「伝統を守りたいとか自然にやさしくとか色々ありますが、結局建築が大好きなんです。それが最大の糧でこの仕事に取り組んでいます。仕事というよりライフワークといった方がしっくりくるかもしれません」
そう話すのは、神奈川県鎌倉市北鎌倉に設計事務所を構える日影良孝さん。「家を住み継ぐ」「住み継げる家をつくる」というテーマを胸に今日も手描きで図面に向かっている。
日影良孝(ひかげよしたか・59歳)さん プロフィール
昭和37年(1962年)岩手県九戸郡軽米町生まれ。日影良孝建築アトリエ 一級建築士事務所 代表。高校卒業後、東京で建築の専門学校に入学。24歳まで設計事務所に勤務。25歳で友人3人と設計事務所を設立。いきなり民家の移築再生をすることになり、現在の仕事の礎となる。以後、木造住宅の新築・古民家の移築・再生や、公共施設など多岐にわたる作品を32年間で100棟以上手掛けている。
⎯⎯⎯ 生い立ちと建築の道に進んだ経緯を聞かせてください
「生まれ育った岩手県の軽米町という町は、県内最北端で青森との県境にあります。本当に何もないところで、茅葺き屋根に囲炉裏がある家と、自然豊かな山々が原風景として心の中に残っています」
「建築を志したきっかけは父が宮大工だったからです。小学生の頃から大工か設計士かの2つの道しか考えていませんでした」
「何もない茅葺屋根が点在する田舎から、いきなり東京に来たので、まず東京という街自体がショッキングでした。そして自分自身にも予備知識も何もない、空っぽな状態で専門学校で学び始めたので、まっさらなスポンジのようにとにかく吸収できたのが良かったのだと思っています」
⎯⎯⎯ 設計か大工かで設計を選ばれた理由は?
「父の影響です。小さい頃から絵を描くのが好きでしたし、若い頃は父の仕事に興味がありませんでした。なので設計を選んだのですが、専門学校を卒業して設計事務所に入り、大工職人の仕事に触れると徐々に父の仕事の凄さに気づき始め、尊敬するようになりました」
「宮大工に限った話ではありませんが、巨大な木に墨付けして刻んでいく《木に負けない力》を持った大工という仕事は本当にすごいなと思います。もっと若い時に父の仕事を理解していたら、大工の道に進んでいたかも知れません」
⎯⎯⎯ ターニングポイントや思い出に残っている仕事について聞かせてください
「ターニングポイントと言える仕事は2つあります。1つ目は独立して最初の仕事《鎌倉の大屋根》です。2つ目は東日本大震災の直後に宮城県での仕事《手のひらに太陽の家》です」
⎯⎯⎯ まずは鎌倉の大屋根について教えてください
「独立後すぐの1989年。石川県加賀市から鎌倉へ民家を移築して再生する仕事をすることになりました。幼い頃の原風景・当たり前の景色が活かされることになり、建築で学んできたことと、自分の生い立ちとが繋がった瞬間でした。木造の民家も、移築という仕事も、素人みたいなものだったので、自分なりに勉強し父親にも相談を仰ぎ完成に漕ぎ着けました。それが処女作《鎌倉の大屋根》です」
「日本の民家は地域によってつくりが違うのが特徴で、それぞれの気候や風土によってその土地土地で育まれてきた住まいの知恵の集大成ですよね。その違いが顕著に表れているのが屋根だと思います。屋根と周囲の環境が調和して作り上げられる風景こそが、日本の風土の素晴らしさだと考えています」
「ですので、加賀にあった茅葺農家を風土の違う鎌倉にそのまま持って来ることは、自分にとってあり得ないことだったんです。鎌倉の風土に似合う屋根の形とはどういうものか、ものすごく考えて出した答えが、移築した部分と新築の部分を一枚の大屋根で包むというものでした。ここが僕の設計人生の出発点です」
翌1990年、有志で《住み継ぎネットワーク》を発足。今では当たり前に使われている“住み継ぐ”という言葉を産み出したという
「高度経済成長期からバブル期にかけて、日本の民家はどんどん壊されていきました。その一方で『住みたい』という人も居ました。その想いを持った人と民家とを繋げる仕組みがなかったので《住み継ぎネットワーク》をつくったんです。結局、思い描いた形の活動は実現しなかったんですが、“住み継ぐ”という概念ができました。僕は建築ですが、家だけに限らず衣食住に関わるそれぞれの立場の人が、この概念を胸にそれぞれ活動していくことになりました」
⎯⎯⎯ 2つめのターニングポイント《手のひらに太陽の家》について教えてください
「2011年3月11日。東北の出身なので、あの日TVで見た光景はとてつもなくショックでした。すぐに宮城県の林業家である大場隆博さんから電話があり、木造の仮設住宅を造りたいという相談がありました。公共の仮設住宅では、どうしてもプレハブばかりになってしまいます。仮設とは言え、木造の方が快適ですよね。そこでNPO法人《日本の森バイオマスネットワーク》の一員として、木造の仮設住宅をつくるための活動を始めました」
「バイオマスネットワークの人たちと、様々な方面に働きかけたのですがなかなか実現しませんでした。でも何とか力になれることをしなくてはと思い、被災した子どもたちが住まう恒久的に残る大きな家を造る提案に切り替えました。幸い、アウトドア総合メーカーのモンベルさんをはじめ、様々な方からご支援をいただき、みんなで力をあわせ2011年末に着工、2012年7月末に完成することができました。それが大きな転機となった《手のひらに太陽の家》です」
「福島からやって来た子どもたちが、初めて訪れるこの施設で、しばらく住まうことになります。取ってつけたような安っぽい家ではなく、ちゃんとした木の家に住んでもらうことで、子どもたちに自信を持ってもらいたかったんです。ここで暮らした数ヶ月の記憶を、より良い思い出として心に残してもらいたいという想いを込めて設計しました」
「本当に人生が変わる出来事でした。人の価値観って、何を見ても誰と出会っても、無闇やたらに変わるものではありませんよね。でも建物が紙切れのように流されて、何もなくなってしまった被災地に立った時、建築ってこんなにもか弱いものなのかと、突き落とされたような思いでした。建築をやめようとも考えましたが、歯を食いしばって《手のひらに太陽の家》をみんなで完成させました。子どもたちが楽しんで住んでもらえているのを見ると『やってよかったな』とこっちが報われたような気がします」
施工は木の家ネット会員 大場 江美さん(サスティナライフ)が担当している。また、手のひらに太陽の家の詳細は過去のインタビュー記事がありますので、あわせてご覧ください。
日影さんの手にかかった住宅の移築では、家族の思い出が詰まった部屋や建具を中心に、新しい部分を配していく。以前からそこにあり、昔から住んでいたかのように、あくまで自然に何事もなかったかのようにつくり上げられていくのが特徴。
事務所近くの《北鎌倉の家》を案内していただいた。木の家ネット会員の田中龍一さん(大工)・江原久紀さん(左官)・新井正さん(建具)との協働でつくり上げた家だ。
「八王子にあったお施主さん(以後Kさん)の家を北鎌倉に移築しました。原型復元された2つの座敷を核として今までの時間の記憶を住み継いぐ家になっています。新しい部分はこの座敷を中心として、大人しく静かで心地よい空間づくりを目指しました。外観はできるだけ町並みに対して小さく見せたかったので手前を平屋にしています。また、以前の家の建具や、Kさんが作られた建具や家具を積極的に利用しています」
取材に際して、これまでのご自身の活動を振り返る年表と資料を用意していただいた。年代を追って、過去の仕事とフィロソフィーをご紹介。
萩の家と島の家 | 1993年 | 新潟県高柳町荻ノ島集落
現代では貴重な茅葺きの民家の環状集落の中に、新築2棟の茅葺きの民家を設計した。昔からそこに建っていたかのように、いかに風景に調和させるか、風景に埋没させるかが大きなテーマだった。それから30年近くが経過した現在では、この時、新築でつくった2棟を中心として町並みが残っており、まるで江戸時代からずっとあったかのような、地域の象徴的な集落となっている。萩の家と島の家はそれぞれ貸別荘として利用可能だ。
昭和の洋館 | 1995年 | 埼玉県与野市
マンション建築のために取り壊しが決まっていた昭和6年建築の和洋折衷の住宅。「ドア一枚でも残せたら」との要望から発展し移築再生の設計を手がけた。移築先が狭いため、そのままの移築はできない。造作や建具などの古い部材にあわせて新たな間取りを考え、新しい空間に調和するように古い部材を散りばめていった。この手法を“空間的復元”と名づけた。
「家に持っている思い出って人それぞれで、窓であったり床であったり色々ありますが、その思い出を自分なりに読み取って、家の中にある“空間の粒子”をアレンジして組み直すことで、古い意匠と新しい意匠を自然に調和させました」
「つくり手・表現者としての意図や作為をいかに消し去ることができるかが、僕の建築全体を通してのテーマです」
「以前の建主に『前の家と全然変わってないね』と言われて『やった!』と心のなかでガッツポーズをとりました」
上大崎の家(Ⅱ期工事)| 2003年 | 東京都品川区
大正13年建築の岡田信一郎設計の洋館を住み継ぐ。新築の鉄筋コンクリートの中に洋館の造作をそっくりそのまま入れ込んだ。鉄筋に木摺りを貼りその上に土壁を塗っているので、鉄筋コンクリートとは思えない快適性を備えている。既存の木造を細かく実測し、それにあわせて鉄筋コンクリートの躯体をミリ単位で決めるという気の遠くなる作業をやり遂げた。
◎施工: 風基建設(渡邊 隆さん)
宋春庵 | 2002年 | 神奈川県鎌倉市
片瀬江ノ島に残っていた島津藩ゆかりの90坪の書院造りの家を、転居先の小さな庭先に4坪の茶室として移築。これが日影さんの得意とする《空間の圧縮》だ。
「何事もなかったかのように再編・再構築することをいつも考えています」
◎左官: 江原久紀さん(江原官塑) ◎建具: 新井正さん(杢正)
板倉の家 | 1998年 | 東京都
「金物を一切使わず、全てを木だけで伝統構法で建てて欲しい」との要望を受け、板倉と貫を併用した構造で設計した。法隆寺 網封蔵(こうふうぞう)のつくりに着想を得て、左右対称とした。
「要望には応えられたんですが、完成して反省している部分があります。中に入った時に木の洞窟の中にいるような気がしたんです。すごく閉鎖的で木の力が充満しすぎていて疲れを感じ、これは自分の目指す家じゃないなと思いました。つくり手側の伝統や木に対する思い入れが滲み出すぎたことが原因で、木を沢山使いながらも、いかにその存在感を消していくかが、この時からのテーマになりました」
ひののあん | 1998年 | 東京都
板倉の家と同じ年、板倉の家での経験を踏まえ、木をふんだんに使いながらも軽やかに仕上がった。縁側の天井から流れる深い庇が気持ちいい。
「木と漆喰と紙だけでできたような何気ない家にしたかった」
中佐久間の家 | 2003年 | 千葉県
房総の海を遠くに望む山の上に佇むこの家は、かつて棚田だった地形の特徴を活かし、一階には作業場と小さな和室、二階には風景を一望できる大広間・寝室・水廻りを配した。抑制された規則正しい架構の連続が木の表情を和らげ、視線を風景へと向かわせる。伸びやかで清らかな空間を目指した。
◎施工: 村上幸成さん(村上建築工房)
チャイハウス | 2001年 | 東京都
親しい友人から「可愛くて気持ちいい、愛犬チャイのような家にして欲しい」と依頼を受け、初めてモダンで白い家を設計した。可愛らしさと日本の伝統的なものを同居できないかと考え、大壁に覆われ木組みが見えない住宅であっても、きっちりとスケルトン自体を美しく設計している。
「骨格が美しければ、壁に包まれたとしても、美しいプロポーションになるんですよね。構造は隠しても美しく、見せても美しくあるべきだと思っています」
細山町の家 | 2008年 | 神奈川県
チャイハウスの考え継続した住宅で、日影さん一番のお気に入り。
山泰荘 | 2016年| 神奈川県
外壁は下半分が杉板張り。上半分は相模湾からの風雨から家を守るため、土佐漆喰の鎧仕上げとした。自然素材と職人の手仕事があってこそ生まれた力強い家だ。
◎施工: 直井徹男さん(エコロジーライフ花 直井建築工房) ◎左官: 江原久紀さん(江原官塑) ◎建具: 新井正さん(杢正)
日影さんが参加する一般社団法人 木和堂 の主催で、2020年からスタートした子どもたちに身体で建築を学んでもらう取り組みだ。鎌倉ならではの自然・歴史・文化に触れ、それを支えるプロの仕事を知り、最後には《小さな木のおうち》を実際に建てるというもの。小学生から高校生までたくさんの子どもたちが参加している。建具づくりでは木の家ネット会員の新井正さんが携わっている。
北鎌倉にある「宝庵」の茶室「夢窓庵」を訪れ、子どもたちが実測。1/50の模型作りを経て、本当に茶室をつくっていっています。詳しくは日影さんのブログをご覧ください。
「人に教えるということは自分の学びにもなるし、やっててとても楽しいですね」
⎯⎯⎯ 様々な事例を見せていただきありがとうございます。日影さんにとって理想の家とはどんな家ですか?
