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設計士・徃見寿喜さん(樹音建築設計事務所):設計×環境=木の家づくり

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設計士 樹音建築設計事務所 徃見寿喜さん

1973 愛媛県喜多郡生まれ 1989 愛媛県立松山工業高等学校建築学科 1992 日本大学工学部建築学科 1996 日本大学大学院工学研究科 (都市計画第一(土方)研究室) 1998 (株)みちのく設計(仙台市)勤務  2001 (有)ササキ設計(仙台市)勤務 2002 アトリエゆくみんぐ 開設 2004 樹音建築設計事務所に屋号変更 

インタビュー:2006年2月1日 取材執筆:持留ヨハナエリザベート

山奥育ちの建築少年だったぼくが
木の家づくりにめざめたわけ。

愛媛県喜多郡河辺村という高知県境の山村で生まれ育ちました。家の生業は林業。田畑は自給用に作っているだけで、現金は山で伐った木、クヌギに植菌した椎茸、山で拾う栗を売って、得ていました。遊び場はいつも山。秘密基地をよくつくっていました。椎茸を収穫したり、栗を拾ったり、薪を割ってくべて風呂を沸かしたり、家の仕事と遊びとが渾然一体となった、山の暮らしは楽しかったです。

村に一校しかない中学を卒業する時には「もっと広い世界に出なきゃ」という思いが強く、松山に出ている姉たちを頼って、工業高校の建築科に進学することにしました。景気のいい頃でまわりが「これからは建築だぞ」ってよく言っていたし、自分でも秘密基地ごっこの延長みたいに思えて選んだ建築科でした。

往見さんの事務所は、伊達政宗が建てた国宝大崎八幡宮の参道入り口脇にある。

工業高校ですから、高1から建築の専門学科があります。製図にのめりこみましたね。もっと勉強したくなって、福島にキャンパスのある日本大学建築学科に進みました。全国からいろいろな人が集まっていて、おもしろかったなあ。でも、大学の勉強といっても、最初のうちは「工業高校でやったことばっかり」。手応えがなくて、学部時代はテニスに打ち込んだりしていましたが、学部卒業後、もっと建築を深めたいという想いで、大学院に進みきました。

「建築をやるなら建築から少しそれたことをやるのもいい」と誰かに言われたのが頭に残っていて、院では都市計画を専攻。「自分が育ったような環境でこれからの子供も育って欲しい」という想いもあって、こどもの遊び場のことを研究しました。そして卒業後、仙台で医療福祉関係の設計事務所に就職。建物はコンクリートや鉄骨造が多かったですが、地域性を大事にしてる事務所でした。でも今のような木の仕事じゃないです。木がわずかに見えるのは内装や小屋裏ぐらい。それも、国産材にこだわるわけでもなく、無垢の木よりも合板や集成材が多かったです。自分の興味もデザイン寄りで、新建築とかGAとかかっこいい建築写真がたくさん並んでいる雑誌ばかり読んでいましたね。

そんなぼくが木にめざめたのは、環境問題への関心からです。(今嫁さんになっている)彼女が食べ物のことにこだわっていて、誘われて高木善之さんの地球村の講演会にでかけるようになり、エコロジーにめざめたんです。じゃあ、自分の仕事を通して環境問題と取り組むことはできないだろうか? という意識に自然となってきます。で、ごみにならないような家、エネルギーを無駄にしない家と考えていくと、「やっぱり木だよな」と思い至るわけです。

環境のためにも、
林業で育ててくれた親のためにも。

木の勉強をしていくと、無垢の国産材が使われていないことが問題なんだ、ということを知ります。「そういえば、うちでも『木が売れなくて困る』って言ってたな」と、はじめて家業を自分ごととして意識しましたね。それまでいた事務所の現場では新建材がほとんど。たまに木を使っても、日本の木なんか使っていませんでした。林業で自分を育てあげてくれた親を苦しめる仕事していちゃ、いけないなと思いましたよ。

