高知県南国市で手刻みにこだわりながらも、伝統建築にとどまらず様々な仕事を手がけている 《松匠建築》の代表 小松 匠(こまつたくみ)さんをご紹介します。
小松 匠(こまつたくみ・44歳)さん プロフィール
1976年高知県生まれ。高知県内の高校を卒業後、(財)木材研究所土佐人材養成センターに入所、大工技術の基礎を学ぶ。卒業後は個人工務店で数年間の修行を経て30歳で独立。松匠建築として走り続けて今年で15年になる。
⎯⎯⎯ まずは大工を志そうと思ったきっかけを聞かせてください。
「高校生の時に、建築の板金屋さんでアルバイトをしていて、その現場で大工さんの働きぶりに惚れ込んで「カッコええなー」と思って憧れを抱いたのがはじまりですね」
⎯⎯⎯ お名前が「匠」ですが、親御さんも大工なんですか?
「よく言われるんですが、大工ではなかったんです。弟子の時は『名前負けや』とか言われて辛かったんですが、独立してやるようになってからは、いい名前を付けてもらったなと思えるようになりました」
大工として働き出された1990年代といえば、ちょうどプレカットが急速に台頭してきた時代。職人による《墨付け》や《刻み》などの手加工も、まだしっかりと残っており、木の捻じれや方向を見る《目》を養うようにしっかりと教え込まれたそうだ。
「そういう意味ではギリギリいい時代に弟子として学ばせて頂いたと感じています。プレカットは手仕事という、大工として一番重要な仕事を下請けにまわしてしまっている感覚があります。自信を持って大工の仕事をするなら自分で墨付けて加工するのが当然ですし、醍醐味だと思います」
⎯⎯⎯ 今、お弟子さんや一緒に動いている職人さんはいらっしゃいますか?
「一つ下の職人さんが一人来てくれています。同年代の職人さんたちに恵まれていると思います。若い頃は年配の職人さんのもとで下積みしていましたが、独立してからは同年代ばっかりですね。「この仲間たちと一緒に歳とって行くんだろうな」と感じています。みんな信念をもって仕事していていい刺激になっています」
「若い子に関しては、うちにも過去には何人か居たんですが辞めてしまいました。人を育てるのは本当に難しいです。『とにかく堪えてやれ』と教えるのがいいのか。『いろんなことやってみたらええ』と言って送り出すのがいいのか。自分の頃とは時代も違いますし、どっちが正解かは分かりませんけど、自分が教えてもらったことはしっかりと教えていきたいです」
⎯⎯⎯ それではご自身が教わったことで大切にしていることはありますか?
「先ほどの話にあった手加工のことや《目を養う》ことなどの技術的なことはもちろんですが、お客さんとの接し方、人と人との付き合いについて多くを学びました。お施主様としっかり話し合って納得できる家づくりを心がけています」
⎯⎯⎯⎯ 松匠建築を14年間続けて来られて様々なことがあったと思いますが、一番の転機について聞かせてください。
「2008年に行われた伝統構法木造住宅の実大振動実験(実験の様子はこちら)に参加させてもらいました。あの実験を目の当たりにして完全に頭が切り替わりましたね。全国から職人さんや設計士さんがたくさん集まって伝統的な木造建築に情熱を燃やしている。その姿に触発されて木の家ネットに入会することを決めたんです。もしあの実験に参加していなかったら今は惰性で仕事をしていたかもしれません。現実にはボードを貼ったりする仕事もやっていますが、いざ伝統的な木造建築を依頼された時にはすぐに動ける心づもりでいます」
「木の家ネット会員のみなさんの建てられている家を見てすごいなと思うのは、伝統的な建物であることにとどまらず、謂わば温故知新でちゃんと自分のエッセンスを加えているところなんですよ。古いけど新しい。僕もそういう家づくりを目指しています」
「その考え方は今も昔もこれからも同じだと思います。古い家の改修を手がける際には、何十年も前の職人技に直接触れることになります。そうすると当時の大工さんもいろいろ知恵を絞って、その時々で温故知新で自分らしい仕事をしていたことがよく分かります。ということは今、僕が直したものも何十年か後に後世の大工に見られるかもしれない。そう考えると手を抜けませんし、モチベーションも上がります。素敵な職業だと思います」
案内された作業場は買って約3年。建物付きの土地で数十万円。ちょうど探していた条件にぴったりだったので即決したという。まさに《捨てる神あれば拾う神あり》だ。
「木の家ネットの会員の皆さん当然のように作業場を持ってらっしゃいますよね。僕も独立したら作業場を持つのが当たり前だと思っていましたが、既製品の世の中で墨付けが必要なくなくなって来ているので、木の家ネットに入会していなかったら作業場を構えようと思わなかったかもしれないです」
「手仕事をやっていない人(やめた人)からは『なんで今さら?」という感じで不思議がられましたが、やっている人からは『頑張れ!』と背中を押してもらいました」
作業場でスケボーのハーフパイプを作っていることにも驚いたが、この日案内してもらう建物が「ウエスタン」であると聞いてさらに驚いた。木の家ネットでは後にも先にもお目にかかれないかもしれない。
訪れたのは南国市にある《レザークラフト WHOL(フール)》。6年前に完成したお店だ。
小松さんと同い年で20年来の付き合いという岡林さんが、ご夫婦で経営されているお店でオリジナルレザーアイテムを1点1点ハンドメイドで製作している。また岡林さんが直接買い付けて来た、こだわりのウエスタンギアやネイティブアメリカンクラフトも所狭しと並んでいる。小松さん自身もバイク仲間とよく訪れるとのことだ。
内装の板張りの塗装は全て岡林さんご夫婦とお客さんがされたそうだ。お二人に完成当時の様子を振り返ってもらった。
岡林さん(以下 岡林) 一生に何度も経験できるようなことではないので、とてもいい経験になりました。いろんな職人さんが来られるので、間近で職人技に触れられてすごく楽しかったです。予算のない中でイメージ通りに作っていただいて大満足です。
小松さん(以下:小松) ウエスタンで建ててくれと言われたことは後にも先にも他にないので面白かったです。
岡林 いろんな工務店さんに聞いたんですけど、予算が厳しかったのと、どうしても西海岸風になってしまうんでですよね。
小松 僕も、自分の知り得るウエスタンのイメージで提案したんですけど『これねぇウエスタンなんですけど、ちょっと西海岸に近い方ですね』と言われて『えぇ~!違うの!?』と驚きました。そこから色々勉強して作り上げていきました。面白かったです。またこんなのやりたいです。
岡林 やっぱり木は味も出てきますしいいですよね。僕のやっているレザークラフトも、分野は違えど古くからある素材と技術で造るものです。木も革も不自由なんですよね。不自由の中で創り上げてゆくところに惹かれるのかも知れません。
岡林 柱の面取りだったり床の金物だったり、細かい部分まで小松さんにアイデアと職人技が光っています。
小松 隠しきれないセンスです(笑)
岡林 冗談抜きで本当にそうです!
小松 いろんなレザークラフトを見ますけど、カーヴィングは岡林くんのが1番いい。
岡林 いえいえ、まだまだです。あと10年やったもう少し上手くなるんじゃないかなと思います。僕の尊敬する職人さんは70歳でまだゴリゴリ彫ってます。下絵すら描かないんですよ。
小松 へ~!そうじゃないとあかんね。
岡林 今のうちに技術を蓄えとおかないとね。
20年来の付き合いということで阿吽の呼吸で会話が繰り広げられる。《同年代の人たちに恵まれている》という言葉だけでは片付けられない、少しずつ積み上げて来た信頼関係がそこにある。
大工とレザー。日本とアメリカ。得意とする分野はそれぞれ違うが、尊敬し合う二人の化学反応があったからこそ、この素敵なWHOLというお店が誕生したのだ。
次にもう一軒、思い入れのある住宅を案内していただいた。
こちらも同じく南国市内にあるE様邸。完成2014年。渡り顎構法の伝統的な木組みの日本建築でありながら小松さんのエッセンスが散りばめられている。構造材はお施主さんのこだわりで、すべて桧を使用している。
⎯⎯⎯ 高知の森林率は日本一の84%と聞きました。やはり小松さんも県内産の材木をよく使ってらっしゃるのですか?
そうなんです。日本一森林県なのに外国の木を使っている場合じゃないでしょう。山に行けば昔植林された杉や檜が、いい木に育っているんです。でも切って山から降ろしても二束三文にしかならないので活用されていないんですよね。高知は森林県なのに活かし切れていないのが現実です。少なくとも自分は土佐の大工として土佐の木を使って行きたいです。
⎯⎯⎯ 高知といえば真っ青な仁淀ブルーの仁淀川をイメージする人も多いですよね。
そうですね。仁淀川のあたりはやはり山自体の手入れが行き届いているからこそ川もキレイなんです。他の山に行くとそんなところばかりではないので、やはり川も濁っています。林業は高知のこれからの課題です。
⎯⎯⎯ 高知の現状とこれからの課題について伺いましたが、小松さんご自身のこれからのビジョンを教えてください。
今、高知は石場立ての家が全然建てられていないので、どうにか建てられるようにしていきたいです。土佐漆喰や水切り瓦など、土佐の気候風土に合った伝統建築の良さがあるんですが、古き良きものを大事にするという文化があまりないのかも知れません。プレカットやハウスメーカーの家づくりに流れてしまった人手をどうにか、手で墨付けをして手で加工するというの職人技の家づくりに呼び戻したいという想いがあります。
⎯⎯⎯ 具体的にどういうことをされているんですか?
何か団結して大きいアクションを起こすというわけではありませんが、できることをコツコツ続けています。中でも土佐漆喰は本当に素晴らしい素材なので、使える時は必ず使うようにしています。塗れる左官さんも年々減っているので少しでも貢献したいですね。もちろん材木も高知の木をふんだんに使って行きたいです。
確かな職人技と確固たる信念で大工を続ける小松さん。しかし、その手から創り出されるのは伝統的な木造住宅からウエスタンの店舗やスケボーのランプなど、実に幅が広い。まさに《温故知新》を地で行く彼の手から次に生まれるものは、いったいどんなものだろう。
松匠建築 小松 匠(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
職人が受けて、職人が完成させる。それもいち職人でなく、会社として。工務店とも設計事務所とも違う独自のスタイルで木の家づくりをしている鯰組(なまずぐみ)は、代表で大工の岸本耕さんが立ち上げて12年になる。設計から施工までトータルで請け負える強みは、さまざまな職業が生まれては消える東京で、唯一無二の光を放っている。プロフェッショナル集団を率いる岸本さんは、ひとりひとりの職人に「それぞれのよさを生かしてほしい」とあたたかいまなざしを向ける。その姿勢は建物や材料にも向けられ、居心地のいい空間を生み出し続けている。
「鯰組」のウェブページ。かわいらしい黒い鯰のイラストが泳ぐページの右上に、「大工とは?」という問いがある。
クリックすると出てきた答え。
・大工とは、目利きの職人。
・大工とは、考える職人。
・大工とは、描く職人。
・大工とは、組む職人。
・大工とは、仕上げる職人。
・大工とは、設計士、庭師、職人をまとめる棟梁です。
そして、「私たちは、日本の大工です。」と締めくくる。
岸本さんは、自身の肩書を「大工または棟梁」とこだわり、「建築家」とは言わない。「鯰組」も6人が所属する会社組織だが、社員とは呼ばず「職人」「大工」にこだわる。「大工は、設計から工程管理、材料など家づくりのすべてがわかっていて、施主さんとコミュニケーションを深めながら決めていく存在」という、昔から続く感覚を大切にし、誇りを持っているからだ。
そして、その職人が個人でなく、集団として働くことで「施主さんの期待以上の仕事、職人もやりがいのある仕事ができる」と考えている。
職人集団「鯰組」はどんな体制なのか。現在の社員は6人で、ほとんどが20~30代で、1人たたき上げの60代の大工職人がいる。
社員は2人ずつ①設計兼、現場監督②大工兼、現場監督③大工と大工、の組み合わせで3チームに分かれ、チームごとにプロジェクトを進めていく。物件によって期間や難易度がさまざまなので、1件をじっくり進める時もあれば、何件か同時進行することもあるというという。それぞれの業務に集中できるよう、施主さんとの打ち合わせをはじめこまごましたことは岸本さんが一手に担う、という役割分担だ。
各チームは先輩と若手という組み合わせで、若手は先輩から仕事の進め方を習う。「若手は、まずはひとつのやり方をきちっと身に着けることが大事。いろいろ手を出したり、他のやり方を見ると時間ばかりかかってしまうのでやらせない」というのが、鯰組流のスタイルだ。ひとつのやり方が身につくと、その応用で別の仕事もこなせるし、つまづいた時の解決方法も見つけやすいのだという。そのやり方については、鯰組として確立したものがあるわけでなく、それぞれの先輩に任せている。
このような体制になったのは5、6年前のこと。
鯰組の設立時は岸本さんひとりで、プロジェクㇳの数が増えたり規模が大きくなるごとに、少しずつ仲間を増やしていった。
会社設立前の岸本さんは、千葉の工務店「眞木工作所」で修行した。そこの棟梁・田中文男さんに師事したいという思いで門をたたいたのだった。
岸本さんは「建築を勉強したい」と大学の建築学部に入学したものの、設計だけを学ぶことに物足りなさを感じていた。そんな時、偶然知ったフランスの建築家ジャン・プルーヴェに魅了された。鉄工所育ちの職人で、金属でなんでも作ってしまうアイデアとバイタリティ。「建築家のオフィスの所在地が部材製造工場以外の場所にあることは考えられない」という哲学。この出会いが、岸本さんを「設計だけでなく実際にものを作り出す施工までやりたい、大工になりたい」と突き動かした。
雑誌『住宅建築』で「民家型工法」を紹介していた田中文男棟梁を「日本のジャン・プルーヴェだ」とほれ込み、眞木工作所でアルバイトを始めた。卒業後に弟子入りし、10人ほどの職人にもまれながらの日々。
「最初は何もできず怒られてばかりで、同じような若い職人同士で酒飲むのが心の支えだった。経験積んでできるようになると、少しずつ怒られる回数が減っていった」と振り返る。同時に、木造建築にどっぷりと触れ、その力強さや、シンプルで合理的なつくりなどの魅力を存分に味わった。
3年経った頃、大学時代の友人が古民家の改修・移築を依頼してきた。当時築80年の古民家で、ケヤキ材が多く使われていた。「この仕事、自分がやりたい」と強く惹かれ、独立へとつながった。
とはいえ工場もなしに独立した岸本さんは、移築先の現場に仮設テントを張って作業するという綱渡りのような工期を過ごした。設計から工事、施工監理まで幅広い業務を一人でこなしたが、慣れない作業もあり時間もかかった。工事中は無我夢中で、愛着と達成感はひとしお。けれど、終わってみたら次の仕事の段取りは全くできていない、という恐ろしい状態だった。「結局、眞木工作所に出戻りし、5年程お世話になりました」と振り返る。