「木の家を一言で言っても、若い夫婦の住まう木の家と、僕ぐらいの年代が住まう木の家は違いますし、若くてやんちゃな家族もいれば、若くてもひっそりと暮らしたい家族もいます。また穏やかに暮らしたい家族もいれば、活発に畑仕事をしている家族もいます。設計者はそれぞれの家族を見つめて、木を選ぶだけでなく、その組み方や見せ方も決める必要があります。完成して訪ねた時に、向かい入れてくれた家族の佇まいと、家自体の佇まいがシンクロしているのが、理想の家の条件のように思います」
「そんな時に頼りになるのが、信頼の置ける職人さん達です。惚れ込んだ職人さんには何度もお願いしているので細かなニュアンスまで伝わるようになります。木の家ネットにはそんな仲間が沢山いて、あらためて整理すると僕の仕事の3割くらいは会員の方が関係してくれています」
⎯⎯⎯ 最後に、これからどんな仕事をしていきたいかお聞かせください。
「時間に耐えられる建築をつくっていきたいと思っています。伝統建築を頑張っている人には怒られるかもしれませんが、いくら伝統建築でつくっても残らないものは残らないし、残るものは残るんですよね。その違いは《その家の愛され方》にあると思っています。深く愛されていないと残るものも残りません。法隆寺がおよそ1300年残っているのは、材木や構法がしっかりしているのはもちろんですが、みんなが大事に想い愛しているからだと思うんですよね。そういう建築には、美しさ・気持ち良さ・風景との調和など、いろんな要素が合わさっているんだと考えています。僕もそういう存在になれる建築ができたらいいなと思っています」
「人々に愛され残ってきた、過去の建築のカタチから多くを学び、現代の環境や生活スタイルなどから導き出される、今必要とされるカタチと一緒に“和える”ことで、これからの時代にも人々から愛され“住み継がれる”建築をつくっていきたいです」
日影良孝建築アトリエ 日影良孝(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
※北鎌倉の家以外の事例写真は日影さんよりお借りしました。
職人が受けて、職人が完成させる。それもいち職人でなく、会社として。工務店とも設計事務所とも違う独自のスタイルで木の家づくりをしている鯰組(なまずぐみ)は、代表で大工の岸本耕さんが立ち上げて12年になる。設計から施工までトータルで請け負える強みは、さまざまな職業が生まれては消える東京で、唯一無二の光を放っている。プロフェッショナル集団を率いる岸本さんは、ひとりひとりの職人に「それぞれのよさを生かしてほしい」とあたたかいまなざしを向ける。その姿勢は建物や材料にも向けられ、居心地のいい空間を生み出し続けている。
「鯰組」のウェブページ。かわいらしい黒い鯰のイラストが泳ぐページの右上に、「大工とは?」という問いがある。
クリックすると出てきた答え。
・大工とは、目利きの職人。
・大工とは、考える職人。
・大工とは、描く職人。
・大工とは、組む職人。
・大工とは、仕上げる職人。
・大工とは、設計士、庭師、職人をまとめる棟梁です。
そして、「私たちは、日本の大工です。」と締めくくる。
岸本さんは、自身の肩書を「大工または棟梁」とこだわり、「建築家」とは言わない。「鯰組」も6人が所属する会社組織だが、社員とは呼ばず「職人」「大工」にこだわる。「大工は、設計から工程管理、材料など家づくりのすべてがわかっていて、施主さんとコミュニケーションを深めながら決めていく存在」という、昔から続く感覚を大切にし、誇りを持っているからだ。
そして、その職人が個人でなく、集団として働くことで「施主さんの期待以上の仕事、職人もやりがいのある仕事ができる」と考えている。
職人集団「鯰組」はどんな体制なのか。現在の社員は6人で、ほとんどが20~30代で、1人たたき上げの60代の大工職人がいる。
社員は2人ずつ①設計兼、現場監督②大工兼、現場監督③大工と大工、の組み合わせで3チームに分かれ、チームごとにプロジェクトを進めていく。物件によって期間や難易度がさまざまなので、1件をじっくり進める時もあれば、何件か同時進行することもあるというという。それぞれの業務に集中できるよう、施主さんとの打ち合わせをはじめこまごましたことは岸本さんが一手に担う、という役割分担だ。
各チームは先輩と若手という組み合わせで、若手は先輩から仕事の進め方を習う。「若手は、まずはひとつのやり方をきちっと身に着けることが大事。いろいろ手を出したり、他のやり方を見ると時間ばかりかかってしまうのでやらせない」というのが、鯰組流のスタイルだ。ひとつのやり方が身につくと、その応用で別の仕事もこなせるし、つまづいた時の解決方法も見つけやすいのだという。そのやり方については、鯰組として確立したものがあるわけでなく、それぞれの先輩に任せている。
このような体制になったのは5、6年前のこと。
鯰組の設立時は岸本さんひとりで、プロジェクㇳの数が増えたり規模が大きくなるごとに、少しずつ仲間を増やしていった。
会社設立前の岸本さんは、千葉の工務店「眞木工作所」で修行した。そこの棟梁・田中文男さんに師事したいという思いで門をたたいたのだった。
岸本さんは「建築を勉強したい」と大学の建築学部に入学したものの、設計だけを学ぶことに物足りなさを感じていた。そんな時、偶然知ったフランスの建築家ジャン・プルーヴェに魅了された。鉄工所育ちの職人で、金属でなんでも作ってしまうアイデアとバイタリティ。「建築家のオフィスの所在地が部材製造工場以外の場所にあることは考えられない」という哲学。この出会いが、岸本さんを「設計だけでなく実際にものを作り出す施工までやりたい、大工になりたい」と突き動かした。
雑誌『住宅建築』で「民家型工法」を紹介していた田中文男棟梁を「日本のジャン・プルーヴェだ」とほれ込み、眞木工作所でアルバイトを始めた。卒業後に弟子入りし、10人ほどの職人にもまれながらの日々。
「最初は何もできず怒られてばかりで、同じような若い職人同士で酒飲むのが心の支えだった。経験積んでできるようになると、少しずつ怒られる回数が減っていった」と振り返る。同時に、木造建築にどっぷりと触れ、その力強さや、シンプルで合理的なつくりなどの魅力を存分に味わった。
3年経った頃、大学時代の友人が古民家の改修・移築を依頼してきた。当時築80年の古民家で、ケヤキ材が多く使われていた。「この仕事、自分がやりたい」と強く惹かれ、独立へとつながった。
とはいえ工場もなしに独立した岸本さんは、移築先の現場に仮設テントを張って作業するという綱渡りのような工期を過ごした。設計から工事、施工監理まで幅広い業務を一人でこなしたが、慣れない作業もあり時間もかかった。工事中は無我夢中で、愛着と達成感はひとしお。けれど、終わってみたら次の仕事の段取りは全くできていない、という恐ろしい状態だった。「結局、眞木工作所に出戻りし、5年程お世話になりました」と振り返る。
「設計から施工までやりたい」と大工の道に進み、独立して走り続けてきた岸本さん。仕事の進め方を模索する中で、ひとりでは1、2年かかってしまう仕事も、チームなら半年で終わらせられることや、得意分野を得意な職人に任せることで効率よく仕事を勧められることがわかってきた。
また、細かい造作が得意な職人もいれば、おおらかな屋根をつくれる職人もいる。「こういう職人がいい、という理想に自分を近づけるのではなく、自分なりの職人になればいい」と考えるようになり、若手にもそれを望んでいる。
「僕は、若手の得意分野を伸ばせるような仕事を取ってこようって本気で思ってますよ」と笑う。
自身の性格についても「手を動かしてものをつくるのは大好きなんだけど、集中しすぎて他に手が回らなくなる」と冷静に分析。現場作業の第一線からは退いている。ただ、昔から好きだというスケッチは、施主さんの要望を表現したり、細かいおさまりを説明する時に描いている。
岸本さんは、いち職人として設計から施工までできなくとも、「鯰組」として請け負えればいい仕事はできる、と思えるようになった。
いい仕事とは、施主さんが思い描いた以上の空間をつくること、そして、職人もやりがいを得られること。
職人集団だからと言って職人のひとりよがりにはならず、施主さんの喜びを意識すること。そこには、建物の完成度だけでなく、工期や予算、打ち合わせから工事中の職人の態度も関わってくる。加えて、ただ施主さんの希望通りのものをつくるだけではなく、使う材料の個性を活かしたり、古い建具を再利用したりといったアイデアも不可欠だという。
職人のやりがいには「ほかの人にはできない」という満足感が必要だという。精巧な細工、美しいおさまり・・・これらの技術を高めていくのは一朝一夕では難しい。鯰組はプレカットなど現代の技術をうまく取り入れることも必要だと考えている。その分の時間を手仕事にあてることは、技術の継承にもつながっている。
いずれの場合も重要なのは、施主さん、材料や物件、そして職人をよく見て、よさを見出し、引き出す姿勢だ。現場の数や種類が多いほうがよく、集団であることで多数の仕事を受けられる今の体制が生きてくる。
そもそも、木造建築は「昔は一般的だったかもしれないが、今の東京ではマニアックになりつつある分野」と岸本さん。「できあがっているものを組み立てる工業製品と違って、木で形を削り出す自由度はすごい。どんな空間にもなじむし、温かみがあるのもいい」と魅力を語る。
今までは東京と言う場所柄か、数寄屋建築や茶室や料亭などの仕事が多かったという。
鯰組には職人ではないが広報担当の社員がいた時期もあり、イベント企画やカフェ運営(現在は閉店)もしていた。雑誌などにも取り上げられると問い合わせは増えるが、実際に契約まで至るのは大半が施主さんによる紹介という状況だ。
最近は古民家にも縁ができ、勉強を始めたところだという。「まずは健全な状態に戻すこと。それから、せっかく残すならよさを生かさないと意味ない」と、丁寧に見やる姿勢をさらに正す。
思い起こせば、独立のきっかけも古民家の改修だった。その時に打ち合わせを重ねた場所・埼玉県吉川市の特産が鯰だったことから、社名に鯰を取り入れたという。ちなみに、独立時の会社名は「吉川の鯰」とストレートだ。
「初心を忘れるべからず」を胸に刻みながらも、時代に合わせて、会社の体制に合わせてしなやかに変化してきた岸本さん。会社をつくるのは職人。職人の経験や技術・アイデアを信じ、職人を真ん中にした家づくりをしていきたいと前を見据える。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真提供:鯰組
ひとつ、質問を投げかけるたびに「こういう場合もあるし、こういう視点もある」と複数の答えをくださるのが印象的だった岸本さん。常日頃から、いろいろな角度からものごとをとらえていることが伝わってきた。「わかってくれる」あるいは「わかろうとしてくれる」という安心感は、施主さんや職人への信頼につながっていることが伺える。
コンクリートジャングル・東京で、鯰組の手がけた木のぬくもりはきっと美しく映えている。今回はオンライン取材で実際に見ることが叶わず悔しいが、岸本さんのように別の角度から「次回訪れるまで楽しみをとっておこう」と考えることにしよう。
愛媛県今治市、森と川の恵みに囲まれた玉川町で自然と共に暮らし、ゆっくりと年月をかけながら建て主さんと歩み、「暮らしを大切にした本物の家」をつくっている建築家がいる。今回ご紹介する橋詰飛香(はしづめ あすか)さんがその人だ。
橋詰 飛香(はしづめあすか)さん プロフィール
1971年高知県生まれ。短期大学を卒業後、松山市内の設計事務所で8年間勤務。2000年に独立し同市内でAA STUDIOという屋号で活動された後、2013年に今治市玉川町に自宅兼事務所を構え「野の草設計室」と屋号を改める。元々同僚であった徳永 英治(とくながえいじ)さんとご夫婦で、施主・設計者・職人が三位一体になって家づくりに取り組んでいる。
⎯⎯⎯⎯「野の草設計室」に事務所の名前を変えられたのはどうしてですか?
橋詰さん(以下 橋詰) 若い頃は、お洒落でカッコ良くてシャキシャキしたデザインの高いものに憧れていたので、名前も横文字で「AA STUDIO」としていました。それが13年前くらいから徐々に伝統構法の家づくりをするようになってきて、土とか木とか草とかを使って家を建てているし、私たち自身も田舎に住み始めたということもあって、自然の草のように華美でもなく、その土地の気候風土の中にそっとあるようなものづくりをしたいなと思って「野の草設計室」という名前にしました。
⎯⎯⎯⎯AA STUDIO時代は今のように木の家を建てられていたわけではないということですか?
橋詰 最初の何年かは違っていましたね。普通に建材を使ったりしていました。木の梁をあらわしにしたり、無垢のフローリングを使ったりして、自然素材を使った家づくりをしているつもりだったんですが、やればやるほど建材を使った現代の家づくりの抱える問題点が見えてきました。シックハウス症候群の問題だったり、シロアリが湧きやすかったり、エアコンに頼らないと暮らせなかったり、産廃の問題だったり…
徳永さん(以下 徳永) そういった問題を解決して建て主さんに良い住まいを提供するにはどうしたらいいか悩んでいた時期があるんですが、ある時ふと古い家を見たときに「あっ、すでに解決してるじゃないか。問題そのものが起こらないじゃないか。昔の人はすごく考えて家づくりをしていたんだな」と感銘を受けました。それまではデザイン派のおしゃれなものに憧れがあり、古い物は過ぎ去った過去の遺物として興味を抱けなかったんですが、その時を境に私たちの家づくりは決定的に変わりましたね。
橋詰 私は使い捨て世代なので、ものを大事に使うことや、直して使うこと、直し易いように作ることを当たり前にやっていた昔の人たちの暮らし方や生き方にカルチャーショックを受けました。
今思うと若い頃に憧れたり設計していたような家は、デザイン性が高くて完成されていても、できた時が一番きれいなんです。でも、そこには生活がないんですよね。住み始めると生活の道具や生活感が出てきて途端に美しくなくなる。今はそれを包容できる住まいとしての懐の深さや経年変化を味わいにできる家の方がしっくりきます。
徳永 当時、自分が設計した家に「暮らしてみたいか」「落ち着くのか」と考えた時に全然イメージできなかったんです。
⎯⎯⎯⎯この瞬間から意識が変わったというエピソードはありますか?
橋詰 はい。衝撃的な気づきがあった一件があります。蔵を解体しないといけない機会があったのですが、その蔵の鏝絵(こてえ:蔵の妻側の母屋鼻や壁面などに漆喰を用いて作られたレリーフのこと。左官職人がコテで仕上げることからその名がついた。)がとても立派なものだったので「こんな素晴らしい鏝絵は残しておかないといけない。救出しよう。」という話になり、鏝絵を外す作業に携わりました。
徳永 左官さんがお施主さんに対して、気持ちいい仕事をさせてくれたお礼として鏝絵を描いたのが謂れとされています。昔はお施主さんから職人さんに「ご飯食べていって」「お風呂入っていって」と、気持ちよく仕事をしてもらうための心遣いがされていました。現代と違ってお金じゃないところでのお付き合いがたくさんあったんですよね。そういうのがいいなぁと思い、自分たちが目指したいところになりました。
橋詰 そして蔵を間近で見てみると、庇が金物にかかっているだけで外せるようになっていました。私が当時やっていた建築では庇というのは当然固定させておくものだと思っていましたから、なんでこんな風になっているんだろうととても不思議に思いました。実はそれは、構造材と庇との縁が切られていることで、火事の時に火が廻っていかないように、また簡単に修理できるように、昔の人が何代にも渡っていろんなことを考えて家づくりをしていたんだなと学びました。
それまで自分が建てていた家は到底そんなことまで考えられてはいなかったので、ある意味使い捨てだったんですよね。自分の浅はかさを思い知らされる出来事でした。
⎯⎯⎯⎯お二人でどういう仕事の役割をされているのですか?
橋詰 いつも喧嘩しながらやっています(笑)。具体的な設計やプランニングは私がするのですが、考え方やつくり方などを一緒に相談しながら進めています。結局、伝統構法なんて学校では一切学んできていないので、古いものを見て歩いて二人で紐解いて来たという感じです。
徳永 昔の建物が全て正解ではないので、その中からいい技術や手法、知恵や素材などを拾い出す作業をずっとやりながら、自分たちの家づくりに活かしてきたという感じです。
橋詰 その拾い出す作業の時も、一人だと考え方が偏ってしまいがちですが、夫婦で二人いれば「ああじゃない」「こうじゃない」と議論しながら答えを導きだせますよね。
徳永 一人の所長だったら違う方向に行っても社員が口出しできなかったりすると思うんですよね。けど僕らは夫婦なので、おかしいと思ったらお互いにぶつかって議論するので、そこがいいところかなと思います。それから、建主さんはご夫婦で相談に来られる事が多いので、その時に男性の視点と女性の視点で意見を出し合えることで、話し合いが活発になるので、とても建設的な場になります。
橋詰 私たちが言い合いを始めると、それを皮切りに建主さん側も会話が弾んできて意見が出やすくなっている気がしますね。
⎯⎯⎯⎯仕事とプライベートの境目はあるんでしょうか?
