した。そこの棟梁・田中文男さんに師事したいという思いで門をたたいたのだった。

岸本さんは「建築を勉強したい」と大学の建築学部に入学したものの、設計だけを学ぶことに物足りなさを感じていた。そんな時、偶然知ったフランスの建築家ジャン・プルーヴェに魅了された。鉄工所育ちの職人で、金属でなんでも作ってしまうアイデアとバイタリティ。「建築家のオフィスの所在地が部材製造工場以外の場所にあることは考えられない」という哲学。この出会いが、岸本さんを「設計だけでなく実際にものを作り出す施工までやりたい、大工になりたい」と突き動かした。

雑誌『住宅建築』で「民家型工法」を紹介していた田中文男棟梁を「日本のジャン・プルーヴェだ」とほれ込み、眞木工作所でアルバイトを始めた。卒業後に弟子入りし、10人ほどの職人にもまれながらの日々。

「最初は何もできず怒られてばかりで、同じような若い職人同士で酒飲むのが心の支えだった。経験積んでできるようになると、少しずつ怒られる回数が減っていった」と振り返る。同時に、木造建築にどっぷりと触れ、その力強さや、シンプルで合理的なつくりなどの魅力を存分に味わった。

3年経った頃、大学時代の友人が古民家の改修・移築を依頼してきた。当時築80年の古民家で、ケヤキ材が多く使われていた。「この仕事、自分がやりたい」と強く惹かれ、独立へとつながった。

とはいえ工場もなしに独立した岸本さんは、移築先の現場に仮設テントを張って作業するという綱渡りのような工期を過ごした。設計から工事、施工監理まで幅広い業務を一人でこなしたが、慣れない作業もあり時間もかかった。工事中は無我夢中で、愛着と達成感はひとしお。けれど、終わってみたら次の仕事の段取りは全くできていない、という恐ろしい状態だった。「結局、眞木工作所に出戻りし、5年程お世話になりました」と振り返る。

独立のきっかけにもなった古民家は、「今も大切に使われていて嬉しい」と岸本さん(撮影:黄瀬麻衣)

集団だとできることが広がった

「設計から施工までやりたい」と大工の道に進み、独立して走り続けてきた岸本さん。仕事の進め方を模索する中で、ひとりでは1、2年かかってしまう仕事も、チームなら半年で終わらせられることや、得意分野を得意な職人に任せることで効率よく仕事を勧められることがわかってきた。

また、細かい造作が得意な職人もいれば、おおらかな屋根をつくれる職人もいる。「こういう職人がいい、という理想に自分を近づけるのではなく、自分なりの職人になればいい」と考えるようになり、若手にもそれを望んでいる。

「僕は、若手の得意分野を伸ばせるような仕事を取ってこようって本気で思ってますよ」と笑う。

自身の性格についても「手を動かしてものをつくるのは大好きなんだけど、集中しすぎて他に手が回らなくなる」と冷静に分析。現場作業の第一線からは退いている。ただ、昔から好きだというスケッチは、施主さんの要望を表現したり、細かいおさまりを説明する時に描いている。

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スケッチを描く時間は、頭が整理され、気分転換にもなるという

岸本さんは、いち職人として設計から施工までできなくとも、「鯰組」として請け負えればいい仕事はできる、と思えるようになった。

いい仕事とは、施主さんが思い描いた以上の空間をつくること、そして、職人もやりがいを得られること。

職人集団だからと言って職人のひとりよがりにはならず、施主さんの喜びを意識すること。そこには、建物の完成度だけでなく、工期や予算、打ち合わせから工事中の職人の態度も関わってくる。加えて、ただ施主さんの希望通りのものをつくるだけではなく、使う材料の個性を活かしたり、古い建具を再利用したりといったアイデアも不可欠だという。

職人のやりがいには「ほかの人にはできない」という満足感が必要だという。精巧な細工、美しいおさまり・・・これらの技術を高めていくのは一朝一夕では難しい。鯰組はプレカットなど現代の技術をうまく取り入れることも必要だと考えている。その分の時間を手仕事にあてることは、技術の継承にもつながっている。

いずれの場合も重要なのは、施主さん、材料や物件、そして職人をよく見て、よさを見出し、引き出す姿勢だ。現場の数や種類が多いほうがよく、集団であることで多数の仕事を受けられる今の体制が生きてくる。

最近の施工事例は、鳴滝の数寄屋風住宅((撮影:市川靖史)

