設計も施工も家も家具も、自分の手を動かして大切に作りたい。埼玉県久喜市の「はすみ工務店」6代目棟梁、蓮実和典さんの心意気だ。
はすみ工務店は明治創業で、令和の現在も木組み・土壁といった日本の伝統工法や自然素材を使った家づくりに取り組む。つくる家々が醸し出すムードは、日本人が古くから持つ和の精神を大切にし、人と人、人と自然が調和している。施主さんは「背中で語る、まさに職人」と言わしめる。
蓮実さんは、大学卒業後8年の大工修行を経て家業を継ぎ、8年となる。現在、蓮実さんと60代の大工さん、20代の弟子1人の3人で仕事に取り組む。
作業場祖父の始さんは、蓮実さんに代替わりして6年後に亡くなった。始さんの代からはすみ工務店で働く秋元文男大工(69)は、蓮実さんについて「真面目で、実直よ。大工や職人がどんどん少なくなる中で、これと決めて続けてる根性はたいしたもんだ」と太鼓判を押す。
蓮実さんは、「やりたい大工仕事ができている。施主さんやじいちゃん、修行をつけてくれた親方のおかげです」とはにかむ。
やりたい仕事とは、「手刻みだったり、自然素材を使った家づくりや、古民家の改修とか。いわゆる手仕事ですかね」と蓮実さん。
なぜ手仕事にこだわるのか。蓮実さんは、家とは「単なる箱ではなくて、家族が和気あいあいと過ごし、その空間を通して心豊かな生活を送るためのもの」と考えている。
「そのためには施主さんの要望を設計段階から聞きつつ、人の手で心を込めてつくることが大切だと思うんです」と話す。国産材や地域材の活用にもこだわり、木1本いっぽんを見極める力も磨いている。
時代は機械化、合理化が進み、手間や時間がかかることは避けられる傾向もある。それでも、「複雑で粘り強い加工など、機械ではできないことがある。それに何十年、年百年経った時、『やっぱり手仕事はいい』ってなるに決まっている。丈夫で長持ちする上、使うほど味が出ますから」と語気を強める。
仕事の内容は、年に1棟ほど新築依頼があるほか、改修工事やウッドデッキの新設、バリアフリー工事、カウンターといった家具の新設など多岐にわたる。祖父の代からのお施主さんもいれば、木の家ネットのホームページを見て問い合わせが来る場合もある。
「新規の方の場合、ハウスメーカーの家づくりがしっくりこない人が、いろいろと探してうちに来る印象があります。だからこそ、メーカーのように施主さんにある中から選んでもらうのではなく、欲しいものをゼロから作りたい。施主さんの持っているイメージを、木でかたちにしたいし、木なら自由になんでもできる」と力を込める。
一級建築士の資格を持つ蓮実さんは、自ら設計もこなす。
「施主さんの要望を元に、設計の提案や図面を描きますが、大工の視点での考えが多分に入っています。構造の木組みや造作の詳細な納まりは、施工に無理が無いよう、メンテナンスがし易いように配慮しています。もちろん、見栄えも大切ですが」と話す。
家業を継いで初めて設計施工で請負した小屋は、趣味のものを展示するためのものだ。
2021年末に建設中の一軒家の施主さんは、子どもや孫の代まで長く残せる家づくりをイメージしていた。化学的な素材の匂いも苦手だったという。
蓮実さんと出会い、どんな家に住みたいか話をしていく中、「蓮実さんが図面を何度も直してくれて、自分の迷いが整理されていった」という。
蓮実さんの提案により、室内の壁は自らの手でローラーを使いドロプラクリームという塗料を塗った。「素人だからムラだらけだけど、自分の家を自分で作れるなんて楽しい」と笑顔がはじける。
「施主さんにも手仕事のおもしろさをわかってもらえて嬉しいです」と蓮実さん。また、木造だからといって和風にこだわらず、建具や窓の位置を変え洋風にした家づくりも行ってきた。
この物件は外壁に土佐漆喰を使用。石灰と藁スサを水練りし熟成させたもので、卵焼きのようなふんわりとした色合いに仕上がった。時間がたつにつれ色合いの変化も楽しめる。
構造は木造で、柱や梁など構造材と壁の仕上げ材の間に、通気胴縁を付けた。壁の中が通気できるようになり、より長持ちするという。
蓮実さんは「いろいろなやり方があるから、施主さんのコストやニーズに合わせて対応していきたい。『できないです』は言いたくないんです」と語気を強める。
施主さんのオーダーを聞き、今までの仕事や経験の中で近いものがあるか思い出し、ある程度完成形をイメージする。特に家具については具体的なオーダーでなく、「こんなものが欲しいのだけどつくれる?」と言われる場合も多いという。
「イメージしたことを手で形にしていく、試行錯誤していく過程が、わくわくするので好きですね。なんとかなる、なんとかしようって気持ちで、完成すると達成感がたまらないです」と蓮実さん。
材料も国産材、地域材を使いたいという。コストに見合い、カウンターや収納棚のようなものなら強度も問題ないと考えている。
イメージを作り上げるために本やインターネットで情報を探すこともあるが、「自分の経験や、木の家ネット仲間の仕事ぶりのほうが参考になりますね。木をうまく使っているから」と笑う。
蓮実さんは、木の家ネットメンバーが設計した物件の大工工事をしたり、一緒に古民家の改修や耐震工事をしたりとつながって仕事をしている。そもそも、大工修行をしたのは木の家ネットメンバーの綾部工務店だ。
綾部工務店との縁は、大学時代に生まれた。大工の家で育ち、幼いころから漠然と「建築の仕事がしたい」と考えていた蓮実さん。
大学で建築を学んだものの、卒業後は建築のうちどの道に進むか決めかねていたという。インターン中に綾部工務店の伝統工法の仕事を経験し、昔ながらの家づくりの魅力に目覚めた。
「自然素材の木や土は安心して使える。どんな形にもできるから、自由で、完成した時の達成感がある」と語る。
修行中は、大工技術に加えて設計、経営や見積もりも学んだ。常時5人ほどの弟子とともに生活する中で「自分はあまり言葉が多くないほうだったから、世話焼いてもらいました。感謝しています」と振り返る。
目の前の作業への集中力。創意工夫。全体を見渡すこと。親方の仕事ぶりから伝わることは数多くあり、「親方みたいになりたいって思ってます」と力を込める。
一級建築士の資格を取得したのも修業中のこと。建築について学びを深められた上、最近はインターネットから新規の問い合わせも増えてきて、信頼獲得にもつながっていると実感する。
修業を付けた綾部孝司さんは「昔の大工ってこんな感じだったんだろうなってやつです。指示を出すと、質問もせずすぐに手を動かしてぴったりのものをつくる。本当に手を動かすのがすきなんだよな」と認める。
手は、動かせば動かすほどに木や道具が理解できる。「棟梁になったら、大工や施主さんにわかったことを伝えられるようになれよ、とよく話してました」と振り返る。
そんな修業時代を過ごした蓮実さんは現在、21歳の弟子に仕事を手ほどきしている。「ただ作業するのでなく、その意味とか、その先の作業とのつながりとか、全体を見られるように伝えています。それがわかると、大工が面白くなる」という気持ちで向き合っているという。弟子の作業のために図面をおこすなど工夫も凝らすが、一番は「自分が恥ずかしくない仕事をしているところを見せたいです」と話す。
蓮実さんには、実直さがある。「こんな仕事をやっていきたい」と、堂々と口に出せる。施主さんの要望を素直に受け止め、実現のため腕を磨く。祖父や親方を「すごい」と認め、良いところを真似、まっすぐに背中を追いかけている。
その実直さは、ごまかしがきかない自然素材に向き合うべき伝統工法に活かされている。蓮実さんが作り上げた空間には、大いなる自然と丁寧な手仕事が編み出す安心感があった。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、一部写真提供:はすみ工務店
木を使って、かっこよく作ってやる。大阪・四條畷(しじょうなわて)市の木又工務店の二代目大工棟梁・誠次さんの信条だ。その仕事は木と手道具を使うことにこだわった「手づくりの家づくり」から、地元神社の被災した鳥居の復興まで多岐にわたる。木にこだわり、木を通して人を喜ばせる大工としての夢を語り、技を磨く姿に、施主さんや地元の仲間、弟子たちは信頼を寄せている。
木又工務店の2021年の大仕事は、四條畷神社の木造鳥居の建築だ。鳥居は吉野ヒノキを使い、高さ6.91メートルもの大きさ。材木も普段の民家のサイズより大きく、住宅街の幅6.3メートルの道路に建てるという初めての試みでもあった。
木又さんは少なからず不安もあったというが「建った時かっこええやろな、絶対建てたるってわくわくが勝った」と振り返る。新型コロナウイルスの流行の影響で後期は延びたものの、2021年、建前を迎えた。
この鳥居、もともとは石製だったものが2018年6月の大阪北部地震で損壊してしまい、木又さんが旗振り役となって再建にこぎつけた。神社から依頼されたわけはない。損壊後、木又さん自ら見積りをとり、1000万円借金をして吉野ヒノキを購入。本音は「丸ごと寄付できる金額やない」としつつも、神社には費用を集める氏子組織がなく、再建の声が上がらなかったことで、動き出したという。木ならば地震や風にも強く長持ちし、さらに美しいという考えもあった。
建前を終えた現在は、木又さんの心意気に感謝した神社が、再建事業の寄付金を受けることになっている。
地元を大切に思い、実際にアクションを起こす木又さん。20代で青年団を立ち上げ、この神社で「畷祭」を始め、毎年続けてきた。神輿や流しそうめんをして仲間と盛り上がることを、心底楽しんでいた。
大切な場所が、地震により鳥居というシンボルを失った痛みは、青年団や地元全体を覆っていた。自分の力が使えるならば何とかしたいという思いが行動に移させた。実際に見積りをとったり、材木を見に行ったりするたびに、「木又が何か始めたって、なんやみんな楽しそうで、それがうれしかった」という。
「それに、地図や歴史に残る仕事なんて大工の醍醐味。自分の子どもや地元のみんなに、『この鳥居、木又が建てたんやで』って言えるやんか」と人懐っこく笑った。
木製鳥居の再建までのストーリーは木の家ネットYoutubeチャンネルでも紹介している
四條畷市は、木又さんの父・健次さんが徳島から出てきて工務店を始めた場所。住み込みの弟子たちと寝食をともにし、作業場が遊び場だった木又さんは「大工以外の職業は考えたたことない」という。
地元の高校の建築学科を経て専門学校で設計を学んでいる時に、社寺や凝った木造建築との出会いがあった。木を手道具で美しく加工し、組み上げる。こんな仕事がしたいとほれ込んだ。設計の道へ行くか、大工の道に行くかという迷いは晴れ、木造の伝統建築に強い奈良県の梅田工務店に弟子入りを志願。当時は弟子が多く断られたものの、「無給でいいから」と頼み込み、採用された。
修業時代は、作業場の二階に住み込みで木と向き合った。少年時代から大工の働きぶりを見て、高校や専門学校で学美積み上げてきた自信は「打ちのめされた。できることが本当に少なくて。悔しいからめっちゃ努力した」と、木又さんは原点を語る。5年の修業と1年のお礼奉公ののち、地元へ帰り、木又工務店を継いだ。
大工としての仕事をこなしながら、「畷祭」をきっかけとした地元との絆も強まっていく日々。仲間の中には写真が得意な人やウェブページのデザインができる人もいて、木又工務店のウェブページがあっという間に立ち上がった。木又さんは、「仲間と酒飲みながら、木の仕事がしたいって語っていたことを、どんぴしゃでかっこ良く作り上げてくれた。かなり有能な営業をしてくれている」と感謝する。
ウェブページの発注には初期で60万、リニューアルで100万かけた。確実に受注にもつながっており、木又工務店はウェブからの受注が6割と半数を超えている。
年間の施工件数は新築が4~5件で、リフォームが20~30件となっている。施主さんの思いやこだわりを丁寧に形にすることで、愛着が持てる家を作りたいという姿勢は一貫している。
