各務工務店は、面積の8割が森林という岐阜県八百津町で、地元の材料をふんだんに使った家づくりを営んでいる。木の家は「長く住めて環境に負荷が少なく、住む人をゆったりとさせてくれる」と話すのは、代表の各務博紀さん。「まずは自分で調べやってみる」というスタイルで仕事を続けてくる中で、結局「昔からのやり方が一番理にかなっている」と感じ、受け継いだ大工技術を磨き、木を大切に活かす仕事を続けている。大工歴は20年。設計から施工までこなす棟梁として、また3人の弟子を育てる親方としての心構えをインタビューした。
八百津町は、南が木曽川本流に、北が木曽川水系の飛騨川に挟まれた町。雄大な川の流れとは対照的に山々の傾斜が険しく、初夏の時期は木々の緑が深く、こんもりと茂っている。
この木曽~裏木曽地域(飛騨南部、東濃地域)で育った天然ヒノキは、「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」という名で知られ300年以上の歴史がある。江戸時代、山から切り出された木々は、八百津でいかだに組まれ川を下り、現在の愛知県の熱田、堀川へと運ばれていったという。良質な「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」が、名古屋の町づくりを支えたのだ。
令和の現代、各務工務店は「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」などの地元材を構造材に使った家づくりを展開している。主に使うのは構造材だ。八百津町にはそういう古い民家が、長年の台風や積雪に耐えて残っている。損傷が出ても、傷んだ部分を取り換えることで次の時代へ住み継げるということを、各務さんは実感している。
さらに、構造材に外国材や集成材を使うと「短寿命だし、解体した時の産業廃棄物が膨大になってしまう。その土地にあるものを使うのが一番のエコだ」と話す。
現在改修中の岐阜市の物件は、築80年の2階建ての古民家。まず家自体を20センチも上げ、傾きを直すところからのスタートだった。
耐震工事も含めての大改修は、「新築とは違って現場合わせの連続で時間がかかる。けど、こうやって古い家を大切に住んで、任せてくれる施主さんがいてくれるのはありがたい」という気持ちで仕事に向かっている。
床を畳からフローリングに変え、床暖房を入れるなど、住み心地をよくする工夫も配する。この家の施主さんの息子さん夫婦が、敷地内に石場建ての家を建てる予定もあるのだという。設計は、木の家ネットメンバーの水野設計室が担う。各務さんの理想とする長く住み継げる家が、またひとつ増える。
もう1軒、八百津町にある、各務工務店が手がけた新築物件を紹介する。25畳のリビングダイニングの天井に、桧の構造材が大胆に見えるつし二階の家だ。
新築といってもすでに10年経ったが、施主の井戸謙悟さんは「この骨組み、かっこいいでしょう。大工さんは曲がってる木をどうしてこうも美しくできるのか?って今も眺めてます」と笑う。
美しいだけでなく、住み心地も抜群だという。漆喰で仕上げられた壁により「夏でも部屋の湿度がさらっと気持ちいい」と実感。開口部の南側の窓を大きく取り、涼しい風が家中を吹き抜ける。「子どもが友人の家に泊まりに行って帰ってきた日、やっぱりうちはええなあ、って言ったんですよ」と喜ぶ顔が、各務さんの家づくりそのものを物語っている。
冬場はマイナスにもなるという場所なので、薪ストーブも活躍。薪になる材料は地元の山から調達でき、エネルギーの地産地消も実現できている。
このような家づくりを支えるのが、チーム・各務工務店。メンバーは43歳の各務さんを筆頭に、20代の弟子が2人と10代の弟子が1人、オーバー60のベテラン職人3人で構成する。
各務さんの家系は、代々農業と林業を生業としてきた。父親が愛知県で大工修業し、帰省して立ち上げた各務工務店の長男として生まれた。「田舎がいやだったし、大工になるつもりもなかった」ため、中学卒業と同時に家を出て、高校の寮に下宿、そのまま岐阜県内の中規模ゼネコンで現場監督として働いた。
監督時代、厳しく優しく建築のことを教えてくれたのが、会社の上司でなく、現場にくる職人さんだったという。職人さんの温かみと、手でものを作り出す仕事に惹かれ、「実家の大工を継ごう」と帰省したのが23歳の時。父親や職人さんに技術を教わり、5年で年季明け、10年で棟梁となり、15年目、父親が「65歳定年」したのを機に代表となった。
修行時代から、現場監督の経験を生かして材料の発注や管理も行ってきたため「代表になったからといってやることは大きく変わらない。施主さんの要望を聞き、それに合った木の家を、地元の材料でつくる」と各務さん。材料は、地元の製材所にストックにしてあり、また自社の作業場には製材機まで整っている。
自ら現場にも入る。特に、墨付けは各務さんが担当。「どの木をどう配置すれば活かせるか、考えるのが一番楽しい」と腕をふるう。
変わったことがあるとすれば、ふたつ。ひとつは、お客さんが自分で情報を調べて「これはできる?」と聞くことが増えたこと。ふたつめは、「昔からのやり方、つまり開口部が広く田の字型の家が、結局一番だと思うようになった」ことだ。
各務さんは「まずはなんでも自分でやってみたいタイプ」と自己分析し、これまでお客さんの質問に答えるために、ハウスメーカーの建て方や高気密高断熱の家、建築法規についても独学で勉強してきた。八百津町が確認申請が不要なエリアであることから石場建てもこなしてきたが「石場建てばっかりでいいのだろうか」と迷ったこともあるという。木の家ネットへも知識を深めたくて、会員の岡崎定勝さんに自ら「入会したいので紹介してほしい」と直談判したほどだ。
ほかの工法のメリット、デメリットも勉強した上での結論が、「今までやってきた木の家は、気持ちよさ、エコであることに勝るものはない」。県外で木組み、土壁の家を建てることのハードルの高さにも驚き、自身の恵まれた環境に感謝も生まれた。
さらに、構造が単純であればあるほどメンテナンスしやすいことも強みだという。「メンテナンスする大工は、もしかしたら自分の次の世代かもしれないから」と未来を見据える。
こういう考え方ができるのは「山に囲まれて育って、山で仕事しているからかな」とはにかむ。木の家をつくることと、木を大切にし山に心を寄せることはつながっているのだ。その自然をいつくしむ空気感が、各務さんが手がけた家には流れている。のびのびとした、居心地のよい空間だ。いくつかを写真で紹介する。
各務工務店スタイルの家にほれ込むのは施主さんだけではない。
年季明けした弟子の各務椋太さん(27)も、弟子歴3年目となったと中村哲也さん(22)も、学生時代に各務工務店の現場の木組みをひとめ見て「すげえ、やってみたい」と圧倒され、弟子入りを志願した。
各務工務店の弟子育成方法は、一言でいうと柔軟。現在は、椋太さんが後輩弟子を指導する体制で20代弟子チームが現場に入り、ベテランチームは作業場で下支えする。以前は、20代の弟子とベテラン職人を組ませて、職人から弟子に技術を教えるようにしていた。
今春、仲間入りした10代の弟子が普通高校出身だったため、座学「大工講座」も行うようになった。「大工とは?」「道具とは?」といったテーマで、各務さん自らペーパーの資料を作り、講義する。これまで5回開催した。「自分たちの時代のように技術を見て盗めといっても時間がかかりすぎる。今の若い子は言えばすぐ理解できるから、言ったほうが早い。ペーパーならその時理解できなくても、あとでも見返せる」と、見極めながら指導をしている。「それに、同じこと何度も言うの嫌なんだ。言われるほうも嫌でしょう」と、正直な気持ちも打ち明けてくれた。
一方で、年季明けした椋太さんには現場を任せ「いつ独り立ちしてもいいようにしておけよ」と言葉をかける。椋太さんは現場を任されるようになり「考えることめちゃめちゃ増えて大変ですけど、やりがいがある。よそじゃできない仕事をさせてもらえてる」と笑顔を輝かせる。
若い世代が現場にいることで、施主さんや近所の方が別の仕事を頼まれることも多いという。家づくりは長い付き合いになるから、若手がいるってだけで安心して任せられるのかもしれない」と各務さんはみている。
チームはそれぞれの現場で仕事し、現場が違うメンバーとは何日も顔を合わせないこともざらだという。進捗は、SNSアプリ「ライン」で確認するほか、水道や電気など他の業者や、施主さんの話を聞いて「あれ、おかしいな、と思ったら様子を見に行くようにしているけど、そんなことは少ない。思い切って任せると、責任もって仕事してくれる」と各務さん。
大工に大切なことは何か?各務さんの答えは、「技術向上に精進するの当たり前の話で、一番大切なのは人間性」だった。他にも工務店がある中で仕事を任せてくれた施主さんへの感謝、大工仕事以外を任せられる他の職方さんへの敬意、現場周辺のご近所さんへの気配り・・・人間性を高めるには、任せ、任せられる関係づくりが不可欠なのだった。
自然や山があるからといって、林業や大工など木を使う生業が残るとは限らない。実際のところ、各務さんが子どものころ、八百津町久田見地区には30件近くの大工がいたというが、現在は「各務工務店」1軒だけ。