そんなわけで、同じ設計でも日本の木を使った木の家づくりに携わりたい!と、思い始めたんです。そんな頃、同じ仙台でササキ設計の佐々木文彦さんがやっている「杜の家づくりネットワーク」の勉強会を知り、お手伝いをするようになりました。勤務後や日曜に活動するうちに、どうせなら仕事も佐々木さんの設計事務所に移りたいという気持ちに傾いていきました。木造をやるなら、住宅をやっているところがいいし、建築そのものと杜づくりフォーラムのような市民活動とを両方やれるのも魅力でね。仕事と自分のやりたいことがやっと直結するようになって、気持ちがよかったですね。

その後、ササキ設計の本拠地が仙台から北上に移転するのを機に、幼稚園ではたらいる嫁さんとの結婚を決めていたこともあり、思いきって独立。最初は「ゆくみんぐ」という名前でやっていましたが、一昨年「樹音建築設計室」と改名して、今に至っています。

大工さんの仕事や民家との出会い

木の家づくりに携わるようになり、急に現場の大工さんの仕事が身近になりましたね。「それではおさまりが悪い」なんて、しょっちゅう言われました。「大学で勉強してきたって、木のことは分からないだろう」って、まったくその通りなんです。だから、ひたすら、大工さんとのやりとりの中で覚えていきました。建築の勉強では教わってこなかった、見て、感じて、覚える世界でした。毎日手応えがあって、楽しいです。

文化財の民家の仕事をする機会にも恵まれました。解体調査してみて、民家が構造的にもすぐれている点を実感しました。部分的な強さをとれば、パネルや筋交いに負けるけれど、全体としてもっているしなやかな強さがある。また、木組みならば後から金物が錆びたり、ゆるんだりする不具合も起きず、後からの補修も簡単にできる。解体しても土に還らないゴミになることがないし、長く住めば住むほどに木がしっとりしたいい色になってくる。トータルに見ると、断然すぐれているんです。民家に触れて、自分が求め続けて来た環境問題の答を見つけた想いでした。

そんな民家のよさが、今の住宅に受け継がれていないと実感したのは、三陸の地震後の調査の時でしたね。「古い民家が壊れた」とニュースでは言われたのですが、(木の家ネットの新潟地震調査報告でもありましたが)被害を受けたのは実は「今のやり方で補強された民家」だったんです。よかれと思って今のやり方で後からつけ足したところが腐ったり、補強したところが本体とうまく折り合わなかったりして、やられているんですね。

民家が改良されて今の住宅になったのでない、民家と今の住宅との間にはつながりがなく、途切れている、そこに問題があるんですね。戦後にできた建築基準法がそれまでの民家の論理を無視してつくられたということが大きいんでしょう。そして、つくり手の方でも、「今までのやりかたじゃダメだ。こっちの方がいいんだ」とそれまで伝えられて来た技術を捨ててしまった。その結果、地域地域で大工棟梁たちが工夫してきた民家のつくり方が、すたれてしまった。それじゃあ、あまりにももったいない! 自分は「すぐれた民家をつくったようなやり方で、現代の家づくりをしたい」と思ったわけです。

自分の居場所がない!?

ところが、ここへ来て、はたと疑問がわきました。「昔の家づくりには、設計者っていなかったよな?」って。ぼくら設計士は、「今のつくり方」になってから登場した職種で、実際、大工さんたちの仕事を見ていると、設計者の書く図面なんかなくたって、十分仕事は進んでいるんです。

一時は、設計施工に転向して自分も実際につくる側にまわろうかと考えたこともあります。でも、悩んで自分なりに出した答えというのは「木造での設計者の役割があるはずだから、それを探していこう」ということでした。現場の主導権や技術面は、信頼できる大工さんにとってもらい、お施主さんに対するサービス業、大工さんとお施主さんの間に立つ通訳業をしているうちに、ぼくの居場所も見えてきました。

昔は家といえば木の家しかなかったのが、今だといろいろな選択肢があります。建築基準法や用途地域などの社会的な制約、限られた予算や決められた時間といった経済的な制約などもあります。お施主さんの希望や趣味趣向も多様で、それが大工さんの仕事の進め方とうまく噛み合ないこともあります。そういったさまざまな要素をうまく整理する。あるいは、足りない要素があれば、引き出す。そのことによって全体として、みんなが気持ちよく仕事できるように進める。その調整役に立つのが自分の役割なんだな、と、そう信じて、仕事しています。手応え十分、やりがいありますよ。

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