そのために、工務店に木又さんを含め6人いる大工は、技術を磨き続けることに余念がない。うち3人は木又さんが直接修行をつけた20~40代の男性。木又さんは手道具の手入れをはじめ仕事内容について「基本的にきつく言う方だと思う」と話す一方で、「いい腕になるには、いい仕事を作らな。それも親方業や」と言い切る。
今年の鳥居のように、大きな仕事、誰もやったことのない仕事など「俺が夢を語ると、弟子らが目輝かす時があるんや」と、大工棟梁自ら仕事に夢を持ち、ポジティブでいることの重要性を実感する。
弟子の島岡寛裕さんは、木又さんのもとで修業して9年。「親方みたいに器がでかくなりたい」と尊敬のまなざしだ。厳しさは認めつつも「わかるまで教えてくれるし、ぼくら弟子の考えも聞いてくれる」と信頼は厚い。
材木にもこだわりを見せる。構造材には国産材を使用し、仕上げには無垢の天然素材を使用するよう心がけている。
材木屋に加工を依頼するのではなく、実際に原木市場に出向いて見てから取り寄せ、作業場で加工する。材木ひとつひとつにストーリーが生まれ、施主さんのこだわりを持った家づくりに応えられると考えている。値段を安く抑えることにもつながる。
材木は作業場に置き、天然乾燥させる。作業場は260坪の広さで、ただ作業をこなすのではなく、いつでも木材や機械に触れられる研鑽の場だ。弟子たちが自由に使える、学び舎としての役割を果たしている。
天然乾燥の場合、材木に乾燥ムラが出ることもあるが、そんな時は自作の乾燥機を使う。幅2.2メートル、奥行6.2メートルの箱に電気のスポットヒーターがついており、ムラの部分に点灯することで全体を整える。
「最初は、滋賀の宮内棟梁の水中乾燥がいいなって思ったんだけど、池の環境がなかったので機械をつくっちゃった」と笑う木又さん。ユニークなアイデアと、実践力が光る。
現在は、「弟子にも仲間にも施主さんにも恵まれ、やりたい仕事ができている」と木又さん。7年ほど前から設計も依頼されるようになり、専門学校で学んだ知識も生きてきた。
しかし、最初から順風満帆なわけではなかった。修業が終わり地元に戻った時は、父の大工仕事も減少傾向で、弟子も1人しかいなかった。回ってくる仕事も、賃貸マンションのリフォームやクロス作業など、理想とする木とはほど遠い仕事だった。自分ってちっぽけ。そう思う日々だった。
「これではあかん!」と一念発起した木又さんが仕掛けたのは、なんと営業。自分で施工事例の写真を並べたパンフレットを作成し、インターネットで大阪で木造建築をやっている設計事務所を調べて「大工仕事をやらせてください」とお願いして回ったのだ。その中の一つの事務所が興味を持ってくれた。
現在も付き合いが続く、間工作舎設計事務所の小笠原絵里さんは言う。「木又さんって、言ったことを夢で終わらせずにしっかり叶えていくんですよ。信頼できるし、『次はどんなことするんだろう?』ってワクワクしながら見ています」。現在60歳の小笠原さん、「80歳まで一緒に仕事したい」と笑う。
理想とする木の仕事にしっかりと狙いを定め、現状から足りない点を洗い出し、行動を起こし、結果につなげる。「壁を壁って思わない。前どころか上向いて歩いてるんや」と大声で笑った後、「修業時代を思えばどうってことない。世の中って厳しいもんやから」と話すまなざしは、鋭かった。
木又さんが考える伝統建築とは、長い時間をかけて洗練されてきたもの。その当時流行したものに、使いやすかったり見栄えが良かったりと少しずつ変化が加えられてきた。今も進化を続けている。ただ同じ形を踏襲するだけのではないのだ。
そうなると、「現在の伝統建築も、固苦しいイメージがあるかもしれやんけど、もっとオシャレで馴染みがあるものに変えていきたい。流行りも取り入れていい」と木又さんは考え、建築雑誌を読み込み、試行錯誤しながら設計に取り組む。自然素材ももっと勉強したいと意欲は増す。
木を使って、かっこいい大工仕事がしたい。繰り返し語ってきた夢を現実のものとした木又さんは、令和の時代の新たな夢を、描き始めている。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、写真提供:木又工務店
電話で話を伺った設計師の小笠原さんは、木又さんについて「ぱっと見は演歌って感じだけど、話すとジャズ」とユニークに語った。「アレンジ」「即興」など自由なイメージが、聞いてきた仕事ぶりに、重なった。
木又さんが語ってきた「木の家をつくる」という夢はこれから、もっともっと自由に、新しい音を奏でていくのだろう。
広島県福山市で社寺建築や伝統建築、古民家再生を手がけながら、そのスキルを若い職人たちに伝え、従来の木造建築の枠にとどまらない新たな可能性を切り開こうとしている野島英史さんをご紹介します。
野島英史(のじまひでふみ・45歳)さん プロフィール
昭和50年(1975年)広島県福山市生まれ。株式会社のじま家大工店 代表取締役。中学生から幼稚園児まで4人兄妹の父。15歳で大工の道を志し地元の工務店に弟子入り。20歳で岐阜県飛騨の古川町で「飛騨の匠」として10年間修行を積み社寺建築を身につけた。その後、地元福山に戻り32歳で独立し「のじま家大工店」を開業。14年目の今年、新たな試みとして「ログキャビン」を提案・発売する。
⎯⎯⎯ 大工の道を選んだ経緯を教えてください。
「曾祖父・祖父が大工でした。祖父母に育てられたこともあり、子供の頃から大工になりたいと思っていました。私が物心がついた頃には、祖父は現役を引退し毎日縁側で仏像を彫っていました。ですので「大工=彫り物もするものだ」という概念が幼い自分の体験にあったので、社寺建築を志すようになりました」
⎯⎯⎯ ターニングポイントをお聞きしたいのですが、飛騨での10年間で何か大きな節目はありましたか?
「飛騨に行こうと決めた時点で、社寺建築を中心とした伝統建築の方向を生業にしようと心に決めていました。古川町は大工職人の町として有名で、町内のいろんな工務店に同世代の大工が14人くらいいました。彼らとはみんなライバル同士なので、とにかく負けたくなくて切磋琢磨しながら一生懸命やっていましたね」
⎯⎯⎯ 今も社寺に携わることが多いですか?
「いえ、今はそんなことはありません。文化財の修復なども手掛けますが、古民家再生や住宅の新築もまんべんなく手掛けています」
⎯⎯⎯ それから「ログキャビン」を販売されるそうですが、とても面白そうですね。お話を聞かせてもらえますか?
「もちろんです!」
今年後半、野島さん考案のDIY型ログキャビン【やまとCHAYA】が製造・販売になる。
住宅とは異なる空間を手軽に楽しめる【やまとCHAYA】は、伝統的な木組みの技術「扠首(さす)」を取り入れることで、一般の方でも組み立てが可能。縄文時代の竪穴式住居を模したデザインで、日本古来の大和比(白銀比)で設計しているのが特徴だ。希望に応じて、オリジナルキャビンの製造や、テラスの追加などオプション対応もする。余分なものを取り除いたミニマムな住まいでありながら、使う人の感性を取り入れられる空間で自然を楽しむことができる。
⎯⎯⎯ 新たに考案された【やまとCHAYA】について詳しく教えてください。
「ひとりでも多くの方に木の香り・自然とのふれあい・家族の絆を楽しみ、深めていただくきっかけになればと思い考案しました。自ら組み上げ、自分だけの場所、また家族と共に楽しめる場所にしていってもらいたいですね。またこの辺りだと【瀬戸内しまなみ街道】があるので周辺の観光地や農園、キャンプ場などへの設置が向いているかな思っています」
⎯⎯⎯ DIY型ということですが、どのような工夫が施されているのですか?
「全て、込み栓(柱と土台、柱と桁などの仕口を固定するための、2材を貫いて横から打ち込む堅木材)を使って作ることも考えましたが、一般の方が作りやすいように組み木を味わえる部分を残しながら、ボルトで締める安心感を両立させました」
⎯⎯⎯ 木材は何を使われていますか?
「県内産ヒノキの天然乾燥材を使用しています。風雨に晒されるものなので半年以上乾燥させた強度のある材木を使用するため、年間20棟限定での販売を考えています。また、屋根は杉材を土居葺(通常だと瓦葺きの下地となるもの)にしたものです。この屋根が一番時間のかかる部分だと思います。プロで3日かかりました。やりがいは相当あると思います」
⎯⎯⎯ これは相当楽しめそうですね。職人さんたちの評判はどうですか?
「職人たちも楽しんでやってくれています。お客様向けに、木に触れること自体を味わったり、ここでの体験を提供したいと考えているのと同時に、職人自身が普段の仕事以外で楽しみながら取り組めるめるものを作りたかったんです」
⎯⎯⎯ これからの展望を一言お願いします。
「これからの時代は、ネットでもリアルでも販路を開拓していかないと、続いていかない考えています。地元だけではなくて、日本だけでもなくて、世界に目を向けていかなければなりません。【やまとCHAYA】が、日本の伝統建築の技術と世界のお客さんとを結ぶ架け橋になって欲しいですね」
「今後、人口減少と共に家を建てる人がどんどん減ってきます。その中で、大きな家だけではなく【やまとCHAYA】のような手軽に建てられるものに、木組みや伝統建築のエッセンスを加えることで、ニッチな層だけでなく幅広いお客さんに「木とともに生活すること=持続的な暮らしを実践し受け継ぐこと」に興味を持ってもらいたいです」
⎯⎯⎯ ということは販売は日本中、ひいては世界中を視野に入れているんですね?
「そうですね。めっちゃ世界中に持って行きたい。『お前どうやって持っていくんだ!?』という話にはなるんですけど、そこは夢ですから。具体的な障壁は一つひとつクリアしていって楽しめるんじゃないかなと考えています。何に対してでも楽しんで、もっともっと視野を拡げていったらいいんじゃないかなと思います」
やまとCHAYA 施工風景
⎯⎯⎯ 野島さんは今は現場からは離れてらっしゃると伺っています。どのように仕事を進めているのか教えてください。
「今、のじま家大工店では、20代が1人、30代が2人、40代が2人の合計5人の大工職人で現場を回しています。あとは要所要所で外部の職人さんに応援を頼んでいます」
「現場自体は棟梁に任せていて、重要な決定は私がするというスタイルになっています。あとは社長業であったり、これからのことを考え、舵を切っていくような役割をしています」
「私が現場へ出て行かない方がいいんです(笑)。私は昔のタイプの人間なので、職人の仕事ぶりについ口を挟んで余計なことを言ってしまうので。。今後のことを考えるとそれじゃあマズいなと思い、数年前の法人登録を機に『ワシは現場には出ん!』と宣言しました。任せて良かったと思います。職人たちも自分で考えるようになってどんどん伸びていっています」
⎯⎯⎯ 経営者ならではの醍醐味や逆に苦労している点はありますか?
「自分が経営者になるとは思ってなかったんです。立場上、人の前でいろいろと話をする機会が出てきますよね。でも元々そういうのが苦手で、黙々と大工をしていたくてこの道に進んだんです。だから正直辛いんです(笑)。あと、職人や棟梁として現場に入っていると完成した時に「できたー!」という達成感が大きいですが、今の関わり方だとそれが味わえません。そこは職人がうらやましいですね。しかし、みんなが自分のところに集まってくれて、同じ方向を向いて取り組んでくれていることが嬉しいですし、やりがいを感じます」
⎯⎯⎯ 「ベテランの大工さんと若い子は居るけど、働き盛りの30~40代の大工さんがいない。世代間の色々な溝を埋めるのが大変」という話をよく聞きます。野島さんのところでは関係なさそうですね。
「そうですね。もちろん、うちにも以前はベテラン大工が来てくれていました。今は主力となっている40代の大工が技術は概ね身につけているので、問題なく仕事はこなせています」
⎯⎯⎯ 皆さん、正社員なんですか?
「昔は終身雇用にしていましたが今はやめました。育ってきたら独立しやすい環境にしてあげた方が、各地にネットワークを作ることができてお互いにメリットがあると考えています。これからますます仕事も暮らしも多様化していきますからね」
⎯⎯⎯ 今話されたような考え方やビジョンなどは職人さんたちにも伝えているんですか?