ほかの大工はどうしたのか。「ハウスメーカーの下請けになったり、高齢化で看板を畳んだりした」と各務さん。自身は、「どうしてもハウスメーカーはしっくりこなかった」ため、仕事がない時期はよそに応援に行くなどしてきた。好きでないことは、しない。自然なことだった。結果、昔からの木の家づくりが継続できる数少ない工務店となり、そのような家を求める施主さんと出会えるようになった。
家づくりは、施主さんにとって夢をかなえる機会でもある。前述の井戸さんは10年前の新築の時、「自分の山から切り出した木で家を建てたい」「それも、葉枯らし乾燥で」「漆喰は自分でつけてみたい、天草を煮るところから」などの夢を持っていた。しかし、応えてくれる工務店を見つけるのは難しく、各務工務店に任せられたことに感謝する。実現できた技術の高さに太鼓判も押す。
各務さんは「昔は当たり前だった技術ややり方が、今は貴重なものになっている。これからはもっとそうなっていくだろう。施主さんに任された時にできるように、日頃から準備しておく・・・って、弟子に言ってることと同じだな」と笑った。
大工技術は自然にやさしく、自然を美しく魅せる。最近確立されたものと違い、歴代の職人によって磨かれてきた歴史がある。それを受け継ぐ各務さんは、「自分の手でものを作り出せるのは本当におもしろい」と前向きだ。大工など職人の後継者不足もあるが、各務工務店には3人の弟子がいるほか、各務さんの息子の巧真さん(18)も、この春から郡上市の大工で木の家ネットメンバーでもある「兼定番匠」兼定裕嗣さんのもとで大工修業を始めた。
「木を、自然を大切にできる人が増えることは幸せなこと。自分にとって家づくりもそれを伝える手段なのかもしれない」という各務さんは、優しいまなざしで山を見つめていた。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(写真一部は各務さん提供)
この取材は3月を予定していたが、コロナの影響で6月取材、7月掲載となった。この3カ月で世の中はがらり変わったと感じている。今回、緊張感はあったものの、外出、取材できた状況にまず感謝したい。各務さんは、春先は資材がストップしたこともあったが、現在は平常運転だと話してくれた。
すっかり定着した印象のある「ステイホーム」。自宅にいながらオンラインで学びも飲み会もでき、テレワークで仕事までこなせるようになった。外出では感染の不安が拭えないため、安心できる場としての存在感も増した。その家が自然素材で風通しがよければ、大工さんが愛情と手間をかけてつくったものであれば、きっとすこやかに過ごせることだろう。ウィズコロナの暮らしのヒントが木の家にはある。そんな思いがした。
生まれ育った集落を愛し一途に木の家をつくる 株式会社 すずきハウスプラン 代表 鈴木隆美(すずきたかみ 51)さん。秋田杉の樹皮から生まれた断熱材「フォレストボード」を販売する 株式会社 白神フォレストコーポレーション(以下 白神フォレスト) の椎名正人(しいなまさと 58)さん。
今回は秋田県で躍進する木の家ネット会員のお二人をご紹介します。
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発令中の5月中旬。本来は秋田まで飛び、2日掛かりで取材する予定でしたが、急遽オンラインで秋田・愛知・岡山をつなぎZoomインタビューを敢行。お二人と関係の深い加藤長光さん(木の家ネット前代表)にも登場していただき和やかな時間となりました。
鈴木さんの営む《すずきハウスプラン》は秋田県能代市二ツ井町小掛にある100軒ほどの集落にある。生まれ育ったこの町で18歳の時から大工仕事を続け、30代で稼業の鈴木工務店を引き継ぐ形ですずきハウスプランを立ち上げ、棟梁を務めてきた。同社には現在鈴木さんを含め4名が在籍している。
鈴木さんの手掛ける仕事のポリシーは 《「人に優しい家」づくり》。秋田杉など地元の木材や自然素材を使った温もりのある木の家を提案し続けている。
小掛地域は日本三大美林のひとつ天然秋田杉の原産地で、豊臣秀吉の伏見桃山城へ木材を拠出した歴史も持つが、意外にも伝統的な木の家づくりは衰退の一途を辿っているそうだ。他に墨付け・刻みからやっている大工さんは近くにはいないのだろうか。大工を取り巻く状況を伺った。
鈴木「今はほとんどいないと思います」
椎名「20軒くらいの工務店とお付き合いがありますが、小さい車庫くらいなら他でもやっているかも知れませんが、住宅丸ごと一棟となると鈴木さん以外知らないですね」
鈴木「田舎に限ってそういう状況が多いように感じますね。若い大工も居るには居るんです。しかししっかり育っていける環境に置かれている人となると、あまり居ないのかなと思います。せめて自分のところだけでも、墨付けや刻みという基本の基を次世代に残していきたいと考えています」
そう語る鈴木さんのもとでは息子の瑠圭(るか 24)さんも大工として精を出している。
鈴木「他の会社で修行するのもいいかと思ったんですが、この辺りの会社だと基本的なことを学べないなと感じました。うちだと墨付け・刻みを自分手でやっている。他で3〜4年過ごしても無駄な時間を過ごすんじゃないかなという想いで引き受けました」
加藤「地域性もあるとは思いますが、“弟子をとって技術を継承していく”という旧来の大工の形はすでに無くなっています。その中で父・忠(ただし 79)さん・隆美さん・瑠圭さんと親子三代で手刻みで大工を続けているというのは本当にすごいことだと思います」
鈴木「この辺りでも高気密高断熱の家を建てるケースが多く、昔ながらの木の家づくりはゼロに等しいです」
鈴木さんのところにも依頼はありますか?
鈴木「すずきハウスプランとしてはやはり手刻みで地元の秋田杉や自然素材を使った家づくりをしたいと思っています。自然と同じような考えのお客様から声をかけてもらうことが多くなっています。中には『そちらでは高気密高断熱はできないのか』と仰る方もいらっしゃいます。もちろんやってできないことはありませんが、自然素材の木の家の良さを伝えるようにしています。高気密高断熱の方が、自然素材の家より高度で難しいと思われがちなところがちょっと辛いですね」
加藤「見学会やオープンハウスを開催すると両者の違いが明確に解るので、お客さんも体感して納得されているようですね。鈴木さんは、すずきハウスプランとしての考え方やつくり方をブレることなく明確に謳っているので、お客さんが自然とついて来ているんです」
鈴木「先日も頑張りすぎちゃってたみたいで、加藤さんから『鬱っぽくなっててやばいよ』と言われました…」
加藤「本当に頑張りすぎるんだよ。鈴木さんは現場最優先で、対応の早さはピカイチ。それを地域の人たちはちゃんとみんな見ている。あくまで大工棟梁で居続けているんです。良い意味で社長になれない社長だな。現場を大事にしていると言うことは、人を大事にしていると言うこと。お客さん・職人さんなど関わる人みんなとの関係性を一番に考えているよね。そこが抜群の信頼度に繋がっていると思いますね。他はないね!(笑)」
鈴木「他はないですか!?(笑)」
冗談交じりの二人のやりとりからもしっかりと信頼関係が感じられた。
鈴木さんと加藤さんとは20年来の仲。実は加藤さんとの出会いが鈴木さんにとって大きなターニングポイントになったそうだ。鈴木さんに詳しく聞いた。
「30歳くらいで、丁度すずきハウスプランを始めた頃の話です。当時は高気密高断熱住宅を主とした流行りの住宅をやっていて、若手ながらけっこう仕事も回って調子に乗っている時期でした。ある日、飲みの席で偶然カウンターで加藤さんの隣に座る事になり仕事の話をしました。加藤さんは父の事を知っているようで、徐々にお酒も入りかなり喧嘩腰の討論になったんです」
「加藤さんから『大工と言うのは木を生かした建物を基本とし墨付け・ノミ・鉋などで仕事をするものだ』と言われ、当時やっていた仕事とは180°違っていたので、噛みついてしまったのを今でも覚えています」
「今考えると当たり前の事を言われていたのです。あの日加藤さんに出会わなければ、まさしく《社長》になってしまうところでした」
では、どうやって今のような信頼関係が築かれたのだろうか。
「ある日、加藤さんから『伝統構法の仕事をやってみないか』と声をかけられたんです。余裕でこなせると舐めていたのですが、蓋を開けてみるととても苦労しました。当時否定していた昔ながらの父の大工仕事が、本当は凄いことなんだと気付くことにもなります。実際その仕事でも父に助けられ、大工と言うものに対する考え方がかなり変わりました。加藤さんから声をかけてもらわなければ、今の私はなかったと断言できます」
素晴らしいドラマの延長線上に今の二人の関係がある。
特に心に残っている仕事や思い入れのある仕事があれば教えてください。
「具体的にこの家と言う訳ではないのですが、二回り目の依頼をしてくれたお施主さんが3名いらっしゃいます。大工を33年以上やってきて、こういったお客さんに恵まれたことは本当に嬉しいことです。先ほどの話にもありましたが、当時建てていたのは木の家ばかりではありませんでした。その頃のお客さんが、今自分が建てている家やこだわりにも共感して戻って来てくれているということは、『単純に新しい家が欲しい』ということではなく、一緒に成長しているようでもありますし『ずっと私の家づくりや姿勢を見てくれていていたんだなぁ』と感動しています」