「設計から施工までやりたい」と大工の道に進み、独立して走り続けてきた岸本さん。仕事の進め方を模索する中で、ひとりでは1、2年かかってしまう仕事も、チームなら半年で終わらせられることや、得意分野を得意な職人に任せることで効率よく仕事を勧められることがわかってきた。
また、細かい造作が得意な職人もいれば、おおらかな屋根をつくれる職人もいる。「こういう職人がいい、という理想に自分を近づけるのではなく、自分なりの職人になればいい」と考えるようになり、若手にもそれを望んでいる。
「僕は、若手の得意分野を伸ばせるような仕事を取ってこようって本気で思ってますよ」と笑う。
自身の性格についても「手を動かしてものをつくるのは大好きなんだけど、集中しすぎて他に手が回らなくなる」と冷静に分析。現場作業の第一線からは退いている。ただ、昔から好きだというスケッチは、施主さんの要望を表現したり、細かいおさまりを説明する時に描いている。
岸本さんは、いち職人として設計から施工までできなくとも、「鯰組」として請け負えればいい仕事はできる、と思えるようになった。
いい仕事とは、施主さんが思い描いた以上の空間をつくること、そして、職人もやりがいを得られること。
職人集団だからと言って職人のひとりよがりにはならず、施主さんの喜びを意識すること。そこには、建物の完成度だけでなく、工期や予算、打ち合わせから工事中の職人の態度も関わってくる。加えて、ただ施主さんの希望通りのものをつくるだけではなく、使う材料の個性を活かしたり、古い建具を再利用したりといったアイデアも不可欠だという。
職人のやりがいには「ほかの人にはできない」という満足感が必要だという。精巧な細工、美しいおさまり・・・これらの技術を高めていくのは一朝一夕では難しい。鯰組はプレカットなど現代の技術をうまく取り入れることも必要だと考えている。その分の時間を手仕事にあてることは、技術の継承にもつながっている。
いずれの場合も重要なのは、施主さん、材料や物件、そして職人をよく見て、よさを見出し、引き出す姿勢だ。現場の数や種類が多いほうがよく、集団であることで多数の仕事を受けられる今の体制が生きてくる。
そもそも、木造建築は「昔は一般的だったかもしれないが、今の東京ではマニアックになりつつある分野」と岸本さん。「できあがっているものを組み立てる工業製品と違って、木で形を削り出す自由度はすごい。どんな空間にもなじむし、温かみがあるのもいい」と魅力を語る。
今までは東京と言う場所柄か、数寄屋建築や茶室や料亭などの仕事が多かったという。
鯰組には職人ではないが広報担当の社員がいた時期もあり、イベント企画やカフェ運営(現在は閉店)もしていた。雑誌などにも取り上げられると問い合わせは増えるが、実際に契約まで至るのは大半が施主さんによる紹介という状況だ。
最近は古民家にも縁ができ、勉強を始めたところだという。「まずは健全な状態に戻すこと。それから、せっかく残すならよさを生かさないと意味ない」と、丁寧に見やる姿勢をさらに正す。
思い起こせば、独立のきっかけも古民家の改修だった。その時に打ち合わせを重ねた場所・埼玉県吉川市の特産が鯰だったことから、社名に鯰を取り入れたという。ちなみに、独立時の会社名は「吉川の鯰」とストレートだ。
「初心を忘れるべからず」を胸に刻みながらも、時代に合わせて、会社の体制に合わせてしなやかに変化してきた岸本さん。会社をつくるのは職人。職人の経験や技術・アイデアを信じ、職人を真ん中にした家づくりをしていきたいと前を見据える。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真提供:鯰組
ひとつ、質問を投げかけるたびに「こういう場合もあるし、こういう視点もある」と複数の答えをくださるのが印象的だった岸本さん。常日頃から、いろいろな角度からものごとをとらえていることが伝わってきた。「わかってくれる」あるいは「わかろうとしてくれる」という安心感は、施主さんや職人への信頼につながっていることが伺える。
コンクリートジャングル・東京で、鯰組の手がけた木のぬくもりはきっと美しく映えている。今回はオンライン取材で実際に見ることが叶わず悔しいが、岸本さんのように別の角度から「次回訪れるまで楽しみをとっておこう」と考えることにしよう。
愛媛県今治市、森と川の恵みに囲まれた玉川町で自然と共に暮らし、ゆっくりと年月をかけながら建て主さんと歩み、「暮らしを大切にした本物の家」をつくっている建築家がいる。今回ご紹介する橋詰飛香(はしづめ あすか)さんがその人だ。
橋詰 飛香(はしづめあすか)さん プロフィール
1971年高知県生まれ。短期大学を卒業後、松山市内の設計事務所で8年間勤務。2000年に独立し同市内でAA STUDIOという屋号で活動された後、2013年に今治市玉川町に自宅兼事務所を構え「野の草設計室」と屋号を改める。元々同僚であった徳永 英治(とくながえいじ)さんとご夫婦で、施主・設計者・職人が三位一体になって家づくりに取り組んでいる。
⎯⎯⎯⎯「野の草設計室」に事務所の名前を変えられたのはどうしてですか?
橋詰さん(以下 橋詰) 若い頃は、お洒落でカッコ良くてシャキシャキしたデザインの高いものに憧れていたので、名前も横文字で「AA STUDIO」としていました。それが13年前くらいから徐々に伝統構法の家づくりをするようになってきて、土とか木とか草とかを使って家を建てているし、私たち自身も田舎に住み始めたということもあって、自然の草のように華美でもなく、その土地の気候風土の中にそっとあるようなものづくりをしたいなと思って「野の草設計室」という名前にしました。
⎯⎯⎯⎯AA STUDIO時代は今のように木の家を建てられていたわけではないということですか?
橋詰 最初の何年かは違っていましたね。普通に建材を使ったりしていました。木の梁をあらわしにしたり、無垢のフローリングを使ったりして、自然素材を使った家づくりをしているつもりだったんですが、やればやるほど建材を使った現代の家づくりの抱える問題点が見えてきました。シックハウス症候群の問題だったり、シロアリが湧きやすかったり、エアコンに頼らないと暮らせなかったり、産廃の問題だったり…
徳永さん(以下 徳永) そういった問題を解決して建て主さんに良い住まいを提供するにはどうしたらいいか悩んでいた時期があるんですが、ある時ふと古い家を見たときに「あっ、すでに解決してるじゃないか。問題そのものが起こらないじゃないか。昔の人はすごく考えて家づくりをしていたんだな」と感銘を受けました。それまではデザイン派のおしゃれなものに憧れがあり、古い物は過ぎ去った過去の遺物として興味を抱けなかったんですが、その時を境に私たちの家づくりは決定的に変わりましたね。
橋詰 私は使い捨て世代なので、ものを大事に使うことや、直して使うこと、直し易いように作ることを当たり前にやっていた昔の人たちの暮らし方や生き方にカルチャーショックを受けました。
今思うと若い頃に憧れたり設計していたような家は、デザイン性が高くて完成されていても、できた時が一番きれいなんです。でも、そこには生活がないんですよね。住み始めると生活の道具や生活感が出てきて途端に美しくなくなる。今はそれを包容できる住まいとしての懐の深さや経年変化を味わいにできる家の方がしっくりきます。
徳永 当時、自分が設計した家に「暮らしてみたいか」「落ち着くのか」と考えた時に全然イメージできなかったんです。
⎯⎯⎯⎯この瞬間から意識が変わったというエピソードはありますか?
橋詰 はい。衝撃的な気づきがあった一件があります。蔵を解体しないといけない機会があったのですが、その蔵の鏝絵(こてえ:蔵の妻側の母屋鼻や壁面などに漆喰を用いて作られたレリーフのこと。左官職人がコテで仕上げることからその名がついた。)がとても立派なものだったので「こんな素晴らしい鏝絵は残しておかないといけない。救出しよう。」という話になり、鏝絵を外す作業に携わりました。
徳永 左官さんがお施主さんに対して、気持ちいい仕事をさせてくれたお礼として鏝絵を描いたのが謂れとされています。昔はお施主さんから職人さんに「ご飯食べていって」「お風呂入っていって」と、気持ちよく仕事をしてもらうための心遣いがされていました。現代と違ってお金じゃないところでのお付き合いがたくさんあったんですよね。そういうのがいいなぁと思い、自分たちが目指したいところになりました。
橋詰 そして蔵を間近で見てみると、庇が金物にかかっているだけで外せるようになっていました。私が当時やっていた建築では庇というのは当然固定させておくものだと思っていましたから、なんでこんな風になっているんだろうととても不思議に思いました。実はそれは、構造材と庇との縁が切られていることで、火事の時に火が廻っていかないように、また簡単に修理できるように、昔の人が何代にも渡っていろんなことを考えて家づくりをしていたんだなと学びました。
それまで自分が建てていた家は到底そんなことまで考えられてはいなかったので、ある意味使い捨てだったんですよね。自分の浅はかさを思い知らされる出来事でした。
⎯⎯⎯⎯お二人でどういう仕事の役割をされているのですか?
橋詰 いつも喧嘩しながらやっています(笑)。具体的な設計やプランニングは私がするのですが、考え方やつくり方などを一緒に相談しながら進めています。結局、伝統構法なんて学校では一切学んできていないので、古いものを見て歩いて二人で紐解いて来たという感じです。
徳永 昔の建物が全て正解ではないので、その中からいい技術や手法、知恵や素材などを拾い出す作業をずっとやりながら、自分たちの家づくりに活かしてきたという感じです。
橋詰 その拾い出す作業の時も、一人だと考え方が偏ってしまいがちですが、夫婦で二人いれば「ああじゃない」「こうじゃない」と議論しながら答えを導きだせますよね。
徳永 一人の所長だったら違う方向に行っても社員が口出しできなかったりすると思うんですよね。けど僕らは夫婦なので、おかしいと思ったらお互いにぶつかって議論するので、そこがいいところかなと思います。それから、建主さんはご夫婦で相談に来られる事が多いので、その時に男性の視点と女性の視点で意見を出し合えることで、話し合いが活発になるので、とても建設的な場になります。
橋詰 私たちが言い合いを始めると、それを皮切りに建主さん側も会話が弾んできて意見が出やすくなっている気がしますね。
⎯⎯⎯⎯仕事とプライベートの境目はあるんでしょうか?
橋詰 あんまり仕事とか家庭とかという意識がなくて、この仕事は私たちのライフワークだと思っています。お施主さんにも、ここでの暮らし自体を味わって帰ってもらっています。単に家を建てるということではなくてライフワークにみんなで関わってもらって一緒に暮らしをつくり上げていくようなイメージですね。お施主さんには、お米作りや味噌作りに参加してもらったり、夜中にひじきを一緒に取りに行ったり、自然と関わってそこにある恵みを感じてもらうようにしています。「暮らしがあってこその家」なので、体験の中で暮らすことをしっかりと考えてもらいたいですね。
徳永 体験の中で共感してもらえる部分があれば、目指す家のつくりも変わってきます。どんな暮らしに喜びを感じるのかを見極めてもらいたいんです。
⎯⎯⎯⎯なるほど。それでHPに「野の草と意気投合しそうな建て主さん像」というのが書かれているんですね。
橋詰 そうです。建てた家だけを見て相談に来られても、本質的な暮らしの部分が共有できていないと話が進まないですし、お互いが不幸になってしまいます。もちろん最初から意気投合できるような人の方がお互い楽ですが、逆に違う価値観だった人が、いろんな体験を通して私たちのような暮らし方を好きになってもらうのも嬉しいですね。
橋詰 他にも、竹小舞を編んだり土壁をつくる体験などを通して、家のつくりや昔の人の知恵などを感じてもらっています。
徳永 体験の中で建て主さんの想いがどんどん入っていくので「買ったもの」ではなくて「自分がつくったもの」として家を大切に想ってくれるようになります。
橋詰 今の時代、家を建てるとなると、職人さんと建主さんとの距離があまりにも遠いので、職人さんの生の声や知っていることを聞いてほしいというのが一番。その機会を作るのが私たちの役目だと思っています。
橋詰 みんなで関わりながら家づくりをしていきたいので、建て主さんともよくご飯を一緒に食べます。やっぱり同じ釜の飯をつつけばつつくほど関係が深くなっていけますよね。設計士と建主と言うよりはもう友達とか親戚というくらいの何でも言いやすい関係を築くようにしています。職人さんとも同じです。職人さんにも建て主さんの喜んでいる顔を見てもらいたいし、声だって聞いてもらいたい。そういうきっかけをいっぱいつくりたいです。
徳永 職人さんが積み上げてきたことを建て主さんが理解してくれたら、家づくりだけではなく暮らしの中で何を選択するべきかということを意識できるようになってきます。その選択の積み重ねで未来をより良い方向に舵を切ることができるようになってくるんじゃないですかね。
橋詰 だから設計期間もいきなり設計に取り組むんじゃなくて、話し合ったり、ものを知ってもらう期間を長めに取っています。間取りがどうこうではなく、木のことだったり、どういうものを目指したいかということだったり、判断基準をしっかり持ってもらうため、価値観を確立してもらうために、まずは建て主さん自身の引き出しを増やすというステップを大切にしています。
最初は「あれがしたい。これがしたい。」と夢を膨らませて来られる方が多いですが、じっくり話をしてクールダウンしていくと「僕はこれだけは実現したい」というシンプルでブレがない価値観に進んでいきます。
実際に建て主さんとの打ち合わせで行われている和紙についての学びを再現してもらった。
まず触って比べてみると、一番薄く弱そうだと感じたのが「本当の手漉き和紙(奥)」だった。しかし破ってみるとガラリと印象が変わった。他の2枚に比べて断然引き裂きにくく、かなり強度があることが体感できる。繊維が幾重にも重なっていているのがよくわかる。驚くことに、この本物の和紙を幾重にも貼り重ねてつくられた古式製法の襖の上は、子供が歩いても破れなかったとか。他にも、紫外線にあたるとすぐに黄ばむのではなく、まず白くなってゆきその後徐々に黄色くなってゆくと聞いたり、破れたり不要になった和紙は漉き直すことが可能で、リサイクルという言葉が生まれる遥か昔から循環の輪が成立していたと聞いてさらに驚いた。
徳永 やっぱりちゃんとしたプロセスで作られている先人たちが残してくれたものは、今の大量生産型のものとは大きな違いがあると言うことですよね。これは紙の話だけではなく、職人さんの仕事には全部当てはまることです。こういった本物を使っていくことで、職人さんも生き残っていけるし、技術も引き継がれていく。お施主さんだって風合いのいい丈夫なものを使うことができる。みんながいい循環になっていくんです。
⎯⎯⎯⎯これから挑戦したいことや取り組んでいることはありますか?