「はい、伝えています。本人の希望でずっとうちに居たい人には、うちのやり方をしっかり教えます。逆に、例えば独立して経営者になりたい人に対しては、経営者の集う団体の会などにも一緒に参加して、必要なノウハウを教えています」
⎯⎯⎯ 基本となる大工技術がしっかりあってこそ、立ち振る舞いや考え方が重要になってくるんですね。のじま家大工店ならではの技術や強みとはどういったものでしょうか。
「古民家再生や普通の伝統構法も得意としていますが、ちょっと変わった建て方もしています。例えば、これは120mm角の材木で構成する建物で、ハシゴ状に組み上げていって材料が少なくても粘りと強度を持たせることができます。また大きな材料を使わなくて済むので斜面にも建てることができますし、材料の無駄も少ないです。大きな梁の建物も好きですが、この方法だと立体的で強度もあり、見た目も美しいので気に入っています」
のじま家大工店の礎となる古民家再生と伝統構法の事例を一件ずつご紹介します。
2019年完成。飛騨での経験を買われ「飛騨っぽい家をつくって欲しい」と施主のMさんからのご依頼。「理想の家を建てる大工を見つけるのに40年かかった」と言わしめたそうだ。当時30代後半だった大工が手刻みを志して1年で棟梁を務めた。
含空院(茶房)
2014年竣工。この現場を最後に野島さんは現場を離れた。滋賀県 臨済宗永源寺派大本山永源寺より移築再建した建物。元々は永和3年(1377年)考槃庵の名で建立され、当時の建物は永禄6年(1563年)に焼失。正保4年(1647年)に再興されて以来、歴代住持の住居及び修行僧の研鑽の場だったそうだ。移築に際しては天井裏の炭に到るまで持って帰り、解体は実に3ヶ月を要したとのこと。
「古民家再生においては、古いままの状態を可能な限り忠実に再現・表現することが、のじま家大工店の得意とするところなんです。ボロボロだったところも修復して使えるようにしています(野島さん)」
「傷んでしまって『こんなの使えるのか?』というようなものでも、新しいものと組み合わせて馴染ませてやったら息を吹き返しますよね。そこが古民家再生のいいところだと思います」
鐘楼
神勝寺で最初のしごとがこの鐘楼。山の頂上にあったものを4トン車で降ろして移築した。
慈正庵
こちらも2014年に移築を担当。
「小さいお堂だけど、当時の職人の技術が詰まっています。手鋸しかない時代によくここまで細かい細工ができたものだと感心しました」
⎯⎯⎯ 最後に大切にしていること、これから大工を志す人へのメッセージをお願いします。
「楽しめる職場・楽しめる仕事 をモットーにしています。どれだけ仕事を楽しめるか。どれだけ木を愛せるか。もうそれだけだと思います。気合や根性でどうこうなる時代ではないです。これからの時代を生き抜いていくためには、大工技術だけではなく人間性や交渉力など様々なことを身につけていかなければならないと考えています。技術だけでは舐められてしまいます。身につけた技術を十二分に活かして生きていって欲しいですね」
今回の取材では、ログキャビン【やまとCHAYA】についての話をメインにしようと予定していましたが、そこまでに至るまでの経緯を聞いていくうちに、確固たる技術と経営手腕に裏打ちされたビジョンこそが、野島さんのつくり出すものを成形しているのだと感じました。「これから先、どれだけ楽しみ、どれだけ木を愛せるか」と未来を語る時の野島さんは一際かっこいい。
株式会社のじま家大工店 野島英史(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
福井県高浜町は、七年に一度「高浜七年祭」が450年以上続いてきた歴史のある町。伊藤和正さんはこの地で、自然素材を使った昔ながらの家づくりを受け継ぎ、貫いている。大工二代目として、地域の担い手として、伝統を重んじながら、新しいアイデアも盛り込む姿を追った。
「そこいらの大工さんとは違うって、有名やったんですよ」と伊藤さんについて語るのは、福井県美浜町・北山建設の北山大志郎社長。北山社長は10年ほど前から福井県内の空き家を再生するプロジェクトを始め、NPO法人ふるさと福井サポートセンターの理事長を務めている。プロジェクトのための勉強会を開くにあたって、伊藤さんに声を掛けた。
北山社長はすぐに、「技術、発想、経験が本当にすばらしい」と伊藤さんに驚くことになった。プロジェクトでは2人をはじめデザイナーなどでチームを組み、敦賀市の空き家をコミュニティスペース再生に取り組んだ。
この家は昭和20年代に、地元の人たちがある医者に「家はみんなで建てるからここで病院をやってほしい」と頼み込み建てられたという、ドラマティックな場所だ。持ち主の事情により手放すことになったが、北山社長は「大切にされてきた歴史があるし、柱など今では考えられないような価値の高いものも使わせている。空き家を有効活用するモデルケースをつくりたい」と当時を振り返る。チームでのミーティングでも「古い雰囲気は残しつつ洗練された感じに」「人が集まって語れる場にしたい」と夢は膨らみ、ビジョンはまとまるものの、具体的にどこをどうリノベーションするかというと見当がつかなくなってしまったという。
そんな時、「ミーティング中は言葉少なかったんだけど、実際に手を動かすとどんどんかっこいい空間を作り上げていったのが、伊藤さんだった。プロに任せるとすごいって、感動した」と北山社長。
2階と1階のキッチン部分は天井に、重厚感ある構造材が見えるようにした。特に2階は、壁と屋根の間にアクリル板を張ることで、梁組を見せつつ暖房効率を上げるようにした。アクリル板は丸鋸の専用チップソーを使うという、伊藤さんにとっても初の試みだった。
室内の部屋の建具も、再利用したものを使った。伊藤さんは「古いものを大切に使いたいというのは自分も同じ。そのために、考えて手を動かしながらの、試行錯誤だった」と話す。一人泊まり込んでの作業にも「いいものを作ろうって集中できた」と苦にしない。
大工工事の経験から、構造がどうなっているかはイメージできる。解体しながら傷み具合をチェックし、魅せられる部分は魅せ、抑えることろは抑えて、バランスをとりながら工事を進めていった。
全体を整えるキモは、「左官工事」と伊藤さんは振り返る。ベテランの職人さんに、古い土壁を一度はがして、新しく漆喰まで塗り直すという作業をやってもらった。「ちりも丁寧に仕上げてもらい、全体の雰囲気がグレードアップした」と職人技のすごみを実感する。
この場所はイベントスペース「朱種~Shushu」としてたくさんの人が訪れるようになったが、「どなたもきれいに使ってくれる。特に若い方のリピーターが多い。建物に整った雰囲気があるからだと思う」と北山社長は喜ぶ。今後は一棟貸しのゲストハウスとしても展開していく予定だ。
伊藤さんも「古い建物ってええなって伝えられる現場になるといい。自分も自信をつけさせてもらった場所なんで」と、思い入れは大きい。
「自信」。伊藤さんがインタビュー中に何度も口にした言葉だ。
高浜町で、手刻みの家づくりをする大工の家に生まれた伊藤さんだが「昔から大工になりたいと思っていたわけでもない。高校出る時に何しよ、うち大工やし、まあ、しよかってなった」という。父親には「外で勉強してこい」と言われ、隣の美浜町の工務店で修業した。厳しいけれど優しい親方と、何もないところから作り上げていく面白さに直面し、「勉強も部活も中途半端やった」青年は、懸命に汗を流した。
しかし、20歳の時に首を怪我し、入院。その後大阪でサラリーマンとして働いたものの、22歳で再び大工を目指し実家に戻ることに。そこには1歳下の弟がすでに大工修行中で、ライバルのように腕を磨いていった。
「弟はガチガチの職人肌でこだわりが強く、時間かけてものをつくる。自分はそこまでせんでもぼちぼちいこってタイプ。やから自信もなかった」という。30代のころにはバブルが終わり、ハウスメーカーが台頭と、時代が変わってきた。家業も昔ながらの家づくりから下請けをするように変わったものの、経営は厳しくなっていく。大工は弟に任せ、自分は別の仕事を探そうと考えた矢先に、弟が事故死した。大きな喪失感だった。
同じ頃、テレビで木の家ネットメンバー・宮内寿和さんの放送があった。「衝撃だった、自分も下請けなんかせんとやりたい仕事をやろう。やっぱり、木の家づくりがしたい」。ふっきれた瞬間だった。宮内さんの講演会をきっかけに木の家ネットメンバーとつながり、現場を行き来した。理想を実現するために模索する姿を目の当たりにすることで、その気持ちは確固たるものになっていった。
立地も後押しした。「福井はありがたいことに、手刻みがいい、和室を作ってという施主さんがいらっしゃった」と伊藤さん。ひとつひとつの家づくりに向き合う姿勢は好評で、口コミで途切れることなく仕事は続いてきた。
空き家再生のプロジェクト「朱種~Shushu」にも結び付き、同じものをいいと思える仲間ができた。彼らは補助金やポケットマネーを活用してでも「古いものを残したい」という姿勢で、伊藤さんを「こういう人たちのための大工技術や。儲けは多くなくても、なんとかやっていければそれでいいやんか」という思いにさせた。
また、このプロジェクトでは、伊藤さんが今まで一緒に仕事したことがないベテランの左官職人さんが現場に入った。「この職人さんがとにかく凄腕」と伊藤さん。仕事の合間に、土、自然、技術のこと、木の家ネットでの話題を、職人さんに聞いてみた。そうしたら『若いのによう勉強しとんな』と態度が変わって、いろいろと教えてもらえるようになった。自分がすごいって思った人に認めてもらえたようで、嬉しかったなあ」と目を細める。そしてそれが、自信になった。
伊藤さんが木の家ネットに入るきっかけであり、先輩大工でもある宮内さんは、「30代は知識を身に着ける段階で、壁にぶつかる。でも、この時の頑張りが次の世代の底力になる。伊藤くんは熱心に勉強していたから、今もいい仕事ができているんやと思う」と話す。伊藤さんをはじめとする今の40代、さらに若手の木の家ネットの職人たちを、「みんな優秀。これから先も職人として生きていけるように俺もできることせな、と刺激をもらっている」と、SNSなど新たな展開に力を入れる。
「木の家はいい。触って仕事していてとにかく気持ちがいいし、職人の気合が入ってる。骨組みがしっかりしているから、壁が崩れたとしても修理すれば長く使える」と言い切る伊藤さんのすがすがしさは、自信に裏打ちされている。
多忙な時期は、昼に打ち合わせや現場仕事をし、真夜中に墨付けすることもある。疲れているはずなのに、不思議と頭は冴え、集中できるという。「一人なのに一人じゃないって感じることもあるんよ。木には命があって、人間よりずっと長生きやからかな」とほほ笑む。
「木の家の良さを、もっとたくさんの人に知ってほしい」と考える伊藤さんは、8年前に構えた事務所を石場建て、木組みで建てた。壁は土壁にして、ベンガラを混ぜ赤くした漆喰を塗っている。ここで打ち合わせをする時に、自然素材の気持ちよさ、時がたつにつれて増す風合いの良さを体感してほしいという気持ちが込められている。
6畳ほどの広さで、壁にフォレストボードを張っているので暖気も逃げない。以前はハロゲンヒーター1つで冬を過ごせたというが、現在は愛猫「アントン」のためにエアコンを導入している。
屋根も片面ずつ5寸勾配と4寸勾配に変え、雨切りや見た目がどう変わるか見てすぐわかるようにした。
室内は瓶にパンと建築材料を入れて経年変化を見るなど、実験的な場所にもなっている。木と漆喰を入れたものと、一般的な建築材料をいれたもの。カビの生え方で、空間の違いが一目でわかる。
この事務所は、先代である父親の建てた作業場が老朽化し、移設したことををきっかけに新築した。その父親も1年前に引退し、現在は社員1人との2人体制。その社員も妹の夫で元土建業をしていたという関係だ。
工務店のかたちも、35歳で事業継承し42歳で法人化と、変化してきた。法人化して7期目となり、設計、大工業は伊藤さんが引き続き担うが、経理は外注するようになった。最近は新築や大改修を行うときは、モデレーターに頼んでBIMのモデリングも取り入れている。
「本当は『自分がもう一人いれば』って思うくらい、何でも自分でやりたい」という伊藤さんだが、プロにはプロのやり方があることを知り、任せるところは任せるよう方向転換した。
柔軟にかたちを変えていくのは、いい仕事を遺すため。弟亡き後も大工を続けていると、施主さんたちに「ここは弟さんがやってくれたんやね」「大切に使わなね」と言われることがあった。作った大工は死んでも、家は遺る。中途半端な仕事はできない。
長く残っていく家はやはり、昔ながらの手刻み、木組みの家だ。最近力を入れている改修工事も、昔の大工が手間と時間をかけて建てたからこそ次の世代へをつなげていける。経験から「利益に走ると、仕事が雑になる」という実感もある。
木を丁寧に扱う伊藤さんの手は、仲間や職人とつながりながら、未来にのこる家づくりを手掛けていく。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子、一部写真提供:伊藤和正
ご家族の死、ご自身の怪我など、胸にしまっておきたいようなお話も語ってくれた伊藤さんには、感謝が尽きません。「やりたい仕事をやる」。現在、実現できていることを心から嬉しく思いましたし、応援しあう木の家ネットのつながりに感動もしました。このような家づくりが未来に残せるよう、ライターとしても気が引き締まりました。
高知県南国市で手刻みにこだわりながらも、伝統建築にとどまらず様々な仕事を手がけている 《松匠建築》の代表 小松 匠(こまつたくみ)さんをご紹介します。
小松 匠(こまつたくみ・44歳)さん プロフィール
1976年高知県生まれ。高知県内の高校を卒業後、(財)木材研究所土佐人材養成センターに入所、大工技術の基礎を学ぶ。卒業後は個人工務店で数年間の修行を経て30歳で独立。松匠建築として走り続けて今年で15年になる。
⎯⎯⎯ まずは大工を志そうと思ったきっかけを聞かせてください。
「高校生の時に、建築の板金屋さんでアルバイトをしていて、その現場で大工さんの働きぶりに惚れ込んで「カッコええなー」と思って憧れを抱いたのがはじまりですね」
⎯⎯⎯ お名前が「匠」ですが、親御さんも大工なんですか?