真面目で地域での信頼感も抜群の鈴木さん。そのルーツを垣間見えるエピソードがあった。
「参考までに見てください」と渡された鈴木さんを紹介している10数年前の新聞記事(2007年2月27日付 読売新聞 秋田版)に目を通していると、父・忠さんについてこう書かれていた。
《小掛地区に建つ約100軒の家のうち30軒を手がけた。感謝の気持ちを込めてか、いまだに採れたてのの野菜を玄関先に置いていく。》
これは紛れもなく父・忠さんの信頼感と人間性、そして大工としての匠の技の賜物だろう。鈴木さんもまた同じ道を歩んでいる。鈴木さんの自宅・会社の周辺には、自身の手がけた木の家々が増えていっており《たかみ集落》の景観が整いつつあるのだ。
「渓谷をつくろうと思っています」と笑いながら語る鈴木さんだが、その目は真剣だ。
「小掛地域を《木の家の町並み》にし、様々な店舗が出店したいと思うくらいの魅力あるものにしていきたいです。そして小掛の発展を全国に発信していくのが夢ですね」
鈴木さんは未来へと歩み続ける。
時代は移ろい、家づくりを取り巻く環境・素材・道具・法律などもどんどん変わってゆく。その変化に柔軟に対応しながら、信頼を得続けるためには、芯となる人間性と卓越した技術が益々必要不可欠になってくるのではないだろうか。
そして今、父・忠さんから受け継いだ志は、息子・瑠圭さんへと繋がっていこうとしている。
「瑠圭から直接聞いてはいないのですが、友達の両親には『仕事が面白い』と言っているみたいですし、朝早くても夜遅くて文句ひとつ言わず打ち込んでいます。大工が好きなんでしょうね。僕ももちろん好きでやってますし、親父もそうだったので自然とそうなったのかなと思います。その気持ちを忘れず生涯大工でいて欲しいですね。大工を愛し、自分を愛し、そして瑠圭を好きでいてくれる人に出会い、自分の城を築いていってもらいたいと願っています」
鈴木さん・瑠圭さんの今後の活躍に目が離せない。
さらに次の世代へ、木の家の良さをもっと知ってもらいたいと、鈴木さんはこんな活動も行なっている。
すずきハウスプランで昨年の8月に開催した木工教室。地域の子供たちに木に触れてもらおうと企画したイベントだ。内容は鈴木さんと瑠圭さんが、子供たちの夏休みの自由研究のお手伝いをするというもの。
「木と触れ合い、親子で一緒に作業し、木の家の町並みを見る。その時間の中で何か得られるものがあれば嬉しいです」と鈴木さん。
100軒ほどの小さなコミュニティだが、親子共々親戚のような気のおけない間柄だそうだ。ちなみにすずきハウスプランはこのチームのスポンサーにもなっていてる。
子供たちの感性が光る力作揃い
「関心するような工作の発想をしたり、無理難題を普通に言ってきたりして面白いですね。それをどうにか対応するのが腕の見せ所です。自分がまっすぐに接していると、暴れん坊も、照れ屋さんも、みんなまっすぐ接してくれます。そこが楽しいです。自分自身の人への接し方や関係性を再認識する機会にもなっています。イベントを通じて、自分の方が子供たちから勉強させてもらっていますね」
この鈴木さんの姿勢や、人との関係性の持ち方こそが、《抜群の信頼度》に繋がっているのだと強く感じた。
次に椎名さんのご紹介。その存在は鈴木さんの家づくりにも欠かせない。
冒頭でも触れたが、椎名さんの務める白神フォレストでは、秋田杉の樹皮から生まれた断熱材「フォレストボード」を販売している他、秋田県内の製材所とのネットワークで材木のストックヤードとして仕分け・検査・デリバリーを行っている。
このストックヤード業は元々、加藤さんが代表理事を務めていた《モクネット事業協同組合》によって規格化された秋田杉の材木などを扱っていたそうだ。
椎名さんと鈴木さんの仕事での関わりは?
鈴木「僕が顧客ですね。材木の手配もいつもお願いしています」
椎名「鈴木さんは秋田県内では一番の大得意です。それから『他の所にない材を探して来い』と無理難題を一番言ってくるのも鈴木さんです(笑)」
鈴木「でも椎名さんは絶対探して来るんです。ありがたいです。床の断熱材にはフォレストボードを使っています」
加藤「フォレストボードは木の家ネットメンバー内で広まっていった思い入れのあるものなので、もっと発展していってもらいたいな」
大江「以前は炭化コルクの断熱材を使っていましたが、私も全部フォレストボードに切り替えました。これからの時代は環境に配慮したものでなくてはならない。間違いなくグラスウールではなくフォレストボードに勝機があると思いますよ。」
環境にも人体にも優しいフォレストボードだが、まだ施工性などで課題も残されている。実はフォレストボードという商品ができた時に、県内で最初に使ったのが当時まだ他の会社に在籍していた椎名さんだった。
椎名「その時の第一印象は『使いづらいなぁ』という感じでした。今は逆に売る立場になり同様に『施工時に粉塵が多く出て、使う人には優しくない』とお叱りの言葉をいただくこともあります。こういった施工時のマイナス面は克服し、プラス面はもっと認めてもらえる施作を考えているところです」
具体的にはどんなことを計画しているのか、話せる範囲で聞かせてください。
椎名「数年前から希望サイズにカットした状態で納品できるようになりました。しかしもっと使いやすいものにしていきたいので、本実加工(ほんざねかこう:板の側面に凸凹の溝を設けてぴったりとくっつけられるように加工したもの)を施したフローリング材に裏張りするなど、施工性が上がらないかテストをしたり、使い方を示す仕様書を提供できるように話を進めている最中です」
大江「本実にできれば扱いやすいですね。海外では似たような商品で本実加工をしたものがあります。しかし規格が違うので日本国内で使うとなると結局切ったりしなければならないのでこちらも扱いづらいですね。」
椎名「この記事をご覧のみなさんも、いいアイデアがあれば教えてください」
ポテンシャルが高く、まだまだ発展を見込めるフォレストボード。より良いの製品へのアイデアを募集している。
人のため。環境のため。みんなに優しいより良い住まいを実現したい。鈴木さんと椎名さんは分野こそ違うが、同じ未来を見つめ守っていくべきこと、変わっていくべきことを見極め、日々家づくりに向き合っている。
私たちもこれからの生活がどうあるべきかを見つめ直し、暮らしの中で何を選択するかを考えて行かなくてはならない時が来ている。
株式会社 すずきハウスプラン 鈴木 隆美(つくり手リスト)
株式会社 白神フォレストコーポレーション 椎名 正人(つくり手リスト)
取材・執筆:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
長く使い続けるほど、価値が増していく。木の家は、建築士の奥隅俊男さんにとってそんな存在だ。埼玉県上尾市で千尋建築事務所を主宰する奥隅さんは、新築の設計ばかりでなく、長く使われてきた建物の修復などに多く関わってきた。修復の対象は神社仏閣や大きな邸宅、あるいは文化財といった価値の決まったものばかりでなく、普通なら見過ごしてしまうような民家や商店建築まで及ぶ。
修復の際、奥隅さんは丁寧に建物を調査することに重きを置いている。歴史や痛み具合の確認に加え、施主さんの思いや、これまで暮らした人、建てた人の思いをくみ取り、価値を見直していく作業だ。そうすることで建物は輝きを取り戻し、未来につながっていく。木材など経年変化する自然素材を使い、しっかりした伝統構法でつくられた建物は長く使い続けることができるという。
すべての木の家に、愛を込めたまなざしをそそぐ姿を追った。
千尋建築事務所を立ち上げて、20年余り。現在は既存の建物の調査や改修に関わる仕事が大半を占めるという。大きな建物や時間が限られる時は、同じように古き良き建物を生かしたいという仲間と協力するという体制で仕事を進めている。
「改修するときに大切なのが調査だ」と奥隅さん。外観や室内ばかりでなく、床下や小屋裏に入り詳細に調査し、“現在”の実測、図面おこしを行う。工法や技法、改修の痕跡なども調べ、記録をつける。建具の破損状況なども調査し、修復設計に役立てる。
さらには、建物の“過去”までさかのぼっていく。長く使われてきた建物は、建築当初から何度か改修や修理を経て現在の姿になっていることがほとんど。改修にあたり、建築当初の姿に復元するとは限らないが、「当初の状態とそのあとの改造の過程を調べて把握することで、どう修復するか検討でき、建物にふさわしい改修に役立つ」という。古い図面や改修時の図面もあれば、調べ尽くす。破損状態の調査も、修理内容や範囲を決めることにつながり、予算を把握することができる。こうして、時にはほこりで体中真っ黒になりながら、野帳を完成させていく。
調査は数日のこともあれば、大きな建物では1カ月かかることも。こつこつと、建物の歴史を紐解いていくのだ。
丁寧に向き合う姿は、建物だけでなく、施主さんにも然り。「聞き取り調査」も行っている。現在の施主さんから話を聞き、建てた当時の施主さんがどのように考えたか、どんな風に使ってきたか。また、職人さんがどのように考えて建てたのか、想像を膨らます。建物と住む人に、やさしく寄り添うのだ。
