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3.11後を生き抜くコミュニティーの力 牡鹿半島 福貴浦より


東日本大震災の年の11月、木の家ネットでは職人がつくる木の家ネット第11期総会を宮城県登米・石巻エリアで行い、津波被災から半年経った北上川河口・十三浜地域を訪れました。

2011年10月、大震災から半年後に宮城県で行った木の家ネット第11期総会より。石巻の浜エリアは、道がまだ寸断されており、地元のバスでまわった。

あれから3年経った今、石巻では木の家ネットの二人のメンバーが復興に携わっています。一人は石巻市北上町十三浜の建築士で、石巻での総会を敢行してくださった佐々木文彦さん。佐々木さんは「つぐっぺ おらほの復興家づくりの会」を立ち上げ、地域材での家づくりを提案しています。もう一人は、総会以降に生まれた縁で石巻での佐々木のさん設計による「We are One マーケット」建設に携わるために埼玉県からやって来て「復興応援大工」として石巻で活動している杉原敬さん、ことマイケルです。

佐々木さんは「地元住民」、マイケルは「よそ者」として、それぞれ、浜の暮らしやコミュニティーの再建を目指して、建築を通してできることを、力の限りしています。しかし、海岸近くまで山がせまる浜では、集落を再建するのに高台の造成から手がけなければならないこともあり、仮設住宅を出た後に新しい生活を始める場となる住宅の建設まで進んでいないのが現状です。

昨年11月、奈良で行われた木の家ネット第13期総会の会場と石巻とをiPhoneでつないで、ぎっくり腰で急遽総会に来られなくなったマイケルが語る石巻の現状をみんなで聞く時間をもちました。「ガレキは片付いてるし、インフラも整いつつある。けど、浜の人たちの多くはまだ仮設住宅や借り上げ住宅に住んでいる」「津波でなくなった学校が統合になり、子持ち家族は学校の近くに引っ越していく。年寄りばかり残る浜は限界集落化している」「集団移転先の高台造成が始まっていない集落も多い。しびれを切らして浜から内陸に移った家族もある」「造成が始まった地域には住宅メーカーが営業攻勢をかけていて、一戸一戸バラバラな家づくりが始まろうとしている。地域らしい家や暮らしがなくなってしまいかねない」生の声で聴く現実に、復興の道のりの長さや地域のありかたが変わりつつあることの深刻さを、あらためて感じさせられました。

一方でマイケルは、彼が関わり始めた、ゆっくりとではあるけれどもようやく動き始めた、ある集団移転計画についても話してくれました。「牡鹿半島に福貴浦(ふっきうら)という35世帯の集落がある。そこで集団移転をする高台での復興住宅建設に関わる流れになってきている。大工として復興に直接携われるチャンスなので、集落をまるごと地元の木の家で再生したい。人手も足らない。調整も大変。けれど、やりがいのある仕事になる。みんなにも応援してほしい!」と。翌朝の総会でも木の家ネットとして何ができるかみんなで話し合い、まずは現状を取材したり、マイケルに現地での聞き書きをしてもらったりしたことを、木の家ネットから発信することを決めました。

以上のような経緯で、今回の特集「3.11後を生き抜くコミュニティーの力」では、「よそ者大工」マイケルの案内で取材をして来た石巻市牡鹿町福貴浦からの、津波被害地の「これまでとこれから」をレポートします。

大雪で遅れ遅れの到着!

2月9日。東北取材の前日、木の家ネット事務局のある山梨県の山間部には50センチの積雪があり、行けるかどうか自体、危ぶまれたのですが「中央本線の各駅停車は遅れをもって運行」との情報に望みをかけて出発。

14時には宮城入りする予定が、新幹線で古川駅に辿り着いたのが20時半。レンタカーの手続きを済ませ、大雪の中のそろりそろり運転と、途中思わぬ通行止めによる迂回もあったりで、総会の時にもお世話になった追分温泉に着いた時には、日付が変わる頃になっていました。

営業開始から一年。地域に根付いた
We are One マーケット

朝、追分温泉から北上川流域に下り、今も仮設住宅に多くの世帯が暮らすにっこりサンパークの下に完成し、営業をはじめて一年経った「We are One マーケット」に立ち寄りました。2年前に「避難所近くに、お母さんたちが買い物できる店と、子ども達が遊べる場所を併設したマーケットを作りたい!」という強い想いをもった地元の佐藤尚美さんと「被災地の復興に大工として関わりたい」と意気込んでいたマイケルとが、佐々木文彦さんの仲立ちで出会ったことに始まり、多方面からの協力を得ながら形となったお店です。