「よく言われるんですが、大工ではなかったんです。弟子の時は『名前負けや』とか言われて辛かったんですが、独立してやるようになってからは、いい名前を付けてもらったなと思えるようになりました」
大工として働き出された1990年代といえば、ちょうどプレカットが急速に台頭してきた時代。職人による《墨付け》や《刻み》などの手加工も、まだしっかりと残っており、木の捻じれや方向を見る《目》を養うようにしっかりと教え込まれたそうだ。
「そういう意味ではギリギリいい時代に弟子として学ばせて頂いたと感じています。プレカットは手仕事という、大工として一番重要な仕事を下請けにまわしてしまっている感覚があります。自信を持って大工の仕事をするなら自分で墨付けて加工するのが当然ですし、醍醐味だと思います」
⎯⎯⎯ 今、お弟子さんや一緒に動いている職人さんはいらっしゃいますか?
「一つ下の職人さんが一人来てくれています。同年代の職人さんたちに恵まれていると思います。若い頃は年配の職人さんのもとで下積みしていましたが、独立してからは同年代ばっかりですね。「この仲間たちと一緒に歳とって行くんだろうな」と感じています。みんな信念をもって仕事していていい刺激になっています」
「若い子に関しては、うちにも過去には何人か居たんですが辞めてしまいました。人を育てるのは本当に難しいです。『とにかく堪えてやれ』と教えるのがいいのか。『いろんなことやってみたらええ』と言って送り出すのがいいのか。自分の頃とは時代も違いますし、どっちが正解かは分かりませんけど、自分が教えてもらったことはしっかりと教えていきたいです」
⎯⎯⎯ それではご自身が教わったことで大切にしていることはありますか?
「先ほどの話にあった手加工のことや《目を養う》ことなどの技術的なことはもちろんですが、お客さんとの接し方、人と人との付き合いについて多くを学びました。お施主様としっかり話し合って納得できる家づくりを心がけています」
⎯⎯⎯⎯ 松匠建築を14年間続けて来られて様々なことがあったと思いますが、一番の転機について聞かせてください。
「2008年に行われた伝統構法木造住宅の実大振動実験(実験の様子はこちら)に参加させてもらいました。あの実験を目の当たりにして完全に頭が切り替わりましたね。全国から職人さんや設計士さんがたくさん集まって伝統的な木造建築に情熱を燃やしている。その姿に触発されて木の家ネットに入会することを決めたんです。もしあの実験に参加していなかったら今は惰性で仕事をしていたかもしれません。現実にはボードを貼ったりする仕事もやっていますが、いざ伝統的な木造建築を依頼された時にはすぐに動ける心づもりでいます」
「木の家ネット会員のみなさんの建てられている家を見てすごいなと思うのは、伝統的な建物であることにとどまらず、謂わば温故知新でちゃんと自分のエッセンスを加えているところなんですよ。古いけど新しい。僕もそういう家づくりを目指しています」
「その考え方は今も昔もこれからも同じだと思います。古い家の改修を手がける際には、何十年も前の職人技に直接触れることになります。そうすると当時の大工さんもいろいろ知恵を絞って、その時々で温故知新で自分らしい仕事をしていたことがよく分かります。ということは今、僕が直したものも何十年か後に後世の大工に見られるかもしれない。そう考えると手を抜けませんし、モチベーションも上がります。素敵な職業だと思います」
案内された作業場は買って約3年。建物付きの土地で数十万円。ちょうど探していた条件にぴったりだったので即決したという。まさに《捨てる神あれば拾う神あり》だ。
「木の家ネットの会員の皆さん当然のように作業場を持ってらっしゃいますよね。僕も独立したら作業場を持つのが当たり前だと思っていましたが、既製品の世の中で墨付けが必要なくなくなって来ているので、木の家ネットに入会していなかったら作業場を構えようと思わなかったかもしれないです」
「手仕事をやっていない人(やめた人)からは『なんで今さら?」という感じで不思議がられましたが、やっている人からは『頑張れ!』と背中を押してもらいました」
作業場でスケボーのハーフパイプを作っていることにも驚いたが、この日案内してもらう建物が「ウエスタン」であると聞いてさらに驚いた。木の家ネットでは後にも先にもお目にかかれないかもしれない。
訪れたのは南国市にある《レザークラフト WHOL(フール)》。6年前に完成したお店だ。
小松さんと同い年で20年来の付き合いという岡林さんが、ご夫婦で経営されているお店でオリジナルレザーアイテムを1点1点ハンドメイドで製作している。また岡林さんが直接買い付けて来た、こだわりのウエスタンギアやネイティブアメリカンクラフトも所狭しと並んでいる。小松さん自身もバイク仲間とよく訪れるとのことだ。
内装の板張りの塗装は全て岡林さんご夫婦とお客さんがされたそうだ。お二人に完成当時の様子を振り返ってもらった。
岡林さん(以下 岡林) 一生に何度も経験できるようなことではないので、とてもいい経験になりました。いろんな職人さんが来られるので、間近で職人技に触れられてすごく楽しかったです。予算のない中でイメージ通りに作っていただいて大満足です。
小松さん(以下:小松) ウエスタンで建ててくれと言われたことは後にも先にも他にないので面白かったです。
岡林 いろんな工務店さんに聞いたんですけど、予算が厳しかったのと、どうしても西海岸風になってしまうんでですよね。
小松 僕も、自分の知り得るウエスタンのイメージで提案したんですけど『これねぇウエスタンなんですけど、ちょっと西海岸に近い方ですね』と言われて『えぇ~!違うの!?』と驚きました。そこから色々勉強して作り上げていきました。面白かったです。またこんなのやりたいです。
岡林 やっぱり木は味も出てきますしいいですよね。僕のやっているレザークラフトも、分野は違えど古くからある素材と技術で造るものです。木も革も不自由なんですよね。不自由の中で創り上げてゆくところに惹かれるのかも知れません。
岡林 柱の面取りだったり床の金物だったり、細かい部分まで小松さんにアイデアと職人技が光っています。
小松 隠しきれないセンスです(笑)
岡林 冗談抜きで本当にそうです!
小松 いろんなレザークラフトを見ますけど、カーヴィングは岡林くんのが1番いい。
岡林 いえいえ、まだまだです。あと10年やったもう少し上手くなるんじゃないかなと思います。僕の尊敬する職人さんは70歳でまだゴリゴリ彫ってます。下絵すら描かないんですよ。
小松 へ~!そうじゃないとあかんね。
岡林 今のうちに技術を蓄えとおかないとね。
20年来の付き合いということで阿吽の呼吸で会話が繰り広げられる。《同年代の人たちに恵まれている》という言葉だけでは片付けられない、少しずつ積み上げて来た信頼関係がそこにある。
大工とレザー。日本とアメリカ。得意とする分野はそれぞれ違うが、尊敬し合う二人の化学反応があったからこそ、この素敵なWHOLというお店が誕生したのだ。
次にもう一軒、思い入れのある住宅を案内していただいた。
こちらも同じく南国市内にあるE様邸。完成2014年。渡り顎構法の伝統的な木組みの日本建築でありながら小松さんのエッセンスが散りばめられている。構造材はお施主さんのこだわりで、すべて桧を使用している。
⎯⎯⎯ 高知の森林率は日本一の84%と聞きました。やはり小松さんも県内産の材木をよく使ってらっしゃるのですか?
そうなんです。日本一森林県なのに外国の木を使っている場合じゃないでしょう。山に行けば昔植林された杉や檜が、いい木に育っているんです。でも切って山から降ろしても二束三文にしかならないので活用されていないんですよね。高知は森林県なのに活かし切れていないのが現実です。少なくとも自分は土佐の大工として土佐の木を使って行きたいです。
⎯⎯⎯ 高知といえば真っ青な仁淀ブルーの仁淀川をイメージする人も多いですよね。
そうですね。仁淀川のあたりはやはり山自体の手入れが行き届いているからこそ川もキレイなんです。他の山に行くとそんなところばかりではないので、やはり川も濁っています。林業は高知のこれからの課題です。
⎯⎯⎯ 高知の現状とこれからの課題について伺いましたが、小松さんご自身のこれからのビジョンを教えてください。
今、高知は石場立ての家が全然建てられていないので、どうにか建てられるようにしていきたいです。土佐漆喰や水切り瓦など、土佐の気候風土に合った伝統建築の良さがあるんですが、古き良きものを大事にするという文化があまりないのかも知れません。プレカットやハウスメーカーの家づくりに流れてしまった人手をどうにか、手で墨付けをして手で加工するというの職人技の家づくりに呼び戻したいという想いがあります。
⎯⎯⎯ 具体的にどういうことをされているんですか?
何か団結して大きいアクションを起こすというわけではありませんが、できることをコツコツ続けています。中でも土佐漆喰は本当に素晴らしい素材なので、使える時は必ず使うようにしています。塗れる左官さんも年々減っているので少しでも貢献したいですね。もちろん材木も高知の木をふんだんに使って行きたいです。
確かな職人技と確固たる信念で大工を続ける小松さん。しかし、その手から創り出されるのは伝統的な木造住宅からウエスタンの店舗やスケボーのランプなど、実に幅が広い。まさに《温故知新》を地で行く彼の手から次に生まれるものは、いったいどんなものだろう。
松匠建築 小松 匠(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
職人が受けて、職人が完成させる。それもいち職人でなく、会社として。工務店とも設計事務所とも違う独自のスタイルで木の家づくりをしている鯰組(なまずぐみ)は、代表で大工の岸本耕さんが立ち上げて12年になる。設計から施工までトータルで請け負える強みは、さまざまな職業が生まれては消える東京で、唯一無二の光を放っている。プロフェッショナル集団を率いる岸本さんは、ひとりひとりの職人に「それぞれのよさを生かしてほしい」とあたたかいまなざしを向ける。その姿勢は建物や材料にも向けられ、居心地のいい空間を生み出し続けている。
「鯰組」のウェブページ。かわいらしい黒い鯰のイラストが泳ぐページの右上に、「大工とは?」という問いがある。
クリックすると出てきた答え。
・大工とは、目利きの職人。
・大工とは、考える職人。
・大工とは、描く職人。
・大工とは、組む職人。
・大工とは、仕上げる職人。
・大工とは、設計士、庭師、職人をまとめる棟梁です。
そして、「私たちは、日本の大工です。」と締めくくる。
岸本さんは、自身の肩書を「大工または棟梁」とこだわり、「建築家」とは言わない。「鯰組」も6人が所属する会社組織だが、社員とは呼ばず「職人」「大工」にこだわる。「大工は、設計から工程管理、材料など家づくりのすべてがわかっていて、施主さんとコミュニケーションを深めながら決めていく存在」という、昔から続く感覚を大切にし、誇りを持っているからだ。
そして、その職人が個人でなく、集団として働くことで「施主さんの期待以上の仕事、職人もやりがいのある仕事ができる」と考えている。
職人集団「鯰組」はどんな体制なのか。現在の社員は6人で、ほとんどが20~30代で、1人たたき上げの60代の大工職人がいる。
社員は2人ずつ①設計兼、現場監督②大工兼、現場監督③大工と大工、の組み合わせで3チームに分かれ、チームごとにプロジェクトを進めていく。物件によって期間や難易度がさまざまなので、1件をじっくり進める時もあれば、何件か同時進行することもあるというという。それぞれの業務に集中できるよう、施主さんとの打ち合わせをはじめこまごましたことは岸本さんが一手に担う、という役割分担だ。
各チームは先輩と若手という組み合わせで、若手は先輩から仕事の進め方を習う。「若手は、まずはひとつのやり方をきちっと身に着けることが大事。いろいろ手を出したり、他のやり方を見ると時間ばかりかかってしまうのでやらせない」というのが、鯰組流のスタイルだ。ひとつのやり方が身につくと、その応用で別の仕事もこなせるし、つまづいた時の解決方法も見つけやすいのだという。そのやり方については、鯰組として確立したものがあるわけでなく、それぞれの先輩に任せている。
このような体制になったのは5、6年前のこと。
鯰組の設立時は岸本さんひとりで、プロジェクㇳの数が増えたり規模が大きくなるごとに、少しずつ仲間を増やしていった。
会社設立前の岸本さんは、千葉の工務店「眞木工作所」で修行した。そこの棟梁・田中文男さんに師事したいという思いで門をたたいたのだった。
岸本さんは「建築を勉強したい」と大学の建築学部に入学したものの、設計だけを学ぶことに物足りなさを感じていた。そんな時、偶然知ったフランスの建築家ジャン・プルーヴェに魅了された。鉄工所育ちの職人で、金属でなんでも作ってしまうアイデアとバイタリティ。「建築家のオフィスの所在地が部材製造工場以外の場所にあることは考えられない」という哲学。この出会いが、岸本さんを「設計だけでなく実際にものを作り出す施工までやりたい、大工になりたい」と突き動かした。