橋詰 「小さな本物の家」という石場建ての家をつくろうとしています。間取りの部分は画一してしまって、その分で設計や職人さんの手間や費用を抑えて実現。小さな家ですけど、素材や工法にはこだわり、多くの人に健康的で地震にも強くて安心して暮らせる家を建てれるようにしたいと思っています。多くを求めず心地よく暮らせる本物の小さな家というものを広めていきたくて、ずっと温めてきたんです。やっぱり伝統構法の家となると、高嶺の花になってしまい、ごく一部の限られた人にしか建てられないものになってしまうことが多いですから。ここの集落の家なんかもそうですが、昔の大工さんが建てた家は大体間取りが同じでしたよね。そんなイメージです。
橋詰 それから「野の草ブランド」の家具や道具の企画・制作もしています。これだけモノが溢れている時代で、家を建てない人も多くいますよね。家を建てるまでしなくても、生活の身近にあるものを通して、伝統技術や良いものを永く使うことの素晴らしさに気づいてもらえたら嬉しいです。
いろんな職種の職人さんの素晴らしい技術を絶やすことなく活かしていきたいという想いもあります。この二つから何かが変わっていったらいいなと思います。
野の草設計室から車を走らせること40分。松山市内に2019年2月に完成した《土間と風の家》を案内してもらった。《土間と風の家》は国土交通省のサステナブル気候風土型モデルとして採択された家でもある。建て主の田中さんご夫婦は30代で3歳と5歳のお子さんとの4人住まいだ。
田中さんにもお話をうかがった。
田中さん(以下、田中) 橋詰さんと徳永さんがじっくり付き合ってくれたので、自分の価値観を確かめながら、いろんな知識を深めながら、進められました。時間がかかってよかったです。慌てて作るものじゃないですから。
橋詰 建主さんの考えにブレがなくなった時が建てる時な気がしますね。
田中 我々も最初はブレてましたね。床暖房しようとか。結局エアコンは最低限しか使いませんし、冬場も薪ストーブで心地よく暮らしています。今でも妻が「こんな素敵な家、他にないよね」と喜んでいます。子供達も畳を走り回って楽しそうですし、橋詰さんにお願いしてよかったです。
《本物》の詰まった家に暮らす田中さんと、それを設計した橋詰さん・徳永さんの話を聞いていると、暮らし方・生き方の価値観を共有されているんだなと感じた。
本当に良い暮らしとは何か。衣食住、くうねるあそぶ、家族、仕事、近所付き合い、地球環境、過去、未来…
一見バラバラに見えて難解な問題も、まずは一歩引いてクールダウン。自分に一番大切なことは何かをじっくりゆっくり考えて、価値観をひとつ持つことができれば、どんな問題にも自分なりの答えを導き出すことができる。その《暮らしの学び》のきっかけづくりを、橋詰さんは家づくりの中に取り入れている。
ちょうどこの12月には《伝統建築工匠の技》がユネスコ無形文化遺産に登録される予定です。先人たちの技術・知識・想いに触れながら、自分自身の暮らし方についても見つめ直し、考えを深める良い機会ではないでしょうか。
野の草設計室 橋詰 飛香(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
(有)かとう建築事務所の加藤由里子さんは、木の家づくりの魅力を「作り手にとっては仕事の喜びがあり、住まい手にとっては大切に使い続ける喜びがある」と独特の表現で読み解く。これまで愛知県で宅地開発や申請業務、公共建築など幅広い建築を手掛けてきたが、15年前から木の家づくり一本にシフトチェンジ。土壌改善や自然農にまで探求の幅を広げ、自然に寄り添った暮らしを提案している。
(有)かとう建築事務所は、愛知県岡崎市にある。事務所では薪ストーブで暖を取り、歩いて5分ほどの畑で季節の野菜を育てる。「岡崎は、半分山で半分が平野という地域。木を身近に感じられるし、四季の移り変わりを自然から教えてもらっている」と由里子さん。この時期は紅葉のグラデーションが山を覆っていた。別の季節にはまた違った美しさが見られるのだろう。
自然を全身で感じながら設計に精を出す由里子さんは、「職人力を活かした家づくりがしたい」と語気を強める。由里子さんにとっての「職人力の活かされた家」とは、日本の山の木を適材適所に活かし、日本の山の特徴ある素材の個性を生かしながら刻み、仕上げ、組まれた家だ。マニュアル重視の考えでなく、職人さんの自然を敬う叡智とそれを楽しむ心の使い方が要ではないかと思っている。「今の私はこのような職人さんと一緒に、想いのこもった心地よい木造建築に携わることが楽しい」という。
2017年に設計監理した市内のある家は、由里子さんの理想に近い家ができた。職人さんは木の家ネットメンバーの力を借りた。木材は手刻みで1本1本の曲がりを生かして配置。職人さんの腕が光る。
室内は構造材が見えて力強さも感じる一方で「施主さんの奥様がちょっとかわいい感じが好きだから、主張しすぎないように工夫した」という。
在来工法と違い、手刻みは時間と手間がかかる。「手間をかけてもらったということは、職人さんの思いがこもっているということ。いい感覚で暮らせるし、とっても贅沢なことでしょう」と由里子さんはほほ笑む。
想いがこもった家の心地よさを実感する由里子さん。そのきっかけは、現在も暮らす岡崎の生家にあった。由里子さんが小学生の時に、山から木を伐り出して建てたことを覚えているという。田の字のオーソドックスなつくりで、畳敷きの南面2部屋は当時のままだが、北面の部屋は高校生の時に改装し、板張りになっている。
「古い造り方のほうが居心地がいいっていうのは、私が一番感じていること。木こりさんが木を伐り出して、棟梁をはじめとする職人さんが思いを込めて建ててくれたのが伝わってくる」と言い切る。
自宅に事務所を併設し、夫で同じく設計士である正彦さんと建築事務所を切り盛りしている。仕事内容は、由里子さんが木造建築部門、正彦さんがそれ以外、と分担している。木造建築部門は「ののはな企画」という屋号で活動している。
由里子さんは大学で建築を学び、卒業後は宅地開発のプロジェクトに参加した。そして名古屋の設計事務所に所属し、民間から公共事業まであらゆる建築を仕事としてきた。出産後、実家である岡崎に移って事務所を立ち上げ、仕事のフィールドは住宅の設計管理と申請業務に変わった。そして、木造住宅や大工職人と関わるようになった。
この間、「ずっともやもやしながら建築をやってきた。法規や仕様書と職人仕事の間に不一致があるようで。どうも手ごたえがなくて・・・」と振り返る。業務と3人の子どもの子育ての傍ら、さまざまな勉強会に顔を出したが、ますます混迷するばかり。「しっくりきた」のが「木の家スクール」そして「職人がつくる木の家ネット」だったという。
話を聞く中で、歴史、政治、文化が時代の流れの中で発展とゆがみが生まれ、今に至っていることに深く納得。在来工法と伝統工法の区別すらできていなかったことにも気づき、特徴も理解できた。
由里子さんは「まだまだ勉強中なんだけど」と前置きしつつも、こう考えている。現在主流の家づくりは、効率・マニュアル重視。例えば木の癖をなくし集成材にする、高温乾燥により木の本来の粘りを飛ばすなど、自然を人間や経済の都合に合わせる、対処療法のような方法だ。結果、建物は短命になり、職人力も影を潜め、室内外の環境も悪化してしまった。建築以外に農業、土木、医療、食など他分野でも同じようなことが起きていて、経済的に豊かになったように見えるものの、本当の豊かさである仕事の喜びや生きる喜びは薄れてしまっている。「伝統建築や伝統文化にはその根本的な部分を取り戻す力がある。自然を生かし、大切に思う心がある」という。
自然を生かすには、自然や材料と時間をかけて向き合わないといけない。そうすると、おのずと想いが込められ、居心地のいい空間が生まれるのかー。加藤さんの抱えていたもやもやが晴れた瞬間だった。
自身の生まれた家の居心地の良さに、強い納得感が生まれた。
自然を生かすスタイルにはマニュアルがなく、直面した課題ごとに答えは変わってくる。由里子さんは木の家ネットの勉強会を中心に、県外まで出かけていくようになった。
最近は、建築(地面の上)だけでなく、地面の下の土壌環境まで学び始めた。持続可能な生活を体現したいと、自然栽培での農業にも取り組んでいる。伝統工法を知りたいだけなのに、探求の分野は際限なく広がってくる。
また、「伝統工法は木組み、土壁、石場建ての特殊技術からか、施主さんには価格が高いと言われてしまうのよね。良さを伝えてもなかなか契約まで結びつかない。大手メーカーとそんなに変わらないんだけど、経済との両立は難しい」と、理想と現実の壁を実感している。
木の家ネットのウェブページの「このような会です」という説明の中にも、
・国産材、近くの山の木を使います。
・大工さんが一棟一棟、つくります。
・木と木を組んでいくことで構造体をつくります。
・木以外にも、環境に配慮した素材を使うことを心がけています。
という4項目が挙げられている。
木組み、土壁、石場建ては絶対条件ではなく、自然を生かした家づくりのひとつの策として由里子さんはとらえ、落としどころを模索し続けている。木の家に興味がありつつ、予算の関係などで断念した悔しさも知っているからだ。
石場建については「コンクリートで地面を固めると土の中の自然を壊してしまうことになると思う。家の中は妙な湿気が出るし、家の外の自然も狂ってしまう」という考え方だが、予算との兼ね合いと地盤の状態から折り合いをつけるのも重要な仕事だ。
建具や目隠しに木材など自然素材を使うことは、一貫して提案してきている。端材の有効活用にも熱心だ。
それから、在来工法と比べると知名度が低いため、説明する必要が出てくるが「伝統工法ってシンプルなはずなんだけど、説明が長くなってしまう。私の思い入れが強いからなのか・・・」という悩みもある。
勉強すればするほど、わからないことが増えていく。課題も多い。「けど、環境に負荷を与え続けてきた在来工法にはてなが生まれちゃったら、もうそれはできないでしょう。それに、根本に自然という存在があると、落ち着いて考えられる」と、由里子さんは前向きだ。これまで抱えていたもやもやは晴れ、ゆったりと、そして面白がりながら建築と向き合えている。
由里子さんが手がけた事例を紹介しよう。
浜松市の社会福祉法人のデイサービス施設に併設するトレーニング室は、来所者が介護予防や脳トレを行う。敷地面積は240平米ながら、トラス式の構造材が、広がりのある空間を生み出している。同市天龍地区の材木を、その地域の大工職人が加工した。
由里子さんには「木を美しく魅せたい」というこだわりもある。照明が主張しすぎないようにする。壁など木以外の素材との組み合わせのバランスも考える。
「確かに、木は素材のまま、自然のままでも十分美しいんだけど、職人さんの手にかかるとさらに美しさが増す。想いを込めてくれてくれるということだと思うのね」とうなずく。
地元の寺では、檀家さんが集まるための座敷と玄関の新築を、設計監理した。寺院建築には伝統的な様式があり、それにのっとった設計をした。格式を守りつつ清々しい空間づくりには、神社仏閣を専門にしている職人さんが腕をふるった。
神社仏閣には神様仏様が鎮座する場であるので、重厚さも必要になってくる。正面の中央の階段の真上に張り出した屋根を取り付けたり、住宅にはない屋根のそりを取り付けることで重厚さを表現する。それらをつくるには複雑な工法が必要になる。複雑で時間がかかることは、職人の腕の見せ所であるとともに、想いを込められる環境でもある。
神社仏閣などの文化財に人が集まるのは、宗教的、観光的な意味合いもあるが、職人が長い時間をかけて想いが込めたからこそ生まれる居心地の良さも、その一助となっているとみている。
「職人さんって本当に素敵なの。一緒に仕事するうちに、すっかり職人さんのファンになっちゃった」と由里子さん。自然を生かす存在、建物に思いを込める存在として、「私がどんなに勉強しても追いつかない」とうらやましさもにじませる。
由里子さんは「こういう勉強ばっかりしてると、経済の循環には入らなくていいって思っちゃうんだけど、職人さんが活躍できる場は残していきたい。残していかなくっちゃ」とうなずく。伝統工法のPRにも熱が入り、「ののはな企画」のブログでも取り上げている。今後は同市の観光名所「奥殿陣屋」のマルシェで、木組みについて紹介する場をつくろうと企画している。
長いこと建築畑を歩んできて、やっと手ごたえを感じることができた木の家づくり。探求はまだまだ続くだろうが、そこに迷いはない。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真一部提供:(有)建築事務所
とにかく学ぼうとする姿勢がまぶしかった。「コロナでオンラインでのセミナーが増えたから、出かける必要がなくなったでしょ。その分畑に行ける」と前向きさ。
聞けば、独身時代そして出産前は、徹夜上等で働き詰めだったという。子育てで岡崎に戻った時には前のように働けず悔しい、と感じたとも。子どもと向き合う時間は素晴らしいことなはずなのに、世間から取り残されたような焦りを抱いてしまうというのは私もうなずける。由里子さんは、「家にいる時間が長かった分、家と向き合えた。窓から見える風景や畑にもずいぶんと癒された」と振り返る。「想いを込めて」「自然に寄り添って」と強調する理由が、わかった気がした。そして、そんな由里子さんが存分に探求できる時代になり、うれしく感じた取材となった。
大阪市内で「人の手と心で造りこむ、温かい美しい木の家」をモットーに【有限会社 羽根建築工房】を営む羽根信一さん(はねのぶかず・66)をご紹介します。
羽根さんは三重県熊野市出身。小学生の頃から将来の夢の作文には「大工さんになりたい」と書いていたそうだ。「何が理由かは自分でもわからないんですが(笑)」と羽根さん。18歳で奈良で大工として弟子入りし入母屋造(いりもやづくり)の住宅をメインに手がけられていたそうだ。その後、20代半ばからは大阪の工務店へ。大工・現場監督そして取締役を勤め44歳で独立。そして【羽根建築工房(以下はねけん)】を立ち上げ今年で22年になる。
まずは、羽根さん自身の経歴や、職人さん・お客さんとの関わりなど、人間関係について話していただいた。
⎯⎯⎯⎯羽根さんご自身の現在のお仕事について伺います。設計から大工仕事まで手がけられているのですか?