そもそも、木造建築は「昔は一般的だったかもしれないが、今の東京ではマニアックになりつつある分野」と岸本さん。「できあがっているものを組み立てる工業製品と違って、木で形を削り出す自由度はすごい。どんな空間にもなじむし、温かみがあるのもいい」と魅力を語る。

住宅の玄関口。上がりかまちと竹柱が美しい(撮影:市川靖史)

今までは東京と言う場所柄か、数寄屋建築や茶室や料亭などの仕事が多かったという。
鯰組には職人ではないが広報担当の社員がいた時期もあり、イベント企画やカフェ運営(現在は閉店)もしていた。雑誌などにも取り上げられると問い合わせは増えるが、実際に契約まで至るのは大半が施主さんによる紹介という状況だ。

最近は古民家にも縁ができ、勉強を始めたところだという。「まずは健全な状態に戻すこと。それから、せっかく残すならよさを生かさないと意味ない」と、丁寧に見やる姿勢をさらに正す。

思い起こせば、独立のきっかけも古民家の改修だった。その時に打ち合わせを重ねた場所・埼玉県吉川市の特産が鯰だったことから、社名に鯰を取り入れたという。ちなみに、独立時の会社名は「吉川の鯰」とストレートだ。

「初心を忘れるべからず」を胸に刻みながらも、時代に合わせて、会社の体制に合わせてしなやかに変化してきた岸本さん。会社をつくるのは職人。職人の経験や技術・アイデアを信じ、職人を真ん中にした家づくりをしていきたいと前を見据える。

鯰組 岸本耕さん(つくり手リスト)

取材・執筆:丹羽智佳子、写真提供:鯰組

● 取 材 後 記 ●

ひとつ、質問を投げかけるたびに「こういう場合もあるし、こういう視点もある」と複数の答えをくださるのが印象的だった岸本さん。常日頃から、いろいろな角度からものごとをとらえていることが伝わってきた。「わかってくれる」あるいは「わかろうとしてくれる」という安心感は、施主さんや職人への信頼につながっていることが伺える。

コンクリートジャングル・東京で、鯰組の手がけた木のぬくもりはきっと美しく映えている。今回はオンライン取材で実際に見ることが叶わず悔しいが、岸本さんのように別の角度から「次回訪れるまで楽しみをとっておこう」と考えることにしよう。

東京都国立市でビオフォルム環境デザイン室を主宰する山田貴宏(53)さんは、地域の自然や風土に溶け込む、持続可能な暮らしができる住まいの設計をしている。

職人がつくる木の家ネットには様々な会員がいるが、山田さんの経歴は少し変わっていて、伝統工法や木の家づくりをやっていきたいというマインドがスタートではなく、出身の早稲田大学建築学科では環境設備系の研究室に在籍していた。卒業後は大手ゼネコンで設備設計に従事した後、一級建築士事務所 長谷川敬アトリエ(長谷川さんは木の家ネットの発起人の一人)に転職。6年間務め2005年に独立。今年で14年になるビオフォルム環境デザイン室にはパートナーの設計者も含め、9名のスタッフが在籍する。

山田さんは自身の経歴を「他の会員さんとは少し毛色が違うかもしれませんね」と話す。

「大学の建築学科へは真面目に建築をやりたいと思って入ったんです。ちょうどバブルの頃だったので建築業界が混迷している状態で、逆に『こんな建築が続くはずがない』と感じて興味を失っちゃったんです。

建築の原点みたいなことを考えると、人間が健康に暮らしていくためには、自然が厳しい時にはそれから守るシェルターとしての機能があって、逆に自然が豊かな時にはそれを受け入れて感じることができる。そういう自然環境との応答性のある関係の中で建築って成立している。
そんなことを考えて建築学科の中でも環境系の研究室を選びました。建築と環境の間のインターフェイスする部分の設計をやりたかったんです。また、山登りや自然の中で遊ぶことも好きだったということもあって、だったらそこを掘り下げていこうと思うようになったんです。」