雑誌『住宅建築』で「民家型工法」を紹介していた田中文男棟梁を「日本のジャン・プルーヴェだ」とほれ込み、眞木工作所でアルバイトを始めた。卒業後に弟子入りし、10人ほどの職人にもまれながらの日々。
「最初は何もできず怒られてばかりで、同じような若い職人同士で酒飲むのが心の支えだった。経験積んでできるようになると、少しずつ怒られる回数が減っていった」と振り返る。同時に、木造建築にどっぷりと触れ、その力強さや、シンプルで合理的なつくりなどの魅力を存分に味わった。
3年経った頃、大学時代の友人が古民家の改修・移築を依頼してきた。当時築80年の古民家で、ケヤキ材が多く使われていた。「この仕事、自分がやりたい」と強く惹かれ、独立へとつながった。
とはいえ工場もなしに独立した岸本さんは、移築先の現場に仮設テントを張って作業するという綱渡りのような工期を過ごした。設計から工事、施工監理まで幅広い業務を一人でこなしたが、慣れない作業もあり時間もかかった。工事中は無我夢中で、愛着と達成感はひとしお。けれど、終わってみたら次の仕事の段取りは全くできていない、という恐ろしい状態だった。「結局、眞木工作所に出戻りし、5年程お世話になりました」と振り返る。
「設計から施工までやりたい」と大工の道に進み、独立して走り続けてきた岸本さん。仕事の進め方を模索する中で、ひとりでは1、2年かかってしまう仕事も、チームなら半年で終わらせられることや、得意分野を得意な職人に任せることで効率よく仕事を勧められることがわかってきた。
また、細かい造作が得意な職人もいれば、おおらかな屋根をつくれる職人もいる。「こういう職人がいい、という理想に自分を近づけるのではなく、自分なりの職人になればいい」と考えるようになり、若手にもそれを望んでいる。
「僕は、若手の得意分野を伸ばせるような仕事を取ってこようって本気で思ってますよ」と笑う。
自身の性格についても「手を動かしてものをつくるのは大好きなんだけど、集中しすぎて他に手が回らなくなる」と冷静に分析。現場作業の第一線からは退いている。ただ、昔から好きだというスケッチは、施主さんの要望を表現したり、細かいおさまりを説明する時に描いている。
岸本さんは、いち職人として設計から施工までできなくとも、「鯰組」として請け負えればいい仕事はできる、と思えるようになった。
いい仕事とは、施主さんが思い描いた以上の空間をつくること、そして、職人もやりがいを得られること。
職人集団だからと言って職人のひとりよがりにはならず、施主さんの喜びを意識すること。そこには、建物の完成度だけでなく、工期や予算、打ち合わせから工事中の職人の態度も関わってくる。加えて、ただ施主さんの希望通りのものをつくるだけではなく、使う材料の個性を活かしたり、古い建具を再利用したりといったアイデアも不可欠だという。
職人のやりがいには「ほかの人にはできない」という満足感が必要だという。精巧な細工、美しいおさまり・・・これらの技術を高めていくのは一朝一夕では難しい。鯰組はプレカットなど現代の技術をうまく取り入れることも必要だと考えている。その分の時間を手仕事にあてることは、技術の継承にもつながっている。
いずれの場合も重要なのは、施主さん、材料や物件、そして職人をよく見て、よさを見出し、引き出す姿勢だ。現場の数や種類が多いほうがよく、集団であることで多数の仕事を受けられる今の体制が生きてくる。
そもそも、木造建築は「昔は一般的だったかもしれないが、今の東京ではマニアックになりつつある分野」と岸本さん。「できあがっているものを組み立てる工業製品と違って、木で形を削り出す自由度はすごい。どんな空間にもなじむし、温かみがあるのもいい」と魅力を語る。
今までは東京と言う場所柄か、数寄屋建築や茶室や料亭などの仕事が多かったという。
鯰組には職人ではないが広報担当の社員がいた時期もあり、イベント企画やカフェ運営(現在は閉店)もしていた。雑誌などにも取り上げられると問い合わせは増えるが、実際に契約まで至るのは大半が施主さんによる紹介という状況だ。
最近は古民家にも縁ができ、勉強を始めたところだという。「まずは健全な状態に戻すこと。それから、せっかく残すならよさを生かさないと意味ない」と、丁寧に見やる姿勢をさらに正す。
思い起こせば、独立のきっかけも古民家の改修だった。その時に打ち合わせを重ねた場所・埼玉県吉川市の特産が鯰だったことから、社名に鯰を取り入れたという。ちなみに、独立時の会社名は「吉川の鯰」とストレートだ。
「初心を忘れるべからず」を胸に刻みながらも、時代に合わせて、会社の体制に合わせてしなやかに変化してきた岸本さん。会社をつくるのは職人。職人の経験や技術・アイデアを信じ、職人を真ん中にした家づくりをしていきたいと前を見据える。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真提供:鯰組
ひとつ、質問を投げかけるたびに「こういう場合もあるし、こういう視点もある」と複数の答えをくださるのが印象的だった岸本さん。常日頃から、いろいろな角度からものごとをとらえていることが伝わってきた。「わかってくれる」あるいは「わかろうとしてくれる」という安心感は、施主さんや職人への信頼につながっていることが伺える。
コンクリートジャングル・東京で、鯰組の手がけた木のぬくもりはきっと美しく映えている。今回はオンライン取材で実際に見ることが叶わず悔しいが、岸本さんのように別の角度から「次回訪れるまで楽しみをとっておこう」と考えることにしよう。
大阪市内で「人の手と心で造りこむ、温かい美しい木の家」をモットーに【有限会社 羽根建築工房】を営む羽根信一さん(はねのぶかず・66)をご紹介します。
羽根さんは三重県熊野市出身。小学生の頃から将来の夢の作文には「大工さんになりたい」と書いていたそうだ。「何が理由かは自分でもわからないんですが(笑)」と羽根さん。18歳で奈良で大工として弟子入りし入母屋造(いりもやづくり)の住宅をメインに手がけられていたそうだ。その後、20代半ばからは大阪の工務店へ。大工・現場監督そして取締役を勤め44歳で独立。そして【羽根建築工房(以下はねけん)】を立ち上げ今年で22年になる。
まずは、羽根さん自身の経歴や、職人さん・お客さんとの関わりなど、人間関係について話していただいた。
⎯⎯⎯⎯羽根さんご自身の現在のお仕事について伺います。設計から大工仕事まで手がけられているのですか?
「私自身は設計はしないんですが、現場監督が自分も含めて4名(内、設計もできるスタッフが2名)いますので、いつも4人でコンペをしています。みんなで設計しているという感覚ですね。独立前から付き合いのある設計士さんからの仕事も多いです」
「大工に関しては今は自分で刻むことはほぼなくなりました。手を出したら怒られます(笑)。というのも若い子の成長を重視しているからなんです。今の自分の仕事は「若い職人達が自分で考えながら活躍できる場をつくる」ことです。今はそこに集中しています」
⎯⎯⎯⎯具体的には若い職人さん達を育てるためにどのような取り組みされているのですか?
「若い子たちに対して気をつけていることは各々のレベルに応じて《活躍できる場》《自分で考える場》《手刻みの場》をつくってあげるという取り組みをしています」
「木の家を作り上げるためには、やはりイチから学ばなければならないと思うんです。いきなりプレカットのように中途から造作仕事に入るとかでは、全体の流れがわからない。イチから現場で経験してこそ一人前の大工になれると思っています。そのためにも100%手加工を貫いています」
「それから、住宅ばかりだけでなくイベントや展覧会などの施工などに、若い子たちを参加させるようにしています。普段と違うことが多いのでメリハリが出て楽しんでやっていますね。ちょうど今、神戸県立美術館で開催中の特別展「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」に展示されている中村好文氏設計の小屋 《shell house》の施工を担当しています (建築知識ビルダーズ42に詳細掲載 東京をはじめ他の巡回展も担当)。そういう現場でも図面通り行かないことは多々あるので、彼らの勉強にもなるし面白い部分だと思います」
⎯⎯⎯⎯次にお客さんとの関わりではどんなことを大事にされていますか?
「つくり方に対する熱い心を訴え、お互いに共有できる関係を目指しています。それと関西なので必ず負けてって言われますね(笑)『関西人やし一応言っとくわ〜』と言う感じで。それはコミュニケーションがうまく取れている証だと思っています。お互いが言いたいことを言えて、聞き入れる姿勢を持ち、できないこと・ダメなことにはきちんとNOと言える関係を築くことが大事だと思います」
「僕は建築家の言うことにもNOと言います(笑)。そうやって関わる人みんなが本当に打ち解けられる雰囲気作りを現場が始まる前にしておけば、工事中も建てた後も気持ちよくスムーズな動きができますよね」
⎯⎯⎯⎯⎯他に人の繋がりを考えて実践していることはありますか?
「はねけんでは毎年夏休みに合わせ「羽根建祭り」というイベントを二日間に渡って開催しています。『土と木に触れてもらいたい』という想いで始めたもので、家づくりや暮らしにまつわる様々な体験ができる催しです。地域の子供たち・はねけんのお客さん、さらにその友人やHPで知った人などいろんな人が、毎年約200名くらい来てくれます。毎年賑わっていて私自身も楽しみにしていたんですが、今年は残念ながらコロナで中止になりました。次に開催する際には、大人も子供もみんな一緒に『観る・触る・動かす・考える・聞く』古くて新しい感動や発見ができる場になれば良いなと考えています」
羽根さんは、コミュニケーションの重要性を考え、職人・設計士・お客さんに至るまで、家づくりに関わる人達と一貫して気持ちの良いやりとりをできるように心がけているのだ。
次に、はねけんの家づくりの思想や特徴について詳しく聞いた。
⎯⎯⎯⎯いわゆる「伝統的な木の家」というだけではない新旧・和洋が調和した素敵な木の家を多く建てられていますね。
「いろんなお客さんがいらっしゃいますから、伝統的な方向にグッと入り込んだ家づくりはなかなか手掛けられないんですが、大工仕事自体は木の家ネット会員のみなさんと同じ、伝統的な技術・方法でつくっています」
それから木に関して言えば、吉野杉を使う機会が多いです。木の家ネット会員の中西豊さん(株式会社 ウッドベース)にいつもお願いしていますし、徳島の和田善行さん(TSウッドハウス)にもとてもお世話になっています。実は和田さんの息子さんがうちで現場監督として働いてくれているんですよ」
ここでもご縁やコミュニケーションを大事にされていることがうかがえる。
⎯⎯⎯⎯はねけんのホームページには、家を建てていく上でのこだわりや思想、重要視するポイントなどのコンテンツがとても充実していますね。見ているだけでも楽しいですし、これから家づくりをしたい方にとっても重要な資料になっていると思います。特に特徴的な強みはどこでしょうか?
「構造を重視して100%手加工。さらに温熱的な考え方をもって建てるのがはねけんの基本です。中でも《羽根建壁(はねけんかべ)》が特徴的ですね。従来の竹小舞のように竹を編み込んでゆく代わりに、竹を貼って土を塗って仕上げます。竹小舞の土壁のように構造材にはなりませんが、現代の家づくりにも順応する土壁となり、施工性を上げながら土が元来から持つ調湿性・保湿性・防火性能を得ることができます。主に人が一番無防備になる寝室に多く採用しています」
「土壁に憧れるお客さんがやっぱり今でもいらっしゃいます。みなさん、土の持つ健康面のメリットに魅力を感じられているようです。コロナ禍において自宅で過ごす時間が増えているので、室内はより安全で快適な空間にしたいですよね」
「他には、使う材木にも特徴があります。伝統的な木の家を建てる場合の梁とか柱には結構太い木を使うと思うのですが、はねけんでは小径木の《磨き丸太》を積極的に使っています。えくぼがあったり節があったりして規格品にならないものを活用しています。アントニン・レーモンドの建築が大好きで、丸太を使うのもレーモンドの影響を受けている部分です」
⎯⎯⎯⎯温熱環境についての話も教えてください。
「生活の場として家を考えた時に【ストレスを感じない家づくり】というのが一番だと考えています。それを実現する上で一番大事なのは構造(『地震で倒れないか心配』というストレスを感じないことなど)。その次に大事なのが温熱環境(極端な暑い・寒いというストレスを感じないことなど)なんじゃないかなと思っています。いわゆるパッシブデザインの考え方ですね。自然の光・熱・風を効率的に取り入れて、夏に涼しく冬に暖かい快適な家を作ろうと思想です」
⎯⎯⎯⎯空気集熱式ソーラーシステム※なども使われるんですか?