「私自身は設計はしないんですが、現場監督が自分も含めて4名(内、設計もできるスタッフが2名)いますので、いつも4人でコンペをしています。みんなで設計しているという感覚ですね。独立前から付き合いのある設計士さんからの仕事も多いです」
「大工に関しては今は自分で刻むことはほぼなくなりました。手を出したら怒られます(笑)。というのも若い子の成長を重視しているからなんです。今の自分の仕事は「若い職人達が自分で考えながら活躍できる場をつくる」ことです。今はそこに集中しています」
⎯⎯⎯⎯具体的には若い職人さん達を育てるためにどのような取り組みされているのですか?
「若い子たちに対して気をつけていることは各々のレベルに応じて《活躍できる場》《自分で考える場》《手刻みの場》をつくってあげるという取り組みをしています」
「木の家を作り上げるためには、やはりイチから学ばなければならないと思うんです。いきなりプレカットのように中途から造作仕事に入るとかでは、全体の流れがわからない。イチから現場で経験してこそ一人前の大工になれると思っています。そのためにも100%手加工を貫いています」
「それから、住宅ばかりだけでなくイベントや展覧会などの施工などに、若い子たちを参加させるようにしています。普段と違うことが多いのでメリハリが出て楽しんでやっていますね。ちょうど今、神戸県立美術館で開催中の特別展「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」に展示されている中村好文氏設計の小屋 《shell house》の施工を担当しています (建築知識ビルダーズ42に詳細掲載 東京をはじめ他の巡回展も担当)。そういう現場でも図面通り行かないことは多々あるので、彼らの勉強にもなるし面白い部分だと思います」
⎯⎯⎯⎯次にお客さんとの関わりではどんなことを大事にされていますか?
「つくり方に対する熱い心を訴え、お互いに共有できる関係を目指しています。それと関西なので必ず負けてって言われますね(笑)『関西人やし一応言っとくわ〜』と言う感じで。それはコミュニケーションがうまく取れている証だと思っています。お互いが言いたいことを言えて、聞き入れる姿勢を持ち、できないこと・ダメなことにはきちんとNOと言える関係を築くことが大事だと思います」
「僕は建築家の言うことにもNOと言います(笑)。そうやって関わる人みんなが本当に打ち解けられる雰囲気作りを現場が始まる前にしておけば、工事中も建てた後も気持ちよくスムーズな動きができますよね」
⎯⎯⎯⎯⎯他に人の繋がりを考えて実践していることはありますか?
「はねけんでは毎年夏休みに合わせ「羽根建祭り」というイベントを二日間に渡って開催しています。『土と木に触れてもらいたい』という想いで始めたもので、家づくりや暮らしにまつわる様々な体験ができる催しです。地域の子供たち・はねけんのお客さん、さらにその友人やHPで知った人などいろんな人が、毎年約200名くらい来てくれます。毎年賑わっていて私自身も楽しみにしていたんですが、今年は残念ながらコロナで中止になりました。次に開催する際には、大人も子供もみんな一緒に『観る・触る・動かす・考える・聞く』古くて新しい感動や発見ができる場になれば良いなと考えています」
羽根さんは、コミュニケーションの重要性を考え、職人・設計士・お客さんに至るまで、家づくりに関わる人達と一貫して気持ちの良いやりとりをできるように心がけているのだ。
次に、はねけんの家づくりの思想や特徴について詳しく聞いた。
⎯⎯⎯⎯いわゆる「伝統的な木の家」というだけではない新旧・和洋が調和した素敵な木の家を多く建てられていますね。
「いろんなお客さんがいらっしゃいますから、伝統的な方向にグッと入り込んだ家づくりはなかなか手掛けられないんですが、大工仕事自体は木の家ネット会員のみなさんと同じ、伝統的な技術・方法でつくっています」
それから木に関して言えば、吉野杉を使う機会が多いです。木の家ネット会員の中西豊さん(株式会社 ウッドベース)にいつもお願いしていますし、徳島の和田善行さん(TSウッドハウス)にもとてもお世話になっています。実は和田さんの息子さんがうちで現場監督として働いてくれているんですよ」
ここでもご縁やコミュニケーションを大事にされていることがうかがえる。
⎯⎯⎯⎯はねけんのホームページには、家を建てていく上でのこだわりや思想、重要視するポイントなどのコンテンツがとても充実していますね。見ているだけでも楽しいですし、これから家づくりをしたい方にとっても重要な資料になっていると思います。特に特徴的な強みはどこでしょうか?
「構造を重視して100%手加工。さらに温熱的な考え方をもって建てるのがはねけんの基本です。中でも《羽根建壁(はねけんかべ)》が特徴的ですね。従来の竹小舞のように竹を編み込んでゆく代わりに、竹を貼って土を塗って仕上げます。竹小舞の土壁のように構造材にはなりませんが、現代の家づくりにも順応する土壁となり、施工性を上げながら土が元来から持つ調湿性・保湿性・防火性能を得ることができます。主に人が一番無防備になる寝室に多く採用しています」
「土壁に憧れるお客さんがやっぱり今でもいらっしゃいます。みなさん、土の持つ健康面のメリットに魅力を感じられているようです。コロナ禍において自宅で過ごす時間が増えているので、室内はより安全で快適な空間にしたいですよね」
「他には、使う材木にも特徴があります。伝統的な木の家を建てる場合の梁とか柱には結構太い木を使うと思うのですが、はねけんでは小径木の《磨き丸太》を積極的に使っています。えくぼがあったり節があったりして規格品にならないものを活用しています。アントニン・レーモンドの建築が大好きで、丸太を使うのもレーモンドの影響を受けている部分です」
⎯⎯⎯⎯温熱環境についての話も教えてください。
「生活の場として家を考えた時に【ストレスを感じない家づくり】というのが一番だと考えています。それを実現する上で一番大事なのは構造(『地震で倒れないか心配』というストレスを感じないことなど)。その次に大事なのが温熱環境(極端な暑い・寒いというストレスを感じないことなど)なんじゃないかなと思っています。いわゆるパッシブデザインの考え方ですね。自然の光・熱・風を効率的に取り入れて、夏に涼しく冬に暖かい快適な家を作ろうと思想です」
⎯⎯⎯⎯空気集熱式ソーラーシステム※なども使われるんですか?
(※:暖房・涼風・換気・循環・給湯・発電の機能を備えたソーラーシステムのこと)
「一時は使っていたのですが、そういった装置に頼ってしまうと、どうしても装置が利くかどうかと言う話で終わってしまいます。今は、構造・素材・プランなどをいろいろと試行錯誤していくことで、装置がなくても、自然のことだけを考え、昔の日本の生活様式を発展させていく形で、快適な温熱環境を整えることができるようになってきました」
「温熱の勉強は奥が深く、独学でやっていても限界があります。【Forward to 1985 energy life】という、家庭でのエネルギー消費量を賢く減らして、現在の約半分、ちょうど1985年当時のレベルにしようという取組をしている団体に所属し、みんなで学んでいるところです。木の家ネットが木の家に熱い情熱を捧げているのと同じように、彼らも温熱に対して熱い情熱を持っています」
ここまで話していただいた【職人さんの話】【壁や丸太など素材の話】【温熱環境の話】などを組み合わせながら、理想的な住まいをつくる方法を、羽根さんは考案している。
それが【HANE-ken standard】と言う住宅設計の思想だ。【HANE-ken standard】の家はどれも「本当に大切なものだけを備えれば、それは豊かな住まいになる」というコンセプトのもと、こだわりをもって建てられている。
「一般の人のための住宅を、より住みやすくよりストレスのないものにしていきたいなと考えています」と話す羽根さん。完成した家々にはその思いがギュッと詰め込まれている。
羽根さんの家作りに対する情熱は、全国の仲間と共に波及しはじめている。
「名前はまだ無いんですが【手刻み同好会】というものを、全国の仲間10何社かで立ち上げています。手刻みをしたことのない工務店も多いので、そういう人たちに向けた勉強の場を作りたかったのが始まりです。そこから発展し、最近では『小屋を作ろう』という企画を実施しています。小さな小屋にパッシブデザインの設計思想・大工の優れた手加工の技術、自然の素材などの粋を集めることで、日本の伝統建築の良いところを、広く発信していけたら良いなと思っています」
「日本の家づくりの中で忘れられようとしている、【ものづくりの精神】をここから日本中に、そして世界に発信していこうという試みです」
⎯⎯⎯⎯画面越しですが、すごい熱量を感じます(笑)。最後に一つ質問です。羽根さんにとって家づくりとは何でしょうか?