橋詰 あんまり仕事とか家庭とかという意識がなくて、この仕事は私たちのライフワークだと思っています。お施主さんにも、ここでの暮らし自体を味わって帰ってもらっています。単に家を建てるということではなくてライフワークにみんなで関わってもらって一緒に暮らしをつくり上げていくようなイメージですね。お施主さんには、お米作りや味噌作りに参加してもらったり、夜中にひじきを一緒に取りに行ったり、自然と関わってそこにある恵みを感じてもらうようにしています。「暮らしがあってこその家」なので、体験の中で暮らすことをしっかりと考えてもらいたいですね。
徳永 体験の中で共感してもらえる部分があれば、目指す家のつくりも変わってきます。どんな暮らしに喜びを感じるのかを見極めてもらいたいんです。
⎯⎯⎯⎯なるほど。それでHPに「野の草と意気投合しそうな建て主さん像」というのが書かれているんですね。
橋詰 そうです。建てた家だけを見て相談に来られても、本質的な暮らしの部分が共有できていないと話が進まないですし、お互いが不幸になってしまいます。もちろん最初から意気投合できるような人の方がお互い楽ですが、逆に違う価値観だった人が、いろんな体験を通して私たちのような暮らし方を好きになってもらうのも嬉しいですね。
橋詰 他にも、竹小舞を編んだり土壁をつくる体験などを通して、家のつくりや昔の人の知恵などを感じてもらっています。
徳永 体験の中で建て主さんの想いがどんどん入っていくので「買ったもの」ではなくて「自分がつくったもの」として家を大切に想ってくれるようになります。
橋詰 今の時代、家を建てるとなると、職人さんと建主さんとの距離があまりにも遠いので、職人さんの生の声や知っていることを聞いてほしいというのが一番。その機会を作るのが私たちの役目だと思っています。
橋詰 みんなで関わりながら家づくりをしていきたいので、建て主さんともよくご飯を一緒に食べます。やっぱり同じ釜の飯をつつけばつつくほど関係が深くなっていけますよね。設計士と建主と言うよりはもう友達とか親戚というくらいの何でも言いやすい関係を築くようにしています。職人さんとも同じです。職人さんにも建て主さんの喜んでいる顔を見てもらいたいし、声だって聞いてもらいたい。そういうきっかけをいっぱいつくりたいです。
徳永 職人さんが積み上げてきたことを建て主さんが理解してくれたら、家づくりだけではなく暮らしの中で何を選択するべきかということを意識できるようになってきます。その選択の積み重ねで未来をより良い方向に舵を切ることができるようになってくるんじゃないですかね。
橋詰 だから設計期間もいきなり設計に取り組むんじゃなくて、話し合ったり、ものを知ってもらう期間を長めに取っています。間取りがどうこうではなく、木のことだったり、どういうものを目指したいかということだったり、判断基準をしっかり持ってもらうため、価値観を確立してもらうために、まずは建て主さん自身の引き出しを増やすというステップを大切にしています。
最初は「あれがしたい。これがしたい。」と夢を膨らませて来られる方が多いですが、じっくり話をしてクールダウンしていくと「僕はこれだけは実現したい」というシンプルでブレがない価値観に進んでいきます。
実際に建て主さんとの打ち合わせで行われている和紙についての学びを再現してもらった。
まず触って比べてみると、一番薄く弱そうだと感じたのが「本当の手漉き和紙(奥)」だった。しかし破ってみるとガラリと印象が変わった。他の2枚に比べて断然引き裂きにくく、かなり強度があることが体感できる。繊維が幾重にも重なっていているのがよくわかる。驚くことに、この本物の和紙を幾重にも貼り重ねてつくられた古式製法の襖の上は、子供が歩いても破れなかったとか。他にも、紫外線にあたるとすぐに黄ばむのではなく、まず白くなってゆきその後徐々に黄色くなってゆくと聞いたり、破れたり不要になった和紙は漉き直すことが可能で、リサイクルという言葉が生まれる遥か昔から循環の輪が成立していたと聞いてさらに驚いた。
徳永 やっぱりちゃんとしたプロセスで作られている先人たちが残してくれたものは、今の大量生産型のものとは大きな違いがあると言うことですよね。これは紙の話だけではなく、職人さんの仕事には全部当てはまることです。こういった本物を使っていくことで、職人さんも生き残っていけるし、技術も引き継がれていく。お施主さんだって風合いのいい丈夫なものを使うことができる。みんながいい循環になっていくんです。
⎯⎯⎯⎯これから挑戦したいことや取り組んでいることはありますか?
橋詰 「小さな本物の家」という石場建ての家をつくろうとしています。間取りの部分は画一してしまって、その分で設計や職人さんの手間や費用を抑えて実現。小さな家ですけど、素材や工法にはこだわり、多くの人に健康的で地震にも強くて安心して暮らせる家を建てれるようにしたいと思っています。多くを求めず心地よく暮らせる本物の小さな家というものを広めていきたくて、ずっと温めてきたんです。やっぱり伝統構法の家となると、高嶺の花になってしまい、ごく一部の限られた人にしか建てられないものになってしまうことが多いですから。ここの集落の家なんかもそうですが、昔の大工さんが建てた家は大体間取りが同じでしたよね。そんなイメージです。
橋詰 それから「野の草ブランド」の家具や道具の企画・制作もしています。これだけモノが溢れている時代で、家を建てない人も多くいますよね。家を建てるまでしなくても、生活の身近にあるものを通して、伝統技術や良いものを永く使うことの素晴らしさに気づいてもらえたら嬉しいです。
いろんな職種の職人さんの素晴らしい技術を絶やすことなく活かしていきたいという想いもあります。この二つから何かが変わっていったらいいなと思います。
野の草設計室から車を走らせること40分。松山市内に2019年2月に完成した《土間と風の家》を案内してもらった。《土間と風の家》は国土交通省のサステナブル気候風土型モデルとして採択された家でもある。建て主の田中さんご夫婦は30代で3歳と5歳のお子さんとの4人住まいだ。
田中さんにもお話をうかがった。
田中さん(以下、田中) 橋詰さんと徳永さんがじっくり付き合ってくれたので、自分の価値観を確かめながら、いろんな知識を深めながら、進められました。時間がかかってよかったです。慌てて作るものじゃないですから。
橋詰 建主さんの考えにブレがなくなった時が建てる時な気がしますね。
田中 我々も最初はブレてましたね。床暖房しようとか。結局エアコンは最低限しか使いませんし、冬場も薪ストーブで心地よく暮らしています。今でも妻が「こんな素敵な家、他にないよね」と喜んでいます。子供達も畳を走り回って楽しそうですし、橋詰さんにお願いしてよかったです。
《本物》の詰まった家に暮らす田中さんと、それを設計した橋詰さん・徳永さんの話を聞いていると、暮らし方・生き方の価値観を共有されているんだなと感じた。
本当に良い暮らしとは何か。衣食住、くうねるあそぶ、家族、仕事、近所付き合い、地球環境、過去、未来…
一見バラバラに見えて難解な問題も、まずは一歩引いてクールダウン。自分に一番大切なことは何かをじっくりゆっくり考えて、価値観をひとつ持つことができれば、どんな問題にも自分なりの答えを導き出すことができる。その《暮らしの学び》のきっかけづくりを、橋詰さんは家づくりの中に取り入れている。
ちょうどこの12月には《伝統建築工匠の技》がユネスコ無形文化遺産に登録される予定です。先人たちの技術・知識・想いに触れながら、自分自身の暮らし方についても見つめ直し、考えを深める良い機会ではないでしょうか。
野の草設計室 橋詰 飛香(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
(有)かとう建築事務所の加藤由里子さんは、木の家づくりの魅力を「作り手にとっては仕事の喜びがあり、住まい手にとっては大切に使い続ける喜びがある」と独特の表現で読み解く。これまで愛知県で宅地開発や申請業務、公共建築など幅広い建築を手掛けてきたが、15年前から木の家づくり一本にシフトチェンジ。土壌改善や自然農にまで探求の幅を広げ、自然に寄り添った暮らしを提案している。
(有)かとう建築事務所は、愛知県岡崎市にある。事務所では薪ストーブで暖を取り、歩いて5分ほどの畑で季節の野菜を育てる。「岡崎は、半分山で半分が平野という地域。木を身近に感じられるし、四季の移り変わりを自然から教えてもらっている」と由里子さん。この時期は紅葉のグラデーションが山を覆っていた。別の季節にはまた違った美しさが見られるのだろう。
自然を全身で感じながら設計に精を出す由里子さんは、「職人力を活かした家づくりがしたい」と語気を強める。由里子さんにとっての「職人力の活かされた家」とは、日本の山の木を適材適所に活かし、日本の山の特徴ある素材の個性を生かしながら刻み、仕上げ、組まれた家だ。マニュアル重視の考えでなく、職人さんの自然を敬う叡智とそれを楽しむ心の使い方が要ではないかと思っている。「今の私はこのような職人さんと一緒に、想いのこもった心地よい木造建築に携わることが楽しい」という。
2017年に設計監理した市内のある家は、由里子さんの理想に近い家ができた。職人さんは木の家ネットメンバーの力を借りた。木材は手刻みで1本1本の曲がりを生かして配置。職人さんの腕が光る。
室内は構造材が見えて力強さも感じる一方で「施主さんの奥様がちょっとかわいい感じが好きだから、主張しすぎないように工夫した」という。
在来工法と違い、手刻みは時間と手間がかかる。「手間をかけてもらったということは、職人さんの思いがこもっているということ。いい感覚で暮らせるし、とっても贅沢なことでしょう」と由里子さんはほほ笑む。
想いがこもった家の心地よさを実感する由里子さん。そのきっかけは、現在も暮らす岡崎の生家にあった。由里子さんが小学生の時に、山から木を伐り出して建てたことを覚えているという。田の字のオーソドックスなつくりで、畳敷きの南面2部屋は当時のままだが、北面の部屋は高校生の時に改装し、板張りになっている。
「古い造り方のほうが居心地がいいっていうのは、私が一番感じていること。木こりさんが木を伐り出して、棟梁をはじめとする職人さんが思いを込めて建ててくれたのが伝わってくる」と言い切る。
自宅に事務所を併設し、夫で同じく設計士である正彦さんと建築事務所を切り盛りしている。仕事内容は、由里子さんが木造建築部門、正彦さんがそれ以外、と分担している。木造建築部門は「ののはな企画」という屋号で活動している。
由里子さんは大学で建築を学び、卒業後は宅地開発のプロジェクトに参加した。そして名古屋の設計事務所に所属し、民間から公共事業まであらゆる建築を仕事としてきた。出産後、実家である岡崎に移って事務所を立ち上げ、仕事のフィールドは住宅の設計管理と申請業務に変わった。そして、木造住宅や大工職人と関わるようになった。
この間、「ずっともやもやしながら建築をやってきた。法規や仕様書と職人仕事の間に不一致があるようで。どうも手ごたえがなくて・・・」と振り返る。業務と3人の子どもの子育ての傍ら、さまざまな勉強会に顔を出したが、ますます混迷するばかり。「しっくりきた」のが「木の家スクール」そして「職人がつくる木の家ネット」だったという。
話を聞く中で、歴史、政治、文化が時代の流れの中で発展とゆがみが生まれ、今に至っていることに深く納得。在来工法と伝統工法の区別すらできていなかったことにも気づき、特徴も理解できた。
由里子さんは「まだまだ勉強中なんだけど」と前置きしつつも、こう考えている。現在主流の家づくりは、効率・マニュアル重視。例えば木の癖をなくし集成材にする、高温乾燥により木の本来の粘りを飛ばすなど、自然を人間や経済の都合に合わせる、対処療法のような方法だ。結果、建物は短命になり、職人力も影を潜め、室内外の環境も悪化してしまった。建築以外に農業、土木、医療、食など他分野でも同じようなことが起きていて、経済的に豊かになったように見えるものの、本当の豊かさである仕事の喜びや生きる喜びは薄れてしまっている。「伝統建築や伝統文化にはその根本的な部分を取り戻す力がある。自然を生かし、大切に思う心がある」という。
自然を生かすには、自然や材料と時間をかけて向き合わないといけない。そうすると、おのずと想いが込められ、居心地のいい空間が生まれるのかー。加藤さんの抱えていたもやもやが晴れた瞬間だった。
自身の生まれた家の居心地の良さに、強い納得感が生まれた。
自然を生かすスタイルにはマニュアルがなく、直面した課題ごとに答えは変わってくる。由里子さんは木の家ネットの勉強会を中心に、県外まで出かけていくようになった。
最近は、建築(地面の上)だけでなく、地面の下の土壌環境まで学び始めた。持続可能な生活を体現したいと、自然栽培での農業にも取り組んでいる。伝統工法を知りたいだけなのに、探求の分野は際限なく広がってくる。
また、「伝統工法は木組み、土壁、石場建ての特殊技術からか、施主さんには価格が高いと言われてしまうのよね。良さを伝えてもなかなか契約まで結びつかない。大手メーカーとそんなに変わらないんだけど、経済との両立は難しい」と、理想と現実の壁を実感している。
木の家ネットのウェブページの「このような会です」という説明の中にも、
・国産材、近くの山の木を使います。
・大工さんが一棟一棟、つくります。
・木と木を組んでいくことで構造体をつくります。
・木以外にも、環境に配慮した素材を使うことを心がけています。
という4項目が挙げられている。
木組み、土壁、石場建ては絶対条件ではなく、自然を生かした家づくりのひとつの策として由里子さんはとらえ、落としどころを模索し続けている。木の家に興味がありつつ、予算の関係などで断念した悔しさも知っているからだ。
石場建については「コンクリートで地面を固めると土の中の自然を壊してしまうことになると思う。家の中は妙な湿気が出るし、家の外の自然も狂ってしまう」という考え方だが、予算との兼ね合いと地盤の状態から折り合いをつけるのも重要な仕事だ。
建具や目隠しに木材など自然素材を使うことは、一貫して提案してきている。端材の有効活用にも熱心だ。
それから、在来工法と比べると知名度が低いため、説明する必要が出てくるが「伝統工法ってシンプルなはずなんだけど、説明が長くなってしまう。私の思い入れが強いからなのか・・・」という悩みもある。
勉強すればするほど、わからないことが増えていく。課題も多い。「けど、環境に負荷を与え続けてきた在来工法にはてなが生まれちゃったら、もうそれはできないでしょう。それに、根本に自然という存在があると、落ち着いて考えられる」と、由里子さんは前向きだ。これまで抱えていたもやもやは晴れ、ゆったりと、そして面白がりながら建築と向き合えている。
由里子さんが手がけた事例を紹介しよう。
浜松市の社会福祉法人のデイサービス施設に併設するトレーニング室は、来所者が介護予防や脳トレを行う。敷地面積は240平米ながら、トラス式の構造材が、広がりのある空間を生み出している。同市天龍地区の材木を、その地域の大工職人が加工した。
由里子さんには「木を美しく魅せたい」というこだわりもある。照明が主張しすぎないようにする。壁など木以外の素材との組み合わせのバランスも考える。
「確かに、木は素材のまま、自然のままでも十分美しいんだけど、職人さんの手にかかるとさらに美しさが増す。想いを込めてくれてくれるということだと思うのね」とうなずく。
地元の寺では、檀家さんが集まるための座敷と玄関の新築を、設計監理した。寺院建築には伝統的な様式があり、それにのっとった設計をした。格式を守りつつ清々しい空間づくりには、神社仏閣を専門にしている職人さんが腕をふるった。
神社仏閣には神様仏様が鎮座する場であるので、重厚さも必要になってくる。正面の中央の階段の真上に張り出した屋根を取り付けたり、住宅にはない屋根のそりを取り付けることで重厚さを表現する。それらをつくるには複雑な工法が必要になる。複雑で時間がかかることは、職人の腕の見せ所であるとともに、想いを込められる環境でもある。
神社仏閣などの文化財に人が集まるのは、宗教的、観光的な意味合いもあるが、職人が長い時間をかけて想いが込めたからこそ生まれる居心地の良さも、その一助となっているとみている。
「職人さんって本当に素敵なの。一緒に仕事するうちに、すっかり職人さんのファンになっちゃった」と由里子さん。自然を生かす存在、建物に思いを込める存在として、「私がどんなに勉強しても追いつかない」とうらやましさもにじませる。
由里子さんは「こういう勉強ばっかりしてると、経済の循環には入らなくていいって思っちゃうんだけど、職人さんが活躍できる場は残していきたい。残していかなくっちゃ」とうなずく。伝統工法のPRにも熱が入り、「ののはな企画」のブログでも取り上げている。今後は同市の観光名所「奥殿陣屋」のマルシェで、木組みについて紹介する場をつくろうと企画している。
長いこと建築畑を歩んできて、やっと手ごたえを感じることができた木の家づくり。探求はまだまだ続くだろうが、そこに迷いはない。
取材・執筆:丹羽智佳子、写真一部提供:(有)建築事務所
とにかく学ぼうとする姿勢がまぶしかった。「コロナでオンラインでのセミナーが増えたから、出かける必要がなくなったでしょ。その分畑に行ける」と前向きさ。
聞けば、独身時代そして出産前は、徹夜上等で働き詰めだったという。子育てで岡崎に戻った時には前のように働けず悔しい、と感じたとも。子どもと向き合う時間は素晴らしいことなはずなのに、世間から取り残されたような焦りを抱いてしまうというのは私もうなずける。由里子さんは、「家にいる時間が長かった分、家と向き合えた。窓から見える風景や畑にもずいぶんと癒された」と振り返る。「想いを込めて」「自然に寄り添って」と強調する理由が、わかった気がした。そして、そんな由里子さんが存分に探求できる時代になり、うれしく感じた取材となった。
大阪市内で「人の手と心で造りこむ、温かい美しい木の家」をモットーに【有限会社 羽根建築工房】を営む羽根信一さん(はねのぶかず・66)をご紹介します。
羽根さんは三重県熊野市出身。小学生の頃から将来の夢の作文には「大工さんになりたい」と書いていたそうだ。「何が理由かは自分でもわからないんですが(笑)」と羽根さん。18歳で奈良で大工として弟子入りし入母屋造(いりもやづくり)の住宅をメインに手がけられていたそうだ。その後、20代半ばからは大阪の工務店へ。大工・現場監督そして取締役を勤め44歳で独立。そして【羽根建築工房(以下はねけん)】を立ち上げ今年で22年になる。
まずは、羽根さん自身の経歴や、職人さん・お客さんとの関わりなど、人間関係について話していただいた。
⎯⎯⎯⎯羽根さんご自身の現在のお仕事について伺います。設計から大工仕事まで手がけられているのですか?
