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大工・池上算規さん(大工 池上):長崎県産材100%の家ができるまで

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大工 大工 池上 /池上算規さん

1965 長崎市に生まれる。 1983 高校卒業後 会社員になる。 1983 退社、日本各地をバイトしながら生活する。 1991 結婚。大工になる。    丹呉さん山口さんに出会い、建前学校に参加。 1998 独立。大工塾参加。長崎小江原の家新築

2006年8月、猛暑の長崎に大工、
池上算規さんを訪ねました。

「長崎市内を走る幹線道路から少し入り「ここからあがっていきます」と言われたのは、大浦天主堂の脇。シュロの木の向こうに、キリシタン禁制が解けた江戸時代の末期、日本人の大工が外国人宣教師の指導で建てたエキゾチックな教会が立つ。秀吉の時代に迫害を受け、磔となった殉教者たちが二十六聖人としてまつられており、250年間にわたって潜伏していた数万人の「隠れキリシタン」が発見されるきっかけともなった、日本のキリスト教史に残る教会だ。ジグザグと急な坂をのぼっていくと、長崎湾を見下ろす小高いところにグラバー邸。その近くに池上さんが借りている駐車場に車を停めた。

池上さんの家までは、ここから車も通らない細い路地をさらにのぼる。夜の長崎の海。造船所、船、道を行き交う明かり。無数の建物が、細長い、せまい土地を高い密度でうずめている。その向こうは、黒々とした、山の稜線だ。60年前、この長崎に原爆を投下し、一面を焼け野原にした飛行機からもこの風景が見えていたのだろうか・・。びっしりと並ぶ家のひとつひとつにあかりの灯った、美しい夜景が広がる。山の上にある小学校に下から通う子たちのためのエレベーターまで見えた。徒歩でしかたどりつけない、猫がのんびり散歩している一角に、池上さんが子どもだった頃から住んでいた家があった。

どんなにおもしろくても、 人を殺す道具をつくる仕事はやっぱりできない・・

「父親も大工です。建て売りの家を手間受けでつくる、普通の大工でした。僕自身は若い頃は両親への反発が強くてね。大工にだけはなるまい、と思っていましたよ。で、学校を終えると長崎を飛び出して、まずは会社員になりました。

横浜にあるF1のクルマの部品とかつくる最先端のベンチャー企業でね。技術的なトライアルがものすごくあって、おもしろかったですよ。最初やりがいがあってがんばってたけど、そこでは、兵器工場に納品するものも作っていたんです。原爆でめちゃくちゃになった長崎出身の自分が、なんてもの作ってるんだ・・ある日そのこと気づいて愕然としてしまって、その会社、やめちゃったんです。いやなことはできないな、って。

といって、長崎に帰る気にもなれなくて、アルバイトしながら旅してました。北海道で漁師やったり、茨城で百姓したり・・結構つらいこともたくさんあったけれど、かみさんと知り合って、子どもができてね。これは定職について働かなきゃ、ということで、大工でもやるか、と。多少はやったことがありますからね。

身体をこわさない、
ゴミにならない家づくりがしたい。

で、横浜で大工見習いを始めました。木の仕事、と思って始めたんだけれど、現実には木の防腐剤、薬剤、新建材、粉塵、シロアリ駆除・・いろいろな薬害で身体がぼろぼろになりました。平気な人もいますけど、そういうものばっかり使ってる現場にいる大工は、顔色が悪いこと、多いですよ。自分の身体がむしばまれていくのを、実感しました。

建てる家も大壁で木材を覆う仕事ばっかりで、せっかく手をかけてつくってきた木の部分がどんどん覆われて行くことに、さみしさを感じていました。解体の仕事で、産業廃棄物処理場に行くこともありました。家だったものの残骸が棄てられるところも見ました。土に還らない膨大なゴミをただ埋めるだけ、という現場を見て、こんなんでいいのかなあ、って、思いましたよ。

住む人は大きなお金をかけて、期待してつくる家が薬漬け、そしてしまいにはゴミになる・・その事実に身体だけでなく、心もボロボロになっていたところに、たまたま自然食通信という雑誌に設計士の丹呉明恭さんと群馬の大工、山口修嗣さんの記事が出てたのを見たんです。無垢の木をあらわしにした木組みの家、自然素材だけでつくる家、というその記事を見て「あ、自分の求めていたのは、これだ!」と直感しました。勉強させてもらわなきゃ、という一心で、丹呉さんに手紙を出しました。返事が来ました。「ぜひ、来てください」って。

で、工務店が休みの時には、丹呉さんの縁で出会った、無垢の木の家づくりをしている大工たちの現場をめぐる日々がはじまりました。大工塾も始まって、大工同士で集まって木の家づくりの勉強をしたり、構造実験をしたり。ものすごく刺激を受けました。産直の秋田杉の材を都市での木の家づくりに使うモクネットの加藤長光さんとも知り会いました。もう、眉間に皺作って仕事したくない。自分がしたかったのは、こういう仕事なんだ、と心から思いましたよ。

大工塾で伝統構法に出会う。”

で、とうとう勤めていた工務店を辞めちゃいました。今にして思えば、分かってもらえなくてもいいから、社長にはほんとのこと言って、説得してみる努力をした上で、やめたかったですね。ただただ反発して逃げ出すんでなくてね。いい社長だったんですよ、前に建てた家に住んでる年寄りに話に行ってあげたり、面倒見がよくてね。さんざん世話になったのに、後足で砂をかけるようにしてやめてきてしまったことは、後悔しています。

初雁木材 林場(建設途中の写真)

横浜を引き払って長崎に戻って少し経って、大工塾で知り合った名古屋の中村武司さんと、大工塾の会場にもなっていた埼玉の初雁木材さんの下小屋をつくる仕事をまかされました。もっときちんとした木の家づくりの仕事を深めたい、という思いで、その仕事がひと通り終わったら、群馬の山口さんに弟子入りしようときめてたんです。ところが、母親が倒れてしまって・・結局また長崎に戻ることを選びました。で、めぐりめぐって、親父といっしょに大工をすることなるんですね。

長崎から建前学校にも行ったし、大工塾にも定期的に通いました。飛行機代はかなりかさみましたけど、木の家の仕事がしたい、という思いはますます強くなる一方。で、最初に自分がしたい仕事を形にしたのがうちの2階。父が買った、昭和30年代に建ったふつうの在来工法の平屋の家に、今では4人に増えましたが、その頃3人だった子どもたちのために、伝統構法で2階を増築しました。木は大工塾でもお世話になり、私に木のことをたくさん教えてくださった徳島の和田善行さんの杉を使い、建前学校や大工塾で「これだ!」と思った方法で、思いっきりやりました。

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