「家づくりは結局【ものづくり】だと思います。ものづくりは『一を聞いて十を知る』というような単純なことで成し得るものではなく、一から順番に全ての過程を熟知しておかなければなりません。自分の仕事に集中する一方で周りも見渡し、いろんな角度や立場から状況を見る姿勢が大事ですね。お互いに把握し理解しあってこそ【良いもの】をつくり上げることができると考えています」
「日本の家づくりの中で忘れられようとしている、【ものづくりの精神】をここから日本中に、そして世界に発信していこうという試みです」
広く浅くでもなく、狭く深くでもなく、広く深く探究し、常に学び体現し続けている羽根さんの【家づくり/ものづくり】に対する情熱は、日本中に広がってゆくことだろう。
羽根建築工房 羽根 信一 さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
埼玉県ときがわ町・久道(ひさみち)工務店の久道利光さんは、「かっこいい木の家をつくりたい」という一心を胸に、厳しい姿勢で大工業に向き合ってきた。修行時代は新建材を使っていたものの独立後に独学で伝統構法を身に着け、現在64歳ながら大工歴は50年にせまる。久道工務店のテーマ「時の流れで、良くなっていく」のごとく、作り出した家も大工技術も、時を重ねて深みを増していく。
「久道さんへの取材は、新型コロナウイルス感染拡大の影響により電話となった。zoomなどオンラインの手段は「悪いけどよくわからないんよ、しゃべるのも苦手」と言いつつも、こちらの質問に時間をかけて応えてくれた。物腰は丁寧で、声ははきはきと明るかった。
久道さんは中学卒業後、15歳で大工の道へ。生まれは宮城県仙台市で、13歳の時に親が他界し、叔母を頼って埼玉県に引っ越した。「卒業後、住み込みで働けるところということで、大工を勧められた。本当はなりたくなかったけど、これが自分の運命だったんだろうな」と振り返る。修行先は、川越市の小山工務店。川越は東京のベッドタウンとして開発が進んでいたエリアで、修行を始めた。
最初の3、4年は、仕事の3分の1は基礎工事や丸太の足場掛け、ブロック積みなど大工仕事以前の仕事をこなした。「休みはないし給料は安いし、いやでいやでしょうがなかった」というが、少しずつ大工仕事を覚え、ものがかたちになっていく快感を味わうと、のめり込んでいった。
修行時代は新建材が普及し始めたころと重なり、洋室の床や壁は合板を使うことが多かった。しかし、建築関係の雑誌を読むと、不思議と木造建築に惹かれた。特に好きだったのはログハウス。「太い丸太を組むだけっていうシンプルな感じがかっこよかった」と話し、雑誌『WoodyLife』(山と渓谷社発刊の季刊誌)に夢中になった。一方で、外国の建物だからと、どこか遠い存在でもあった。さらに20代後半になると『住宅建築』(建築資料研究社)を読み始め、高橋修一さんや安藤邦廣さんに憧れた。
憧れの木の家が、身近になったのは30歳ごろ。修行を続ける中で、木の家ネットメンバーの高橋俊和さんの設計した伝統構法の家を見学に行った。木をシンプルに組んだ美しいたたずまいに「こういうふうに作れるんだ!やってみたい!と感動したよ」と久道さん。
その後、高橋さんの物件など伝統構法の建て方を応援に行くことで、そのノウハウを身に着けていった。特定の親方について教えてもらったわけでもなく、独学ということになるが「大工だから、目で見てりゃーだいたいのやりかたはわかる」と笑い飛ばす。軽く話すが、勘の鋭さと並々ならぬ努力が垣間見える。
久道さんの頭の中には、大壁、大屋根のシンプルな木の家というかっこいい姿が描かれている。修行で磨いた腕と、その時に得た経験の応用で、その姿を現実に落とし込むことができるのだ。
そして、34歳で独立。その時、3つの目標を立てた。
・かっこいい木の家を建てる
・紹介だけで仕事ができるようになる
・施主さんに、できるだけ安く建てる
独立して約30年。これらの目標は叶ったかと尋ねると、「ありがたいことに、だいたいかなえられてきた」と声が弾んだ。「ずっと忙しく仕事があったから、看板も作っていないんだよね」と打ち明ける。
久道さんは住宅物件を中心に新築7割、リフォーム3割の割合で仕事をしている。3年先まで仕事が決まっていることもあったほどの人気ぶりだ。特徴的なのは、親子2代で注文が入るということ。棟数は15,6軒、請け負った新築物件の半数以上を占める。
施主さんの一人・藤田哲雄さんも、久道さんの仕事ぶりにほれ込み、弟の家も、さらに息子の家も、久道工務店に任せた。久道さんを「とにかくもう、誠実」と断言する。
藤田さんの家は18年前に建てた木造2階建てで、ヒノキの木組みが「しっかりとしたつくりの家で、安心感がある」と実感する。
1階南面の窓は、1間半がひとつ、1間が3つととても広くとってあり「夏は風が入るので涼しく、冬も日差しが差し込み寒くなりすぎないので、暮らしていて自然の中にいるみたいで気持ちいい。空間に余裕があるから、心にも余裕ができて、大満足」とほれ込む。
独立してから、久道さんはときがわ町に土地を購入。木の家を好きになったきっかけであるログハウスから、次第に里山の風景や登山を好むようになり、場所を探した。そして、それまで縁がなかったときがわ町に飛び込んだ。
そこに、木組み・土壁の伝統工法で自宅を建てた。片流れのシンプルな外観で、吉村順三さんの小さな森のイメージで設計。たっぷりとった床下には材料が置けるようになっている。
とにかく開口部が大きく、自然の風が吹き抜けて季節を感じさせてくれる、気持ちの良い空間だ。
施主さんにとって、モデルルームのような役割も果たしている。伝統工法の仕組みや、自然素材の触感は、口で説明するよりも五感で感じるほうが何十倍も伝わるという。生活感もあり、実際に暮らした時の雰囲気もイメージしやすい。
作業場は、木にちょうどいい湿気具合の場所を探し、隣接する毛呂山町の200坪の土地を借りて建てた。こつこつと道具や機械をそろえてきた。
年月を経て、施主さんの要望も変化してきた。以前は「大工さんにおまかせ」が多かったということで、久道さんが信念とするかっこいい家=伝統構法が生み出すシンプルな空間を提案できた。近年は、施主さんが予算や納期をはっきりと提示するようになってきたという。合わせて、プレカットを取り入れたり、化粧張り梁など見せ場だけ伝統工法にしたりするやり方を模索してきた。
一方で、食器棚やげた箱など作り付けの家具には、広葉樹の無垢の一枚板を使うというこだわりは外せない。スギやヒノキのほうが安く抑えられ、何度か使ったことはあるものの、「なんかかっこよくはならないんだよな」と一刀両断。かっこいい家をつくるためなら妥協はしない。
材料は地元の材木屋でまとめて購入することで価格を抑えている。倉庫で天然乾燥させておいているが、家で言えば5、6軒分はあるというから驚きだ。
目標の3つめ「施主さんにとって安い家をつくる」と、1つめ「かっこいい木の家をつくる」との両立は、決して簡単ではない。自分で考えてアイデアをひねる、頼りになる同業者に聞く、施主さんとよく相談する、書物を読みあさる・・・あらゆる手段でもがきながらも、追求し続けている。
そんな久道さん。「最近はほめて育てるっていうけど、俺にはできない。本当は褒めたいときもあるさ。けど、俺は仕事は厳しいもの、厳しくないといけない、って思っている」と打ち明けてくれた。
修行時代は、親方も兄弟子も「見て盗め」というスタンス。何もわからず飛び込んだ職人の世界は、やりがいはあれど、厳しかった。
それでも、「腕が上がれば家の仕上がりは確実に良くなる。これまで建てたことない家、作ったことない家具も、経験から『こうすればできる』って思えるし、実際にできる」と、厳しさが自分を強くしてくれたことを実感している。「だから、ついつい弟子にも厳しくしてしまう。申し訳ないと反省することもある」と、親方としてももがく日々だ。
これまで 20人以上の弟子に修行をつけたが、年季明けせずに去ってしまった場合が大半だという。その中の3人は自分で工務店を立ち上げ、忙しく仕事している。
久道さんが弟子に求めるのは「気づき」だ。大工作業はもちろん、掃除や、道具ひとつ置くにしても、「どうしたら作業しやすいか気づくことが大事」と強調する。作業のしやすさは仕上がりの美しさに直結するためだ。気づきの正解は、現場や気候によって変わってくるので、マニュアル化できない。場数も必要になる。「気づこうとする心掛け、やる気みたいなものだな、結局は」と見ている。
現在は、20代と30代の2人の弟子を指導している。
加藤靖さん(32)は、県外の別の親方の元で修行した後、久道さんの弟子となった。
「仕事には厳しいです。気に入らないと雷が落ちることも。けど、完成したら言うだけのことはある。きれいにおさまってさすがと思います」と実感する。仕上がりの美しさは、説得力となっている。
さらに、「施主さんに預かったお金を無駄にしたくない、金額以上のことをやりたい」という思いは、常に胸にあるという。
久道さんは「俺は学がなく、できることは大工だけ」と謙遜し、「そんな俺を信頼して家を建ててくれっていう施主さんだもの。予算以上、希望以上のことをやってやりたい」と気合が入るのだ。おのずと、仕事に向き合う姿勢は厳しくなる。
これだけどっぷりと、人生のほとんどを家づくりに費やしてきた久道さんだが、まだまだ、もっとかっこいいものをつくってみたいと前を見据える。さまざまな木の家を見に行ったり、住宅雑誌を読み、見聞を広めてきた。憧れは、建築家の高橋修一さん。30年以上憧れ続け、縁があり紹介してもらったという。「五感で感じ、心豊かに住める家・・・そんな家だ」と久道さんは語る。
久道さんが考える伝統工法は、日本の四季に寄り添い、自然の力と共存する建築。木の個性をみながら加工し、柱や梁、床など、ちょうど良いところに配置する。縁側は、夏は強い日差しを遮り、寒い時期は寒気を遮断してくれる。土壁や畳の調湿効果は、家にも、住まう人にも気持ち良い呼吸を届けてくれる。
日本文化研究家のエバレット・ブラウンさんも「日本人は人間も自然の一部として認識しており、暮らしも住まい方も、 自然と一体化することを目指してきた」と、日本人にとっては当たり前の感覚を魅力としてとらえている。この発言は、木の家ネットなどが2018年秋に開いたイベント「明治大学アカデミックフェス・日本の伝統建築の魅力とその理由」での基調講演での発言だ。
そして、これらの住まい方を実現するための技術は、何世代もの職人たちによって磨かれてきた。時を重ねながら無駄なものはそぎ落とされ、便利で使いやすい上に、美しさと両立もしている。「本当に、日本の家ってのはよくできている」と久道さんは、家を建てるたびにほれぼれするのだ。
そこにさらに磨きをかけようという思惑もある。
久道さん自身、これまで自身が快適に暮らしてきた家が、近年は寒さ、冷えを感じるようになったという。住まい手の年齢や暮らしぶりによって、同じ家でも感じることが変わってくるということを実感している。工務店のコンセプト「時を経て、良くなっていく」を実現しようと、現在、改装のアイデアを練っているところだ。「完成されているんだけど、いくらでも工夫できるのが木の家。施主さんの家づくりにもつながるから」と笑う。
体が動くうちは現役大工でいたい、と考えてはいるものの、「気持ちはまだまだ満足してない」と久道さん。先を見据えるまなざしは、凛と光っていることだろう。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真提供:久道工務店
久道さんを取材して驚いたことのひとつが、独立のきっかけが「親方の施主さんに家を建ててと頼まれた」という話だ。これまでインタビューした方は、年季明けしたタイミングだったり、「〇歳までに独立する」など自分で決めて独立するパターンが多く、その分、独立後の仕事を心配していた。人からの依頼で独立とは!それだけ腕に、そして人柄に信頼が集まったのだろう。
久道さんは「当時は、親方の仕事をとっちゃったって悩んだんだよ」と振り返って笑うが、話し合って円満に独立できたという。今でも、親方の誕生日には一緒に飲みに行っているそう。
新型コロナウイルスの影響はいつまで続くのか、先の見通せない時代は続いている。自分で時代の流れを作り出すことも素晴らしいが、久道さんのように、時代の流れに身を任せることもありなのかもしれない。
最後に、電話での取材を快諾してくれた久道さん、写真撮影に協力してくれた弟子の加藤さんに感謝したい。
今回ご紹介するのは千葉県松戸市で「有限会社 タケワキ住宅建設」を営まれている竹脇拓也さん。
タケワキ住宅建設は父の千治(ちはる・78)さんが1972年に創業して以来今年で48年。木の家一筋の会社だ。
竹脇さん自身は大学で構造を中心に学び、大手ゼネコンに就職。東京と熊本で6年間現場監督務めた後、家業のタケワキ住宅建設を継ぎ、2009年には代表取締役に就任した。
「こういった経歴ですので、ずっと木の家をやってきたという訳ではありません。戻ってきてから父親や会社がやっていることを見ながら、木の家について学んできました。」
「しかしよく考えると、幼い頃から家づくりに触れていましたし、高校時代はアルバイトも兼ねて手伝いをしていました。常に身近に木の家づくりというものがあったので、自然と『自分もやってみたいなぁ』と思うようになったのが、建築関係に進もうと思ったきっかけですね」
父親とは少し方向は違うが建築の道を選んで進み、そしてまた木の家に戻ってきた竹脇さん。今では木の家にゾッコンだ。
⎯⎯⎯⎯HPに「社長自ら山まで木を見に行き選んでいます」と書かれていましたが詳しく伺えますか?
「毎回という訳ではないんですが《東京の木で家を造る会》に参加していたことと、当時日本の山を色々と見て廻る機会がありまして、ある時『千葉の木で家を建てたい』というお客さんが来られました。その際に、実際に地元の山に入ったり製材所を巡ったりしたのがきっかけで、地元の木も使うようになりました」
「千葉県内はもちろん、近場では東京・埼玉・栃木あたりの山を見にいきます。一口に国産材といっても特性がいろいろあるんだろうなと思い、機会があれば九州や紀州、それから奈良の吉野の山へ行ったりもします。実際に吉野の山で《番付》までして帰ったこともあります」
⎯⎯⎯⎯相当情熱を傾けてらっしゃいますね。では千葉県内の林業はどんな状況だと感じていますか?
「構造材としての材木の流通量自体はそれなりにあると思うんですが、設計事務所や工務店との接点が少ないと感じています。それから乾燥機の問題ですね。天然乾燥をやっているところは弊社が取引しているところを含め数社あります。しかし低温乾燥材の場合は、基本的に千葉の市場に出回るのはグリーン材(乾燥していない状態なのでそのままでは家づくりには使えない)なので、使用現場とのマッチングが難しい状況です。また県内の木材を扱いたいという工務店自体が少ないという側面もあります」
「千葉県は立地的に住宅の件数自体はかなり多いのですが、やはりプレカットが主力で、国産の材木を使って木の家を建てている工務店となると数えるほどしかないのかなぁという印象です。プレカット工場で木の話をしても、例えば『化粧って何ですか?』といった具合で言葉が通じないんです。《木を見せる》という概念自体がないんです」
木の家を取り巻く状況は寂しそうだが、社内に目を向けると賑やかさを感じることができる。
タケワキ住宅建設には現在、腕の立つ大工が10人(社員大工4人・専属大工6人)いる。特に若手の活躍には目を見張るものがある。34歳の篠塚大工は大工育成塾の2期生として受け入れてて以来、そのまま社員として10年以上働き、今では墨付け・刻みもこなし棟梁として仕事を任せられている。他にも20代の大工が2人、さらに50代〜84歳(なんと!)までベテラン勢が揃う。
「ベテランの大工が辞めていくのは止むを得ないことです。幸い、うちには若い担い手が来てくれています。さらにあと何人かフレッシュな力が加われば、徐々に軌道に乗ってくるのではないかと思います」
木の家をつくれる大工が減っていく中で、こういった明るい話は嬉しい。
⎯⎯⎯⎯世代間の関わり方についてはどんな思いをお持ちですか?
「昔の棟梁たちは、やはりすごく厳しく育てられて来ています。でもその育て方をそのまま今の若い子達にやってしまうと、あっという間に辞めていってしまいます。そのことを棟梁たちもすごく理解しているので教え方が優しいですね。時に厳しいことも言いますが、うちの親方たちはみんな温厚なので、すごく優しいです(笑)」
「できないことがあっても突き放すんじゃなくて、できるようになるまで寄り添って待つような育て方をずっとやって来ています。月日が経てば、一人前にこなせるようになりますし、きちんと自分で考えて何でも行動出来るようになります。《続けていく》ことが大切なんだと思います」
⎯⎯⎯⎯では、さらに若い世代に対してはどういった考えをお持ちですか?小学校で講話をされたそうですが、そのことについてお話いただけますか?
「たまたま今年2回お声がけいただき、お話をさせていただきました。1回目は、東京都大田区の池上小学校で、様々な職業について学ぶという趣旨でした。私は工務店ってどういう仕事なのかということを話してきました。東京23区の都会の学校で、マンション住まいのお子さんも多そうなので、木の家を建てて住んでいるのはかなり少ないんじゃないかと思います。身近で木の家に触れる機会がおそらくないので、『こんな家ってあるんだ!?』という驚きを持って聞いてもらいました」
「2回目は市川市の行徳小学校で、4年生の総合学習の授業で防災について学ぶという趣旨でした。ここでは熊本で建てられている木造の仮設住宅の話や、昨年千葉県を襲った台風の被害にあった住宅の修理についてお話してきました。建築というもの自体を知らない子供達が興味を持って見てくれて、中には『自分もやってみたい』という声もちらほら聞かれたので、やってよかったなと感じています」
⎯⎯⎯⎯防災といえば、東日本大震災の際は千葉では相当な被害があったと記憶していますが、震災の経験を経て家づくりに変化はありましたか?