奥隅さんは、そのような幾重にも重なる調査を経て、建物の現状図面をなるべく正確にまとめていく。それをもとに、施主さんの要望や目的を盛り込んだ改修設計図面、そして計画を作成する。
こうして調査、改修設計をして修復した建物のひとつが、さいたま市岩槻区にある民家。大正時代に建てられた平屋の瓦ぶき屋根で、昭和46年の大改修(台所や風呂を増設したり、天井や壁の仕上げに合板を貼ったりする)を経てきた。それを、約1年半かけて改修、2018年に完成した。
施主さんは「奥隅さんの「聞き取り調査」の中で、方針が固まっていった」という。「この家は文化財ではないけれど、文化財的感覚がある。朽ち果てていずれ取り壊し以外に道がなくなるような事態は避けたい」という思いが強かった。他の住宅メーカーにも相談したが、建物をどう活用するかという方向になってしまい、「建物として残すという自分の考えからは物足りなく感じた」と振り返る。
奥隅さんと相談をしているうちに、方針の一貫性が一番大事であることに気づいた。その方針とは、できるだけ建築当初の姿に戻す復元を目指すということ。「古くからの家そのものが歴史を伝える価値がある遺産(財産)だ」というのは、ふたりの共通認識となった。そのため、文化財と同じような詳細な調査、修復設計を行った。
古い図面の発掘や聞き取り調査により、居間の一部は以前は玄関土間であったことがわかった。実際に沓脱石が床下にあることも確認でき、それをそのまま活かして修復した。
北側には改造により台所があったが、建築当初は縁側が廻っていたことも分かった。ここも修復により、再び縁側を配置したことで、部屋が明るくなったとともに、北側の庭との一体感が生まれたという。
合板も剥がし、天井は無垢板に、壁は木舞下地の土壁に修復。窓もアルミサッシに取り換えられたものを再び木製建具へ。それぞれの建具には古色(古い色にあわせて色をつける)する事で、当初の部材と調和するようにした。
一方で、建築当初から形態を変えた部分もある。一つ目は、建物の構造の補強のために間仕切りの戸をやめて耐震の壁をつけたこと。二つ目は、建設当初はなかった網戸を付けたこと。窓に雨戸とガラス戸などが入っていたことがわかったたが、さらに新たに敷居と鴨居を足し、雨戸とガラス戸と網戸の3枚立てにした。 いずれも建築当初の姿がわかっていながらの変更で、利便性を高め、この先建物を長く使い続けることに一役買っている。
ほとんどが工事前に作成した図面通りに工事したが、工事中に、壁の中から低いが立派な鴨居を発見し、そのまま床を低くして出入り口を設けた部分もある。「通常の修理計画では思い浮かばないものだった。建築当初の使い方がわかって面白い」と奥隅さんは柔軟だ。
建物、そして施主さんと真剣に向き合いながら、工期や予算も考慮し、適切な改修を目指している。
建築当初の姿に戻す復元の場合も、使い勝手に合わせた改修の場合も「建物をよく理解し、メンテナンスしながら長く使い続けられるようにすることが大切ではないか」と奥隅さん。そのために必要なのが、丁寧で詳細な調査だとして、日々励んでいる。
軸組みなど伝統構法によってできた建物は増改築にも適し、現在の生活にも柔軟に対応できる。さらに、「自然の素材でできた家は経年変化によって美しく、四季折々の風景になじむ。気候風土に適応した知恵も受け継がれている」と強みを語る。そこに、「建物の大きさや豪華さはあまり関係ない」というまなざしは優しい。
このような感覚を持つようになったのは、前職、そして海外での経験からだという。奥隅さんは大学卒業後、設計事務所に勤める一方、日本建築セミナーという木造建築の講座に参加。このセミナーには全国から会員が集まり、定期講座と文化財修理の見学などをして学びを深め、「大変勉強になった」という。
設計事務所は6年で退社し、向かったのは海外。大学時代の研究がイスラム圏のバザール(市場)で、当時は文献や資料での調査だったことから「20代のうちに現地を見てみたい」と飛び出したのだ。インドから西へ向かい、イランやトルコ、イエメンを経て、ヨーロッパ(ギリシャ、イタリア、スペイン)を巡るひとり旅。歴史ある遺跡も素晴らしいが、奥隅さんの心をつかんだのは、石や日干しレンガ、木など現地にある自然素材でできた「いわゆる普通の民家」だという。そこにあるものを使った、その土地の気候に合った家。それが連なり、自然となじみ、美しい風景をつくっている。遺跡とちがって、実際に今も暮らす人々のいきいきとした力強さも加わり、美しく見えたという。「長い年月が経ち風化し、素朴で、なんともいい感じ」と、夢中でスケッチしていった。そんな10カ月を過ごした。
帰国後は再び日本建築セミナーで学び、「伝統工法は日本の風土に合い、歴史もある。海外の伝統的な建物に通じる良さがある」と再認識。伝統的な木造建築を手掛ける眞木建設に入社した。寺社や民家の文化財調査や修理、新築設計に加え、現場監督も務めた。東京の江戸東京博物館に江戸時代の歌舞伎小屋「中村座」を復元する仕事では、設計図作成の補助と現場監督を担当。設計と職人をつなぎ、予算や工期、品質に気を配りながら現場を進めていった。
「現場では、伝統的な木造建築と長い時間向き合うことができた。ここで学んだことが独立してからの仕事の基礎になっている」と奥隅さん。日本の伝統建築は、解体修理すれば再び組み立てられる優れた建築であること。それを長く使い続けるためには、破損や腐食しないように、メンテナンスしやすいように作ることの大切を学んだという。
独立して事務所をかまえた上尾市は、生まれてからずっと住み続けている場所だ。ここには江戸時代、江戸の日本橋と京都の三条大橋をつないでいた「中山道」が通る宿場町だった。建物は高度経済成長期にほとんど建て替えられたものの、わずかに土蔵の商家が残っていたが、奥隅さんが独立してすぐ、旧道拡張工事によって建物が解体されることになった。聞きつけた奥隅さんは、計画していた上尾市の担当者に直談判。「古い建物がなくなるということは、景観がなくなり、宿場町だった歴史が忘れ去られてしまう」という危機感が、背中を押した。それまで特に地元での実績はなかったというのに。
担当者は所有者と話してくれたり、移築を検討してくれたものの、結局、取り壊す結果となった。せめて記録を残すということになり、上尾市は、取り壊す前の調査を奥隅さんに依頼。これは、予定にはなかったものだという。調査した歴史や構造は、一冊の調査報告書として残された。
「建物がなくなってしまったことは今でも残念」と話す奥隅さんは、その後、市の文化財保護審議会の委員を務め、市内の建物の調査、報告書作成も依頼されるように。その中には指定文化財になったものもあるという。現在は荒川河川集落の歴史建造物保存活用に関わり、建物を残し、長く使い続けることの提案に精を出している。
奥隅さんは言う。「長く使い続けている家は、歴史の一部で、人々の思い出、地域の財産そのもの。大切に残していくべき存在だ」。
昭和を代表する日本画家・東山魁夷のことばがある。「古い家のない町は想い出のない人間と同じである」。これを、胸に刻んでいるという。
長く使うことを前提とした調査は、建物を生かすことにもつながるのではないか。例えば、全国的に問題になっている空き家は「危険だから、近隣に迷惑だからの一言で取り壊すのではなく、調査によって価値を発見できれば、残すことができるのではないか」と奥隅さん。増加する自然災害による建物の損傷・解体についても、適切な調査による活用の可能性を考えている。
奥隅さんの事務所名「千尋」は、現場の職人さんから聞いた言葉だ。茅葺を解体し束ねるとき、ひもを一尋(ひとひろ/両手を広げた長さ)に切って使う、と教えてもらった。千尋は一尋の千倍、転じて、非常に高い、深いという意味を持つ。
なぜ建てるのか、なぜ残すのか。ひとつひとつの仕事に、深い意味を見出しながら、向き合っている。
>2019年に起きたフランス・パリのノートルダム大聖堂の火事では、修復費用として1000億円の寄付金があっという間に集まったという。価値があるものとして認められた建物を守ろうという動きは、心強い。建物の価値とは、優れた建築技術であったり、歴史的に重要なできごとが起こった場所であったりすることで生まれる、と考えていた。しかし、奥隅さんと話すと、それだけではないと思わされた。
奥隅さんが修復した民家たちは、言ってしまえば名もなき建物。価値も、文化財と比べると低いと認識してしまう。しかし、写真でのビフォー・アフターを見ると、これは残すべきものだ、と素直に思った。古いからこその美しさ、趣には、目を見張るものがあった。
よく考えれば、どんな民家でもそこで暮らしてきた家族のドラマがある。商店だってそうだ。歴史をひっくり返すようなことは起こらなくても、日々の営みはそれだけで建物に、何かエネルギーのようなものを与えるのだろう。
その価値を、きちんと認めていきたいし、そういう世の中であってほしいと願う取材となった。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(写真一部は奥隅さん提供)
埼玉県越谷市で設計事務所「けやき建築設計」と建築施工会社「欅組」を営んでいる畔上順平(あぜがみじゅんぺい)さんのご紹介です。
畔上さんは、1976年生まれで現在43歳。生まれも育ちも越谷で、地元越谷を離れる事なく、東京の学校や会社に通い、29歳で「けやき建築設計」を設立。現在は同じく地元越谷生まれの奥さんと10歳の娘さん、6歳の息子さんの4人家族だ。