自然界のような小さな良い関係を、たくさんつくる。

まずは、そんな思いを形にした「里山長屋(神奈川県相模原市)」のご紹介。中央線の終点の高尾駅からさらに西へ2駅進んだ緑豊かな藤野駅近くにあるこの建物は、日本のパーマカルチャー(後述)的な風景としての「里山」と、昔ながらのご近所づきあいを象徴する「長屋」をイメージした横並びに続く住居が4世帯(それぞれが間口三間・奥行き四間)と、住まい手みんなが利用できる〝コモンハウス〟と呼ばれる空間が用意されている。また、2016年度 日本建築家協会 環境建築賞住宅部門優秀賞を受賞している建物でもある。ちなみに一番奥が山田さんのご自宅だ。

里山長屋 竣工当時の様子 (写真提供:山田さん)

手前が4世帯が共有して自由に使える〝コモンハウス〟。自然と一体となった屋根が目を引く。

〝コモンハウス〟内装(写真提供:山田さん)

左:庇の前半分はガラスになっており、雨よけと縁側のような空間を両立している。/ 中:4世帯の郵便受けはコモンハウス内にある/ 右:日差しの差し込む土間

山田さんの建築を紹介していく上で重要なキーワードが『パーマカルチャー』だ。環境問題に意識を持った人には馴染みのある言葉だそうだが、一般的にはあまり耳にしたことがない言葉かもしれない。

パーマカルチャーとは、パーマネント(永久な)とアグリカルチャ-(農業)あるいはカルチャー(文化)を組み合わせた造語で、生態系・自然の循環の仕組みに学び、衣食住すべてにわたって、自然と共生できる有機的で持続可能な暮らしのデザインをしようという考え方だ。里山長屋に住まう住民の方々はこのパーマカルチャーについて学び、実践しながら暮らしている。

パーマカルチャーについて山田さんにさらに掘り下げてもらった。


「環境系の出身なので、環境と建築を合わせて考えたいんですよね。生態系というのは小さな循環・小さな良好な関係がたくさん集まって成立している。そしてその仕組みを人間の暮らしのデザインにもフィードバックしようと言うのがパーマカルチャーの考え方で、僕はそれにとても共感を覚えるんです。パーマカルチャー的な視点・手法を家づくりにも活かしていきたいというのが、僕の設計のコンセプトです。」
「〝関係性をどうデザインするか〟がポイントで、建物をポンと一つつくるのではなく、それをつくることによって、地域の材料・風土との関係や、地域の職人さんや業者・生産者さんとの関係など、小さな良好な関係を築いていって成立するものだと思います。」

左:それぞれの家の前には家庭菜園ができる畑が用意されている。/ 右:山田さんの畑はイノシシに荒らされてしまったらしく、現在は芝を張っている。

各々が雨水タンクを設置している。

「この日本で住宅くらいの規模の建築を風土との応答性という視点で突き詰めていくと、自ずと木造で伝統的な建築というところに行き着いちゃうんですよね。入り口は他の木の家ネットの会員さんとは少し違うかもしれないけど、同じところに辿り着いたという感覚です。」


昔の技術+現代の技術=〝次の時代の民家〟

同じところに辿り着いたと語る山田さんだが、ただ伝統構法に立ち返れば良いという訳ではなく、さら前進して今の時代だからこそできる木の家づくり、今の時代にこそ必要な木の家づくりを提唱・実践してる。

「伝統的な木造建築には、もともと断熱材などは使われていないので、それでいいのではないかという見識もある一方で、現代の住環境・社会環境ではどうしても成立しにくいので、伝統的な建物ではあるけれども温熱環境にもしっかり配慮するというアプローチがどうしても必要だと思っています。」


「むしろ僕は伝統構法の家が温熱環境の面でも優れているということを証明していきたい。例えば、実際この里山長屋は土壁でできているんですが、土は蓄熱容量が大きいのできちんと断熱してあげると、むしろ温熱環境には有利に働くんですよね。今日みたいに燦々と光が差し込む日には、その熱が一旦壁に蓄えられて、夜になって外が寒くなっても家の中をポカポカと温めてくれるという効果があります。そういう事実を売りにして『実は伝統構法の木の家って温熱環境的にもいいんだよ』ともっと謳っていくべきだと考えています。
さらにこの家には〝そよ風〟という太陽熱を利用して屋根面で温めた空気を床下に送り、家全体を温めるという装置を導入しています。あまり装置に頼るのは好きではないんですが、そよ風は仕組みも簡便なのでここ以外にも多く採用しています。昔ながらの伝統構法の技術に、こういった現代の技術を組み合わせることで〝次の時代の民家〟を作れるんじゃないかと思っています。」