「そうですね。社内でもその時期から特に耐震に対して意識を持つようになり、構造計算ソフトで耐震等級3以上を標準にしていこうという話になりました。ただ弊社に来てくださるお客さんは、あまりそういった性能や数字を重視される方は少ないです」
「HPにも耐震等級や温熱環境がどうとか、あまり細かい数字の話は載せていないんです。もちろん建てる側としては必要な話ですが、お施主さんをあまり細かな数字にまで引き込んでしまうと、家づくりの本質と論点がズレていってしまいます。性能はもちろん担保した上で、どういう《気持ちの良い木の家》をつくっていけるかを追求していきたいと常々思っています」
⎯⎯⎯⎯では、竹脇さんの考える《気持ちのいい木の家》とはどのような家でしょうか?
「土地土地に合った自然の力を活かすということですね。陽の入り方や風の通り方を考えて、『陽がここに当たると暖かくて気持ち良いだろうな』とか『風がこの部屋を抜けると気持ちいいだろうな』といった感覚的なことも設計段階で取り入れるようにしています」
⎯⎯⎯⎯タケワキ住宅建設のリフォームの強みは「とことん聞き出すところ。自然素材を活かした提案や、自然素材を使う技術だ」とブログで拝見したのですが、詳しく教えていただけますか。
「リフォームの依頼で数が多いのは、水回りの交換や外壁のメンテナンスなどの部分的な修繕ですが、『暮らしそのものを変えたい』ということで大規模なリフォーム・リノベーションをご依頼させれる方が年々増えてきています」
「また中古住宅を購入されてリノベーションにお金をかけ、心地よい暮らしをしたいという方も多いです。地域的に戸建てばかりではなくマンションを買われる方もいらっしゃるので、一口に『自然素材でやりたいんです』と言っても理由や背景は様々です。『なぜ自然素材を使いたいんですか』『どうしてそういう暮らしがしたいんですか』『そもそもなぜここの家を買ったんですか』など、いろんな角度から話を聞き出すことで、その家族が求める根本的な理想の暮らしを掘り下げていきます。その方が後々提案がしやすくなりますからね」
「当然限られた予算の中で実現していく訳ですから、一度に全部やり切るのは大変です。例えば『2階の部屋はお子さんが大きくなってきたら手をつけましょう』とか『外構は次回にしましょう』という風に2期・3期に分けてつくり上げていくという提案もしています」
「今日もちょうど工事しているお宅なんかは、もう7年くらいほぼ毎年何かしらの工事をしています。予算を分散させながら家族の成長に合わせて段階を踏んでいく訳ですが、肝心なのは一見関係なさそうなことや趣味のことなんかも含め、最初になるべくいろいろ聞き出して、お互いが納得のいく形で提案しながら進めていくことですね」
⎯⎯⎯⎯細やかな事前のヒアリングがあってこそ、先々のビジョンを共有できるんですね。ではアフターケアで心がけていることについて教えてください。
「自然素材でつくっていく家なので、当然経年変化して行きます。その点は理解しておいてもらわないとトラブルになりますので、事前によく説明して納得してもらうようにしています。それ以上に、心地よさ・自然素材の良さを十分にお伝えして、5年10年経った時に『ああよかった』と言ってもらえるような家づくりを心がけています」
「つい昨日も建てて4年のお宅に伺ったんです。梅雨明けしたばかりでジメッとしていましたが、すごく心地いい空間だったんです。お客さんはその中で日々当たり前に暮されている訳ですが『やっぱり心地いいんですよ』と言ってくれて嬉しかったですね。もちろん、木の色が落ちてきたり、左官でやった壁が割れてきたりはしているんですが、クレームになるのではなく『じゃあこう言う風に直しましょう』とお互いが納得した形でメンテナンスしていくことができていますね」
「また、建てて10年20年経つお宅では、当時小さい赤ちゃんだった子が、小学生や中学生になったり独り立ちしたりして、ご家族のライフスタイルが変化しています。ちょうど『子供に自分の空間を与えたい』と以前のお客さんから相談を受けたのですが、『完全に分けなくてもちょっと目線だけ隠せばいいんです』と仰っていました。設計の段階そういう話をしていたので、みんなで思い描いていた通りの未来になってきていて『よかったなぁ』と感じています」
今回、竹脇さんとの会話の中で特に印象的だったことが2つがある。1つは《気持ちいい》という感覚を大事にされていること。もう1つは《長く付き合う》という姿勢だ。
《気持ちのいい暮らし》や《気持ちのいい人間関係》のために、すぐに結果を求めることなく、長い目で物事を捉え、人と共に、木と共に、家と共に、じっくり付き合うのが竹脇さんの家づくりだ。
タケワキ住宅建設 竹脇 拓也 さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
淡路島の中央に位置する兵庫県洲本市。小川沿いに車を走らせると小高い場所にポツリと住宅と工場のような建物が見えてくる。ここが今回紹介する藤田さんの営む《淡路工舎》の事務所・作業場、そして自宅だ。
まずはプロフィールのご紹介。
藤田 大(ふじただい・48)さんは1972年 神戸市生まれ。高校在学中に法隆寺宮大工の故・西岡常一棟梁の著書「木に学べ」を読み宮大工の面白さに触れる。高校卒業後、西岡棟梁の紹介で「鵤工舎(いかるがこうしゃ)」に弟子入りし、11年間宮大工として修行する。
2001年 淡路島・洲本市の小川寺を建てるために移住。翌2002年 小川寺の完成と共に30歳で独立。神戸へのUターンも考えたが淡路島での暮らしが肌に合い、島内に残ることにした。
その後、敷地内の古民家を改修し自宅とし、作業場内には事務所と住み込みの弟子のための住居を建て、今の淡路工舎の形となる。現在は5名体制で社寺から住宅まで様々な仕事をこなしている。
「住宅をずっとやりたかったんですが、元々社寺ばかりやってきたので、知らないことばかり。家づくりを覚えたい一心で、地元の親方のもとで、昔ながらの淡路島の住宅や、プレカット工法の現代的な建築など幅広く学びました。」と藤田さん。
自宅に案内していただき詳しくお話をうかがった。
⎯⎯⎯⎯ 住宅と社寺とではどれくらいの比率で仕事をされているのですか?
「7:3くらいで住宅が多いかなとは思いますが、その時々で変わってくるので一概には言えないですね。今年はたまたま新築の住宅が多いですけど、来年に向けてお寺の仕事が控えています」
⎯⎯⎯⎯ 藤田さんの周りには他に手刻みで木の家を建てられている大工さんはいらっしゃいますか?
「木の家ネット会員の総合建築植田さん(植田さんの紹介記事はこちら)、僕のところ、あとやっていそうなのは、社寺を専門にしているところが、たまに民家を手掛ける際に手で刻んでいるのかなというくらいの感覚ですね。10年くらい前は、まだちらほら淡路島特有の伝統的な民家も建っていたんですが、めっきり見なくなりましたね。確かに残念といえば残念ですが、決めるのはお客さんなので難しい問題ですね」
⎯⎯⎯⎯ とはいえ島内には立派な淡路島らしい住宅も残っているように見受けられます。そういった住宅の改築・リフォームはどういった方からのご依頼が多いですか?
「元々住まわれていた家を直したいというご年配の方から、比較的若いと30代後半くらいのご夫婦だったり様々です。淡路島で特徴的なのは、移住のために古民家を購入して改装したいというお客さんが多いことですね」
⎯⎯⎯⎯ このご自宅も改築されたそうですね。
「はい。この家も自分で改築しました。斯く言う自分も移住組です(笑)。近所の人からは『潰した方がええ』と言われていました。雨漏りは酷いし棟は落ちているしシロアリはいるし、本当に荒廃していたんです。もちろん新築した方が簡単なんですが、古い家でも改築したらこんな風にできるんだという事例を作りたかったんです。なのでモデルハウスとして公開しています。お客さんには生活感も含めて見てもらえるようにしています」
そんな藤田さんの想いが詰まった自宅をご紹介する。
「風通しの良い家にしたかった」という藤田さん。取材日は7月上旬、大雨の合間の蒸し暑い日だったが、玄関をくぐった瞬間からひんやりと心地よい。建てて7年になるが、より良い住まいを目指し現在も改築作業は進行中だ。
敷地内にはさらに作業場が2つある。3年前には作業場の中に事務所を作った。外からはわからないが実は二階建てになっており、一階は事務作業や設計、製図、打ち合わせなどに使われ、二階はお弟子さんたちの宿舎になっている。
淡路工舎のお弟子さん達は基本的に皆、この宿舎に住み込みで働いている。現代ではこういった環境はかなり少ないのではないだろうか。
⎯⎯⎯⎯ 住み込みにこだわるのはなぜですか?
「今、住み込みでは2人来てくれています。福本杜充さん(ふくもと もりみつ・23歳・大阪出身)と板良敷朝和さん(いたらしき ともかず・21歳・沖縄出身)。僕が鵤工舎で弟子だった時も住み込みで生活していました。いつも合宿のようで楽しかったし、何よりとてもいい経験になりました。だから自分が弟子を取る立場になったら、絶対住み込みでしか取らないと決めていました」
⎯⎯⎯⎯ 弟子と言えば、ご長男の樹さんが藤田さんと同じく鵤工舎に弟子入りしていると聞いたのですが、どういう経緯だったのですか?
「僕が紹介した訳ではなく、自分から連絡して採用してもらいました。高校卒業後5年間の約束で弟子入りしています。今年で5年目なので来春には淡路島に戻ってくる予定です」
来春からは、他のお弟子さんと全く同じ条件で採用し、この宿舎で衣食住を共にすることになる。
淡路工舎の門を叩いてくる若い子は「木を触りたい」「刻みたい」という志を持ってやって来る。しかし実際の仕事は昔ながらの社寺や伝統建築ばかりという訳ではない。
「ここ数年で一般的に民家の新築はプレカットばかりになってきました。その手法に対する良し悪しや好き嫌いは別として、若い大工が短期間で一軒建てることができます。現場の数をこなせて、仕事を覚えられ、自信がつくという意味においては、特段悪くないと考えています」
そう考える藤田さんはある試みに挑戦中だ。
「志を持った若い職人が、ちゃんとした材料を使いながらコンスタントに家を建て、経験を積めるようにするためにはどうしたら良いか。それをずっと考えた結果『そうだ!もう建売りしよう!』と思い立ちました」
「自分たちでプランニングから始めて、模型を作ったりCADで図面を引いたりして、自分たちが良いと思える素材を使い、良いと思える家を作る。そして良いと思える暮らしを提案し、商品として家を買ってもらうんです」
「すると大体の人は、目の前に出来上がった家だけを見て暮らしを想像します。その時に『あ、良い!』と単純に思ってもらえたら、それが一番いいんじゃないかなと考えています。お客さん自らは興味がない場合でも『安全で体に良い素材を使って暮らしやすい家を建てたんです』とこちら側からカタチにして見せることもありなんじゃないでしょうか」
「注文住宅を一緒に作って行くことも素晴らしいし楽しいですが、一つのモデルを作って提案するというのも大切なような気がします。後からアレンジしたり手を加えて行くことももちろん可能ですし、自分たちの家づくりのパターンとして、《建売りというカード》を持っておくのは悪くないと思うんです」
確かな技と良い素材を使い、その良さが滲み出てくる家。《寡黙だけど慕われる人》が頭に浮かんだ。
その建売り住宅の第一弾が洲本市宇山に出来上がろうとしていた。
不動産屋さんが持つ土地に淡路工舎が家を建て、セットで販売してもらう。一般的な建売り住宅に比べるとかなり強気な価格設定になっているが、すでに売約済み。ほとんど既製品は使わず、建具は全部手づくりだという。
「使っている材料や、やっている仕事から考えれば、かなりお得な金額にはなっています。やっていることは間違いないという手応えがあります。万人受けはしないかも知れないけど、ハウスメーカーでは実現できないような家になっているので『こんなのが欲しかったんだよ!』と思ってくれる人もきっといるんじゃないかなと思って作りました」
完成見学会(取材後に完成済み)では「島内でこんな家を作るところがあるとは思わなかった」「今まで見てきたモデルハウスの中で1番や」と嬉しい声が聞かれたそうだ。
「もちろんこのやり方に対しては賛否両論あると思います。それを分かった上でやっている試みなので、これからどういう評価を受けるのか楽しみです。お客さんの声に耳を傾けて、また次の手を考えていきたいですね。従業員の間で『次、こういうのやろうよ』『こんなのどう?』と声が上がってきたら、ますます面白いことになると思っています」
熱く語る藤田さんの目は少年のように輝いている。
⎯⎯⎯⎯⎯ 今後のプランを教えてください。
「社寺の仕事をやりながら、建売りの住宅も平行して作って行ける仕組みを作って行きたいです。そうすれば人を雇うということも怖くなくなりますし、若い子にも来てもらいやすくなります。それを見越して製材機も導入しました。原木を買って来て、まとまった量の材木をストックしておくつもりです。短期間で答えは出ないですが、5年後くらいに軌道に乗れば良いかなと考えています。」
それでは家の中を詳しく見ていこう。
「自分で住みたいと思う家を設計した」と言う藤田さん。特徴は2階にキッチンとリビングに置き、スキップフロアと勾配のある天井にしたところ。気持ちいい空間が広がる住まいになった。
この家を買ってくれたのは30代の会社経営者。「僕らの建てるものなら絶対良いと言ってくれてすぐに購入してくれた」と藤田さん。
「住宅というものは、いち家族のために作るものだとばかり思っていました。しかし会社で購入し福利厚生のために使うようなケースもあるということを知り勉強になりました。今までの経験の中でだけ顧客層を考えるのではなく、もっと視野を拡げ、いろんな人が『買いたい』と思えるものを創り出していけばいいんです」
「自分は一体どこに向かっているんだろうと思うこともありますが、次の世代の子たちが《手仕事さえ覚えたら絶対的に食べていけるような環境》を整備してあげたいんです。自分だけが楽しみたいのであれば、ずっと社寺をチクチクつくるのもいいですが、そこにこだわり過ぎると、これからの時代に生き残れる人材は育たないんじゃないかなと僕は思います」
「実際、弟子の2人もこの現場を通してだいぶ成長が見えました。今までは『もっと考えろ』『どう思う?』と、こちらから声をかけることが多かったのですが、最近は自分から『面白い』『きれいやな』と自然と言葉が出てくるようになりました。自分がやり遂げたことに対して、自信を持てたり、達成感を得られたりと、単純に楽しめている証拠です」
「本当、何でもしますよ。今回は基礎も自分らでやったし。これからもどんどん新しいことにチャレンジして行って欲しいですね」
最後に、藤田さん自身がチャレンジして来た社寺の仕事をいくつか紹介しておこう。
福田寺(ふくでんじ) | 淡路市志筑
このお寺の新築工事は5年前(42歳の時)に手がけた。
ちなみに取材後に知ったのが、ここには源義経と静御前のお墓があるという(見てみたかった、残念)。
正面の屋根を降りきったところが、左右よりもなだらかに高く膨らんでいる。なかなかやっているところは少ないそうだが、藤田さんが修行していた時はこれが当たり前だった。なので予算があるないにかかわらず『ええことは知ってるから、しとかなあかんこと』だと言う。
「そんな技術とかこだわりも随所に詰まってはいますが、見に来てくれた人が『キレイやなぁ』と思ってくれたらいいだけ。あんまり細かいことは自分からは言わないようにしています」
ここを建てたご縁で、来年からは別のお寺の現場も始まるそうだ。
「どこのお寺も檀家さんが少なくなって、予算面や設計・施工面でも制限がある場合が多いんです。でも声を掛けて来てくれることが嬉しいので、そのお客さんのために、どうやったら条件をクリアしながらええもんを作れるかをいつも考えています」
藤田さんの人柄と滲み出る想いが、仕事や人をつないでいる。
厳島神社(いつくしまじんじゃ) | 洲本市本町
13年前、35歳で舞楽殿・社務所・回廊・渡り廊下を手がけた。
厳しい設計士の先生で「ほんまにお前にできるんか」みたいに思われていたが、やっていくうちに認めてもらえたそうだ。
「屋根などの意匠にとてもこだわりを持たれている先生との仕事は、今見てもやっぱりいい仕上がりになっていますね。鉄筋コンクリートや銅板の仕事が初めてだったので、個人的にものすごく意義のある仕事でした」