元々設計事務所だけでスタートし木の家を中心に作ってきたが、住む環境や自分を取り巻く状況などによって徐々に興味関心が変わってゆき、設計行為だけでは物足らなさを感じ、実際に手を動かして作ることに関心が出てきたそうだ。
「ちょっと直してよ」とか「まとめてやってよ」という依頼が増えていく中で、徐々に自分で職人さんを手配したり仲間が集まってきたりと、建築会社らしくなっていったとのこと。今では設計から施工まで一貫して引き受けられるように「けやき建築設計」と「欅組」の両輪を廻している。設計だけの仕事・施工だけの仕事・設計施工まで一貫して引き受ける仕事など、様々な立場で仕事をされている。
デザイン設計・職人さんの技術・本物の素材を使うという3点がクリアできていれば手段やポジションは問わないというのが社内での共有意識だという。
「オールラウンダー的な感じです。時代と共に自分の関心も世の中のニーズも変わっていく訳ですし、ベースとなる得意分野から少しずつ領域を広げていくというのは、当然なのかなと思っています。」
また、家族の存在も今の仕事の方法論に影響を与えている。
「我が家はみんな越谷なので『視野が狭いね。そこしか見えてないんだね。』なんて声も聞こえてきそうですが、逆に越谷という共通言語が家族内にあるというのは、広がりはないですが、ガッチリとした連帯感があります。家族を通して地域の暮らしを見つめ直している時期ですね。ですのでお客さんに対してもそういう目線で提案できるようになりました。」
例えばこんな提案だ。
「新築で家を建てたいと相談に来たお客さんに『本当に必要なんですか?』と言ったことがあります。もちろん『なんでそんなことを言うんですか?』という反応をされる訳なんですが、『いや、もったいないからです。ローンも含めて何千万円も払うわけじゃないですか。それをやめればいろんなことにそのお金を使えますよね。』とお答えしています。ご両親の家はガラガラだったり土地が余っている場合などもよくあります。一時的に我慢をしたくなかったり、同居できない理由を一生懸命考えるんですが、逆に我慢せずに一緒に居られるようにするためにはどうすれば良いかと言うことを、設計や計画で解決できる場合もあるということを提案しています。」
かなりプライベートな部分にまで踏み込んでいく印象だ。
「もうそこまで踏み込んで提案する産業にしていかないとダメだと思います。日本って住宅に対するお金の掛け方が異常じゃないですか。一代でローンを組んで、晩年までお金を払い続けて、完済した頃にはもう老朽化して壊したり、不要になって空き家になったり。そんなシステムは非常に良くないと思っています。もう新しい家ばっかりいらないんです。ちょうど世の中的にもリノベーションとか既存ストックを有効活用することが認知されてきているで、お客さんに対して『まだ捨てなくていいんじゃないんですかね?』『大切にしませんか?』と提案できる良いタイミングかなと思っていますし、提案していかなければならない立場にいると思っています。」
何がそこまで畔上さんを本気にさせるのだろうか。
「自分の地元のことだから本気で考えられるんです。死活問題ですから。遠い地方から依頼されて知らない人や知らない街のためにする仕事だと、どうしてもここまで本気で取り組めないと思うんですよ。地域のコミュニティ・アーキテクトとか小さい単位での建築士の役割が非常に大切だと思います。」
次に会社のスタッフや職人さんとのやりとりについてお話を伺った。
「うちの技術系のスタッフは自分以外に2名が監督として在籍しています。まだ両名とも若いのですが、お客さんとの打ち合わせ・調査・積算・見積もり・工事の契約・管理監督・引き渡し・アフターメンテナンスまでワンストップでやる仕組みにしています。もちろん得意不得意が出てくる部分もありますが、全部トータルで経験してもらって、徐々に自分の得意分野に特化してやっていってもらえばいいかなと思っています。」
実際の業務では信頼関係を築いてきた職人さんたちと監督とで案件ごとのチームを組んで進行している。監督が若手である一方、職人さんは40代を中心に若手から年配まで様々だという。
「一緒にチームで仕事をするので外注という言い方はしないようにしています。職人さんたちも自分たちを〝チームけやき〟と呼んで愛着を持って取り組んでもらえているので嬉しいです。『信頼関係が一番』というと薄っぺらいように聞こえますけど、それが全てなんですよね。大手ゼネコンの仕事のように一から十まで管理して進めると、僕らのやっているような家づくりでは全然仕事にならないでしょうし、いいものにもなってこない。『ここは全部任せたよ』と言って、各々の責任で仕事をしてもらっています。信頼しているからこそ、この言葉を発せられるし、受け止めてもらえるのではないかと思っています。」
「また、監督である若いスタッフに対しては、私がずっと張り付いて、ああしてこうしてと指示を細かく出すこともできますが、それはしないようにしています。その中でも一定以上のクオリティの建物を作ることができているのは、やっぱり職人さんの力があるからこそなんです。監督という立場ではありますが、及ばない部分は、実際は職人さんが補填してくれている訳です。監督として管理はしていますが、逆に職人さんから教わって学ばせてもらっている状態ですね。それが出来ているのは職人さんの技術や人間性が高いレベルで保てているからだと感じています。」
畔上さんはよくスタッフに『他の工務店にパッといって同じ仕事ができると思ったら大間違いだから。』と言っているそうだ。だからと言ってどこでも潰しが効くような育て方に変えるつもりはないとのこと。
「上手くいっているチームにいて失敗が少ないから監督はそのことがわかんないんです。あんまり成長しないんじゃないかとも思われますが、いいものを見て、いい仕事をちゃんとやるということを覚えて、いい経験を積み重ねていってくれれば、いつしか今度は若い職人さんを引っ張りあげる力になるんじゃないかと考えています。」
「そうやって、職人同士や設計者同士の枠を超えて、技術やノウハウが行ったり来たりしながら伝わっていくことで、次の世代に引き継がれていくという形もあるんじゃないかと思うんです。同じことをやるにしても、立場や専門分野によっていろんな見方がある。それを受け入れられるようになってくると成長して行くんじゃないかな。そんな学びの場でもある〝チームけやき〟が、きちんとクオリティの高い建物を作り上げて、お客さんに届けられているということには、誇りを持っています。」
一般的な手法とは一線を画す考え方で若手を育ててられている畔上さんの話にはうなずくばかりだが、チームメイトの職人さんの場合はどうなのだろうか。職人さんの話になると必ずといっていいほど話題に挙がるのが後継者問題。畔上さんは何を感じ、どう考えているのか質問してみた。
「自分の周りの職人さんの場合も、やはり後継者をどうするかという問題には直面しています。僕は直接は関係していない訳ですが、実はあえてそこに介入しています。」
「ただ『継ぎなさい』と無下にいうのではなく、例えば『お父さんのやっている仕事は本当に素晴らしいから、受継げば必ず需要もあるし求めてくれる人も沢山いるよ。自分たちも真剣にやっているから一緒に仕事をやらないか?』と言って迷っていた息子さんを誘ったりしています。やっぱり第三者が介入しないと、親子だけではこいうった話はすんなりは進まないんですよね。」
家づくりにも、後継者問題にも、懐に一歩深く入り込むのが畔上流だ。
けやき建築設計のウェブサイトを見ていると施工実績に並んでいる建物の名前が気になった。一般的に〝どこどこの家〟というネーミングが建築関係者のセオリーだと勝手に思い込んでいたので、〝原点回帰の家〟〝森の舟屋〟〝和の暮らしと趣を残す家〟といった名前は意外に感じ想像が膨らんだ。
「共通したテーマがあるとみんなでそこに向えていいなと思ってずっとやっています。迷った時に共通認識があると指針になるんですよね。お客さんともそうですし、スタッフ間や職人さんとの間でもそうです。少し話が脱線しますが、主に越谷だけを中心に建築の仕事をやるとなると、例えば〝石場建てしかやりません〟〝住宅しかやりません〟だと絶対量として仕事が成立しません。ですので手段としての領域はかなり広くできるようにしています。そんな中でいろんな仕事をしていると、スタッフや職人さんも何をするべきか迷ったり、ビジョンがぼやけちゃうんです。そこでテーマを設定することで、各々のやるべきことが明確になり、向かうべき方向を共有できるというメリットがあります。」
七左の離れ屋
2009年竣工。暮らしに色気を求める建主さんのために、住まうための機能だけに偏らず、モダンで美しい日本家屋を建てたいとの想いで、母屋とは別に〝現代の数奇屋〟のような離れのある家を作った。〝離れ屋〟がこの家の名前でありテーマという訳だ。
自然と共に生きる家
こちらは今年竣工したばかりの30代のご夫婦の住まい。新築ではなく祖父母が住んでいた家を活用した。