(※:暖房・涼風・換気・循環・給湯・発電の機能を備えたソーラーシステムのこと)
「一時は使っていたのですが、そういった装置に頼ってしまうと、どうしても装置が利くかどうかと言う話で終わってしまいます。今は、構造・素材・プランなどをいろいろと試行錯誤していくことで、装置がなくても、自然のことだけを考え、昔の日本の生活様式を発展させていく形で、快適な温熱環境を整えることができるようになってきました」
「温熱の勉強は奥が深く、独学でやっていても限界があります。【Forward to 1985 energy life】という、家庭でのエネルギー消費量を賢く減らして、現在の約半分、ちょうど1985年当時のレベルにしようという取組をしている団体に所属し、みんなで学んでいるところです。木の家ネットが木の家に熱い情熱を捧げているのと同じように、彼らも温熱に対して熱い情熱を持っています」
ここまで話していただいた【職人さんの話】【壁や丸太など素材の話】【温熱環境の話】などを組み合わせながら、理想的な住まいをつくる方法を、羽根さんは考案している。
それが【HANE-ken standard】と言う住宅設計の思想だ。【HANE-ken standard】の家はどれも「本当に大切なものだけを備えれば、それは豊かな住まいになる」というコンセプトのもと、こだわりをもって建てられている。
「一般の人のための住宅を、より住みやすくよりストレスのないものにしていきたいなと考えています」と話す羽根さん。完成した家々にはその思いがギュッと詰め込まれている。
羽根さんの家作りに対する情熱は、全国の仲間と共に波及しはじめている。
「名前はまだ無いんですが【手刻み同好会】というものを、全国の仲間10何社かで立ち上げています。手刻みをしたことのない工務店も多いので、そういう人たちに向けた勉強の場を作りたかったのが始まりです。そこから発展し、最近では『小屋を作ろう』という企画を実施しています。小さな小屋にパッシブデザインの設計思想・大工の優れた手加工の技術、自然の素材などの粋を集めることで、日本の伝統建築の良いところを、広く発信していけたら良いなと思っています」
「日本の家づくりの中で忘れられようとしている、【ものづくりの精神】をここから日本中に、そして世界に発信していこうという試みです」
⎯⎯⎯⎯画面越しですが、すごい熱量を感じます(笑)。最後に一つ質問です。羽根さんにとって家づくりとは何でしょうか?
「家づくりは結局【ものづくり】だと思います。ものづくりは『一を聞いて十を知る』というような単純なことで成し得るものではなく、一から順番に全ての過程を熟知しておかなければなりません。自分の仕事に集中する一方で周りも見渡し、いろんな角度や立場から状況を見る姿勢が大事ですね。お互いに把握し理解しあってこそ【良いもの】をつくり上げることができると考えています」
「日本の家づくりの中で忘れられようとしている、【ものづくりの精神】をここから日本中に、そして世界に発信していこうという試みです」
広く浅くでもなく、狭く深くでもなく、広く深く探究し、常に学び体現し続けている羽根さんの【家づくり/ものづくり】に対する情熱は、日本中に広がってゆくことだろう。
羽根建築工房 羽根 信一 さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
埼玉県ときがわ町・久道(ひさみち)工務店の久道利光さんは、「かっこいい木の家をつくりたい」という一心を胸に、厳しい姿勢で大工業に向き合ってきた。修行時代は新建材を使っていたものの独立後に独学で伝統構法を身に着け、現在64歳ながら大工歴は50年にせまる。久道工務店のテーマ「時の流れで、良くなっていく」のごとく、作り出した家も大工技術も、時を重ねて深みを増していく。
「久道さんへの取材は、新型コロナウイルス感染拡大の影響により電話となった。zoomなどオンラインの手段は「悪いけどよくわからないんよ、しゃべるのも苦手」と言いつつも、こちらの質問に時間をかけて応えてくれた。物腰は丁寧で、声ははきはきと明るかった。
久道さんは中学卒業後、15歳で大工の道へ。生まれは宮城県仙台市で、13歳の時に親が他界し、叔母を頼って埼玉県に引っ越した。「卒業後、住み込みで働けるところということで、大工を勧められた。本当はなりたくなかったけど、これが自分の運命だったんだろうな」と振り返る。修行先は、川越市の小山工務店。川越は東京のベッドタウンとして開発が進んでいたエリアで、修行を始めた。
最初の3、4年は、仕事の3分の1は基礎工事や丸太の足場掛け、ブロック積みなど大工仕事以前の仕事をこなした。「休みはないし給料は安いし、いやでいやでしょうがなかった」というが、少しずつ大工仕事を覚え、ものがかたちになっていく快感を味わうと、のめり込んでいった。
修行時代は新建材が普及し始めたころと重なり、洋室の床や壁は合板を使うことが多かった。しかし、建築関係の雑誌を読むと、不思議と木造建築に惹かれた。特に好きだったのはログハウス。「太い丸太を組むだけっていうシンプルな感じがかっこよかった」と話し、雑誌『WoodyLife』(山と渓谷社発刊の季刊誌)に夢中になった。一方で、外国の建物だからと、どこか遠い存在でもあった。さらに20代後半になると『住宅建築』(建築資料研究社)を読み始め、高橋修一さんや安藤邦廣さんに憧れた。
憧れの木の家が、身近になったのは30歳ごろ。修行を続ける中で、木の家ネットメンバーの高橋俊和さんの設計した伝統構法の家を見学に行った。木をシンプルに組んだ美しいたたずまいに「こういうふうに作れるんだ!やってみたい!と感動したよ」と久道さん。
その後、高橋さんの物件など伝統構法の建て方を応援に行くことで、そのノウハウを身に着けていった。特定の親方について教えてもらったわけでもなく、独学ということになるが「大工だから、目で見てりゃーだいたいのやりかたはわかる」と笑い飛ばす。軽く話すが、勘の鋭さと並々ならぬ努力が垣間見える。
久道さんの頭の中には、大壁、大屋根のシンプルな木の家というかっこいい姿が描かれている。修行で磨いた腕と、その時に得た経験の応用で、その姿を現実に落とし込むことができるのだ。
そして、34歳で独立。その時、3つの目標を立てた。
・かっこいい木の家を建てる
・紹介だけで仕事ができるようになる
・施主さんに、できるだけ安く建てる
独立して約30年。これらの目標は叶ったかと尋ねると、「ありがたいことに、だいたいかなえられてきた」と声が弾んだ。「ずっと忙しく仕事があったから、看板も作っていないんだよね」と打ち明ける。
久道さんは住宅物件を中心に新築7割、リフォーム3割の割合で仕事をしている。3年先まで仕事が決まっていることもあったほどの人気ぶりだ。特徴的なのは、親子2代で注文が入るということ。棟数は15,6軒、請け負った新築物件の半数以上を占める。
施主さんの一人・藤田哲雄さんも、久道さんの仕事ぶりにほれ込み、弟の家も、さらに息子の家も、久道工務店に任せた。久道さんを「とにかくもう、誠実」と断言する。
藤田さんの家は18年前に建てた木造2階建てで、ヒノキの木組みが「しっかりとしたつくりの家で、安心感がある」と実感する。
1階南面の窓は、1間半がひとつ、1間が3つととても広くとってあり「夏は風が入るので涼しく、冬も日差しが差し込み寒くなりすぎないので、暮らしていて自然の中にいるみたいで気持ちいい。空間に余裕があるから、心にも余裕ができて、大満足」とほれ込む。
独立してから、久道さんはときがわ町に土地を購入。木の家を好きになったきっかけであるログハウスから、次第に里山の風景や登山を好むようになり、場所を探した。そして、それまで縁がなかったときがわ町に飛び込んだ。
そこに、木組み・土壁の伝統工法で自宅を建てた。片流れのシンプルな外観で、吉村順三さんの小さな森のイメージで設計。たっぷりとった床下には材料が置けるようになっている。
とにかく開口部が大きく、自然の風が吹き抜けて季節を感じさせてくれる、気持ちの良い空間だ。
施主さんにとって、モデルルームのような役割も果たしている。伝統工法の仕組みや、自然素材の触感は、口で説明するよりも五感で感じるほうが何十倍も伝わるという。生活感もあり、実際に暮らした時の雰囲気もイメージしやすい。
作業場は、木にちょうどいい湿気具合の場所を探し、隣接する毛呂山町の200坪の土地を借りて建てた。こつこつと道具や機械をそろえてきた。
年月を経て、施主さんの要望も変化してきた。以前は「大工さんにおまかせ」が多かったということで、久道さんが信念とするかっこいい家=伝統構法が生み出すシンプルな空間を提案できた。近年は、施主さんが予算や納期をはっきりと提示するようになってきたという。合わせて、プレカットを取り入れたり、化粧張り梁など見せ場だけ伝統工法にしたりするやり方を模索してきた。
一方で、食器棚やげた箱など作り付けの家具には、広葉樹の無垢の一枚板を使うというこだわりは外せない。スギやヒノキのほうが安く抑えられ、何度か使ったことはあるものの、「なんかかっこよくはならないんだよな」と一刀両断。かっこいい家をつくるためなら妥協はしない。
材料は地元の材木屋でまとめて購入することで価格を抑えている。倉庫で天然乾燥させておいているが、家で言えば5、6軒分はあるというから驚きだ。
目標の3つめ「施主さんにとって安い家をつくる」と、1つめ「かっこいい木の家をつくる」との両立は、決して簡単ではない。自分で考えてアイデアをひねる、頼りになる同業者に聞く、施主さんとよく相談する、書物を読みあさる・・・あらゆる手段でもがきながらも、追求し続けている。
そんな久道さん。「最近はほめて育てるっていうけど、俺にはできない。本当は褒めたいときもあるさ。けど、俺は仕事は厳しいもの、厳しくないといけない、って思っている」と打ち明けてくれた。
修行時代は、親方も兄弟子も「見て盗め」というスタンス。何もわからず飛び込んだ職人の世界は、やりがいはあれど、厳しかった。
それでも、「腕が上がれば家の仕上がりは確実に良くなる。これまで建てたことない家、作ったことない家具も、経験から『こうすればできる』って思えるし、実際にできる」と、厳しさが自分を強くしてくれたことを実感している。「だから、ついつい弟子にも厳しくしてしまう。申し訳ないと反省することもある」と、親方としてももがく日々だ。
これまで 20人以上の弟子に修行をつけたが、年季明けせずに去ってしまった場合が大半だという。その中の3人は自分で工務店を立ち上げ、忙しく仕事している。
久道さんが弟子に求めるのは「気づき」だ。大工作業はもちろん、掃除や、道具ひとつ置くにしても、「どうしたら作業しやすいか気づくことが大事」と強調する。作業のしやすさは仕上がりの美しさに直結するためだ。気づきの正解は、現場や気候によって変わってくるので、マニュアル化できない。場数も必要になる。「気づこうとする心掛け、やる気みたいなものだな、結局は」と見ている。
現在は、20代と30代の2人の弟子を指導している。
加藤靖さん(32)は、県外の別の親方の元で修行した後、久道さんの弟子となった。
「仕事には厳しいです。気に入らないと雷が落ちることも。けど、完成したら言うだけのことはある。きれいにおさまってさすがと思います」と実感する。仕上がりの美しさは、説得力となっている。
さらに、「施主さんに預かったお金を無駄にしたくない、金額以上のことをやりたい」という思いは、常に胸にあるという。
久道さんは「俺は学がなく、できることは大工だけ」と謙遜し、「そんな俺を信頼して家を建ててくれっていう施主さんだもの。予算以上、希望以上のことをやってやりたい」と気合が入るのだ。おのずと、仕事に向き合う姿勢は厳しくなる。
これだけどっぷりと、人生のほとんどを家づくりに費やしてきた久道さんだが、まだまだ、もっとかっこいいものをつくってみたいと前を見据える。さまざまな木の家を見に行ったり、住宅雑誌を読み、見聞を広めてきた。憧れは、建築家の高橋修一さん。30年以上憧れ続け、縁があり紹介してもらったという。「五感で感じ、心豊かに住める家・・・そんな家だ」と久道さんは語る。
久道さんが考える伝統工法は、日本の四季に寄り添い、自然の力と共存する建築。木の個性をみながら加工し、柱や梁、床など、ちょうど良いところに配置する。縁側は、夏は強い日差しを遮り、寒い時期は寒気を遮断してくれる。土壁や畳の調湿効果は、家にも、住まう人にも気持ち良い呼吸を届けてくれる。
日本文化研究家のエバレット・ブラウンさんも「日本人は人間も自然の一部として認識しており、暮らしも住まい方も、 自然と一体化することを目指してきた」と、日本人にとっては当たり前の感覚を魅力としてとらえている。この発言は、木の家ネットなどが2018年秋に開いたイベント「明治大学アカデミックフェス・日本の伝統建築の魅力とその理由」での基調講演での発言だ。
そして、これらの住まい方を実現するための技術は、何世代もの職人たちによって磨かれてきた。時を重ねながら無駄なものはそぎ落とされ、便利で使いやすい上に、美しさと両立もしている。「本当に、日本の家ってのはよくできている」と久道さんは、家を建てるたびにほれぼれするのだ。
そこにさらに磨きをかけようという思惑もある。
久道さん自身、これまで自身が快適に暮らしてきた家が、近年は寒さ、冷えを感じるようになったという。住まい手の年齢や暮らしぶりによって、同じ家でも感じることが変わってくるということを実感している。工務店のコンセプト「時を経て、良くなっていく」を実現しようと、現在、改装のアイデアを練っているところだ。「完成されているんだけど、いくらでも工夫できるのが木の家。施主さんの家づくりにもつながるから」と笑う。
体が動くうちは現役大工でいたい、と考えてはいるものの、「気持ちはまだまだ満足してない」と久道さん。先を見据えるまなざしは、凛と光っていることだろう。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真提供:久道工務店
久道さんを取材して驚いたことのひとつが、独立のきっかけが「親方の施主さんに家を建ててと頼まれた」という話だ。これまでインタビューした方は、年季明けしたタイミングだったり、「〇歳までに独立する」など自分で決めて独立するパターンが多く、その分、独立後の仕事を心配していた。人からの依頼で独立とは!それだけ腕に、そして人柄に信頼が集まったのだろう。
久道さんは「当時は、親方の仕事をとっちゃったって悩んだんだよ」と振り返って笑うが、話し合って円満に独立できたという。今でも、親方の誕生日には一緒に飲みに行っているそう。
新型コロナウイルスの影響はいつまで続くのか、先の見通せない時代は続いている。自分で時代の流れを作り出すことも素晴らしいが、久道さんのように、時代の流れに身を任せることもありなのかもしれない。
最後に、電話での取材を快諾してくれた久道さん、写真撮影に協力してくれた弟子の加藤さんに感謝したい。
今回ご紹介するのは千葉県松戸市で「有限会社 タケワキ住宅建設」を営まれている竹脇拓也さん。
タケワキ住宅建設は父の千治(ちはる・78)さんが1972年に創業して以来今年で48年。木の家一筋の会社だ。
竹脇さん自身は大学で構造を中心に学び、大手ゼネコンに就職。東京と熊本で6年間現場監督務めた後、家業のタケワキ住宅建設を継ぎ、2009年には代表取締役に就任した。
「こういった経歴ですので、ずっと木の家をやってきたという訳ではありません。戻ってきてから父親や会社がやっていることを見ながら、木の家について学んできました。」
「しかしよく考えると、幼い頃から家づくりに触れていましたし、高校時代はアルバイトも兼ねて手伝いをしていました。常に身近に木の家づくりというものがあったので、自然と『自分もやってみたいなぁ』と思うようになったのが、建築関係に進もうと思ったきっかけですね」
父親とは少し方向は違うが建築の道を選んで進み、そしてまた木の家に戻ってきた竹脇さん。今では木の家にゾッコンだ。
⎯⎯⎯⎯HPに「社長自ら山まで木を見に行き選んでいます」と書かれていましたが詳しく伺えますか?