■右:We are Oneマーケット(設計=有限会社 ササキ設計 佐々木文彦)の概要 ■左上:We are Oneマーケットは、Architecture for Humanity の2013年デザインアワードで最優秀プロジェクト賞を受賞 ■左下:オーナーの佐藤尚美さんと大工のマイケル  北上ふるさと再生プロジェクトなどを通じて支援くださった皆様、ありがとございました。

3.11のずっと以前から、北上川河口を見守って来たお地蔵さんが座るマーケット前で、佐藤さんは「こんな雪、今までにながったさー」と言いながら、雪かきをしていました。

マーケットには、おかず、駄菓子、日用品にまじって、収穫できるようになったわかめや昆布など、地元の海産物が並んでいました。子ども達が遊べる無垢の木の床が張られたスペースには、絵本が並び、楽しく飾り付けがされています。「いったん仮設にランドセル置いて来て、お母さんたちが夕方の買い物に来るまで遊んでく子が多いですよ」とのこと、しっかり活用されていて、嬉しい限り!です。

■左:木の香りでいっぱいの子どもハウス ■右:北上の地域づくり運動の拠点ともなっている ■下:これまでの活動の様子の写真がボードにたくさん貼られていた

リアス海岸を南下 見えない集落

「牡鹿半島まで行ぐのー?えーーっ 通れっかなー」と佐藤さんに見送られて、出発。北上川にかかる新北上大橋をわたり、北上から雄勝、そして牡鹿半島へと広域道路を走ります。

三陸のリアス海岸地方は、急峻な山が水没してできた、険しい山襞がそのまま海岸線となった地形です。山の中腹よりも上を走る道路は、トンネルを越え、次の山襞へと突っ切っていきます。道沿いに集落はないどころか、見えもしません。ところどころに広域道路から浜にある集落へとおりる枝道が分かれています。その道をくねくねと下りきった終点、つまり山襞に深く切り込んだ入江の最奥に、港と集落があるというのが、浜の暮らしの場の姿です。

石巻市雄勝から女川に抜けるあたりの風景。深く切り込む入り江と海面から屹立する山

このような広域道路がなかった昔、浜と浜とは急峻な山で隔てられ、隣浜といえど、山伝いに越えていくか、船でまわるかしかありませんでした。急な山がつくる入り江に囲まれた海は、外海と違って静かで、波も穏やか。いい漁港となるだけでなく、養殖に向いているため、ワカメやカキ、昆布など、それぞれの浜で特徴ある生業が営まれてきました。

しかし、いったん地震となると、この静かな入り江に外海から入り込んだ津波は高波となり、猛威をふるうのです。東日本大震災の時もそれが顕著な形で起きてしまいました。

牡蠣の養殖を生業とする浜 
牡鹿半島 福貴浦に到着

牡蠣の養殖で成り立つ福貴浦

広域道路から浜にジグザグとおりていくと、左手が海で右手が山。海には小さな港があり、小型船が何艘か。車を降りると、海の幸のにおいがします。山と海の間には「福貴浦カキ加工所」があり、山との間に、牡蠣の殻が山となっていました。加工所の前で、阿部信彦さんが待ってくれていました。

マイケル 阿部信彦さんです。ぼくら仲間内では「バビちゃん」って呼んでるんだけどね。

バビ 阿部です。昨日は追分温泉でゆっくり話せるのを楽しみにしてたんだけれど、大雪で会えなくて残念でした!

牡蠣を養殖する漁師の阿部信彦さんことバビちゃん

津波でほとんどをさらわれるというマイナスからのスタートでありながら「地元の生業で、コミュニティーで生きていく」ということに希望をもって前に進もうとしている阿部さんの気負わない語りと気さくな笑顔に、取材しているこちらがいつしか引き込まれていきます。マイケルが「当面はここでシゴトするのが俺の大工としての本望」と決意してしまったのもも、分かるような気がしました。

次ページ以降では、加工所の会議室兼休憩室でお伺いした、震災後のこれまでのお話、これからに向けての展望などをご紹介します。


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福貴浦の船着場。右側のフォークリフトからぶら下がっている縄の先に、養殖した牡蠣が結びつけられている。