とにかく自然素材で行こうということで設定したのが〝自然と共に生きる家〟というテーマ。モルタルの外壁は全て県内産の杉材に張り替え、グラスウールの断熱材はみんなの共通認識として使いたくなかったので、替わりに壁の中にも杉の板を敷き詰めた。普段では考えられない方法もテーマを設定すると生まれてくる。工事で出た廃材は薪ストーブの燃料になっているそうだ。
〝七左の離れ屋〟に比べるとリフォームとはいえザックリした仕上げ。設定したテーマによって〝どこにこだわるか〟が違う全く違う。決して手を抜いている訳ではないのだ。
「テーマの下で作っていくとやっぱり出来上がるものが違うんですよね。お客さんと打ち合わせをしていく中だったり、建物の特徴だったり、色々出てくるキーワードをかき集めて『これでいきませんか?』と提案しています。関係者間で何か議論になった時でも、『テーマがこうだからこうしよう』と堂々と会話ができ、みんなが納得に達するのが早いんです。そうすると大きなミスや『話が違う』みたいなことにもならないんです。結果としてお客さんからの満足度に繋がりますし、つくり手のやりがいも出てきます。」
ここでもまた畔上流を感じた。
木の家を多く作ってきた畔上さんだが、最近では店舗やカフェなども手がけている。そこにどんな変化があったのだろうか。旧日光街道にある実際に手がけたお店を案内してもらいながら話してもらった。
まず連れてきてもらったのは、3年前の2016年12月に完成した〝CAFE803〟。
「日光街道にもう一度人が集まる場所を作りたい。」「越谷にサードプレイス的な場所を作りたい。」そんな想いでスタートしたプロジェクトで、現在では越谷に住む人たちのコミュニティスペースとして定着しており、想い描いていた以上の活用のされ方に驚いているそうだ。
「『そもそも日光街道を賑わせる必要があるのか』というところから議論をスタートし、『川越のような賑わい方を越谷は求めていないんじゃないか』という意見に今のところ落ち着いています。その中でも越谷で暮らす人たちが心地よく使えるような設え・店構え・街並みとはどんなものなのかと分析しながら進めている最中で、トライ&エラーの連続です。いつの間にか仕掛け人みたいな感じになっています。(笑)」
「自分の興味関心が家からまちに広がっているんです。〝いい家が出来ていけば、いいまちが形成されていく。いいまちが出来れば、そこに住む人々の暮らしが豊かになっていく。〟という感覚を持っています。地域の価値が上がっていくことであれば、どんなことでもやっていこうと考えています。そういう想いで日々の仕事に取り組んでいると不思議なことにお店からの依頼が来るんですよね。そしてそのお店に足を運んでくれた人たちから伝播して、また次へと繋がっていって…という風に店舗やカフェを手がける方向に活動が広がっています。」
独立当初は、建築業界や全国基準などを気にして〝自分がどのくらいのことをしてやっているのか〟という軸で仕事をしていたそうだが、最近はそれよりも〝越谷に身を置いているので、越谷の暮らしを良くしていこう〟というスタンスで仕事をするように変わってきたそうだ。
「全国から越谷だけに視野が狭くなったという訳ではないんです。地域をより良くしたい、良い状態を保ちたいという想いで仕事をしている建築関係の人が、木の家ネットの会員をはじめ全国にたくさんいます。各地域に広がるその想いの輪が重なり合って、徐々に日本という国を覆い尽くすといいなと思っています。その中で「越谷は俺が守る(笑)」みたいな想いを胸に取り組んでいます。
続いて案内してもらったのは、同じく旧日光街道沿いにある2018年4月にオープンした〝はかり屋〟。
およそ築120年の〝旧大野邸 秤屋(はかりや)〟を、こだわりのショップ・レストラン等、当時の宿場の雰囲気を体験できる古民家複合施設として生まれ変わらせた。「人々の想いやまちの歴史を過去から現代そして未来へと繋げていける存在であり続けたい。」との願いが込められている場所だ。
「ベッドタウンだと思ったのにこんなところあるんだ」とびっくりされることが多いとか。「もともとはこの日光街道沿いはこうだったんだよ。」というとさらに驚かれる。「外から流入してきた人が多いのでみんな知らないんですよね。」と畔上さん。
「だから地元に昔からいる人間としては、物を残すことが大事だなと思います。一度壊してしまうとただの昔話になってしまう。そうすると『ふーんそうなんだ』で終わってしまうけど、こうやって目に見える形で残して、そこで体感してもらうと一瞬で歴史を理解してもらえる。百聞は一見に如かずです。」
「こういった建物を一軒でも多く残すことが地元の建築屋の使命かなと思っていて、ロールプレイングゲームのように楽しみながら携わっています。単純に受注されたものだけを直したり作ったりというだけのペースだと、古い建物はどんどんなくなってしまって、まちなみを残すことはできません。使命を果たすために、はかり屋もCAFE803も自分から運営にコミットしていっています。」
「ただ結局〝他人の家〟なんですよね。『残してください』と言ってもおこがましいので『こういうことをやれば残せるんじゃないんですか』という提案の部分まで入り込んでするようにしてます。いきなり外部のコンサルみたいなのが来ると『なんだこいつは』みたいな印象を持たれてしまい、入り込むどころか門前払いされてしまいますが、はかり屋やCAFE803もやっているという実績があれば『任せてみようか』という流れにもなっていきます。」
地域密着で建築やまちづくりを地道に続けることにこそ、地方の建築士や工務店の活路が見出せるのではないだろうか。
設計だけから設計施工へと、家づくりからまちづくりへと、自身の興味関心と共に活動範囲を広げていっている畔上さん。今後や将来に対してはどんなビジョンを描いているのだろうか。
「ハウスメーカーなどの家に比べたら、自分たちの作っているような木の家は決して安くはないので、いい家が欲しいけど手を出せないという人も多いもしれません。だったら、リフォームをしたり店舗を作ることに対して同じような想いで取り組んでいった方が、より多くに人に自分が良いと思っていることを伝えていけるんじゃないかなと思っています。もちろん一軒の家を建てて、一つの家族に満足してもらうことは大きな喜びではありますが、より多くの人に体験してもらえる形で、自分たちのやっていることを伝えていく事にこそ、いろんな活動や運動をやっている意味があると思うようになりました。」
「越谷で自分も色々やっているつもりですけど、結局盛り上がっていくスピードと落ちていくスピードを考えたら、落ちていくスピードの方が速いんですよね。そのエネルギーをとてもじゃないけど自分一人では維持することも加速させることも難しいので、仲間や共感してくれる人を増やしていきたいですね。」
そこにどれだけの人が本気で関わることができるか。越谷だけではなく、各地方のまちづくりにおけるターニングポイントだ。
けやき建築設計・欅組 畔上順平(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
一歩足を踏み入れると、まるで背筋が伸びるような、凛とした別世界・・・埼玉県新座市の内田工務店が手がけた木の家は、そんな空気をまとっていた。
内田工務店は、現在の会長である内田光男さんが、いち大工から叩き上げで大きくしてきた。
大工の道に入り、職人を束ねる棟梁、そして社長として役割を変えながら、木の家と真剣に向き合ってきた。内田さんは、「木の家づくりには、ひとりの職人を一人前にしてくれる懐の深さがある」と力を込める。これまで約15人の弟子を育て、施主に喜ばれる家づくりの輪を広めている。
「木の家でないと、大工は育たない。プレカットではだめだ」。内田さんはまなざし鋭く、こう言い切る。
手刻み、木組みの木の家づくりに必要な能力は、数多あるという。全体を見ながら細部にも気を配ること。木や土など、自然から生まれた個性ある素材を組み合わせ、美しく仕上げること。粘り強く時間をかけながらも、納期を意識すること。何より、単なるものづくりでなく、財産づくりそのものだ。
施主の中には、家づくりのためにストレスを抱えたり、借金を背負ったりする人もいたという。家をつくる大工には、責任感が重くのしかかる。
内田さんはその責任感を、10代で弟子入りした時からひしひしと感じてきた。幼いころから手先が器用だったことから、親戚の大工のもとで修行。26歳で独立した。30代で法人化。72歳になった今は、会長として工務店を支える。
「時代とともに、家づくりの考え方が変わってきた」と内田さん。以前は、大工と施主が、世界にただ一つの家を「なにもないところからつくる」ものだったが、ハウスメーカーなどの台頭により「あるものの中から選ぶ」感覚になってきているとみる。そうなると予算ありきの買い物になり、手刻みよりも安く済むプレカットを使うことが、現実的な場合も出てきたという。
現在、内田工務店が手掛ける家づくりで、手刻みとプレカットの割合は半々くらいだ。工務店に所属するのは職人5人、現場監督2人。加えて、事務を担当する従業員が3人いる。
工務店の経営や施主の予算を考えると、木組みや手刻みだけにこだわり続けるのは難しい状況だというが、「職人を育てるという視点では、木の家づくりをゼロにしてはいけない」と考えているという。
こう考えるには、わけがある。内田さんは修行時代から造作仕事が得意で、「建物の線が綺麗と言われるのが、嬉しかった」という。