「私自身は設計はしないんですが、現場監督が自分も含めて4名(内、設計もできるスタッフが2名)いますので、いつも4人でコンペをしています。みんなで設計しているという感覚ですね。独立前から付き合いのある設計士さんからの仕事も多いです」
「大工に関しては今は自分で刻むことはほぼなくなりました。手を出したら怒られます(笑)。というのも若い子の成長を重視しているからなんです。今の自分の仕事は「若い職人達が自分で考えながら活躍できる場をつくる」ことです。今はそこに集中しています」
⎯⎯⎯⎯具体的には若い職人さん達を育てるためにどのような取り組みされているのですか?
「若い子たちに対して気をつけていることは各々のレベルに応じて《活躍できる場》《自分で考える場》《手刻みの場》をつくってあげるという取り組みをしています」
「木の家を作り上げるためには、やはりイチから学ばなければならないと思うんです。いきなりプレカットのように中途から造作仕事に入るとかでは、全体の流れがわからない。イチから現場で経験してこそ一人前の大工になれると思っています。そのためにも100%手加工を貫いています」
「それから、住宅ばかりだけでなくイベントや展覧会などの施工などに、若い子たちを参加させるようにしています。普段と違うことが多いのでメリハリが出て楽しんでやっていますね。ちょうど今、神戸県立美術館で開催中の特別展「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」に展示されている中村好文氏設計の小屋 《shell house》の施工を担当しています (建築知識ビルダーズ42に詳細掲載 東京をはじめ他の巡回展も担当)。そういう現場でも図面通り行かないことは多々あるので、彼らの勉強にもなるし面白い部分だと思います」
⎯⎯⎯⎯次にお客さんとの関わりではどんなことを大事にされていますか?
「つくり方に対する熱い心を訴え、お互いに共有できる関係を目指しています。それと関西なので必ず負けてって言われますね(笑)『関西人やし一応言っとくわ〜』と言う感じで。それはコミュニケーションがうまく取れている証だと思っています。お互いが言いたいことを言えて、聞き入れる姿勢を持ち、できないこと・ダメなことにはきちんとNOと言える関係を築くことが大事だと思います」
「僕は建築家の言うことにもNOと言います(笑)。そうやって関わる人みんなが本当に打ち解けられる雰囲気作りを現場が始まる前にしておけば、工事中も建てた後も気持ちよくスムーズな動きができますよね」
⎯⎯⎯⎯⎯他に人の繋がりを考えて実践していることはありますか?
「はねけんでは毎年夏休みに合わせ「羽根建祭り」というイベントを二日間に渡って開催しています。『土と木に触れてもらいたい』という想いで始めたもので、家づくりや暮らしにまつわる様々な体験ができる催しです。地域の子供たち・はねけんのお客さん、さらにその友人やHPで知った人などいろんな人が、毎年約200名くらい来てくれます。毎年賑わっていて私自身も楽しみにしていたんですが、今年は残念ながらコロナで中止になりました。次に開催する際には、大人も子供もみんな一緒に『観る・触る・動かす・考える・聞く』古くて新しい感動や発見ができる場になれば良いなと考えています」
羽根さんは、コミュニケーションの重要性を考え、職人・設計士・お客さんに至るまで、家づくりに関わる人達と一貫して気持ちの良いやりとりをできるように心がけているのだ。
次に、はねけんの家づくりの思想や特徴について詳しく聞いた。
⎯⎯⎯⎯いわゆる「伝統的な木の家」というだけではない新旧・和洋が調和した素敵な木の家を多く建てられていますね。
「いろんなお客さんがいらっしゃいますから、伝統的な方向にグッと入り込んだ家づくりはなかなか手掛けられないんですが、大工仕事自体は木の家ネット会員のみなさんと同じ、伝統的な技術・方法でつくっています」
それから木に関して言えば、吉野杉を使う機会が多いです。木の家ネット会員の中西豊さん(株式会社 ウッドベース)にいつもお願いしていますし、徳島の和田善行さん(TSウッドハウス)にもとてもお世話になっています。実は和田さんの息子さんがうちで現場監督として働いてくれているんですよ」
ここでもご縁やコミュニケーションを大事にされていることがうかがえる。
⎯⎯⎯⎯はねけんのホームページには、家を建てていく上でのこだわりや思想、重要視するポイントなどのコンテンツがとても充実していますね。見ているだけでも楽しいですし、これから家づくりをしたい方にとっても重要な資料になっていると思います。特に特徴的な強みはどこでしょうか?
「構造を重視して100%手加工。さらに温熱的な考え方をもって建てるのがはねけんの基本です。中でも《羽根建壁(はねけんかべ)》が特徴的ですね。従来の竹小舞のように竹を編み込んでゆく代わりに、竹を貼って土を塗って仕上げます。竹小舞の土壁のように構造材にはなりませんが、現代の家づくりにも順応する土壁となり、施工性を上げながら土が元来から持つ調湿性・保湿性・防火性能を得ることができます。主に人が一番無防備になる寝室に多く採用しています」
「土壁に憧れるお客さんがやっぱり今でもいらっしゃいます。みなさん、土の持つ健康面のメリットに魅力を感じられているようです。コロナ禍において自宅で過ごす時間が増えているので、室内はより安全で快適な空間にしたいですよね」
「他には、使う材木にも特徴があります。伝統的な木の家を建てる場合の梁とか柱には結構太い木を使うと思うのですが、はねけんでは小径木の《磨き丸太》を積極的に使っています。えくぼがあったり節があったりして規格品にならないものを活用しています。アントニン・レーモンドの建築が大好きで、丸太を使うのもレーモンドの影響を受けている部分です」
⎯⎯⎯⎯温熱環境についての話も教えてください。
「生活の場として家を考えた時に【ストレスを感じない家づくり】というのが一番だと考えています。それを実現する上で一番大事なのは構造(『地震で倒れないか心配』というストレスを感じないことなど)。その次に大事なのが温熱環境(極端な暑い・寒いというストレスを感じないことなど)なんじゃないかなと思っています。いわゆるパッシブデザインの考え方ですね。自然の光・熱・風を効率的に取り入れて、夏に涼しく冬に暖かい快適な家を作ろうと思想です」
⎯⎯⎯⎯空気集熱式ソーラーシステム※なども使われるんですか?
(※:暖房・涼風・換気・循環・給湯・発電の機能を備えたソーラーシステムのこと)
「一時は使っていたのですが、そういった装置に頼ってしまうと、どうしても装置が利くかどうかと言う話で終わってしまいます。今は、構造・素材・プランなどをいろいろと試行錯誤していくことで、装置がなくても、自然のことだけを考え、昔の日本の生活様式を発展させていく形で、快適な温熱環境を整えることができるようになってきました」
「温熱の勉強は奥が深く、独学でやっていても限界があります。【Forward to 1985 energy life】という、家庭でのエネルギー消費量を賢く減らして、現在の約半分、ちょうど1985年当時のレベルにしようという取組をしている団体に所属し、みんなで学んでいるところです。木の家ネットが木の家に熱い情熱を捧げているのと同じように、彼らも温熱に対して熱い情熱を持っています」
ここまで話していただいた【職人さんの話】【壁や丸太など素材の話】【温熱環境の話】などを組み合わせながら、理想的な住まいをつくる方法を、羽根さんは考案している。
それが【HANE-ken standard】と言う住宅設計の思想だ。【HANE-ken standard】の家はどれも「本当に大切なものだけを備えれば、それは豊かな住まいになる」というコンセプトのもと、こだわりをもって建てられている。
「一般の人のための住宅を、より住みやすくよりストレスのないものにしていきたいなと考えています」と話す羽根さん。完成した家々にはその思いがギュッと詰め込まれている。
羽根さんの家作りに対する情熱は、全国の仲間と共に波及しはじめている。
「名前はまだ無いんですが【手刻み同好会】というものを、全国の仲間10何社かで立ち上げています。手刻みをしたことのない工務店も多いので、そういう人たちに向けた勉強の場を作りたかったのが始まりです。そこから発展し、最近では『小屋を作ろう』という企画を実施しています。小さな小屋にパッシブデザインの設計思想・大工の優れた手加工の技術、自然の素材などの粋を集めることで、日本の伝統建築の良いところを、広く発信していけたら良いなと思っています」
「日本の家づくりの中で忘れられようとしている、【ものづくりの精神】をここから日本中に、そして世界に発信していこうという試みです」
⎯⎯⎯⎯画面越しですが、すごい熱量を感じます(笑)。最後に一つ質問です。羽根さんにとって家づくりとは何でしょうか?