「毎回という訳ではないんですが《東京の木で家を造る会》に参加していたことと、当時日本の山を色々と見て廻る機会がありまして、ある時『千葉の木で家を建てたい』というお客さんが来られました。その際に、実際に地元の山に入ったり製材所を巡ったりしたのがきっかけで、地元の木も使うようになりました」
「千葉県内はもちろん、近場では東京・埼玉・栃木あたりの山を見にいきます。一口に国産材といっても特性がいろいろあるんだろうなと思い、機会があれば九州や紀州、それから奈良の吉野の山へ行ったりもします。実際に吉野の山で《番付》までして帰ったこともあります」
⎯⎯⎯⎯相当情熱を傾けてらっしゃいますね。では千葉県内の林業はどんな状況だと感じていますか?
「構造材としての材木の流通量自体はそれなりにあると思うんですが、設計事務所や工務店との接点が少ないと感じています。それから乾燥機の問題ですね。天然乾燥をやっているところは弊社が取引しているところを含め数社あります。しかし低温乾燥材の場合は、基本的に千葉の市場に出回るのはグリーン材(乾燥していない状態なのでそのままでは家づくりには使えない)なので、使用現場とのマッチングが難しい状況です。また県内の木材を扱いたいという工務店自体が少ないという側面もあります」
「千葉県は立地的に住宅の件数自体はかなり多いのですが、やはりプレカットが主力で、国産の材木を使って木の家を建てている工務店となると数えるほどしかないのかなぁという印象です。プレカット工場で木の話をしても、例えば『化粧って何ですか?』といった具合で言葉が通じないんです。《木を見せる》という概念自体がないんです」
木の家を取り巻く状況は寂しそうだが、社内に目を向けると賑やかさを感じることができる。
タケワキ住宅建設には現在、腕の立つ大工が10人(社員大工4人・専属大工6人)いる。特に若手の活躍には目を見張るものがある。34歳の篠塚大工は大工育成塾の2期生として受け入れてて以来、そのまま社員として10年以上働き、今では墨付け・刻みもこなし棟梁として仕事を任せられている。他にも20代の大工が2人、さらに50代〜84歳(なんと!)までベテラン勢が揃う。
「ベテランの大工が辞めていくのは止むを得ないことです。幸い、うちには若い担い手が来てくれています。さらにあと何人かフレッシュな力が加われば、徐々に軌道に乗ってくるのではないかと思います」
木の家をつくれる大工が減っていく中で、こういった明るい話は嬉しい。
⎯⎯⎯⎯世代間の関わり方についてはどんな思いをお持ちですか?
「昔の棟梁たちは、やはりすごく厳しく育てられて来ています。でもその育て方をそのまま今の若い子達にやってしまうと、あっという間に辞めていってしまいます。そのことを棟梁たちもすごく理解しているので教え方が優しいですね。時に厳しいことも言いますが、うちの親方たちはみんな温厚なので、すごく優しいです(笑)」
「できないことがあっても突き放すんじゃなくて、できるようになるまで寄り添って待つような育て方をずっとやって来ています。月日が経てば、一人前にこなせるようになりますし、きちんと自分で考えて何でも行動出来るようになります。《続けていく》ことが大切なんだと思います」
⎯⎯⎯⎯では、さらに若い世代に対してはどういった考えをお持ちですか?小学校で講話をされたそうですが、そのことについてお話いただけますか?
「たまたま今年2回お声がけいただき、お話をさせていただきました。1回目は、東京都大田区の池上小学校で、様々な職業について学ぶという趣旨でした。私は工務店ってどういう仕事なのかということを話してきました。東京23区の都会の学校で、マンション住まいのお子さんも多そうなので、木の家を建てて住んでいるのはかなり少ないんじゃないかと思います。身近で木の家に触れる機会がおそらくないので、『こんな家ってあるんだ!?』という驚きを持って聞いてもらいました」
「2回目は市川市の行徳小学校で、4年生の総合学習の授業で防災について学ぶという趣旨でした。ここでは熊本で建てられている木造の仮設住宅の話や、昨年千葉県を襲った台風の被害にあった住宅の修理についてお話してきました。建築というもの自体を知らない子供達が興味を持って見てくれて、中には『自分もやってみたい』という声もちらほら聞かれたので、やってよかったなと感じています」
⎯⎯⎯⎯防災といえば、東日本大震災の際は千葉では相当な被害があったと記憶していますが、震災の経験を経て家づくりに変化はありましたか?
「そうですね。社内でもその時期から特に耐震に対して意識を持つようになり、構造計算ソフトで耐震等級3以上を標準にしていこうという話になりました。ただ弊社に来てくださるお客さんは、あまりそういった性能や数字を重視される方は少ないです」
「HPにも耐震等級や温熱環境がどうとか、あまり細かい数字の話は載せていないんです。もちろん建てる側としては必要な話ですが、お施主さんをあまり細かな数字にまで引き込んでしまうと、家づくりの本質と論点がズレていってしまいます。性能はもちろん担保した上で、どういう《気持ちの良い木の家》をつくっていけるかを追求していきたいと常々思っています」
⎯⎯⎯⎯では、竹脇さんの考える《気持ちのいい木の家》とはどのような家でしょうか?
「土地土地に合った自然の力を活かすということですね。陽の入り方や風の通り方を考えて、『陽がここに当たると暖かくて気持ち良いだろうな』とか『風がこの部屋を抜けると気持ちいいだろうな』といった感覚的なことも設計段階で取り入れるようにしています」
⎯⎯⎯⎯タケワキ住宅建設のリフォームの強みは「とことん聞き出すところ。自然素材を活かした提案や、自然素材を使う技術だ」とブログで拝見したのですが、詳しく教えていただけますか。
「リフォームの依頼で数が多いのは、水回りの交換や外壁のメンテナンスなどの部分的な修繕ですが、『暮らしそのものを変えたい』ということで大規模なリフォーム・リノベーションをご依頼させれる方が年々増えてきています」
「また中古住宅を購入されてリノベーションにお金をかけ、心地よい暮らしをしたいという方も多いです。地域的に戸建てばかりではなくマンションを買われる方もいらっしゃるので、一口に『自然素材でやりたいんです』と言っても理由や背景は様々です。『なぜ自然素材を使いたいんですか』『どうしてそういう暮らしがしたいんですか』『そもそもなぜここの家を買ったんですか』など、いろんな角度から話を聞き出すことで、その家族が求める根本的な理想の暮らしを掘り下げていきます。その方が後々提案がしやすくなりますからね」
「当然限られた予算の中で実現していく訳ですから、一度に全部やり切るのは大変です。例えば『2階の部屋はお子さんが大きくなってきたら手をつけましょう』とか『外構は次回にしましょう』という風に2期・3期に分けてつくり上げていくという提案もしています」
「今日もちょうど工事しているお宅なんかは、もう7年くらいほぼ毎年何かしらの工事をしています。予算を分散させながら家族の成長に合わせて段階を踏んでいく訳ですが、肝心なのは一見関係なさそうなことや趣味のことなんかも含め、最初になるべくいろいろ聞き出して、お互いが納得のいく形で提案しながら進めていくことですね」
⎯⎯⎯⎯細やかな事前のヒアリングがあってこそ、先々のビジョンを共有できるんですね。ではアフターケアで心がけていることについて教えてください。
「自然素材でつくっていく家なので、当然経年変化して行きます。その点は理解しておいてもらわないとトラブルになりますので、事前によく説明して納得してもらうようにしています。それ以上に、心地よさ・自然素材の良さを十分にお伝えして、5年10年経った時に『ああよかった』と言ってもらえるような家づくりを心がけています」
「つい昨日も建てて4年のお宅に伺ったんです。梅雨明けしたばかりでジメッとしていましたが、すごく心地いい空間だったんです。お客さんはその中で日々当たり前に暮されている訳ですが『やっぱり心地いいんですよ』と言ってくれて嬉しかったですね。もちろん、木の色が落ちてきたり、左官でやった壁が割れてきたりはしているんですが、クレームになるのではなく『じゃあこう言う風に直しましょう』とお互いが納得した形でメンテナンスしていくことができていますね」
「また、建てて10年20年経つお宅では、当時小さい赤ちゃんだった子が、小学生や中学生になったり独り立ちしたりして、ご家族のライフスタイルが変化しています。ちょうど『子供に自分の空間を与えたい』と以前のお客さんから相談を受けたのですが、『完全に分けなくてもちょっと目線だけ隠せばいいんです』と仰っていました。設計の段階そういう話をしていたので、みんなで思い描いていた通りの未来になってきていて『よかったなぁ』と感じています」
今回、竹脇さんとの会話の中で特に印象的だったことが2つがある。1つは《気持ちいい》という感覚を大事にされていること。もう1つは《長く付き合う》という姿勢だ。
《気持ちのいい暮らし》や《気持ちのいい人間関係》のために、すぐに結果を求めることなく、長い目で物事を捉え、人と共に、木と共に、家と共に、じっくり付き合うのが竹脇さんの家づくりだ。
タケワキ住宅建設 竹脇 拓也 さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
淡路島の中央に位置する兵庫県洲本市。小川沿いに車を走らせると小高い場所にポツリと住宅と工場のような建物が見えてくる。ここが今回紹介する藤田さんの営む《淡路工舎》の事務所・作業場、そして自宅だ。
まずはプロフィールのご紹介。
藤田 大(ふじただい・48)さんは1972年 神戸市生まれ。高校在学中に法隆寺宮大工の故・西岡常一棟梁の著書「木に学べ」を読み宮大工の面白さに触れる。高校卒業後、西岡棟梁の紹介で「鵤工舎(いかるがこうしゃ)」に弟子入りし、11年間宮大工として修行する。
2001年 淡路島・洲本市の小川寺を建てるために移住。翌2002年 小川寺の完成と共に30歳で独立。神戸へのUターンも考えたが淡路島での暮らしが肌に合い、島内に残ることにした。
その後、敷地内の古民家を改修し自宅とし、作業場内には事務所と住み込みの弟子のための住居を建て、今の淡路工舎の形となる。現在は5名体制で社寺から住宅まで様々な仕事をこなしている。
「住宅をずっとやりたかったんですが、元々社寺ばかりやってきたので、知らないことばかり。家づくりを覚えたい一心で、地元の親方のもとで、昔ながらの淡路島の住宅や、プレカット工法の現代的な建築など幅広く学びました。」と藤田さん。
自宅に案内していただき詳しくお話をうかがった。
⎯⎯⎯⎯ 住宅と社寺とではどれくらいの比率で仕事をされているのですか?