山田さんの自宅に佇む〝そよ風〟。ダクトと通じて暖かい空気が床下に巡り、家全体に届けられる。

木の家を次世代に受け継いでいってもらうためには、このような技術面での現代への最適化もさることながら、環境面での優位点をもっとアピールするべきだと山田さんは続ける。

「ご存知の通り、国連がSDGsへの取り組みを呼び掛けるなど、昨今は世界規模で環境意識が高まっている時代です。伝統構法の木の家づくりは、環境に優しくてサスティナブルなものづくりなんだということをもっともっとアピールしていいと思います。建てる時には、地域の自然素材を使い・地域の職人さんが手を動かし、地産地消の循環型の資源で建てることができる。また、暮らす時には、土壁をうまく断熱をしてあげれば冬場でも暖かく、庇を長くして開口部を広くすれば、夏場は日差しを遮り風が通って過ごしやすい。さらに時を経て、たとえ壊すことになったとしても、ほとんどの材料は再利用したり自然に返したりすることができる。木の家は真にサスティナブルなエコハウスなんですから。」

「現代人はどうしてもメリット・デメリットみたいな尺度で判断するので、『昔のものはいいものだ』とガムシャラにがんばっても、一般的にはなかなか木の家の良さが伝わらず『古臭いものでしょ』と思われ『最新』『スマートハウス』みたいな言葉に押されてしまうので、ちゃんとしたメリットがあり、合理的に判断すると、むしろ木の家が良いんだという事実を、はっきりと示していく必要があると思います。そうすれば、今まで関心がなかった人もこっちを向いてくれるはずです。」

時代を味方につけるのか、敵に回すのか、アピールの仕方次第だ。


次の世代へ『残していきたい』と思える住まいを、木構造のフレームで。

ここで、現在山田さんが取り組んでいるプロジェクトの中から、国土交通省「気候風土適応型プロジェクト2018※」に選ばれた、伝統的な軸組木構造と竹小舞土壁で、地域の気候と特性に応じた設計や、伝統的な技術と新しい技術との融合を目指している住宅、通称〝日高の家〟を紹介する。

※平成30年度サステナブル建築物等先導事業(気候風土適応型)に採択されたプロジェクトの略称。
地域の気候風土に応じた木造建築技術の継承・発展と低炭素社会の実現に貢献するため、伝統的な住文化を継承しつつ、環境負荷の低減を図るモデル的な住宅の建設に対して、国が建設工事費の一部を支援するもの。


日高の家は、伝統的な軸組木構造と竹小舞土壁の家ながら、地域の気候と特性(川・林)に応じた、ダイレクトゲイン(直接蓄熱)、 通風などのパッシブデザイン(自然エネルギーをコントロールすることで建物の温熱環境を整えようとする手法)を取り入れることで、適度なコストで取得でき、その価値が持続するという総合的にエコロジカルな住まいづくりであるという点が評価されている。

お施主さんは30代のご夫婦と現在保育園のお子さんの3人家族。子供の成長などの家族構成の変化に応じて住まい方をアレンジできるよう二階には建具は入れず、あえて〝がらんどう〟にしてあるという。もちろん初期導入のコストも抑えられる。

将来の住まい方の想像が膨らむ、がらんどうの二階

「家を建てたいと相談にみえる方の中には『ローコストでできないだろうか』と仰る方もおられるのですが、大変申し訳ないと思いながら、『自然素材で職人さんがつくる家ですから、然るべき費用はみていただかないと難しいです。ただ地域の自然素材で造られるきちんとした家で、30年で壊すんじゃなくて次の世代・次の次の世代まで使ってもらえる価値のあるものになりますから、ぜひそういう価値観で費用をかけていただければと思います』とお返事しています。」

「とはいえ、最初の資金を用意するのは大変ですので、まずは建具は入れず〝がらんどう〟でもよいので、きちんとした住まいの木構造のフレームを手に入れる。あわよくば土壁くらいまではやっちゃう。くらいの心づもりで始めるという手法もありますよね。そして、後々資金ができた段階で建具を入れてもいいし漆喰を塗ってもいい。何年も何十年もかけてじっくり作ってゆくというプロセスもありだと思います。最初の資金がないからと言って、手っ取り早く合板とビニールクロスの家に手を出してしまったら、それは『残していきたい』と思えるものにはならず、結果として30年ほどしか保ちません。お客様にはその辺をしっかりと説明するようにしています。」