「家づくりは結局【ものづくり】だと思います。ものづくりは『一を聞いて十を知る』というような単純なことで成し得るものではなく、一から順番に全ての過程を熟知しておかなければなりません。自分の仕事に集中する一方で周りも見渡し、いろんな角度や立場から状況を見る姿勢が大事ですね。お互いに把握し理解しあってこそ【良いもの】をつくり上げることができると考えています」
「日本の家づくりの中で忘れられようとしている、【ものづくりの精神】をここから日本中に、そして世界に発信していこうという試みです」
広く浅くでもなく、狭く深くでもなく、広く深く探究し、常に学び体現し続けている羽根さんの【家づくり/ものづくり】に対する情熱は、日本中に広がってゆくことだろう。
羽根建築工房 羽根 信一 さん(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
各務工務店は、面積の8割が森林という岐阜県八百津町で、地元の材料をふんだんに使った家づくりを営んでいる。木の家は「長く住めて環境に負荷が少なく、住む人をゆったりとさせてくれる」と話すのは、代表の各務博紀さん。「まずは自分で調べやってみる」というスタイルで仕事を続けてくる中で、結局「昔からのやり方が一番理にかなっている」と感じ、受け継いだ大工技術を磨き、木を大切に活かす仕事を続けている。大工歴は20年。設計から施工までこなす棟梁として、また3人の弟子を育てる親方としての心構えをインタビューした。
八百津町は、南が木曽川本流に、北が木曽川水系の飛騨川に挟まれた町。雄大な川の流れとは対照的に山々の傾斜が険しく、初夏の時期は木々の緑が深く、こんもりと茂っている。
この木曽~裏木曽地域(飛騨南部、東濃地域)で育った天然ヒノキは、「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」という名で知られ300年以上の歴史がある。江戸時代、山から切り出された木々は、八百津でいかだに組まれ川を下り、現在の愛知県の熱田、堀川へと運ばれていったという。良質な「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」が、名古屋の町づくりを支えたのだ。
令和の現代、各務工務店は「木曽ヒノキ」「東濃ひのき」などの地元材を構造材に使った家づくりを展開している。主に使うのは構造材だ。八百津町にはそういう古い民家が、長年の台風や積雪に耐えて残っている。損傷が出ても、傷んだ部分を取り換えることで次の時代へ住み継げるということを、各務さんは実感している。
さらに、構造材に外国材や集成材を使うと「短寿命だし、解体した時の産業廃棄物が膨大になってしまう。その土地にあるものを使うのが一番のエコだ」と話す。
現在改修中の岐阜市の物件は、築80年の2階建ての古民家。まず家自体を20センチも上げ、傾きを直すところからのスタートだった。
耐震工事も含めての大改修は、「新築とは違って現場合わせの連続で時間がかかる。けど、こうやって古い家を大切に住んで、任せてくれる施主さんがいてくれるのはありがたい」という気持ちで仕事に向かっている。
床を畳からフローリングに変え、床暖房を入れるなど、住み心地をよくする工夫も配する。この家の施主さんの息子さん夫婦が、敷地内に石場建ての家を建てる予定もあるのだという。設計は、木の家ネットメンバーの水野設計室が担う。各務さんの理想とする長く住み継げる家が、またひとつ増える。
もう1軒、八百津町にある、各務工務店が手がけた新築物件を紹介する。25畳のリビングダイニングの天井に、桧の構造材が大胆に見えるつし二階の家だ。
新築といってもすでに10年経ったが、施主の井戸謙悟さんは「この骨組み、かっこいいでしょう。大工さんは曲がってる木をどうしてこうも美しくできるのか?って今も眺めてます」と笑う。
美しいだけでなく、住み心地も抜群だという。漆喰で仕上げられた壁により「夏でも部屋の湿度がさらっと気持ちいい」と実感。開口部の南側の窓を大きく取り、涼しい風が家中を吹き抜ける。「子どもが友人の家に泊まりに行って帰ってきた日、やっぱりうちはええなあ、って言ったんですよ」と喜ぶ顔が、各務さんの家づくりそのものを物語っている。
冬場はマイナスにもなるという場所なので、薪ストーブも活躍。薪になる材料は地元の山から調達でき、エネルギーの地産地消も実現できている。
このような家づくりを支えるのが、チーム・各務工務店。メンバーは43歳の各務さんを筆頭に、20代の弟子が2人と10代の弟子が1人、オーバー60のベテラン職人3人で構成する。
各務さんの家系は、代々農業と林業を生業としてきた。父親が愛知県で大工修業し、帰省して立ち上げた各務工務店の長男として生まれた。「田舎がいやだったし、大工になるつもりもなかった」ため、中学卒業と同時に家を出て、高校の寮に下宿、そのまま岐阜県内の中規模ゼネコンで現場監督として働いた。
監督時代、厳しく優しく建築のことを教えてくれたのが、会社の上司でなく、現場にくる職人さんだったという。職人さんの温かみと、手でものを作り出す仕事に惹かれ、「実家の大工を継ごう」と帰省したのが23歳の時。父親や職人さんに技術を教わり、5年で年季明け、10年で棟梁となり、15年目、父親が「65歳定年」したのを機に代表となった。
修行時代から、現場監督の経験を生かして材料の発注や管理も行ってきたため「代表になったからといってやることは大きく変わらない。施主さんの要望を聞き、それに合った木の家を、地元の材料でつくる」と各務さん。材料は、地元の製材所にストックにしてあり、また自社の作業場には製材機まで整っている。
自ら現場にも入る。特に、墨付けは各務さんが担当。「どの木をどう配置すれば活かせるか、考えるのが一番楽しい」と腕をふるう。
変わったことがあるとすれば、ふたつ。ひとつは、お客さんが自分で情報を調べて「これはできる?」と聞くことが増えたこと。ふたつめは、「昔からのやり方、つまり開口部が広く田の字型の家が、結局一番だと思うようになった」ことだ。
各務さんは「まずはなんでも自分でやってみたいタイプ」と自己分析し、これまでお客さんの質問に答えるために、ハウスメーカーの建て方や高気密高断熱の家、建築法規についても独学で勉強してきた。八百津町が確認申請が不要なエリアであることから石場建てもこなしてきたが「石場建てばっかりでいいのだろうか」と迷ったこともあるという。木の家ネットへも知識を深めたくて、会員の岡崎定勝さんに自ら「入会したいので紹介してほしい」と直談判したほどだ。
ほかの工法のメリット、デメリットも勉強した上での結論が、「今までやってきた木の家は、気持ちよさ、エコであることに勝るものはない」。県外で木組み、土壁の家を建てることのハードルの高さにも驚き、自身の恵まれた環境に感謝も生まれた。
さらに、構造が単純であればあるほどメンテナンスしやすいことも強みだという。「メンテナンスする大工は、もしかしたら自分の次の世代かもしれないから」と未来を見据える。
こういう考え方ができるのは「山に囲まれて育って、山で仕事しているからかな」とはにかむ。木の家をつくることと、木を大切にし山に心を寄せることはつながっているのだ。その自然をいつくしむ空気感が、各務さんが手がけた家には流れている。のびのびとした、居心地のよい空間だ。いくつかを写真で紹介する。
各務工務店スタイルの家にほれ込むのは施主さんだけではない。
年季明けした弟子の各務椋太さん(27)も、弟子歴3年目となったと中村哲也さん(22)も、学生時代に各務工務店の現場の木組みをひとめ見て「すげえ、やってみたい」と圧倒され、弟子入りを志願した。
各務工務店の弟子育成方法は、一言でいうと柔軟。現在は、椋太さんが後輩弟子を指導する体制で20代弟子チームが現場に入り、ベテランチームは作業場で下支えする。以前は、20代の弟子とベテラン職人を組ませて、職人から弟子に技術を教えるようにしていた。
今春、仲間入りした10代の弟子が普通高校出身だったため、座学「大工講座」も行うようになった。「大工とは?」「道具とは?」といったテーマで、各務さん自らペーパーの資料を作り、講義する。これまで5回開催した。「自分たちの時代のように技術を見て盗めといっても時間がかかりすぎる。今の若い子は言えばすぐ理解できるから、言ったほうが早い。ペーパーならその時理解できなくても、あとでも見返せる」と、見極めながら指導をしている。「それに、同じこと何度も言うの嫌なんだ。言われるほうも嫌でしょう」と、正直な気持ちも打ち明けてくれた。
一方で、年季明けした椋太さんには現場を任せ「いつ独り立ちしてもいいようにしておけよ」と言葉をかける。椋太さんは現場を任されるようになり「考えることめちゃめちゃ増えて大変ですけど、やりがいがある。よそじゃできない仕事をさせてもらえてる」と笑顔を輝かせる。
若い世代が現場にいることで、施主さんや近所の方が別の仕事を頼まれることも多いという。家づくりは長い付き合いになるから、若手がいるってだけで安心して任せられるのかもしれない」と各務さんはみている。
チームはそれぞれの現場で仕事し、現場が違うメンバーとは何日も顔を合わせないこともざらだという。進捗は、SNSアプリ「ライン」で確認するほか、水道や電気など他の業者や、施主さんの話を聞いて「あれ、おかしいな、と思ったら様子を見に行くようにしているけど、そんなことは少ない。思い切って任せると、責任もって仕事してくれる」と各務さん。
大工に大切なことは何か?各務さんの答えは、「技術向上に精進するの当たり前の話で、一番大切なのは人間性」だった。他にも工務店がある中で仕事を任せてくれた施主さんへの感謝、大工仕事以外を任せられる他の職方さんへの敬意、現場周辺のご近所さんへの気配り・・・人間性を高めるには、任せ、任せられる関係づくりが不可欠なのだった。
自然や山があるからといって、林業や大工など木を使う生業が残るとは限らない。実際のところ、各務さんが子どものころ、八百津町久田見地区には30件近くの大工がいたというが、現在は「各務工務店」1軒だけ。
ほかの大工はどうしたのか。「ハウスメーカーの下請けになったり、高齢化で看板を畳んだりした」と各務さん。自身は、「どうしてもハウスメーカーはしっくりこなかった」ため、仕事がない時期はよそに応援に行くなどしてきた。好きでないことは、しない。自然なことだった。結果、昔からの木の家づくりが継続できる数少ない工務店となり、そのような家を求める施主さんと出会えるようになった。
家づくりは、施主さんにとって夢をかなえる機会でもある。前述の井戸さんは10年前の新築の時、「自分の山から切り出した木で家を建てたい」「それも、葉枯らし乾燥で」「漆喰は自分でつけてみたい、天草を煮るところから」などの夢を持っていた。しかし、応えてくれる工務店を見つけるのは難しく、各務工務店に任せられたことに感謝する。実現できた技術の高さに太鼓判も押す。
各務さんは「昔は当たり前だった技術ややり方が、今は貴重なものになっている。これからはもっとそうなっていくだろう。施主さんに任された時にできるように、日頃から準備しておく・・・って、弟子に言ってることと同じだな」と笑った。
大工技術は自然にやさしく、自然を美しく魅せる。最近確立されたものと違い、歴代の職人によって磨かれてきた歴史がある。それを受け継ぐ各務さんは、「自分の手でものを作り出せるのは本当におもしろい」と前向きだ。大工など職人の後継者不足もあるが、各務工務店には3人の弟子がいるほか、各務さんの息子の巧真さん(18)も、この春から郡上市の大工で木の家ネットメンバーでもある「兼定番匠」兼定裕嗣さんのもとで大工修業を始めた。
「木を、自然を大切にできる人が増えることは幸せなこと。自分にとって家づくりもそれを伝える手段なのかもしれない」という各務さんは、優しいまなざしで山を見つめていた。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(写真一部は各務さん提供)
この取材は3月を予定していたが、コロナの影響で6月取材、7月掲載となった。この3カ月で世の中はがらり変わったと感じている。今回、緊張感はあったものの、外出、取材できた状況にまず感謝したい。各務さんは、春先は資材がストップしたこともあったが、現在は平常運転だと話してくれた。
すっかり定着した印象のある「ステイホーム」。自宅にいながらオンラインで学びも飲み会もでき、テレワークで仕事までこなせるようになった。外出では感染の不安が拭えないため、安心できる場としての存在感も増した。その家が自然素材で風通しがよければ、大工さんが愛情と手間をかけてつくったものであれば、きっとすこやかに過ごせることだろう。ウィズコロナの暮らしのヒントが木の家にはある。そんな思いがした。
長く使い続けるほど、価値が増していく。木の家は、建築士の奥隅俊男さんにとってそんな存在だ。埼玉県上尾市で千尋建築事務所を主宰する奥隅さんは、新築の設計ばかりでなく、長く使われてきた建物の修復などに多く関わってきた。修復の対象は神社仏閣や大きな邸宅、あるいは文化財といった価値の決まったものばかりでなく、普通なら見過ごしてしまうような民家や商店建築まで及ぶ。
修復の際、奥隅さんは丁寧に建物を調査することに重きを置いている。歴史や痛み具合の確認に加え、施主さんの思いや、これまで暮らした人、建てた人の思いをくみ取り、価値を見直していく作業だ。そうすることで建物は輝きを取り戻し、未来につながっていく。木材など経年変化する自然素材を使い、しっかりした伝統構法でつくられた建物は長く使い続けることができるという。
すべての木の家に、愛を込めたまなざしをそそぐ姿を追った。
千尋建築事務所を立ち上げて、20年余り。現在は既存の建物の調査や改修に関わる仕事が大半を占めるという。大きな建物や時間が限られる時は、同じように古き良き建物を生かしたいという仲間と協力するという体制で仕事を進めている。
「改修するときに大切なのが調査だ」と奥隅さん。外観や室内ばかりでなく、床下や小屋裏に入り詳細に調査し、“現在”の実測、図面おこしを行う。工法や技法、改修の痕跡なども調べ、記録をつける。建具の破損状況なども調査し、修復設計に役立てる。
さらには、建物の“過去”までさかのぼっていく。長く使われてきた建物は、建築当初から何度か改修や修理を経て現在の姿になっていることがほとんど。改修にあたり、建築当初の姿に復元するとは限らないが、「当初の状態とそのあとの改造の過程を調べて把握することで、どう修復するか検討でき、建物にふさわしい改修に役立つ」という。古い図面や改修時の図面もあれば、調べ尽くす。破損状態の調査も、修理内容や範囲を決めることにつながり、予算を把握することができる。こうして、時にはほこりで体中真っ黒になりながら、野帳を完成させていく。
調査は数日のこともあれば、大きな建物では1カ月かかることも。こつこつと、建物の歴史を紐解いていくのだ。
丁寧に向き合う姿は、建物だけでなく、施主さんにも然り。「聞き取り調査」も行っている。現在の施主さんから話を聞き、建てた当時の施主さんがどのように考えたか、どんな風に使ってきたか。また、職人さんがどのように考えて建てたのか、想像を膨らます。建物と住む人に、やさしく寄り添うのだ。
奥隅さんは、そのような幾重にも重なる調査を経て、建物の現状図面をなるべく正確にまとめていく。それをもとに、施主さんの要望や目的を盛り込んだ改修設計図面、そして計画を作成する。
こうして調査、改修設計をして修復した建物のひとつが、さいたま市岩槻区にある民家。大正時代に建てられた平屋の瓦ぶき屋根で、昭和46年の大改修(台所や風呂を増設したり、天井や壁の仕上げに合板を貼ったりする)を経てきた。それを、約1年半かけて改修、2018年に完成した。
