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山里の暮らしがなくなる?

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山の暮らしの現場を訪ねて

林業の取材で山間部を頻繁に訪れてはいても、山奥に人が住み暮らしている現場を目にするたびに、私はある種の感動を覚えてしまいます。それはこんな山奥に人が暮らしていることに対する単純な驚きであったり、周囲には自然以外にほとんど何もないような環境で日々の営みを可能にしている知恵や技術に対する畏敬の念であったり、そのような暮らしが何世代にもわたって続けられてきたことに対する頭が下がるような思いであったりと、ひと口には言い表せないものなのですが、身内の深いところからわき起こってくる感興とでも言うべきもので、そのような暮らしの現場を前にすると、心を動かされるのをとどめることはできません。

イノシシ鍋の支度。豊かな山の幸が暮らしを支えてきた

「山奥の集落」を私が最初に意識したのは学生時代にオートバイで東北を旅していた時のことでした。この先に小さな集落があり、そこにいい温泉があると地元の人から教えられた方角にバイクを走らせました。そんなに急ではない登り道は両側から森が迫り、だんだんと細くなるようで行けば行くほど心細さが増してきます。この先に人が暮らしているところが本当にあるのだろうかという不安が何度も頭をもたげ、やっぱり引き返そうかと思ったのも一度や二度ではありませんでした。そうするうちに森が開けてたどり着いた集落の温泉では、農作業の汗を流す人たちの筋骨たくましさに圧倒され、なまっちょろい自分の身体が恥ずかしく、単によそ者であるということ以上に居心地の悪い思いがしたものです。今思うと、自然の真っただ中で身体を使って住み暮らすことの真実とでも言うべきものの片鱗に触れ、都会者として後ろめたさを感じていたのかもしれません。

また、これは林業の取材に従事するようになってからのことですが、人気のない山奥の道を誰かに運転してもらって車で移動していたときのことです。確か四国だったと思いますが、夕暮れ時で急速に暗さが増す中、黒々とそびえたつ道脇の山を車窓から眺めていると、尾根近くのとても高いところにポツリと人家の灯りがともっているのです。少し行くと、やはり尾根筋にまたポツリと灯りが見える。実はその以前に紀伊半島の山中を移動していた時にも同じような経験をしたことがあり、そのときは単独での道行きだったので、「なぜあんな高いところに人が住んでいるのだろう」と思いはしたものの、そのまま行き過ぎてしまっていたのです。しかし、今回は運転してくれていたのが地元の人だったので、感じた疑問をそのまま問うてみたところ、「ああそれは日当たりがいいからですよ」と事もなげに短い答えが返ってきました。車を走らせている道のまわりは若干の平地が開けていて、一見暮らしやすそうに見えますが、まわりを山に囲まれているために日照時間がかなり短くなってしまうことは容易に想像できます。それに比べると、確かに尾根近くまで行けば日当たりはよく、農作物の生育にも都合がいいわけです。山間地ではこのように比較的高いところに集落があり、尾根道ならばアップダウンもたいしたことがなく、集落同士の移動にも便利なのだということもそのときに教わりました。

日当たりのよい高所で暮らしを営む

山村の疲弊で失われるもの

いま日本では、山から人がどんどんいなくなりつつあります。「過疎問題」とは、1960年代後半からの高度経済成長期に山間地から都市部への人口流出が顕著になったことで生じたものですが、その頃からすでに40年が過ぎ、現在、多くの山村が過疎どころか「無人化」の危機に直面しています。国土交通省と総務省が2006年に実施した調査では、過去7年間に全国で191集落が消滅していたことが明らかになるとともに、今後も全国で2643集落がいずれは消滅し、そのうち423集落は10年以内になくなるとの予測がなされています。いわゆる「限界集落」とは、65歳以上の高齢者が人口の50%を超え、冠婚葬祭などの行事や共有林の整備、道路や水路の管理といった地域社会としての営みを維持することが難しくなった集落を指す言葉ですが、現実問題としてそのような集落が増え続けているのが山間地域の実情なのです。

一方、都市部に目を移すと、例えば東京の六本木周辺では相次ぐ再開発で、仕事や娯楽、生活の全般にわたる高度な都市機能が集中した高層のインテリジェントビルが林立し、昼夜を問わずに大勢の人たちが行き来して活気にあふれています。そのような人の流れの中に身を置き、鉄とコンクリートでできた天を衝くような構造物を見上げていると、今さらながら、都市と山間部の格差がいかに大きくなっているかを実感します。しかし、一見豊かな都市の生活も、それだけで成立しているわけでは決してなく、そこで消費されているものは、すべて元をただせば自然からもたらされたものであるわけです。それなのに都市部では消費行為のみが膨張し続けて物質的な豊かさが謳歌され、自然の恵みを生かすことを主な生業としている山間地域が疲弊の度を深めている現状には何かしっくりこないものを感じます。

このままの状態が続けば、山間部の地域社会は過疎と無人化の進行により、人が住み暮らすフィールドが極端に縮小していくことは避けられません。それによって、自然とうまく折り合いながら生きていくための知恵やその地域固有の文化や風習など、多くのものが失われることになります。もちろん、これまでにも社会の変遷とともに文化や風習は消長を繰り返し、形さえとどめずに失われていったものは幾多もあるはずです。そのことを思えば、単なる郷愁で山間地域の疲弊を食い止めようとしても、歴史の必然の前には徒労に等しいのではないかという疑念も覚えます。しかし、自然からあまりにも遠くなった都市生活の爛熟ぶりを見るにつけ、自然の一部であるはずの人間が、大本の自然を忘れ去ってしまったような営みに終始していていいはずがないと思うのです。そして、山間地域で営まれているような自然と向き合う暮らしには、やはり何か普遍的な価値があるはずだとの確信めいた思いも身内に強くわきあがってくるのです。

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山間部では人が暮らすフィールドが縮小し続けている