飯能の杉「西川材」:江戸時代に「江戸の西の川から流れてくる」木材だったのが由縁。埼玉県の良質木材として首都圏を中心に使用されている。一般的な杉のヤング係数(材料の変質しにくさ)がE70であるのに対し、西川材はE80〜E90と強度が高い。

断熱材にはグラスウールではなく環境負荷の少ない〝ウッドファイバー〟を使用している。素材は地元飯能の杉だ。「建築が環境に配慮できることは全部やりたいんです。」と山田さん


左が里山長屋。右にはその価値に共感してくれた方が、山田さんの設計で家を建てて暮らしている。自ずとゆるい繋がりのコミュニティが形成されている。

コミュニティは、つくるものではなく、出来ていくもの。

冒頭に触れたようなパーマカルチャー的な視点・手法で、環境に配慮した家づくり、環境と応答性のある住まいづくりをしている山田さんだが、里山長屋以外にも、住民同士、あるいは地域の人々が繋がるような住まいづくりを多く手掛けてる。

山田さんの考える〝コミュニティの場〟のあり方とは一体どんなものなのか訪ねてみた。

「生態系は小さな循環・小さな良好な関係がたくさん集まって成立していると述べましたが、人間もやはり生態系の一部であるので、そのコミュニティに関しても同じことが言えると僕は考えてます。」

「無理に密度の濃い関係を築く必要はなくて、密度は薄くてもいいから〝小さな良い関係〟を、どう沢山つくるかが大切かなと思っています。いつも顔を合わせ人でも気脈が通じていなければ、なかなか打ち解けることができませんが、逆にたまにしか会わない人でも気脈が通じていれば、いざ何かあった時には助け合おうという心持ちになる。そういう関係ですね。」

「僕はコミュニティの専門家ではないので、学術的なことは言えませんが、自ずとコミュニティを大切にする建築みたいなところに行き着いているので、素人目線ながら注意していることはと言えば「作り込み過ぎないこと」です。『コミュニティって大事だから、みんな繋がって行こうよ』みたいな無理な押し付けをしないことですね。設計に関しては、むしろ〝恣意的なデザインはしない〟ように心掛けています。」

里山長屋のコモンハウスにて

「確かに今の時代、コミュニティが大事というのは、まさにその通りなんです。これからますます高齢化や過疎化が進んでいき、バリバリ健康で働いている世代の人が、体が弱ってきた時や、年老いてきた時に、一体どこにセイフティネットがあるのかと考えると、老人ホームやデイサービスなども確かにありますが、お金が掛かることですし、これから日本全体が貧困化していく状況を考えると、一体どれだけの人数が費用をかけてそこに入居することができるのかという不安があります。だとすると、やはり地域でセイフティネットを張って支え合わなくてはならないんじゃないかと思います。
しかし現代は、良い悪いは別として個人の時代ですよね。その現代人たちに向かって「強制的に繋がっていないと生きていけないんだ」という村社会の理屈は理解されないし、鬱陶しいものなんです。
その辺りのバランスを見極めて、重過ぎず軽過ぎず適度な交わり方ができるコミュニティづくりがこれから大切になってくるんじゃないかと考えています。」

では、具体的にどんなバランスで場を作っているのだろうか。さらに語ってもらった。

「個人個人が責任を持って関与できる状況を作ってあげることこそがコミュニティの下支えになるんじゃないかと思います。人間って勝手な生き物だから自分にメリットになることには目を向けるけど、デメリットには目を背けたくなるものです。その地域・コミュニティに所属することで自分にも返ってくるメリットがあると分かれば、繋がりを持とうとするんじゃないですかね。ちょっとやらしいけど、現実はそうなんじゃないかな(笑)。」


「その下支えがあって初めて『じゃあ仲良くやって行きましょう』という流れになると思うので、恣意的な仕掛けだとか強制的なルールで縛るのではなく〝がらんどう〟を作っておいて『あとは自由に使ってください』くらいの方が良いんじゃないかと考えています。」

「矛盾しているんですが、コミュニティの重要性は考えつつも、ことさらそのためだけの空間・施設を作ろうとはしないんです。例えばアメリカで盛んになっているようですが、日本でも最近目にする事例で、コインランドリーにカフェを併設したり、そこに掲示板を掲げたりすることで、自然発生的にコミュニケーションが始まっていくという場所があります。そういった形で自然とコミュニティが育まれる環境というのがとても素敵だと思います。」