施主さんは「奥隅さんの「聞き取り調査」の中で、方針が固まっていった」という。「この家は文化財ではないけれど、文化財的感覚がある。朽ち果てていずれ取り壊し以外に道がなくなるような事態は避けたい」という思いが強かった。他の住宅メーカーにも相談したが、建物をどう活用するかという方向になってしまい、「建物として残すという自分の考えからは物足りなく感じた」と振り返る。
奥隅さんと相談をしているうちに、方針の一貫性が一番大事であることに気づいた。その方針とは、できるだけ建築当初の姿に戻す復元を目指すということ。「古くからの家そのものが歴史を伝える価値がある遺産(財産)だ」というのは、ふたりの共通認識となった。そのため、文化財と同じような詳細な調査、修復設計を行った。
古い図面の発掘や聞き取り調査により、居間の一部は以前は玄関土間であったことがわかった。実際に沓脱石が床下にあることも確認でき、それをそのまま活かして修復した。
北側には改造により台所があったが、建築当初は縁側が廻っていたことも分かった。ここも修復により、再び縁側を配置したことで、部屋が明るくなったとともに、北側の庭との一体感が生まれたという。
合板も剥がし、天井は無垢板に、壁は木舞下地の土壁に修復。窓もアルミサッシに取り換えられたものを再び木製建具へ。それぞれの建具には古色(古い色にあわせて色をつける)する事で、当初の部材と調和するようにした。
一方で、建築当初から形態を変えた部分もある。一つ目は、建物の構造の補強のために間仕切りの戸をやめて耐震の壁をつけたこと。二つ目は、建設当初はなかった網戸を付けたこと。窓に雨戸とガラス戸などが入っていたことがわかったたが、さらに新たに敷居と鴨居を足し、雨戸とガラス戸と網戸の3枚立てにした。 いずれも建築当初の姿がわかっていながらの変更で、利便性を高め、この先建物を長く使い続けることに一役買っている。
ほとんどが工事前に作成した図面通りに工事したが、工事中に、壁の中から低いが立派な鴨居を発見し、そのまま床を低くして出入り口を設けた部分もある。「通常の修理計画では思い浮かばないものだった。建築当初の使い方がわかって面白い」と奥隅さんは柔軟だ。
建物、そして施主さんと真剣に向き合いながら、工期や予算も考慮し、適切な改修を目指している。
建築当初の姿に戻す復元の場合も、使い勝手に合わせた改修の場合も「建物をよく理解し、メンテナンスしながら長く使い続けられるようにすることが大切ではないか」と奥隅さん。そのために必要なのが、丁寧で詳細な調査だとして、日々励んでいる。
軸組みなど伝統構法によってできた建物は増改築にも適し、現在の生活にも柔軟に対応できる。さらに、「自然の素材でできた家は経年変化によって美しく、四季折々の風景になじむ。気候風土に適応した知恵も受け継がれている」と強みを語る。そこに、「建物の大きさや豪華さはあまり関係ない」というまなざしは優しい。
このような感覚を持つようになったのは、前職、そして海外での経験からだという。奥隅さんは大学卒業後、設計事務所に勤める一方、日本建築セミナーという木造建築の講座に参加。このセミナーには全国から会員が集まり、定期講座と文化財修理の見学などをして学びを深め、「大変勉強になった」という。
設計事務所は6年で退社し、向かったのは海外。大学時代の研究がイスラム圏のバザール(市場)で、当時は文献や資料での調査だったことから「20代のうちに現地を見てみたい」と飛び出したのだ。インドから西へ向かい、イランやトルコ、イエメンを経て、ヨーロッパ(ギリシャ、イタリア、スペイン)を巡るひとり旅。歴史ある遺跡も素晴らしいが、奥隅さんの心をつかんだのは、石や日干しレンガ、木など現地にある自然素材でできた「いわゆる普通の民家」だという。そこにあるものを使った、その土地の気候に合った家。それが連なり、自然となじみ、美しい風景をつくっている。遺跡とちがって、実際に今も暮らす人々のいきいきとした力強さも加わり、美しく見えたという。「長い年月が経ち風化し、素朴で、なんともいい感じ」と、夢中でスケッチしていった。そんな10カ月を過ごした。
帰国後は再び日本建築セミナーで学び、「伝統工法は日本の風土に合い、歴史もある。海外の伝統的な建物に通じる良さがある」と再認識。伝統的な木造建築を手掛ける眞木建設に入社した。寺社や民家の文化財調査や修理、新築設計に加え、現場監督も務めた。東京の江戸東京博物館に江戸時代の歌舞伎小屋「中村座」を復元する仕事では、設計図作成の補助と現場監督を担当。設計と職人をつなぎ、予算や工期、品質に気を配りながら現場を進めていった。
「現場では、伝統的な木造建築と長い時間向き合うことができた。ここで学んだことが独立してからの仕事の基礎になっている」と奥隅さん。日本の伝統建築は、解体修理すれば再び組み立てられる優れた建築であること。それを長く使い続けるためには、破損や腐食しないように、メンテナンスしやすいように作ることの大切を学んだという。
独立して事務所をかまえた上尾市は、生まれてからずっと住み続けている場所だ。ここには江戸時代、江戸の日本橋と京都の三条大橋をつないでいた「中山道」が通る宿場町だった。建物は高度経済成長期にほとんど建て替えられたものの、わずかに土蔵の商家が残っていたが、奥隅さんが独立してすぐ、旧道拡張工事によって建物が解体されることになった。聞きつけた奥隅さんは、計画していた上尾市の担当者に直談判。「古い建物がなくなるということは、景観がなくなり、宿場町だった歴史が忘れ去られてしまう」という危機感が、背中を押した。それまで特に地元での実績はなかったというのに。
担当者は所有者と話してくれたり、移築を検討してくれたものの、結局、取り壊す結果となった。せめて記録を残すということになり、上尾市は、取り壊す前の調査を奥隅さんに依頼。これは、予定にはなかったものだという。調査した歴史や構造は、一冊の調査報告書として残された。
「建物がなくなってしまったことは今でも残念」と話す奥隅さんは、その後、市の文化財保護審議会の委員を務め、市内の建物の調査、報告書作成も依頼されるように。その中には指定文化財になったものもあるという。現在は荒川河川集落の歴史建造物保存活用に関わり、建物を残し、長く使い続けることの提案に精を出している。
奥隅さんは言う。「長く使い続けている家は、歴史の一部で、人々の思い出、地域の財産そのもの。大切に残していくべき存在だ」。
昭和を代表する日本画家・東山魁夷のことばがある。「古い家のない町は想い出のない人間と同じである」。これを、胸に刻んでいるという。
長く使うことを前提とした調査は、建物を生かすことにもつながるのではないか。例えば、全国的に問題になっている空き家は「危険だから、近隣に迷惑だからの一言で取り壊すのではなく、調査によって価値を発見できれば、残すことができるのではないか」と奥隅さん。増加する自然災害による建物の損傷・解体についても、適切な調査による活用の可能性を考えている。
奥隅さんの事務所名「千尋」は、現場の職人さんから聞いた言葉だ。茅葺を解体し束ねるとき、ひもを一尋(ひとひろ/両手を広げた長さ)に切って使う、と教えてもらった。千尋は一尋の千倍、転じて、非常に高い、深いという意味を持つ。
なぜ建てるのか、なぜ残すのか。ひとつひとつの仕事に、深い意味を見出しながら、向き合っている。
>2019年に起きたフランス・パリのノートルダム大聖堂の火事では、修復費用として1000億円の寄付金があっという間に集まったという。価値があるものとして認められた建物を守ろうという動きは、心強い。建物の価値とは、優れた建築技術であったり、歴史的に重要なできごとが起こった場所であったりすることで生まれる、と考えていた。しかし、奥隅さんと話すと、それだけではないと思わされた。
奥隅さんが修復した民家たちは、言ってしまえば名もなき建物。価値も、文化財と比べると低いと認識してしまう。しかし、写真でのビフォー・アフターを見ると、これは残すべきものだ、と素直に思った。古いからこその美しさ、趣には、目を見張るものがあった。
よく考えれば、どんな民家でもそこで暮らしてきた家族のドラマがある。商店だってそうだ。歴史をひっくり返すようなことは起こらなくても、日々の営みはそれだけで建物に、何かエネルギーのようなものを与えるのだろう。
その価値を、きちんと認めていきたいし、そういう世の中であってほしいと願う取材となった。
取材・執筆・撮影:丹羽智佳子(写真一部は奥隅さん提供)
地元の木材や自然素材を使い、職人の手によってつくる伝統的な家づくりを基本としながらも、住まい手の心地よい生活を一番に考えた住まいを提案し続けている二人の建築士が埼玉にいる。株式会社アトリエ・ヌック建築事務所の新井 聡(あらいさとし)さんと勝見 紀子(かつみのりこ)さんのご夫妻だ。お二人は東京都内の設計事務所の先輩後輩として勤務したのち、1999年に独立しアトリエ・ヌックを設立し現在に至る。
まず事務所兼自宅を構えるマンションの一室に案内していただいたのだが、よくあるマンションのドアを潜ると突然、木に囲まれた空間が出現した。
周りの住民や建主さんからも「そんなことやっていいの?」「こんなに木を使えるんだ!」と驚かれるこの空間は約10年前にリノベーションした。改装前、壁は石膏ボードにビニールクロス貼りだったが、躯体以外は全部スケルトンにして杉板を貼ったそうだ。
集合住宅でドアや窓は変えられないので、木枠の内窓を設け二重にしている。見た目にも温熱環境的にもグッとよくなる。
「最近“温熱環境”という言葉がもてはやされていますが、僕らは以前から“あったかくてエネルギーをあまり使わない家”っていいよねという考え方で家を作っていました。伝統的な木の家の作り方を基本にしていますが、それありきではなく、もっと積極的に暖かく居心地のいい家を作りたいんです。」(新井さん:以下「新」)
「伝統構法で家を建てる場合も、もちろんみなさん工夫されていると思うのですが、どこかで住み手が我慢しないとならない場面があるのではないでしょうか。僕らの建てる家は20〜30年で壊す家ではなく、もっと永くそして心地よく住み続けられる家・住み継ぐ家です。構造的に保つことは大前提です。30〜40代で建てた建て主さんもいずれ年を重ね体調が変わりますよね。その時に温熱環境に配慮していた方が我慢することなく心地よく住み続けられるんじゃないかなと考えています。」(新)
アトリエ・ヌックのWebサイトには「〝普通の暮らし〟〝うちはフツーです〟といった感覚は人それぞれ違うもので、我が家流の暮らし方を認識することが、自ずと家づくりの道標になってくるはずです。」という旨のことが書かれている。暮らしから家づくりへをどう昇華させているのだろうか。
「暮らしという面では建主さんからいろんな事を学んでいます。『こんなアイデアを持ってるんだ』とか『こんな暮らし方、アリなんだ』とか、次に活かせるアイデアをたくさん吸収させてもらっています。歳を重ねるほどに、膨らんだその引き出しの中からいろんな提案ができるようになってきました。」(新)
「普段の生活を大事にしている人。その生活を豊かにするためにはお家の存在が重要だと思っている人。そういう建主さんとの出会いがあると〝とても幸せな結果〟になるし面白いこと提案ができますね。そのために私たちは、できる限りの勉強や経験をしておき、疑問を投げかけられた時にしっかりと応えられる技術なり考え方を身につけておかないといけないなと思っています。」(勝見さん:以下「勝」)
「木や構造の話など技術的なことはホームページ等に載せていることもあって、建主さんにはある程度事前に理解してもらえています。なので実際の打ち合わせでは“間取りをどうするか”“どういう生活がしたいか”について話し合うことがほとんどですね。」(勝)
「間取りをつくるために本当にしつこく聞きますね。『どこに洗濯物を干しますか?』とか細かいことにまで突っ込んで話してもらいます。そうするとその人独自のスタイルが見えてきます。」(新)
「その希望を取り入れて形にしていくことで、オリジナルの家が形になっていきます。さらに建主さんが要望として言葉にはできなかった抽象的なことを具現化してあげたり、希望する事をさらにスムーズにストレスなく使えるようにしてあげたりしながら設計していくというのが楽しいですね。そこに対応できるスキルを磨いておきたいなと常に思っています。」(勝)
「建主さんが『私が考えました』と思ってくれることが究極だと思っています。そうなると家を大切にしてくれるに決まってますよね。だって自分で作ったんですから。」(新)
「ヌックの家づくりは〝作る〟というよりも〝必要なことをやる〟という意識で取り組んでいます。家を求めている人がいて、その人の理想の生活のイメージを受け止めて、最大限のできるお手伝いをやる。そうすると幸せな結果が訪れるというような感覚です。」(勝)
アトリエ・ヌックでは新築の設計のほか、最近ではリフォームやリノベーションの依頼が増えてきたそうだ。
「この辺りでは、街並みを形成するような古民家群はありませんが、主に3つのニーズがあります。1つ目:無駄に壊したくないし捨てたくない〝もったいない家〟。2つ目:親が建てて子供の頃から住んでいた〝想い入れのある家〟。3つ目:なるべく少ない費用で快適な生活をしたい〝着実に確信的にリフォームを選びたい人〟。こういった人たちの声に応えてあげたいんです。」(勝)
「私たち自身も、バタバタと建ててスペースがあればいいというだけの建物を建てるために、古いしっかりした建物を壊してしまうのはナンセンスだと思っています。古い建物の良い部分やポテンシャルを活かせる仕事をしたいという想いがあって始めました。古い建具を活かせたり間取りの面影が残しながらも、耐震的にも強く温熱的にも暖かい家が作れる物件は新築以上の価値があると思います。」(勝)
ここでいくつかリノベーションの実例を紹介する。
Yさんの家(青梅)“もったいない家”
「リフォームでは、高齢になっても快適な暮らしをするための温熱環境・バリアフリー・耐震性といった対策を十分にできないんじゃないかと一般的に思われています。ですが、きちんと調査して悪い部分を補う手法を提案して『思い描いている生活ができますよ』と伝えてあげると、『本当はリフォームしたかったんです。』といって皆さん安心してリフォームに踏み切られます。」(勝)
Yさんも築30年の自宅を建て替えるかリフォームするか迷っていた一人。
耐震補強と間取り変更、劣化部補修と断熱化が、新築の7割のコストで行えるとの試算からリフォームを選択。「家族に背を向けてひたすら料理をしなければならないキッチン」「リビングが寒い」など暮らしの不満を解決しつつ、将来的に体力的に階段を上がれなくなった時のために、1階のリビングを寝室として使えるようにと設計された〝リビングヌック〟部分を増築。
外から見るとアルミサッシのままだが木製建具を内側につけて二重にして断熱性能を上げている。
また、階段の段数を一段増やすことで、足腰への負担を軽くし、できるだけ長く二階を使うことができるように配慮した。
Oさんの家(石神井)〝想い入れのある家〟
Oさんはリタイヤ後の住まいとして、幼い頃から住んだ築約70年のこの家で暮らしたいと考えていた。しかし本当にこの家を改修して、耐震性や温熱性を上げることで自分たちの暮らしを支えてくれるものになるのか不安もあったそうだ。詳細調査をし予算も考慮した上で、耐震対策は全体にしっかりして、リフォームは部分的にすることにした。