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう) 制札 | 淡路市多賀
厳かな参道の鳥居のすぐ横にある制札。天皇陛下(現在の上皇陛下)御在位参拾年奉祝記念、いざなぎ會設立七拾周年記念として2019年に手がけた。
意匠に決まりがあるわけではないので、設計には経験とセンスが必要だ。楔もちょっとやそっとでは抜けないよう噛み合わせの細工や入れ方にも工夫が込められているそうだ。
「出来上がってしまえば小さいけど、こういうのも大事な仕事です」
伝統的な職人の技を受け継ぎ、社寺建築での確かな腕を持つ藤田さん。しかしそこに甘んじることなく、新しいこと・知らない世界へと果敢にチャレンジしていく姿は、お弟子さんの意識も変え始めていた。
「新しいカタチの工務店を作って行きたいんです。若い職人が与えられた仕事をこなすだけではなく、自分たちで提案してそれを全員でカタチにしていくようなスタイルを確立できたら、やる気も全然違うでしょうし、面白いんじゃないかなと思います。」
「仕事は時間をかけて量をこなせば絶対的に身に付きます。幸いにもその時間や機会を用意できる環境はある程度整っています。それよりも大事なのは『大工って面白い』と思える《仕事づくり》じゃないでしょうか」
藤田さんは《家をつくること》を通して《次世代への道筋》をつくろうとしている。
淡路工舎 藤田 大 さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
各務工務店は、面積の8割が森林という岐阜県八百津町で、地元の材料をふんだんに使った家づくりを営んでいる。木の家は「長く住めて環境に負荷が少なく、住む人をゆったりとさせてくれる」と話すのは、代表の各務博紀さん。「まずは自分で調べやってみる」というスタイルで仕事を続けてくる中で、結局「昔からのやり方が一番理にかなっている」と感じ、受け継いだ大工技術を磨き、木を大切に活かす仕事を続けている。大工歴は20年。設計から施工までこなす棟梁として、また3人の弟子を育てる親方としての心構えをインタビューした。
八百津町は、南が木曽川本流に、北が木曽川水系の飛騨川に挟まれた町。雄大な川の流れとは対照的に山々の傾斜が険しく、初夏の時期は木々の緑が深く、こんもりと茂っている。
この木曽~裏木曽地域(飛騨南部、東濃地域)で育った天然ヒノキは、「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」という名で知られ300年以上の歴史がある。江戸時代、山から切り出された木々は、八百津でいかだに組まれ川を下り、現在の愛知県の熱田、堀川へと運ばれていったという。良質な「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」が、名古屋の町づくりを支えたのだ。
令和の現代、各務工務店は「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」などの地元材を構造材に使った家づくりを展開している。主に使うのは構造材だ。八百津町にはそういう古い民家が、長年の台風や積雪に耐えて残っている。損傷が出ても、傷んだ部分を取り換えることで次の時代へ住み継げるということを、各務さんは実感している。
さらに、構造材に外国材や集成材を使うと「短寿命だし、解体した時の産業廃棄物が膨大になってしまう。その土地にあるものを使うのが一番のエコだ」と話す。
現在改修中の岐阜市の物件は、築80年の2階建ての古民家。まず家自体を20センチも上げ、傾きを直すところからのスタートだった。
耐震工事も含めての大改修は、「新築とは違って現場合わせの連続で時間がかかる。けど、こうやって古い家を大切に住んで、任せてくれる施主さんがいてくれるのはありがたい」という気持ちで仕事に向かっている。
床を畳からフローリングに変え、床暖房を入れるなど、住み心地をよくする工夫も配する。この家の施主さんの息子さん夫婦が、敷地内に石場建ての家を建てる予定もあるのだという。設計は、木の家ネットメンバーの水野設計室が担う。各務さんの理想とする長く住み継げる家が、またひとつ増える。
もう1軒、八百津町にある、各務工務店が手がけた新築物件を紹介する。25畳のリビングダイニングの天井に、桧の構造材が大胆に見えるつし二階の家だ。
新築といってもすでに10年経ったが、施主の井戸謙悟さんは「この骨組み、かっこいいでしょう。大工さんは曲がってる木をどうしてこうも美しくできるのか?って今も眺めてます」と笑う。
美しいだけでなく、住み心地も抜群だという。漆喰で仕上げられた壁により「夏でも部屋の湿度がさらっと気持ちいい」と実感。開口部の南側の窓を大きく取り、涼しい風が家中を吹き抜ける。「子どもが友人の家に泊まりに行って帰ってきた日、やっぱりうちはええなあ、って言ったんですよ」と喜ぶ顔が、各務さんの家づくりそのものを物語っている。
冬場はマイナスにもなるという場所なので、薪ストーブも活躍。薪になる材料は地元の山から調達でき、エネルギーの地産地消も実現できている。
このような家づくりを支えるのが、チーム・各務工務店。メンバーは43歳の各務さんを筆頭に、20代の弟子が2人と10代の弟子が1人、オーバー60のベテラン職人3人で構成する。
各務さんの家系は、代々農業と林業を生業としてきた。父親が愛知県で大工修業し、帰省して立ち上げた各務工務店の長男として生まれた。「田舎がいやだったし、大工になるつもりもなかった」ため、中学卒業と同時に家を出て、高校の寮に下宿、そのまま岐阜県内の中規模ゼネコンで現場監督として働いた。
監督時代、厳しく優しく建築のことを教えてくれたのが、会社の上司でなく、現場にくる職人さんだったという。職人さんの温かみと、手でものを作り出す仕事に惹かれ、「実家の大工を継ごう」と帰省したのが23歳の時。父親や職人さんに技術を教わり、5年で年季明け、10年で棟梁となり、15年目、父親が「65歳定年」したのを機に代表となった。
修行時代から、現場監督の経験を生かして材料の発注や管理も行ってきたため「代表になったからといってやることは大きく変わらない。施主さんの要望を聞き、それに合った木の家を、地元の材料でつくる」と各務さん。材料は、地元の製材所にストックにしてあり、また自社の作業場には製材機まで整っている。
自ら現場にも入る。特に、墨付けは各務さんが担当。「どの木をどう配置すれば活かせるか、考えるのが一番楽しい」と腕をふるう。
変わったことがあるとすれば、ふたつ。ひとつは、お客さんが自分で情報を調べて「これはできる?」と聞くことが増えたこと。ふたつめは、「昔からのやり方、つまり開口部が広く田の字型の家が、結局一番だと思うようになった」ことだ。
各務さんは「まずはなんでも自分でやってみたいタイプ」と自己分析し、これまでお客さんの質問に答えるために、ハウスメーカーの建て方や高気密高断熱の家、建築法規についても独学で勉強してきた。八百津町が確認申請が不要なエリアであることから石場建てもこなしてきたが「石場建てばっかりでいいのだろうか」と迷ったこともあるという。木の家ネットへも知識を深めたくて、会員の岡崎定勝さんに自ら「入会したいので紹介してほしい」と直談判したほどだ。
ほかの工法のメリット、デメリットも勉強した上での結論が、「今までやってきた木の家は、気持ちよさ、エコであることに勝るものはない」。県外で木組み、土壁の家を建てることのハードルの高さにも驚き、自身の恵まれた環境に感謝も生まれた。
さらに、構造が単純であればあるほどメンテナンスしやすいことも強みだという。「メンテナンスする大工は、もしかしたら自分の次の世代かもしれないから」と未来を見据える。
こういう考え方ができるのは「山に囲まれて育って、山で仕事しているからかな」とはにかむ。木の家をつくることと、木を大切にし山に心を寄せることはつながっているのだ。その自然をいつくしむ空気感が、各務さんが手がけた家には流れている。のびのびとした、居心地のよい空間だ。いくつかを写真で紹介する。
各務工務店スタイルの家にほれ込むのは施主さんだけではない。
年季明けした弟子の各務椋太さん(27)も、弟子歴3年目となったと中村哲也さん(22)も、学生時代に各務工務店の現場の木組みをひとめ見て「すげえ、やってみたい」と圧倒され、弟子入りを志願した。
各務工務店の弟子育成方法は、一言でいうと柔軟。現在は、椋太さんが後輩弟子を指導する体制で20代弟子チームが現場に入り、ベテランチームは作業場で下支えする。以前は、20代の弟子とベテラン職人を組ませて、職人から弟子に技術を教えるようにしていた。
今春、仲間入りした10代の弟子が普通高校出身だったため、座学「大工講座」も行うようになった。「大工とは?」「道具とは?」といったテーマで、各務さん自らペーパーの資料を作り、講義する。これまで5回開催した。「自分たちの時代のように技術を見て盗めといっても時間がかかりすぎる。今の若い子は言えばすぐ理解できるから、言ったほうが早い。ペーパーならその時理解できなくても、あとでも見返せる」と、見極めながら指導をしている。「それに、同じこと何度も言うの嫌なんだ。言われるほうも嫌でしょう」と、正直な気持ちも打ち明けてくれた。
一方で、年季明けした椋太さんには現場を任せ「いつ独り立ちしてもいいようにしておけよ」と言葉をかける。椋太さんは現場を任されるようになり「考えることめちゃめちゃ増えて大変ですけど、やりがいがある。よそじゃできない仕事をさせてもらえてる」と笑顔を輝かせる。
若い世代が現場にいることで、施主さんや近所の方が別の仕事を頼まれることも多いという。家づくりは長い付き合いになるから、若手がいるってだけで安心して任せられるのかもしれない」と各務さんはみている。
チームはそれぞれの現場で仕事し、現場が違うメンバーとは何日も顔を合わせないこともざらだという。進捗は、SNSアプリ「ライン」で確認するほか、水道や電気など他の業者や、施主さんの話を聞いて「あれ、おかしいな、と思ったら様子を見に行くようにしているけど、そんなことは少ない。思い切って任せると、責任もって仕事してくれる」と各務さん。
大工に大切なことは何か?各務さんの答えは、「技術向上に精進するの当たり前の話で、一番大切なのは人間性」だった。他にも工務店がある中で仕事を任せてくれた施主さんへの感謝、大工仕事以外を任せられる他の職方さんへの敬意、現場周辺のご近所さんへの気配り・・・人間性を高めるには、任せ、任せられる関係づくりが不可欠なのだった。
自然や山があるからといって、林業や大工など木を使う生業が残るとは限らない。実際のところ、各務さんが子どものころ、八百津町久田見地区には30件近くの大工がいたというが、現在は「各務工務店」1軒だけ。
ほかの大工はどうしたのか。「ハウスメーカーの下請けになったり、高齢化で看板を畳んだりした」と各務さん。自身は、「どうしてもハウスメーカーはしっくりこなかった」ため、仕事がない時期はよそに応援に行くなどしてきた。好きでないことは、しない。自然なことだった。結果、昔からの木の家づくりが継続できる数少ない工務店となり、そのような家を求める施主さんと出会えるようになった。
家づくりは、施主さんにとって夢をかなえる機会でもある。前述の井戸さんは10年前の新築の時、「自分の山から切り出した木で家を建てたい」「それも、葉枯らし乾燥で」「漆喰は自分でつけてみたい、天草を煮るところから」などの夢を持っていた。しかし、応えてくれる工務店を見つけるのは難しく、各務工務店に任せられたことに感謝する。実現できた技術の高さに太鼓判も押す。
各務さんは「昔は当たり前だった技術ややり方が、今は貴重なものになっている。これからはもっとそうなっていくだろう。施主さんに任された時にできるように、日頃から準備しておく・・・って、弟子に言ってることと同じだな」と笑った。
大工技術は自然にやさしく、自然を美しく魅せる。最近確立されたものと違い、歴代の職人によって磨かれてきた歴史がある。それを受け継ぐ各務さんは、「自分の手でものを作り出せるのは本当におもしろい」と前向きだ。大工など職人の後継者不足もあるが、各務工務店には3人の弟子がいるほか、各務さんの息子の巧真さん(18)も、この春から郡上市の大工で木の家ネットメンバーでもある「兼定番匠」兼定裕嗣さんのもとで大工修業を始めた。
「木を、自然を大切にできる人が増えることは幸せなこと。自分にとって家づくりもそれを伝える手段なのかもしれない」という各務さんは、優しいまなざしで山を見つめていた。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(写真一部は各務さん提供)
この取材は3月を予定していたが、コロナの影響で6月取材、7月掲載となった。この3カ月で世の中はがらり変わったと感じている。今回、緊張感はあったものの、外出、取材できた状況にまず感謝したい。各務さんは、春先は資材がストップしたこともあったが、現在は平常運転だと話してくれた。
すっかり定着した印象のある「ステイホーム」。自宅にいながらオンラインで学びも飲み会もでき、テレワークで仕事までこなせるようになった。外出では感染の不安が拭えないため、安心できる場としての存在感も増した。その家が自然素材で風通しがよければ、大工さんが愛情と手間をかけてつくったものであれば、きっとすこやかに過ごせることだろう。ウィズコロナの暮らしのヒントが木の家にはある。そんな思いがした。
生まれ育った集落を愛し一途に木の家をつくる 株式会社 すずきハウスプラン 代表 鈴木隆美(すずきたかみ 51)さん。秋田杉の樹皮から生まれた断熱材「フォレストボード」を販売する 株式会社 白神フォレストコーポレーション(以下 白神フォレスト) の椎名正人(しいなまさと 58)さん。
今回は秋田県で躍進する木の家ネット会員のお二人をご紹介します。
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発令中の5月中旬。本来は秋田まで飛び、2日掛かりで取材する予定でしたが、急遽オンラインで秋田・愛知・岡山をつなぎZoomインタビューを敢行。お二人と関係の深い加藤長光さん(木の家ネット前代表)にも登場していただき和やかな時間となりました。
鈴木さんの営む《すずきハウスプラン》は秋田県能代市二ツ井町小掛にある100軒ほどの集落にある。生まれ育ったこの町で18歳の時から大工仕事を続け、30代で稼業の鈴木工務店を引き継ぐ形ですずきハウスプランを立ち上げ、棟梁を務めてきた。同社には現在鈴木さんを含め4名が在籍している。
鈴木さんの手掛ける仕事のポリシーは 《「人に優しい家」づくり》。秋田杉など地元の木材や自然素材を使った温もりのある木の家を提案し続けている。
小掛地域は日本三大美林のひとつ天然秋田杉の原産地で、豊臣秀吉の伏見桃山城へ木材を拠出した歴史も持つが、意外にも伝統的な木の家づくりは衰退の一途を辿っているそうだ。他に墨付け・刻みからやっている大工さんは近くにはいないのだろうか。大工を取り巻く状況を伺った。
鈴木「今はほとんどいないと思います」
椎名「20軒くらいの工務店とお付き合いがありますが、小さい車庫くらいなら他でもやっているかも知れませんが、住宅丸ごと一棟となると鈴木さん以外知らないですね」
鈴木「田舎に限ってそういう状況が多いように感じますね。若い大工も居るには居るんです。しかししっかり育っていける環境に置かれている人となると、あまり居ないのかなと思います。せめて自分のところだけでも、墨付けや刻みという基本の基を次世代に残していきたいと考えています」
そう語る鈴木さんのもとでは息子の瑠圭(るか 24)さんも大工として精を出している。
鈴木「他の会社で修行するのもいいかと思ったんですが、この辺りの会社だと基本的なことを学べないなと感じました。うちだと墨付け・刻みを自分手でやっている。他で3〜4年過ごしても無駄な時間を過ごすんじゃないかなという想いで引き受けました」
加藤「地域性もあるとは思いますが、“弟子をとって技術を継承していく”という旧来の大工の形はすでに無くなっています。その中で父・忠(ただし 79)さん・隆美さん・瑠圭さんと親子三代で手刻みで大工を続けているというのは本当にすごいことだと思います」
鈴木「この辺りでも高気密高断熱の家を建てるケースが多く、昔ながらの木の家づくりはゼロに等しいです」
鈴木さんのところにも依頼はありますか?