腕を生かせるのが、木組み、手刻みの木の家だった。寺の鐘楼堂や、数寄屋風の家づくりにのめりこんだという。
しかし独立してひとりで仕事をするようになると、壁にぶつかった。「俺はいい家を建てられる、という自信があったが、腕は2本しかない。喜ばせられる施主さんの数も少なくなってしまう。俺と同じ仕事ができる人間をつくろう」との思いから、弟子をとるようになった。
地元の若者を紹介してもらったり、大工育成塾の受け入れ先になったりして、さまざまな弟子と出会ってきた。「何もわからない若造が、腕を磨いて、一軒建てちゃうんだぜ。感動するよ」と内田さん。そのためには時間が必要で、時間をかけて作り上げる木の家が最適なのだと強調する。
その時間も、ただかければいいというわけではない。大工の技術には、単に美しく仕上げるだけでなく、効率よく作り上げる知恵が詰まっているのだという。積み重ねてきた伝統の成せる技だ。マニュアル冊子があるわけでもなし、職人同士、手を動かし、言葉をかけながら伝えていくしかないのだ。
修行した弟子のほとんどが、地元で工務店を立ち上げ社長として活躍している。削ろう会で賞をとった人もいて、「自慢の存在」と誇らしげだ。
一方で、「誰もが俺みたいな仕事ができるわけじゃない。向き不向きがあるから、やめたってかまわない」と思うようにもなった。そして、「いくら腕がよくても偏屈では通らない。施主さんを喜ばせようって気持ちで仕事をするよう伝えているつもり」と笑う。
伝統を受け継ぐ大工と、人を育て経営を担う社長、それから、職人を束ねる棟梁の両立。
「バランスをとろうとか、理想があってやってきたわけじゃない。施主さんの要望に応えようと、一軒一軒真剣勝負してきただけ」と振り返る。
その結果は、現場から経営まですべての経験として、内田さんの中に積み重ねられている。
令和に時代が変わり、同工務店も8月、息子の健介さんに社長職をゆずった。光男さんは現場を回るより、図面を書いたりと事務所で過ごす時間が増えた。
健介さんいわく、光男さんは「経験値がけた違い。頼りになる存在」と話す。光男さんも「信じて任せることで成長するから。なるべく口出しはしないようにしてる」とほほ笑む。
内田工務店のコンセプトは「自由設計の家」。この自由さが、施主の満足度を高める。
「無垢の木の家に住みたい」。このような要望があった市内の日本画家・Aさんは、内田さんとの出会いにより理想としていた数寄屋風のアトリエ兼住居に住むことができた。
この家の門は、木製の数寄屋門だ。雨や風を優しく受け止め、また、Aさんの手によって丁寧に磨かれることで、独特の風合いがある。内田さんは、「建てたばかりの真っ白な門もいいが、日がたってまたさらに深みが出たな」と目を細める。
門をくぐった瞬間、外の空気と違う空気が流れて、落ち着くような、懐かしいような、そんな気持ちにさせる。庭には、紅葉やイチョウなどさまざまな木が美しく連なり、季節を教えてくれる。
玄関を開くと、スギヒノキでできた壁や床のホールが、ぬくもりを感じさせる。正面にあるケヤキの小さな床の間に飾られた季節の花からは、温かみがこぼれるようだ。
「本物の木の家には、何十年経っても古くならない良さがある」と言い切る内田さん。Aさんも、「飽きないです。わびさびの世界に身を置くことは、日本人にとって心地よいことなんでしょうね」とうなずく。
2人に、建設当時を振り返ってもらった。
Aさんは以前、ハウスメーカーの中古の一軒家に住んでいたが、住んでいくうちにとちょっとした違和感や住みづらさが出てきたという。「今思えば、合板や集成材といった材料にひっかかっていたんでしょうね」とAさん。
新築を考える際も、ハウスメーカーに相談したが、ドアノブひとつにしてもあるものの中から選び、そこに気にいるものがなければ、オプションで高額になるというスタイルが「自分にはしっくりこなかった」という。
インターネットで見つけた内田工務店は、内田さんにイメージを伝えると、新しいものを次々に提案してくれたという。数寄屋門や、家のサイズに合わせた小さめの床の間がそうだ。
内田さんの自宅である無垢の木の家を訪れた時には、その居心地の良さにすっかり魅了されてしまったという。さらに、内田さんの現場仕事が休みの日曜に、嫌な顔せず相談に乗ってくれたり、趣のある古材を探しに秩父まで同行してくれた姿に、信頼を寄せている。
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それから、憧れた無垢の木の家だが、心配だったのは値段だ。内田さんは予算内に収まるような工夫をしてくれた。
その一つが、玄関ホールの床板。見栄えがするところなので通常なら高級な床材を勧めるが、
ヒノキの木裏を使うことでコストを抑えた。
さんは「家が建っていく時のわくわくは、今でも忘れられない。私は人を感動させたいと思って絵を描いていてなかなか難しいのですが、大工さんは簡単にこなしてしまう」と話す。
Aさんは数寄屋風の家づくりにこだわったが、内田工務店の「自由設計の家」は、伝統的
な大工仕事だけにとどまらず、モダンなデザイン住宅も手掛けている。
施主の要望は多種多様。どんな形の家であっても、「本物の無垢の木を使うことで、住み心地のよい空間をつくりたい」というのが、内田さんの信念だ。それを実現するには、木の変化に対する深い理解と、高い技術力を持つ大工の存在が欠かせない。すべてはつながっているのだ。
「好きでこだわった仕事で、施主さんに喜んでいただき、人も育つ。こんなにありがたいことはない」と内田さんは語る。
家づくりのスタイルと同様、働き方のスタイルも変わり、職を替えていくのが珍しくない現代。木の家にかかわり続けて50年以上という経験から生まれる存在感は、とてもまぶしかった。
こちらが質問すると、ぽんぽんとよどみなく答えが返ってくる。長年の経験を、きちんと整理、咀嚼している様子は一目瞭然だった。
あまりの明瞭快活ぶりに、「昔からこんな性格なんですか?」と聞くと、18歳の時、仕事中に大けがをし、大工を続けられるかの瀬戸際に立たされたことを打ち明けてくれた。「好きな仕事をやらせてもらえるのは、本当に幸せなことなんだよ」という言葉は、シンプルに、胸に突き刺さった。
訪れたのは熊本県八代市。土壁の家工房 有限会社田口技建の二代目 田口太(たぐち ふとし)さんにお話を伺った。
田口技建は父親の敏雄さんが昭和30年代に創業し、現在では職人5名を自社で抱える工務店であり、一級建築士の田口さんが設計をされる建築事務所でもある。特色は「土壁の家工房」と謳われている通り、土壁・泥壁にこだわって家づくりをされていることだ。使用する材木についても地元の製材所に頼んで自然乾燥で桟積みしておいてもらったものを職人の手で一点一点手刻みで加工造作している。またそれらの木や土については地元のものを使いエネルギーコストを抑えるように努めている。
「日本の建築文化で培われて来た先人の知恵や、技術を生かした伝統的構法を受け継ぐ家づくり、そして川上から川下まで顔が見える家づくり」がコンセプトだ。
田口さんはここ八代生まれで、父親の大工仕事を見ながら育ち、小学生の頃から大工になりたいと思っていたそうで、高校生の時にはすでに泥壁塗りの手伝いをしていたという。その後、父親の元に正式に弟子入りし、神社・寺院の修繕や新築の茶室の仕事などに精を出す傍ら、独学で勉強し二級建築士、さらに一級建築士の資格を取得する。
「けど、結局大工仕事が好きで、“設計のできる大工”みたいな感じです」と笑う。
社名と共に“土壁の家工房”と書かれている通り、土壁の家を多く手掛けられてきた田口さん。そのこだわりはどこにあるのか尋ねた。
「元々こだわっていた訳ではないんです。八代は泥壁や土壁が昔から多い地域で、最近まで当たり前に目にしていたんです。それが時代と共にみんな辞めていってしまって、逆に目立つようになったんだと思います。本来は大工仕事オンリーでやっていたんですが、知れば知るほど面白い部分と悩む部分があり、大工でありながら土壁の魅力にのめり込んでしまったんです。大工と左官がいればほぼ一棟を自分たちで建てられる。職人の技術を活かしていけるというのが一番の理由ですね。」
「それからもう一つ、産業廃棄物の処理の問題がクローズアップされ始めた時期に見た光景が忘れられません。たまたまプラスターボードの切れ端などを最終処分場に捨てに行った際に、大型トラックがガンガン来て「グワーー!!」と大量の新建材をバンバン捨てていくのを目にしたんです。そうしたら目がものすごくチカチカしてきてその場に居られなくなり『このまま時代が進んで新建材を使った家が立て替えや改修の時期を迎え、もっと大量の新建材を破棄せざるを得なくなった日には、もう取り返しのつかないことになるぞ…』と見た瞬間に感じました。木と土壁なら全て土に還すことができる。それが二つ目の理由です。」
そんな想いから土壁を大切にする田口さんは、土壁のために赤土を“練り置き”する水槽を作業場に構えている。大工もみんな荒壁塗りをするそうだ。
「水槽の容量は2トンダンプ8台分で、60坪の家一軒を賄えるほどの量とのこと。ここに藁スサと水を加えて混ぜながら1〜3ヶ月くらい練り置きする。赤土に藁スサを加えて練り置きすることで、藁に含まれるリグニン(分解するとノリのようになる)と納豆菌(発酵が進む)の影響で、十分に練り置きした土は、塗りやすさと固まった時の硬さが向上し耐候性が増すという。