「耐震補強は日々の生活を快適にするものではないので、建主さんがはっきりと望まない場合もあります。しかし建築家には耐震補強を施す責務があります。その補強によって生活しにくくなるのは住み手が喜んでくれないし、プロジェクトを進めようという気にはなれません。耐震補強と快適性の向上を両立させる知恵や技が建築家には求められます。それこそが建築家がリフォームに携わる使命だと考えています。」(新)
その考え方が現れているのが格子壁(写真左)。耐震性を持たせると同時に、空間を緩やかに仕切る役割も担っている。
Hさんの家(吉祥寺)〝着実に確信的にリフォームを選びたい人〟
Hさんはリフォームする前提で築30数年のこの家を購入。その後、調査・改修をして住まわれている。自分が住んでいたわけではないが、元の家の佇まいを残したいとのHさんの想いが設計に滲み出ている。
ダイニングにある大きなパネルが目に入った。これは輻射式冷暖房「エコウィン」というパネルヒーターの一種で、エアコンの室内機と室外機のホースの間に接続してエアコンの冷媒をラジエーターに通すだけの簡便な仕組みでパネル自体は電気は使わないという。冬場は輻射暖房で部屋を温め、夏場は輻射冷却で大きな氷の前に立っているようなひんやりとした使用感。エアコンを微風で運転しながら部屋を快適に保つことができるのでかなり省エネ効果があるとのこと。
日々蓄積されてきた“引き出し”から最適なアイデアや技術を採用するのだ。
次に、勝見さんの案内で、所沢に新築で2016年に建てられた、Tさんの二世帯住宅兼事務所を訪れた。実はTさんは10年以上アトリエ・ヌックと一緒に仕事をしている信頼ある大工さん。もちろんこの家もTさんの手刻みで建てられている。
1階は普段はお母さんが暮らし、親戚が集まった時に開け放して大人数で食事がしたいというのが一番の要望。Tさんの事務所スペースも設けられている。2階はTさんご夫婦と3人のお子さんの住まいだ。
「木を使って構造的に整理しながらも、回遊できる生活のしやすさを追求して行くのがアトリエ・ヌックの家づくりです。」(勝)
「アトリエ・ヌックさんの図面が大好きなんです。勝見さんの図面って本当にミリ単位で合うんですよ。やってて面白いとすごく感じます。」(Tさん)
「木じゃないと作れないものが多いので、作り物が多くて大変だとは思うけど、図面を描く人間がいて、実際に作る人間がいるからこそ唯一無二のものが出来上がるんですよね。」(勝)
唯一無二の仕事ぶりをいくつか紹介する。
この家に限らずアトリエ・ヌックでは、いつも採用している技術や素材がある。その一つが“GA(グリーンエア)斜め張り工法”という工法だ。構造用合板を用いず、無垢の杉板を床や屋根下地の構造材として斜め張りにすることで、よりも高い耐震性能と自由な間取りを両立させる工法で、アトリエ・ヌックも開発に加わり水平構面の認定を受け、積極的に採用している。使用する材木は近くの山で育った低温乾燥させた杉材を使う。
「世の中的には、耐震強度を上げるために、厚い合板を張る流れになってきてしまっています。せっかく木軸で作っているのに耐力を全部合板に頼るのはどうかと思いますし、使われている接着材の耐用年数も不明な上、シックハウスの事を考えると多用するのも怖いです。」
「それから、近くの山の木を柱や梁だけではなく、なるべく多く使っていきたいという想いもあります。せっかく手間暇かけて育てた木がチップやパルプとして消費されていくのは寂しいですよね。伝統構法の建物が柔らかくて揺れを吸収してくれることは、もちろん理解していますし素晴らしい構法ですが、職人の技術なくしては成立しないので、今後それだけでは特殊技術になりすぎて、この国の〝木の家づくり〟は続けていけないのではないかと危惧しています。」
「日本にはこんなに豊かな森があるのだから、たくさんの木を使える一般化できる方法を追求したい。もちろん伝統構法での職人技が絶えてしまっては困りますが、私たちの主戦場はそこではなく、いかにたくさんある木という資源を使い尽くすかという方法を考えたいというスタンスです。」
他にいつも採用しているものが、“セルロースファイバー”と“Baubio”という断熱材だ。
セルロースファイバーは壁と床の断熱に使われている。リサイクルされた新聞紙を主原料としている。断熱材として一般的なグラスウールは、筋交いやコンセントボックスなどを避けながら切って埋めていくのでどうしても隙間ができやすく、製品の断熱性能が良くても施工次第で性能が落ちてしまう。また端材も多く環境にも経済的にもあまり良くない。
一方、セルロースファイバーは、綿状のものを吹き込んでいくので筋交いの隙間でもコンセントの裏でも入り込んで完璧に断熱性能を発揮する。素材にはケミカルなものを一切使用しておらず、原料の新聞のインクも植物性なので安全だ。
「絡み合った繊維のおかげで吸放湿性能が非常に高く、土や漆喰の吸湿性・透湿性を妨げないので、漆喰など左官壁+セルロースファイバーという組み合わせも相性がいい。防音性能が高いのもポイントで道路が近いお宅にもおすすめですね。」
Baubio(バウビオ)は天然素材(ゾノライト系けい酸カルシウム)の断熱材ボード。GA斜め張り工法を露し仕上げとする場合に屋根断熱に使用する。本来耐火性の為に作られた建材だが断熱性能と透湿性能が非常に優れており、5cmの厚みで十分な効果が得られるという。
アトリエ・ヌックの新井さんと勝見さんの作る家は、地元の木を存分に使いながら、現代の住まいに必要な性能を、人にも環境にも優しい素材で実現している。その上で、建主の暮らしの不便さを解決し、より〝豊かな普段の生活〟をいかに長く送ることができるかに焦点が当てられている。豊富な経験とバランス感覚があるからこそ成せる技だろう。
勝見さんとTさんの笑顔を見ていると、勝見さんの言う〝幸せな結果〟がそこにあるように感じた。
株式会社アトリエ・ヌック建築事務所 新井 聡・勝見 紀子(つくり手リスト)
取材・執筆・写真:岡野康史 (OKAY DESIGNING)
埼玉県寄居町。古くからの森林をかかえる秩父にほど近いこの地で、木を生かした空間づくりを設計しているのが、小林一元(こばやし・かずもと)さんだ。
家や建物、さらには照明や小物まで木でデザインし、木の持つ可能性を最大限に引き出している。
「言われたことだけやるのはプロじゃない」と、施主のニーズのさらに上をいく提案で満足度を高めている。この細やかな仕事ぶりは、木を、そしてそれを扱う職人への信頼に支えられている。
小林さんの信念のひとつが、「家づくりは職人同士のチームプレー。
自分はその一員、設計係である」ということだ。その思いから、依頼された物件は設計だけでなく必ず施工監理まで請け負う。
「かたちになるまで責任を持ちたいんだ。それに、いいものを作ろうと一生懸命な職人さんたちと仕事できている。彼らと同じベクトルで進むのは単純に楽しく、ありがたいこと」という。
小林さんは地元だけでなく、全国からの依頼に応えている。このため、物件によって、一緒に仕事をする職人や業者はさまざまになる。それぞれの現場に、小林さんは頻繁に顔を出して微調整を重ね、建物を完成に導く。
「図面通りに作ればいいものができるわけではない。木は一本一本違うから、現場で調整すべきことは絶対に出てくるし、意図とちょっと違う、という時のリカバリーにも早く対応できる」
現場で出たアイデアは、職人の長年の経験から生まれる貴重なもの。それを活かしつつ、工期内にも納めるという、施工監理の重要性を認識している。
建物に使う木材は、天然乾燥であることにもこだわる。多数派である高温機械乾燥の構造材や継手、仕口では、粘りがないことを実感しているからだ。
「家はほかのどんなものよりも長く使うものだから、丈夫で長持ち、というのは最低条件でしょう。特に構造材は一番重要だ」と話す。
やむなくプレカットを使うときは、図面を引く前に必ずプレカット工場を訪れ、一日かけて打ち合わせをする気合いの入れよう。何が出来て、何ができないか確認するのだ。
「今は機械でも、手刻みと同じように仕上げられる。けれど、機械の設定や木が読める人がいるかによって、精度に差が出てくる」と小林さん。機械が優秀でも、人間がそれを扱いきれていない場合もある。加えて、木は1本1本曲がり具合や乾燥具合が少しずつ異なる。機械的に同じ扱い方では、うまくいかないことも。
この工場は、どんな人が、どんなやり方で木と向き合っているのか、どんな機械で何ができるのか。チェックは欠かせない。気になる点は伝えて、対応してもらうという。
このスタイルで仕事をしてきた結果、現在、一緒に仕事ができているのは、木が読め、木の扱いに長けた職人たちだという。
信頼できる職人たちの職能を尊重すること。
チームプレーの中で、小林さんを支えるものだ。
職人への厚い信頼があるのは、「親父の影響だろうな」と話す。
父親は地元・寄居町で何代も続く大工で、木造建築のプロフェッショナル。木の扱い方、見極め方、傷がついた時のアドリブのきかせ方など、目を見張るものがあったという。「木ならなんでもできる、職人ならここまでできる、と思わせてもらった」存在だった。
その長男である小林さん。大学で建築を学び、東京の設計事務所で約10年働いた。地元に帰って貢献したいと考えるのは自然な流れだっだという。
それから、約30年。事務所は、地元のみならず全国からの依頼を受けてきた。多い時には5人ほどが所属していたこともあっだが、現在は小林さんひとりで切り盛りしている。
地元での仕事のひとつが、昭和初期続くの料亭「喜楽」の改修だ。
二階建てで1階に個室が3つ、2階が広間という間取り。
それぞれの部屋に使ってある木材の種類が違うので、雰囲気も異なる。それを残しながら、弱い部分や古くなった部分を補強したり、構造的に柱を足したりと、少しずつリフォームを重ねている。
去年は、カウンター前のテーブルをリデザインした。これは、鎌倉時代の寺のはりだった木材を転用したもので、木材そのものに彫刻の跡がある。「重厚な雰囲気がこの店に合ってると思った」と小林さん。スペースに合わせて、大きさや高さをデザインした。テーブル裏には前の吸付桟と脚の痕跡が残り、見付は新しい店に合わせて削いだ。
木を使って小林さんがデザインしたものは、この店にいくつもある。「木ならどんなかたちにもできるし、古い建物に自然と馴染む」と実感する。
たいていのオーダーは、施主の「ここが使いづらい」など悩みから始まり、はっきりとした仕上がりイメージは描けていない場合が多いという。
小林さんはその悩みを丁寧に聞き取り、どうしたら解決できるかアイデアを膨らませ、かたちにしていく。
どんなに使いやすくても、家やその雰囲気となじまなかったり、形が洗練されていないのでは、「もったいないこと。デザインと規格(便利さ)は両立できる。それについて頭をひねるのが自分の仕事。わくわくするよ」と小林さんは笑う。
その根底には、父親から受け継いだ「木ならどんなことでも表現できる」という可能性への信頼がある。同時に、アイデアを形に落とし込める職人への絶大な信頼も。
「自分でも忘れちゃうくらいのつぶやきを、ちゃんと汲み取ってくれるのが、小林さん」と笑顔を見せる施主さんもいる。ときがわ町の幼稚園の園長さんだ。
ここは、新築の木造園舎が2019年の8月に完成したばかり。まだ、木の香りが残っている。
小林さんと園は、相談や視察を繰り返し「今までやってきて、いいと思えたアイデアを全部詰め込んだ。園児が本物の木の素晴らしさを存分に味わえる場所になった」と振り返る。
まず、園舎は床から壁から扉から窓の柵まで、ありとあらゆる部分が木でできている。
階段はもちろん、脇に設置した滑り台までも。部屋によっては、木製の登り棒が設置されているのだから驚きだ。
園児たちは全身で、木のぬくもりに触れられる。
木は調湿性に優れ、室内環境を快適に保つ。「どんな世代にもぴったりだが、特に、体を動かし、よく汗をかく子どもには最適だ」と小林さん。
さらに、平屋の園舎には越屋根をつけて、夏場は熱気が抜けていくようにした。
この越屋根があるおかげで、風がなくても一階の窓を開けると吹き抜けを通して室内の空気が動くのだ。
引越しは真夏の8月だったが、エアコンをつけることはほぼなかったというほど効果は抜群。
さらに、室内に光を取り込むこともできる。自然光はやわらかく部屋を照らしてくれる。
大きな窓に設置した柵ですら、木でつくった。園児が落ちないようにという目的だ。取り外しができるようにしてあるため、掃除や維持管理には不便がないように工夫をこらした。
それから、各教室の窓際には一段上げて、畳のスペースを設けた。壁の仕切りは障子でできている。
子どもは障子を破いたり、穴を開けたりすることが多いと考えられるため、新築では敬遠されがちだが、「今は自宅にすら畳の部屋がない家があり、畳を見たことも、触ったこともない子どももいる。日本らしい、自然を感じる気持ち良さを知ってほしい」という狙いがある。
障子も破れたら張り替えればよし、また、破れないように大切に扱うことを学ぶ機会になると、前向きにとらえている。実際にここでは皆おとなしくふるまうという。
木をふんだんに使いつつ、コストを抑える工夫も施している。
例えば、床板の厚さを場所によって変えた。子どもが走り回るホールは3センチ、各教室は2.4センチ。職員室は、使用するのは大人だけなので、1.5センチの厚みにした。
板が厚いと保温効果もあるが、その分価格も高くなってしまう。かといって部屋によって厚みを替えるのは、材料の発注や加工に手間がかかるため、一般的ではないという。きれいな板とそうでない板を、使い分けることも難しい。
小林さんは「施主さんの要望になんとか応えたい。そのためには、手間を惜しみたくはない」と力強い。
それから、建具は全て新しく作らず、一部、移転前のものや廃校になった学校のものを移設して使っている。
新しい木材と古い建具。歴史は全く違ってもしっくりと馴染むのは、木材が張り物などでなく本物の木であるからこそ。
これは、経費削減が目的だったが、意外な効果があった。
施主の園長先生は、「引っ越してぴかぴかの新しい園舎に、園児も職員も、嬉しいけれど少し緊張していた。前の園舎で見慣れたドアがあったことで、スムーズに馴染めたような気がする」。
再利用することは、モノを活かすだけでなく、そこにいる人の心の安定にも繋がるのだ。
裸足で走り回る園児たちを眺めながら、小林さんは「本物に触れることで、その良さは身をもって分かると信じている。そして、そういうものが残っていく世の中であってほしい」と目を細める。
料亭「喜楽」で、小林さんがデザインしたという配膳台を見た時、「木って本当になんでもできるんだな」と改めて感じた。かたちが中途半端な隙間にぴたりとはまり、主張しすぎない存在感。一見すると、見過ごしてしまいそうになる。
また、改修の時に気を付けることとして「どこを改修したのかわからないって言わせたい」と話していた小林さん。
主張しすぎない、変わらないということは、安心感を生み出し、穏やかに時を過ごせるということだ。なるほど、小林さんが作り出した空間は、単なる建物、ではなく、あたたかな空気感をまとっていた。
埼玉県越谷市で設計事務所「けやき建築設計」と建築施工会社「欅組」を営んでいる畔上順平(あぜがみじゅんぺい)さんのご紹介です。
畔上さんは、1976年生まれで現在43歳。生まれも育ちも越谷で、地元越谷を離れる事なく、東京の学校や会社に通い、29歳で「けやき建築設計」を設立。現在は同じく地元越谷生まれの奥さんと10歳の娘さん、6歳の息子さんの4人家族だ。
元々設計事務所だけでスタートし木の家を中心に作ってきたが、住む環境や自分を取り巻く状況などによって徐々に興味関心が変わってゆき、設計行為だけでは物足らなさを感じ、実際に手を動かして作ることに関心が出てきたそうだ。