鈴木「すずきハウスプランとしてはやはり手刻みで地元の秋田杉や自然素材を使った家づくりをしたいと思っています。自然と同じような考えのお客様から声をかけてもらうことが多くなっています。中には『そちらでは高気密高断熱はできないのか』と仰る方もいらっしゃいます。もちろんやってできないことはありませんが、自然素材の木の家の良さを伝えるようにしています。高気密高断熱の方が、自然素材の家より高度で難しいと思われがちなところがちょっと辛いですね」
加藤「見学会やオープンハウスを開催すると両者の違いが明確に解るので、お客さんも体感して納得されているようですね。鈴木さんは、すずきハウスプランとしての考え方やつくり方をブレることなく明確に謳っているので、お客さんが自然とついて来ているんです」
鈴木「先日も頑張りすぎちゃってたみたいで、加藤さんから『鬱っぽくなっててやばいよ』と言われました…」
加藤「本当に頑張りすぎるんだよ。鈴木さんは現場最優先で、対応の早さはピカイチ。それを地域の人たちはちゃんとみんな見ている。あくまで大工棟梁で居続けているんです。良い意味で社長になれない社長だな。現場を大事にしていると言うことは、人を大事にしていると言うこと。お客さん・職人さんなど関わる人みんなとの関係性を一番に考えているよね。そこが抜群の信頼度に繋がっていると思いますね。他はないね!(笑)」
鈴木「他はないですか!?(笑)」
冗談交じりの二人のやりとりからもしっかりと信頼関係が感じられた。
鈴木さんと加藤さんとは20年来の仲。実は加藤さんとの出会いが鈴木さんにとって大きなターニングポイントになったそうだ。鈴木さんに詳しく聞いた。
「30歳くらいで、丁度すずきハウスプランを始めた頃の話です。当時は高気密高断熱住宅を主とした流行りの住宅をやっていて、若手ながらけっこう仕事も回って調子に乗っている時期でした。ある日、飲みの席で偶然カウンターで加藤さんの隣に座る事になり仕事の話をしました。加藤さんは父の事を知っているようで、徐々にお酒も入りかなり喧嘩腰の討論になったんです」
「加藤さんから『大工と言うのは木を生かした建物を基本とし墨付け・ノミ・鉋などで仕事をするものだ』と言われ、当時やっていた仕事とは180°違っていたので、噛みついてしまったのを今でも覚えています」
「今考えると当たり前の事を言われていたのです。あの日加藤さんに出会わなければ、まさしく《社長》になってしまうところでした」
では、どうやって今のような信頼関係が築かれたのだろうか。
「ある日、加藤さんから『伝統構法の仕事をやってみないか』と声をかけられたんです。余裕でこなせると舐めていたのですが、蓋を開けてみるととても苦労しました。当時否定していた昔ながらの父の大工仕事が、本当は凄いことなんだと気付くことにもなります。実際その仕事でも父に助けられ、大工と言うものに対する考え方がかなり変わりました。加藤さんから声をかけてもらわなければ、今の私はなかったと断言できます」
素晴らしいドラマの延長線上に今の二人の関係がある。
特に心に残っている仕事や思い入れのある仕事があれば教えてください。
「具体的にこの家と言う訳ではないのですが、二回り目の依頼をしてくれたお施主さんが3名いらっしゃいます。大工を33年以上やってきて、こういったお客さんに恵まれたことは本当に嬉しいことです。先ほどの話にもありましたが、当時建てていたのは木の家ばかりではありませんでした。その頃のお客さんが、今自分が建てている家やこだわりにも共感して戻って来てくれているということは、『単純に新しい家が欲しい』ということではなく、一緒に成長しているようでもありますし『ずっと私の家づくりや姿勢を見てくれていていたんだなぁ』と感動しています」
真面目で地域での信頼感も抜群の鈴木さん。そのルーツを垣間見えるエピソードがあった。
「参考までに見てください」と渡された鈴木さんを紹介している10数年前の新聞記事(2007年2月27日付 読売新聞 秋田版)に目を通していると、父・忠さんについてこう書かれていた。
《小掛地区に建つ約100軒の家のうち30軒を手がけた。感謝の気持ちを込めてか、いまだに採れたてのの野菜を玄関先に置いていく。》
これは紛れもなく父・忠さんの信頼感と人間性、そして大工としての匠の技の賜物だろう。鈴木さんもまた同じ道を歩んでいる。鈴木さんの自宅・会社の周辺には、自身の手がけた木の家々が増えていっており《たかみ集落》の景観が整いつつあるのだ。
「渓谷をつくろうと思っています」と笑いながら語る鈴木さんだが、その目は真剣だ。
「小掛地域を《木の家の町並み》にし、様々な店舗が出店したいと思うくらいの魅力あるものにしていきたいです。そして小掛の発展を全国に発信していくのが夢ですね」
鈴木さんは未来へと歩み続ける。
時代は移ろい、家づくりを取り巻く環境・素材・道具・法律などもどんどん変わってゆく。その変化に柔軟に対応しながら、信頼を得続けるためには、芯となる人間性と卓越した技術が益々必要不可欠になってくるのではないだろうか。
そして今、父・忠さんから受け継いだ志は、息子・瑠圭さんへと繋がっていこうとしている。
「瑠圭から直接聞いてはいないのですが、友達の両親には『仕事が面白い』と言っているみたいですし、朝早くても夜遅くて文句ひとつ言わず打ち込んでいます。大工が好きなんでしょうね。僕ももちろん好きでやってますし、親父もそうだったので自然とそうなったのかなと思います。その気持ちを忘れず生涯大工でいて欲しいですね。大工を愛し、自分を愛し、そして瑠圭を好きでいてくれる人に出会い、自分の城を築いていってもらいたいと願っています」
鈴木さん・瑠圭さんの今後の活躍に目が離せない。
さらに次の世代へ、木の家の良さをもっと知ってもらいたいと、鈴木さんはこんな活動も行なっている。
すずきハウスプランで昨年の8月に開催した木工教室。地域の子供たちに木に触れてもらおうと企画したイベントだ。内容は鈴木さんと瑠圭さんが、子供たちの夏休みの自由研究のお手伝いをするというもの。
「木と触れ合い、親子で一緒に作業し、木の家の町並みを見る。その時間の中で何か得られるものがあれば嬉しいです」と鈴木さん。
100軒ほどの小さなコミュニティだが、親子共々親戚のような気のおけない間柄だそうだ。ちなみにすずきハウスプランはこのチームのスポンサーにもなっていてる。
子供たちの感性が光る力作揃い
「関心するような工作の発想をしたり、無理難題を普通に言ってきたりして面白いですね。それをどうにか対応するのが腕の見せ所です。自分がまっすぐに接していると、暴れん坊も、照れ屋さんも、みんなまっすぐ接してくれます。そこが楽しいです。自分自身の人への接し方や関係性を再認識する機会にもなっています。イベントを通じて、自分の方が子供たちから勉強させてもらっていますね」
この鈴木さんの姿勢や、人との関係性の持ち方こそが、《抜群の信頼度》に繋がっているのだと強く感じた。
次に椎名さんのご紹介。その存在は鈴木さんの家づくりにも欠かせない。
冒頭でも触れたが、椎名さんの務める白神フォレストでは、秋田杉の樹皮から生まれた断熱材「フォレストボード」を販売している他、秋田県内の製材所とのネットワークで材木のストックヤードとして仕分け・検査・デリバリーを行っている。
このストックヤード業は元々、加藤さんが代表理事を務めていた《モクネット事業協同組合》によって規格化された秋田杉の材木などを扱っていたそうだ。
椎名さんと鈴木さんの仕事での関わりは?
鈴木「僕が顧客ですね。材木の手配もいつもお願いしています」
椎名「鈴木さんは秋田県内では一番の大得意です。それから『他の所にない材を探して来い』と無理難題を一番言ってくるのも鈴木さんです(笑)」
鈴木「でも椎名さんは絶対探して来るんです。ありがたいです。床の断熱材にはフォレストボードを使っています」
加藤「フォレストボードは木の家ネットメンバー内で広まっていった思い入れのあるものなので、もっと発展していってもらいたいな」
大江「以前は炭化コルクの断熱材を使っていましたが、私も全部フォレストボードに切り替えました。これからの時代は環境に配慮したものでなくてはならない。間違いなくグラスウールではなくフォレストボードに勝機があると思いますよ。」
環境にも人体にも優しいフォレストボードだが、まだ施工性などで課題も残されている。実はフォレストボードという商品ができた時に、県内で最初に使ったのが当時まだ他の会社に在籍していた椎名さんだった。
椎名「その時の第一印象は『使いづらいなぁ』という感じでした。今は逆に売る立場になり同様に『施工時に粉塵が多く出て、使う人には優しくない』とお叱りの言葉をいただくこともあります。こういった施工時のマイナス面は克服し、プラス面はもっと認めてもらえる施作を考えているところです」
具体的にはどんなことを計画しているのか、話せる範囲で聞かせてください。
椎名「数年前から希望サイズにカットした状態で納品できるようになりました。しかしもっと使いやすいものにしていきたいので、本実加工(ほんざねかこう:板の側面に凸凹の溝を設けてぴったりとくっつけられるように加工したもの)を施したフローリング材に裏張りするなど、施工性が上がらないかテストをしたり、使い方を示す仕様書を提供できるように話を進めている最中です」
大江「本実にできれば扱いやすいですね。海外では似たような商品で本実加工をしたものがあります。しかし規格が違うので日本国内で使うとなると結局切ったりしなければならないのでこちらも扱いづらいですね。」
椎名「この記事をご覧のみなさんも、いいアイデアがあれば教えてください」
ポテンシャルが高く、まだまだ発展を見込めるフォレストボード。より良いの製品へのアイデアを募集している。
人のため。環境のため。みんなに優しいより良い住まいを実現したい。鈴木さんと椎名さんは分野こそ違うが、同じ未来を見つめ守っていくべきこと、変わっていくべきことを見極め、日々家づくりに向き合っている。
私たちもこれからの生活がどうあるべきかを見つめ直し、暮らしの中で何を選択するかを考えて行かなくてはならない時が来ている。
株式会社 すずきハウスプラン 鈴木 隆美(つくり手リスト)
株式会社 白神フォレストコーポレーション 椎名 正人(つくり手リスト)
取材・執筆:岡野康史 (OKAY DESIGNING)