「7:3くらいで住宅が多いかなとは思いますが、その時々で変わってくるので一概には言えないですね。今年はたまたま新築の住宅が多いですけど、来年に向けてお寺の仕事が控えています」
⎯⎯⎯⎯ 藤田さんの周りには他に手刻みで木の家を建てられている大工さんはいらっしゃいますか?
「木の家ネット会員の総合建築植田さん(植田さんの紹介記事はこちら)、僕のところ、あとやっていそうなのは、社寺を専門にしているところが、たまに民家を手掛ける際に手で刻んでいるのかなというくらいの感覚ですね。10年くらい前は、まだちらほら淡路島特有の伝統的な民家も建っていたんですが、めっきり見なくなりましたね。確かに残念といえば残念ですが、決めるのはお客さんなので難しい問題ですね」
⎯⎯⎯⎯ とはいえ島内には立派な淡路島らしい住宅も残っているように見受けられます。そういった住宅の改築・リフォームはどういった方からのご依頼が多いですか?
「元々住まわれていた家を直したいというご年配の方から、比較的若いと30代後半くらいのご夫婦だったり様々です。淡路島で特徴的なのは、移住のために古民家を購入して改装したいというお客さんが多いことですね」
⎯⎯⎯⎯ このご自宅も改築されたそうですね。
「はい。この家も自分で改築しました。斯く言う自分も移住組です(笑)。近所の人からは『潰した方がええ』と言われていました。雨漏りは酷いし棟は落ちているしシロアリはいるし、本当に荒廃していたんです。もちろん新築した方が簡単なんですが、古い家でも改築したらこんな風にできるんだという事例を作りたかったんです。なのでモデルハウスとして公開しています。お客さんには生活感も含めて見てもらえるようにしています」
そんな藤田さんの想いが詰まった自宅をご紹介する。
「風通しの良い家にしたかった」という藤田さん。取材日は7月上旬、大雨の合間の蒸し暑い日だったが、玄関をくぐった瞬間からひんやりと心地よい。建てて7年になるが、より良い住まいを目指し現在も改築作業は進行中だ。
敷地内にはさらに作業場が2つある。3年前には作業場の中に事務所を作った。外からはわからないが実は二階建てになっており、一階は事務作業や設計、製図、打ち合わせなどに使われ、二階はお弟子さんたちの宿舎になっている。
淡路工舎のお弟子さん達は基本的に皆、この宿舎に住み込みで働いている。現代ではこういった環境はかなり少ないのではないだろうか。
⎯⎯⎯⎯ 住み込みにこだわるのはなぜですか?
「今、住み込みでは2人来てくれています。福本杜充さん(ふくもと もりみつ・23歳・大阪出身)と板良敷朝和さん(いたらしき ともかず・21歳・沖縄出身)。僕が鵤工舎で弟子だった時も住み込みで生活していました。いつも合宿のようで楽しかったし、何よりとてもいい経験になりました。だから自分が弟子を取る立場になったら、絶対住み込みでしか取らないと決めていました」
⎯⎯⎯⎯ 弟子と言えば、ご長男の樹さんが藤田さんと同じく鵤工舎に弟子入りしていると聞いたのですが、どういう経緯だったのですか?
「僕が紹介した訳ではなく、自分から連絡して採用してもらいました。高校卒業後5年間の約束で弟子入りしています。今年で5年目なので来春には淡路島に戻ってくる予定です」
来春からは、他のお弟子さんと全く同じ条件で採用し、この宿舎で衣食住を共にすることになる。
淡路工舎の門を叩いてくる若い子は「木を触りたい」「刻みたい」という志を持ってやって来る。しかし実際の仕事は昔ながらの社寺や伝統建築ばかりという訳ではない。
「ここ数年で一般的に民家の新築はプレカットばかりになってきました。その手法に対する良し悪しや好き嫌いは別として、若い大工が短期間で一軒建てることができます。現場の数をこなせて、仕事を覚えられ、自信がつくという意味においては、特段悪くないと考えています」
そう考える藤田さんはある試みに挑戦中だ。
「志を持った若い職人が、ちゃんとした材料を使いながらコンスタントに家を建て、経験を積めるようにするためにはどうしたら良いか。それをずっと考えた結果『そうだ!もう建売りしよう!』と思い立ちました」
「自分たちでプランニングから始めて、模型を作ったりCADで図面を引いたりして、自分たちが良いと思える素材を使い、良いと思える家を作る。そして良いと思える暮らしを提案し、商品として家を買ってもらうんです」
「すると大体の人は、目の前に出来上がった家だけを見て暮らしを想像します。その時に『あ、良い!』と単純に思ってもらえたら、それが一番いいんじゃないかなと考えています。お客さん自らは興味がない場合でも『安全で体に良い素材を使って暮らしやすい家を建てたんです』とこちら側からカタチにして見せることもありなんじゃないでしょうか」
「注文住宅を一緒に作って行くことも素晴らしいし楽しいですが、一つのモデルを作って提案するというのも大切なような気がします。後からアレンジしたり手を加えて行くことももちろん可能ですし、自分たちの家づくりのパターンとして、《建売りというカード》を持っておくのは悪くないと思うんです」
確かな技と良い素材を使い、その良さが滲み出てくる家。《寡黙だけど慕われる人》が頭に浮かんだ。
その建売り住宅の第一弾が洲本市宇山に出来上がろうとしていた。
不動産屋さんが持つ土地に淡路工舎が家を建て、セットで販売してもらう。一般的な建売り住宅に比べるとかなり強気な価格設定になっているが、すでに売約済み。ほとんど既製品は使わず、建具は全部手づくりだという。
「使っている材料や、やっている仕事から考えれば、かなりお得な金額にはなっています。やっていることは間違いないという手応えがあります。万人受けはしないかも知れないけど、ハウスメーカーでは実現できないような家になっているので『こんなのが欲しかったんだよ!』と思ってくれる人もきっといるんじゃないかなと思って作りました」
完成見学会(取材後に完成済み)では「島内でこんな家を作るところがあるとは思わなかった」「今まで見てきたモデルハウスの中で1番や」と嬉しい声が聞かれたそうだ。
「もちろんこのやり方に対しては賛否両論あると思います。それを分かった上でやっている試みなので、これからどういう評価を受けるのか楽しみです。お客さんの声に耳を傾けて、また次の手を考えていきたいですね。従業員の間で『次、こういうのやろうよ』『こんなのどう?』と声が上がってきたら、ますます面白いことになると思っています」
熱く語る藤田さんの目は少年のように輝いている。
⎯⎯⎯⎯⎯ 今後のプランを教えてください。
「社寺の仕事をやりながら、建売りの住宅も平行して作って行ける仕組みを作って行きたいです。そうすれば人を雇うということも怖くなくなりますし、若い子にも来てもらいやすくなります。それを見越して製材機も導入しました。原木を買って来て、まとまった量の材木をストックしておくつもりです。短期間で答えは出ないですが、5年後くらいに軌道に乗れば良いかなと考えています。」
それでは家の中を詳しく見ていこう。
「自分で住みたいと思う家を設計した」と言う藤田さん。特徴は2階にキッチンとリビングに置き、スキップフロアと勾配のある天井にしたところ。気持ちいい空間が広がる住まいになった。
この家を買ってくれたのは30代の会社経営者。「僕らの建てるものなら絶対良いと言ってくれてすぐに購入してくれた」と藤田さん。
「住宅というものは、いち家族のために作るものだとばかり思っていました。しかし会社で購入し福利厚生のために使うようなケースもあるということを知り勉強になりました。今までの経験の中でだけ顧客層を考えるのではなく、もっと視野を拡げ、いろんな人が『買いたい』と思えるものを創り出していけばいいんです」
「自分は一体どこに向かっているんだろうと思うこともありますが、次の世代の子たちが《手仕事さえ覚えたら絶対的に食べていけるような環境》を整備してあげたいんです。自分だけが楽しみたいのであれば、ずっと社寺をチクチクつくるのもいいですが、そこにこだわり過ぎると、これからの時代に生き残れる人材は育たないんじゃないかなと僕は思います」
「実際、弟子の2人もこの現場を通してだいぶ成長が見えました。今までは『もっと考えろ』『どう思う?』と、こちらから声をかけることが多かったのですが、最近は自分から『面白い』『きれいやな』と自然と言葉が出てくるようになりました。自分がやり遂げたことに対して、自信を持てたり、達成感を得られたりと、単純に楽しめている証拠です」
「本当、何でもしますよ。今回は基礎も自分らでやったし。これからもどんどん新しいことにチャレンジして行って欲しいですね」
最後に、藤田さん自身がチャレンジして来た社寺の仕事をいくつか紹介しておこう。
福田寺(ふくでんじ) | 淡路市志筑
このお寺の新築工事は5年前(42歳の時)に手がけた。
ちなみに取材後に知ったのが、ここには源義経と静御前のお墓があるという(見てみたかった、残念)。
正面の屋根を降りきったところが、左右よりもなだらかに高く膨らんでいる。なかなかやっているところは少ないそうだが、藤田さんが修行していた時はこれが当たり前だった。なので予算があるないにかかわらず『ええことは知ってるから、しとかなあかんこと』だと言う。
「そんな技術とかこだわりも随所に詰まってはいますが、見に来てくれた人が『キレイやなぁ』と思ってくれたらいいだけ。あんまり細かいことは自分からは言わないようにしています」
ここを建てたご縁で、来年からは別のお寺の現場も始まるそうだ。
「どこのお寺も檀家さんが少なくなって、予算面や設計・施工面でも制限がある場合が多いんです。でも声を掛けて来てくれることが嬉しいので、そのお客さんのために、どうやったら条件をクリアしながらええもんを作れるかをいつも考えています」
藤田さんの人柄と滲み出る想いが、仕事や人をつないでいる。
厳島神社(いつくしまじんじゃ) | 洲本市本町
13年前、35歳で舞楽殿・社務所・回廊・渡り廊下を手がけた。
厳しい設計士の先生で「ほんまにお前にできるんか」みたいに思われていたが、やっていくうちに認めてもらえたそうだ。
「屋根などの意匠にとてもこだわりを持たれている先生との仕事は、今見てもやっぱりいい仕上がりになっていますね。鉄筋コンクリートや銅板の仕事が初めてだったので、個人的にものすごく意義のある仕事でした」
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう) 制札 | 淡路市多賀
厳かな参道の鳥居のすぐ横にある制札。天皇陛下(現在の上皇陛下)御在位参拾年奉祝記念、いざなぎ會設立七拾周年記念として2019年に手がけた。
意匠に決まりがあるわけではないので、設計には経験とセンスが必要だ。楔もちょっとやそっとでは抜けないよう噛み合わせの細工や入れ方にも工夫が込められているそうだ。
「出来上がってしまえば小さいけど、こういうのも大事な仕事です」
伝統的な職人の技を受け継ぎ、社寺建築での確かな腕を持つ藤田さん。しかしそこに甘んじることなく、新しいこと・知らない世界へと果敢にチャレンジしていく姿は、お弟子さんの意識も変え始めていた。
「新しいカタチの工務店を作って行きたいんです。若い職人が与えられた仕事をこなすだけではなく、自分たちで提案してそれを全員でカタチにしていくようなスタイルを確立できたら、やる気も全然違うでしょうし、面白いんじゃないかなと思います。」
「仕事は時間をかけて量をこなせば絶対的に身に付きます。幸いにもその時間や機会を用意できる環境はある程度整っています。それよりも大事なのは『大工って面白い』と思える《仕事づくり》じゃないでしょうか」
藤田さんは《家をつくること》を通して《次世代への道筋》をつくろうとしている。