「ちょっと直してよ」とか「まとめてやってよ」という依頼が増えていく中で、徐々に自分で職人さんを手配したり仲間が集まってきたりと、建築会社らしくなっていったとのこと。今では設計から施工まで一貫して引き受けられるように「けやき建築設計」と「欅組」の両輪を廻している。設計だけの仕事・施工だけの仕事・設計施工まで一貫して引き受ける仕事など、様々な立場で仕事をされている。
デザイン設計・職人さんの技術・本物の素材を使うという3点がクリアできていれば手段やポジションは問わないというのが社内での共有意識だという。
「オールラウンダー的な感じです。時代と共に自分の関心も世の中のニーズも変わっていく訳ですし、ベースとなる得意分野から少しずつ領域を広げていくというのは、当然なのかなと思っています。」
また、家族の存在も今の仕事の方法論に影響を与えている。
「我が家はみんな越谷なので『視野が狭いね。そこしか見えてないんだね。』なんて声も聞こえてきそうですが、逆に越谷という共通言語が家族内にあるというのは、広がりはないですが、ガッチリとした連帯感があります。家族を通して地域の暮らしを見つめ直している時期ですね。ですのでお客さんに対してもそういう目線で提案できるようになりました。」
例えばこんな提案だ。
「新築で家を建てたいと相談に来たお客さんに『本当に必要なんですか?』と言ったことがあります。もちろん『なんでそんなことを言うんですか?』という反応をされる訳なんですが、『いや、もったいないからです。ローンも含めて何千万円も払うわけじゃないですか。それをやめればいろんなことにそのお金を使えますよね。』とお答えしています。ご両親の家はガラガラだったり土地が余っている場合などもよくあります。一時的に我慢をしたくなかったり、同居できない理由を一生懸命考えるんですが、逆に我慢せずに一緒に居られるようにするためにはどうすれば良いかと言うことを、設計や計画で解決できる場合もあるということを提案しています。」
かなりプライベートな部分にまで踏み込んでいく印象だ。
「もうそこまで踏み込んで提案する産業にしていかないとダメだと思います。日本って住宅に対するお金の掛け方が異常じゃないですか。一代でローンを組んで、晩年までお金を払い続けて、完済した頃にはもう老朽化して壊したり、不要になって空き家になったり。そんなシステムは非常に良くないと思っています。もう新しい家ばっかりいらないんです。ちょうど世の中的にもリノベーションとか既存ストックを有効活用することが認知されてきているで、お客さんに対して『まだ捨てなくていいんじゃないんですかね?』『大切にしませんか?』と提案できる良いタイミングかなと思っていますし、提案していかなければならない立場にいると思っています。」
何がそこまで畔上さんを本気にさせるのだろうか。
「自分の地元のことだから本気で考えられるんです。死活問題ですから。遠い地方から依頼されて知らない人や知らない街のためにする仕事だと、どうしてもここまで本気で取り組めないと思うんですよ。地域のコミュニティ・アーキテクトとか小さい単位での建築士の役割が非常に大切だと思います。」
次に会社のスタッフや職人さんとのやりとりについてお話を伺った。
「うちの技術系のスタッフは自分以外に2名が監督として在籍しています。まだ両名とも若いのですが、お客さんとの打ち合わせ・調査・積算・見積もり・工事の契約・管理監督・引き渡し・アフターメンテナンスまでワンストップでやる仕組みにしています。もちろん得意不得意が出てくる部分もありますが、全部トータルで経験してもらって、徐々に自分の得意分野に特化してやっていってもらえばいいかなと思っています。」
実際の業務では信頼関係を築いてきた職人さんたちと監督とで案件ごとのチームを組んで進行している。監督が若手である一方、職人さんは40代を中心に若手から年配まで様々だという。
「一緒にチームで仕事をするので外注という言い方はしないようにしています。職人さんたちも自分たちを〝チームけやき〟と呼んで愛着を持って取り組んでもらえているので嬉しいです。『信頼関係が一番』というと薄っぺらいように聞こえますけど、それが全てなんですよね。大手ゼネコンの仕事のように一から十まで管理して進めると、僕らのやっているような家づくりでは全然仕事にならないでしょうし、いいものにもなってこない。『ここは全部任せたよ』と言って、各々の責任で仕事をしてもらっています。信頼しているからこそ、この言葉を発せられるし、受け止めてもらえるのではないかと思っています。」
「また、監督である若いスタッフに対しては、私がずっと張り付いて、ああしてこうしてと指示を細かく出すこともできますが、それはしないようにしています。その中でも一定以上のクオリティの建物を作ることができているのは、やっぱり職人さんの力があるからこそなんです。監督という立場ではありますが、及ばない部分は、実際は職人さんが補填してくれている訳です。監督として管理はしていますが、逆に職人さんから教わって学ばせてもらっている状態ですね。それが出来ているのは職人さんの技術や人間性が高いレベルで保てているからだと感じています。」
畔上さんはよくスタッフに『他の工務店にパッといって同じ仕事ができると思ったら大間違いだから。』と言っているそうだ。だからと言ってどこでも潰しが効くような育て方に変えるつもりはないとのこと。
「上手くいっているチームにいて失敗が少ないから監督はそのことがわかんないんです。あんまり成長しないんじゃないかとも思われますが、いいものを見て、いい仕事をちゃんとやるということを覚えて、いい経験を積み重ねていってくれれば、いつしか今度は若い職人さんを引っ張りあげる力になるんじゃないかと考えています。」
「そうやって、職人同士や設計者同士の枠を超えて、技術やノウハウが行ったり来たりしながら伝わっていくことで、次の世代に引き継がれていくという形もあるんじゃないかと思うんです。同じことをやるにしても、立場や専門分野によっていろんな見方がある。それを受け入れられるようになってくると成長して行くんじゃないかな。そんな学びの場でもある〝チームけやき〟が、きちんとクオリティの高い建物を作り上げて、お客さんに届けられているということには、誇りを持っています。」
一般的な手法とは一線を画す考え方で若手を育ててられている畔上さんの話にはうなずくばかりだが、チームメイトの職人さんの場合はどうなのだろうか。職人さんの話になると必ずといっていいほど話題に挙がるのが後継者問題。畔上さんは何を感じ、どう考えているのか質問してみた。
「自分の周りの職人さんの場合も、やはり後継者をどうするかという問題には直面しています。僕は直接は関係していない訳ですが、実はあえてそこに介入しています。」
「ただ『継ぎなさい』と無下にいうのではなく、例えば『お父さんのやっている仕事は本当に素晴らしいから、受継げば必ず需要もあるし求めてくれる人も沢山いるよ。自分たちも真剣にやっているから一緒に仕事をやらないか?』と言って迷っていた息子さんを誘ったりしています。やっぱり第三者が介入しないと、親子だけではこいうった話はすんなりは進まないんですよね。」
家づくりにも、後継者問題にも、懐に一歩深く入り込むのが畔上流だ。
けやき建築設計のウェブサイトを見ていると施工実績に並んでいる建物の名前が気になった。一般的に〝どこどこの家〟というネーミングが建築関係者のセオリーだと勝手に思い込んでいたので、〝原点回帰の家〟〝森の舟屋〟〝和の暮らしと趣を残す家〟といった名前は意外に感じ想像が膨らんだ。
「共通したテーマがあるとみんなでそこに向えていいなと思ってずっとやっています。迷った時に共通認識があると指針になるんですよね。お客さんともそうですし、スタッフ間や職人さんとの間でもそうです。少し話が脱線しますが、主に越谷だけを中心に建築の仕事をやるとなると、例えば〝石場建てしかやりません〟〝住宅しかやりません〟だと絶対量として仕事が成立しません。ですので手段としての領域はかなり広くできるようにしています。そんな中でいろんな仕事をしていると、スタッフや職人さんも何をするべきか迷ったり、ビジョンがぼやけちゃうんです。そこでテーマを設定することで、各々のやるべきことが明確になり、向かうべき方向を共有できるというメリットがあります。」
七左の離れ屋
2009年竣工。暮らしに色気を求める建主さんのために、住まうための機能だけに偏らず、モダンで美しい日本家屋を建てたいとの想いで、母屋とは別に〝現代の数奇屋〟のような離れのある家を作った。〝離れ屋〟がこの家の名前でありテーマという訳だ。
自然と共に生きる家
こちらは今年竣工したばかりの30代のご夫婦の住まい。新築ではなく祖父母が住んでいた家を活用した。
とにかく自然素材で行こうということで設定したのが〝自然と共に生きる家〟というテーマ。モルタルの外壁は全て県内産の杉材に張り替え、グラスウールの断熱材はみんなの共通認識として使いたくなかったので、替わりに壁の中にも杉の板を敷き詰めた。普段では考えられない方法もテーマを設定すると生まれてくる。工事で出た廃材は薪ストーブの燃料になっているそうだ。
〝七左の離れ屋〟に比べるとリフォームとはいえザックリした仕上げ。設定したテーマによって〝どこにこだわるか〟が違う全く違う。決して手を抜いている訳ではないのだ。
「テーマの下で作っていくとやっぱり出来上がるものが違うんですよね。お客さんと打ち合わせをしていく中だったり、建物の特徴だったり、色々出てくるキーワードをかき集めて『これでいきませんか?』と提案しています。関係者間で何か議論になった時でも、『テーマがこうだからこうしよう』と堂々と会話ができ、みんなが納得に達するのが早いんです。そうすると大きなミスや『話が違う』みたいなことにもならないんです。結果としてお客さんからの満足度に繋がりますし、つくり手のやりがいも出てきます。」
ここでもまた畔上流を感じた。
木の家を多く作ってきた畔上さんだが、最近では店舗やカフェなども手がけている。そこにどんな変化があったのだろうか。旧日光街道にある実際に手がけたお店を案内してもらいながら話してもらった。
まず連れてきてもらったのは、3年前の2016年12月に完成した〝CAFE803〟。
「日光街道にもう一度人が集まる場所を作りたい。」「越谷にサードプレイス的な場所を作りたい。」そんな想いでスタートしたプロジェクトで、現在では越谷に住む人たちのコミュニティスペースとして定着しており、想い描いていた以上の活用のされ方に驚いているそうだ。
「『そもそも日光街道を賑わせる必要があるのか』というところから議論をスタートし、『川越のような賑わい方を越谷は求めていないんじゃないか』という意見に今のところ落ち着いています。その中でも越谷で暮らす人たちが心地よく使えるような設え・店構え・街並みとはどんなものなのかと分析しながら進めている最中で、トライ&エラーの連続です。いつの間にか仕掛け人みたいな感じになっています。(笑)」
「自分の興味関心が家からまちに広がっているんです。〝いい家が出来ていけば、いいまちが形成されていく。いいまちが出来れば、そこに住む人々の暮らしが豊かになっていく。〟という感覚を持っています。地域の価値が上がっていくことであれば、どんなことでもやっていこうと考えています。そういう想いで日々の仕事に取り組んでいると不思議なことにお店からの依頼が来るんですよね。そしてそのお店に足を運んでくれた人たちから伝播して、また次へと繋がっていって…という風に店舗やカフェを手がける方向に活動が広がっています。」
独立当初は、建築業界や全国基準などを気にして〝自分がどのくらいのことをしてやっているのか〟という軸で仕事をしていたそうだが、最近はそれよりも〝越谷に身を置いているので、越谷の暮らしを良くしていこう〟というスタンスで仕事をするように変わってきたそうだ。
「全国から越谷だけに視野が狭くなったという訳ではないんです。地域をより良くしたい、良い状態を保ちたいという想いで仕事をしている建築関係の人が、木の家ネットの会員をはじめ全国にたくさんいます。各地域に広がるその想いの輪が重なり合って、徐々に日本という国を覆い尽くすといいなと思っています。その中で「越谷は俺が守る(笑)」みたいな想いを胸に取り組んでいます。
続いて案内してもらったのは、同じく旧日光街道沿いにある2018年4月にオープンした〝はかり屋〟。
およそ築120年の〝旧大野邸 秤屋(はかりや)〟を、こだわりのショップ・レストラン等、当時の宿場の雰囲気を体験できる古民家複合施設として生まれ変わらせた。「人々の想いやまちの歴史を過去から現代そして未来へと繋げていける存在であり続けたい。」との願いが込められている場所だ。
「ベッドタウンだと思ったのにこんなところあるんだ」とびっくりされることが多いとか。「もともとはこの日光街道沿いはこうだったんだよ。」というとさらに驚かれる。「外から流入してきた人が多いのでみんな知らないんですよね。」と畔上さん。
「だから地元に昔からいる人間としては、物を残すことが大事だなと思います。一度壊してしまうとただの昔話になってしまう。そうすると『ふーんそうなんだ』で終わってしまうけど、こうやって目に見える形で残して、そこで体感してもらうと一瞬で歴史を理解してもらえる。百聞は一見に如かずです。」
「こういった建物を一軒でも多く残すことが地元の建築屋の使命かなと思っていて、ロールプレイングゲームのように楽しみながら携わっています。単純に受注されたものだけを直したり作ったりというだけのペースだと、古い建物はどんどんなくなってしまって、まちなみを残すことはできません。使命を果たすために、はかり屋もCAFE803も自分から運営にコミットしていっています。」
「ただ結局〝他人の家〟なんですよね。『残してください』と言ってもおこがましいので『こういうことをやれば残せるんじゃないんですか』という提案の部分まで入り込んでするようにしてます。いきなり外部のコンサルみたいなのが来ると『なんだこいつは』みたいな印象を持たれてしまい、入り込むどころか門前払いされてしまいますが、はかり屋やCAFE803もやっているという実績があれば『任せてみようか』という流れにもなっていきます。」
地域密着で建築やまちづくりを地道に続けることにこそ、地方の建築士や工務店の活路が見出せるのではないだろうか。
設計だけから設計施工へと、家づくりからまちづくりへと、自身の興味関心と共に活動範囲を広げていっている畔上さん。今後や将来に対してはどんなビジョンを描いているのだろうか。
「ハウスメーカーなどの家に比べたら、自分たちの作っているような木の家は決して安くはないので、いい家が欲しいけど手を出せないという人も多いもしれません。だったら、リフォームをしたり店舗を作ることに対して同じような想いで取り組んでいった方が、より多くに人に自分が良いと思っていることを伝えていけるんじゃないかなと思っています。もちろん一軒の家を建てて、一つの家族に満足してもらうことは大きな喜びではありますが、より多くの人に体験してもらえる形で、自分たちのやっていることを伝えていく事にこそ、いろんな活動や運動をやっている意味があると思うようになりました。」
「越谷で自分も色々やっているつもりですけど、結局盛り上がっていくスピードと落ちていくスピードを考えたら、落ちていくスピードの方が速いんですよね。そのエネルギーをとてもじゃないけど自分一人では維持することも加速させることも難しいので、仲間や共感してくれる人を増やしていきたいですね。」
そこにどれだけの人が本気で関わることができるか。越谷だけではなく、各地方のまちづくりにおけるターニングポイントだ。