山田さんがそんな絶妙なバランスを考えながら設計した、人と人とのちょうどいい関係が生まれている場を2つ紹介する。


Okatteにしおぎ(写真:砺波周平)

1つ目は東京・西荻窪にある2×4の住宅を2015年にリフォームした〝Okatteにしおぎ〟。会員が自由に使えるキッチンを中心に「地域のハブとなるような場」を目指した〝地域のコモンキッチン〟がコンセプトの施設だ。ごはんを作りたい人・食べたい人、イベントをしたい人・参加したい人、小商いをしたい人、ただくつろぎたい人などが自然と集まり、今では会員数が100名を超えているという人気ぶりだ。


連の家プロジェクト(写真提供:山田さん)

左上:連の家1 / 右上:連の家2 / 左下:連の家3 / 右下:連の家4

2つ目は、里山長屋と同じ藤野にある〝連の家プロジェクト〟。2013年から始まった藤野の里山の風景になじむ平屋が前後に連なる集落感のあるプロジェクトで、その趣旨に賛同するお施主さんの住まいを順次建てていっている。現在4軒まで完成しており、今後さらに建てられる計画だという。里山長屋にも通じる集落感がゆるい繋がりを生んでいる。


進化する余地があるからこその伝統

今回の取材を通して〝伝統構法の木の家〟が必ずしも〝伝統的な日本家屋〟でないとならないと言う訳ではなく、その時代、その土地、その住まい手によって変化のあるものであっても良いのだと感じた。 もちろん、構法が伝統というだけで、現代的なモダンな住まいの図面を引く建築士や、新しい手法や技術を取り入れている職人など、そういった意識の作り手は多く居るものだと思うが、〝伝統〟と銘打っている以上、世間一般に与える印象はやはり保守的なものになりがちだろう。

〝伝統〟について山田さんから興味深い話をしてもらった。

「この業界にいると『伝統とは何だ。いつの時代からの建築を伝統と言うのか。』みたいな会話になることがよくあります。例えば築80年くらい以上の民家を古民家と言ったりする訳ですが、『本当にそれくらいの時代のものが伝統なのか?』とおっしゃる方もいる。『伝統を守ると言うなら、鎌倉時代とか室町時代くらいまで立ち返るのか?』といった気の遠くなる議論にもなりかねません。もちろんその優れた技術を守っていくのは、一つの答えではあるけど、民家の場合はそうもいきません。」

「例えば、『伝統的な民家には一面ガラスの縁側があってポカポカして心地いい』といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるかと思いますが、ガラスで縁側を囲うようになってきたのは明治以降なので比較的新しい設えなんですよね。それより昔は濡れ縁だったので、建具はなく雨風には晒される空間で、外とは障子一枚で隔てられていた訳です。」


「〝ポカポカする縁側空間〟と言うのは必ずしも〝古い〟伝統ではないわけです。そう考えると、伝統ってやっぱり進化していて、進化する余地があるからこそ伝統なんだと思います。新しいことを取り入れることを怖がらない方がいいと思っています。ここ(里山長屋)のように木組み・貫構造・土壁の家でも、〝そよ風〟のような現代の技術を少し足していったり、あるいは、科学的に温熱環境を解析した上で、〝時代に最適化した伝統構法の木の家〟みたいなものをつくり、『これこそが今の日本に必要とされている住まいです。』と発信していくことで、次の世代に伝統を受け継いでいってもらえるのではないでしょうか。」

伝統構法の家・木の家を次世代に受け継いでいくためには、技術の継承や世界遺産への登録などの保存に必要な活動と並行して、広く一般にその必要性・素晴らしさを認知してもらうためには、日本の気候風土の中で育まれてきた木の家は、現代の住環境においても、過ごしやすくするための知恵や技術が詰まっていること。また、地球温暖化などによる環境変化や生活様式の変化にも、現代の技術や考え方を柔軟に加えていくことで、むしろ今の時代・これからの時代に適した素晴らしい〝次の時代の民家〟を作れるということを、知ってもらう必要があるのではないだろうか。

素晴らしさとメリットを主軸にして、木の家というものを広く伝えていくことで、その良さを分かち合える良好な関係のコミュニティが育ち、いつしか日本中に広がることを願わずにはいられない。


一級建築士事務所 ビオフォルム環境デザイン室 山田 貴宏(つくり手リスト)

取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)

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