次回のためにタネ土として少し土を残しておき、継ぎ足して使うことで発酵が早く進むので、田口さんはこの土を「秘伝のタレならぬ秘伝の土」と呼んでいる。
秘伝の土の改良のため、土の種類や混ぜ物の配合など日々研究中だ。
今から20年前、田口さんに“代替わり”という転機が訪れる。堅気で職人気質な父親に対して、自分がどういう方針で受け継いでいくのか、はっきりさせないとならない時期になっていた。
それまで普通にやってきた伝統構法の木造建築の他に、時代の流れ中でいわゆる“文化住宅”の仕事も手がけるようになっていた田口さん。今時の仕事ばかりが増え「培ってきた技術を活かせない仕事ばかりではダメになるよな」という意識もあったが、フランチャイズや高気密高断熱などの新しいものを取り入れた方がいいのではないかと、若かったので翻弄され悩んでいたそうだ。
そしてあるふたりの言葉が、そんな田口さんを伝統構法の木造建築家に立ち戻らせることになる。
「化学肥料・農薬が当たり前の時代なっているけど、我々農家は立ち返って昔ながらの考え方・やり方(堆肥を使うなど)でやって行かないとこれから先だめなんだよね。」
同じ八代で、い草農家を営むOさんの言葉だ。この一言に田口さんは「そうか、俺らも確かに高気密とか新建材とかじゃなくて、親父たちがしてきたような昔ながらやり方に立ち返った方が良いのではないか。」と考えさせられたのだという。
「窓を閉めたら高気密、開けたら高気密じゃないとか危ないよ。自分がやれること、得意とすることをやればいいんじゃない?今までやってきた自信の持てることをやった方がいいよ。」
この言葉は工務店の先輩のMさんに「高気密高断熱の家を扱ったりフランチャイズにした方が、この先良いんですかね?」と相談したところ返ってきた言葉だ。
「ふたりの言葉がピーンと私に響いたんです!」と声を大きくする。
ちょうど今、田口さんに影響を与えた、い草農家のOさんの自宅を建築中とのことで現場を案内してもらった。
八代市内で絶賛建築中のい草農家「ファミリーファームOKA」を営む岡さんの自宅は、約60坪の平屋。大工仕事はだいたい終わっていて、これから左官仕事が本格化する段階だ。
内装の荒土は自慢の練り置きしておいた赤土で、この後塗る予定の仕上げの漆喰にはい草の粉末が混ぜ込んであり消臭効果が期待できる。最初は緑色っぽく5年程経つと茶色に変化していくという。畳と共に部屋全体が経年変化していく。もちろん岡さんのい草を使用している。
まっすぐと東に伸びる廊下の先には緑の田んぼが広がり、室内をほんのり緑色に染めていた。実はこの窓、お正月には初日の出が真正面から差し込んでくるという粋な設計になっている。また、まだ見ることはできなかったが、部屋ごとに違う畳を配する予定で、子供部屋には一部に色を混ぜるなど、い草の老舗ならでは内装になりそうだ。
「昔からの建築と昔からの畳で、どの部屋も全部こだわっている。」と田口さんも岡さんも口を揃える。
大工仕事は田口さんの長男・柾哉さん(26)が墨付けから手掛けている。他社で経験後5年前に田口さんの元に戻ってきた。
伝統構法の家をつくることについて尋ねると、「ずっとやっているやり方なので、これが当たり前です。まずは仕事を覚えていきたいです。」と心強い返事が返ってきた。
「親が弱ってくると息子がしっかりしてくるものだよ。」
そう笑う岡さんもまた、息子の直輝さんとともに、い草と向き合っている。
実は岡さんの経営する「ファミリーファームOKA」は、木の家ネット記事(2019年3月1日公開・加藤畳店 加藤明さん)にも登場しており、鎌倉の設計士・日高保さんがイチ押ししている「すっぴん畳表」を製造している。敷地内にある工場を案内してもらった。
畳を知る人なら「すっぴん畳」と言えば「岡さんの畳」を指すという。業界では有名な岡さんの畳は唯一無比の存在だ。
なぜ“すっぴん”かというと、通常、い草を収穫して乾燥させる間に「泥染め」という工程を経ることで、早く均一に乾燥させることができるのだが、「すっぴん畳」はその工程を経ることなく乾燥させているため、い草本来の緑色をしている。また、細胞の構造を崩すことなく残しているため、植物としての水分を吸ったり吐いたりする機能を有しており、吸湿性も優れている。無洗で乾燥させることは特に難しく、業界初の技術を確立しているからこそ実現できるのだそうだ。7〜8年経つと光沢が増し黄金色に変わり、部屋自体が明るく感じられるようになる。
「『畳表の色が変わる』ことをマイナスなイメージとして捉えられてしまう場合もあるので、黄金色に変わるということをきちんと説明する必要があります。(岡さん)」
「木の家そのものも同じで色も変わるし経年変化もする。それがその建物の“趣”となるんです。(田口さん)」
田口さんはこのい草の残材を土壁の貫伏せに使う。藁よりもピンとしてハリがあり塗り込みやすい上に、割れ止めにももってこいなのだという。
「何百年という歴史をこの21世紀で終わらせてはならない。つくり手も住まい手も、目先の欲だけで生きないようにしなければ。(岡さん)」
かつて田口さんを動かした恩師の言葉に、筆者も心を動かされた。
次に事務所近くの田口さんの自宅を案内してもらった。2015年に建てたもので、モデルハウスとしても活用している。外壁は経年変化見てもらうため、塗装は施していない。
土間が好きだという田口さんの自宅は、洗い出しの土間でぐるりと囲まれた居間スペース中心に、吹き抜けがあり、廻りにスキップフロアが設けられ寝室、子供部屋へと上がっていく形になっており、遊び心が感じられる。
エアコンは1台で、夜の数時間だけ湿度を下げるために使っているくらいで、後は来客時に点ける程度。ほとんど扇風機だけで快適に過ごしているそうだ。
地震の影響がどの程度あったのか伺った。
「熊本地震ではすごく揺れました。伝統構法の家は揺れていいんですよ。本震の時、込み栓(仕口を固定するために、2材を貫いて横から打ち込む堅木材 )が『ギュッギュッ』と音がして、だんだん戻っていきました。震度5強くらいで泥壁が落ちると言われているんですが、震度6弱でも落ちなかったので、相当保つもんなんだと感心しました。」
「窓際はズレて割れていましたが、徐々に戻っていって、力を逃しているというのが身を以てわかりました。この家は固定していたんですよねぇ。“動くなら動く。動かさないなら動かさない。”とするのがいいんだと思います。いい経験をしました。今ちょうど建てているのは、土台は使うけど、ただ乗せるだけの家です。」
「この辺りは干拓地が多いのですが、その境目の辺りでは地盤が揺れ、液状化した地域もありました。瓦の被害が多く修繕に多く周りました。今も建て替えや修繕の依頼が入っています。1年以上待ってもらわないとならず、お断りせざるを得ない場合もあり心苦しいです。」
人手が足りていない状況が続いており、特に左官さんが足りていないという。左官さんの方から「泥壁の修繕をしたことがないからお宅でどうにかなりませんか?」と連絡をもらったこともあるそうだ。
昔は普通にあった職人の仕事。それが今ではめっきり減ってしまい、復興に大きな影響を与えている。
田口さんは“大工育成塾”や“やっちろ版職人塾”など、若手の育成や職人どおしの繋がりを深める活動に力を注いでいる。その原動力について語ってもらった。
「最初に大工育成塾の受け入れ先になって欲しいと依頼された時や、他にも新聞記事を書いて欲しいと依頼された時なんかは、『いや、いいですよ。ウチそんなレベル高くないし』と言って遠慮してたんです。そうしたら『そういうことじゃなくて、求めてる人がいるんです。その人たちのために情報発信をしていかなければならない。記事を書いたり何か発信していく活動をしていけば、そこから人が繋がっていく。だから自分が篭っていたんじゃダメよ!』と言われ『あぁそうか、そういうことですか。それならわかりました。』とハッとさせられましたね。」
「その延長線上に今の自分がいるんです。こういった活動はずっと追い求めていかないと萎えてしまうので、常にいろんなことを見て・聞いて・勉強し続けています。そして自己満足で終わらせるのではなく、自分が学んだことを、職人や息子たちに受け継いでいってもらえるように、きちんと伝えることが自分の責務だと思っています。そして、一緒に頑張ってくれる職人さんもいないと成り立たないので、自社だけではなく地域に居る職人さんに対しても伝統技術を伝えていくために“大工育成塾”や“やっちろ版職人塾”の活動を始めました。」
家づくりに、次世代の育成に、真っ直ぐ向き合う田口さん。ふたりの息子さんや自社の職人さんにはどういう職人になっていって欲しのだろうか。
「育って巣立っていってもらいたいですね。そこから自分でやって初めて一人前。『たまにウチを手伝ってくれ。ウチも手伝いにいくよ。』そんな関係がずっと繋がっていけばいいなと思っています。そうやって職人が活躍できる家づくりを残していくために、各々が自分の役目を果たさなければならないと考えています。」
最後に、田口さんが作ったというポスターに書かれた言葉を紹介してくれた。
『大工としてやるべきこと それは日本の建築技術と伝統文化を受け継ぐこと』
この言葉に田口さんの大工としての覚悟・使命感が表れている。